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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2022/04/22

古代ローマ オスティアのかさ上げ


オスティアではテベレ川の氾濫で洪水の被害もしばしばあった。
しかし、『古代ローマの危機管理』は、洪水は「脅威レベルは高い」が、予測が可能なためコントロールに成功したリスクである。ローマにおける洪水の歴史をまとめた研究によればローマを流れるティベリス川は定期的、おそらく数年に1回、雨期である秋から冬にかけて氾濫したことがわかっている。ティベリス川の上流で氾濫していれば、おそらく河口のオスティアでも同時に氾濫していた可能性が高い。つまり、定期的という点で、オスティアにおける洪水はかなり予測可能な災害であった。
オスティアを定期的に襲った洪水の痕跡は地盤のかさ上げという形で残っているという。

オスティア・アンティカの地図
オスティア・アンティカの地図 『ANCIENT OSTIA A PORT FOR ROME』より


『古代ローマの危機管理』は、帝政初期にカルド・マキシムスが旧街道の道筋をそのままにかさ上げ修築され、その後2世紀後半に中央広場浴場がさらにかさ上げされた人工地盤上に建設されていくなかで、アウグストゥス帝時代の地盤面に立つローマおよびアウグストゥス神殿が保存されたために生じた人工的なものであるという。

オスティアの中心⑪カピトリウムとフォロ周辺図
A:カピトリウム B:広場(フォロ) C:デクマノマッシモ通り D:ラレス・アウグストゥスのための小神殿 E:ローマとアウグストゥスの神殿 F:フォロのトイレ G:フォロの浴場 H:クリア 9:ディアナ通りのテルモポリウム
オスティア・アンティカ フォロ周辺図 『OSTIA GUIDE TO THE ARCHAEOLOGICAL  EXCAVATIONS』より


同書は、オスティアの中心部には、「カピトリウム」を代表として、多くの公共建築物が建ち並ぶが、これらの建物は一挙に建設されたのではなく、共和政の末期からハドリアヌス帝の時代にかけて、徐々に整備されたため、「かさ上げ」の影響をもっとも多く受けた区域であるという。
予測可能であっても、街中に濁流や土砂が流れ込むのを防ぐ手立ては「かさ上げ」だけ。
洪水後の度にかさ上げをした。その証拠がフォロに示されていた。

その南にはDラレス・アウグストゥスのための小神殿
説明パネルは、フォロの中心に位置する大理石の基壇に安置された円形の記念碑は、皇帝を守ったラレス・アウグストゥスの神々に捧げられた小さな神殿である。
内部に壁龕があるレンガ造りの建物は、後51年に設立された教団を担当する司祭が費用をかけて建設したという。
建設当時はもっと地盤が低くかったし、上部構造も高かっただろう。


その奥にあるのは、Eローマおよびアウグストゥス神殿
同書は、神格化されたアウグストゥス帝を祀る重要な神殿を簡単に廃止することはできず、その結果、貫通道路の中央部分からローマおよびアウグストゥス神殿のエリアは周囲にくらべ凹地となってしまったのであるという。


基壇部分が埋もれた付け柱
同書は、カルド・マキシムスと呼ばれる南北の幹線道路沿いに巨大な円柱ピラスター(付け柱)が残っているが、よく見ると基壇部分が地中に埋もれている。ピラスターを据えた後に、街路面がかさ上げされたためにこのような奇妙な風景となった。もちろん、発掘により柱礎が露出したが古代ローマ時代には埋没した状態であったという。
埋もれた柱は見学できなかった。
カルド・マッシモの埋もれた柱 『古代ローマの危機管理』より


同書は、ほかにも街路の舗石のかさ上げ工事が中断されたような痕跡や街路の下にモザイクが発見された例もあるという。

バルコニー通り 
『望遠郷 ローマ』は、4、5世紀に貴族が多くの建物を自分たちの邸宅に変えたさい, ほとんどの住民が町をあとにしたらしい。その後9世紀のサラセン軍の攻撃で、町は完全に放棄されたという。
街路の舗石のかさ上げ工事が中断されたような痕跡というが、次の洪水が到来する以前に、オスティアは人が住まない街となっていたようだ。
オスティア・アンティカ バルコニー通り 『古代ローマの危機管理』より


消防士の宿舎通り 街路の下にモザイクが発見された例
GOOGLE EARTHで見ると、この街路は通行止めになっているようだ。左側はネットゥーノ浴場外の貯水槽だろう。
オスティア・アンティカ 街路の下に舗床モザイク 『古代ローマの危機管理』より


