ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2015/01/30
三十三間堂3 風神雷神の起源
三十三間堂で千一体の千手観音像を守護する風神雷神は、彫像としては日本最古のものである。
風神像 鎌倉時代宝治年間(1247-48) 123㎝
同書は、サンスクリット語のヴァーユで、風天と訳される。『リグ・ヴェーダ』にでる神で、数頭立ての馬車で天空を駆け、敵を駆逐して名声や長寿、財宝や子孫を授けるとされ、天界の神酒・ソーマを好むことからソーマパーとも呼ばれた。雷神(水天)とともに「護法十二天」の一尊でもある。
自在に吹きわたる風の力を神格化したもので、その尊容は全く日本化されており、二十八部衆には、後になって付加されたものという。後世の風・雷神のイメージを決定づけた傑作という。
雷神像 宝治年間(1247-48) 105㎝
同書は、その起源はインド最古の聖典という『リグ・ヴェーダ』に水神として登場するヴァルナだといわれる。ヴァルナは、のちに雨や水を司る龍神と混同され、さらに下って天候を司る雷神へと変化したという。後6世紀の制作という敦煌莫高窟の壁画に風神と共に描かれたのが最古というが、古代人の水に対する恩恵と畏怖心がこのような神格を生み出したのだろう。
『千手陀羅尼経』にでる「水雷火電」の語句から日本中世の俗信的空想によって創作した尊容という。巻雲に乗り、天鼓を打つ姿態は怒りととも大笑ともみえるという。
風神雷神の図像としては、三十三間堂のものより古いものが経典の見返し部分に描かれている。
風神像雷神図 平安時代(12世紀前半) 「金銀字一切経」見返し部分 和歌山金剛峯寺蔵
『アレクサンドロス大王と東西文明の交流展図録』(以下『交流展図録』)は、わが国の最も古い風神像は高野山の金剛峯寺が所蔵する経典の見返しに見られるものであるという。
風神は、細長い風袋を肩に回さず、丸い袋を両手で抱えて小さな口から風を出している。雷神は小太鼓を弧状に並べた雷太鼓の両端を持っているような、その端と、手に持った撥が重なって描かれているような。
『続日本の絵巻15北野天神縁起』は、怒髪天を衝く、異様な形相の鬼形は、奈良朝の「絵因果経」に、早くも遺例がみえるという。
絵因果経に鬼?
過去現在絵因果経 奈良時代(8世紀) 紙本着色 1巻 醍醐寺蔵
『御法に守られし醍醐寺展図録』は、前世における釈迦の善行(本生譚)と現世での事蹟(仏伝)を経文と絵で描いたものであり、文と絵で構成される絵巻としては奈良時代8世紀にまでさかのぼる日本最古の作品である。出典の『過去現在絵因果経』は、劉宋の元嘉年間(424-53)に沙門求那跋陀羅が漢訳した通常、4巻からなる仏伝経典である。巻子を上下に分かち、下段にこれらの経文を書写し、その内容を絵画化して上段に描いたものを「絵因果経」と呼んでいる。
悉達太子(出家前の釈迦)の出家により実家の王宮あげて悲嘆にくれる場面から、悟りをひらいた釈迦が魔王を降伏する場面までを、少なめの色数で描き古拙ではあるがおおらかな画題が看取される。隋・初唐の大陸請来の祖本をもとに、画工司(えだくみのつかさ)の画師の参画を得て、奈良時代中頃の写経所で制作されたと考えられるという。
「過去現在絵因果経」は、南北朝期、南朝の宋時代に漢訳されたという、中国でも早い時期のお経だった。
穏やかな場面が多い中、巻末から4場面目の「魔王が軍衆を率いて妨害するも、太子は慈悲力で防ぐ」、つまり降魔成道に鬼や魔物たちが多数登場していた。
釈迦の頭上には、釈迦によって追い払われる魔物の頭部、その左右には魔王の軍衆が、武器を持って次々とやってくる場面である。物語の場面の境として表される山岳だが、それを越えてまでも多数の魔物たちがやってくる。
この内のどれが鬼だろう。
それよりも、左端に雷神が登場しているのでは。
確かに連太鼓に囲まれて、撥を持った雷神が、駆けて来る。その前には弓矢や三叉戟などが釈迦に向かって飛んでいく。日本で最も古いと思われる雷神は、釈迦の敵だった。
山を越えた中にいる(下図右端)には、風袋ではなく、長い天衣のようなものを両手で持つ鬼がいる。鬼の頭部には一対の角が生えており、振りかざす帯には蛇のような頭がついている。ひょっとして、これが風神になっていくのかな。
敦煌莫高窟では、劉宋時代の1世紀ほど後に、風神雷神図が描かれた。
風神雷神図 西魏(535-557) 敦煌莫高窟第249窟西壁
第249窟は小さな窟で、西魏時代に新たに出現した正方形平面に伏斗式の天井をもつ窟の形で、奥壁にあたる西壁の本尊の光背の上に阿修羅が立ち、その両側に風神雷神が向かい合っている。
風神は風袋か天衣が翻っているような描き方で、空を駆けるように表現されている。顔は動物のものである。
ところが、『中国石窟敦煌莫高窟1』は、烏犾(草冠がつく)は人身で烏の爪を持つ怪人の姿で、北魏墓の線刻画にその名がみえる。これは中国式力士で、金剛力士とは異なる。
下には風神がいて、口から気を吐いているという。
敦煌莫高窟では、二度この窟を見学したが、その度に「風神と雷神です」という説明を聞いた。ひょっとすると専門ガイドの人たちは、日本人に分かり易いように、風神雷神と言っただけなのかも。
『世界美術大全集4ギリシア・クラシックとヘレニズム』(以下『世界美術大全集4』)は、フヴィシュカ王の時代には、このマントないしショールが太い紐ないし袋状に変化した。
