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2025/06/17

西安市安伽墓石棺床囲屏


「世界遺産 大シルクロード展」で中国に住み着いたソグド人の墓につくられた石堂(複製 北周 580年)をきっかけに、MIHO MUSEUM蔵棺床屏風や、太原虞弘墓出土の棺槨(隋 581-618)をみてきたので、今回は西安市未央区大明宮郷で発見された安伽墓出土の石棺牀について。

安伽墓平面図・断面図 西安市出土 北周、大象元年(579)
『ソグド人と東ユーラシアの文化交渉』は、西安で発見された墓に葬られていたのは、姑臧(現在の武威)で生まれ、北周大象元年(579)に62歳で没した安伽という人物である。安という姓は、ソグディアナのブハラ出身者が中国において名乗った姓であり、安伽はソグド系であることが知られる。
生前、同州(西安の北東約110㎞に位置する陝西省大荔県)薩保に就任している。薩保は「キャラヴァン・リーダー」を意味するソグド語のサールトパーウsārtpawを漢字で音写したものであるという。
西安市出土安伽墓平面図・断面図 579 ソグド人と東ユーラシアの文化交渉より

安伽墓出土石棺牀 北周大象元年(579)
同書は、墓室では、石製の台座と三点の石板が発見されている。石板の表面は、12枚の縦長のパネルに分割され、浅浮彫と彩色によって表されていた。
背面中央のパネルに表された男女は、安伽とその妻であると考えられる。
石棺床囲屏は、前に4本、後ろに3本の脚によって支えられた石板1枚の上に、正面奥と左右端に3枚の石板をのせて立て、石板は三方を「形に囲むように屏風を構成していた。画幅の数は、左右が各3幅、 正面が6幅、合計12幅から成り、各幅は画像を浮彫りしたうえに濃い彩色が施され、おのおの枠で囲んで互いに独立した画像を成していたという。
図版はこれしかないが、様々な行事の場面が描かれているらしいことは想像できる。そして墓室は塼(焼成レンガ)で築かれている。

左端より時計回りに石板浮彫に番号を付けた。
西安市安伽墓出土葬具石板浮彫 579年 ソグド人の美術と言語より


同書は、12幅の画像の内容は、他の石棺床囲屏の場合も考え合わせ、宴飲楽舞図、墓主夫婦図、狩猟図、出行図、隊商図、その他の図の六つに大きく分かれ、一幅に複数の図が描かれる場合もある。
石棺床囲屏を構成するうえで、❶牛車と⓬騎馬の出行図は特別な意味的役割を担っているものと考えられる。両図は、左右屏風の手前の端に位置して向き合い、牛車と騎馬はともに墓室入り口の方を向いているという。

❶女墓主の牛車出行図
上半 この画面の主役は幔幕のおりた豪華な牛車であり、女性は牛車に乗るという当時の慣例に従って中に女主人が乗っているものと考えられるという。
女墓主は姿を描かれない
下半 手前の騎馬の女性二人はこの女主人にかしづく侍女に違いないという。
馬上の侍女二人の衣装は中国風。2名の侍者は侍女とは違う型の帽子を被っている。
西安市安伽墓出土葬具石板浮彫 579年 ソグド人の美術と言語より


❷狩猟図
上半、下半ともに狩猟図だが、向きが反対。野原での狩猟のように見えるが、上端には塀が見えているのだろうか。それとも遠くの山々?
西安市安伽墓出土葬具石板浮彫 579年 ソグド人の美術と言語より


❸野外の宴飲楽舞図
やはり上端には二段のギザギザが描かれている。ユルタを設営するのは邸宅の庭ではないはずなので、囲壁ではなく山並みを表しているのだろう。
 上半 ユルタは縮絨したフェルトを張るが、ここでは虎の皮を張ったようなユルタに表されている。その中に墓主はいるのだろうか・・・奥で正面向きの人物だったりして。いやソグド帽を被っていない。
 下半 追われて逃げる草食獣に混じってトラもいる。
西安市安伽墓出土葬具石板浮彫 579年 ソグド人の美術と言語より


❹野外の宴飲楽舞図
上半 ユルタよりも大きなテントだろうか。奥には髪の長い人たち(突厥人)と安家の侍者と同じ型の帽子を被った人たち。手前には突厥人の楽士とソグドの帽子を被った箜篌を弾く楽士、いやこれが墓主の安伽かも。
下半 胡騰舞する人物と、饗応の酒や料理を運ぶ人たち。
西安市安伽墓出土葬具石板浮彫 579年 ソグド人の美術と言語より


❺上半 野外の宴飲楽舞図 青年期の墓主
墓主と思われる帽子の男性が野外の樹下に絨毯を敷いて楕円球状のものにもたれて坐し、三人の楽人の演奏に合わせて踊る小人(侏儒)二人の胡騰舞などをみながら、後ろに控えた四人の童僕による酒食の饗応を受けている。墓主は細面のスリムな青年に描かれているという。
下半 狩猟図
青年時代の墓主がライオンを仕留めている。
西安市安伽墓出土葬具石板浮彫 579年 ソグド人の美術と言語より

