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2018/04/27

東洋陶磁美術館 唐代胡人俑展


話は前後するが、大阪市立東洋陶磁美術館には開館35周年記念「唐代胡人俑展」見に行った。
長らくご無沙汰していたせいか、何と特別展も平常陳列も撮影可になっていた。

「唐代胡人俑展」は、同展図録によると、2001年に甘粛省慶城県で唐代の游撃将軍穆泰(660-729、730年埋葬)の墓が発見され、その中から彩色鮮やかで、写実的な造形の胡人俑などが出土して大きな話題となりました。穆泰墓出土の胡人俑は、ソグド人などの胡人の姿を生き生きと表現していて、胡人俑の中でも最高傑作といわれていますという。
墓室は横穴式

同展図録は、穆泰墓は緊急発掘であったため、すでにかなりの破壊や盗掘を受けており、俑をはじめとした副葬品の本来の配置状況などはほとんど分からない状況であるという。
 これらは会場のパネルを写したもの。

せっかくなので、幾つかの俑を撮影した。

加彩胡人俑 唐開元18年(730) 高44.2㎝ 慶城県博物館蔵
同展図録は、躍動感あふれる劇的な表現となっており、その姿態は駱駝を牽く胡人俑に通じるものがあることから、これも牽駝俑と考えてよいだろう。もみあげと一体になった口ひげやあごひげは波打ちながらシャベル状となっており、太鼓腹を露出した胡人俑など穆泰墓出土の胡人俑の特徴的な表現となっている。円領で窄袖(筒袖)の黄色の胡服(長袍)を着ており、白地に朱や黒で宝相華のような半円形の花文があしらわれた縁取り装飾が見られる。腰にはベルトを巻き、右腰部分には黒色で円形のポシェットのような袋状のものを付けており、これは『旧唐書』にも記載のある「鞶嚢」と思われる。下には細身のズボンを穿いており、その模様から虎皮製であろうという。
この腰のベルトに提げたり取り付けて持ち歩く鞶嚢と呼ばれる小物入れについては以前に取り上げた。
それについては関連項目で 
この胡人の履いている虎皮製というズボンは金彩されているように見えた。

加彩胡人俑・加彩駱駝 唐開元18年(730) 高 俑53.0駱駝77.0㎝ 甘粛省慶城県穆泰墓出土 慶城県博物館蔵
同展図録は、この胡人俑と駱駝の組み合わせも当初のものであるかは不明であるが、その大きさや姿態のバランスを見る限り極めて自然といえる。胡人俑は、彫りの深い顔立ちで、目は大きく、鼻はかなり高く、立派な口ひげとあごひげをたくわえた典型的な中央アジア方面のイラン系胡人の特徴を見せている。袷部分には朱と白の半円形の花文の縁取りが見られる。下には赤褐色の虎皮のズボンを穿いており、足には先のとがった黒いブーツを履く。右手(欠損のため修復)を高く上げ、顔は右手先を仰ぎ見るようにし、左手は左腰脇で固く握り締め、まさに手綱を牽いている姿を劇的に表現している。一方、駱駝はフタコブラクダで、やや白い胎土に黄色の彩色が施されており、首周り、コブ、脚の付け根、尻尾等の部分には黒色による毛並みの表現が見られるという。
駱駝は肢を揃えて立ち止まっている。手綱を引っ張られ、牽かれて歩き出す前の瞬間を表しているのだろう。
前肢の膝上の鰭状のものが気になる。胡人のあごひげの表現と同じく、鰭状に表しているのかな。
その目が飛び出しそうなくらいで迫力がある。動くのが嫌そうだ。
副葬した時には手綱で繋がれていたかも知れない。
駱駝俑と言えば唐三彩では?

駱駝及び牽駝男子 唐、8世紀前半 三彩 駱駝:高89.0長68.0幅27.0㎝ 男子:高60.0幅21.0奥行20.0㎝ 河南省洛陽市関林120号墓出土 洛陽博物館蔵
『唐の女帝・則天武后とその時代展図録』は、駱駝とそれを牽く男子の一対の俑。現在、手綱は失われているが、両手を引き絞り、腰をひねり、力を込めて掛け声を発するかのように開口した人物の姿には、首をもたげて嘶く駱駝を御そうとする瞬間の様子が、ありありと捉えられている。唐代(618-907年)の写実的な作風が如実に示された一例といえようという。
しかしながら、穆泰墓出土の駱駝の表情や、手綱を引っ張って駱駝を動かそうとする胡人の手の位置ほどの迫力は感じられない。

