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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2023/11/28

福島の旅 大悲山石窟


南相馬市に大悲山石仏と呼ばれている石仏群がある。


同教育委員会発酵の説明書は大悲山石仏について、南相馬市小高区泉沢の山林に点在する薬師堂石仏・観音堂石仏・阿弥陀堂石仏を総称して、「大悲山の石仏」 と呼んでいます。石仏は、この地域特有の柔らかい岩質を利用して岩窟を掘り込み、その壁面にさまざまな仏像を彫刻したもので、彫刻の様式から平安時代前期の作とされます。当時の豊かな仏教文化を示す日本有数の石仏群であることから、昭和5年に国史跡に指定されていますという。
そんな石仏群をこんな歳になるまで知らなかったが、後日福島の人に聞くと知らなかったのだった。

最初は道路から少しばかり入った石段の上にあった。


石段の前に立つ巨木は大悲山大杉と呼ばれている。枝振りが八岐大蛇のよう。


中国では崖を穿った石窟を見学してきたので、建物のの中にあるというのが不思議な気がした。

堂内に入ると結露したガラスの戸が何枚かあり、その向こうに仏像があった。保護の観点からガラス越にしか見られないのかと思っていたら、特別に中に入って見学できることができた。
中国の北石窟寺165窟はほぼ矩形の窟内に七如来立像、如来と如来の間に菩薩立像が安置されていたが、そこまでの規則性は認められないものの、如来と如来の間には飛天が舞っていた。
説明文は、大悲山の石仏の中で最も保存状態の良い薬師堂。石仏は、炭質砂岩を刳り抜き、間口15m、高さ5.5mの空間を作りだした上で、浮彫で表現された体の如来像と2体の菩薩像、線で表現された2体の菩薩像と飛天が彫られています。高さ2-3mを測り、朱色などの彩色が光背の一部に残っていることから、本来は色鮮やかな石仏であったと考えられますという。
大悲山石仏如来坐像及び菩薩立像 大悲山の石仏より


左端の如来坐像は崩壊してしまったようだが、残る4体の如来坐像はどれもどっしりとした量感溢れる、平安前期らしい仏像群である。
これが石窟だったのか? そう言われると、頭上の岩壁が前に出ている。作成当時は石窟だったのかも。

中央の如来坐像と左の如来坐像、菩薩立像
この二体の如来は左手を胸前に挙げた施無畏印、右手は与願印ではなく、地面に付いた触地印である。
『シルクロードの仏たち』は、釈尊が菩提樹の下で禅定に入り、成道(悟り)の時が近づくと、マーラー・パピヤス(波旬)が現れた。マーラーは欲望を満たしてくれる最高神で、釈尊のように欲望を棄てようとする菩薩にとっては邪魔者である。降魔は悪魔のマーラーとその一族が降伏する意味で、降魔の後に釈尊は清浄な四禅定と呼ばれる状態に至ったという。
触地印は、そんな時に示した印相である。

中央の如来坐像と右手側の如来坐像。その向こうには
浮彫の菩薩立像


正壁の三如来坐像は触地印だが、この如来だけが右手が施無畏印左手が触地印。右端まの如来坐像との間には二体の菩薩が立っている。
浮彫菩薩立像と線刻菩薩立像であるが、線刻の方はほとんど分からない。

