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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2018/10/09

八瀬妙傳寺の菩薩半跏思惟像


京都の泉屋博古館の特別展「仏教美術の名宝」には見慣れない大柄な菩薩半跏思惟像が展観されていて、その部分の拡大写真や解説が別室に掲示されていた。
菩薩半跏思惟像 朝鮮・三国時代(7世紀) 銅造鍍金 高50.4㎝ 京都八瀬妙傳寺蔵
同展図録は、洛北八瀬の妙傳寺の本尊として渡来した像で、自伝では如意輪観音とされています。
近年、大阪大学を中心とする調査チームが蛍光X線分析を含む総合調査を実施し、この像を7世紀の貴重な渡来仏であると結論づけました。平成29年1月には、このことが新聞やニュースでも大きく取り上げられ、静かな八瀬の山里は一躍脚光を浴びることとなりました。
本像の伝来を示す記録はなく不明ですが、しかし像が制作されたであろう7世紀の近江、大津には多くの渡来人が居住していたことが知られています。また667年には、天智天皇によって大津に都が移され、多くの寺院が建立されました。大津京の時代は、わずか6年足らずでしたが、この時期の大津周辺では大陸との活発な交渉の中で異国的で華やかな仏教文化がもたらされた可能性は高く、それが紆余曲折を経て八瀬に伝わったということも多いに考えられるでしょうという。
非常に装飾的な仏像である。左膝下の三段に繰り返されるU字形の衣文など、衣褶によってで裙の薄くて柔らかな布が表され、左右の衣端の上下逆に翻るのが特徴的。
そして頭飾から垂れるもの、瓔珞などのほとんどが2列の数珠である。

同展図録は、近年、朝鮮半島からの渡来仏として新たに紹介された像。別鋳の台座は失うが、大型の半跏思惟像で、作行きも優れ、特に宝冠や装身具の精緻な作りが注目される。宝冠は頂にパルメット形の光焔を発する宝珠をつくり、その下に合掌形の化仏、側面のパルメット飾には、冠繒を銜える獅子頭を飾るという。
宝冠は三面頭飾でもない、不思議な形。中央の岩窟のような中に化仏が坐す。
小さな半球にパルメットが飾られたものが頂部にあるのも特異な例だろう。
側面の獅子頭は上にパルメットがついているが、このようなものが、後に四天王像などの肩に獅子噛として表されるようになるのかも。
もう少し大きくしてみると、化仏の左右脇の飾りが纏のように見える。

同展図録は、穏やかな面相やのびやかな体躯に、韓国国宝78号半跏像(韓国国立中央博物館所蔵)と共通する要素が見られることも指摘されているという。

半跏思惟像 三国時代(6世紀後半)金銅 高82㎝ 国宝78号 韓国国立中央博物館蔵
『ほほえみの御仏展図録』は、高句麗あるいは新羅とする見解が多く発表されている。
表情がやや厳かで、思索に深くふけていて求道者の精神的な苦悩を感じさせ、かつ礼拝者を神秘的な雰囲気に引き込むという。
顔貌にはかなりの違いがある。
宝冠にはパルメットのような装飾が見られる。三面頭飾には見えないが、それぞれの区画内には三段の宝珠が表されているのだろうか。これが立体的に表されているのが、妙傳寺本の頭飾かも。
宝冠は上端が若干破損しているが、当初は日月飾であったと推定されている。頸には幅広い逆三角形の頸飾をつける。これは幾つかの四角に区画され、その中には丸い装飾紋が施されている。これと同様の装飾紋は両手の手首につけた碗釧と上臂につけた臂釧にもみられるという。
それともこれが日月飾?

妙傳寺像について『仏教美術の名宝展図録』は、上半身は、左肩から帯で吊す薄衣を着し、胸飾から垂れる瓔珞の先には、複数の小鈴を漬けた独特の大きな珠飾が付く。また組んだ右膝には、龍文を意匠した大きな円形飾を置き、両肩から垂下する瓔珞と下方に垂下する瓔珞を受けている。このように様々な装身具に飾られた本像は、簡素な装飾が多い半跏思惟像の中にあっては異色の作ともいえる。しかし各部の装飾意匠は、6-7世紀にかけての中国や朝鮮半島の作品に類例を見いだすことができ、中国の影響を受けた三国時代の作と考えるのが妥当であるという。
左肩から右脇へと斜めに着た僧祇支は、左上の2本の衣褶線で布帛を身に付けていることを知る。
頸飾から鎖状のものが出ていること自体が珍しく、その先の小鈴をつけた珠飾というのも見たことがない。
また、瓔珞をまとめる辻金具に龍文が浮彫あるいは鋳造されているのは初めて見た。大抵は静嘉堂文庫美術館蔵金銅観音菩薩立像(北魏正光2年、西暦521年)のように、円形の平たい金具として表されているだけだ。山東省博物館蔵菩薩立像の円形飾が大きな半球形であることが記憶に残っている程度。
馬具の辻金具にはありそうな気がする。