それが六朝時代の中国に伝播したことは敦煌第249窟天井画に描かれた風神雷神図の風神像(後漢以来の風伯がラッパで風をこの風神に送っている)によって判明している。中国の伝統的な風神像は後漢時代の「画像石」に若干みられるが、ラッパのようなものを口にくわえて風(息)を吹き出す姿で描写されている。しかしながら六朝時代には風袋を胸に抱きかかえる風神像が出現した。風袋は中国で葡萄酒を入れる革袋を参考にして生まれたと考えられるが、六朝時代の風神像では風袋は風神が両手で抱えるもので、肩に担ぐものではなかった。
敦煌第249窟の例が示すような西方系の風神像と六朝時代の中国起源の風神像が合体して、「両手で風袋を肩に担ぐ風神像」が中国で成立し、それが仏教美術を通して平安時代のわが国に伝播したか、あるいは、両タイプの風神像が独立してわが国に伝播し、平安時代のわが国の仏教美術において両タイプが合体して「両手で風袋を肩に担ぐ風神像」が成立したと推定されるという。
おそらく、日本には絵画として将来されたのだろう。
ともあれ、この日本の風神に似たものは、風袋ではなく、風を受けて膨らむ肩掛けのような襞のある長い布を掴んでいるように見える。
雷神は撥は持っているのかどうかわかりにくいが、ぐにゃりと曲げた手足4本で、鼓面を横にして並んだ小太鼓を打ち鳴らしている。
同書は、太鼓の形は羯鼓のよう、強烈な動きは、音が聞こえてきそうだという。
雷神図 西魏 敦煌莫高窟第285窟窟頂部西壁
2人の飛天の外側に、雷神のみが2体表されている(敦煌莫高窟の陳列館でコピー窟を撮影)。
太鼓は三十三間堂の雷神像と同じく鼓面を見せて並んでいる。小太鼓を繋ぐ線も描いてある。
風神像を遡っていくと、
風神ヴァドー像浮彫 クシャーン朝時代(2-3世紀) 片岩 高30.0幅24.0奥行8.0㎝ ベルリン国立インド美術館蔵
『交流展図録』は、クシャーン族の風神。クシャーン族はこのヴァドーとウェーショーの2柱の風神を信仰した。違いは明らかではないが、それぞれゾロアスター教のワータとワーユにあたる。おそらく本来は季節の変わり目に吹く風で、死の世界をもたらす北風と冬を倒して春に導く南風の擬人化であったと思われる。それゆえクシャーン朝時代にギリシャの北風ボレアスの図像からマントを翻す有翼の姿で創出されたウァドー像は、のちにマントだけとなり、さらにマントが小さくなって、本作品のような風を孕んだショールをもつ姿に変化する。そして中国に伝わると、さらにこのショールは風袋に変わり、わが国へ伝来したという。
少し欠けた箇所があるが、かなりの高浮彫で、風を受けて膨らむ幅の広い肩掛けが表される。それが中国に入って風袋となったというが、敦煌莫高窟第249窟の風神(中国では烏犾+草冠)が掴んでいるのは、風袋ではなく肩掛けのように見える。本図のショールと同じように襞も表されている
風神ウァドー クシャン朝(2-3世紀) 直径2.5㎝ フヴィシュカ王の銅貨 平山郁夫コレクション
『世界美術大全集4』は、どのような場面に描写されたか判然としないが、風をいっぱいにはらんだマントは、ニンフや天空の神カエルスの手にするマントないしショール-例えばアウグストゥス平和の祭壇(前9年、ローマ)に描写されたいわゆる微風アウラが持つショール-に由来する。ただし、ローマ美術の風神像(胸像、頭部が多い)と相違することが著しいので、ローマ美術の風神像の直接的影響によるとは断定できない。いずれにせよ、フヴィシュカ王の時代には、このマントないしショールが太い紐ないし袋状に変化したという。
マント(ショール)は、ウァドーが両手で端を掴み、背後にたなびかせているものだろう。
風神アネモス(ヴァドー)像 後127年 カニシュカ1世金貨裏 神奈川シルクロード研究所蔵
『交流展図録』は、北風のボレアスは、クシャーン朝の2つの風神の1つ、ヴァドーを描写するために用いられ、カニシュカ1世の金貨ではマントを両手で持つアネモスという名前で刻印されているという。
『世界美術大全集4』は、クシャン朝はゾロアスター教に似たイラン系の宗教を信奉していたが、古代イランの宗教には、とくにゾロアスターの宗教改革(前6世紀)以後は、神を人間の姿で描写する伝統がなかった。しかしながら、ヘレニズム文化の洗礼を受けたクシャン朝では、「ゾロアスター教の異教化」ともいうべき現象が起こり、ギリシアの神々の擬人像を借用してゾロアスター教系の神々をコインに刻印しているという。
このヴァドー神は、ギリシア風という翼が残っている。その上、両手で掴んだマントは、頭上に縁が小さく表され、後ろ側には長く広い布が翻っている。つまり、巨大な一枚の布の一辺を持ち、他の辺をたなびかせながら走っているのだ。
カニシュカ1世銅貨 クシャーン朝時代(127-155年頃) 青銅 径2.0重㎝8.02g 出土地不明 個人蔵
『交流展図録』は、裏にはクシャーン族の風神ウァドーが表現される。ゾロアスター教の聖典『アヴェスター』のワータにあたる神で、風を孕んだマントを翻しながら髪をなびかせて疾走する姿は、ギリシャの北風ボレアス(8風神の1柱)の図像に由来する。
有翼・有髭のボレアスは、マントを持つ風神(アネモス)姿でカニシュカ1世金貨に登場し、同王の銅貨でこのように翼がとれた姿へと変身する。さらにマントはショールのような小さなものとなり東方へ伝播していった。風神変化の1コマを捉えた重要な資料という。
上図の浮彫ではマントは頭上に表されているが、このコインでは、小さなショールではなく、両手端を上に持ち、背後に足元まで達するほど長く垂れている。
風神ヴァドー像 後2世紀 フヴィシュカ王銅貨裏 神奈川、シルクロード研究所蔵
『交流展図録』は、フヴィシュカ王の銅貨では、マントが風袋に変化しているという。
ここでは背後の広い布はなくなり、頭上に翻る短い布だけが表されているように見えるが、これが風袋?