上半 青年期の墓主
西安市安伽墓出土葬具石板浮彫 579年 ソグド人の美術と言語より

下半 ライオンを狩る青年期の墓主
西安市安伽墓出土葬具石板浮彫 579年 ソグド人の美術と言語より


❻ 墓主夫婦図 初老期の墓主夫妻 
正面屏風の中央に位置すべきものとして、他の宴飲楽舞図とははっきり区別される。
手前の小川に橋を架けて、その奥に構えた中国風の豪壮な建物内に、墓の男主人が女主人とともに牀の上に坐して互いに杯を手に語らい合い、建物の外には酒壷を抱えた童僕一人と団扇を持った侍女二人が控える光景が描かれている。
墓主は丸顔の腹も出て恰幅の良い初老風に描かれるという。
墓主夫婦が一緒に建物の中に描かれるのは、史君墓石堂にもあった。MIHO MUSEUM蔵棺床屏風(6世紀後半-7世紀前半)では婚礼の饗宴とされているが、高齢の男女が並んでいる。太原虞弘墓の棺槨にはひときわ広い画面が安伽墓同様正面に置かれて、夫妻が広いテントの中央に坐り、饗宴を楽しんでいる。
また、屋根には鴟尾があって、北周期の建物の特徴がよく描かれている。鴟尾や軒の三斗・人字形蟇股は、雲崗石窟第12窟東壁の仏殿にすでに現れ、法隆寺にも採り入れられた。法隆寺の鴟尾は断片しか残っていないが、玉虫厨子(飛鳥時代、7世紀)にも鴟尾がある。
西安市安伽墓出土葬具石板浮彫 579年 ソグド人の美術と言語より


❼ソグド帽を被った墓主と長い髪を結ぶことなく背中に垂らした突厥人との挨拶
 上半 馬上で墓主と突厥人が友好的に挨拶を交わし合うという異色の図
 下半 突厥人のテントに招かれた墓主。
西安市安伽墓出土葬具石板浮彫 579年 ソグド人の美術と言語より


❽荷を積む駱駝や馬を外に置き異民族のテント内でもてなされる光景という。
上半 ユルタの中で突厥人に饗応される墓主
だいぶふっくらしてきた。
下半 隊商する墓主が食事をしている間に休む侍者たちとラクダや馬。馬の背にはユルタと同じ虎の皮の鞍褥を掛けている。
西安市安伽墓出土葬具石板浮彫 579年 ソグド人の美術と言語より


❾ 宴飲舞楽図 壮年期の墓主
ひときわ大きく描かれた墓主は頑健な体躯の壮年に描かれているという。
上半 テントで突厥人にもてなされるソグド帽の墓主
下半 胡騰舞する人と取り囲む人たち。❹にも同じ場面があったが、饗応の三角形や料理を持っているのではなく、頭に乗せて踊る道具を持っているのかも。
西安市安伽墓出土葬具石板浮彫 579年 ソグド人の美術と言語より


➓ 狩猟図
大小の動物たちを追って同じ方向に馬を走らせる人たち。その中には長い髪の突厥人と、白い帽子を被る者や、鉢巻のリボンを風に靡かせる人物もいる。
このように安伽は、ことのほか突厥人との交流を多く描いた。
それについて『ソグド人の美術と言語』は、突厥はトルコ系の遊牧部族で、6世紀に勃興するや、アルタイ山脈の南西麓にいた阿史那氏の土門は、552年、それまでモンゴル高原を支配していた柔然を倒し、伊利可汗と称してモンゴリアの遊牧騎馬民族を統合した。一方、 弟の室点蜜は、567年、それまでヒンドゥークシュ山脈南北の中央アジアに大勢力を築いていたエフタルを滅ぼして、ソグドの本拠地ソグディアナを占領し、西面可汗と称して天山山脈中のユルドゥズ渓谷を本拠に中央アジアを掌握した。
ソグドはこの突厥に占領支配されたにもかかわらず、突厥との関係は友好的、かつ密接であった。突厥はソグド人の交易商人としての商才、経済力と、中国を含めたユーラシア全域をおおう植民聚落のネットワークを必要としたのに対し、ソグドは独自のネットワークを維持するために遊牧騎馬民族としての突厥の軍事力の庇護を必要とし、互いに持ちつ持たれつの共存共栄の関係にあったからであるという。
西安市安伽墓出土葬具石板浮彫 579年 ソグド人の美術と言語より


⓫野外の宴飲楽舞図
上半 黒帽の人物に歓待される墓主
下半 白帽の楽士と胡騰舞する人物。右端には仕切りの中で食べ物の準備をする人。
西安市安伽墓出土葬具石板浮彫 579年 ソグド人の美術と言語より


⓬上半 男墓主の騎馬出行図
上段手前に牛車一輌と牛牽きが配されているが、これは荷物を運搬する牛車に過ぎず、主役はその奥の馬に騎乗した墓主と思われる男性であり、従者二人が後ろに従い傘蓋を男性の頭上に差し掛けているという。
 下半 チンワト橋
更にこの図では手前に橋が架けられており、橋のたもとには、裸の幼児を中に、上段の騎馬出行図に登場した墓主と従者二人が右側に、女主人と侍女二人が左側に配されており、後者の侍女は❶牛車出行図に登場した騎馬の侍女と同じであるところから、この女主人も牛車に乗っていた女主人と同一と考えられるという。
子供の姿は審判が下されて天国に向かう墓主ではなかったかな。 裸の人間については次回
西安市安伽墓出土葬具石板浮彫 579年 ソグド人の美術と言語より

安伽墓の石板浮彫には墓主が何度も描かれている。それについて『ソグド人の美術と言語』は、これらの画面はさまざまの年代の墓主を表しており、あたかも墓主の生涯を綴ったような体裁をなしているという。


安伽墓の浮彫と伝安陽出土葬具石板浮彫に表されたソグド人に共通する帽子
『ソグド人の美術と言語』は、安伽の遺体を置くためのベッドの周りにめぐらされた屏風状の石板には、安伽の生前の暮らしぶりが、精緻な浮彫で表わされる。主人公である安伽は何度も登場するのだが、いつでも白い帽子をかぶっている。東方に移住したソグド人の集落について数々の研究論文を発表している栄新江は、この白い帽子が、「薩保」であることを象徴するものであるとみなしている。
男性は胡座し、台形の白い帽子をかぶっている。騎馬出行や狩猟、突厥の首領を迎える場面の中心人物も、 同じ形の白い帽子をかぶっているという。
薩保の帽子 ソグド人と東ユーラシアの文化交渉より


