ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2009/09/22
新羅の腰偑は突厥の金帯飾りに似ている
慶州の巨大積石木槨墳からは幾つか銙帯(かたい)と腰偑が出土している。
金製銙帯・腰偑 5-6世紀 長102.0㎝
瑞鳳塚出土のものは金冠塚出土や天馬塚出土のものに比べて腰偑の数が半分くらいしかないし、中程には耳飾りのようなものが1対取り付けられているように見える。『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、木槨内は盗掘もなく完存していたというので、埋葬時にはこれで全てだったのだ。 実際に見ると、腰偑は長い上にたくさん吊り下げられていて、あまりにも重そうなので、儀式や祭祀など特別なときだけ身につけたのだろうと思った。しかし、いくら儀式用とはいえ、腰偑をこんなに長くするのには、どのような意味があったのか。
そう思いながら、シルクロード関係の書物を探していると思わぬものを見つけた。
突厥の金帯飾り 出土地不明 時代不明
『週刊シルクロード12キルギス』 に掲載されていた写真(ユニフォト)で、金細工の部分に狩猟紋(狩猟する絵)が描かれているという。
おそらく革に金製の金具がついているのだろう。ベルトを前で留めると、小物入れ状のものがちょうどポケットのように左右にくるように作られているようだ。しかし、他の腰偑は長短はあるが、武器も道具もつけていない。普段はこのままの状態で使用し、必要な時にだけ腰偑に取り付けていたのかも。 突厥の名が出るとは思わなかった。そもそも突厥とはどういう民族なのだろう。
同書で林俊雄氏は、6世紀中頃、柔然の支配下から独立したテュルク(トルコ)系の民族。後に柔然を併合して草原地帯を統一。西はカスピ海から東は中国の北方まで領土を広げ、匈奴以来の内陸アジア全域を支配する強力な遊牧国家を建設したという。
6世紀中頃と言えば、新羅では巨大な積石木槨墳がもう作られなくなった頃である。
『シルクロードを知る事典』は、突厥は北周と相互に婚姻関係をもって発展したが、次第に大小の可汗が分裂抗争し、やがて東突厥(モンゴリア)、西突厥(中央アジア)に分裂した。
630年、東突厥(第一可汗国)は唐のために滅ぼされ、部族は唐の北辺でその支配をうけたという。
新羅に近い東突厥は7世紀前半に滅んでしまった。西突厥はどうだろう。
西面可汗シルジブルがエフタルを破って中央アジア全域を支配し、ササン朝と東ローマに対抗して西方へ発展したのが、西突厥の基礎となった。アパ可汗が西突厥を称したのは583年であった。
611年射匱が隋に任命されて可汗となり、その弟統葉護可汗期に最盛期を迎えた。統葉護は可汗庭をスイアブに移し、その勢力はアム川を越えてカピシ(現アフガニスタンのベグラム遺跡)に及んだ。
640年唐の高昌征伐を初めとする積極的西域進出が始まり、西域と西突厥は唐の支配下にはいった。
高宗は三度の大討伐を行なって、657年西突厥を滅亡させた。
唐はもとの西突厥の領域を傀儡の2可汗に統治させ、西突厥支配下にあった中央アジア諸国に都督府と州を置いて支配した。
683年東突厥の地では、阿支那氏のクトルグが突厥勢力を糾合して独立し、第二可汗国が成立した。彼らはゴビをわたって本拠ウチュケン山を回復し、モンゴリアを再統一した。次のカプガン可汗は西突厥の後継者の突騎施(テュルギシュ)を討ちソグディアナにまで遠征した。第三代のビルゲ可汗時代は玄宗皇帝期にあたり、玄宗と父子関係を結んで繁栄したが、その後は内紛が多く、唐と組んだトルコ諸部族の反乱が起こって、第二可汗国は744年に滅亡した。
8世紀初めには十姓の一部突騎施が復興し、東では東突厥と、西では東進してくるイスラム勢力と衝突するという。
西突厥の方はかなり長い間中央アジアにいたのだ。
この出土地も時代もわからない金帯飾りは、『週刊シルクロード12キルギス』が採り上げているのだから、現キルギスの地のどこかから発見されたものだろう。
意外なことに、このような長い腰偑のついた形式のものは、長い期間にわたって、北方ユーラシアで使用し続けられたていたようだ。
そして新羅では、実用品でない腰偑もあるので、新羅では、突厥の帯飾りに似たものが武人などの間で使われていたのだろう。
石人 出土地不明 時代不明 ベラサグン、野外博物館
『シルクロードを知る事典』は、砕葉城からさらに10㎞ほど南下すると、ベラサグンの遺跡がある。約1㎞X800mほどの広大な廃墟だが、遺跡に入るとまず半壊したミナレット(尖塔)があり、王宮の跡か住居址か巨大なテペ(遺跡の丘)がそれに続いてわだかまっていた。遺跡右手の空き地には、キルギス共和国の各地から集められた石人や直径1~2mの巨大な石臼が20~30個もズラリと並べられていて壮観だった。残念なことにこれらの石人は、採集地はすでに分からなくなったものが多いという。
この石人は膝を曲げて坐っているように見える。2本の剣は帯から下げているのか、脚の前に立てかけているのか、よくわからない。石人はたくさんあるようなので、探せばベルトから武器を吊り下げたようなのもあるかも。ベラサグン遺跡の位置は下図をどうぞ。
付近のアク・ベシム遺跡について『週刊シルクロード12キルギス』は、アク・ベシム遺跡が西突厥の本拠地であったスイアーブ、すなわち中国史料に見られる砕葉城あるいは素葉城に相当することがほほ確実であるという。
『シルクロードを知る事典』は、『大慈恩寺三蔵法師伝』には、法師のこの地方での旅を次のように述べている。玄奘三蔵がイシック・クルから西北に500余里進んで素葉城(アクベシム)に着くと、そこで西突厥の葉護可汗に会った。可汗はちょうど狩猟に行くところで、多数の兵馬を従えていた。玄奘が可汗を訪れると、可汗は大いに喜んだという。
玄奘三蔵がここまでやって来たのは630年のことである。きっと狩猟の服装をしていた可汗は、革に金の金具を付けた腰偑に狩りの道具をいろいろと吊り下げていたことだろう。
慶州瑞鳳塚についてはこちら
※参考文献
「国立慶州博物館図録」(1996年 通川文化社)
「週刊シルクロード12 キルギス イシク・クル湖ビシケク」(2006年 朝日新聞社)
「シルクロードを知る事典」(長沢和俊 2002年 東京堂出版)