ギリシア風の風の神は現在でも残っている。
風の塔 ヘレニズム時代後期(前1世紀) 浮彫 アテネ、ローマ時代のアゴラ
有翼の風神像が8体、八角形の塔の軒下に表されている。
ボレアス像 風の塔に浮彫
『交流展図録』は、「風の塔」の風神像8体は、ローマ帝国、中世ヨーロッパに継承され、ルネッサンス期にはサンドロ・ボッティチェルリの古典的風神像(西風のゼフュロス)として復活しているという。
有翼のボレアスは、大きな風袋の口を左手で掴み、右手で支えながら飛んでいる。
ボレアスの担ぐ風袋はどこからきたのだろう。
オレイテュイアを掠奪する風神ボレアス クラシック時代(前470年頃) 赤像式陶器ヒュドリア部分 高35.0幅34.0㎝ アテネ出土 アテネ国立考古博物館蔵
『交流展図録』は、オレイテュイアを北風の神ボレアスが追い、両手で彼女の右腕をつかむ。ボレアスは大きな翼を持った姿で、長い髪と長い髭を有し、頭にディアデマ(冠帯)を巻く。短いキトン(衣)を身につけ、足には翼のついた長靴を履く。オレイテュイアはキトンの上にアルカイック時代特有の斜め掛けのマントを羽織るという。
蛇足になるが、マントはヒマティオンと呼ばれる襞の多いもので、ここでは襞がジグザグに折り重なって表されている。彫像にも規則正しく並んだ襞が表される。
それについてはこちら
ギリシアの風の神は、風袋を持たず、大きな翼を持っていた。
この風神が鎌倉時代には、似ても似つかぬ姿となって、三十三間堂の千手観音を守るようになったのだ。
(雷神については、図像がみつからず、インドのヴァルナからどのように西魏の小太鼓を弧状に繋げた図像になったのか不明のままです)
→三十三間堂4 風神雷神その後
関連項目
三十三間堂1 風神雷神の像
三十三間堂2 雷神のギザギザ眉の起源
アルカイック期の衣文が仏像の衣文に
※参考文献
「アレクサンドロス大王と東西文明の交流展図録」 東京国立博物館・NHK編 2003年 NHK
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌文物研究所 1982年 文物出版社
「御法に守られし醍醐寺展図録」 2014年 渋谷区立松濤美術館
2014/10/24
中国の山の表現2 三国時代から隋代
『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』(以下『世界美術大全集東洋編3』)は、漢代はまだ絵画が自立していず、したがって名のある専門の画家は伝えられていない。三国・西晋時代に至って初めて名のある絵画専門の画家が出た。そして東晋に至ると顧愷之が登場し、自身画家として名を成したのみならず、はじめて絵画を芸術として確立した
南朝・宋の宗炳(375-443)は、年老いて病を得たのち、かつて遊歴した各地の名山を描き、坐臥して描かれた山水のなかに心を遊ばせたという。このように魏・晋・南北朝時代になると、知識人のあいだでは自然のなかでの隠逸の暮らしに憧れ、山水を詩に詠んだり、また画で表現したりすることが盛んになるなど、山水を描くことは理念的にも、飛躍的な発展を遂げるのであるという。
列女人智図巻部分 東晋(4世紀後半) 絹本着色 25.8X470.3㎝ 伝顧愷之筆 北京故宮博物院蔵
『世界美術大全集東洋編3』は、「女子箴図巻」の作者を顧愷之とする積極的な理由は乏しく、それは「列女人智図巻」についても同様であり、絵画史上における顧愷之の評価の高さが、「名品すなわち顧愷之」とする図式を生み出したのであろう。
今日、魏・晋・南北朝時代の画家の名を冠して伝わっている作品は、いずれも当時の著名画家の名を付会したものにすぎず、すべて後世に描かれた作品とみなしてよいであろう。しかし幸いなことに、そうした後世の作品のなかにも、原本を比較的忠実に模写したと考えられる絵画も少数ながら伝世している。それらは模写とはいえ、原初の面影をとどめており、魏・晋・南北朝時代の絵画の一端を今日にまで伝える、貴重な伝世絵画とみなすことができようという。
そのようなわけで、この作品が東晋時代の様子を表したものかどうか断定はできないのだが、一応東晋時代のものとして見ていくことする。
衝霊公?なる人物は三曲の屏風のようなものに囲まれて坐っている。衝霊公その人が描いた山水画を衝立など調度品に仕立てて、自分がその景色の中で暮らす境地だったのだろう。
洛神賦図巻部分 東晋時代 伝顧愷之筆 絹本着色 27.1X572.8㎝ 北京故宮博物院蔵
同書は、画面構成は、曹植と洛神との恋愛物語が洛河を舞台とした自然景観のなかで展開する。そのため人物を中心とする各場面にはほぼ例外なく山石や樹木が配されるなど、画面全体にわたって山水表現がふんだんに取り入れられている。
