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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2026/02/24

アナトリア考古学研究所が発掘しているヒッタイト時代の遺跡


アナトリア考古学研究所が発掘調査しているのは、カマンカレホユック以外にビュクリュカレとヤスホユックのヒッタイト時代の遺跡がある。
地図 Google Earth より
ⓐアンカラ ⓑビュクリュカレ Büklükale 遺跡 ⓒカマンカレホユック遺跡 ⓓヤスホユック Yassıhöyük 遺跡

ⓑビュクリュカレ遺跡について『古代オリエント ガイドブック』は、前 17世紀中ごろから中央アナトリア北部のハットゥーシャを中心として栄えたヒッタイト王国があった。それ以前のアナトリアでは、カールム(アッシリア商業植民地)時代のキュルテペ遺跡をはじめとする王国が隣立してアッシリア商人が活躍していたが、それらが崩壊してからヒッタイト王国成立までのことは詳しくわかっていなかった。しかし、現在発掘中のビュクリュカレ遺跡ではその未解明の時期が明らかにされはじめているという。
「暗黒時代」とも呼ばれてきた空白の時代に光が差してきたのですね。 
ビュクリュカレ遺跡 Google Earth より

この遺跡のすぐ南(上流)にアナトリア・セルジュク朝期に建造されたチェシュニギル ÇEŞNİGİR 橋がある。  カマンカレホユック博物館の写真パネルより


ビュクリュカレ遺跡 宮殿跡の発掘 写真パネルより

発掘中の貯蔵庫に並んだ大甕とその中に入る学生たち 写真パネルより
貯蔵用大甕が並んでいる。大甕の大きさと器壁が薄いことが分かる。

同書は、ビュクリュカレ遺跡の考古学調査の目的は、ここの前2千年紀、特にヒッタイト帝国時代の地方都市を調査し、カマン・カレホユック遺跡で確立した中央アナトリア編年における空白部を埋めることです。発掘調査は2009年に開始され、今日まで毎年継続されている。これまで地中磁気探査では「下の町」と呼ばれる都市部ではヒッタイト時代の箱式都市壁とそれより古い、アッシリア商業植民地時代と思われる二つの都市壁が確認されているという。
写真パネルの右の白っぽい城壁がヒッタイト時代だろう。すると、左のグレーの城壁はアッシリア商業植民地時代になる。


城塞部の発掘調査ではアッシリア商業植民地時代に属する宮殿址と思われる巨石建築遺構が出土している。
発掘では、長さ2mを超える巨石が用いられた、高さ7mを超える壁を持つ巨石建築物(長さ50×幅30m)が出土した。この建物は、その規模に加え多数の穀物貯蔵壺が出土し、公共建築物か王宮と考えられ、カールム時代からヒッタイト王国の初めまで居住されており、ヒッタイト王国成立前後の歴史解明において貴重な資料となっているという。
ビュクリュカレ遺跡 宮殿跡の内部 古代オリエント ガイドブックより


同書は、この大型建築物の南東隅からは二つの地下室が見つかり、大量の酒杯とともに白い大理石製のヒョウの頭部小像をはじめとする貴重な遺物が多数出土した。廃棄された大量の土器から判断すると、3000人以上が儀礼に参加し、酒を飲んだ椀を地下室に投げ入れ、地下室の底からのびる「坑道」から地界の神をよび寄せたと考えられる。これはヒッタイト時代以前のアナトリアの土着民ハッティの伝統である建築儀礼と考えられ、ビュクリュカレ遺跡の住人がハッティ人であった可能性を示しているという。

豹の頭部小像 ヒッタイト時代 大理石 ビュクリュカレ遺跡出土 
『古代オリエント ガイドブック』は、地下室から出土した。王笏に付けられたものと思われ、斑点にはエジプシャンブルーが、目には金とラピスラズリが象眼されているという。

エジプシャン・ブルー について『古代オリエント事典』は、エジプト青ともよばれる、珪酸・銅・石灰にアルカリ溶剤を加え加熱して溶融した化合物、艶のないざらっとした質感が外見上の特徴、しばしばガラスやその類似物質と混同されるが、その構造の大部分が結晶質である点でガラスと、表面に釉の皮膜がない点で施釉石や施釉陶器と、中心部まで均質である点でファイアンスと、それぞれ相違し区別できる。上記原料を粉末状にして混ぜ合わせ、 坩堝で摂氏900-1000度に加熱し2段階溶融して製造された、天然にもごくまれに存在するが、人工物はエジプトの第4王朝時代に初現するとされ、第18王朝に盛期を迎え、第 26王朝前半には、表面に赤・黄などの彩色を施したものも認められるという。


カマンカレホユック博物館で展示されていたガラス瓶は驚くべきものだった。

ガラス瓶 古ヒッタイト時代 前1600年頃 ビュクリュカレ出土
説明パネルは、前1600年ごろに消失した石造建築の一室の床面から出土したガラス製細口壺片は人類のガラス製作史上大きな意味を持ってる。ガラス製容器としては世界最古に年代付けられ、さらにガラス製作史上忘れ去られていたアナトリアで出土したことは、これまで古代ガラス製作の中心地とされていた北メソポタミア及びエジプトとは異なるガラス製作の中心地がこのアナトリアにあった可能性を示しているという。
ガラス製作はヒッタイトとアッシリアに挟まれていた国ミタンニが最初だと思っていたのに、ヒッタイトだったとは青天の霹靂や~、と早合点していた。