同展図録は、細緻な装飾と優れた造形が一体となった像で、7世紀の東アジア仏像の流れを考える上での重要な作例と位置づけられようという。
細身なのに、側面から見ると結構お腹が出ている。腰部分の裙の幅が一様でないのも反って味わいがある。
両肩に掛かるのは蕨手状の垂髪ではなかった。
韓国国宝78号半跏像は肩に天衣を掛けているせいか、瓔珞などは表されない。幅広の布帛を各所で用いて優雅な雰囲気を醸し出している。

それは制作時期の違いだろうか?韓国国宝78号像は6世紀後半、妙傳寺本は7世紀につくられている。
しかし、数珠状の瓔珞は、中国では静嘉堂文庫美術館蔵金銅観音菩薩立像(6世紀前半
)にすでに見られるものである。願主の好みということになるのだろうか。

                    →永観堂 紅葉は始まっていた

関連項目
X字状の天衣と瓔珞1 中国仏像篇
蓮華座4 韓半島三国時代
新羅時代の半跏思惟像

参考文献
「仏教美術の名宝展図録」 編集竹嶋康平・廣川守 2018年 公益財団法人泉屋博古館
「ほほえみの御仏ー二つの半跏思惟像ー展図録」 日韓半跏思惟像展示実行委員会 2016年 東京国立考古博物館

2016/04/29

弥勒寺の弥勒仏三尊像は10世紀


姫路市夢前町寺というところに弥勒寺というお寺があり、その寺の仏像が平安中期のものらしいことを、いとうせいこうとみうらじゅんの「新見仏記」という番組で知った。
ただし見学できるのは、正月三が日の本堂ご開帳の時だけだという。

それで、初詣もしない私だが、数十年ぶりに初詣をすることとなった。
ナビを頼りに山間の道路を行くと、赤い幟が並んでいるのが見えたところで右折、その先はまだまだ続いていたが、車の多さで迷わずに来れたことがわかるほどだった。

小さな石橋を通って両側に塀と植え込み、そして初詣の幟の続く参道をいくと、
賑わいのある境内に、テントが前に張られた小さな本堂が。
同寺のリーフレットには、ふだんの本堂の姿があった。
その解説は、弥勒寺(みろくじ)は兵庫県姫路市夢前町寺にあり、天台宗に属し書写山円教寺の奥の院と呼ばれ円教寺と密接な関係におかれています。山号を通宝山(つうほうさん)と呼び、境内には山門、本堂、開山堂、鐘楼、庫裡、護法堂があります。
寺伝によると、長保2年(1000年)書写山開基の性空上人が隠せいされ草庵を営まれたのが始まりと言われています。
又、当時の花山法皇が性空上人の徳を慕い長保4年(1002年)に弥勒寺に御幸され播磨の国司、巨智宿祢延昌に命じて諸堂を建立させたとされていますという。
本堂は昭和25年に国の重要文化財に指定されました。現在の本堂は天授6年(1380年)備前、美作、播磨の三ヵ国守護、赤松義則が建立しましたという。

外からも見えるが、軒下には透彫の蟇股があった。
内側見ていると、外側の透彫と内側のものとは図柄が異なっている。
楓
左右対称ではない草花
水流の中央に赤松家の家紋が組み合わされたものも。
小さな建物ながら、細かな装飾が施されている。

特に本堂内陣天井においては唐様模様で、重要文化財の建造物にふさわしく繊細華麗にして装飾の組方は立派であり、他に比べるものがないと推賞されていますという。
確かに、小組格折上格天井で、建物が小さいこともあって、折上部の曲線が目に付く。更に、朱塗だけでなく、黒漆が使われていることで、より豪華な印象を受ける。

お堂の中に入ると、中央に人の目の高さあたりに弥勒仏三尊像が安置されていた。

弥勒三尊像
弥勒仏は、榧(かや)の一木作りの坐像で、背面に背ぐりがほどこされ、内部の墨書銘に、長保元年(999年)の造立と記されています。
性空上人が仏師、安鎮に命じて刻ませたもので、左脇侍は大妙相(だいみょうそう)菩薩立像、右脇侍は法苑林(ほうおんりん)菩薩立像です。
三尊とも学術的価値の高い尊像とされていますという。
「見仏記」で弥勒寺の住職は、薬師寺の弥勒三尊像の脇侍名に倣って、そう呼んでいると言っていた。

弥勒仏は右手が施無畏印、左手が降魔印を結んでいるが、
リーフレットよりも古い小冊子では与願印になっている。

この違いについては、番組で弥勒寺の住職が、平成18年(2006)に、京都の国宝修理所に解体修理に出したら、「この手は後補ですね・・・ちょっと待って下さい。ひょっとすると下を向いているのではないですか」と言って、左手を上下逆に嵌め込むとすぽっと入ったと話していた。
江戸時代の補修で変えられたものを平成で戻したということらしい。

平安前期の塊量感はすでになくなり、何をしてその特徴と言えば良いのかわからないくらい、特徴がない。それが平安中期の仏像の特徴であるとある講座で聞いたことがある。強いて言えば、目鼻などが中央に寄っているくらいだろうか。
そう言えば平安時代の仏像は、貞観仏と呼ばれ、翻波式衣文や塊量感のある体軀ではっきりと時代がわかる。それが鑑真さんが日本にやってきた時に伝わった、当時最新流行だった盛唐期の造像様式であったことは、以前にまとめている。
それについてはこちら