加彩馬 唐開元18年(730) 高64.0長55.0㎝ 甘粛省慶城県穆泰墓出土 慶城県博物館蔵
『唐代胡人俑展図録』は、穆泰墓から出土した3点の加彩馬のうち、本作は最もサイズが大きなもの。剥落は激しいものの、全体に淡い黄色の加彩が見られる。馬体の肉付きは均整がとれており、四肢は細長くしなやかでエレガントである。首を左にひねり顔を左方に向け、口を開けて歯を剥き出し、いななく様を表している。鬣は両側にそって刻線を入れ、加彩の線と点で毛並みを表している。他の2点とは異なり、鞍を置かない「裸馬」となっている。躍動感を内に秘めたような芸術性の高い迫真的造形は胡人俑にも通じるものがある。当時、国営の馬の牧場が現在の甘粛省一体に多数あり、多くの軍馬が放牧されていたという。
体の表現は素晴らしいが、胴体に比べて頭部が小さ過ぎるように感じたのは、顔を遠くに、胴体を近くに写したからだろうか。
加彩馬 唐開元18年(730) 高48.8長34.0㎝ 甘粛省慶城県穆泰墓出土 慶城県博物館蔵
同展図録は、この馬だけは唯一全体に赤い加彩が施された、いわゆる「赤馬」である。筋骨隆々の引き締まった馬体を見せ、首を伸ばして頭をやや左下方に垂れ、鼻息を荒くし、いなないている。唐代には加彩や三彩などにより様々な馬の模型がつくられたが、精悍な馬の躍動感を迫真的に表現したその造形力において、本作は名品の一つに数えられようという。
顔が極端に小さいのが、穆泰墓出土の馬俑の特徴の一つではないだろうか。
騎馬狩猟人物 唐、8世紀前半 灰陶加彩 高35.9長32.0幅13.6㎝ 陝西省西安市東郊豁口唐墓出土 西安市文物保護考古所蔵
『唐の女帝・則天武后とその時代展図録』は、騎馬人物俑の一群中のうち。それぞれ、馬上や手に、犬、鷹、豹などの動物が表されていることから、狩猟を意味するものと考えられる。人物や動物の表情や肢体にみられるように、各種の形姿が活写され、躍動感あふれる唐時代の造形力の高さをよくうかがうことができるという。
馬上の人物は深目高鼻の胡人で、縮れたあごひげの表現がリアル。右腕にネコ科の動物を抱えているが、頭部などが欠失していて詳細は不明。
穆泰墓出土の馬俑の方が頭部が小さいように感じるのは、顔の向きのせいだろうか。

騎馬笠帽女子俑 唐、麟徳元年(664)頃 黄釉、加彩、貼金 高37.0長26.4奥行10.8㎝ 陝西省礼泉県鄭仁墓出土 陝西歴史博物館蔵
『唐の女帝・則天武后とその時代展図録』は、唐の太宗の陪塚から出土した。
短衣(衫)のうえに半袖の上着(半臂)をつけ、裙をはいて馬にまたがる。右手は体側に垂れ、左手は手綱をつかむような仕草をする。頭巾様のかぶりものを付けた上に笠状の帽子をかぶる姿は、類例を見ず、斬新な形制である。馬は、前肢を突っ張り、下を向いて口を開け、その背には、雲文の飾られた鞍を負う。馬に乗る女性の姿には、時代の気風が端的に示されていよう。
淡い黄色の釉薬をほどこした上に、白・黒・緑・朱で彩色するという、新出の技法をいち早く採用し、一部に金箔も用いて、やや大味な造形を上手におぎなっているという。
女子は細身に表され、服装は中国の伝統的なものである。
馬も筋肉を誇張してはいない。その割に頭部が大きい。
馬俑の頭部を年代順にみてみると、時代が遡るほど頭部が大きく造形されていることがわかった。
山西省大同市宋紹祖墓出土の伎楽騎馬俑(北魏、太和元年、477)の馬は農耕馬のようにがっしりとして、頭部も大きい。
河北省磁県茹茹公主墓出土の馬に乗った文官の俑(東魏、武定8年、550)の馬は細身でその頭部も小さい。
山西省太原市賀抜昌墓出土の騎馬俑(北斉、天保4年、553)は肉付きの良い体だが頭部は小さい。
寧夏回族自治区固原県李賢墓出土の甲騎具装俑(北周、天和4年、569)の馬の頭部は小さいが、全体に他の俑よりも稚拙なつくりで、地方作ということばで表現して良いのかな。
でも、山西省太原市斛律徹墓出土の騎馬俑(隋、開皇17年、597)の馬にはやや筋肉の表現が見られるが、首が短く、その分頭部が大きく見える。
あまり頭部の大きさにこだわることもないのかも。