ディアナの家のディアナ通り側(南面)
『古代ローマの危機管理』は、「ディアナ通り」の北側には店舗が並ぶが、その間口は街路面から0.8mも高い位置にあり、とても入りやすいとはいえないという。
店舗の出入口は地面よりもかなり高い。インスラへの入口には大きな石が2段に積まれている。ということは、せめて建物の中に入り込まないように、下部を街路よりも高く造ったのだろうか。

ディアナの家西面
南面よりもしっかりした段が設けられている。

ディアナの家の西向かいの角の建物
南側が高くなっているので、傾斜のあるところなら不思議ではないともいえるが、ディアナの家の方はこのような傾斜は見られない。


ディアナ通り南側のテルモポリウム
オスティア・アンティカ ディアナ通りのテルモポリウム 『ANCIENT OSTIA』より

テルモポリウムの入口付近
東側から西側へいくに従って、段が高く、あるいは深くなっている。
『古代ローマの危機管理』は、向かい側の「テルモポリウム」と呼ばれる居酒屋は、前面街路より床が低くなっている。これでは、雨が降ると雨水が内部に流れ込んでしまうため、入口に少し凸部を造って防いでいる。わざわざ床の低い建物を造ることはありえないため、この低さは「かさ上げ」の結果と見ることができるという。 
道路のかさ上げ以前に造られた建物だった。
オスティア・アンティカ ディアナ通り南側のテルモポリウム 『古代ローマの危機管理』より
これが浸水を防ぐ入口の凸部


北側のインスラと南側のテルモポリウム

反対側から見たディアナ通り
同書は、ディアナ通りの北側には店舗が並ぶが、その間口は街路側から0.8mも高い位置にあり、とても入りやすいとは言えない。
向かいの店舗は、将来のかさ上げを見越した建物といえるだろう。もし次に、0.6mほどのかさ上げが実施されれば、テルモポリウムは建て替えあるいは床のかさ上げを余儀なくされるが、向かいの店舗はちょうどよい床面になる(実際にはかさ上げされなかったが)。このように、建物に大きな影響を与える「かさ上げ」は、慎重に「計画」されなければならないが、オスティアの中心部では、やや場当たり的な対応、つまり街路を挟んで床面に大きな高低差が生まれるような結果を招いているという。
奥に見えるディアナの家もディアナ通りのかさ上げ以降に、「将来のかさ上げを見越して」床面を高く造ったものだった。

そのため、インスラで宿泊していた人々は、我々のように石段を登って入口に向かっただろう。では店舗へ出入りする人はどうしたのだろう?
店舗には四角い穴が並んでいるので、木の梁を渡した木造の天井だった。




関連項目

参考文献
「OSTIA GUIDE TO THE ARCHAEOLOGICAL EXCAVATIONS」 2013年 IL CIGOLI G.G.EDIZONI

「ANCIENT OSTIA A PORT FOR ROME」 VISION S.r.L. 2015年

「古代ローマ人の危機管理」 堀賀貴 2019年 九州大学出版会
「望遠郷 ローマ」 1995年 ガリマール社・同朋舎出版・編

2022/04/08

古代ローマ オスティア・アンティカの消防士の宿舎


❹ネットゥーノ浴場のパレストラを出て奥の建物へ。
オスティア・アンティカの遺跡地図 『ANCIENT OSTIA A PORT FOR ROME』より


『古代ローマ人の危機管理』によると、ネットゥーノ浴場の東側には貯水槽があったという。
それは、消防士の宿舎通りとパレストラ通り(下写真の通行止めの柵がある街路)の交差点から消防士の宿舎通りに沿ってあるので、この写真に写っている。

ディアナ通りに面したテルモポリウムの中庭にあった貯水槽と似ている。


❿消防士の宿舎へ。

消防士の宿舎平面図
『古代ローマ人の危機管理』は、四面を街路に囲まれたこの独立建物は周辺からの類焼の心配は低く、計画的かどうかは不明であるが、南側に「ネプチューン浴場(ラテン語ではネプトゥヌス)」があり、すぐ向かい側には水汲み場と大きな水槽がある。

もちろん、消防署の中庭隅にも自前の泉があり水を汲むことができる。また建物の東西の隅にはトイレもあり、兵士に近い消防署員の詰所になっていたことがうかがえるという。

オスティア・アンティカ 消防士の宿舎平面図 『古代ローマ人の危機管理』より

北側の遺構


西側の遺構 アウグステウム(皇帝崇拝の祭壇)
円柱以外に四角い台座のようなものが祭壇上にいくつか、祭壇前に4つ。神格化された初代皇帝アウグストゥス像以外にはローマの神々の像が祀られていたのかな。