両脇侍は高い帽子のような円筒形の宝冠を被っている。それぞれの外側の腕は膝に達するほど長い。
また住職は、右脇侍と弥勒は師匠、左脇侍は弟子が作ったと言っていた。
そう言われると、左脇侍(向かって右側)は肩幅に比べて顔が大きく、表情も異なっていて、首から腹部にかけての表現が平板だ。

番組では、三尊像を左側から眺めて、「畏れることとはない」と、三尊がそろって腕を挙げて(施無畏印)人々に向かう姿が良いと言っていた。
本堂から出て、左手にある坂道を歩いていると、開いた板戸の隙間から、右向きの三尊像を垣間見ることができた。正面から見るよりはふっくらとした体つきで、確かに三体とも施無畏印で腕を上げ、民衆を迎える姿はよかった。

人々の流れに従って坂道を行くと、鎌倉時代という性空上人の供養塔があったり、開山堂などの建物もあり、

そして、そのずっと向こうの広場には、善男善女の目的、七福神巡りの初詣の巨大な布袋さんが安置されているのだった。
番組では、住職が、お金を投げて布袋さんの胸のところにある赤い賽銭箱に入ると願いが叶うと言っていた。皆さんそれを願って賽銭を投げていたが、なかなか入らないようだった。
なんでも、日本一の布袋さんなのだとか。

正月三が日と11月3日のみのご開帳なので、11月3日に来た方が静かかも。
弥勒寺の所在地、夢前(ゆめさき)町寺の「寺」というのは、この弥勒寺に由来する地名なのだろう。

                     →弥勒寺の仏像は円教寺の仏像と同じ安鎮作

関連項目
平安中期の如来坐像

参考にしたもの
「夢前七福神第1番札所 通寶山彌勒寺」という小冊子
「書寫山の奥ノ院 播州・夢前 通宝山弥勒寺」というリーフレット
「日本の美術479 十世紀の彫刻」 伊東史朗 2006年 至文堂

2014/08/29

蓮華座4 韓半島三国時代


飛鳥時代の仏像が韓半島三国時代の様式だとすれば、蓮華座も同地の仏像に見られるだろう。
『小金銅仏の魅力』は、ほぼ同時代に並存した高句麗・百済・新羅により成る三国時代の仏像は、気候と風土によって各々 異なる地域的様式を見せている。しかし、いずれも同じ文化的基盤の上に立ち、中国の北魏・東・西魏・北斉・北周の作風を取り入れて発達したので、三国の様式的特徴は一つの傾向をしめすものであって、固定的ではない。
例えば、三国時代の仏像は、いずれも痩せ型で、顔が面長で、唇には古式の微笑を浮かべた像が多い。また、側面から見ると体軀が扁平で、体にまとった衣の襞は、左右対称的に彫りだされている場合が多いという。

高句麗
同書は、427年に都を満州の通溝から平壌に移したが、それより以前の小獣林王2年(372)に仏教が公認された。この年、中国・五胡十六国の内の前秦王符堅から西域僧の順道と仏像・経文(即ち仏・法・僧の三宝)が送られたのである。これにより通溝には4世紀の末までに仏寺が次々と建てられ、5世紀前半からの古墳の壁画に仏教的要素が見え始めるという。

菩薩半跏像 銅造鍍金 高句麗(6世紀後半) 通高83.2㎝ ソウル、国立中央博物館蔵
『世界美術大全集東洋編10』で姜氏は、この像は、宝冠に日輪と三日月が結合した特異な形式を示している。正面から見ると、弾力性のある身体の曲線が大きく強調され、正面では腰部を細くするものの、過大な頭部と下半身を弾力性をもって連結させている。天衣は両肩と台座下部で鋭利に反転しており、身体の流れに沿ってしなやかに密着している。
また、両膝の褶(ひだ)と背面の椅子覆いは、それぞれS字形とU字形によって変化を出している。制作地に関しては、百済、新羅などさまざまな説があるが、身体と天衣の力に満ちた勢いは、高句麗古墳壁画、とくに四神図に見られる激しい動勢と類似し、筆者は高句麗仏と考えている
という。

左足を置く蓮台は単弁の反花となっている。長い裳裾の下には蓮弁が見えない。
本像の新しい記事はこちら

百済
『小金銅仏の魅力』は、百済の初めての都であった漢江下流地域は、既に定着していた中国郡県と隣接していたため、早くから特に楽浪郡から強力な影響を受けていた。この漢城(現ソウル)の時代、枕流王元年(384)に、東晋から来た胡僧の摩羅難陀によって仏教が伝えられた。476年に漢城から能津(現公州)へ、538年に首都を泗沘(現扶余)に移し、国号を南扶余とした。この公州と扶余の時代、6世紀初から、中国南朝の梁と密接な関係を持ち、新たな国際秩序を形成していた。その影響を受けて仏教が大きく流行した。即ち、北魏-高句麗の影響と楽浪の影響、更に南朝の梁の影響などにより多方面で複合的な文化を受容し、それが新羅と日本に伝播されたのである。即ち、扶余遷都の年(552)年に日本へ仏教を伝え、541年には梁にも毛詩博士・仏書・工匠・書師を請い、577年には日本に律師・造仏工・造寺工などを造っているという。