それよりも金箔はどこに。
馬のたてがみは加彩が剥がれて白く見えるだけで、金箔ではない。女子の衣装にも、鞍敷の雲文にも金箔は見られない。
そんな風に見ていって、面繋や尻繋の黒い紐に金箔が残っていることに気付いた。
穆泰墓にも金箔で装飾された俑がある。 

加彩女俑 唐、開元18年(730) 高46.0㎝ 甘粛省慶城県穆泰墓出土 慶城県博物館蔵
『唐代胡人俑展図録』は、頭に黒の幞頭をかぶり、額の部分には薄地の網目状の絹のような織物で覆われており、ふくよかな顔立ちで、眉は太めで凜々しく、鼻筋は通り、目は切れ長で細く、黒目は小さい。口は小さめで、朱の塗られた厚みのある唇は柔らかさを感じさせる。口の両側の頬には小さな黒い点が見られるが、これは「靨鈿」(ようでん、あるいは「廠靨」と呼ばれる一種の化粧法)であり、さらに両側から上瞼にかけてはピンクがかった化粧の彩色も見られることから、女性であることがわかる。目に鮮やかな朱色の円領(丸襟)のゆったりとした胡服(長袍)をまとい、朱地には中央が丸く抜けた白色の菱形状の文様があしらわれているという。
胡人ではなく胡服を着た唐人、しかも女性を表しているのだった。
『図説中国文明史6』は、唐代は開放的な社会であり、婦女は自由な境遇のもと、他の時代のような復古的な礼教の束縛を受けることはありませんでした。李氏唐王室は、もともと隴西(甘粛)の少数民族の出身で、礼教のタブーが少なかったのですという。
上の初唐期の女性と比べると、かなりふっくらとした体型である。 
『唐代胡人俑展図録』は、胸前を大きく開き、襟を大きく折り返して翻領(折り襟)として、折り返された部分には花文とともに金彩(貼金)による豪華な装飾が施されている。長袍の衣紋は深い刻線で流麗に表され、衣の柔らかい質感が伝わってくるという。
貼金で植物文様を象っているようにも見えるし、植物文様の地に貼られているようでもある。

加彩女俑 唐、開元18年(730) 高43.0㎝ 甘粛省慶城県穆泰墓出土 慶城県博物館蔵
同展図録は、唐代には各時期に様々な髪型が流行したことが知られているが、この俑は中央で環形状に結った髪を額前に垂下させており、両耳やうなじ部分は髪に隠れ、全体にボリューム感のある髪型となっている。かなりふっくらとした顔立ちで、目は細く切れ長で鼻筋が通り、口は小さめで、口元にかすかに笑みを浮かべている。奈良の正倉院伝来の「鳥毛立女屏風」に描かれた唐風天平美人像の源流ともいえる唐美人の気品を感じさせる優品といえるという。
胡服もいろんな着方をして楽しんでいたのだ。
腹前で合わせた袖口は左右対称で様式化されているものの、裙の左上から右下へと斜めに通る衣文線は体の微妙なねじりを表し、体に沿う柔らかな胡服の質感まで、非常に丁寧に表現している。
鳥毛立女屏風についてはこちら
後ろ姿(説明板より)
外にはおった円領の胡服は、折り返した襟の内側に金彩による飾りが施されており、豪華な仕上がりとなっている。当時、こうした円領の胡服は女性たちが着用することも多く、こうした金の縁飾りは女性用の一種のおしゃれであったかもしれないという。
金箔は彩色された花文の地に貼り付けられているようだ。 

