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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2023/11/14

福島の旅 文知摺観音普門院


福島市を訪れ、文知摺観音を訪問
『旅に出たくなる地図 日本』より
福島市観光地図 『旅に出たくなる地図 日本』より


先ほどの岩谷観音から1.5㎞ほど西にある文知摺観音は「もちずりかんのん」と読む。
百人一首の「みちのくの しのぶもぢずり たれゆゑに みだれんと思ふ 我ならなくに」のモジズリは野原でよく見かける花で、ネジバナという別名の通り、一本の茎が真っ直ぐ伸びて、その茎を小さなピンクの花が螺旋階段を上るように上に向かって咲く。それは漢字では「捩摺」で、何の関係もないことがわかった。

普門院は曹洞宗の禅寺で、紅葉が始まっていた。近づくと拝観受付に住職の横山氏がもう来ておられた。


福島市教育委員会の説明パネルは、この地は信達三十三観音二番札所としての霊地であり、また文知摺石をめぐる伝説の地としても古くから市民に親しまれてきた所であります。
この信仰と伝説とが中核となって、この地には長い歳月にわたり堂塔が建立され多くの碑が配置されてきました。そのなかには甲剛の碑のように由緒がつまびらかでないものもありますが、文永4(1267)年の文字が刻まれている鎌倉期の板碑や元禄9(1696)年に、福島城主堀田正虎が文知摺石を顕彰した碑、また信達の俳人たちが京都の俳人丈左房を迎えて建てた松尾芭蕉の句碑などは史実が明らかで、しかも当地の文化や歴史をつける価値の高いものであります。
さらにこれらの堂塔碑の配置が静寂な自然の中にとけこみ、新緑に映える多宝塔、紅葉の下に苔むす文知摺石など、市民が遠い伝説のゆかりや民間信仰が生みなした民俗遺跡をしのびながら遊歩するのにたる風致をそなえております。かつて都人たちが歌枕として詠じ芭蕉が奥のほそ道の行脚に立ち寄り、文人正岡子規や墨客小川芋が足を運んだこの地は、市民の憩いの地として長く保存されるのにふさわしい史跡および名勝でありますという。
案内図は境内ではなく公園になっていた。


参道に入ると間もなく句碑が。


芭蕉句碑 竹夫大和個位導心より
元禄2年1689) 旧5月2日 門人曽良と共に文知摺石を尋ねて詠む
早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺
句碑は京都の俳人・丈左房が寛政六年(1794)5月追遠の句会を開催 
自ら揮毫し霊山町の松膏と協力して建立したものである。


文知摺石
横山氏は外観とは違い、ときどき面白いことをいう方だったので、関西人にはよく受けた。そのためか、お話の中身を忘れてしまったので、安洞院普門院(文知摺観音)のホームページより。
かつてこの地は、綾形石の自然の石紋と綾形、そしてしのぶ草の葉形などを摺りこんだ風雅な模様の「しのぶもちずり絹」の産地でしたという。
確かにそのような話を聞いた。
この「しのぶ草」がネジバナでないのなら、どんな植物かというと、石の縁に茂るシダの類だという。それなら着物の文様にはよく合う。


参道の向こうに観音堂、間の谷に文知摺石



觀音堂
信夫文知摺保勝会の説明パネルは、ここには、かつて大悲陶また大悲堂 ともよばれた観音堂がありました。
この方形造りのお堂は、宝永六(1709)年に安洞院の第三世漢浦和尚が一万人の浮財をあつめて改築したものです。もともとは、南面して建てられたものですが、明治十八(1885)年、時の信夫郡長柴山氏らが、もちずり石の周辺を整備した時、いまの西面になおしました。本尊は行基菩薩一刀三礼の作と伝えられる二寸二分(6.5㎝強)の木造観音で33年ごとにしか開帳されない秘仏でありますという。
銅葺き屋根のお堂。方形(ほうぎょう)造りは宝形(ほうぎょう)造りとも


人肌石・小川芋銭歌碑
信夫文知摺保勝会の説明パネルより
人肌のようなぬくもりを持っているところから人肌石 と呼ばれている。 
墨客・小川芋銭は明治・大正年間に二度訪れ 人肌石を見て詠む
若緑 志のぶの丘に上り見れば 人肌石は雨にぬれいつ
歌碑は昭和23年4月17日 池田竜一氏の書により清野勘助翁が建立したという。


足止め地蔵尊
信夫文知摺保勝会の説明パネルは、家出人や走り人があるときこの地蔵尊の足あたりを縛っておくと必ず無事に帰ってくるというところから足止地蔵尊と呼ばれるようになった。
後に危険から身を守り足の怪我や病にもご利益があると信仰を集めるようになったという。
なんと、頭が写っていない。

今度は上半身だけ


観音堂のそばからもちずり石を見下ろす。


近くに来たのに、何故か観音堂は軒しか写していなかった。




つづいて多宝塔
木造、重層、方三間、銅板ぶき(もと板ぶき)、正面唐破風付
福島県教育委員会は、この多宝塔は、寺伝の記録によると文化9年(1812)安洞院八世光隆和尚の建立と伝えられ、棟梁は地元旧山口村の藤原右源次と口伝されている。明治17年に現在の銅板ぶきに改められた。
小型の塔で、小さい起りをもつ亀腹とこれに重ねた上層の塔身などは在来の多宝塔形式を備えているが、初層の正面につけられた唐破風や、請花を省略して竜車を立方体とした相輪などには、この塔独特の工夫もみることができ、全般に入念で安定を志向した構法がとられている。
内部は正面の二本の来迎柱の間に禅宗様の須弥壇をおいて、金剛界五智如来を祀る厨子を安置する。天井は絵様を施した格天井である。
多宝塔遺構は畿内には多いが、関東以北には10棟位しかなくこれは東北唯一のものであるという。

唐破風はめずらしい。


唐破風
中央に鳳凰が飛んでいる。

形の良い多宝塔である。

屋根は銅葺きで、一般的には白い漆喰仕上げの亀腹も銅葺き。雪の多い地方の工夫だろう。 


正面には獅子の上半身が四つ、側面には象の頭部が三つ、獅子が一つある。



美術資料館と沢庵和尚歌碑

みたるなと 人を諌むも おりからに 我が心より しのぶ文じ摺



ガラスになった壁面から多宝塔を写すと銅葺きがよく見えた。


多宝塔の根樫に小さな蔦が巻き付いている


放生池



信夫文知摺保勝会の説明パネル
正岡子規句碑 明治26年(1893)7月25日
子規がこの地を訪れ詠む
句碑は昭和12年11月子規追悼会に建立された書は子規の真筆である

涼しさの 昔をかたれ しのぶ摺


帰りは観音堂の後ろ側を通って、

もちずり石の谷の紅葉を見ながら下っていった。



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参考サイト

参考にしたもの
信夫文知摺保勝会・福島県教育委員会の説明パネル

参考文献
「旅に出たくなる地図 日本」 2010年 株式会社帝国書院