福島市を訪れ、岩谷観音を訪問
『旅に出たくなる地図 日本』より
磨崖仏について、福島市教育委員会の説明パネルは、古くから「岩谷観音」の名で親しまれてきたこの地は民衆の素朴な霊場です。それは、平安末期から鎌倉期にかけて五十辺の「館」に居館をかまえてきた豪族、伊賀良目氏が持仏の聖観音を安置した「窟観音」に始まるものと思われますが、遠い都の貴族たちの三十三観音巡拝の風が地方の民衆にまで普及するにつれて、西国三十三観音の磨崖仏が彫られ、現在の「岩谷観音」が形成されました。その時期は宝永6-7年(1709-10)前後と思われます。
宝永2年(1705)の聖観音像・同7年の巳待供養弁財像が年紀のわかるものとしては古いものです。三十三観音像もおおかたこのころから彫られたと思われますが、西国の札所名と本尊のお姿が正確で仏像の儀に通じた修行僧が敬虔な鑿をふるったものと思われます。
ともあれ、市内唯一の磨崖仏であり、かつ三十三観音のほか六十体にもおよぶ供養仏が群像をなしている偉観は他に類例が少く、そのできばえも素直で美しく、民衆の信仰の敬虔なこころをよく伝えています。
さくらの花どきや新緑の風かおる季節、はては松林に紅葉をめでながら眺望するもよく、半肉彫りの仏像群を拝し歴史をしのびながら遊歩するにたる史跡および名勝として指定しましたという。
説明パネルは、平安時代の末に、飯坂の大鳥城に居城を構えて信夫郡一帯を支配した佐藤庄司基治は有名ですが、その叔父と伝える伊賀良目七郎高重は、ここ五十辺に館を構えていました。この子孫である春顕が応永23年 (1416)10月に先祖伝来の観音像を本尊として建立したのが観音堂の始まりであると伝えられていますという。
その後建て替えがあったらしいお堂
こちらは風化が激しいようだ。
移動すると、少し上の崖にも磨崖仏を見つけた。
浅い龕がうがってあるが、そこには仏像ではなく、百という文字が彫られているだけ。
探せばもっと沢山の仏像が見られたと思う。
その先に鐘楼
上右端 矩形や舟形の龕の中に彫られたものが多そう。
上右から
2段目右より
右は柳の枝を持つ楊柳観音かな。左は大きな龕に化仏の坐像を一体だけとは
小さな坐像から立像までさまざま。左端は六臂には見えないが、青面金剛かも。
その続きの崖はここで左側が出っ張り、また二体の仏像が角にあるところで面が変わっている。ここで見えるのは九体の仏像。
続いて何も残っていない大きな龕
その後左側にもあるということで行ってみた。
幾ばくかの土があれば草が生える。ここではススキが穂を出したばかりで、晩夏を思わせる。
唐破風の屋根が、崖の凹凸を利用して造られている。
その下には三つの龕があるが、仏像はない。
こちらは風化が激しいようだ。
探せばもっと沢山の仏像が見られたと思う。
階段を下りると転がり墜ちそうなので、登山道を通った。
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参考にしたもの
岩谷観音保勝会・福島市教育委員会作成の説明パネル
参考文献
「旅に出たくなる地図 日本」 2010年 株式会社帝国書院