ところが、『古代オリエント ガイドブック』は、ガラス製作技術は前3千年紀ごろにメソポタミア北部で出現し、ヒッタイトに敵対したミタンニ王国を建国したフリ人が発展させたと考えられています。ビュクリュカレでガラス壺が出土したということは、フリ文化がヒッタイト時代よりも前にすでにアナトリアに深く浸透していたことを示しています。フリ人のガラス職人がアナトリアで活動していたのかもしれませんという。
制作地はヒッタイトだが、ガラス工人はフルリ人ということかな。こんな場合ヒッタイトでつくられたものとして良いのか、ミタンニとするのが適切なのか。

元の色や瓶の下部(何故か展示されていない) 写真パネルより

写真パネルより
このコアガラスが出土したのは、宮殿跡の地下室に廃棄された土器に紛れて。これがその地下室かどうかは分からないが😓


これまで見てきたコアガラスの瓶で似たものと言えば、イラク、アッシュール出土のコアガラス(前15世紀)。

西洋梨形瓶 イラク、アッシュール出土 前15世紀 高23.3㎝ ベルリン国立博物館蔵
元はどんな色をしていたのだろう。テペ・マルリク出土の モザイクガラス坏(前12-11世紀)のように本体が白で文様が赤だったとしたら、かなり派手な器だったことになる。
羽状文が頸部に2本、そのうち下方のものは上下に縄目文、胴部下方に1本、その上に縄目文。頸部の縄目文の下に垂綱文、その下に縄目文がもう1本。
そして、頸部と胴部の主文は縄目文を交差させた組紐文(ギローシュ)とその上下、真ん中の円文(一色のため目玉文とまではいかない)だ。このような文様帯はコアガラスでは今までには見られないものだ。
『世界ガラス工芸史』は、アッシリア帝国の首都であったアッシュールからは、やはり数多くの容器や容器断片が出土するが、この遺跡からは他の遺跡と異なった器形のガラス容器、例えば容器の底部にボタン状の突起のついた西洋梨形瓶や、三足付きゴブレットなどの容器が出土している。それだけでなく文様も眼球文を捻り文が囲んでいるというような同時代のエジプトでも見られるような文様もみられるという。
テペ・マルリク出土のモザイクガラス坏の脚部に似ている。
このような円文も目玉文というのか。
三足付きゴブレットはこちら
イラク アッシュール出土の西洋梨形瓶 前15世紀 世界ガラス工芸史より

ガラスをもう1点、何かわからないが、右端に穴があるので、丸い形のペンダントトップかも。


ⓓヤスホユック遺跡 写真パネルより
説明パネルは、ヤッスホユックは、クズルウルマック川の描く曲線に沿ってそのすぐ東内側にある遺跡としては、発掘調査されている数少ない遺跡の一つで、前3-1千年紀にかけて(青銅器時代-鉄器時代)、南東アナトリアと中央、北アナトリアを結ぶ古代の幹線路に沿って存在した重要な都市を代表する遺跡と考えられる。
ヤッスホユック頂上部で発掘されている大遺構は、北西-南東方向の軸をもち、15.40 X 11.70 m の広さをもつ中央の中庭もしくは謁見の間(R8)を挟んで、廊下や各部屋がまさしく左右対称に配置されている。所により2.30m余りの高さで残っている壁は、石積みの上に日乾煉瓦が積まれ、壁の前面は厚い化粧土と漆喰が塗られていた。R8の北西壁の中央部には、3段のステップがついた壇が設けられ、中央部には鍵穴型の炉(直径220㎝の円形の炉に110X80㎝の矩形の付帯部)が設置されている。ほとんどの部屋の床面には多数の中、大型の土器が押しつぶさてはいるが原位置で検出されている。展示されている遺物の多くはR8の南側の廊下状の細長い空間R27から出土した。
この建物は炭素年代測定により前2260-2135頃(前期青銅器時代末)と年代付けられているという。
ヤスホユック遺跡はビュクリュカレ遺跡よりも更に古そう。

中央に聖なる炉
央部には鍵穴型の炉(直径220㎝の円形の炉に110X80㎝の矩形の付帯部)が設置されているという。

近くの部屋

残念ながらヤスホユックで出土したものを撮影しているのかよく分からない。



参考文献
シリーズ「古代文明を学ぶ」 「古代オリエント ガイドブック」 阿倍雅史・津本英利・長谷川修一編 2024年 新泉社

「古代オリエント事典」 古代オリエント学会編 2004年 岩波書店

参考にしたもの
カマンカレホユック博物館の説明パネル


2026/02/17

後期ヒッタイトの神殿建築様式


ヒッタイト帝国の神殿について『ヒッタイト帝国 「鉄の王国」の実像』(以下『「鉄の王国」の実像』)は、ヒッタイトの神殿建築様式には一定の型があるという。

それをハトゥシャ(ボアズキョイ)の神殿群でみてみると、

大神殿の想像復元図(説明パネルより)
説明パネルは、実際の神殿は複合施設の中央に位置し、外部から完全に隔離されていた。
ハトゥシャ最大の神殿。おそらく、王国の最高神であるハッティの風神とアリンナの太陽の女神に捧げられたものと思われる。建物の土台部分のみが大きな石灰岩のブロックで造られていた。その上に、日干しレンガを積んだ木骨造りの壁が築かれていたが、現在では何も残っていない。今は、木骨造りの壁と石の土台を繋いでいたダボ穴が数多く見られる。神殿は、泥で固められた典型的な平らな屋根で覆われていたという。

