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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2021/06/18

法華山一乗寺の三重塔


三重塔 平安時代末期
栞によると、承安元年(1171)長吏法印隆西、一和上仁西の勧進により造立。同4年(1174)額田部武末の屋敷瓦寄進によって完成。各層の低減が大きく安定感があり、三重の照りむくり、三手先の組物、左右二材を組み合わせた本蟇股など平安様式の優美な古塔で我国和様建築の完成を示す。本尊は五智如来という。
土壁が全くない、木材だけを組んだ塔というのは珍しいのでは。

鉄錆色の相輪
水煙は蔓草の透彫だった。錆だけではなく、朱漆が塗られていたのかな。
違う角度から写しまくった。



各層の屋根は反りがあまりない。軒の垂木の間に白っぽい色が残っている。 

初層の鬼瓦
下の門歯が真ん中に1本

二層目の屋根
前歯も臼歯のよう

三層目の屋根
角は二層目に似ている。それぞれの制作時期が違うためか、それぞれに違った顔で面白い。

風鐸からぶら下がる風鐸

二層目は三手先の組物が間隔狭くならび、三層目には三手先の組物は隙間なく並んでいる。
幅が低減しても、組物の大きさは同じだから😉
二層目の隅肘木は装飾もなく素直に出ている。

初層に整然と並ぶ組物そして軒へと以降する箇所には湾曲した縦材が並ぶ支輪。
この辺りに白く着色していた痕跡がある。
京都府木津川市海住山寺五重塔(建保2年 1214)は一乗寺三重塔の40年ほど後に造立されている。木材に白く胡粉を塗った壁面がよく残っていて、一乗寺三重塔もかつてはこのように彩色されていたことが想像できる。しかし、やはり一乗寺三重塔は組物が密に積み重なって、壁面が海住山寺五重塔ほど見えない。
京都府木津川市海住山寺五重塔 鎌倉時代 『五重塔入門』より

扉には、柿蔕文の金具?

そして、連子窓は細工した板を並べただけ。雨水の浸入を防ぐ工夫?それとも簡略化したもの?

塔は大悲閣と呼ばれる本堂からも見下ろせる。
三層目の壁面には白い色が残っていた😊

石段から
石段を降りながら。

      法隆寺 五重塔まで←        →石の宝殿の正体

関連項目

参考文献
「五重塔入門 」 藤森照信・前橋重二 2012年 新潮社とんぼの本
法華山一乗寺のしおり

2021/01/15

法隆寺 西院伽藍と若草伽藍


20年11月、久しぶりに法隆寺を拝観した。そろそろ記事を書こうかなと思っていたところ、12月27日(同年1月4日放送の再放送)BSフジで「令和の法隆寺 千四百年の伝承と聖徳太子の残響」という番組が放送されたので、とても興味深く視た。

番組では、仏像の銘文の造立年よりも、西院伽藍の建立の方が後になるのが謎という。

番組に出演されていた鈴木嘉吉氏は『国宝法隆寺展図録』(1994年)で、法隆寺は初め斑鳩寺と呼び、聖徳太子が自身の住いとした斑鳩宮の西に隣接して建立した寺である。その年代は推古14、15年(606、7)と考えられ、日本の仏教伽藍としては、蘇我馬子が崇峻元年(588)に発願して推古4年(596)に竣工した飛鳥寺に次いで古いという。
法隆寺伽藍配置図  法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録より

『国宝法隆寺展図録』は、『日本書紀』はこの寺が天智9年(670)に焼失したことを記す。
しかし天平19年(747)の『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』にはまったく火災の記事がなく、金堂内陣に安置する釈迦三尊像や薬師如来像には推古朝に造立した銘がある。金堂や五重塔の建築も天平時代の様式とは大きく異なり古めかしい。このことから現在の西院伽藍を太子建立のままとする説と、天智火災後の再建とする説が対立し、長い間論争が続いた。いわゆる再建非再建論争である。
この論争は発掘調査によって、現西院寺域の東南隅に残っていた塔心礎を中心とする若草伽藍跡の存在が明らかにされ、一応の終止符がうたれた。若草伽藍は塔と金堂が南北に並ぶ飛鳥時代初期の配置をもち、出土瓦も金堂のものは飛鳥寺の范型を彫り直して造っている。ここが創建法隆寺であることは疑いなく、その寺域も現聖霊院南方の鏡池中央附近を西北隅として、東は聖徳会館のすぐ西側、南は寺外の民家密集地にわたる広大なものであったことがわかってきたという。
若草伽藍の発掘風景 法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録より

