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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2022/09/23

丸岡城と笏谷石


丸岡城は山城から平城になった最初の城ということで、その最初がどんなのかを見たいと思っていた。それがやっと実現したのが2022年の初夏の頃。

左端に天守閣の屋根だけが見えている。

耐震工事で屋根が見られないかもと思いながら到着したが、広大な駐車場から屋根が見えたので一安心。


瓦は石製だがしゃちほこは木彫銅板張り。
入母屋破風のところだけ、軒丸瓦と軒平瓦を合体させたような瓦が並んでいる。調べてみると万十軒瓦というらしい。


現在は天守閣しか残っていないので小さく見える。それに天守閣入口も石段も中央ではなく左端(南)にある。備中松山城もそうだったけれど。


丸岡城古絵図(説明パネルより)
川から引かれた水路が複雑に通り、その中心には変則的な五角形の池に島があるような・・・
説明パネルは、正保元年(1644)頃に作成された丸岡城の絵図です。五角形の内堀が描かれ、その中心部に島のように配置された華型の本丸、その北側に二の丸があります。三の丸は、本丸と二の丸を包む五角形の内堀を外側から完全に包み込むように配置されています
という。
池ではなく内堀だった。
昔の日本の地図は四方から文字が書き込んである。そして、本丸に天守閣が描かれているので、この地図は上下このように見るのが正解なのだが、北側が上を向いていないといやな私は、ひっくり返したい。で、そうすると、天守閣が逆さまになるので、やはり妙に感じる。
丸岡城古地図 説明パネルより

水色で囲われた現在の丸岡城と比較してご覧くださいというが、Google Map で見ると、天守閣の石段はほぼ東向き。
現在の丸岡城説明パネルより

天守閣の中にあったジオラマ

とはいうものの、私も石段を右向きに写していなかった😆



天守閣内にはこんな写真もあった。
廃藩置県で売りに出された頃の丸岡城。平城というよりも平山城のようだが、それは濠の水がないから? 


石垣には形を整えていない石が積まれている。それでも角は大きな石を使っている。
『名城の石垣図鑑』は、天守台の石垣は、自然石をそのまま積んだ豪放な野面積。
2重3階、高さ約12mの天守を支える石垣は、自然石を積み上げて構築された。高さは約6m。
比較的隙間が大きいことから排水に優れ、大雨に見舞われても崩れることはない。近年、天守台南面の地下から張り出し部の石垣が発掘されたという。
滋賀の穴太積よりも以前のもの?


『名城の石垣図鑑』は、天正4年(1576)、柴田勝家の甥にあたる勝豊は、北庄城の支城として丸岡城を築いた。その後、慶長18年(1613)に入城した本多成重によって改修が行なわれ、このときに現存する天守が創建されたと考えられている。
かつて城を取り囲んでいた内堀は埋め立てられてすでにないが、天守と石垣は現存している。
なお、福井城同様、福井地震で崩落したが、積み直されたという。

また現地の説明パネルは、天正4(1576)年、柴田勝家の養子である勝豊が築城した平山城で別名霞ヶ城と云う。
天守閣は昭和9(1934)年、国宝に指定されたが昭和23(1948)年の福井大震災により倒壊。昭和25(1950)年文化財保護法の施行により重要文化財に指定され、元の古材を使用し昭和30(1955)年に修復再建された。
現存天守閣12の中で最も古い建築様式であり、外観は上層望楼を形成し、通し柱が無く1層は2階3階の支台となっている。屋根がすべて石瓦で葺がれているのも特徴であるという。


石瓦と鬼瓦
説明パネルは、この天守の屋根は笏谷石(しゃくだにいし、福井産の緑色凝灰岩)を石が加工した瓦で葺かれています。天守にかかる重さは100トン以上ですが、強い風雨や冬の寒さに天守が耐えてきたのは、この石によるのでしょう。
一階屋根の東西の棟の鬼瓦も笏谷石の彫刻で、東側の鬼は口を開き西側の鬼は口を閉じる阿吽の対になっています。石瓦もこの鬼瓦も丸岡城固有のものですという。
丸岡城天守閣石製鬼瓦 説明パネルより

東破風鬼瓦(阿形)
下から見上げると口が隠れて阿形がよく見えない。


天守外観
丸岡城天守閣外観 説明パネルより


石段の脇には地震で落下した石製のしゃちほこが置かれている。
説明パネルは、木彫銅板張りであったものを、昭和15-17年の修理の際に、石製の鯱に改めたものです。その当時は、戦禍中で銅板の入手が困難であったため、やむなく天守閣の石瓦同質の石材で、つくりかえられたものですが、この石製の鯱も昭和23年6月の福井大震災により落下、現在のような形で残っているものです。
現在天守閣の上にのっている鯱は、昭和27-30年り修復時に、もとの木彫銅板張りに復元したものですという。
第二次大戦中に作られたものだった。

