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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2013/01/22

キジル石窟は後壁に涅槃図がある



敦煌莫高窟では前期窟にしか見られなかった中心柱窟だが、新疆ウイグル自治区、天山南路の中央部に位置するクチャ郊外のキジル石窟では、一般的な窟の形だ。
『キジル大紀行』は、中心柱の手前の大きな部屋は「主室」、後ろ側には「後室」と呼ばれる小さな部屋があり、この二つの空間は「側廊」と呼ばれるトンネル状の通路で結ばれている。このような主室と後室をトンネルで結ぶ石窟形式はキジルで生まれ、後に敦煌や雲崗、龍門など中国の主要な石窟寺院に受け継がれていった。
古代キジルの僧たちは、石窟の最も奥深くにある暗い後室に、決まって一つの姿を描かせた。涅槃図、つまり釈迦の死を描いた絵であるという。
そして、中心柱の奥には、窟の幅いっぱいに涅槃図が描かれ、左側の通路から右繞して涅槃図へと到達する。ただ、キジル石窟は窟の一つ一つが小さいので、体が擦れそうなほど通路も狭いため、涅槃図の前で全体を見るということはできない。通路を進みながら、涅槃図を部分的に見ていくことになる。
涅槃図 80窟後甬道後、左、右壁 6-7世紀(キジル石窟の最盛期)
『中国新疆壁画全集克孜爾2』は、仏は七宝の床に右脇を下にして臥し、右手で顎を支え、身体は長く平たい。足は露出する。弟子の迦葉が足側に、頭側には下部が損傷しているが、金剛力士がいる。仏の身光は上側に描かれ、背後にはクシナガラの力士が4人並ぶという。
釈迦には頭光と身光が表されるのは敦煌の涅槃図と共通する。しかし、それらの光背には火焔文は描かれず、身光の内側で、釈迦の体から火焔が出ている。
キジル石窟では、涅槃と荼毘が一つの図で表されています
そう石窟ガイドの馬さんは説明してくれたが、同書にはそのようには書かれていない。
涅槃図 17窟後甬道後壁 6-7世紀
仏は七宝床に臥し、通肩の袈裟を身に着け、右手で顎を支え、体の上方に七條の光焰が出る。仏の左側に梵天、クシナガラの力士、最も外側に弟子の阿難が並び、足下に迦葉が跪くという。
この図も釈迦の体から火焔が出ている。
涅槃図 161窟前壁上方 6-7世紀
比較的完成した様式の涅槃図。仏は臥して右手で顎を支え、頭側に諸弟子、上方に梵天・帝釈天・クシナガラの力士、足下側で大迦葉が足を撫でているという。
うっすらと釈迦の体から火焔が出ているのがわかる。
焚棺図 205窟後甬道前壁 6~7世紀 ベルリン、インド芸術博物館蔵
仏が涅槃に入った後、龍頭の金棺に納め、荼毘に付した。図中、棺の蓋の上に火焔がもうもうと上がり、棺の下には牛頭に似せた栴檀を燃やしている。棺前で棺の蓋をあげているのは弟子の阿難という。
荼毘の炎は、涅槃図で釈迦の体から出ている火焔とは全く異なっている。涅槃図では剥落していたりして、よくわからなかったが、この図では確かに頭部側(左側面)が見えている。
馬さんの説明を聞いて以来、キジル石窟の涅槃図は荼毘と同一場面だと思ってきたが、『中国新疆壁画全集克孜爾2』には、どの涅槃図にもそのような説明がないので、疑問に思うようになった。