上写真の石は塔の心礎
若草伽藍の塔心礎 法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録より

なお、2003年に行われた若草伽藍の金堂跡の発掘で瓦が出土していが、以前に若草伽藍跡出土および西院伽藍出土の瓦はまとめている。
それについてはこちら

『国宝法隆寺展図録』は、五重塔も天武14年(685)に計画されて慶雲3年(706)に竣工した法起寺三重塔に比べて古く、天武朝末年には着手したものと考えられる。塔の初重に安置する塑像群と中門の仁王像は和銅4年(711)に造ったことを『資材帳』に記すので、この時には回廊に囲まれた西院伽藍の中枢部が完成したことがわかる。建物を見ても、同一の様式ではあるが、雲形組物に筋彫りを施す金堂が最も古く、塔はそれに次ぎ、肘木下面の舌と呼ぶ突起が消えた中門や回廊はやや時代が下ると認められる。
要するに天武朝初頭には金堂の造立が始まり、和銅4年に至って中門・回廊も完成したと思われるのである。回廊の東側に建つ東室も虹梁が回廊とよく似るので同時の建立と推定され、また今の講堂の位置にあった食堂も礎石が東室と同形式なので、和銅までには建立されたらしいという。
奈良時代初頭までかかったことになる。

同書は、しかし西院の創建にはなお謎が多い。焼失後の再建であれば当然旧寺地で行うはずなのに、尾根を削り両脇を埋め立てる大規模な造成工事をして新しい寺地を拓いたのはなぜか、金堂の中央本尊が聖徳太子と妃の追善のため造られた釈迦三尊像なのはなぜか、皇極2年(643)蘇我入鹿の襲撃によって山背大兄王を初め太子一族が亡んだあと、誰が西院を造営したのかなど、多くの問題が残されているからである。
建築を見ても金堂と五重塔には造営年次にかなりの隔たりが感ぜられる。そこで、元来は、入鹿に焼かれた斑鳩宮にあった釈迦像を祀るために金堂だけは早くから造られ、火災後はこの堂を中心に新しい伽藍が営まれたのではないか、とする説も生まれている。初期には太子を慕う人々の細々とした造営であったが、持統朝以後は官の支援で整備が進められた可能性が高い。
西院伽藍の造営は和銅以後も継続し、回廊の外にある経蔵、鐘楼、東方の政屋(現食堂)、東大門などは中枢部とは異なる天平様式で建築された。『資材帳』で天平年間(729-749)には伽藍が完備したことがうかがえるという。

番組では、日本で年輪年代法を確立した奈良国立文化財研究所の光谷巧実氏が、2008年に金堂屋根裏で採取した木材が、668年に伐採されたものであることを突き止めたという。
法隆寺焼失とされる670年よりも前に、金堂の木材が伐採されていたというのはどういうことなのだろう。
鈴木氏は、一般の金堂では、仏像は奥に安置し、その前の空間に、花などを献げるものだが、法隆寺の金堂は仏像が前の方にあり、背後には3つの厨子が安置されていた。
それは、お寺というよりも、聖徳太子を偲ぶ廟として、若草伽藍が焼失する以前に建てられていた。そして670年の若草伽藍焼失後、法隆寺西院伽藍として整備されたのではないかと見ている。
金堂平面図 法隆寺 金堂壁画と百済観音展図録より

『国宝法隆寺展図録』は、西院伽藍は天智9年以後、いつ、誰が造ったのであろうか。『資材帳』には持統7年(693)仁王会が行われた際に天皇が施入した天蓋が記録され、また翌年には金光明経が施入されている。この頃少なくとも金堂は完成していたとみてよいという。
この天蓋についても、同番組で鈴木氏は、色を紫と記しているので布製だろう」とし、2008年の金堂の解体修復時に見つかった東の間天井の2つの金具に吊り下げられていたのは、持統天皇が下賜された紫の布製の天蓋だろうという。
また、持統天皇、あるいは天武朝が法隆寺を認めたことになる。寺としては太子の廟ではなく、太子が建てた寺であることが大事なことですとも。