 
加彩胡人俑 唐、開元18年(730) 高43.0㎝ 甘粛省慶城県穆泰墓出土 慶城県博物館蔵
同展図録は、厚くたくましい眉毛と切れ長の目、そして鼻筋が通り、ややふっくらとした頬で小ぶりの愛らしい唇をもった精悍な美男子の趣を見せている。黒目の中央部分は丸く彫り込んで立体感を与えており、これは穆泰墓出土の他の俑にもみられる手法である。頭には幞頭をかぶり、円領の胡服を着る。胡服は胸前で右衽(右前)としており、中には朱色の内衣がうかがえる。前の裾の部分はたくし上げて、左右それぞれ背中の部分のベルトに挟み込んでおり、より動きやすい機能的な着方といえる。右肘を突き出すように「く」の字状にまげ、左手も上げ、両手を握り締めて綱のようなものを牽く姿をしており、これも牽馬俑の類と考えられる。その優しげな表情と柔らかな顔立ちから、あるいは女性なのかもしれないという。
この俑も男性だと思って見ていた。そして深目高鼻の胡人には見えないと。
胡服は茶褐色のような色合いで、白色の六弁の花柄文様があしらわれており、一際目を引くという。
この六弁の花文という文様はあまり見たことがないような。クチナシかテッセン(鉄線)の花をデザイン化したのかも。

加彩女俑 唐、開元18年(730) 高41.2㎝ 甘粛省慶城県穆泰墓出土 慶城県博物館蔵
同展図録は、頭には黒い幞頭をかぶり、黒いベルトを締めた服装などから、一見男性のようにも見えるが、額には朱の「花鈿」が見られることから、女性であると考えられる。服装の着こなし方はやや複雑であり、重ね着と折り返しなどを巧みに駆使している。一番外側には黒色の円領の胡服を着るが、左肩を脱いでおり、中に着た黒地に朱と白の円形文様が施された服をのぞかせている。そして、胸前に挙げた左腕には朱色で深いドレープを効果的に見せた袖口の大きな寛袖を垂らしており、これは円形文様のある上衣の内側に着た服の袖のようであるという。
そのドレープの規則的な襞は、丸みを帯びず鋭角なのが意外。鏝(こて)でしっかりとプリーツを付けているのだろう。
左脚も裾をたくし上げて、それぞれ異なる文様の重ね着を少しずつ見せるという凝りよう。
その後ろ姿(説明板より)。
胡服の左袖を脱いでいることが、線刻で表現されている。
穆泰は、夫人にいろんなおしゃれをさせて、それを描かせていた。それを元にそれぞれの俑をつくらせたのかも。
俑は人物や荷役の動物に留まらない。
 


何故穆泰の墓と特定できたかというと、中国では墓誌を副葬するからだ。

穆泰墓誌 唐、開元18年(730) 高10.0幅36.0奥行36.0㎝ 甘粛省慶城県穆泰墓出土 慶城県博物館蔵
同展図録は、灰陶質の方形の蓋と身からなる盒子状の墓誌で、それぞれ角が面取されている。蓋表には白の加彩(白粉)により大きな宝相華のような花文が一つ描かれており、蓋と身の側面にも花文のようなものが描かれているという。 

墓誌銘(パネルより)は蓋の内面に、刻線によって仕切られた縦15行にわたってやはり白い加彩により記されている。第1行目には「唐故游撃将軍上柱國前霊州河潤府左果毅穆君墓誌銘」とあり、墓誌銘からは、穆泰は隴西天水(現在の甘粛省天水市)の人で、唐開元17年(729)に70歳でなくなり、翌開元18年に慶州城北5里(約2.5㎞)のところに埋葬されたことが分かる。穆泰の家系については、北魏時期に改姓した鮮卑貴族(漢化した鮮卑人)ではないかとの説もある。穆泰の身分階級は游撃将軍で従五品下となり、決して高くはない。しかし、出土した胡人俑などの加彩俑は、唐代の数ある陶俑の中でも極めて優れた出来栄えと芸術性を見せており、穆泰の名を一層高めることになったという。
木簡が並んでいるようだった。

この特別展は、穆泰墓出土に特化しているため、出品数としては60という限られたものだが、その図録は大きさも図版も凄い!

表紙はインド系胡人俑
裏表紙
彼は豹皮のズボンを穿き、左腰に黒い鞶嚢を提げている。鞶嚢は右だったりするが、像としてのバランスで左右を決めるのか、それとも利き腕によって左に提げる人、右に提げる人がいたことを示しているのだろうか。
図録のあるページには、このインド系胡人の顔が大写しになっていたり、
いろんな方向から写した図版がこれでもかというほどに収まっている。
もちろん、他の胡人俑も大画面で。
それほどまでに、穆泰墓出土の俑は、一つひとつが個性的で、表情も細かく描写されているのだった。
 