中庭正面から見た消防士の宿舎とアウグステウムの想像復元図
『古代ローマ人の危機管理』は、さらに中庭に面する皇帝崇拝の祭壇(アウグステウム)は、周辺の建物とは路地で隔てられており、いわば二重に独立の建物となっている。最悪の場合、たとえ消防署の中に火が燃え移っても、祭壇だけは類焼しにくい平面となっており、祭壇と建物の間の路地にはヴォールト天井が架かっており二階ではつながっていたが、少なくとも地階では独立した区画になっているという。
オスティア・アンティカ 消防士の宿舎とアウグステウム 『ANCIENT OSTIA』より

アウグステウムと西側の部屋を隔てる通路、火除地
同書は、オスティアには、巨大な複合街区が存在するが、内部に公的にアクセスできる、つまり門や出入口が施錠されていない路地(火除地)があり、街区内の火元へのアクセスはポンペイよりもはるかに容易であるという。

(参考写真)粉挽き場近くの火除地。この先に小さいながらも貯水槽もあった。


アーチ門近くに南北2つの四半円形の泉
泉というからには、深くないところから水が湧き出ていたのだろう。

南側の泉(隠れている)が😉


回り込むと円筒形に見えたが、実際は平面図にあるように1/4円形。
『ANCIENT OSTIA』は、中庭で訓練を行った兵士の沐浴のための2つの大きな泉があったという。
消火用ではなかった。そうか、ポンプ車は各所の水槽から水を汲んだのだ。


東北側の遺構

同書は、ま
ぐさ(リンテル)において、レンガによる緩やかなアーチを構成していることに気が付く。オスティアのリンテルは木材を渡すのが一般的で、レンガで水平アーチ(形状は水平だが、レンガを弧状に並べ、目地が放射状に走るアーチ)を造ることもあるが、消防署のように、レンガでアーチを造る形式は、他にも見られるものの、手間がかかるため、決して一般的とはいえない。消防署では、現在確認できるリンテルのすべてがアーチ状の形式で、相当な手間をかけた構造といえる。これは、火災が発生した場合、木製のまぐさはひとたまりもないが、耐火材のレンガを、水平でなくアーチ状に積むことで、炎の熱によって目地の漆喰が脆くなっても崩壊を防ぐことができたと思われる(極端にいえば、目地の接着強度がゼロになっても乾式アーチ、つまり積み木のように積んだアーチとして荷重を負担できる)。とくに東端の部屋では、さらに壁体の中にアーチを埋め込み、より頑丈な出入口を造っているという。
まぐさは楣のことで、ずっと後の時代のロマネスク様式の教会入口には石材を渡し、その上に浮彫のあるタンパンがある。

古代ローマ時代には半円アーチが一般的だが、ここの2つのアーチは、弧を描かず確かにほぼ水平である。
また、右側の水平アーチの上は壁がほとんど失われているが、少しだけ埋め込みアーチが残っている。ロマネスク様式の建物にも補強のための埋め込みアーチは見られる。
しかしながら、素晴らしい古代ローマ建築の技術は異民族の侵攻、統治によって失われてしまい、盛んに教会が建てられるロマネスク様式の初期の頃は、アーチやヴォールトを架けるのも大変だったと、昔々読んだ本に書かれていた。


東門のアーチも半円よりは浅い。


同書は、51番の部屋の敷居には、ポンプ車が走った痕跡といわれる車輪跡が残っているという。

ポンプ車が素速く火事場に行けるように、敷居には最初から切込を入れていたのでは?

オスティア・アンティカ消防士の宿舎51室の轍 『古代ローマ人の危機管理』より

同書は、西側はもともとは店舗であったが、ハドリアヌス帝の時代に、内側の路地に向かって開口をもつ倉庫群に改築されたという。

内側の建物がアウグストゥスの祭壇ということになるのかな。

オスティア・アンティカ 消防士の宿舎南西面 『古代ローマ人の危機管理』より

同書は、おそらく、同時に南側の部屋の窓も閉じられ、明かり取りの穴だけに改築されている。

街路側の開口を小さくするのは、防火には有利であるが、正面の壁体は閉鎖的でまるで要塞のような重厚なレンガ造建築物であるという。

オスティア・アンティカ 消防士の宿舎南面 『古代ローマ人の危機管理』より


『古代ローマ人の危機管理』は、すべてが残っているわけではないが、おそらく地階の天井は不燃材のコンクリートによって造られたヴォールトあるいは交差ヴォールトとなっている。ちなみにオスティアのヴォールト天井には、ほとんどの場合、平レンガ(薄い板のようなレンガ)によるライニング(内張)が施されており、レンガの断熱効果によってコンクリートに熱が伝わるのを遅らせることができ、崩落の危険を低減する効果があったと考えられる。