現法隆寺金堂の中の間に安置されている釈迦三尊像について『法隆寺』は、台座は「宣」という字の形をした木造の二重宣字形須弥座である。その須弥座上に大きな舟形の大光背を背にした一光三尊の形式をとる。光背の裏面に刻まれた銘文には、辛巳(推古29年 621)12月、太子の母である間人皇后が崩かられ、明年の正月、太子と妃が病気になられたため、太子と等身の像を造り、その願力によって「転病延寿」を願う。もしも薨去されてしまったならば、浄土に昇り早く妙果に到達されることを願うとする。そして推古30年2月21日に膳妃、2月22日に太子が薨去された後、癸未(推古31年 623)に鞍作止利によって完成をみたことなどが記されているという。
金堂西の間 釈迦三尊像うち主尊 法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録より

ということで、606-607年に斑鳩寺として建てられた若草伽藍は670年に焼失したが、それ以前に聖徳太子を祀る廟堂として建立していた建物には釈迦三尊像などが安置されており、その堂宇を新たに法隆寺の金堂とし、後に五重塔や講堂、経蔵・鐘楼、回廊を建てて西院伽藍としたので、現金堂は再建されたものではない。
西院伽藍を建てた人物が誰かは不明だが、天武朝期には、法隆寺として朝廷に認められたと言う説は、納得できるものだ。

また、BSフジの「令和の法隆寺」で鈴木嘉吉氏は、2008年の修復の時に、東の間の天井の木材のうち、薬師如来の頭上に小さな2つの環があることに気づいた。それで当初は木製ではなく、もっと軽い天蓋が掛かっていただろうと推測した。
『資材帳』に、仁王会が開催された693年に持統天皇より紫の天蓋が下賜されたことが記されていたことから、その紫色の天蓋がこれに当たるだろう。色が指定されるということは、布製だったのではと述べられていた。
そして、番組中鈴木氏が収蔵庫でその金具を外すと、金具に隠れていた木材の彩色(朱色)がやや色褪せていたが、他の天蓋の金具を外すと、彩色した当初の鮮やかな色が現れたのだった。
ということは、東の間には中の間と西の間の天蓋と同じ木製天蓋が準備されていたが、紫の布製の天蓋が持統天皇から下賜されることになって、木製天蓋を外したということかな🤔
金堂中の間天蓋 飛鳥時代(7世紀) 国宝法隆寺金堂展図録より


        法隆寺 金堂←     →法隆寺東院夢殿 救世観音立像

関連項目

参考文献
「法隆寺昭和資材帳調査完成記念 国宝法隆寺展図録」 東京国立博物館・奈良国立博物館・法隆寺・NHK他 1994年 小学館
「法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録」 2004年 奈良国立博物館
「法隆寺 金堂壁画と百済観音展図録」 東京国立博物館・朝日新聞社・NHK 2020年 朝日新聞社・NHK発行

2020/12/28

法隆寺 五重塔まで


久しぶりに法隆寺にいった。国道25号から南大門まで松並木の間の参道がある。
『法隆寺』はこの松並木の参道から始まる、優れた案内書である。

南大門は、平面は三間一戸。控柱が前後各4本、合わせて8本あるから八脚という(『日本古建築細部語彙 社寺篇』より)。
正面から写しているのでわかりにくいが、門自体の4本の柱の外側に、軒を支える柱が4本ある。門の向こう側にも4本あるので八脚門(はっきゃくもん、やつあしもん)。
簡素な四脚門(新薬師寺)に比べると屋根にも高さがあり立派。

永享10年(1438)、室町時代の再建というが、古い様式に近い様式で再建されたようで、整然とした造りである。

法隆寺の古い建物は一軒(ひとのき)の長い角垂木なのに、南大門は二重の角垂木で深い軒(二軒 ふたのき)となっているが、軒は古い建物同様に反りは少ない。

胴張りの円柱は節が残っている。これについては、12月27日(同年1月4日放送の再放送)BSフジで「令和の法隆寺 千四百年の伝承と聖徳太子の残響」という番組で、木の南側はよく日があたるので、枝がたくさん出ます。法隆寺では、木材は育ったように立てるので、柱の南側には節がたくさん見えますと言っていた。
しかし、木鼻のようなものが組物に出現。 
花肘木の上に斗が一対ずつ三段重なる。
木鼻や花肘木などは創建時にはなかったので、再建の時に付け加えられたらしい。