また『「鉄の王国」の実像』は、中央には屋根のない中庭があり、大型の神殿の場合は列柱が中庭を囲む例もある。ヒッタイト語で中庭をヒラ hila といい、列柱で囲まれた広間をおそらくヒランマル hilammar といったようだ。
入口から離れた神殿の最奥に至聖所(神像が置かれ、礼拝が行われた部屋)がある。神殿の入口から至聖所に入るには必ず一度は曲がらなくてはならず、直線的には配置されていない。入口には守衛室のようなものがあり、部外者(身を清めていない不浄な者)が立ち入らないように厳しく管理されていたことが窺える。至聖所の隣には小部屋があり、神々(神像)が人間と同じように食事をし、就寝し、身を清めるための道具や供物が保管されていたらしいという。 
石積みの土台しか残っていないので、見学していると全体が見渡せて、下図のように視界を遮る壁がイメージしにくい。
❼正門 ➓本殿入口 ⓫中庭 ⓬祭壇 ⓭祭祀の間(2箇所) その周囲に貯蔵室


大神殿見学後はバスに乗って門巡りをして、車窓から上の町の神殿群を見ることしかできなかったが、それでも大小様々な神殿には中庭があるのは分かった。

『古代都市1 ヒッタイトの都ハットゥシャ アラジャフユクとシャピヌワ』は、その面積は大神殿の本殿よりもやや小さいが、内部の構造は似通っている。
北側に設けられた堂々たる階段を登ると広々とした玄関ホールがあり、その左右には小部屋が設けられていた。ホールを抜けると20×15mの広さの中庭があった。 この中庭の右奥にある小部屋の役割は解明されていないという。
❶No.5の神殿 ❷王の門 Google Earth より


『「鉄の王国」の実像』はこの中庭を指すヒラというヒッタイト語について、のちにアッシリア帝国に採用され、アッシリアの建築は「ビート・ヒラ二」(ヒラニの家)と呼ばれた建築様式で建てられていた。アッシリア人が「ヒッタイト風」と考えた建物というわけであるが、その実態はよく分かっていない。また、もう一つアッシリアがヒッタイト(後期ヒッタイト)から採り入れた建築様式があり、それは門や入口の両脇にライオンなど石製の巨像を配置することであったという。
かなり以前にヒッタイトのライオン像とアッシリアのラマッスについてまとめたことがある。その時にアッシリアのラマッスよりも前の後期ヒッタイト時代(前10-9世紀)に、アスランテペで城門のライオン像が造られていたことに気付いていたが、本当にそうだったことが判明してうれしい。
その記事については関連記事へ

城門のライオン像 石灰岩 高124㎝ マラティヤ、アスランテペ 前10-9世紀 アンカラ、アナトリア文明博物館蔵

もちろん一対です。足の指の表現が面白い。尾は後肢の間に巻いている。


それにしても、アッシリアのラマッスと後期ヒッタイト時代の門のライオン像の造形の違いは相当なものだ。

人面有翼牡牛像 前9世紀 アッシリアの首都カルク(現ニムルド)
『メソポタミア文明展図録』は、アッシュールナツィルパル二世(前883-859)はアッシュールからカルクに遷都した。彼はアッシリア宮殿建築の規範となった新様式の豪華な宮殿を建てた。これは伝統的なメソポタミア煉瓦建築に対する大きな革新であり、その実質は装飾に石材を集中的に使用したことにあったという。
この「新様式の宮殿」が後期ヒッタイト時代の宮殿から借用したピート・ヒラニというものだったのだ。

これらのライオンあるいは有翼人面雄牛像は神格を示す角付き冠を着けていた。彼らの像は側柱の役を果たしており、頭から前脚までの半像は丸彫りで、胸あたりから後半身は高浮彫だった。正面からも側面からも見られるように五本脚を特徴としていたという。
左奥には角が二対ある神が立っている。

時代が下がると、
人面有翼牡牛像 前721-705年 イラク、コルサバード、サルゴン二世の宮殿出土 アラバスター 高420㎝ ルーヴル美術館蔵
『世界美術大全集東洋編16 西アジア』は、新アッシリア時代には、宮殿の主要な通路や出入口に、巨大な石製守護像が設置された。巨像は、肩までかかる髪と顎鬚を有する人間の頭部に、翼をもつ牡牛の身体を組み合わせた想像上の生き物として表現された。頭部はほぼ丸彫りに近く、身体部は巨大な一枚岩に高浮彫りで表現されている。巨像は前9世紀のアッシュールナツィルパル2世の時代から前7世紀のセンナケリブ王の時代までの宮殿建築に盛んに取り入れられたが、それ以降に造られた宮殿からは出土しない。
アッシリアでは、一般に守護像を「ラマッス」と総称し、なかでもとくに人面有翼牡牛像は「アラドランムー」と呼ばれたという。
この図版でラマッスの肢がはっきりとわかる。前方から見た時に静止しているように前脚を2本揃えているが、側面から見ると、歩いているように4本の脚が見えるように造られているために、計5本の脚が彫り出されている。尻尾は後ろに垂れている。