東洋陶磁美術館 乾山の向付は椿だった←  →東洋陶磁美術館 館蔵品で見る俑の歴史

関連項目
中国の唐時代の三彩と各地で模倣された三彩
第66回正倉院展3 鳥毛立女屏風には坐像もある
唐では袋物の形で身分を表した
唐では丸い袋を腰から下げるのが流行か
帯に下げる小物入れは中国や新羅にも
騎馬時の服装は
鐙と鉄騎 何故か戦闘に引き込まれて
東洋陶磁美術館 朝鮮半島の白磁
東洋陶磁美術館 朝鮮半島の白っぽい陶磁
 
参考文献
「唐代胡人俑 シルクロードを駆けた夢展図録」 2018年 大阪市東洋陶磁美術館
「宮廷の栄華 唐の女帝・則天武后とその時代展図録」 1998年 東京国立博物館・NHK
「大唐王朝 女性の美展図録」 2004年 中日新聞社
「図説中国文明史6 隋唐 開かれた文明」 稲畑耕一郎監修 劉煒編 2006年 創元社
 

2016/09/23

始皇帝と大兵馬俑展6 馬の鞍


『始皇帝と大兵馬俑展』では、軍馬の俑も展示されていた。

軍馬 陶製 高172.0長203.0㎝ 秦時代(前3世紀) 始皇帝陵2号兵馬俑坑出土 秦始皇帝陵博物館蔵
同展図録は、騎馬兵とともに並べ置かれていた。背中に騎乗のための鞍があり、それが二重構造である点は北ユーラシアに展開する騎馬文化と相通じるものであるという。
この時期には、鞍はあっても鐙というものはまだなかった。
二重構造の鞍
平たい鞍なので、列点状の凹みのあるものが鞍だと思っていたが、そう言われると、その下に四角い布のようなものがのぞいている。その布は馬の肩あたりで付け足されて、前肢の付け根あたりまで短冊状の布きれが出ている。

たてがみは前端を左右に分けているほかは短く刈り揃え、左側では一束だけ垂らしている。実戦馬という視点から見ればこれは飾りなどではなく、実用的な用途があると想像される。兵馬俑坑においては、戦車を牽く馬にはこの種の垂らしたたてがみを見ないことから、たとえば疾駆する際に騎乗者が身の安全をはかねための手がかりにしたとも考えられるという。
ある乗馬の達人に聞くと、馬が耳を前に向けているのは機嫌のいい時なのだそう。
この馬を見ていて、一束のたてがみを掴んで馬に乗っていたと想像したのたが、疾駆する際に掴んでいたとは。
そういうと、もう10年以上前のことになるが、兵馬俑坑を見学した時に、軍馬と騎乗者を撮影していた(フィルム時代)。人物と比べると馬は小さいので、乗るときに一束のたてがみを掴む必要はなかっただろう。

同展には、もっと古い戦国時代の秦の墓からも、兵馬の「陶俑」が出土している。

騎馬俑 兵馬俑の先駆け
陶製、彩色 総高220.長18.4幅7.4㎝ 戦国時代(前4-3世紀) 咸陽市塔児坡28057号墓出土 咸陽市文物考古研究所蔵
同展図録は、馬と人物とを別作りとする騎馬俑。人物は丸襟で右衽の衣を着ている。左手で手綱を引き、右手には武器を持っているのだろうか、いずれも軽くこぶしを握っている。頭髪は後頭部でこぶ状にまとめており、その上に赤い頭巾のようなものをかぶっている。馬は表面を丁寧に磨き上げており、光をあてれば光沢がでるほどである。また、馬の頭や背には面繋などを表現する朱彩がよく残るが、馬全体にも茶系の彩色を施していたとおぼしき痕跡がある。始皇帝時代の陶工の伝統をさかのぼれば、本品のような咸陽地区における戦国時代の秦の最古段階の俑へといきつくのだろうという。
乗馬の達人は、モンゴルでは、手綱は左手で持ち、右手で鞭をふるっていたという。この像もそんな風に見える。
朱で面繋などを描いているが、鞍らしきものは見当たらない。鞍は描き分かれただけか、それとも付ける習慣がなかったのか。
筒袖の長衣を帯で留めている。秦の騎兵が中国伝統の袖の長い服で、それをたくし上げているのに、それ以前にすでに胡服と呼ばれる騎馬遊牧民の服装も採り入れていたのだ。