背面



天守閣へ。
『名城の石垣図鑑』は、内部に雨水が入らないよう、天守との境に腰庇が巡らされているところに特徴を見出せるという。

入口より石段を見下ろす。



1階内部
入ったら急な階段が目に入った。両側にロープが付けてあるくらいだが、今までに見た天守閣の階段はみな急だった。梯子に板がついているみたい。
それは素早く駆け上がるために必要だったのだろうが、当時の人は足腰が丈夫だっただろうし、現在の自分よりずっと若かったのだろうな。

身舎(もや 母屋)
説明パネルは、入側(通路)で囲まれた室内を身舎(母屋)といいます。この身舎は20坪(約66㎡)の長方形で、構造的には四部屋の形ですが、敷居も鴨居も引戸も入っていません。身舎の中央には天守を支える太い6本の柱が並んでいます。
これらは320年以上の古いもので、解体修理以前は、根っこの部分が1m程地中に埋められた掘立柱になっていましたという。
丸岡城天守閣身舎 説明パネルより

曲がった幹を利用した梁が、たくさんの角材を支えている。

笏谷石の丸瓦と平瓦
柔らかな凝灰岩。この石で古墳時代の石棺もつくられた。


2階
階段は離れて付けられている。

2階の東破風から外を眺める。すっきり晴れても白山(一般に加賀白山と呼ばれているが、越前の人々は越前白山と呼んでいると聞いたことがある)は見えないだろう。


笏谷石の瓦。風雨にさらされた瓦は鉄錆色だが、補修瓦は青っぽい。 


野面積の石垣と天守との境に巡らされた腰庇がこの階の窓から見える。


3階へ。
ロープはこんな引っ張り方をするのは危ないのだが、あまりにも急斜面なので、足元が見えない。


説明パネルは、三階はこの天守の最上階で、外壁は柱を外に見せる塗り、周りに欄干のある縁側をつけた古風な造りです。広さは二階と同じです。
部屋中央の2本の柱は二階とつながっていません。長押には飾り金具がついていますが天井板は張られず屋根の骨組がみえています。四方の大きい窓からは全ての方角の景色が見え、戦では敵味方の動きがよく捉えられたと思いますという。
丸岡城天守閣外観 説明パネルより

太い梁や桁。

その上に細い柱がのっていて、高い屋根を支えている。下から柱が通っているのではなかった。
建築家ではなく数学者が設計したといわれているイスタンブールのアヤソフィアも、1階と2階の柱の位置がずれている。こちらは5世紀中葉の建物で、次の地震では倒壊するだろうと言われている。通し柱でなくても強度は保てるということか。


さてこれは東西どっちの鬼瓦だったかな?


真壁忠彦氏の『石棺から古墳時代を考える』は、越前で築かれた城の屋根に石瓦、石鬼が用いられた例は、柴田勝家の北庄城、福井大地震後に復元した丸岡城などが有名であり、結城秀康による1601(慶長6)年の福井城造営は、笏谷石の切石による大がかりな石垣工事であったという。

笏谷石は古墳時代の石棺に使われていたことはで知っていた。
同書は、福井市の中心部に近い独立丘陵、足羽山は公園となり、市立の博物館もあるから、越前福井へ遊び、この丘に登る人は多い。その一角、笏谷で切り出される淡青緑色ないし紫色の凝灰岩は、軟らかくきめが細かく、加工しやすい石材である。
現在でも切り出しが続いている。近世、近代の墓塔をはじめ、社寺でみかける玉垣、石灯籠、石碑、石槽、狛犬、鳥居、石段、敷石など、また、一般生活の中で、家の屋根棟石、井戸枠、炉ぶち、流し、水槽、手洗鉢、臼、こたつの火袋など多様な用途に用いられた。また、仏像などの彫刻材料でもあり、1883(明治16)年から2年がかりで、足羽山の山頂に建てられた巨大な継体天皇像などは、笏谷石の近代石造品として有名であるという。
福井市足羽山の笏谷石露頭  『石棺から古墳時代を考える』より

福井市足羽山小山谷出土の笏谷石製石棺
同書は、こうした優秀な加工用石材である笏谷石は、越前平野の有力古墳の棺として使用されている。舟形石棺の系統のものに限られるが、石棺分布地域としては古くから著名であるという。
同書は舟形石棺としているが、これは家形石棺ではないだろうか。
福井県のホームページの中に越前の刳抜式石棺の編年と他地域の影響という記事があり、小山谷出土の笏谷石製石棺には、牛ヶ島出土の石棺と同じ古い時期の石棺と、蓋が家形で身が舟形の石棺は新しいというようなことが記されている。下の写真の石棺はその新しい方だろう。
古い書籍なので笏谷石の色がわからなかった。
福井市足羽山小山谷出土の笏谷石家形石棺 『石棺から古墳時代を考える』より