『法隆寺』は、これからはじまる遙かな古代への旅への出発点として、中門までたっぷりと保たれた空間は、訪れる人々の心を清浄にさせるという。
この空間は創建時のものではないようで、
『国宝法隆寺展図録』は、南大門は元来中門のすぐ南にあり、、それに続く大垣も現寺地の東西両大門を結ぶ道に面して北側にあったが、長元4年(1031)に今の位置に移転して寺域を拡大した。これは子院の増加に対応するものという。

版築の塀に囲まれた広々とした空間は、行きは期待が膨らみ短く感じるが、急ぎ足となる帰りは長~いのだ😅

松などの木々が成長して、金堂はほとんど見えず、五重塔でさえやっと見える。

救世観音の安置されている東院への参道。この日は秋の特別公開中だったので、後ほどいくことに。

中門
同書は、中門は仏国土への入口。奥行きは通常の門が二間であるのに対して三間と大きく、正面の柱間が四間となっている。四間二戸二重門。このように飛鳥時代の伽藍は中門が大きく、南大門はやや小さくするのが通例のようである。
廻廊に囲まれた内部は仏の世界である。中門は仏の世界と現世とを結ぶ仏門であり、左右に仏の世界を守護する金剛力士が立つという。
昔は通れたこの中門には結界ができてしまい、仁王たちを間近で見上げることはできない。
上層部は人字形割束と卍崩し高欄がめぐり、連子窓の上には雲斗、三段の通肘木、角垂木の木口が整然と並んでいる。
鬼瓦は額から垂らした髪や幅広の顔面という特徴あるつくりだが、以前調べた鬼瓦にはないので、江戸時代以降のものかも。
法隆寺の鬼瓦については関連項目に以前まとめた記事をあげています。

中門といえば仁王像
同書は、奈良時代に記された『法隆寺伽藍縁起併留記資材帳』には、両脇の金剛力士立像が和銅4年(711)に造像されたとあり、中門はそれまでに完成していたことがうかがえる。阿形は像高379.9㎝、吽形は378.5㎝。
像は心木をもとにして、その上に塑土で造形された塑像。完成後に損傷を負ったが、奈良時代にあらためて補修されたという。ダイナミックな動きと豊かな表情は、のびのぴとした奈良時代の金剛力士像の姿を伝えているという。
いつ見ても顔が小さくて格好いい仁王たち。
崩れやすい塑像(吽形は体部木造)なのに、よくぞ持ちこたえてその姿を見せてくれた😍

紅葉と連子窓を眺めながら拝観受付へ。
深みのある中門西側面
入母屋破風には懸魚がある。こんなに古くから懸魚ってあったのかな😶

中門と回廊
同書は、中門を基点に両側から東西にのびる廻廊。途中鉤の手に折れ曲がって真後ろの大講堂につながり、金堂・五重塔を懐に包み込む。
中門の造営に続いて建てられたといわれるが、建立当時の廻廊は、大講堂までのびずに金堂と五重塔だけを囲んで、北廻廊が一直線であったという。
それぞれの屋根の四隅に風鐸が下がっている。お寺で風鐸の音が聞こえることはほとんどない。
五重塔と金堂の間の参道より見た中門

五重塔と金堂を撮ったが、全部入ったと思ったが、相輪の先が切れていたもっとしゃがまないと😅


五重塔と礼拝石
『法隆寺』は、ちとせあまり みたびめぐれる ももとせを ひとひのごとく たてるこのとう
歌人会津八一の歌がある。1300年あまりの歳月を経ながら昨日建ったかのように凜然と立ちつくす塔に、心打たれて詠んだのだったという。
今までに何度も訪れている法隆寺なのに、その度に五重塔は見上げていたはずなのに、今回やっと五層目だけにあるものに気付いた。

