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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2009/02/10

路東洞路西洞の平たく削られた古墳から豪華な副葬品-金鈴塚・飾履塚


味鄒王陵地区古墳公園と太宗路を隔てて、北側にある古墳群は路西洞・路東洞、あるいは路東里・路西里古墳群と呼ばれている。
1986年出版の『韓国中央博物館図録』には古墳公園として整備した頃と思われる写真があった。平たくなってしまった古墳は多かったが、それでも豪華な副葬品がたくさん出土したという。  1988年出版の『韓国の古代遺跡1 新羅篇』には、公園として整備される前、あるいは発掘調査前の写真があった。民家の中に古墳が残っているといった感じだ。飾履塚や瑞鳳塚はどこなのかまったくわからない。この写真を見ても、こんなにたくさんの古墳が今までよく残ったものだと思うが、民家の下などにも古墳はたくさん残っていたのだ。 路東洞 金鈴塚(127号墳) 6世紀前半
『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、1924年に梅原末治・小泉顕夫・沢俊一によって発掘された。墳丘が半壊された状態で調査がはじまり、家屋の床下におよんだが、補強工事をして発掘が継続されたという。積石木槨墳は完存し、しかも金冠・冠帽・腰佩・金銅製履などの多数の副葬品が原位置のまま発見された。「宝冠の頂から足玉までの距離が1mを超えず、しかも冠・釧・指輪・帯・腰佩あるいは、腰にさげた金の小鈴など一様に小形で可憐な趣のものが多いので、被葬者が子供であった」(有光教一)と推定されている。特異な遺物としては、彩画のある白樺製冠帽、金釧・船形土器・ローマンガラスがあり、騎馬人物形土器はとりわけ有名であるという。
金冠が出土したのに子供だったとは、子供の王だったのかも。金冠の大きさは子供の頭に合っていたのだろうか。腰にさげた金の小鈴が腰佩と独立して下げていたのかどうかわからないが、不思議なことに、その金鈴が出土したために「金鈴塚」と名づけられたのに、金の鈴は博物館でも見なかったし、どの本にも載っていないのは残念。 金鈴塚出土 騎馬人物形土器 6世紀前半 21.3㎝ ソウル、国立中央博物館蔵  
『世界美術大全集東洋編10』は、長方形の板の上に騎馬人物が載る土器で、馬の飾りや人物の姿から見て、主人と従者と思われる。日常容器の土器とはまったく異なり、この土器のみからでは年代を決めることはできない。胸に細長い注ぎ口が、臀部に広口の受け口がつくという。
この土器を見ていると、天馬塚の白樺製障泥(あおり)が、馬にどう付けられていたかがわかる。
この土器も残念ながら国立慶州博物館では展示されていなかったので、図版でしか知らないのだが、勝手に酒器だと思っていた。子供の墓の副葬品だとすると、子供用の器かおもちゃのようなものだったのかも。主人と従者(下写真)が1対になっているのは、同墓出土の1対の舟形土器と共通するという。 路東洞 飾履塚(126号墳) 5世紀第4四半期
『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、金鈴塚とともに発掘された。発掘の結果、径30m、高さ6m以上の規模と推定されている。木槨内では、遺骸の頭部に副葬品櫃を設けている。木槨直上に置かれた状態で鉄矛2・有棘利器2・鎌1が出土しており、墳丘の築成の過程で祭儀の執りおこなわれたことがうかがえる。装身具のなかで、白樺製冠帽・金製耳飾りはあるが、金・金銅製の冠をもたず、釧・腰佩・環・環頭太刀など銀製の装飾品の多い点は興味深い。また金銅製履・龍鳳文透彫り金銅鞍・杏葉などの馬具も他に類例をみないものである。山字形金冠をもたないこともあり、王陵には比定しえないが、王族・上層階級の墓であることは疑いないという。
飾履塚出土 金銅製飾履 5世紀後半~6世紀初 長(左)32.0㎝ ソウル、国立中央博物館蔵 
古墳の命名の由来となった金銅製履は長さ32.7㎝で、3枚の銅板からなる。文様の系譜は中国の南朝の流れをくむものであり、全体に南朝的要素の強い副葬品を有していることは注目されるという。 『世界美術大全集東洋編10』は、飾履は1枚の底板と2枚の側板よりなる。この飾履が有名になり古墳の名称ともなったのは、底板の見事な文様に由来する。9個の亀甲文を一列につなげ、その内に鬼神と双鳥を交互に配し、踵側の下から2番目には八弁蓮華文を入れる。左右にも半亀甲文を縦一列に並べ、鳥、人面鳥身像、怪獣を対称に配置している。現実の世界にない空想の動物を表した履は、今のところこれが唯一である。周縁には火炎文が爪先に向かって立ち上がり、仏像の光背文様との類似を見せる。側板も同様に亀甲文を配し、鳳凰、怪獣などの動物をを入れて、周縁には火炎文を表すという。
仏教美術のモチーフがこの飾履に使われているとは。新羅で仏教が公認されたのは法興王14年(528)、6世紀前半のことなので、それ以前につくられたこの飾履は、南朝で作られ、新羅へもたらされたのだろう。これだけ平らになってもなお、埋葬施設が壊されず、盗掘にも合わずに残っていたのは積石木槨墳の構造のおかげだったに違いない。
5世紀中葉には北朝と通交するのに高句麗を介さなければならなかった新羅だが、5世紀第4四半期には、直接南朝と通交できるようになったのだろうか。それとも、南朝へは高句麗を通らなくても船で行けるので、南朝とは以前から交易でもあったのだろうか。

『世界美術大全集東洋編10』では亀甲文とされていたが、私は亀甲繋文ということばを使っています。亀甲繋文については、金銅製履にも亀甲繋文-藤ノ木古墳の全貌展より亀甲繋文はどこから亀甲繋ぎ文の最古?をどうぞ

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」 (2004年 奈良国立博物館)
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」 (1998年 小学館)
「韓国中央博物館図録」(1986年 通川文化社)
「国立慶州博物館図録」(1996年 通川文化社)