菩薩半跏像 百済(7世紀) 通高93.5㎝ 金銅 ソウル、国立中央博物館蔵
『世界美術大全集東洋編10』は、弾力ある童顔のモデリング、子どものようなかわいい手、平らな胸、細い腰をした少年の姿。
金銅造と木造との違いはあるが、京都、広隆寺の像との類似が指摘されている。三山冠をつけていること、胸と腰の処理、膝および裙衣の処理、倚坐の両横に垂れる装身具は同じである。しかし、広隆寺の像は童顔ではなく青年の顔であり、顔も明るい微笑ではなく、深い瞑想にふけり、全体の雰囲気も静的であるという。
榻座は小さく、長い裳裾が床まで懸かっている。反花は見えないが、左足が小さな蓮華座にのる。反花は複弁で、蓮台は前側が低く、後ろ側が高くつくられており、その上、裳裾に触れる箇所は蓮弁が翻っている。
広隆寺の半跏思惟像は、百済の菩薩半跏像によく似ているが、大きく異なっているのはこの蓮華座の有無である。

新羅
『小金銅仏の魅力』は、高句麗と百済は王室において仏教を早くから受け入れた後に、民衆の間に徐々に拡大したが、新羅では、民衆の間に仏教が広く伝播した後に、その勢いに追されて王室が仏教を公認することになった。それが法興15年(528)であるという。

思惟半跏像 銅造鍍金 新羅(7世紀)  通高17.1㎝ ソウル、国立中央博物館蔵
『世界美術大全集東洋編10』は、この像は、高句麗や百済の思惟半跏像に比べて変形・図式化されている。右側の膝を下から力強く押し上げねばならない。衣端も平凡で、天衣の衣襞も図式化・単純化されている。身体のモデリングも弱く、上体は偏平で、腕もパイプのようで、身体細部の変化もなく、全体的に古拙さが感じられる。顔と上半身を大きく倒した姿勢、図式化した様式など、新羅的特徴をもっともよく示している作例であるという。

上図では裳裾が床まで垂れているが、この像は榻座と左足をおく蓮台の下部が一体でつくられているが、どこにも蓮弁の痕跡がない。

韓半島三国時代には、これらの他の半跏像にも、左足を置く小さな蓮台だけで、蓮華座ははなかったのだろうか。

法隆寺献納金銅仏158号 三国時代(7世紀) 20.3㎝
『法隆寺献納金銅仏展図録』は、右手第一指を掌の一部と共に別鋳鋲留とするほか、台座を含む略全容を一鋳とし、鮮やかな鍍金が前面に施されている。宝冠、垂髪、裳なども大胆に意匠化され、全体に平明簡素な印象を与え、半跏思惟像中異色の作風を示している。朝鮮三国時代に制作されたものであろう。この様な作品が手本となって、わが国の飛鳥彫刻が制作されたと考えられる貴重な作例であるという。
別鋳あるいは木製か何かの蓮華座があったのだろうか、この像自体には蓮弁は見当たらない。
右側面から見ると、裳懸座の前面は直線的だが、背後は丸みを帯びている。
背面は半円形で、榻座という丸椅子に掛けた布の表現も、下側は前面同様二段の規則的な折り返し、その上は彫りの深い波状の線となっている。

蓮華座のある菩薩半跏像を見付けた。

菩薩半跏像 百済(7世紀) 高さ11.0㎝ 銅造鍍金 伝忠清南道公州寺址石塔内発見 東京国立考古博物館蔵
『法隆寺日本仏教美術の黎明展図録』は、公州はかつて熊津といい、475年から538年まで、三国時代の百済の都であった。伝えが確かであれぱ、百済の王都周辺の寺院に安置された由緒正しい作品ということになるという。
蓮華座は高さはないが、足を置く蓮台ともに大きな素弁の受花である。法隆寺献納金銅仏でいうと、150号如来立像(7世紀)の高い蓮台の素弁と雰囲気が似ている。

立像の蓮華座は、

高句麗
如来立像 延嘉7年(539) 総高16.2㎝ ソウル、韓国中央博物館蔵
『小金銅仏の魅力』は、韓半島の最古の仏像。平壌に遷都してから100年余の延嘉7年の銘を光背裏に刻む北魏式の金銅如来立像である。舟形の火焰光背と高い框を持つ蓮台ともに全体が一鋳で、蓮肉部も高い。螺髪は賽目に刻み、面長な顔で、胸前を広く開けた中国式通肩の厚手の大衣の端を左腕にかけている。大衣は体側で魚鰭状を成しているという。

素弁の反花のみ。
高い蓮肉といい、その上に乗った如来の足といい、法隆寺金堂釈迦三尊像脇侍のものとよく似ている。反花は框へとかなりの斜度で反り返っている。この点が同釈迦三尊像脇侍の蓮華座と異なる点だ。