今回初めて気が付いたものは、尾垂木を支える邪鬼だった。
沸き立つ雲を浮彫したような腰掛けの上に坐っているのはやっぱり邪鬼😄
頭の上には蓮華がのっているのかな😎 ピンボケだけと
補強のための支柱だけれど、その長さに合わせて、工夫して邪鬼の上下に付け足したのだろう。

相輪
薬師寺東塔の天衣をたなびかせる飛天と筋状の雲という華麗な水煙と比べるとなんと古拙という言葉を感じさせる水煙だろう。こういうのも好みだけれど🤗
でも『法隆寺』に記載された五重塔の水煙よりも短い。なんでやろ😵 でも『日本古建築細部語彙 社寺篇』の図版には、この水煙と同じものが写っている🤔
反花の上には雷除けの鎌が👀

近寄って軒先だけを写してみる。

隅部を裳階の軒から。
実際は木材に胡粉が塗られているので白く見えたが、写真になると透明なプラスティックの屋根のよう。
この裳階は奈良時代に付け加えられたという。
初層の垂木には木口には透彫の金具がよく残っている。
太く力強い蔓草文様
雲肘木の木口にはもっと細かい文様の透かし金具
初層と裳階の間で踏ん張る北西の邪鬼は、花冠のようにギザギザ眉とくりくり髪が額を囲っている
みごとな透彫の金具をつけた尾垂木を肩で一身に支える邪鬼。
北東側の邪鬼は両手で尾垂木を支える。
南東側の邪鬼は、なんと、頭で尾垂木を支えるなど、一体一体の荷重の受け方を変えている。
裳階が奈良時代のものなら、この邪鬼たちも奈良時代の製作ということになる。

五重塔初層には釈迦や初期の信仰に関する場面が塑造で表現されている。光の当たり具合や、何よりも金網に遮られて、よくは見えない。

東面 維摩詰像土
同書は、病の維摩居士を文殊が訪ね、「法」について問答する。それを聞こうとして、仏弟子たちが集まった場面を表現しているという。
敦煌莫高窟などでも壁画で維摩詰の場面はあったが、敦煌莫高窟中の維摩詰経変は、維摩詰経変が江南、中原から西漸して敦煌に伝えられる頃は、まさに中国の歴史が隋の統一王朝に入った時期であったという。
法隆寺五重塔初層東面 維摩詰像土 『法隆寺』より

北面 
涅槃像土
同書は、涅槃に入ろうとする釈迦が横たわり、名医の耆婆が脈をとり、取り囲む菩薩や仏弟子たちが箕をよじり、胸を叩き、慟哭して哀悼する光景を表現しているという。
法隆寺五重塔初層北面 涅槃像土 『法隆寺』より

上の場面、釈迦の足もとの背後には、他の弟子たちと同じように阿修羅が正座している。日月を持っていたかどうかは記されていない。
中国の慶陽北石窟寺165窟の阿修羅像(北魏時代)では、阿修羅は台の上に結跏趺坐しているので、場面に応じて立像だったり、坐像だったりするのだ。
法隆寺五重塔初層北面 阿修羅像 『法隆寺』より

西面 
分舎利仏土
同書は、象徴的に置かれた棺と舎利容器が、周囲の群像とともに釈迦の荼毘と分舎利の情景を表現しているという。
法隆寺五重塔初層西面 分舎利仏土 『法隆寺』より

塔の心柱は推古2年(594)に伐採されたもの。
五重塔心柱 法隆寺 日本美術の黎明展図録より

舎利容器
左端の透彫の2点は入れ子になっていて、緑色のガラス容器に仏陀の舎利が入っているはず。
法隆寺五重塔 地下に納置されている舎利容器(模造) 『法隆寺』より

南面 弥勒浄土
同書は、釈迦が入滅して五十六億七千万年後に、再びこの世に出現して衆生を救うという弥勒菩薩の説法の場面であるという。
法隆寺五重塔初層南面 弥勒像土 『法隆寺』より

         磯長谷古墳群←     →法隆寺 金堂

関連項目

参考サイト

参考文献
「日本古建築細部語彙 社寺篇」 綜芸舎編集部 1970年 綜芸舎
「法隆寺」くるみ企画室 2006年 法隆寺発行
「国宝法隆寺展図録」 東京国立博物館・奈良国立博物館・法隆寺・NHK他 1994年 小学館