ついでに、アッシリアのラマッスに影響を受けて造られたとしか思えないアケメネス朝ペルシアのラマッスも。

ペルセポリス万国の門の出口の人面有翼牡牛像 クセルクセス王期(在位前486-465)
肢は4本しかないし、膝の表現が変。

ということで、後期ヒッタイト時代のライオン像は、新アッシリア帝国そしてアケメネス朝ペルシアにまで影響を与えていたのだった。




関連記事

参考文献
「ヒッタイト帝国 「鉄の王国」の実像」 PHP新書1376 津本英利 2023年 株式会社PHP研究所 
「古代都市1 ヒッタイトの都ハットゥシャ アラジャフユクとシャピヌワ」(日本語版)2013年 URANUS
「Gods Carved in Stone The Hittite Rock Sanctuary of Yazılıkaya」 Jürgen Seeher 2011年 YAYINLARI

参考にしたもの
現地説明パネル

2026/02/10

ヒッタイト伝説の崩壊


『ヒッタイト帝国 「鉄の王国」の実像』(以下『鉄の王国の実像』)は、ヒッタイト帝国を説明する語句としてよく使われるのが、「鉄と軽戦車(チャリオット)を駆使して古代オリエントの大国になった」というものであるという。
このことは他の文献にも記されており、定説となっていて私もそう思っていたが、発掘調査や研究が進むにつれ、そうではなかったということになってきた。

大村幸弘氏の『鉄を生みだした帝国 ヒッタイト発掘』にヒッタイト民族が鉄と軽戦車を駆使し、前17世紀頃から前12世紀にかけてアナトリアに一大帝国を築き、オリエント世界で一大勢力を持ち、一時はエジプトさえ脅かしたという文がある。
ラメセス二世と闘ったカデシュの戦いでは、軽戦車の軸受に鉄を使っていたので負けなかったのだと思っていたのに。


出土している鉄製品

鉄剣 青銅器時代 前2500-2400年頃 アラジャホユック王墓出土 アナトリア文明博物館蔵
『鉄の王国の実像』は、1930年代に行われたトルコ中央部のアラジャホユックでの発掘で、「王墓」と呼ばれる前期青銅器時代(前3千年紀後半)の墓地群から、世界最古級の鉄剣が発見された。この鉄剣はのちに分析の結果ニッケルを多く含んでいることが判明し、宇宙から地球に落下した鉄でできている隕石、つまり隕鉄で作られたものであろうと推測されるようになった。隕鉄は地球のどこにでも等しく落下する可能性があるのだが、ヒッタイトの先住民であるハッティ人の時代に、このような隕鉄を利用した製品があったということで、「アナトリア=製鉄の発祥の地」という印象がさらに強くなったという。
ハッティ人の製鉄技術をヒッタイトが受け継いだと思っていた。
アナトリア文明博物館で見落としたものの中の一つがこれ。
アラジャホユックK墓出土の短剣 前2500-2400年頃 アナトリア文明博物館図録より


またアジェムホユック出土の象牙製容器にも鉄が使われている。
象牙製容器 カールム時代(アッシリア植民都市時代、前1950-1750) アナトリア文明博物館蔵
『シリーズ「古代を学ぶ」 古代オリエントガイドブック』(以下『古代オリエントガイドブック』)は、ラピスラズリとともに鉄の小球が装飾として嵌め込まれているという。
これもアナトリア文明博物館で見逃したものの一つ。
アナトリア文明博物館蔵アジェムホユック出土象牙製容器 シリーズ「古代文明を考える」 古代オリエントガイドブックより


『鉄を生みだした帝国』で大村幸弘氏は、鉄器ではなく鉄滓が出土したところが製鉄を行った地であるとして、調査を続け、最終的にアラジャホユックの博物館で鉄滓が展示されているのを発見し、その金属滓と思われる遺物のそばには、小さな真新しい白いカードの上に「デミール・ジュルフ (鉄滓)」と書いてある。そしてそこに前17世紀と書いてある。
ヒッタイト帝国の鉄のふるさとを追いつづけて8年間、その鉄が目の前にあるのであると記している。
実はこの本はずいぶん前に読んでいたのを読み返し、アラジャホユック博物館でこの鉄滓を見ることを楽しみにしていたのに、私が行った時には同博物館ではなく前々日訪れたチョルム考古学博物館にあると知らされた。チョルム考古学博物館でも旅の皆さんと「鉄はありませんねえ」などと言いながら巡ったのに、見落としていたのだった。