安伽墓の墓門上部
同書は、安伽墓には、ゾロアスター教と関連し、石門の上の門額に興味深い図が浮彫濃彩で描かれている。 
中央の大きな蓮華座の上に三頭の駱駝が乗り、背中にのせた円形の盤の上では火が炎をあげて燃えさかっており、上方には彩雲が舞って、左右から琵琶を奏でる天人と箜篌を演奏する天人とが舞い降りている。
また駱駝の乗る蓮華座の左右には、花を挿した瓶や壷、大小の杯などを置いた供案(テーブル)が配され、その左右外側には、下半身に大きな翼と鋭い爪の双脚をもった半人半島の祭司が一人ずつ配され、口をマスクで覆い、両手で火箸を持って案上に向けている。更に左右下端には帽子を被った人物と長髪の人物がおり、各々前に香炉を置き、右側の帽子の人物は冊子を左手に、右手で香炉の蓋に触れ、何かを唱えている。
これは一名拝火教ともいわれるゾロアスター教の祭祀の光景を描いたもので、蓮華座の拝火壇に向かって、左右の半人半島の祭司が供物をささげ祭祀を執行し、上では天人によって聖なる音楽が奏でられ、下では供養者が香を焚き簡便な『アヴェスター』の経文を読み上げているものと解される。ゾロアスター教では火は最も神聖なものであり、汚さぬために祭司は口をマスク(パダム)で覆うのであるという。
半人半鳥についてはこちら
西安市安伽墓出土墓門上部石板浮彫 579年 ソグド人の美術と言語より



関連記事

参考文献
アジア遊学175「ソグド人と東ユーラシアの文化交渉より」森部豊編 2014年 勉誠出版
「ソグド人の美術と言語」 曽布川寛・古田豊 2011年 臨川書店

2025/05/27

MIHO MUSEUM蔵棺床屏風


「世界遺産 大シルクロード展」に展示されていた「史君墓石堂」は西安で暮らしていたソグド人の墓だった。MIHO MUSEUMで度々見ていたのは棺床屏風と呼ばれるもので、同じソグド人でも墓の形式はそれぞれだ。

棺床屏風 中国北部 北朝-隋時代 6世紀後半-7世紀前期 白大理石、顏料・金で着彩 浮彫パネル
『MIHO MUSEUM 南館図録』は、中国北部の墓で出土したというこの棺床屏風は、当初は今では失われた長方形の棺台の上に立てられていた。パネルは両側壁および後壁を形成し、前面の門柱は入口をかたどっていた。棺床は死者の遺体を乗せるために造られたもので、中国固有の家具、とりわけ儀礼用の長椅子および覆いの付いた寝台と非常によく似ている。
5世紀から7世紀にかけての中国北部および西北部の墓葬には、こうした棺床を墓の調度品の一部として用いる例が含まれている。墳墓は在世時の住居を再現してしばしば多室のものが造られ、棺床は死者の寝室にあたる墓内の後室に置かれた。
この珍しい石棺床が置かれていた墓に葬られていたのはだれだろうか。ゾロアスタ-教の葬儀であるサグディドの儀式を表した浮彫は重要な手掛かりを与えてくれる。ゾロアスタ-教徒であったソグド人は中国と中央アジアの間を往来した主要な商人であった。彼らはまた中国に恒久的な共同体を設立し、当時、主に鮮卑族と漢民族で構成されていた地方の住民と国際結婚した。この棺床が中国で死んだある中央アジア人(最も可能性が高いのはソグド人)の遺骨を置くための場所であったとみなすことはできるだろうかという。
現在の中央アジアには現在、ウズベク族、キルギス族などテュルク系の人々が多く暮らし国名にもなっているが、当時は東アーリア系のソグド人が暮らしていた。
MIHO MUSEUM蔵棺床屏風 6世紀後半-7世紀前半 MIHO MUSEUM南館図録より


同図録は、門柱は中国建築に典型的にみられる諸特徴(隅棟の造られた屋根をもつ二重の塔、おのおのの頂部両端に付いた特徴的な鉤状の突起など)を示している。
中央アジア人と鮮卑人の男性が計4人浮彫で表されており、そのうちの一人は騎手のいない馬を引いているという。
馬から下りた人物が墓主で、中に遺骨が安置されているということを表しているのかな。
MIHO MUSEUM蔵棺床屏風 6世紀後半-7世紀前半 MIHO MUSEUM南館図録より


A 狩猟 エフタル人
4人の馬に乗った射手が逃げる獲物に向かって矢を放つ、狩猟の場面である。この射手はササン朝のイランの銀製の皿に表された多くの狩猟を行う王の像を想起させる。これらササン朝の王の像は、王冠の後ろに翻るリボンが特徴的である。
秀明コレクションのパネルの狩猟者のうちの二人も翻った長いリボンをつけているが、その服装と顔付きから、彼らがイラン人ではないことがわかる。その顔付きの特徴と偏平な頭部はエフタル人に似ている。エフタル人は好戦的な民族で、5世紀にササン朝ペルシアを打ち破り、それに続く約100年間にわたってソグディアナを含む中央アジアを支配した。これに似た形の頭部をもつ人物像はエフタルの金工品に現れるという。
東方アーリア系のソグド人だと思って見ていたが、エフタル人だったとは。でも何故エフタル人がソグド人の墓の浮彫に登場するのだろう。
MIHO MUSEUM蔵棺床屏風 6世紀後半-7世紀前半 MIHO MUSEUM南館図録より