百済
菩薩立像 6世紀中葉 通高11.2㎝ 忠清南道扶余郡軍守里廃寺木塔址出土 ソウル、国立中央博物館蔵
『小金銅仏の魅力』は、頭に大きな三花(さんか)と思われるものを乗せ、冠の太い飾帯を肩まで垂らし逆火頭形の頸飾をつけ、顔は方形に近い丸顔に目鼻を明確に表し、交叉する天衣も太く明瞭で左手はこれまでと異なってハート形の宝器を下げる。体軀は短めで、両足は伏蓮三段重ねの蓮台にしっかりと立っているという。
持物や頸飾は、北魏時代から見られるものだ。顔は東魏風かなとも思ったが、少し異なる。
素弁の反花が三段にもわたって表現されるのは珍しい。段数は少ないが、法隆寺金堂釈迦三尊像の光背に数体表された化仏の蓮華座は、この蓮台に一番近いかな。 

新羅
金銅薬師如来立像 6世紀後半-7世紀初期 高さ12.8㎝ 大和文華館蔵
同書は、頭部に螺髪なし。後頭部に大きな枘あり。背面にも衣文を表す。全体に北魏様式を受けた四角張った像容で、腰をわずかに左に捻る。右手に薬壺のようなものを持つ。このようなタイプの像がこの時代に流行した。大らかな蓮台が時代の古さを示しているという。
蓮台はほぼ下降する、膨らみのない素弁の反花に覆われる。

高句麗
金銅一光三尊像 平原33年(571)「景4年在辛卯」銘像 高さ15.5㎝ 黄海道谷郡出土三 ソウル、個人蔵
同書は、両脇侍のみが光背と同鋳で、その両脇侍が東魏-北斉風に宙に浮いたように表される。大衣も古式の左右相称だが、衣端の張りは鈍く柔らかくなっているという。

如来は高い蓮肉の上に乗り、反花も、取りつけた蓮弁もない。おそらく別鋳の反花に差し込まれていたのだろう。
両脇侍の蓮華座は素弁の反花となっている。「宙に浮いた」ように作られているので、中尊と同じ蓮華座にはできなかったのかな。

百済
三尊仏立像 6世紀 金銅 鄭智遠銘 忠清南道扶余郡扶蘇山城出土 高さ8.5㎝ ソウル、国立中央博物館蔵
『世界美術大全集東洋編10』は、延嘉7年銘像より多少柔らかくなり、装飾化が進んで細やかとなった像で、東魏・西魏、また北斉(550-77)・北周(557-581)初めの様式であり、中国との交流の重要な証拠となっているという。
蓮台は框に向かって広がり、蓮弁が上部に一段刻まれている。その下の半球形の大きな台は安定させるためのものだろうか。
脇侍の台座は不明。化仏は蕾のような蓮華座に坐している。

法隆寺献納金銅仏143号如来及び両脇侍立像 左脇侍蓮華座 7世紀 銅造鍍金 中尊28.1左脇侍20.9㎝
蓮肉が少し見え、すぐに下に大きな蓮弁を垂らす反花となっている。蓮弁は素弁で、その稜ははっきりしない。台座とは別鋳だったようだ。
『法隆寺日本仏教美術の黎明展図録』は、舟形光背と通称される大きな蓮弁形の光背の前に、如来及び両脇侍の三尊像が立つ、いわゆる一光三尊形式の作品。従来より、朝鮮半島三国時代、とりわけ百済との関わりにおいてとらえられることが多いという。
三尊像の台座下部が後補(『法隆寺献納金銅仏展図録』より)ということで、当初の蓮華座はどのようだったか分からない。中尊は高い蓮肉の上に立ち、両脇侍は半球状に膨らんだ素弁の反花の蓮華津に立つ。
光背には見える範囲で5体の化仏が取りつけられている。化仏はパルメットと共に茎で繋がっていて、その蓮華座は開きかけた蓮華のような形になっている。

法隆寺献納金銅仏にときどきみられる、着衣や蓮華座の縁に打たれた複連点文は、今回参考にした韓半島の6-7世紀の仏像にはなかった。

    蓮華座3 伝橘夫人念持仏とその厨子←  →蓮華座5 龍と蓮華

関連項目
蓮華座1 飛鳥時代
蓮華座2 法隆寺献納金銅仏
蓮華座6 中国篇
蓮華座7 中国石窟篇
蓮華座8 古式金銅仏篇
蓮華座9 クシャーン朝
蓮華座10 蓮華はインダス文明期から?
蓮華座11 蓮華座は西方世界との接触から

※参考サイト
新羅時代の半跏思惟像

※参考文献
「法隆寺献納金銅仏展図録」 1981年 奈良国立博物館
「図説韓国の歴史」 金両基監修 1988年 河出書房新社
「世界美術大全集10 高句麗・百済・新羅・高麗」 1998年 小学館

「小金銅仏の魅力 中国・韓半島・日本」 村田靖子 2004年 里文出版

2013/06/14

X字状の天衣と瓔珞8  X字状の瓔珞は西方系、X字状の天衣は中国系



雲崗石窟で最も早く開かれた曇曜5窟(460-465年)の中の飛天や供養天に、X字状に交差したり、交差部に丸い飾りのある、短い紐状のものがあった。

供養天 雲崗石窟第一七窟西壁仏龕 雲崗前期(460-465年)
天衣とも瓔珞とも思えないような紐状のものが腹部の丸い飾りのところで交差している。
X字状に交差する天衣というものは、北魏が洛陽に遷都して間もない頃(498年)、古陽洞北壁の交脚弥勒像に最初に表されたはずだった。
それについてはこちら
それが、北魏前期に、菩薩像ではないものの、X字状のものを身に着けているのは驚きだ。

