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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2023/12/05

福島の旅 さざえ堂


さざえ堂という風変わりな建物をあるテレビ番組で見て以来、一度は訪れてみたいと思っていた。

その日は朝から雨で、やがて止んだが磐梯山は白い雲からでてこなかった。

さざえ堂は白虎隊に関わる飯盛山にあるが、建てられたのはそれ以前(現地の飯盛山案内図より)


階段を登り切るとあるのは飯盛神社ではなく、なんと厳島神社だった。



この橋の下には、雨の後でも澄んだ水の流れがあり、

それを辿っていくと、白虎隊引き揚げ洞門というところに来た。



階段の上に見えた建造物は妙な形なので、私が昔テレビで見たさざえ堂に違いないと確信。

階段の上から見下ろすと厳島神社周辺が一望できる。


旧正宗寺三匝堂(きゅうしょうそうじ さんそうどう)
福島県教育委員会制作の説明パネルは、六稜三層形式向拝付、銅板葺き(もと木羽葺き)
「さざえ堂」の通称があり、高さ約15.5mで、初層真径約6.3mの六角形平面に回縁を付け、正面には唐破風の向拝を付しているという。
突き出た向拝と龍が異様だが、これがさざえ堂なのだ。


説明パネルは、正面から入ると右回りに螺旋状のスロープで登り、頂上の太鼓橋を越えると降りの左回りスロープとなって背面出口に通ずる。昇降を通じ建物内を三度回ることになるところから三匝堂の名がある。
スロープの内側に沿って西国札所の三十三観音像が祀られ、一度入ると巡礼を終えたことになるという、いわば江戸時代における庶民のための身近な巡礼の建物であったという。

さざえ堂のところから会津城が望める。


上り口には三十三観音ではなく郁堂禅師がお出迎え
説明パネルは、「新編会津風土記」には「円通三匝堂」と見え、寛政8年(1796)の造立と記され、また会津若松の実相寺の僧郁堂の建立とされているという。
さざえ堂を建てた僧だった。
外側は開口部が続き、斜めの床には滑り止めの桟が取り付けてある。


この天井は下り専用の通路。時々音がする。
そして内側に、かつて三十三観音が祀られていた仏龕あるいは祠がある。

入口を振り返る

祠がかたまってあることも。


これを梁と呼ぶか、棟と呼ぶか。



祠は内側にあるが、内側には他のものも。


のぞいて見ると、向こう側も開いていた。
仏堂建築としては、他に例を見ない特異なもので、六本の心柱(円柱)と同数の隅柱(六角柱)を駆使して、二重螺施のスロープを造り上げた考案者である郁堂と棟梁の創意と技術には大きな意義があるということなので、真ん中に見えているのは心柱になるのかな。


こんな風に上っていくと、先に方向の違う板があった。


外を眺める。


これが通路の頂上だった。


その天井は六角形の周りに折りたたみ傘のような湾曲部があって、更に垂木状のものが10本ずつくらい下がっているように見える。

でも、外から見ると、軒下に二重垂木が出ているで、内側のは垂木ではない。
こう見ると、六本の六角柱の外側は華奢な木鼻が上の軒を支えていて、意外と装飾的。


さて、この太鼓橋状のものを通り過ぎると、反時計回りに下っていくように造られている。
この「二重の螺旋階段」は、モスクのミナレットにも見られるものだが、観光で行くと一方が閉じられているため、上る人と下りる人が狭い空間ですれ違うことになる。あつ、また脱線。


何故か円柱が途中で切れているのが気になった。


見ると、反対側が見えるところだ。



あちこちに千社札が貼られていたが、出口の板にまで大きく名前を書いた人がいた。


そして出口に坐っているのは正宗寺開祖の残夢大禅師だった。

外に出て時計回りに廊下を回って正面から出た。



内側にいると、通路が斜面になっていることがわかるくらいだが、外から眺めると、どのラインが水平なのか探しだそうとしてしまう。
一つの壁面で、格子状の開口部(明かり取り)の右端の位置から斜め下に渡してある板が水平のような気がする。

回り廊下のレベルで見ると、その板はかなり傾斜があるように見えるな~

ひょっとすると、さざえ堂に水平なものはないのかも。


飯盛山の最後の階段から見えた会津若松の街。


帰りも磐梯山は姿を表さなかったが、猪苗代湖はちょっと見えた。



       福島の旅 大悲山石窟

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参考にしたもの
福島県教育委員会制作の説明パネル