嬉しいことはに、天守閣の近くに笏谷石製の石棺があるということを知り、最後に行ってみた。

牛ヶ島石棺  刳抜式舟形石棺 火山礫凝灰岩(緑色凝灰岩) 
棺身(主体) 外形 長さ2.12m 幅0.53-0.75m 高さ 0.33m
       内法 長さ1.72m 幅0.27-0.43m 高さ 0.15m
説明パネルは、丸岡町牛ヶ島の東方にあった古墳(御野山古墳)から出土したと伝えられる、古墳時代前期後半-中期前半(今から約1600年前)の刳抜剣技式舟形石棺です。
牛ケ島石棺は橋として転用されていたものを昭和45年(1970)に現在の場所に移しました。 
県内の他の石棺と比べ全体が細長く、短辺の外面は丸みが強い特徴があります。石棺はノミなどで整形したのち、丁寧に磨いて仕上げています。これらの特徴から、福井県内でも最も古い時期の刳抜式舟形石棺と考えられています。また、棺の蓋・身(本体)の長辺・短辺ともに円形の繩掛突起があり(一部は欠損)、棺の取り外しや持ち運びに使用されたと考えられています。福井県内では、刳抜式舟形石棺の使用は当時の有力首長層の古墳に限られることから、牛ケ島石棺の被葬者は有力な首長層であったと想定されますという。
蓋の刳りの幅から、左側が頭部、右側が脚部と判断。蓋の側面に2つずつ、脚側に一つの縄掛け突起があるが、棺身の脚側には縄掛け突起がない。

蓋の頭側にも身の頭側にも縄掛け突起が一つずつ残っている。


足羽山の笏谷石採石場は見学できる時もあるみたい。採石場って格好ええよなあ🤩
機会があればもちろん参加してみたい。



また同書は、福井市西南郊外、戦国大名越前朝倉氏が居館をおいた一乗谷とその周辺には、16世紀を中心にして、笏谷石の石塔と石仏が3000もあるといわれ、1967(昭和42)年以来20余年にわたり継続している一乗谷遺跡の発掘調査では、生活にかかわる多種多量な笏谷石製品が出土しているという。
見学していた時は気にも留めなかったが、確かに井戸枠に笏谷石が使われているのが写真で確認できた。



関連項目

参考サイト
福井県のホームページの中に越前の刳抜式石棺の編年と他地域の影響

参考文献
「名城の石垣図鑑」  監修小和田哲男 2020年 株式会社二見書房
「石棺から古墳時代を考える 型と材質が表す勢力分布」 真壁忠彦 1994年 同朋舎出版

2019/08/30

アクアライナーでちょこっと水の都大阪めぐり


大阪市立東洋陶磁美術館は中之島東部に位置している。
大阪駅から大阪メトロ御堂筋線で一駅の淀屋橋下車。土佐堀川に架かる淀屋橋を渡って中之島へ。高い木々の下を通って美術館に行くのだが、その度に対岸の水上バス乗り場が気になっていた。
そしてやっと今回、遂に猛暑にも負けず、アクアライナーで大阪の川をめぐりを果たした。
Google Earthより(文字が小さすぎて読めませんが😅)

美術館を後にして栴檀木橋を渡っていると、複数のボートが大阪湾方面へと走って行く。
栴檀木橋からは、フェスティバルホールのあるフェスティバルタワーと、西側の中之島香雪美術館が入るフェスティバルタワー・ウエストも見えている。東洋陶磁と中之島香雪を同日に行ったことはないのだが、徒歩範囲ですな。
正午近くに橋を渡って道路の北側を歩くと、日陰というものが全くなくて、強烈な暑さで、市役所前の道を通らなかったことを後悔した。
アクアライナーがやってくる間にもいろんなボートが往来する。
遂に栴檀木橋をくぐってやってきた。遠くの山は生駒山地で、大阪と奈良の境界線。その名称が気に入っている暗峠がある。
待っている間にも伊丹に向けて飛行機が2機かなりの低空を通り過ぎていく。
ドームは中之島図書館
後方より乗り込んだが、指定席は前の方だった。


すぐに出発。まず栴檀木橋をくぐって、
小さな長方形タイルで菱形をつくった壁面や半円アーチ、古くはなさそうだが、趣のある建物は教会?
難波橋の袂にはライオンが寝そべっていたり
TEAという二階建ての建物にはティーポットが飾られていたり、
阪神高速をくぐると狭い水路が。
それは東横堀川だという。
秀吉が大坂城の西に造った堀川とか。