峰々は櫛の歯のように並び、腕を伸ばし指を広げたような樹木が幾本も描き添えられ、洛河の流水表現は形式化されている。しかし、こうした古様な山水表現のなかにも、いくつかの新たな表現が芽生えていることに気づく。たとえば樹木や山石には、種類や大小高低による差違がつけられており、同一モティーフの繰り返しによる単調な表現をできるだけ避けている。また長巻全体を通して遠近表現が意識的に試みられていることも注目すべき点であり、近景・中景・遠景が巧みに配され、画面の空間的な違和感は和らいでいるという。
山も木も緑色で表されて、見分けられないものもある。自然の景観よりも人物が大きく、樹木の法が山岳よりも大きく表される。洛河の流れの中に岩もあり、その流れに勢いや高低差も表現されている。
女子箴図巻部分 東晋時代 伝顧愷之筆 絹本着色 24.8X348.2㎝ 大英博物館蔵
同書は、いっそう進んだ山水表現が認められる。「女子箴図巻」のなかで山水が描かれた場面は1か所のみであるが、栄枯盛衰を比喩的に表現した場面において、太陽と月、および弩を持った人物とともに、かなり本格的な山岳が描かれている。つまり、ここでは『女子箴』の文章に基づく象徴的な表現にとどまることなく、三角形を積み重ねることで山岳の塊量が意識的に示されており、もはや観念的な山岳表現からは脱している。また断崖や土坡などを組み合わせて複雑な山勢を描き出し、そこに鳥や動物をバランスよく配置するなど、その構築性に富んだ山水表現には格別の進歩が認められるという。
画面右上の三足烏のいる赤い円形のものが太陽で、一部雲がかかっている。左上には白い月が雲の上に出ているが、そこに描かれているのはウサギでもないような、蟾蜍でもないような。
その下には2羽のヤマドリのような鳥が飛び、山頂部を挟んだ右側にはトラがいる。弩を持った省略してしまったが、山の左側に大きく表された人物は、このトラを狙っているのだろうか。
確かに三角を積み重ねたような山の表現だが、樹木の大きさも考慮されていて、山肌の露出した高山の崖や、その稜線に生えた木々がよく表されている。
伝世の絵画が模本の可能性が高いとすると、当時のオリジナルが残っているのは墓室や石窟ということになる。
西王母図部分 丁家閘5号墓前室西壁 五胡十六国・北涼(4世紀末-5世紀前半) 甘粛省酒泉市
同書は、墓室内は塼壁面上の草泥層の上に微細な黄土で下地塗りをし、壁画が描かれている。
天井部西壁には渦巻く雲気と西王母、上方に月、下部に山岳が描かれるが、それ以外に傘蓋蓋を持つ侍女、下方に三足烏、九尾狐、天馬などが描き加えられ、いくつかの神話を暗示させる。
基本的には漢代の様式、画題を踏襲しており、中央画壇の動向はともかく、ここ甘粛省の交通の要衝ではいまだ絵画史の大きな革新はおこっていないことが推定できるという。
山並みのところどころに樹木の赤い幹が見える。広葉樹らしい葉も描かれていた痕跡も見えて、剥落したか褪色したらしいことがわかる。
キツネとカラスの間の左右対称にオーバーハングした峰の表現も妙で、省略したがその上に西王墓が坐している。図の上辺にぴらぴら見えているのは、草だろうか、蓮華座とは似て非なるものである。
鹿王本生図部分 北魏(439-535) 敦煌莫高窟第257窟西壁中層
色は5種類あるとはいえ、山の形はどれも同じ。ここでは山は風景を表しているだけでなく、横に展開する物語の場面の境界にもなっている。
つづきはこちら
狩猟図部分 西魏(535-557) 敦煌莫高窟249窟窟頂北披
前に描かれた青や茶色の山々は、形は北魏時代のものとそう変わらないが、やや立体感のある彩色が施される。その背後にそびえる輪郭だけの峰々は、前の山よりも急峻に表されている。
樹木も描かれているが、幹の色しか残っていない。
249窟伏斗式窟頂の画像はこちら
薩埵太子本生図部分 北周(557-581) 敦煌莫高窟第428窟東壁南側
数ある釈迦の前世物語の一つで、日本では玉虫厨子の捨身飼虎図として知られているもの。
『敦煌ものがたり』は、太子は狩猟に出かけた山中で、飢餓に苦しむトラの母子に出会い、哀れに思い、自らの身を虎の前に横たえて自分の肉を食わせようとした。S字状に16景3段に描かれているという。走る馬はよく描けているが、見たことのない虎はひどい。
ここでも山並みは景色というよりも場面の区切りとして描かれている。
考えてみると、敦煌莫高窟で修行に励んでいた僧や画工の見ることのできる山といえば祁連山脈の支脈の一つの西の端、三危山くらいである。
敦煌の町へと戻る途中からはこのように見える。莫高窟の僧たちも、敦煌の町へ托鉢に行き来する際見ていたであろう木のない山並み。
南北朝時代、北魏が滅んで中国は東西に分裂する。敦煌が西魏の時期に東方では東魏が立ち、北周の頃は北斉があった。そして577年に北周は北斉を滅ぼし華北を統一、581年に隋が南朝の陳を倒し中国を再び統一した。
まだ西魏や北周期の敦煌莫高窟では似たような山岳表現が続いていたが、東の方ではどんな山水図が描かれていたのだろう。
孝子図部分 北斉(550-577) 石棺 高62.0長234.0㎝ アメリカ、ネルソン・アトキンズ美術館蔵