ところが、北魏前期とされる交脚弥勒像にX字状に交差する瓔珞が見つかった。

弥勒菩薩交脚像 砂岩 高44㎝ 河北省曲陽県修徳寺遺址出土 北魏前期 河北省博物館蔵
『中国★文明の十字路展図録』は、頭に宝冠をつけ、両側に冠繒を長く垂らした菩薩が、2頭の獅子座に交脚して坐し、胸前で合掌する。菩薩の四角く丸い顔立ちやふとりじしの体軀に、北魏前半期の特徴が見出される。交脚菩薩は兜率天で下生を待つ弥勒菩薩を表し、同時期の雲崗石窟でも多くの弥勒菩薩が造像され、未来仏に対する信仰の隆盛さを物語っているという。
頭部が大きく、それが前に突き出して表されている。
敦煌莫高窟の275窟(北涼時代、397-439年)交脚弥勒像も2頭の獅子を従えているが、獅子に後ろ肢はなかった。この像もやはり獅子は前脚しかなさそうで、同じ系統の弥勒像といえるだろう。
275窟の弥勒像とは、瓔珞が小さな丸い珠と細長い珠を交互に繋いでいる点は共通するが、異なる点は、瓔珞が腹部で交差していることだ。
交脚菩薩像 雲崗石窟第17窟明窓東側 北魏、太和13年(489)年銘 
『北魏仏教造像史の研究』は、銘により弥勒であることが明らかで、他の大方の無銘の交脚菩薩像についても同様に弥勒菩薩と考えられている。 
太和13年龕と第11窟明窓東側の太和19年(495)龕はわずか6年の差であるが、その像容は著しく変化し、太和18年(494)の洛陽遷都を境とした雲崗前期と後期の変化、つまり、張りのある量感的な表現から、そりの強い線条的な中国様式への変化を顕著に表している。

ここでは13年像グループを雲崗前期式、19年像グループを雲崗後期式と呼ぶことにする。
この前期式の着衣は、上半身裸形系のものと、胸を左肩から斜めに覆う布(通常絡腋と称される幅広の布)をつけるものと2種ある。この斜めに覆う布は背面にまわって両端を結ぶか巻きつけるかしたと思われるが、天衣とは別の布のようである。この形式は炳霊寺石窟の西秦時代の像にすでに見られ、天水麦積山等の早期石窟造像に多い。頸飾(下辺中央が尖る)や双獣が向かい合うデザインの胸飾のほか、瓔珞をV字状あるいはX字状に懸ける。この天衣が肩上で丸く弧を描く表現も炳霊寺西秦像をはじめとする中国初期の菩薩のほか、西域に多く見られる。双獣胸飾ももちろんインド伝来のもので、この雲崗前期式像の着衣・装飾はことごとく西方色が強い形式であるという。
なるほど、菩薩は量感的で、3本の線条のある幅広の絡腋といい、頸飾は中央下が尖っている。
そして、私にとって謎だったX字状の瓔珞についても記述があった。西方的な装身具だったのだ。
では、X字状の瓔珞は西方的なら、X字状の天衣もその影響を受けたのではないのだろうか。

同書は、後期式の着衣はすべて上半身裸形、胸を斜めに覆う布を着ける例はない。天衣は両肩を覆って正面でX字状に交叉し、両腕に懸けたのち左右に垂下する。天衣の肩に懸かる部分を外側にヒレ状に尖らせるものや、天衣のX字状の交叉点に環状飾りをつけるものも多い。裙は両膝下の垂下部を大きく作り、幾条もの襞を作ってその先端を左右に扇状に広げる。装身具は全体に簡略化する傾向にあり、前期式で見られた双獣胸飾は姿を消し、頸飾も瓔珞もつけない例がかなりある。そして、これらの装身具にかわって菩薩の胸~腹部を飾るのがX字状の天衣と、その交点に留められた環状飾りである。この環状飾りは漢文化に古い伝統を持つ璧の一種と考えられ、後期式では西方的要素が消えて漢化の傾向が強いことがわかる。上半身裸形の形式は前期式にもあったが、後期式のそれは前期裸形式の延長ではなく、むしろ、前期における胸を斜めに覆う布や双獣胸飾などの西方的要素を排し、X字状天衣を採用したことによって生じた結果だろうという。
何と、私の知りたいことが全て記されていた。この本は出版されてすぐに買ったが、開くのがおこがましくて、もっと勉強してから読もう、入院した時にでもじっくり読もうなどと思いながら、開かないでいたのだった。

従って、雲崗石窟第17窟の飛天や供養天のX字状のものは天衣ではなく、西方系の瓔珞ということになる。

脇侍菩薩立像 永靖炳霊寺第169窟東壁 西秦時代(385-431)
『中国石窟永靖炳霊寺』は、不揃いに並ぶ千仏の中に説法図的な一仏二菩薩図が二方にある。その北側のものは仏は通肩の袈裟をまとい、禅定印を結び、二菩薩は立って侍すという。
同書は菩薩の着けているものへの記述はないが、この菩薩は、雲崗石窟第17窟供養天と同じような紐状のものを飾りのところでX字状に交差させたものを着けている。これが西方的な瓔珞らしい。
X字状の瓔珞が西方的なものなら、もっと西にあるキジル石窟にもあるはずだ。