鉄滓 ヒッタイト帝国時代 前17世紀 チョルム考古学博物館蔵
アラジャホユック遺跡出土の鉄滓 鉄を生みだした帝国 ヒッタイト発掘より


鉄と人間という関係でみると、『古代オリエントガイドブック』で増渕麻理耶氏は、ヒッタイト時代よりはるか昔、少なくとも今より5000年以上前から、利器としてではなく宝石のような扱いで装飾品や儀礼用具に用いられてきました。それが、ヒッタイトのみならずオリエント各地で、いったいいつから利器に変化していったのか、そして鋼の製造技術がいつごろ産業レベルに到達したのかなど、まだまだ多くの不明な点があります。今後、出土製品の調査に基づく客観的な研究が進むことで、今までの定説をくつがえすような事実が明らかになることが期待されますという。


ところで、ヒッタイト帝国は、ミケーネを皮切りにやウガリトその他の東地中海世界と同じように前1200年ごろ滅亡してしまった。それが「海の民」によるものだと言われてきたが、それも近年では否定されている。
このことについて『古代オリエントガイドブック』は、東地中海世界の秩序を一変させた「文明崩壊」。その背景に何があったのでしょうか。近年、各地で実施された古環境調査から、この時期に長期にわたる旱魃(降水不足)があったことが明らかになっています。この大旱魃は、3.2kaイベントとよばれる(3200年前に起きた)地球規模の気候変動の一端で、青銅器時代に終止符を打った「文明崩壊」の要因の一つになったと目されますという。

NHKの「フロンティア 古代文明 同時崩壊のミステリー」(2023年)では長期間の旱魃、相次ぐ大地震、天然痘の流行などが広範囲に起こったためとしていた。

『古代オリエントガイドブック』は、東地中海を覆った騒乱をもっとも鮮明に伝えているのが、エジプトのラメセス三世がメディネト・ ハブ神殿に残した浮彫です。地中海東岸を荒らし回り、エジプトを目指して南下した外来の集団を、 海と陸の戦いで撃破する様子が刻まれています。この諸集団は現在「海の民」とよばれ、エーゲ海方面から新天地を求めて移住してきたさまざまな人々の混成集団であったと考えられます。その中心となったのが当時ペレセトとよばれた人々で、最終的にはレヴァント南部の南部海岸平野に定着したようです。後のペリシテ人であるととらえることができますという。

メディネトハブ葬祭殿の浮彫 ルクソール左岸
『古代オリエントガイドブック』は、エジプト軍の舟と「海の民」の舟が入り乱れる水上戦の場面。「海の民」の兜や装束には種類があり、出自の異なる人々の混成集団であることがわかるという。
諸集団を撃退することができたのがエジプト第20王朝のラメセス三世だったので、その時の様子を自ら造った葬祭殿の外壁に浮彫で残すことができた。
メディネトハブ葬祭殿外壁浮彫 シリーズ「古代文明を学ぶ」 古代オリエントガイドブックより

『「鉄の王国」の実像』は、前1200年頃に始まるヒッタイト帝国後の時代(初期鉄器時代)のアナトリアでは、文学史料はおろか土器も何も見つかっていなかった。そのためこの時代は「暗黒時代」と以前は呼ばれていた。しかし、日本隊が発掘するカマン・カレホユック、ドイツ隊が発掘するボアズキョイ、アメリカ隊が発掘するゴルディオンなどの遺跡で、1990年頃以降、その「暗黒時代」の土器が次々と認識されるようになり、「暗黒時代」はもはや存在しなくなった。という。

『「鉄の王国」の実像』は、ヒッタイト帝国は前1200年頃に滅亡したが、その時期も経緯も、今もって不明なままである。直接的に物語っているのは、前章の末尾に挙げたメディネト・ハブのラメセス三世による碑文のみであり、そこにははっきりと「ヒッタイトは『海の民」なる混成集団に滅ぼされた」と述べられている。果たしてこれは史実なのだろうか。

「海の民」が直接ヒッタイト領内に攻め込んできたのであれば、その証拠となる考古資料も出土するはずである。実際、前1200年頃を境に、エーゲ海の沿岸から東地中海の沿岸にかけて、「ミケーネⅢC式土器」という、前1200年以前のミケーネ文明で使われていた彩文土器に似たものが広く出土するようになる。ミケーネ文明もヒッタイトと同時期に何者かの攻撃を受けて宮殿が炎上し、その文明が崩壊しているのだが、この彩文土器は「海の民」の移動により各地へ持ち込まれたものと考えられる。ところが、この彩文土器はアナトリアでは沿岸部にしか出土せず、内陸ではほとんど出土していないという。

カマン・カレホユック層IIdではかつて暗黒時代と呼ばれていた時代に彩文土器が出土している。
カマンカレホユック博物館の説明パネルは、把手から伸びる大きな波線は、前2千年紀のギリシア、ミケーネ文化からの間接的な影響を示しており、この彩文土器文化が地中海地域からもたらされたことを示しているというが、同書は、カマン・カレホユックⅡd層からは彩文土器が新たに出土するが、同様の彩文土器の分布城は、同遺跡よりも南側の、主に地中海まで至るアナトリア南部である。建築物には掘立柱を使う特徴があるという。
ヒッタイト時代には石積みの土台に日干しレンガを積んだ壁に平屋根をのせていたという(『古代都市Ⅰ ヒッタイトの都』による)ので、ヒッタイト人ではない集団が生活していたのだろう。