『世界美術大全集東洋編3』は、近景から遠景の山々へと積み上げていく遠近表現が巧みで、かなり広大な奥行空間を形成している。ここでは一つの画面に三つの主題を表現しながら、それらが別個の場面として遊離することなく、画面全体を自然な景観として統一的に表そうとする意図が感じられる。それは、初唐から盛唐にかけて成立した、広大な奥行空間をもつ山水画の画面構成に、確実に近づいていることを示すものであろう。また独特の圭角を有する岩は、他の石棺線画には見いだしにくいものの、百済(7世紀前半)の山水文塼下部や左右両端の岩山と親近性があり、当時の東アジアの一様式であったと推定されるという。
近景には低山とそこに遊ぶ鹿や高い木、中景には自然を楽しむ人々、遠景には高い山岳。その山は奇妙な形である。
山間禅僧 隋(581-618) 敦煌莫高窟第62窟北壁西側
隋になると、敦煌でも突然山らしい図が出現する。おそらく中原からの新しい山水図が請来されたのだろう。
中ほどの低い山並みの上下に赤い衣をまとった僧が山を背に坐っている。山に比べて人物が大きすぎる。やっぱり莫高窟では、山岳図は場面を区切ったり、人物の背景でしかなかったのかな。
遊春図巻 隋 絹本着色 43.0-80.5㎝ 伝展子虔筆 北京故宮博物院蔵
『世界美術大全集東洋編4隋・唐』は、中央左上部から右下にかけて、ゆったりと大河が流れ、対岸の幾重にも聳える峰のあいだには、白い雲がわきあがり、山中には朱塗りの楼閣と田舎の陋屋が点在し、谷筋の小川には朱塗りの橋が架けられ、岸辺には馬に乗る貴公子が従者を伴って歩む。山川草木みな春の緑に映え、水面を渡る風は優しく、静かな波に光が輝く。江南の長閑な春の光景を俯瞰した遠い視点から描き、対岸の左奥に幾本もの砂州を重ねて続く平遠の景を構図する。緻密で細密な描写は、春の情趣あふれ、見るものを惹きつける親和的な世界を描き出している。山の稜線の点苔や樹木の描き方の平板さ、土坡や山肌の同じ縞状の描写の繰り返しに六朝的な平明さが看取される。日本の『絵因果経』のような童話的な世界にも通ずる趣がある。
作者と伝えられる展子虔(生没年不詳)は北斉から隋初めにかけての画家。唐代の李思訓(635-718)とその子李昭道などの青緑山水画の本とされたという。
同じ隋代でも、江南の地あるいはそこを訪れた人物が描いた山水画は、ここまで描かれるようよになった。
人物も小さく描かれ、風景の中に溶け込んでいる。
中国の山の表現1 漢時代山岳文様は博山蓋に← →中国の山の表現3 唐代
関連項目
平成知新館5 南宋時代の水墨画
中国の山の表現4 五代から北宋
中国の山の表現5 西夏
※参考文献
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館
「世界美術大全集東洋編4 隋・唐」 1997年 小学館
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌文物研究所 1982年 敦煌文物研究所
「中国石窟 敦煌莫高窟2」 敦煌文物研究所 1984年 敦煌文物研究所
「敦煌ものがたり」 東山健吾・松本龍見・野町和嘉 1989年 新潮社
「図説中国文明史5 魏晋南北朝」 稲畑耕一郎監修 2005年 創元社
2014/07/29
仏像台座の獅子2 中国の石窟篇
もちろん、石窟でも獅子は登場する。
蘭州郊外にある炳霊寺石窟では、もっと古い時代の獅子があるだろうと思っていたが、北魏後期のものしかなかった。
交脚菩薩像 北魏、延昌2年(513) 高1.87m 炳霊寺第126窟北壁
『中国石窟永靖炳霊寺』は、菩薩は交脚して方座に坐り、台座の下に踞る2頭の獅子が浮彫されているという。
北魏後期になると菩薩も中国風の衣を身に着けるようになる。両足の下に長い裳裾が2段に襞を折り重ねている。
その下に身繕いをするかのように後肢をあげる獅子が表される。蓮茎が裳懸座に繋がっているのかと思っていたが、獅子の尾が双葉のように裳裾まで達しているのだった。細身の仏像に似つかわしくない、武骨な獅子である。
麦積山石窟そのものには獅子は表されていないが、運び込まれた石碑にある。
造像碑 北魏(439-535) 麦積山石窟第133窟第11号造像碑
龕内に一仏二菩薩が表され、台座の下に香炉ではなく、パルメットの葉が両側に広がっているようだ。その外側の一対の獅子は、台座の二段目に片足をかけ、背後を振り返って咆哮するかのように大きな口を開けている。
造像碑 北魏(439-535) 麦積山石窟第133窟第10号造像碑
『中国石窟天水麦積山』は、龕内に一仏二菩薩、下層屋形建築の下に四天王と一対の獅子がいて、龕の支柱を二力士が支えているという。
その力士の両足を地神のようなものが支えている。
その外側で、量感のある獅子が腰を下ろしている。
北魏後半の都洛陽の郊外に開かれた龍門石窟では、