続いて現れたレトロな建物は LE PONT DE CIEL 空の橋。大正モダニズムの大林組の本社ビルだったらしいが、現在はフレンチ・レストランになっているとか。
次の天神橋を見上げていると、向こうの建物の外壁に落書き発見😎
一対の常夜灯は、形はレトロだが、新しい感じ。その先が京阪天神橋駅
天神橋駅の手前には川の駅「はちけんや」、八軒家浜船着場。
ちょうど船がいて、降りて去る客と乗り込む客が。道頓堀川を通るコースのよう。
天満橋の向こうにも船着場。川沿いは京阪の建物が続く。

すぐ向こうが大川に寝屋川が合流するところ。テレビ大阪や日経新聞社の赤茶色の建物を通り過ぎた。
すぐに自転車や人だけが通行できる斜張橋をくぐり、両岸一帯が緑地になっていて、桜の木も多かった。この奥は広大な藤田邸跡公園になっていて、現在改築中の藤田美術館もある。
船着場でもなさそう。
また飛行機通過。

国道1号線の桜宮橋をくぐると、
ボートの免許教室なるものがあったり、
ボート置き場も。
そしてここにも甲羅干しをしている人が。

ガラスに反射してよく見えないが、この向こうに砂浜があるのだった。大阪ふれあいの水辺などと呼ばれている桜ノ宮ビーチ。
暑い中で遊んでいる人たちがいた。
アクアライナーはこの中に入っていくのかと思ったが、方向転換をしただけ。見えているのは源八橋。
反対側を眺めると、複数の橋越しに遠くに大阪城が見えた。
1931年に鉄筋コンクリートで再建された天守閣ではあるが。

アクアライナーは引き返し始めた。ここからは反対側の右岸を写していく。
先ほど追い越した作業船が追いついてきた。
OAP港には乗客がいないので寄らなかった。
ボートを漕いでいる場面には合わなかったが、練習する人はいるみたい。
一号線の桜橋近くに、こんなレンガ造の塔のようなものがポツンとあった。中は階段になっていて、かつては桜橋に行き来できたらしい。
続いて造幣局。
この辺りが桜の通り抜けができるところ。

屋形船もあった。
中之島方面

その手前で左折して京阪電車の鉄橋をくぐる
運良く電車がやってきた。
しかも8000系ダブルデッカー。今度のはピントが合って良かった🤩

寝屋川橋を過ぎてすぐに蔓草絡まり放題の京橋と歩道橋下を通過。
この付近の陸地に秀吉大阪城石垣や門の跡があるらしい。暑くない時に歩いてみたい石垣好き。
ここから石垣が続くが、樹木の間から見えるのは旧大阪砲兵工廠化学分析場。
こんな表示も。
やがて第二寝屋川に入る。
下の方の石は古そうだけど、排水口より上は修復されているみたい。
新鴫野橋をくぐったところで天守閣が見えた。
砲兵工廠荷揚げ門

明治に造られたという。
やがて大阪城港に到着。
こんなに乗っていたの?と思うくらい沢山の人が下船していく。その後もまた、大勢の人たちが乗り込んできた。
地下鉄ではなく、こんな大阪城へのアクセスもアリなのだ。
乗降に時間がかかったので、新鴫野橋の向こうで大阪城-道頓堀のミニクルーズ船が待機していた。屋根がないのでさぞ暑いだろうとは、エアコンの効いたアクアライナーのとある乗客のコメント。
松下IMPホールやクリスタルタワーを見上げながら大阪城新橋を通過。
第二寝屋川と寝屋川の合流点へ、
そして大川へと戻った。すぐ上には歩道の斜張橋、川崎橋
その上に再び飛行機が。
右岸の緑地は南天満公園
中之島の右は大川
中之島の東端にある剣先噴水だが、水は出ていない。
アクアライナーは左の土佐堀川へ向かう。
天神橋をくぐっていると、派手な船がやってきた。
植物園かと思ったが、中之島公園
ばらぞの橋で島は繋がれている。
難波橋には記念碑のようなものが。石造の橋の名残かな。そう言えば、南側の袂にライオン像があったのが、この難波橋でした。
さきほどフィンランド陶芸展とマリメッコ・スピリッツ展を堪能した東洋陶磁美術館は何処?
このレンガ造りの横長の建物が東洋陶磁美術館。
続いて姿を現したのが大阪市中央公会堂、その隣の低いドームは府立中之島図書館。
そして終点の淀屋橋。
水際の目線から眺めた大阪の街。高層ビル群あり、緑地あり、石垣あり、お城ありと楽しいひとときだった。

手こぎ舟で近江八幡の水郷をめぐる←    →8月下旬に蕾があったキツネノカミソリ

関連項目
東洋陶磁美術館 マリメッコ・スピリッツ展に茶室