正面から見た同じ仏像。正面のから見ると、彩色がこの窟の中では一番よく残っている。



右端の浮彫如来坐像
これだけが面長で、蓮台の大きな花弁が並んでいる。右手が施無畏印、左手がほかのものとちがって与願印(同寺石仏復元図より)。

これらの二如来坐像の間にあるのが浮彫菩薩立像。線刻菩薩立像と汚れているものは、頭光は認められるが、体躯は不明。

浮彫菩薩立像の着衣の線と天衣の折り畳みの表現は秀逸。この辺りからも、中央から優れた工人たちが呼ばれたことがうわかる。


中央の右二体の如来坐像の間に飛天がいるは。

拡大しても分からない。

中央の三如来坐像のうち、2・3の如来の浮彫。身光に施された文様の火焔や連珠文の他にも丁寧な細工が施されている。

三降魔成道の釈迦と同じ降魔印を結んだ中央の像

その頭光の外側には火焔光が美しく彫られている。

降魔成道の中央と左の如来坐像
左の線刻菩薩立像

続いて浮彫菩薩立像


続いて阿弥陀堂石仏へ

その間には小さな石仏群が崖にかけられていた。


時代はわからないけれども、

大切に祀られている小さな仏たち

時代もわからないが、


できる限り写していった。

その先に、さきほどよりもずっと新しい楼閣が現れた。

ところが阿弥陀堂石仏と呼ばれているものは、風化がひどくてほとんど残っておらず、痛ましかった。


そして観音堂石仏へ。

そんなに坂を上らずにお堂が見えてきた。

観音堂石仏
説明パネルは、高さ9mを測る日本最大級の石仏です。化仏と呼ばれる小さな仏が壁面に多数刻まれています。観音は坐像で胸から下が剥落しています。岩の壁面上山にはたくさんの手がつり出され、顔の部分にたくさんの化仏が確認できることから、十一面千手観音であることがわかりますという。
中国の大きな石窟にも楼閣が設けられていた(雲崗石窟第20窟など)ので奇妙には思わなかったが、これ以上の風化を防ぐためのものなのか、もとの穴から再現したものかは不明。


大悲山石仏は、たくさんの手のうち2本を、頭上に挙げて組み合わせ、化仏をささげ持っています。この独特のポーズは、京都の清水寺の本尊である十一面観音像(立像)と共通することから、「清水型」と呼ばれていますという。
それでもこんなに上の方に沢山の腕を挙げてはいない。私が感じたのは、崖に丸い横長の出っ張りがあって、その膨らみを利用して独特の千手観音像が彫られたのだろうということ。

観音堂石仏復元図より

頭頂部に一番内側の一対の手が化仏をいただいている。その下の額に丸いものが幾つか・・・なんとこれが十一面観音と呼ばれる所以やね。

この二つの穴は、二対の腕を差し込むためのものではないだろうか。

多くの衆生を救済するために千もの腕に、それぞれの道具を持っている。
左腕側

その外側には千仏が浮彫、彩色されている。化仏の中には通肩に今朝を付けたものもある。
凝灰岩のため、柔らかくて細工はし易い買っただろうが、火山ガスを含んだ気泡が沢山出ている。

右の化仏は明らかに通肩

しかしこの化仏たちがどんな衣装を着けているのか分からない。


右腕

その向こうの化仏は浮彫ではなく描いただけに感じていた。

しかし、拡大していくと、極薄の浮彫のよう。着衣の襞や頭光は刻線で施し、左側は赤、右側は白という派手な衣装だった。通肩や偏袒右肩という着衣の約束事などかまわずに着彩、刻線で襞を表しただけのように思える。

そして、最後に写した千手観音は、カエルのようなずんぐりした体型ではなく、思ったよりも細身だった。


その後薬師堂へと向かったところに戻ってくると、左の方に何かがあるらしかった。行ってみると石棺が収められた建物だという。

裏刳蓋付舟形刳抜石棺
説明パネルは、裏刳蓋付舟形刳抜石棺 付 直刀、刀子、鏃
石棺1 縦197㎝ 横70㎝ 高さ31.7㎝ 重量 約250㎏
字南台174番地の畑で、農道工事中に発見されたもので6世紀頃つくられた古墳の石棺と推定される。
この形式の石棺は、東北地方ではいわき市と浪江町川添、それに宮城県でも発見されているが非常に珍しいもので、石棺の製作、形、加工上の工夫などにも学術的研究資料の価値がある。浪江町とは極めて近接しての出士で、地方豪族の勢力範囲もおのずから究明し得る端緒となり地方資料としても重要であるという。