交脚弥勒菩薩像 龍門古陽洞北壁第3層 長楽王夫人尉遅氏造 太和19年(495)
『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』は、龕楣には華縄を牽く天人を配し、菩薩交脚像と脇侍菩薩立像(右像亡失)の三尊を彫刻する。菩薩交脚像は銘文中に明記されるように弥勒菩薩で、兜率天で説法する姿である。仏菩薩像や飛天などの姿は西方式で、まだ中国化されていないが、線刻や浮彫りを多用した光背装飾は早くも龍門石刻芸術の片鱗を見せているという。
獅子は四肢を踏ん張り、菩薩に侍している。下段から出てきた地神または力士が、菩薩の交差させた足を支えている。
北魏前半の都、平城郊外に開かれた雲崗石窟について『図説中国文明5魏晋南北朝』(以下『図説中国文明史5』)は、453年に開鑿が始まり、北魏の時代に全盛を迎え、520年代まで彫り続けられたという。
まずは北魏後期のものから、
同書は、北魏が洛陽に遷都した後、平城に住んでいた鮮卑の貴族は争うように雲崗で石窟を開鑿した。この時期の石窟の多くは貴族個人や何人かの出資によって開鑿されたものであるため、芸術的な水準は初期や中期のものより劣るという。
交脚菩薩像 雲崗石窟後期(494-524年) 雲崗石窟第4-1窟東壁楣栱帷幕龕
裳懸座に左右からすり寄るように、すごい顔つきの獅子が表される(左側は失われている)。
如来坐像 雲崗石窟後期 第35-1窟西壁下層仏龕
角形の龕に中国式服制の如来が結跏扶坐する。その下の段には、博山炉を中央に、象、獅子が並ぶ。象は特徴のない表現だが、その両側にいる獅子は、やはりかなりすごい顔つきで、口を開いて威嚇している。これでも多少は阿吽になっているらしい。
右端では、力士が踏ん張って上の層を持ち上げている。
雲崗石窟中期窟(470-494)では、いろんな獅子像がみられる。
『図説中国文明史5』は、中期に開鑿された石窟は、いずれも皇族や貴族の援助によって造営された。中期の石窟は整然と並んでいて、入念な計画に基づいて工事が行われたものと思われるという。
菩薩交脚像 雲崗石窟中期 第11窟南壁第3層西側仏龕
獅子は周囲を威嚇せず、菩薩に寄り添っている。獅子のたてがみの表現が独特。右側の獅子は舌を出している。
如来坐像 雲崗石窟中期 第11窟西壁第3層南側仏龕
涼州式偏袒右肩に大衣を着けた如来が龕内で結跏扶坐する。その下に珍しく右に頭を向ける仏涅槃図が浮彫されている。釈迦の頭部と足元に小さく各一弟子が表され、その背後に弟子が2名ずつ、そして一番外側には大きな獅子が一頭ずつ表されている。右側の獅子は嘆息しているのだろうか、口から長い息が見える。
交脚如来像 雲崗石窟中期 第12窟後室東壁第3層南側仏龕
獅子は寝そべっている。
交脚如来三尊像 雲崗石窟中期 第12窟前室西壁第2層仏龕
通肩の如来が交脚で表される。左側の獅子は失われているが、右側の獅子は目が出ていて、敦煌莫高窟第275窟の獅子に似ている。
初期窟(460-465)は、曇曜五窟と呼ばれている。『図説中国文明史5』は、曇曜五窟の規模はもっとも雄大で古風で素朴な趣をとどめているという。
交脚菩薩三尊像 雲崗石窟初期 第18窟南壁下層西側仏龕
交脚の中尊に、両側で半跏思惟の菩薩が侍している。しかも、獅子の上に腰掛けているのは珍しい。
しかし、『中国石窟雲崗石窟2』は、帷幕龕の中央に交脚菩薩が獅子座の上に坐す。両側の思惟菩薩は束帛座の上に坐すという。
そう見えなくもないなあ。
このように見ていくと、雲崗石窟は獅子座の宝庫だった。
しかし、トルファン高昌国郊外の吐峪溝石窟や亀茲国郊外の克孜爾石窟では獅子座は見られなかった。
菩薩交脚像 北涼(397-439年) 敦煌莫高窟第275窟正壁 塑造
この獅子もライオンには見えない。たてがみは粘土ではなく、布か藁でつくったものを被せていて、いつの間にかなくなってしまったのだろうか。
背後の壁面に描かれた両脇侍菩薩は、獅子の上に乗っているかのようだ。
しかし、実際には両者には距離がある。そして、現地で何よりも驚いたのは、獅子は壁面から出ていて、後肢がないのだった。
おまけ
後肢が表されない獅子というのは他にも見られる。
弥勒菩薩交脚像 北魏前期 砂岩 高44㎝ 河北省曲陽県修徳寺遺址出土 河北省博物館蔵
『中国★文明の十字路展図録』は、頭に宝冠をつけ、両側に冠繒を長く垂らした菩薩が、2頭の獅子座に交脚して坐し、胸前で合掌するという。
このように前肢だけの一対の獅子が菩薩の脇から出て来たように表された獅子座は、道教三尊像にも見られる。
また、敦煌莫高窟では意外なことに獅子座はなく、やっと見付けたのは隋時代のものだった。しかも壁画である。
双獅子図 隋(581-618年) 敦煌莫高窟第292窟人字披頂西披龕下
白い鈴つきの首輪をはめられて、まるで犬のよう。銜えているのはパルメット?それとも285窟(西魏、535-556年)で空を漂っていた雲気文?