始皇帝陵の軍馬には二重の鞍が取り付けられていた。そっくりな鞍が戦国時代の秦の領土からはるか西の墓から出土している。

馬具 前4-3世紀 新疆ウイグル自治区スバシ1号墓地11号墓出土
『スキタイと匈奴』は、スバシの1号墓地11号墓からは、鞍がほぼ完全な状態で発見された。この鞍は、中にあんこの入った枕のような革製品を2つ並べて縫い合わせて作られている。座布団かクッションのように軟らかい素材で作られているので、軟式鞍と称することができよう。
前部(図版で左側)から中央やや後方にかけて幅が広くなり、後部に向かってまたやや狭くなる。3-4列の革紐の縫い目が見られるが、中のあんこが偏らないようにするための工夫であろう。これは、始皇帝陵の兵馬俑に見られる鞍とまったく同じ作りである。胸繋の革紐が鞍の前部の断面から出ている点も同じであるという。
ということは、当時この地で暮らしていた騎馬遊牧民とも交流があったということかな。

『始皇帝と大兵馬俑展図録』は、戦国時代の国々が遊牧民「匈奴」から取り入れた代表的なものに、騎兵とその装備をあげることができる。筒袖の上着を革帯で留め、ズボンを履く騎兵の服装は「胡服」と呼ばれ、従来の中国で定着していた、袖と裾の長く垂れた服装よりも、はるかに乗馬に適したものであった。秦もまた匈奴から騎兵の知識や良質な馬を取り込み、自軍の強化に努めた。始皇帝の頃には、騎兵が秦軍のなかで部隊を組めるほど定着していたことが、出土した兵馬俑によって知られるという。
スバシ1号墓地は匈奴の墓地だったのだ。

『スキタイと匈奴』は、これらの鞍の原型にあたると思われる鞍が、パジリクで発見されている。これも枕のようなクッションを2つ並べて縫い合わせて作られており、前部から中央やや後方にかけて幅が広くなり、中のあんこが偏らない工夫が施されている。ただしパジリクでは胸繋が鞍の前部からではなく、腹帯の上部から出ていた。これでは位置が低くてずんぐり落ちてしまうため、胸繋の中ほどから馬の首の後ろを通る革紐を1本伸ばして引き上げていた。同じような革紐の存在は、ピョートル・コレクションの金製帯飾板にも見られるという。

樹下戦士文飾り板 スキタイ・シベリア(前4世紀) ピョートル・コレクション エルミタージュ美術館蔵
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、馬はたてがみを一部刈り込んで飾られ、尾はおそらく布か紐で巻き束ねているようであるという。
馬の鞍には横方向に数本の筋が見られるが、これは中の詰め物が片寄らないようにするための刺子縫いであろう。この鞍の構造や、胸繋を腹帯に結び付けていること、尻繋に篦状装飾がつけられていることは、パジリク出土の馬具と完全に一致するという。
匈奴の鞍と似た「軟式鞍」は、東方ユーラシアでは共通していたのかも。
鞍と馬の体の間には、やはり別の布のようなものがありそう。

『スキタイと匈奴』は、このような軟式鞍の胸繋がずり落ちる欠点が改良されてスバシ出土の軟式鞍が登場し、それを趙の武霊王が採用して、さらに秦の始皇帝の時代にも伝わったのであろうという。
戦国時代の秦では、まだ「軟式鞍」はなかったのだ。

     始皇帝と大兵馬俑展5 銅車馬と壁画の馬←
                             → 始皇帝と大兵馬俑展7 繭形壺

関連項目
鐙はどこで、何のために発明されたのか?
中国最古騎馬像は
始皇帝と大兵馬俑展8 陶鍑
始皇帝と大兵馬俑展4 銅車馬と文様
始皇帝と大兵馬俑展3 銅車馬
始皇帝と大兵馬俑展2 青銅器で秦の発展を知る
始皇帝と大兵馬俑展1 満を持した展覧会


※参考文献
「始皇帝と大兵馬俑展図録」 2015年 NHK・朝日新聞社
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 1999年 小学館
「興亡の世界史02 スキタイと匈奴 遊牧の文明」 林俊雄 2007年 講談社

2016/09/20

始皇帝と大兵馬俑展5 銅車馬と壁画の馬


秦の始皇帝陵西側で出土した銅車馬は実際の馬車をほぼ半分の大きさに青銅で造ったものだった。

1号銅車馬は先導車
2号銅車馬は轀輬車

そのような4頭立ての馬車が、咸陽宮3号宮殿の壁画に描かれていたという。

壁画の簡単な模写 咸陽宮3号宮殿址出土
『始皇帝と大兵馬俑展図録』は、あくまで推測の域を出ないが、筆者はこの画を宮殿の主人、つまり始皇帝が特殊な馬車の行列を従えて、異形の巨木が存在する神秘の世界へと向かい、また、神秘の世界から出発した別の馬車列に出迎えられることを願って描いたものと解釈した。ここで始皇帝が出会うことを期待しているのは、神秘の世界に住む、永久不滅の存在・仙人であろう。当時の人々は仙人と出会うという奇跡によってのみ、みずからも不滅の存在になりうるものと信じていたという。
始皇帝は、仙人に出会うための準備として、この2台の銅車馬を造っていたのだろうか。
第5間の壁画は、神仙世界というよりも、豪華な宮殿の様子を描いているように思われる。