ところがその戸が開けられないらしいので、強力の私の出番となったが、反対側から開けるとすんなり開いた。

とはいうものの、中に入ることはできず、なんとかこの2枚の写真を撮影するのが精一杯だった。つるんとしていて、縄掛け突起はないらしかった。


石棺については他に知ることはできなかったが、双方ともに、中央との交流、あるいは同盟関係を物語るものである。


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参考文献
「図説釈尊伝 シルクロードの仏たち」 久野健監修・山田樹人著 1990年 里文出版

2023/11/21

福島の旅 南相馬市博物館


郡山から三春を過ぎて高瀬川沿いに海岸の方へ向かった。
山に囲まれた風景から段々と平たいところが多くなった頃、帰宅困難区域の家々の道脇に柵があったり、耕作地が放置されていたりした。
その内に立て替えた家々、耕作が再開された土地、そしてもう耕作できないところには太陽光発電パネルが海の波のように並んでいるのだった。

『旅に出たくなる地図 日本』より
福島県の観光地図 『旅に出たくなる地図 日本』より


南相馬市博物館に入ると野馬追いの様子が実物大で再現されていた。
相馬という地名は相馬氏に由来する。相馬氏の祖は平将門で、下総国に野馬を放ち、敵兵に見立てて軍事訓練を行ったのが始まりとされる。
現在でも毎年7月末に甲冑姿の400騎の騎馬武者が腰に太刀、背に旗をつけて疾走する勇壮な行事が行われているが、猛暑で熱中症の人たちが倒れることもあるので、開催日の変更を検討している。
今でも子供の時から馬に乗る人も多いなどと学芸員氏の説明があった。


かつて原町区内に建っていた原町無線塔の模型
説明パネルは、かつて原町区内に建っていた原町無線塔は、大正12年(1921)の関東大震災の際、アメリカに第一報を伝えました。それがきっかけて、励ましのメッセージとともに世界中から救援物資や義金が寄せられ、多くの命を救ったといわれています。 
その無線塔は、昭和57年(1982)に老朽化による解体で姿を消してから40年以上が経過し、震災時の活躍をはじめ、その存在すら忘れられつつあるかもしれません。 今年関東大震災から100年をむかえることにちなみ、かつての無線塔の役割や、震災時の活躍、解体に至るまでのあゆみをパネルや資料でふり返りますという。

原町に来ると見えた光景
原町区下北高平 国道6号 昭和52年(1977)2月 写真撮影: 大明生氏
説明パネルは、かつて、国道6号を北側より原町に入ってくると、このように、遠方に高くそびえ立つ無線塔のすがたが見えました。「原町に来たなぁ」と実感させる光景でしたという。


化石ワールド 南相馬 世界に誇る化石の産地 古生代-中生代-新生代の化石が一堂に
説明パネルは、南相馬市は、古生代-中生代-新生代すべての地質年代の地層が分布し、古生代の三葉虫、中生代の恐竜 (足跡) アンモナイト、新生代のクジラをはじめとする哺乳類など、あらゆる時代を代表する化石が産出します。このように、一つのまちの中ですべての地質年代の化石がとれる地域は全国的にも珍しいことです。
化石は、はるか昔の生き物たちが、偶然にも腐敗・分解をまぬがれて残ったもので、発掘されることにより、私たちが想像できないような太古のようすを教えてくれます。いわば化石は、地球の歴史の一端を物語るタイムカプセルであり、この南相馬は、その数億年にもわたる地球の歴史を、身近に観察することができ、近年は世界の地質・古生物学者からも注目をあびる、すばらしい地域ですという。
南相馬限定で出土するとは。地殻変動でここだけ古い地層が表面に出てきたのかな。

クラドフレビス シダ植物シダ類 ジュラ紀後期 栃窪層
南相馬市原町区信田沢産 個人所蔵
分類上不明のシダ類ですという。

拡大


サブディコトモセラス・チサトイ アンモナイト目 ジュラ紀後期 中ノ沢層
南相馬市原町区石神産 荒好標本

同上

ネオブルメシア・イワキエンシス 軟体動物二枚貝類 ジュラ紀後期 中ノ沢層
南相馬市原町区石神産 荒好標本
説明パネルは、ウミタケガイモドキの仲間の化石です。ふくらみが強い長楕円形をしていて、イボ状の放射肪が特徴ですという。
学名に「イワキ」がついている。