同書は、前1200年頃以降、やはりアナトリア西部や地中海沿岸に、ヨーロッパと共通する青銅製の武器(長剣)や道具が出土するようになり、これはヨーロッパ方面から西アジアへの人間の移動を示す証拠となり得るが、これもヒッタイト本国のアナトリア内陸部では出土しない。つまり、「海の民」の痕跡はヒッタイト本国では確認できないのである。だが、ヒッタイト帝国の末期にボアズキョイ(ハットゥッシャ)などの各都市が炎上しているのはまぎれもない事実である。
こうしてみると、ヒッタイト帝国の滅亡に「海の民」が直接関わったということはほぼ考えられない。しかし、「海の民」による動乱が引き金となって、それまでヒッタイト帝国を支えていた様々な制度(システム)が機能不全を起こし、新たな不和(国民の分断、属国の自立)や争い(内戦)へと連鎖し、帝国が崩壊するに至ったと考えることができるという。


『「鉄の王国」の実像』は、アナトリアでは、鉄器時代初頭の鉄製品がまだほとんど発見されていない。一方カマン・カレホユックでは近年ヒッタイト帝国期の遺構が広く発掘され始めており、もしそこからヒッタイト帝国期の鉄器が出土すれば、後期青銅器時代と初期鉄器時代の鉄器を繋ぐ鍵となるかもしれないという。
これからが楽しみ!




関連記事

参考文献
「鉄を生みだした帝国 ヒッタイト発掘」 大村幸弘 1981年 NHK BOOKS
「アナトリア文明博物館図録」 アンカラ、アナトリア文明博物館
「ヒッタイト帝国 「鉄の王国」の実像」 津本英利 2023年 PHP新書1376
シリーズ「古代を学ぶ」 「古代オリエントガイドブック」編者阿倍雅史・津本英利・長谷川修一 2024年 新泉社
「古代都市1 ヒッタイトの都ハットゥシャ アラジャフユクとシャピヌワ」(日本語版)2013年 URANUS

参考にしたもの
「フロンティア 古代文明 同時崩壊のミステリー」 NHK 2023年

2026/02/03

アナトリア文明博物館 オルトスタット


アナトリア文明博物館の中央の広い展示室には石彫遺物がずらりと並んでいて、各地のオルトスタットの本物が展示されてる。

アナトリアのヒッタイト古王国時代から後期ヒッタイト時代までの遺跡群 Google Earth より 
❺アラジャホユック Alacahöyük ➓アスランテペ Arslantepe ⓫カルケミシュ Karkamış 


アラジャホユック スフィンクス門前左側のレプリカオルトスタット 前1399-1301 安山岩
『古代都市1 ヒッタイトの都ハットゥシャ アラジャフユクとシャピヌワ』は、アラジャフユクに残るヒッタイト時代の層(前1660-1200)から当時の繁栄ぶりが偲ばれる。石の土台に日干しレンガを積んだ城壁が町全体を囲んでいた。 正門は南側にあり、巨大な一枚岩に彫ったスフィンクス像が門を守っていた。
両脇の腰壁にはヒッタイト帝国時代、前14世紀の浮彫で飾られた安山岩製のオルトスタットが残されているという。

スフィンクス門に近いものから
祭具を担ぐ人々の前に供犠の動物が連れられている。間に人がいて写せなかったが浮彫欠損、王と女王が祭壇の前で祈りの身振りをしている。右端は台座に立つ牡牛が嵐の神を象徴しているという。

牡牛
説明パネルは、嵐の神の聖なる動物である。上下に割れた台座の上に鎮座している。ずんぐりとした体格で、脚は短い。大きな角を持ち、筋肉は発達しているという。
祭壇の前に立つ王と王妃
国王は右手に王国の王笏(リトゥス)を持ち、左手を前に伸ばして礼拝している。王妃は床まで垂れ下がる豪華な衣装を身にまとい、二人とも大きな輪の耳飾りを着けているという。



犠牲の動物を運ぶ人物
後ろ側が長い裾の衣装をまとった人物は、右手に背後から伸びる山羊の角を持っているという。
羊や山羊だろうが、なんと上の家畜の頭部が切れている。これではどんな角か分からへんがな。レプリカの方も角は残っていないが。

犠牲の背後で祭壇に向かって移動する3人の人物像
長い裾の衣装をまとった人物は、左手に曲がった先端を持つ笏のような物を持っているという。
上の王の持物である王笏ほど長くないし先端がカールしていないのでホッケーのスティックのよう。王に近い装備なので神官か高位の人物だろう。


つづき軽業師、楽士たち、不明

曲芸師と軽業師
左を向き、長い髪で短衣を着た曲芸師は短剣を飲み込み、その後ろにいる小柄な軽業師たちは、つかまることなく梯子を上っている。皆ノメアの頭飾りと、大きな輪が付いた耳飾りを着けている。曲芸師たちは異なる国の人物であると考えられており、そのため小さく描かれているという。