車馬図 秦(前3世紀) 陝西省咸陽市秦咸陽宮3号宮殿遺址東壁 秦都文物管理委員会蔵
『世界美術大全集東洋編2秦漢』は、第3号遺址は、壁画は廊下の東西壁に描かれていた。損傷がはなはだしかったが、車馬図、儀仗図、建築図、植物図などがあった。現在までに発見された壁画では最古のものであるという。
上図の第4間壁画の中央の馬車の図のことだった。
出土した銅車馬から推測すると、1号馬車は始皇帝の先導車で御者だけが乗り、2号馬車は始皇帝が乗る轀輬車だが、その後ろにもう1台4頭立ての馬車が付く。護衛のためだろうか。

第4間には全部で3輌の馬車が北に向かって馳せ、これは2輌目にあたる。馬車は4頭立てで、車体は不鮮明でわずかに大小の2つの窓が識別できる程度だったが、馬はかなり鮮明であった。4頭がきれいに並んで、脚を前と後ろに伸ばして勢いよく疾駆するさまに描き、馬身は棗紅色で白い面具をつけ、湾曲した短轅も認められた。下方には松とおぼしきやや文様風の2本の樹木が2組配され、遠近感を出すとともに、馳道のような道路上を走っていることを明らかにしていた。始皇帝陵の兵馬俑や銅車馬と同時代の絵画として興味深い資料であるという。 
「龍のような文様」のような黒い輪郭線はないが、模写図のものとは雲泥の差のある壁画だった。

このように前肢と後ろ肢を広げて疾駆する馬は、魏晋時代(220-386年)の狩猟図にも描かれ、唐時代でも描かれている。その初現が秦時代にあったとは。

     始皇帝と大兵馬俑展4 銅車馬と文様←
                               →始皇帝と大兵馬俑展6 馬の鞍

関連項目
始皇帝と大兵馬俑展8 陶鍑
始皇帝と大兵馬俑展7 繭形壺
始皇帝と大兵馬俑展3 銅車馬
始皇帝と大兵馬俑展2 青銅器で秦の発展を知る
始皇帝と大兵馬俑展1 満を持した展覧会
第62回正倉院展4 大きな銀壺にパルティアンショット
パルティアン・ショットは北方遊牧騎馬民族のもの?
紫檀木画槽琵琶のトラは年賀には不向き

※参考文献
「始皇帝と大兵馬俑展図録」 2015年 NHK・朝日新聞社
「世界美術大全集東洋編2 秦漢」 1998年 小学館

2016/08/02

イシク・クル湖北岸の岩絵3 車輪と騎馬


青銅器時代の岩絵にスポークのある車輪や馬に乗る人が描かれていることに驚いた。
『Masterpieces of PRIMEVAL ART』でイシク・クル湖の青銅器時代について、
初期青銅器時代は前3500年-2000年、中期青銅器時代は前2000-1600年、後期青銅器時代は前1600-1200年、初期鉄器時代は前1200-450年としている。

車輪と騎馬 動物は新石器時代、車輪は青銅器時代 カラ・オイ
1本の車軸に取り付けられた2つの車輪、しかもスポークがある。
一番後ろには馬に乗る人物も。新石器時代にはまだ騎馬は行われていなかったと記憶しているので、これも青銅器時代のものだろう。

車輪 青銅器時代 チェト・コイ・スー
上の両肢が車輪に描かれたオオツノヒツジは何を意味するのだろう。
下は二輪を綱で繋がれて牽くオオツノヒツジ。車軸は左車輪のスポークの中央から出ているように見えないし、右の綱の弛みはなんだろう。