さらに想像を巡らせれば、芯部のコンクリートが砂のように脆くなってしまっても、レンガが形状を保てば、崩壊は免れるかもしれない。オスティアに限らず古代ローマのコンクリートは、骨材(セメントに混ぜる石)の比率が大きいだけでなく、骨材そのものも大きいため、骨材を固着させるセメントが強度を失っても、骨材どうしがかみ合って、持ちこたえられる可能性があるという。

果たして消防士の宿舎にも地階はあったかどうか。

オスティア・アンティカ ディアナの家地階の平レンガ内張 『古代ローマ人の危機管理』より

『ANCIENT OSTIA』は、
クラウディウス皇帝はすでにオスティアに消防団員を駐屯させており、都市の守備隊から切り離されていたが、後137年にハドリアヌスが、今日でも見ることができる二階建ての複合施設を建立した。ここには400人の当直の男性がいて、柱状のアーケードに囲まれた広々とした中庭に並ぶ部屋に住んでいた。
東側には入口があり、西側の中央にはアウグステウムがあった。実際、彼の定義によれば、皇帝は軍の指揮官である帝国の唯一の所有者として、軍事部門の最大の権威だった。
消防士の装備は、斧、鎌、つるはしで、記録によると、火を消すために、汲み上げられた水に加えて、酢に浸した毛布を使用したことがわかっているという。
人々が集中して暮らす都市では、こんな風に火災から建物を守り、人々を守る体制と工夫がなされていたのだ。

                  →古代ローマ オスティアのインスラ(集合住宅)

関連項目

参考文献
「古代ローマ人の危機管理」 堀賀貴 2019年 九州大学出版会

「ANCIENT OSTIA A PORT FOR ROME」 VISION S.r.L. 2015年



2022/03/25

古代ローマ オスティア・アンティカの墓地で石積みを復習


以前に南イタリアを旅したものをまとめたものの、集中力が途切れて頓挫していたオスティア・アンティカ編だが、『古代ローマ人の危機管理』のおかげで、やっとまとめるきっかけができた。
見学の様子は旅編にて。

オスティア・アンティカのローマ門へ至る道には、ローマや他の街と同様に墓域が設けられている。市壁の外に墓地が造られたのだ。

『ANCIENT OSTIA』は、ネクロポリスは、社会的レベルの低い市民はあまり使用されていない。ポルタロマーナの墓地遺跡は、前2世紀から後3-4世紀まで、植民地の裕福な階級と役人によって使用されていた。通りの北側は港湾専用だったので、墓地は通りの南側だけを占めていた。最も古い墓は前2世紀の可能性があるが、壺に故人の遺灰を納める単純な構造で、装飾は浮彫がある程度だった。

前1世紀から、凝灰岩のブロックで作られた最初の墓域の囲壁が登場し、そこで火葬の儀式が行われ、その後壺に納められた。前1世紀の終わりに最も普及したのは納骨堂だった。これは家族の墓であり、二階建ての場合もあり、壁に沿って多数の壁龕が存在するのが特徴とであるという。

オスティア・アンティカ セポルクリ通りの納骨堂 『ANCIENT OSTIA』より

時間があればこれも見学したかったが、通りから写したアーチのある墓所がこの納骨堂だった。

ポンペイやエルコラーノでさんざん見てきたが、時をおいてオスティア・アンティカの写真を見てみると、ローマン・コンクリートの壁面はやっぱりすごい。

強度のためか、デザインなのか、網目積みとレンガ積みが入り組んでつくられている。

しかもそれが広い墓所を巡っている。


表面の網目積みの石を、赤と黒を交互に配しているのも洒落ている。
遺跡なので、壁体が部分的に残っていて、その上面が保護のために何かで充塡されているのが大半だが、この壁面の切石やレンガの間からのぞいているのは、当時のローマン・コンクリートである。ポッツォーリ産の火山灰が石の間からのぞいている。石の剥がれたところでしっかりと見えていた
🤩