後方を向く楽士たち
ギターに似た楽器を演奏する人物像の後ろには、動物を抱えた人物像が続いている。左側は未完成という。
動物は犬のよう。

牡牛 未完成

そしてアナトリア文明博物館では右壁の宗教儀式のオルトスタットがあるが撮影し損ねた。右側側面のオルトスタットには楽士たちの行進が浮彫されていて、宮殿というよりも神殿の入口のようだ。


ヒッタイト帝国の各都市ではオルトスタットは現在のところ発見されておらず、アナトリア文明博物館に収蔵されているのは新ヒッタイト時代(皇帝とも、前1200-700年頃)のものになる。

カルガミシュ Karkamış(カルケミシュ Carchemish)
『ヒッタイト帝国 「鉄の王国」の実像』は、ヒッタイト帝国はその内部にタルフンタッシャとカルケミシュの二つの副王国があり、タルフンタッシャは西方の、カルケミシュは南方の属国の統治・管理を任されており、 半ば独立した強大な権限を持っていた。
ヒッタイト帝国滅亡後も、ヒッタイト帝国の流れを汲む文化や人々は、前1200年より後も生き延びている。ヒッタイト帝国の滅亡と共に滅びたのは、楔形文字によるヒッタイト語(ネシャ語)表記の伝統であり、ヒッタイト帝国の中期から使用が盛んになったルウィ語象形文字による筆記の伝統は、その後約500年にわたって続いた。これを「後期(新)ヒッタイト」時代と呼ぶ。
アナトリア南部のコンヤ平原、そして南東アナトリアからシリア北西部にかけての地域では、帝国時代には、それぞれヒッタイト王家の分家にあたる、タルフンタッシャ、カルケミシュの両副王国が存在した。この両国は、ヒッタイト帝国の滅亡を乗り越えて、その後も存続していたことが分かって来た。
カルケミシュ副王クズィ・テシュプの孫を名乗る人物が、カルケミシュやマラティヤという、後期ヒッタイト時代の都市国家の支配者になっているという。

『アナトリア文明博物館図録』は、新ヒッタイトの町は城壁で囲まれ、行政や宗教寸この大事な建物は一番高い地点の守りの固い所に、さらに別の壁に囲まれた城砦のように置かれていた。町は王宮、記念道路、広場などを中心に設計されていた。王宮はたいてい中庭を囲んで建物が並ぶ形だった。このヒラニと呼ばれる形はこの時代特有の建築様式である。方形の建物で、入口には円柱が立っていた。
他に新ヒッタイトの芸術の特徴として、彫刻と建築の混合したものがある。城壁の門と王宮のファサード(正面)はレリーフ飾りのブロック(オルトスタット)で覆われていたという。

オルトスタット 前900-700年 新ヒッタイト時代
HITTIE MONUMENTS の Karkamış によると、最初の本格的な発掘調査は1911年から1914年にかけて、D・G・ホガース、R・C・トンプソン、C・L・ウーリー、T・E・ローレンスらによって行われました。これらの調査では、新ヒッタイト時代およびアッシリア時代の重要な遺跡が発見され、防御施設、寺院、宮殿、そして多数の玄武岩の彫像、レリーフ、碑文などが発見されましたという。
T・E・ローレンスは、映画にもなったアラビアのロレンス。
その時に命名された箇所の名称が今も引き継がれていて、日本語に訳しにくいので、そのまま使う言葉もあります。同ホームページの City Plan の左から二番目の図を拡大すると、どの辺りのオルトスタットかが分かります。

カルケミシュ遺跡主要部  地図はGoogle Earth より
❶王の門 King's Gate ❷行列通りProcession Way  ❸王家のバットレス Royal Buttress ❹ヘラルドウォール Herald's Wall ❺水の門 Water Gate ❻長い壁 Long Wall ❼城塞への大階段 Great Staircase to the Citadel ❽嵐の神の神殿 Storm-god Temple(平面図では The Tmple ですが勝手に嵐の神の神殿と思っているので、間違いかも知れません) 


❶王の門のオルトスタット

狩猟用馬車の行進 石灰岩
説明パネルは、狩猟用の馬車。2名の人物が乗り、一人は馬車を操縦し、もう一人は矢を放っている。どちらの人物像も、頭蓋骨の形をした頭飾りをかぶっている。矢を放つ人物の腰についた短剣が目を引く。馬の脚の間には動物が描かれているという。

彫像の台座 初期の発掘調査中に組み立てられたアトリスハ像 L.ウーリー卿の発掘


❷行列の道は HITTIE MONUMENTS の Karkamış では椅子に坐った女神へ奉納品を運ぶ人々の行進のようだが、残念ながら撮影していなかった。ひょっとするとガズィアンテプの考古学博物館に展示されているのかも。


❸王家のバットレスのオルトスタット 

ヤリリス王の家族
アッシリア新ヒッタイト様式を最もよく反映した浮彫。頭部、顔、腕の丸みを帯びた輪郭が特徴で、顔と首のラインは巧みに表現されているという。
右端のオルトスタットは、王妃は息子を膝に抱きながら、もう一方の手で後ろから来る子馬の綱を握っているという。

ヤリリス王の10人の子供のうち8人
説明パネルは、上には、動物の骨の遊び道具(またはマメ科の花)を持った人物が3人、棒に寄りかかって歩いている人物が1人いる。下には、骨を弾いたり、くるくる回したりする人物が2人ずついるという。

