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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2006/11/16

魚々子って何?

魚々子(ななこ)とは魚の子つまり卵のように小さな粒状のものということのようだが、「始皇帝と彩色兵馬俑展で魚々子文を遡る」では思わぬ方向へ向かってしまった。粒金細工が北方騎馬民族を通して中国に入ってきたのは知っているが、もっと時代が下がってからと思っていたからだ。  

私は魚々子は鏨(たがね)で施される面の装飾のことだと思っていた。ところが、文化財オンラインのホームページで法隆寺献納宝物N176観音菩薩立像(奈良時代)の解説文は、特殊タガネによる魚々子文と複連点文の多用は,法隆寺再建期の造像に特徴的な傾向といえるという。
しかし、像をじっくり眺めても魚々子が面として見えない。せいぜい丸文が菩薩の着衣の腰や裾あたりの文様に一列か二列並んでいる程度だった。    
法隆寺の仏像を探してみたが、魚々子文がわかるような図版もなかった。かろうじてあったのが下の作品だった。

金銅小幡 法隆寺献納宝物60号(◆) 幅11.5~12㎝
天蓋から垂れている紐に連珠のように円文が続いている。ガラス玉を表しているのかも知れないが、解説にはこの円文について説明がない。

文化財オンラインのホームページにある熊本県菊水町江田船山古墳出土の金銅製沓(くつ)の解説文は、側板・底板とも全面に亀甲文を飾る。側板の外側部分と底板には亀甲の各頂点から歩揺を垂下するが,側板の内側部分は歩揺を省略する。底板には9本の方錐状スパイクをうつ。伴出の立飾り(現在欠失)付二山式金銅製冠は魚々子打ち出しの亀甲文で飾るという。
あいにく「二山式金銅製◆冠」の画像がなく残念だ。先程の観音菩薩の魚々子から推察して、金銅製沓の亀甲文が魚々子打ち出しのようにも思える。
 

また、前回の金銀◆山水八卦背八角鏡のように間地にびっしり並んだものは魚々子地というらしいことがわかった。それはMIHO MUSEUMのホームページにある狩猟文高脚杯の解説にあった。
この高脚杯の胴側面には、魚々子地に半弓を構えて鹿を追う騎馬人物と、騎馬の従者、それに逆方向から打球の杖状のものを振るって兔を追う騎馬人物が表わされている。胴部上帯には唐草、騎馬人物の下辺の胴部には土端に草、胴の底部側面には鋸歯文が刻まれ、魚々子文で充填されている。さらにその円筒形部の下面には七弁の花文(ただし一弁は鏨が二重に打たれるという乱れがある)、脚部上面には子弁1枚付きの複式四弁を持つ花文が、いずれも鏨によって刻まれている。

図の表現にも鏨の技法にも、やや緻密さに欠けた緩みが感じられることから、晩唐にかかる頃の制作と思われるという。
制作時期を7世紀後期から8世紀とみているようだ。
このように、中国にはいくらでもあると思っていた魚々子文あるいは魚々子地はなかなか見つからなかった。唐時代になってやっと図版が見つかった。


まず「金禽獣蓮弁文碗」は、金銀◆器の製作がもっとも精密かつ堅実であった初唐、7世紀の作風を明確に提示し、しっかりとした鎚ちょう(金へんに蝶のつくり)によって象られる。
太く、深く、しっかりと刻まれた魚々子と線の様子が見て取れるが、このような刻様と、対葉華文や唐草文の形式は標記の特徴である。
様式が成立する初期の力強さに満ちた器である
という。
正倉院展で見た「金銀山水八卦背八角鏡」の魚々子地はこの頃のものだろうか?

次ぎに「銀鍍金◆鸚鵡宝相華文提梁壺」は8世紀の製作で、解説文は、何家村から出土した器具のなかでもっとも「開元の治」、また日本の正倉院を想わせる器であり、装飾である。
鸚鵡の周りを囲む唐草文こそが8世紀中葉の典型的な宝相華である。宝相華文は架空の合成文様で、安定した形式をもたない文様である。しかしわずかに8世紀の中ごろだけ、そして正倉院の遺宝に、これこそ宝相華といえる描写を見ることができる。
圏足が凹曲して裾広がりに作られるのも8世紀の中ごろの形で、細かく、密に打ち連ねた魚々子ともども製作時期を表している
という。

金銀山水八卦背八角鏡はこの頃の様式を示すものだろう。
次の「金唐草鴛鴦文水注」は9世紀のもので、解説文は、肩から斜め上方に向かって起立する太短い注口と、用途に即した大ぶりの把手、この2つが9世紀以降の注器の基本である。
上縁が波立つ花弁を横並びに連ねる文様は、器物の辺縁や文様の区画の部分にあしらう装飾として北宋時代の金属器や陶磁器に至るまで長く施用された。

魚々子と文様を全面に刻んだ、金の輝きがことさら強調された器であるという。
魚々子の刻文は上の初唐・盛唐期のものと比べようもなく粗雑で、MIHO MUSEUM蔵の狩猟文杯にも共通するように思う。また、器全体から感じられる雰囲気も上の2点とは異質なものがある。
このように正倉院展で見た緻密な魚々子地は、盛唐期のもの、あるいはその様式を受け継いだものだということがわかった。
尚、魚々子の起源については外来の粒金細工なのか、龍の鱗から来るのかははっきりしない。殷・周の青銅器には龍そのものがないか、表されていても貧弱で、大きく表された饕餮(とうてつ)やほかの動物と似たような文様か無紋だからだ。

◆金銅は銅鍍金と同じで銅に金メッキしたもの、金銀は銀鍍金と同じで銀に金メッキしたものを指す

※参考文献

「法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録」2004年 奈良国立博物館
「世界美術大全集東洋編4 隋・唐」1997年 小学館