交脚弥勒菩薩 キジル石窟第177窟主室入口上方弥勒菩薩説法図 発展期(4世紀中葉-5世紀末)
『中国新疆壁画全集克孜爾1』は、弥勒菩薩は珠冠を被り、宝繒は翻っている臂釧などの装身具を着け、右手は説法印、左手には浄瓶を持ち、交脚して坐すという。
確かに天衣とは異なる細い線状の瓔珞がX字状に交差している。しかも瓔珞は長くて、体と脚をくぐって上方に向かっている。
菩薩半跏像 キジル石窟第38窟主室入口上方弥勒菩薩説法図うち 発展期(4世紀中葉-5世紀末)
同書は、これは左右対称に坐す思惟菩薩である。服飾や体型は右側の菩薩とほぼ同じで、身光の保存状態が良い。輻射形線条の光があるという。
こちらの菩薩の瓔珞は短く、うつむき加減に坐っているので、瓔珞が前に垂れて、二の腕から後方に向かっている。
また、瓔珞ははっきりと小さな珠が2列に並んでいるのがわかる。
太子像 キジル石窟第118窟主室正壁仏伝図うち 初創期(3世紀末-4世紀中葉)
同書は、太子の宮中での生活部分であるという。
出家前の釈迦が着けているのもX字状の瓔珞だ。こちらの瓔珞も短い。
確かに、雲崗石窟より西にある永靖炳霊寺では五胡十六国時代、西秦(385-431)の窟でX字状の瓔珞が見られ、それより遙か西、キジル石窟では、石窟の初創期(3世紀末-4世紀中葉)にX字状の瓔珞が菩薩を飾っていた。
X字状の天衣中国風のものだったが、X字状の瓔珞は西方から請来された装身具由来のもので、この2つは全く異なる起源を持つものだということが確認できた。
キジル石窟の菩薩は3図ともに冠から出た、或いは冠を頭部にくくりつけたリボン状のディアデムが翻っている。
このディアデムとの起源がササン朝ペルシアなら、X字状の瓔珞もササン朝ということになるだろうか。

アルダシール1世硬貨(表) 銀 ササン朝ペルシア、224-241年 平山氏蔵
『ガンダーラとシルクロードの美術展図録』は、鷲文と耳覆いのあるティアラ冠を戴く、右向きの国王胸像という。

ササン朝では3世紀前半にすでにディアデムは見られるが、この図からはX字状の瓔珞を付けていたかどうかわからない。 
帝王ライオン狩り文皿 銀鍍金 ササン朝ペルシア、4世紀
この図では、ディアデムは付けているが、X字状の瓔珞は付けていない。
X字状の瓔珞の起源はササン朝ではなかったのかも。

関連項目
前屈みの仏像の起源
X字状の天衣と瓔珞7 南朝
X字状の天衣と瓔珞6 雲崗曇曜窟飛天にX字状のもの
X字状の天衣と瓔珞5 龍門石窟
X字状の天衣と瓔珞4 麦積山石窟
X字状の天衣と瓔珞3 炳霊寺石窟
X字状の天衣と瓔珞2 敦煌莫高窟18
X字状の天衣と瓔珞1 中国仏像篇
ボストン美術館展6 法華堂根本曼荼羅図2菩薩のX状瓔珞

※参考文献
「中国★文明の十字路展図録」 曽布川寛・出川哲朗監修 2005年 大広
「中国の石仏 荘厳なる祈り展図録」 1995年 大阪市立美術館
「小金銅仏の魅力 中国・韓半島・日本」 村田靖子 2004年 里文出版
「北魏仏教造像史の研究」 石松日奈子 2005年 ブリュッケ
「中国石窟 永靖炳霊寺」 甘粛省文物工作所・炳霊寺文物保管所 1989年 文物出版社
「中国新疆壁画全集 克孜爾1」 段文傑主編 1995年 天津人民美術出版社
「世紀世界美術大全集14 西アジア」 2000年 小学館  
「ガンダーラとシルクロードの美術展図録」 2002年 朝日新聞社


2013/06/07

X字状の天衣と瓔珞6 雲崗曇曜窟飛天にX字状のもの



北魏時代後半に都が置かれた洛陽郊外にある龍門石窟では、最初に開かれた古陽洞の北壁で、太和19年(495)銘の交脚弥勒像は斜めに条帛を懸けており、太和22年(498)銘の交脚弥勒像はX字状の天衣を着けていた。
それについてはこちら
従ってこの4年の間に仏像の中国化が進んだとみることができる。

雲崗石窟は北魏時代前半に都のあった平城(現大同)の郊外に開かれた石窟だ。

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453年に開鑿が始まり、北魏の時代に全盛を迎え、520年代まで彫り続けられた(『図説中国文明5魏晋南北朝』より)。洛陽遷都(493年)後も石窟は続いているので、雲崗石窟でX字状の天衣が出現する様子をみることにした。