B 騎馬と葬送 ソグド人かテュルク系
上段に二人の騎馬人物が見える。彼らはトルコ帽のような高い帽子をかぶり、中央アジアおよびトルコ系民族が典型的に身に着けている二重の襟の付いた上着を着けている。下方には人の乗っていない馬が大きな傘の下に立っており、その背後に4人の人物がいる。その左にはもう一人の人物が馬の前にひざまずき、馬に向けて杯を差し上げている。
上方の二人の騎馬人物は右へ向かって進むのに対し、 下方の騎手のいない馬は左に顔を向けている。騎手のいない馬は中国の墳墓美術、とりわけ5世紀と6世紀のものにみられるという。
次に登場したのはソグド人かテュルク系というが、左の人物はGの墓主に似た帽子を被っている。違いは顎髭があることだ。
墓主の馬に跪いて杯を差し上げるというのは何を意味しているのだろう。
MIHO MUSEUM蔵棺床屏風 6世紀後半-7世紀前半 MIHO MUSEUM南館図録より


C 野営と狩猟 テュルク系
野営の場面である。大きな人物が一人ド-ム型のテントのなかにおり、召使たちの供応をうけている。下方では一団の騎馬人物が狩猟を行っている。このド-ム型のテントはトルコ系民族の間で現在も用いられている折り畳み式のフェルトの家ユルト(包)である。この人物群はユルトからトルコ人に比定されるだけでなく、その髪型、長い髪を分けてお下げないしは房の状態にし(首のところで束ねる)もこうした遊牧民の特徴を示している。同様の長髪の人物は外国からの使節を描いたサマルカンドの壁画の中にも現れ、彼らは壁画の上にじかに書かれた銘文からトルコ人に比定できるという。
次の場面もテュルク系の人々という。長い髪を結わえて背中に垂らすのは、アフラシアブの丘の宮殿跡出土の壁画にも描かれ、西突厥人とされている。
MIHO MUSEUM蔵棺床屏風 6世紀後半-7世紀前半 MIHO MUSEUM南館図録より


D 騎馬のテュルク系、ラクダを使うソグド人たちの隊商
背中に品物を積んだ1頭の駱駝が表され、馬の背に乗った長髪のトルコ人たちが付き従っている。駱駝は中央アジアと中国を結ぶシルクロ-ドを往来した商品の主たる輸送手段であった。駱駝の重要性は当時の墳墓美術にも反映されるという。
馬に乗っているのはC図の人たちと同じ髪型なのでテュルク系だが、ラクダの傍にいる頭巾のようなものを被っているのは隊商のソグド人だろう。やっとここでソグド人が登場した。
MIHO MUSEUM蔵棺床屏風 6世紀後半-7世紀前半 MIHO MUSEUM南館図録より


E 婚礼の饗宴 中央アジア人(ソグド人)と中国人の婚礼と楽隊
堂々とした髭のある中央アジア人の紳士と中央アジア人ではない女性(漢民族である可能性が最も高い)の婚礼の饗宴の場面である。彼らは中国の長椅子ないし牀の上に座し、乾杯している。夫妻の前では婚礼の祝宴の一部として、楽隊が音楽を奏で、舞人が舞っている。
当パネルのこの部分は中央アジアとの間の接点を示す点で非常に重要である。楽隊と精力的に動く舞人は6世紀から9世紀、 北斉から唐にかけての中国で生産された陶製のピルグリムフラスコ (扁壺)に繰り返し現れる図像であるという。
中国の長椅子ないし牀の上にはユルトのようなドーム状の盛り上がりがあり、その下で婚礼の儀式が行われて、Cのユルタの中にいる人とは別の人物が主人公になっている。
MIHO MUSEUM蔵棺床屏風 6世紀後半-7世紀前半 MIHO MUSEUM南館図録より


F 棺床屏風の正面中央 ゾロアスター教の葬儀(サグディド)
上下2段の場面で構成される。上段中央にはパダム(ゾロアスタ-教の司祭が聖火をけがさないよう身に着ける白いヴェ-ル)を着た一人の人物が祭火壇の前に立っている。彼の側にはサグディドと呼ばれるゾロアスタ-教の葬儀で、中心的な役割を演ずる1匹の犬がいる。この儀式において犬は死者の遺体を見つめることになっていたという。
拝火壇の前には橋が少しだけ見える。ラクダに乗って墓主はチンワト橋を渡っていき、後方ではその死を嘆き悲しんで、自分の顔にナイフの刃を向けている人たちがいる。
下段は逆向きで、馬から下りて両手を前で組む人たちは葬儀に駆けつけたことを示しているのだろうか。
MIHO MUSEUM蔵棺床屏風 6世紀後半-7世紀前半 MIHO MUSEUM南館図録より


2本の小刀で胸を突く人物
敦煌莫高窟第158窟(中唐、781-848)では大きな涅槃像の背後に当たる西壁に、2本の小刀で胸を突く人物が描かれていて、その被る帽子からキルギス人(当時現在よりも中国に近いところで暮らしていた)とされている。顔と胸では違う民族かも。


G 天国の墓主 ソグド人、テュルク系
再度宴会を表している場面で、死者自身を表現している可能性が最も高い。 一人の大きな中央アジア人が宙に浮かんだ壮麗な天蓋の下に脚を組んで座り、この天蓋が彼の高い地位を示している。この天蓋は先端に宝珠とリボンの付いた蓮華を有し、中国仏教美術における浄土の場面の中心的な図像である精巧な天蓋を想起させる。この男性は杯をもち、両側に召使たちを従えているという。
これまで墓主かと思われる人物が複数登場したが、この人が墓主だった。
下段には顎髭をたくわえた深目高鼻の人たちもソグド人だろうか。
MIHO MUSEUM蔵棺床屏風 6世紀後半-7世紀前半 MIHO MUSEUM南館図録より