恐竜の足跡
説明パネルの写真を写し忘れていた。

こんなに拡大して撮ったのに・・・



浦尻貝塚の地層パネル
ぐっと時代は下がって縄文時代 
貝層剥ぎ取り断面のパネル


羽山装飾横穴(レプリカ) 桜井古墳の時代 説明パネルより

説明パネルは、東日本の太平洋側には多くの横穴古墳が残されています。
しかし、そのなかに装飾(壁画)が描かれたものはわずかだけです。羽山横穴の壁画は 奥壁に人物4人・馬3匹・蛇行文1条、長方形のシルエット一つ・鹿2匹(うち白鹿1匹)・赤白の線で連結した渦巻文二つ・水平線などが描かれています。
農耕社会が成立し、富をした有力者は、やがて、地域を支配する豪族に成長します。豪族は、権力の大きさを古墳という大きな墓を築くことによって、誇示しましたという。

また、玄室の軒廻り線から上の天井には赤白の珠文が満天の星のようにいくつも描かれていますという。

中段
中央に人物や動物、白いシカ?、右端に渦巻き
左壁には白い点が二段に渡って整然と描かれている。

渦巻きのパネル


横穴墓は他にも分布している。
西宮下横穴墓群


桜井古墳群 
原町区高見町 パネル
説明パネルは、桜井古墳群は、新田川の南岸に発達した河岸段丘の縁辺に立地し、1号墳の国史跡・桜井古墳 (前方後方墳)を主とする桜井古墳群としてとらえ、古墳群の中央に形成された自然谷と周囲の 古墳の分布状況から、西側の古墳群を高見町支群、東側を上渋佐支群と呼んでいます。
高見町支群では 25基の古墳が確認され、小型の前方後円墳1基、円墳21基、 墳丘をもたずに 箱式石棺や刳貫形石棺を直接埋葬したもの3基で構成される後期群集墳であることがわかりま した。
15号墳は前方後円墳で、大刀・鉄鏃などの副葬品があり、 古墳群における最有力首長墓と考 えられます。
これらの古墳群が造営されたのは土器の年代から6世紀前半頃で、 桜井古墳群高見町支群の周 囲で古墳時代前期から集落や墳墓の造営が行われていることから、古墳時代を通して勢力を持つ 新田川流域における伝統的な集団であったと考えられますという。
高見町支群・上渋佐支群に20近くの古墳がある。その一号墳が前方後方墳

福島県と宮城県南部の古墳の分布と大きさ パネル



一号墳 前方後方墳


時は下って仏教寺院が建立された頃の出土瓦



長瀞遺跡の製鉄遺跡群
説明パネルは、南相馬市原町区・鹿島区に広がる金沢製鉄遺跡群は、原町火力発電所建設に伴う発掘調査により発見されました。
その結果、製鉄炉123基、木炭窯149基、その他住居跡などが多数発見され、古代の日本で最も大規模な製鉄遺跡群であることや、7世紀後半から10世紀初頭まで鉄を生産していたことがわかりました。
製鉄炉には竪形と箱形があり、その中でももっとも保存状態のよい竪形炉を切取り保存し、実物を展示しました。この製鉄炉の年代は8世紀後半と推定されますという。

相馬地方の古代の製鉄炉の説明パネル
「ふいご」は炉の背後の箱形のもの。木製の板を嵌めて踏んだのだろう。


製鉄のジオラマ
柱を立てて、それを支えに二人でふいごの板を踏んで風を送った。

ふいごから送られてくる風で温度が高くなったところが白くなっている。


竪形炉の (実物)展示
左上まで階段で上ることができる。

中程より見下ろす


その先を方向を変えて、



製鉄炉の炉壁、噴出滓など



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参考にしたもの
南相馬市博物館の説明パネル

参考文献
「旅に出たくなる地図 日本」 2010年 株式会社帝国書院