馬に乗る人物 青銅器時代 チェト・コイ・スーの巨岩の岩絵部分
シカを追う犬か肉食獣の前肢と後肢の間に、小さいが馬に乗る人物が描かれている。

太陽車輪 青銅器時代 鹿狩り 初期鉄器時代 チェト・コイ・スー
車軸に取り付けられた2輪や独立した車輪だけがこんなにたくさん描かれている。何かの願いが込められているのだろうか。
その上に、後の時代にシカを狙う人物と肉食獣が描かれた。新石器時代ともなると、馬上で弓を
射るほどに乗馬の技術があがったようだ。
かなり以前、騎馬が先か戦車が先かという記事を書いたが、現在でも騎馬が先か馬車が先かはわからないが、最初期の馬車あるいは戦車は、2枚の木の板を合わせて円形に整えたもので、スポークはない。

馬車模型 青銅 イラク、テル・アグラブ出土 前3千年紀前半 バグダード、イラク博物館蔵
四頭立ての二輪で、車軸の上に乗っている。
ウルのスタンダードより戦車図 イラク、ウル王墓出土 ウル第1王朝時代(前2500年頃) 大英博蔵
四頭立ての四輪で、後方に乗っている。車輪は2枚の板を継いで作っている。


トルクメニスタンのマルグシュ遺跡から出土した青銅製車輪の箍(前3-2千年紀)は、復元展示されているものを見ると、やはり木の板を継いで車輪にして、その外側を青銅の箍で補強している。

ギリシア、ミケーネの円形墓域A(前16世紀)出土の墓標には、二輪の戦車に乗る人物が敵を長槍で襲っている。戦車の車輪には4本のスポークがある。

テヘランのイラン国立考古博物館では、チョガ・ザンビル出土の青銅製箍のある車輪(復元品、前2千年紀)が展示されていた。  
光が反射して分かりにくいが、箍だけでなく、軸受の表面に青銅製の補強板を付けた12本のスポークのある車輪だった。
裏側からも見られるようにガラスになっているので、後ろの人たちが邪魔だなあと思いながら撮影したが、車輪の大きさが分かて良かったかも。
この大きさ、スポークが12本もあることから、戦車ではなく、かなりたくさんの荷物や人を遠くへ運ぶための荷車、つまり遊牧民に欠かせない乗り物の車輪だったのでは。

同考古博物館には、コブ牛の足が車輪になった土器がある。顔のところが削られていて、リュトンとして作られたもの。コブ牛の土器は前1千年紀前半、カスピ海南部のギーラーン地方で制作された。
イシク・クル湖北岸の岩絵の肢が車輪になったオオツノヒツジは青銅器時代なので、この土器よりも古い。

では、スポークのある車輪はいつ頃できたのだろう。『古代オリエント事典』は、車輪をもつ荷車がメソポタミアから急速に各地に伝播していったことが、前3千年紀初期の東ヨーロッパのテラコッタ製模型や荷車状容器などから明らかである。エジプトでは物資を運搬する荷車の本格的利用は、新王国時代以降のことでありヒクソスによってもたらされたとされる。第18王朝の初期に導入された2頭立ての馬が牽引する2輪のチャリオットとよばれる軽量の馬車(戦車)は、瞬く間に普及し、エジプトの軍事遠征でも盛んに利用された。チャリオットの車輪は、軽量化を図るために4本または6本のスポークをもつ構造となり、2頭の馬をつなぐための長い棒が車軸に取り付けられたという。
戦車の説明では、前2000年頃に輻が発明され軽量で大径の車輪ができ、またおそらく車体が幅広となったと考えられるという。前2千年紀前半に馬牽引(衡は部品を追加して牛に適した形から馬向きに改良され、金属製衡を使用、一部ラバ・ケッティも使用)が始まり、輻式二輪で戦闘狩猟用として特化した馬車が古代戦車として完成した形である。
戦車以前から車輌には社会的地位を示す機能があった。戦車の発明・伝播・使用法については不明な点が多く、再検討することが必要という。
輻は「や」とふりがながふってあるが、「ふく」とも読み、スポークのこと。

スポークのある車輪は前2000年頃に発明されたのなら、イシク・クル湖北岸にも中期青銅器時代(前2000-1600年)に伝播していただろう。
戦車はともかく、荷車のような物をのせる箱や台は描かれていないのは不思議。


イシク・クル湖北岸の岩絵2 サカ・烏孫期のオオツノヒツジは新石器時代のものが手本?←
               →イシク・クル湖北岸の岩絵4 ラクダは初期鉄器時代にやってきた

関連項目
イシク・クル湖北岸の岩絵1 シカの角が樹木冠に?

※参考文献
「Masterpieces of PRIMEVAL ART」 Victor Kadyrov 2014年 Rarity
「世界美術大全集16西アジア」 2000年 小学館
「古代オリエント事典」 日本オリエント学会編 2004年 岩波書店