しかし、ササン朝ペルシアの銀器で魚々子地のものを見つけることはできなかった。
やっと見つけた初期の「銀鍍金帝王ライオン狩り文皿」(4世紀、イラン、サーリー出土)に王族のヒゲの縁、馬具のあちこちに線状に魚々子が施されている程度だった。
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現存する作品から推定すると、「銀鍍金帝王ライオン狩り文皿」のような高級品は、ササン朝ペルシアの本家の工房ではなく、たとえば地方に派遣された王子(総督)やクシャノ・ササン朝などの小王国(アフガニスタン北部)において3世紀後半から4世紀半ばにかけて制作されたようである。 ・略・
おそらくシャープール2世がクシャノ・ササン朝を併合したときに、クシャノ・ササン朝の工房(バルフやメルウ)を温存し、そこで初めて「ササン朝ペルシア本家」の銀皿を制作したと筆者は推定している。 ・略・
いわゆるササン朝銀皿は、初期の作品が技法的にもっとも優れ、しだいに衰退していったという。
魚々子がササン朝ペルシアで始まったとは言えなくなった。バルフはオクサス(アムダリヤ)河の南方約20km(バクトリア、現アフガニスタン)に、メルウはその支流沿いのマルギアナ(現トルクメニスタン)に位置する。
一体魚々子の故地はどこなのだろう?私は中央アジアの北西、南ロシア辺りになにかないか調べてみた。すると、ケルチ(黒海とアゾフ海を結ぶケルチ海峡)のミトゥラダテス山北側墓地より出土した「コンスタンティウス2世銀杯」にぶつかってしまった。これも魚々子地ではないが、時のビザンティン皇帝や侍者の衣服の文様として魚々子が施されているように見える。鋳造並びに彫刻としか説明がない。解説では、恐らくローマ帝国東のアンティオキアにて製作。
この墓は、370年に没落したボスポロス王国の恐らく重要な人物のものであったと考えられる。
皇帝の代行者としての殊勲から下賜されたものであろうという。
これが4世紀中頃の製作なら「ササン朝ペルシアの銀器」と呼ばれているものの方が早いことになる。
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※参考文献
「南ロシア 騎馬民族の遺宝展図録」1991年 朝日新聞社
「ロシアの秘宝 ユーラシアの輝き展図録」1993年 京都文化博物館・京都新聞社
「世界美術大全集東洋編4隋・唐」1997年 小学館
「世界美術大全集14西アジア」2000年 小学館