E・F・G(棺床屏風の正面中央部)
サグディドを表したパネルFおよびその両側の饗宴を表したEとGは、後壁の物理的な中心であるだけでなく棺床全体の視覚的中心となっているという。
MIHO MUSEUM蔵棺床屏風 6世紀後半-7世紀前半 MIHO MUSEUM南館図録より


H 騎乗の行進 テュルク系と中央アジア人(エフタル人)
馬に乗ったトルコ人および中央アジア人の行進の様子を表しているという。
髪型から前にいる二人はテュルク系と分かる。
葬儀を終えて帰る一団の奥の人物は宝珠とリボンの付いた蓮華ののる小さな天蓋を掲げている。他の鉢巻をした三人は、その顔貌の険しさからエフタル人のように思う。
MIHO MUSEUM蔵棺床屏風 6世紀後半-7世紀前半 MIHO MUSEUM南館図録より


I 象乗 エフタル人
象に乗ったエフタル人を表している。各パネルの中心人物の重要性(長髪のトルコ人および精巧な冠とリボンをつけたエフタル人)はその位置と頭の真上に差しかけれらた傘によって示されている。二人の貴人はいずれも右手を挙げ、人差し指を立てて拳を握っている。これはイラン・中央アジア世界においてよく知られた尊敬を表す身ぶりであるという。
誰に対して尊敬を表しているのだろう。Gの墓主だろうか。
MIHO MUSEUM蔵棺床屏風 6世紀後半-7世紀前半 MIHO MUSEUM南館図録より

この人差し指を立てて拳を握るという尊敬を表す身ぶりは、かなり古い時代にすでに描かれている。

トゥクルティ・ニヌルタ一世の祭壇 前13世紀後半 イラク、アッシュル出土 石膏石 高53㎝ ベルリン国立博物館西アジア美術館蔵
『世界美術大全集東洋編16 西アジア』は、右手にこの祭壇そのものとまったく同じ形をした祭壇が描写されており、その上に1本の棒が立っている。これは光の神ヌスクを表す一筋の閃光で、神の姿は直接には表現されていない。神を人間よりはるかに偉大な存在ととらえ、神と人とのあいだに大きな距離をおく宗教観は、セム人が優勢となってからのメソポタミアでは一般的であったが、アッシリアではとくにそれを強く意識していたと思われる。
トゥクルティ・ニヌルタ王は盛装して、まず立ったまま礼拝し、つぎに祭壇に近づいてひざまずき礼拝している。一人の人物が時間をずらして行った2回の動作を、同じ場面に配していることが注目されるという。
屏風の浮彫では左を向いているので手のひら側、この図では右を向いているので手の甲側だが、同じ手振りである。
アッシュル出土 トゥクルティ・ニヌルタ一世の祭壇 前13世紀後半 世界美術大全集東洋編16 西アジアより


J 1枚に二つの別の場面が横に並べられている。
MIHO MUSEUM蔵棺床屏風 6世紀後半-7世紀前半 MIHO MUSEUM南館図録より

左部分 女性は中国人、男性は中央アジア人
左側の場面においては、上下二つの騎馬人物のグル-プが反対方向に向けて動いている。上段においては、異常に高い頭飾をつけた中央アジア人でない女性が一人、二人の従者とともに左に向けて馬を進めている。
下方で右に向けて進むのは中央アジアの男性で、やはり二人の従者、および2頭の犬を従えている。その従者の一人は傘を持って彼の頭上に差しかけており、これがこの人物の地位の高さを示しているという。
この人がGの墓主と同一人物ではないのかな?
MIHO MUSEUM蔵棺床屏風 6世紀後半-7世紀前半 MIHO MUSEUM南館図録より

馬の房飾り
標識のもう一つは馬の首から垂れる房飾で、同様のものが上方の女性の馬の首にもぶら下がっており、彼女が重要人物であることを示しているという。
この馬の房飾りについては、かなり以前に『中国★美の十字路展』で見たことがある。

騎馬俑 隋、開皇17年(597) 山西省太原市斛律徹墓出土 山西省考古研究所蔵
『美の十字路展』は、儀仗騎馬兵の姿を表したもので、墓主人の乗る牛車を中心に前後に騎馬行列が並ぶ出行俑の一部をなす。兵は縁の反った帽子をかぶり、上衣には葉形の飾りを付けているという。
解説がそれだけだったので、羊毛でつくった房飾りだろうと推測していたが、身分の高さを表すものだったとは。

右部分
右半分に彫られた浮彫は天上と地上の二つの別の世界を表現しているとみられ、何らかの終末論的な意味をもっていると思われる。
上方の天上世界には四臂の女神が一人おり、2本の腕を上に挙げて日月を持ち、もう2本は二つの獅子の頭の飾りがある壁の上に置いている。この女神はナナに比定される。その図像はソグディアナおよびその北のホラズムの絵画、ストゥッコ、木彫、金工などに広い範囲でみられ、そこでは彼女は特に葬礼と関係が深かったという。
四臂の女神が日月を持っているとは。
MIHO MUSEUM蔵棺床屏風 6世紀後半-7世紀前半 MIHO MUSEUM南館図録より

彼女の像はいずれも獅子のいる台座の上、ないし直接獅子の上に座しており、4本の腕のうち2本で日月を象徴するものを持っている。このナナの像は東方にも伝わり、中国領東トルキスタンの仏教美術に現れる。彼女は恐らく仏教の菩薩とみられる下方の二人の従者に目を向けている。二人の従者はおのおの楽器を演奏し、蓮の花の上に立っているという。
ナナ及び菩薩たちの顔は中国人ぽい。
日月を持っているのは東トルキスタンだけではなく、北魏時代の雲崗石窟、甘粛省慶陽北石窟寺、山東省青洲市の龍興寺遺跡や広饒県埠城店、西魏時代の敦煌莫高窟、唐時代の陝西省の彬県大仏寺にも見られる。それについてはこちら
ただし、これまで日月を持つものは山東省独特のもので、それが中国内に広まったのかと思っていた。
MIHO MUSEUM蔵棺床屏風 6世紀後半-7世紀前半 MIHO MUSEUM南館図録より