涅槃図 第2小渓谷第2洞 8世紀
『日本の美術268涅槃図』は、釈迦は右手枕し、頭光と身光を付けて横たわり、その体から数条の荼毘の火焔が立ち昇る。会衆は釈迦の両足を触れる大迦葉一人のみ。寝台は向かって左側面が見えるという。
他の窟では剥落していたりしてよくわからなかったが、当窟では、左側面から見た構図になっている。
キジル石窟では窟名には1960年代に通し番号が付けられた(『キジル大紀行』より)という。第2小渓谷第2洞がどの窟に当たるのかわからない。8世紀ともなれば衰退期に入っている(『中国新疆壁画全集克孜爾3』より)。当図だけで、他の窟の涅槃図も左側面が見える構図になっていたとは言えない。
『キジル大紀行』は、第二期で最も一般的なのは、後廊の奧壁に涅槃図を描いたり、あるいは台座を設けて塑造の涅槃像を安置するものである。
横臥する釈迦の双足を礼拝する長老大迦葉が決まって表されるのも興味深い。大迦葉が釈迦の双足を礼拝したとき、はじめて荼毘の火が燃え上がったというエピソードを表している(しばしば釈迦の体軀から荼毘の火が燃え上がる表現が見られる)が、同時に大迦葉は釈迦の衣鉢を継ぐ仏弟子とされ、弥勒菩薩の出世までの橋渡しの役割を負っているのである。第二期の中心柱窟には主室の入り口を入った上部、つまり前室上部の半円形区画には「兜率天上の弥勒菩薩」が表されることが多く、釈迦の入滅-大迦葉-弥勒菩薩という関連が暗示されているという。
キジル石窟の涅槃図は、迦葉が釈迦の足に触れて、やっと荼毘の炎が上がった瞬間を表したものだったのだ。

ところで、キジル石窟には涅槃図だけではなく、涅槃像が残っている。

涅槃像 新1窟後壁 6-7世紀 長約5m
上半身は崩壊している。
『キジル大紀行』は、キジル大石窟群の高さ80mの断崖の最下部には、瓦礫の山がスカート状に連なっている。上から崩れ落ちた土砂が10数mの高さにまでも積もっているのである。
1975年、堆積した土砂の下から、新しい石窟が発見されたのである。調査に当たった研究者たちは、石窟を埋め尽くす土砂を、指とヘラで少しずつ慎重に掘り進んだ。やがて彼らは最奥部の後室で、粘土の塑像に突き当たった。大きさはおよそ5m。それは、釈迦の死のときを描いた粘土による涅槃像だった。しかも、造られた当時の原形をほぼ完全にとどめている。キジルの涅槃像はほとんどすべてがイスラム教徒によって破壊し尽くされているのだが、この石窟は、14世紀にこの地域がイスラム化する前に洪水で埋もれたため、異教徒による破壊を免れたのだった。
亀茲石窟研究所のトゥルスングリさんはその発見直後、クチャの町から文化財管理官として駆けつけたという。
「実に優しい顔をしていました。涅槃像のあまりの荘厳さに息をのみました」
しかし、当時は文化大革命の混乱が続いており、彼女はその後数年間ここを訪れる機会を持てなかった。80年代になって再び新1窟を訪れたとき、粘土でできた涅槃像の仏陀の顔は崩れ落ちていたという。
流れるような衣文は、緩やかに釈迦の体を表し優美だが、顔も肩も崩壊した姿は痛々しかった。 
『中国新疆壁画全集克孜爾2』は、本窟の後室は広く、後壁前に台を穿ち、その上に塑造の涅槃像がある。その衣文は襞が隆起した線状で表され、繊細につくられている。涅槃像の上方には巨大な頭光と身光が描かれている。続くヴォールト天井には3体の飛天が色鮮やかに舞っているという。
残った部分から、光背の外縁は涅槃図と同様に、数本の色の帯で構成されていて、そこには火焔文などの文様はない。その内側には涅槃図同様、火焔が描かれていたのだろうか。

つづく

関連項目
クシャーン朝、ガンダーラの涅槃図浮彫
敦煌莫高窟17 大涅槃像が2体
中国の涅槃像には頭が右のものがある
敦煌莫高窟16 最古の涅槃図は北周
敦煌莫高窟15 涅槃図は隋代が多い
日本の仏涅槃図
弥勒の大仏像は
五弦琵琶は敦煌莫高窟にもあった

※参考文献
「中国新疆壁画全集 克孜爾2」 主編段文傑 1995年 天津人民美術出版・新疆美術撮影出版社
「中国新疆壁画全集 克孜爾3」 主編段文傑 1995年 天津人民美術出版・新疆美術撮影出版社
「シルクロード キジル大紀行」 宮地治 2000年 NHK出版
「図説釈尊伝 シルクロードの仏たち」 久野健・山田樹人 1990年 里文出版