交脚菩薩像 第9窟前室北壁第2層西側仏龕 雲崗中期(470-494年)
同書は、中期に開鑿された石窟は、いずれも皇族や貴族の援助によって造営され、どの石窟も十数人から数十人入ることができるという。
天衣は両肩から腕にかけて背後に懸かり、腕の関節のところで細くなって腕の内側へ通っている。
『北魏仏教造像史の研究』は、前期の着衣は、上半身裸形のものと、胸を左肩から斜めに覆う布(通常絡腋と称される幅広の布)をつけるものと2種類ある。天衣とは別の布のようであるという。これは今まで条帛という名称で呼んできた。東寺旧蔵十二天図(現京都国立博物館蔵)でも多くの天が身に着けている。
また、太和8年(484)銘金銅菩薩立像に見られる宝髻の根元に回した紐の先が後方で誇張されて翻るのは、古代イラン王が頭部のディアデム(冠帯)を翻すに由来するか?(『中国の金銅仏展図録』より)と共通する白い紐が、左右に翻っている。
雲崗石窟でも、洛陽遷都後に穿たれた龕の菩薩像の天衣はX字状に交差している。

交脚菩薩像 第11窟16龕 雲崗後期(494-524年)
『図説中国文明5魏晋南北朝』は、後期に開鑿された石窟はどれも規模が小さい。1人か2人が修行できるだけのスペースしかないく、並び方も整っていない。脚を組んだ弥勒を主像とすることが流行したという。
中期に開かれた第11窟の外壁にたくさんの小龕が開かれていて、その内の16龕と呼ばれる龕の中に彫られている。
この像も弥勒菩薩らしい。
天衣は、龍門石窟古陽洞北壁上龕の太和22年(498)年銘交脚弥勒像よりも北魏後期様式色の濃い造形で、天衣も交差した脚にかかるほど長くなっている。 ↑リンク
脇侍菩薩立像 第11窟8龕北壁西側 雲崗後期(494-524年)
11窟の外壁の8龕の中に彫られている。
『雲崗石窟』は、この菩薩像は頭に冠を戴き、天衣は十字に交叉して環を通っている端正な顔に微笑を浮かべており、落ち着いた雰囲気が表されているという。
腹前にある輪っか(環)の中央で左右の天衣が交差する。環が落ちないように、片方は環の上を通り、もう一方は環の下を通って交差している。
中期窟で年銘のある像があった。

交脚菩薩像 第17窟明窓東側 雲崗中期・太和13年(489)
第17窟は初期窟だが、明かり採りに開かれた窓(大仏の顔が見える)の東側の壁面の厚み部分に彫られた龕。
やはり第9窟前室の(一番上)の交脚菩薩像のように、天衣は両肩を覆うように表され、条帛が左肩から斜めに下がっている。
交脚菩薩像 第11窟中心塔柱南面上層仏龕 雲崗後期(494-524年)
『中国石窟 雲崗石窟』は、化仏冠を戴き、条帛は腹前で交叉し、身体は痩せている。左右に思惟菩薩が彫られ、高冠を戴き、長い裙を地に着け、条帛は交叉する。これは雲崗後期の特徴であるという。
雲崗中期窟にX字状の天衣を着けた菩薩像があったのかと驚いたが、後期には、中期窟の中にも龕を彫ったらしい。
雲崗中期にはX字状の天衣はないことがわかり、納得していたら、なんと、曇曜五窟の中にX字状に交差しているとみられる細い条帛を見付けてしまった。

供養天 第17窟西壁仏龕内側 雲崗前期(460-465年)
『雲崗石窟』は、供養天は円形の頭光を備えている。頭には大髻を結い、顔はふくよかで眉と目は細長い。跪いて両手で蓮の蕾を捧げ持ち、天衣は臂を巡って外側に翻っているという。
この風を含んで翻る様子が、中期窟になると肩にまとわりつくような表現となっとしまう。
その天衣とは別に。上腹部で丸い飾りの箇所で交差する紐状のものが表されている。
これが条帛かどうかわからないが、交差するものを表したものには違いない。
飛天 第17窟西壁仏龕 雲崗前期(460-465年)
同窟では飛天にも同様の交差する紐状のものがあり、こちらは交差部に丸い飾りはない。
雲崗石窟では、都が洛陽に遷って以降、X字状の天衣が現れる。
しかし、初期窟の第17窟では、菩薩ではなく、供養天や飛天にのみ、X字状に交差する紐状のものが見られるのには驚いた。
しかし、これが後期のX字状の天衣に繋がるものではないだろう。

つづく


関連項目
X字状の天衣と瓔珞8  X字状の瓔珞は西方系、X字状の天衣は中国系
X字状の天衣と瓔珞7 南朝
X字状の天衣と瓔珞5 龍門石窟
X字状の天衣と瓔珞4 麦積山石窟
X字状の天衣と瓔珞3 炳霊寺石窟
X字状の天衣と瓔珞2 敦煌莫高窟18
X字状の天衣と瓔珞1 中国仏像篇
ボストン美術館展6 法華堂根本曼荼羅図2菩薩のX状瓔珞
東寺旧蔵十二天図1 截金と暈繝


※参考文献
「中国の金銅仏展図録」 1992年 大和文華館
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館
「雲崗石窟」 1999年 李治国編・山崎淑子訳 人民中国出版社

「中国石窟 雲崗石窟」 雲崗石窟文物保管所編 1994年 文物出版社