ところがソグディアナから南西に2000㎞ほど離れたイランのスーサで出土したクドゥル(境界石)には月と太陽のシンボルが浮彫されている。

メリシパク二世の大クドゥッル 前12世紀 イラン、スーサ出土 閃緑岩 高90㎝ ルーヴル美術館蔵
『メソポタミア文明展図録』は、カッシート王朝の終末、前1150年頃、エラムの王シュトルク・ナフンテ1世のメソポタミア侵入によって、各都市が破壊され、多くの神像やモニュメント等の戦利品がスーサに持ち去られた。
カッシート人の導入したクドゥルは、王の土地贈与を証明するものであり、不規則な形の石、通常は光沢のある黒い石灰石をカットしたものに記載された。これらクドゥルは公文書であり、クドゥルによりカッシート王たちは近親者や宮廷高官に土地を授与し、彼らの歓心を買った。土地贈与を公認する神々は、大半はカッシート王朝の採用したメソポタミアの神々だが、たいてい各神の象徴が石の上に描かれた。クドゥルは、大部分神殿内部で発見された。おそらく王の定めた土地区画に沿って設置した境界石の複製であろう。それらはメソポタミア南部では前7世紀まで使用された。
迎えの仕草をするナナらしい女神の傍に導く。星の三大神の象徴が場面の上方に張り出している。すなわちイシュタルの星、シンの三日月、シャムシュの日輪であるという。
女神ナナが日月を持っているのではないが、この辺りに起源がありそうだ。
ルーヴル美術館蔵 メリシパク二世の大クドゥッル 前12世紀 イラン、スーサ出土 世界美術大全集東洋編16 西アジアより


男性は中央アジア人、女性は中国人
下方の地上世界には、一人の女性の舞人を伴う楽団がいる
という。
楽士たちの風貌は鼻が高いので中央アジア人のようだが、女性たちは舞人も含めて中国人ではないだろうか。
長い袖を靡かせながら舞うのは中国で起こった舞と思っていたが、どうやら中国にやってきたソグド人の舞だったようだ。
MIHO MUSEUM蔵棺床屏風 6世紀後半-7世紀前半 MIHO MUSEUM南館図録より


K 最後の場面 中央アジア人
全場面の中で最も「中国的」なものである。その主題である牛に引かれる2輪の車は4世紀以降の仏教石窟壁画と中国の墳墓に一般的にみられる。とりわけ重要なのは鮮卑族の高位の将軍、婁叡の墓の壁画に描かれたもので、そこには従者と旗を伴う同様の高い屋根のついた車が表されているという。
『世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝』には山西省太原市婁叡墓(北斉、武平元年 570)の壁画のうち人物図がたくさん紹介されているが、残念ながら高い屋根のついた車の図版はなかった。
従者たちはJ図の右側にいる楽士たちの風貌に似ているかも。
MIHO MUSEUM蔵棺床屏風 6世紀後半-7世紀前半 MIHO MUSEUM南館図録より


この棺床屏風に遺骨が納められた墓主はほぼソグド人なのだろう。ソグド人は、出身地であるソグディアナから中国へとネットワークを張った交易を行う民で、中には中国に居住していた者もあった。そういった人々の墓の一つがこの棺床屏風を備えた墓で、各地の人たちと交易を通じて知り合い、付き合って豊かな人生が送れたことをこの屏風に浮彫で表したのだろう。




関連記事


参考文献
「MIHO MUSEUM南館図録」 杉村棟 1997年 MIHO MUSEUM
「中国★美の十字路展図録」 2005年 大広
「世界四大文明展 メソポタミア文明展図録」 2000年 NHK
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館 

2024/09/03

ソコルルメフメトパシャ Sokullu Mehmet Paşa が建てたもの


オスマン帝国の最盛期スレイマン大帝の統治時代には数名の大宰相がいたが、最後の大宰相はソコルルメフメトパシャだった。その後スレイマン大帝の息子セリム二世、孫のムラト三世と三代のスルタンに仕えた。
『Architect Sinan His Life, Works and Patrons』(以下『Architect Sinan』)は、ソコルルメフメトパシャは、スレイマン大帝の皇子たちの間での王位争いでセリムの側につき、バヤズィト皇子と戦った軍を指揮して大勝利を収めた。その資質から将来有望な婿候補とみなされていたパシャは当時既婚者であったため、取り決めにより、妻と離婚したソコルルメフメトパシャは56歳で皇帝の婿となった。大宰相に任命されたソコルルメフメトパシャは、スレイマン大帝の死後即位した義父のセリム二世の統治下でもその職を務め、スルタンと妻のエスマハンに忠実だったという。
同書はエスマハンについては詳述しているのに、何故かソコルルメフメトパシャについては寡黙過ぎるように思う。


また同書には、ソコルルメフメトパシャ(1505-79)がスルタンに報告する様子を描いた細密画も記載されていたが、描かれた年代がわからないので、描かれたスルタンがスレイマン大帝(1494-1566)か次のセリムⅡ(1524-74)なのかは不明。スルタンと同じくらいの年齢として描かれているので、スレイマン大帝の壮年期頃のものかも、 
ソコルルメフメトパシャがスルタンに報告する様子を描いた細密画 Architect Sinan His Life, Works and Patrons より