中央には蓮池があり、蓮華とその葉と共によく似たものが生えている。
仏像台座の獅子1 中国篇← →仏像台座の獅子3 古式金銅仏篇
関連項目
獅子座を遡る
仏像台座の獅子4 クシャーン朝には獅子座と獣足
中国の仏像でギザギザの衣文は
X字状の天衣と瓔珞8 X字状の瓔珞は西方系、X字状の天衣は中国系
X字状の天衣と瓔珞3 炳霊寺石窟
前屈みの仏像の起源
※参考文献
「図説 中国文明史5 魏晋南北朝 融合する文明」 稲畑耕一郎監修 羅宗真著 2005年 創元社
「雲崗石窟」 1999年 李治国編・山崎淑子訳 人民中国出版社
「北魏仏教造像史の研究」 石松日奈子 2005年 ブリュッケ
「中国石窟 永靖炳霊寺」 甘粛省文物工作所・炳霊寺文物保管所 1989年 文物出版社
「中国石窟 天水麦積山」 天水麦積山石窟芸術研究所 1998年 文物出版社
2014/06/20
中国の仏像でギザギザの衣文は
ギリシアのアルカイック期に始まったジグザグの衣文線は、まだ釈迦が像として表されない頃にすでに伝播し、クシャーン朝期には仏教の像として表されるようになった。
それについてはこちら
菩薩立像 後2-3世紀 パキスタン、シャーハバーズ=ガリー出土 片岩 高さ120㎝ ギメ美術館蔵
『世界美術大全集4ギリシア・クラシックとヘレニズム』は、菩薩像はインドの王侯貴族をモデルとしている。写実的な顔、筋肉の描写、襞の表現はギリシア美術に由来する。立像の場合は、ギリシアの神像の立脚遊脚の原理を導入して、身体に微妙な動勢を与えているという。
裙は広い布を巻き着けているためか、大きくギザギザに垂れ、そこに襞の端がギザギザの衣文で表される。
その表現は日本の仏像でも見られるものだが、まず、中国に伝わっていった痕跡を辿ってみると、
双菩薩立像 3世紀末~4世紀中葉(キジル石窟の草創期) 新疆ウイグル自治区クチャ郊外、キジル石窟92窟主室ヴォールト天井右側
『中国新疆壁画全集克孜爾1』は、草創期の人物表現は外来のものが顕著である。壁画の中でも、天人の形象はガンダーラの3世紀における菩薩彫像に近い。
菩薩の裙の上に鈎勒捧の褐色線で衣文が描かれる。黄色の暈繝で質感が強く表されるという。
説明の通り、ギリシアの壺絵にも見られなかったような隈取りで、ただの線ではなく、衣の厚みが感じられる。
中国でも、このジグザグの衣文線に名称はないようだ。
金銅菩薩立像 西晋~五胡十六国時代(4世紀初め) 高33.6㎝ 伝陝西省三原県出土 藤井斉成会有鄰館蔵
『中国の金銅仏展図録』は、束ね上げる髪、もみ上げ、口髭、耳や首の飾り、宝櫃を両側から喰わえる獣頭付きの胸飾、腕釧、それらはいずれもガンダーラの菩薩像にみられる。出土地は古都長安の近く(陝西省三原県)と伝えられるが、黒眼に象嵌のあとを残す眼やサンダルの着用などは独特であり、地肌のクレーター状の多孔から鉛含有量が多いと判断されるなど中央アジアとする説も古くからある。本像のように左手に瓶を持つ菩薩はガンダーラでは弥勒菩薩とされるという。
体のバランスはかなり違うが、上のガンダーラの菩薩立像とよく似た仏像で、顔も東アジアっぽくない。当時中央アジアで暮らしていたイラン系の民族によってつくられたものだろう。
裙も短めだが、その衣がジグザグに垂れたり、襞の端がジグザグに表されたりと、ガンダーラの影響を強く受けている。ただ、ジグザグの衣文線は様式化され、天衣の端にはびっしりと並んでいる。
仏像や仏画の制作は、技術の高い工人を現地に呼び寄せて造らせたりするが、このような持ち運びできる像は、もたらされた場所でコピーをつくることができるという点で、伝播に貢献している。
金銅菩薩立像 五胡十六国時代(4世紀) 高8.4㎝ 個人蔵
同書は、小像ながら、頭部の形式や、胸飾り、腕釧、左手の小瓶、天衣の掛け方、背面の衣褶など諸点が形式を共にする点で貴重であるという。
将来像を真似て鋳造を重ね、オリジナルからかけ離れてしまったようだ。それでも目鼻立ちがはっきりしていて、西域系の住民がつくったことを感じさせる。
ギザギザの衣文線は残っている。
思惟菩薩像 4世紀中葉-5世紀末(キジル石窟の発展期) キジル石窟38窟主室前壁
左手に絡んだ天衣の端に、白線でジグザグの衣文線が見られる。
飛天図 高昌郡ないし高昌国期(327-640年) 新疆ウイグル自治区、トルファン郊外火焔山中、吐峪溝石窟20窟後壁北端上層
曲線的だが、左右対称にギザギザの衣文線が表されている。
仏立像 西秦(385-431年) 甘粛省蘭州郊外、永靖炳霊寺第169窟北壁後部
炳霊寺石窟は西秦時代という、かなり早い時代に開鑿された石窟で、しかも開創期の仏像が残っている。
『北魏仏教造像史の研究』は、甘粛省の祁連山脈北側の山々に囲まれた長さ1000㎞に及ぶいわゆる「河西回廊」は、インドから西域を経て敦煌、長安へと通じる仏教の幹線路であった。西秦が都を置いた金城、苑川、枹罕は当時仏教が盛んであった長安と姑臧の中間に位置し、東西に行き交う求法僧の通過地であったため、国内外の高僧が集まったという。
左手の下に垂れた長衣や、右手でつまんだ衣の端がギザギザになっている。