ポンペイやローマだけでなく、オスティアでも、ローマン・コンクリートで建造物は造られた。
2枚のに沿って外側の石を並べ、その中に石のかけらなどの骨材を入れたコンクリートを流し込んで、固まったら板をはずすというのがローマン・コンクリートの技法である。
現代では、先に造られた壁面にタイルを貼るという2段階の作業が、古代ローマでは一度にできたともいえる。

以前にまとめたことがあるが、『望遠郷 ローマ』ではとても分かり易い解説があった。
同書は、ローマの建築は長いあいだ 大きな四角い石を使ってきたが、早くから壁の表面仕上げの石積みと壁の内部とを別々にする組積法を採用していた。
壁の内部の充填材、 オプス・カエメンティキウムは、割石をモルタル、石灰と混ぜたもので、非常に堅固だが美的ではないため、表面の仕上げが必要である。
はじめは❷割石積み、続いて❺網目積みが表面仕上げとして用いられたが、すぐに❸レンガ積みの表面仕上げに替り、ローマの市壁の表面を覆ったという。
❶ 内部充填材(オプス・カエメンテキウム) ポッツォーリ産の火山灰と石灰、骨材となる割石を水で混ぜ、表面となる割石やレンガの内側で固まったもの。表面の石が剥がれると、この
❷ 割石積み(オプス・インケルトゥム) 不定型な割石を表面に積んだもの
❹ ある程度は形を整えた石を斜格子に積んだもの
❺ 網目積み(オプス・レティクラトゥム) 割石を斜格子に積んだもの
❸ レンガ積み(オプス・テスタケウム)
❻ 切石レンガ積み 切石をレンガの積み方で積む     以上『望遠郷 ローマ』より
古代ローマ 石積みの種類 『望遠郷 ローマ』より

また、複数の積み方をすることもあった。
A:隅を大型の石組みにし、壁のほかの部分は表面を網目積み
B:隅をレンガ積みとし、壁は表面を網目積
C:レンガ積みの壁にトラヴァーチンの扉枠        以上『望遠郷 ローマ』より
古代ローマ 混合積みの方法 『望遠郷 ローマ』より

では、石材はどのように切り出したのかというと、
『望遠郷 ローマ』は、表面を覆っている岩を取り除いた後、石工が壁につるはしで溝をつけて、切石の形と大きさを決める。切石は、採掘の段階から、建築家が必要とするものに近い形と大きさで切り出されるという。
A:階段状の切出し  B:採石面  C:天井をささえるように掘り残した石柱
D:掘進面  E:石目  F:ころを使った古墳石の運搬
トラヴァーチン:ティヴォリ近郊でと れる白っぽい石灰岩
凝灰岩:火山岩の塊で、色はさまざまである        以上『望遠郷 ローマ』より
古代ローマの石切場 『望遠郷 ローマ』より

切石の運搬と据えつけの方法
左端:浮彫で残っている。巻き上げクレーンで石を挙げる作業図
1. 運搬用のロープを引っ掛けるための「ほぞ」を石の表面につくる
2. 切石の左右の側面に小さなくぼみをつくり、金属製の石ばさみの「爪」で挟む
  この機械ではてこを用いた手動ウィンチによって、石を移動させることができる
3. 切石上部に蟻ほぞ状にあけられた穴に吊り楔を差しこむ  以上『望遠郷 ローマ』より
切石の運搬と据え付けの方法 『望遠郷 ローマ』より

おまけ
オスティア・アンティカでは円柱はモノリス(一本もの)の石柱だったが、ポンペイなどでは、白い漆喰からレンガが露出した円柱を見かけた。

写真は市民広場西列柱廊


それがどのように造られたかも、同書では図解してある。

一般的な円柱と溝彫りのある円柱

同書は、ローマ人は、ついにはレンガ積みの円柱を立て、それに溝彫りの外観を与えた。柱は、化粧漆喰で仕上げられたという。

古代ローマ レンガ積みの円柱 『望遠郷 ローマ』より

割りそろえられるレンガ

『望遠郷 ローマ』は、こうした定尺ものの正方形レンガは、オプス・カエメンティキウム(充填剤)の壁の表面仕上げのためのものである。表面は、刻み目で分割されていて、切断できるようになっている。定尺の大きさにより、2、4、8あるいは18というように、三角形の仕上げ用レンガに分割されるという。

古代ローマ レンガ積みの円柱 『望遠郷 ローマ』より




古代ローマ 窓ガラスの作り方←   →古代ローマ オスティア・アンティカの消防士の宿舎

関連項目

参考文献
「ANCIENT OSTIA A PORT FOR ROME」 2015年 VISION S.r.t

「望遠郷 ローマ」 ガリマール社・同朋舎出版編 1995年