ソコルルメフメトパシャ 1568-69年 細密画部分 ナッカシュ・オスマン画
スレイマン一世の死を悼む大宰相が描かれている。上図よりも顎髭が多いので、こちらの方が年を取っている。
トプカプ宮殿図書館蔵 ナッカシュ・オマン画 細密画部分 望遠郷より


ソコルルメフメトパシャが建てたものでこれまで行ったところは、旅編のカドゥルガ地区のソコルルメフメトパシャジャーミイと、エユップ地区のソコルルメフメトパシャ廟とメドレセだけだが、イスタンブールでも別のところにモスクを建てたり、橋を架けたりしているので、今回は分かる範囲で年代順(書物によって異なる場合がある)にまとめておくことにした。

① イスタンブール、エユップのソコルルメフメトパシャ廟 1560年(『Architect Sinan』より)、1569年(現地の説明パネルより)
詳細はこちら


② リュレブルガズ Lüleburgaz、 ソコルルメフメットパシャ・キュッリエ(複合施設)1565-70(『Architect Sinan』説)、1569年完成
『トルコ・イスラム建築』は、イスタンブルとエディルネの中間にある町リュレブルガスは、イスタンブルとヨーロッパ側の領土を結ぶ街道上にあり、最も繁栄した宿場町だったであろう。そこに、1565-78年大宰相を務めたソコルル・メフメット・パシャ が建設したキュッリエで、1569年に完成している。大規模なキャラバンサライと共に、街道の両側に多数の商店を配置しているのが特徴的であるという。
モスクに商業施設を付属するのは、その使用料をモスクと複合施設の運営に充てるためで、ワクフと呼ばれている。道路の両側に商店が並んでいるものを④アラスタという。
リュレブルガス ソコルルメフメットパシャ・キュッリエシ(複合施設)平面図 トルコ・イスラム建築より

平面図以外図版がないのが残念だけれど、⑤キャラバンサライ以外は Google Map で見ることができます。
リュレブルガス ソコルルメフメットパシャ・キュッリエシ(複合施設) Google Earth より

③ ブユクチェクメゼ Buyukcekmece ソコルルメフメトパシャジャーミイ Sokollu Camii Kulliye 1567年
外から見た説教壇(ミンバル)ミナレット
『Architect Sinan』は、ミマールスィナンが建てた二つの説教壇ミナレットのうちの一つで、もう一つは、スィナンが慈善事業として依頼したイスタンブールのファティ地区にあるミマールスィナンのマスジドの説教壇ミナレットであるという。
イスタンブールの目立たないところにミマールスィナンのマスジドがあるのをGoogle Earth で確認したので、何時の日にか、修復中だったところと共に行ってみることにしよう。ついでにブユクチェクメゼにも行ってみたいが、バスでどう行ったら良いのだろう。
イスタンブールの遠距離バス乗り場 Otogar から76O番の Cihangir Mahallesi 行きのバスに乗り、İstanbul Üniversitesi-Cerrahpaşa Avcılar Kampüsü まで1時間強。
クチュクチェクメゼ Küçükçekmece 西岸にアヴジュラル Avcılar  イスタンブール大学のキャンパスがあるのでそこが終点みたい。そこから303A Silivri Son Durak 行きに乗り換えて30分ほどでブユクチェクメゼの停留所下車か。この系統のバス停がどこにあるかをじっくりと探してみよう。
せっかくなのでリュレブルガズ Lüleburgaz にも行ってみたいけれど、バス路線はないみたい。
ブユクチェクメゼ ソコルルメフメトパシャジャーミイ 外部より見たミナレット THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN より 

境内からは、ムアッジンがミナレットに上る階段がある。小さな集落なので、この高さで祈りへの呼びかけが十分だったのだろう。説教もここで行われていたのか。奥の瓦屋根がスレイマン大帝が造ったキャラバンサライ。
ブユクチェクメゼ ソコルルメフメトパシャジャーミイ 内部より見たミナレット Architect Sinan His Life, Works and Patrons より

同書は、このモスクもマスジドとしている。ジャーミイよりも小規模のものをトルコではマスジドと呼ぶので、礼拝所とした。右端は木造のようで、内部も木造。
この建物にドームはあるのだろうか。
ブユクチェクメゼ ソコルルメフメトパシャジャーミイ Architect Sinan His Life, Works and Patrons より

ちょっと寄り道するが、この町は交通の要衝だったようで、その礼拝所の向かいにはスレイマン大帝が同じくミマールスィナンに建てさせたキャラバンサライ
『THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN』は、キャラバンサライは、元々鉛で鋳造された屋根のため、「クルシュンルハン」(鉛の宿)とも呼ばれている。石灰岩で造られ、「中庭のない屋根付きタイプ」と呼ばれるキャラバンサライに分類されるこの建物は長さ48m、幅22.3 mであるという。
ブユクチェクメゼ スレイマン・キャラバンサライ THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN より


スレイマン橋 建設者はスレイマン大帝 建築家はミマールスィナン
なんと登ったり下ったりと通行に不便な橋だ。
ブユクチェクメゼ スレイマン橋 THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN より

『トルコ・イスラム建築紀行』は、イスタンブル西方にあるビュユック・チェクメジェ湖とマルマラ海との間の浅瀬に架けた橋。 イスタンブルとヨーロッパ側の領土を結ぶ、オスマン帝国で最重要の街道上の橋という。
ブユクチェクメゼ スレイマン橋 トルコ・イスラム建築紀行より

高い箇所は船が航行していたんやね。現在は自動車は通れないようだが、人はかまわないらしい。渡ってみたいな。
右奥にスレイマン大帝のキャラバンサライが見えている。
ブユクチェクメゼ スレイマン橋 トルコ・イスラム建築紀行より