ヤリリス王は息子カマニスの手首を支えている。王は手に笏を持ち、腰に剣を下げている。王子は杖に寄りかかり、肩に剣を担いでいる。ヒエログリフには「これはカマニスとその兄弟たちだ。私は彼の手を握り、彼がまだ子供であるにもかかわらず、神殿で彼を見付けた。これはヤリリスの像である」と記されているという。
ヤリリス王の頭部が剥落している。

兵士たちの行進

兜をかぶった3人の戦士の像
背中には盾、手には槍を持っている。

像の台座 2頭のライオンを制する勇者
背後は兵士たちの行進の続き

柱礎 何故正面から撮影しなかったのだろう。

楽士たち 
説明パネルは、2人の楽士は、長衣と幅広のベルトを着用している。1人は柄に房飾りのついたサズ(弦楽器)を演奏し、もう1人はフルートを演奏している。3人目の小さな人物はカスタネット(?)を手に持っている。右側の人物は、他の人物とは対照的に短いスカートを履いて、両手を頭の上に上げて指先を動かしながら踊っているという。


❹ヘラルド壁のオルトスタット

獣の主(ギルガメッシュ?)
説明パネルは、中央には、髭を生やした人物がひざまずき、左手で雄牛の角を、右手でライオンの後ろ足を持っている。このライオンの下には、胸と頭を失ったもう一頭のライオンがおり、さらにその下に小さなライオンがもう1頭いる。ライオンの頭の後ろには鹿が立っている。このレリーフは、動物の王ギルガメシュを描いたものと考えられているという。

ライオン狩り
右側の短いスカートに髭を生やした人物は、短剣でライオンを刺し、左手でライオンの尾を掴んでいる。左側は角のある頭飾りをつけ髭を生やした神で、斧を頭上に掲げながらライオンの後ろ足を掴んでいるという。

翼は一対だけの鳥頭人身の精霊が向かい合って両腕をあげている。
アッシリアの守護聖霊(ニムルド北西宮殿I室 前875-860年頃)の影響だろうか、

人面のスフィンクス
両側で後ろ足で立つ2体のスフィンクスが中央で後ろ足で立つ有翼の馬を攻撃しているという。

キメラ(キマイラ)
三つの頭を持つスフィンクス。有翼のライオンは、尾の先に猛禽類の頭を持ち、また、三つ編みの髪と円錐形の頭飾りを持つ人間の頭も持っている。足の細部は非常に鮮明であるという。

生命の樹と牡牛
生命の樹の両側には、一対の牡牛がひざまずいている。片方の足は樹の上にあり、もう片方の足は腹部に向かって曲げられているという。
一対の草食獣が生命の樹に前肢をあげているという場面を描いたものはこれまでにもあったが、それが重量級の牡牛とは。

獣面人身と人面獣身の守護神たち
ライオンの頭を持つ男たちの両手は、人間の拳の形をしている。中央の2人の牛男は手に槍を持っている。牛男はクサリック、獅子男はウガルとして知られているという。

ライオン男と牛男

ラクダ乗りの場面
歩くラクダの上には短いスカートをはいた男性がいるという。


❺水の門のオルトスタット 石灰岩

有翼のライオンが行進している。

木の幹を支える2人の牛男
木の幹は生命の樹ナツメヤシではないのかな
左:両こめかみに鎖の房飾りを持つ牛男の顔は正面から描かれているという。
長い顎髭しかわからない。
右:牡牛のような耳と脚を持つ角のある牡牛男の体は人間の体であるという。
角が二対ある神では。

同じような牛男がもう一人萎びそうな木を支えている。

祝宴の場面(31年前に行った時にたまたま写していた)
左から二番目の人(王または神)だけが坐り、テーブルの上には双手壺(カンタロス坏)が置かれている。給仕する人物の後方には楽士がいる。

不明の有翼獣


❻長い壁のオルトスタット 石灰岩

4枚続きの狩猟用馬車の行進 

その1枚

説明パネルは、ヒエログリフには、「私はウィナティス、我が主スヒの愛妻。夫がいつどこで名を尊ぶ時でも、夫は私の名をも慈しみをもって尊ぶであろう」と記されている。ヒエログリフの下には2人の女神像があり、一人は椅子に坐し、もう一人は立って翼と角のある頭を持っているという。

その続きの神々

別の女神
上図の女神と着衣や顔は同じだが、時物が異なる。


❼城塞への大階段のオルトスタット

ライオンの上の太陽の神と月の神
ライオンが台座のように低く表される。

どちらが太陽の神だろう。


❽嵐の神の神殿のオルトスタット

行進する有翼のライオン


同じく新ヒッタイト時代(後期ヒッタイト時代とも 前1200-700年頃)のアスランテペ遺跡出土のオルトスタットはこちら


   ヒッタイトの双手杯(カンタロス)←      →ヒッタイト伝説の崩壊


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参考サイト

参考文献
「古代都市1 ヒッタイトの都ハットゥシャ アラジャフユクとシャピヌワ」2013年 URANUS
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
「ヒッタイト帝国 「鉄の王国」の実像」 PHP新書1376 津本英利 2023年 株式会社PHP研究所