これをギザギザと決めつけるのは強引かも知れないが、このような体に密着した衣や、薄い衣を通して体の線がわかる表現は、5世紀のインド、グプタ朝の仏像の特徴でもある。
それについてはこちら
しかし、ギザギザの衣文線は同窟内の菩薩像に残っている。
菩薩半跏像 西秦 同第169窟西壁下部 塑造
右膝にのせた左脚から垂れる裙が、左右対称の曲線的なギザギザの衣文線となっている。藤井有鄰館蔵菩薩立像の衣文線に似ている。
菩薩交脚像 北涼(5世紀前半) 甘粛省敦煌莫高窟第275窟正壁 塑造
『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』は、莫高窟は前秦・建元2年(366)、僧楽僔によって開創されたという。しかし、開創期にさかのぼる洞窟は現存していないという。
裙は両脚にぴったりと貼り付くような薄い衣で、襞は凸線でほぼ平行に表されるが、裙の中央部には、褪色した青色でと細い刻線で、ギザギザの衣端が表されている。
また、両肩に掛けた披巾の衣端は外側に反り返り、青い色のギザギザと、その外側に模様のある布の端が、やや丸みのあるギザギザで表現されている。
そして裙にもギザギザの衣文線がある。前中央部で、左右の布が合わさっているところが、襟のように折り返しになっているし、実際にはそんなことがあり得るのかどうかわからないのだが、ふくらはぎの上側にも同様の衣端がかかっている。
如来坐像 北魏(5世紀後半) 山西省大同市雲崗石窟第20窟正壁 石造
同書は、文成帝の和平(460-465)の間に曇曜が、帝都平城(現、大同市)の西、武州塞において、山の石壁を彫って石窟を5か所開き、各窟に仏像を1体ずつ彫り出すことを奏上したと伝え、これが現在の雲岡石窟のことと考えられるという。
涼州式偏袒右肩の着衣は、左肩から腹部中央へと向かう袈裟の衣端と、右肩に掛かった衣の端に、ギザギザの衣文線が刻まれている。
涼州式偏袒右肩について『北魏仏教造像史の研究』は、本来の偏袒右肩では、袈裟は背面を左肩から斜めに横切って右腋下へ回るのであるが、背面側の衣の縁を引っ張り上げて、右肩に懸けているのである。
このような変則的な偏袒右肩は、浅井和春氏が「涼州式偏袒右肩」と命名したように、涼州一帯で早く出現したように見える。ただし、ガンダーラの塑像やギリシャ・ローマ彫刻の中には、これと近似する着衣表現が認められ、直接的ではないにせよ、関連があった可能性も否定できないという。
涼州式偏袒右肩は河西回廊で生まれたものと思っていた。
その後もギザギザの衣文線は続いていく。
如来三尊像うち両脇侍 北魏正始2年(505)以前 龍門石窟古陽洞正壁右側
曲線的なギザギザの衣文線が裙の裾にある。
裳懸座にもギザギザの衣文が並ぶ。
仏三尊像うち二尊 北魏時代後半(494-534年) 甘粛省天水県麦積山石窟第133窟第3号龕
北魏時代は、孝文帝が洛陽遷都後推し進めた漢化政策によって、人民だけでなく、仏像も双領下垂式の中国式服制となり、重く分厚い服装をしている。
主尊の両手から下がる大衣の衣端は、ギザギザの線を描きながら台座にまで長く垂れている。
本来は下半身に裙を着け、上半身は裸の菩薩も中国式の服装となり、天衣の端にギザギザに折りたたまれた衣文が見えている。
菩薩立像(蝉の菩薩) 北魏-東魏(6世紀) 石灰石・彩色 像高97.2cm 博興県崇徳村龍華寺遺跡出土 山東省蔵
膝あたりから、裙の中央に左右対称のギザギザの衣文線が2段見られる。今は失われた両足にかかる衣端は曲線的に折れ曲がり、ギザギザの衣文線が装飾的に変化している。
金銅菩薩立像 高65.0㎝ 北周(557-581) 東京藝術大学美術館蔵
蝉の菩薩よりも裙が短くなり、中央から左右にギザギザの衣文線が繋がっていく。天衣の衣端もギザギザの衣文線があり、裙の傍に添って左右に広がる。
アルカイック期の衣文が仏像の衣文に←
→ギザギザの衣文線は半島経由で日本にも
関連項目
身体にそった着衣はインドから?
※参考文献
「世界美術大全集4 ギリシア・クラシックとヘレニズム」 1995年 小学館
「中国石窟 永靖炳霊寺」 甘粛省文物工作隊・炳霊寺文物保管所 1989年 文物出版社
「中国石窟 天水麦積山」 天水麦積山石窟美術研究所 1998年 文物出版社
「中国新疆壁画全集 克孜爾1」 中国壁画全集編集委員会編 1995年 新華書店天津発行所
「中国新疆壁画全集6 吐峪溝・伯孜克里克」 中国壁画全集編集委員会編 1995年 遼寧省新華書店
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館
「中国の金銅仏展図録」 1992年 大和文華館
「北魏仏教造像史の研究」 石松日奈子 2005年 ブリュッケ
「中国・山東省の仏像 飛鳥仏の面影展図録」 2007年 MIHO MUSEUM
「金銅仏-東アジア仏教美術の精華展図録」 2002年 泉屋博古館
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