ブユクチェクメゼ Büyükçekmece の町
ブユクチェクメゼの町とミマールスィナンが造った橋・キャラバンサライ・マスジド Google Earth より



④ イスタンブール、エユップのソコルルメフメトパシャ・メドレセ 1571年、1568年(『Architect Sinan』説)
詳細はこちら



⑤ イスタンブール、カドゥルガ ソコルルメフメトパシャ・ジャーミイ 1571年、
ただし『Architect Sinan』は、③ イスタンブール、カドゥルガ エスマハンとソコルルメフメトパシャ夫妻のモスク Ismihan Sultan-Sokollu Camii 1567年としている。

ミフラーブ壁とペンデンティブまでイズニクで焼かれたタイルがみごとに敷き詰められているが、、両脇の壁面には円形のカリグラフィー以外は石の壁のまま。
詳しくはこちら


⑥ 新市街のアザプカプ Azapkapı ソコルルメフメトパシャジャーミイ 1577年、
『Architect Sinan』は、造船所に近いカスンパシャのモスクは、ソコルルが亡くなる前に建築家ミマールスィナンに依頼したもの。1546-49年に海軍総司令官を務め、大宰相の任期中、レパントの海戦で壊滅した海軍をカスンパシャで一冬で再建するよう命じたこの有名な政治家は、海を見下ろす形で同じ場所にモスクを再び依頼したことは、パシャの過去と海と造船所への愛着を表している。モスク建設の碑文は、モスクが造船所の作業場に近い場所にあることを強調しているという。
アザプカプ ソコルルメフメトパシャジャーミイ THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN より

金角湾より
同書は、1938-41年に、このモスクは全面的な修復工事を受け、その間に地上階のアーチと扉は壁で覆われ、ソンジェマアトイェリ(遅れて来た人が礼拝する場所)はアタチュルク橋の影に隠されたという。
アザプカプ ソコルルメフメトパシャジャーミイ THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN より

平面図 『THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN』より
❶礼拝室入口 ❷主ドーム ❸ミフラーブ ❹ミンバル(説教壇)❺側廊 ❻女性用マッフィル ➐ミナレット
同書は、このモスクは、セリミエの八角形プランの別の解釈で、八角形の各角に半ドームまたはトロンプが追加されている。ソンジェマアトイェリ(遅れて来た人が礼拝する場所)は壁で囲まれており、モスクはリュステムパシャモスクの場合と同様に、倉庫として機能する地下室の上にあるという。
アザプカプ ソコルルメフメトパシャジャーミイ THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN より

ミフラーブ壁
❺側廊には円柱が2本ずつ、入口側にも2本の円柱、ミフラーブの両脇に2本の付柱、合計8本の柱でドームの下のペンデンティブを支えている。八つのペンデンティブには凹みがなく、なめらかな円形になっている。
また、カドゥルガのソコルルメフメトパシャジャーミイは、リュステムパシャジャーミイほどではないが、タイルが石積みの壁面と調和して用いられていたが、ここではペンデンティブやミフラーブ上部程度になっている。
アザプカプ ソコルルメフメトパシャジャーミイミフラーブ壁 THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN より

それでもミフラーブ壁周辺には色鮮やかなステンドグラスが並んでいる。
アザプカプ ソコルルメフメトパシャジャーミイミフラーブ周辺 Architect Sinan His Life,Works and Patrons より

❺側廊と❻マッフィル
二つのペンデンティブの間には石材の幾何学文様の透彫が美しい。
アザプカプ ソコルルメフメトパシャジャーミイ THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN より


アプルル ソコルルメフメトパシャ橋 建築年不明
アプルルはリュレブルガズから直線距離で西南西へ18㎞ほどの小さな集落。ここにもソコルルメフメトパシャは橋を架けている。
『THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN』は、シナンによって建設された最も広い範囲の橋で、中央のアーチの湾は20.5m。頂点が一つで、五つのアーチがあり、長さは130mという。
東トルコを旅した時に、アルトゥク朝朝期のマラバディ橋を見た。真ん中が高くなって、両側が下り勾配で、通行に不便な橋だと思ったが、船の航行のためだと最近気がついたが、このような形にするのは一般的だったようだ。
ソコルルメフメトパシャ橋 THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN より


ソコルルメフメトパシャは現ボスニア・ヘルツェゴビナのヴィシェグラード Višegrad で生まれ、デヴシルメでイスタンブールにやってきた。
1577年には故郷のドリナ川にミマールスィナンに橋を建てさせている。これはスレイマン大帝の孫ムラト三世(在位1574-95)の時代に当たる。
残念ながら手持ちの本にはその図版がない。橋の名称を『Architect Sinan』はVishengrad Drina Brige としている。

実はこの橋のことを知ったのは、旅でご一緒になった方からだった。その方はボスニア・ヘルツェゴビナを旅して、ヴィシェグラードで橋とモスクを建てたのがソコルルメフメトパシャであることを知ったのだそう。しかし、モスクについては同書に記述はない。


『Architect Sinan』は、1579年10月12日、ソコルルメフメトパシャは自宅で第2回ディヴァン会議の最中に精神に異常をきたした男に短剣で刺されて暗殺されたという。
サファヴィー朝の刺客など諸説ある。

また『ISLAMIC ART』は、オーストリア・ハンガリー帝国皇帝と同等とみなされていた大宰相ソコルルメフメトパシャの死は、停滞期(1579-1699)の始まりとなったという。


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参考文献
「ISLAMIC ART THE MUSEUM OF TURKISH AND ISLAMIC ARTS」 ANATOLIAN CULTURAL ENTREPRENEURSHIP 2019
「THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN」 REHA GÜNAY 1998年 YEM Publication 
「Architect Sinan His Life, Works and Patrons」 Prof. Dr. Selçuk Mülayim 2022年 AKŞIT KÜLTÜR TURIZM SANAT AJANS TIC. LTD. ŞTI