2008/11/14

正倉院展の楽しみはヤツガシラ探し

ヤツガシラは日本では一度だけ見た。庭に一瞬留まって、すぐに飛び去ってしまった。
西域旅行ではあちこちで見かけたが、いつも群れることはなく、1羽で飛んでいた。そしてすぐには飛び去らないまでも、あちこち動き回るので、なかなか写真には収まらない鳥だった。

ヤツガシラ ブッポウソウ目ヤツガシラ科
『日本の野鳥』は、頭に先の黒い大きな冠羽のある、上半身が黄褐色の鳥、ユーラシア大陸とアフリカの熱帯から温帯で広く繁殖する。日本には稀に旅鳥として春秋に渡来し、春の記録が多いという。
写真は、トルファン郊外、火焔山の谷の一つにあるトユク石窟へと向かう木道の補強材に留まっているのを撮ったが、ピントを合わせきれなかった。正倉院の宝物には小鳥や鴨類が多く文様として描かれているが、ヤツガシラもよく登場するので、正倉院展に行くと、今年はどんなものにヤツガシラが描かれているのかを探すのが、正倉院展での楽しみの一つだ。
2008年の第60回正倉院展でも2作品で見つけた。 

金銀絵漆皮箱(きんぎんえのしっぴばこ、獣皮製の箱) 2008年(第60回正倉院展)
同展図録は、漆皮箱は牛や鹿などの獣の皮に漆を塗ってつくる箱で、型に皮をあてて成形し漆を塗って固める。これは奈良時代に盛行した箱を製作する技法のひとつ  ・・略・・  漆の上には金泥と銀泥を用いて文様を描き、最後に全体に油膜をひいて仕上げられている。側面は唐花文に蝶や鳥を配すという。
身側面には冠のように羽を広げて飛ぶ2羽のヤツガシラが描かれている。上の写真では冠羽を閉じているが、漆皮箱では2羽のヤツガシラが冠羽を広げて飛んでいる。ヤツガシラは飛んでいる時に冠羽を広げていたかどうか、記憶にないなあ。
彩絵水鳥形(さいえのみずどりがた) 長2.6㎝厚0.2㎝ 2008年(第60回正倉院展)
ヒノキの薄板を飛翔する鳥の形に裁断し、彩色・装飾を施したもので、一対の形で伝わる。鳥名については、従来は水鳥とされてきたが、近年の研究でヤツガシラと同定された。表面は背に緑、腹に白、嘴に赤色を塗り、冠羽・翼・尾羽に実際の鳥の羽毛を貼り付けており、黒・灰・青・淡青の横縞模様を呈することから、日本産のカケスの初列雨覆(しょれつあまおおい)と呼ばれる風切羽の根元外側の羽毛と同定されている。さらに羽毛の上には金箔の四角い小片を蒔くなど、小品ながら極めて手の込んだ細工が施されているという。
単眼鏡で見て、やっと羽毛が整然と並んでいるのがわかった。それくらい細かい細工だった。 紅牙撥鏤棊子(こうげばちるのきし、染象牙の碁石) 径1.5-1.7㎝厚0.7-0.8㎝ 2005年(第57回正倉院展)
同展図録は、象牙で造った碁石を紅色に染め、これに線刻をくわえて白く文様を彫りあらわす撥鏤技法を用いている。花枝をくわえて飛ぶ鳥を表現するが、羽冠を戴く鳥(ヤツガシラと鑑される)を表し、翼の一部や花心等に緑色をさすという。
花喰鳥(はなくいどり)にもヤツガシラが選ばれている。 粉地銀絵花形几(ふんじぎんえのはながたき、献物几)  2005年(第57回正倉院展)
サクラとみられる材を用いて製作されたものである。天板は4枚の材を矧いで猪目形に刳りのある長花形にかたどり、表裏ともに光沢のある白色顔料を塗り、側面に銀泥で花卉・飛鳥・蝶を散らし描きするという。
左のヤツガシラの向こうには、ヤツガシラと同じ体の小鳥も描かれていた。右の2羽のヤツガシラは尾が長いが、写真の通り、ヤツガシラの尾はこのように長くない。実際にはヤツガシラを見たことのない人が描いたのだろうか。 紅牙撥鏤尺(こうげばちるのしゃく)  1985年(第37回正倉院展)
同展図録は、象牙を紅く染めて撥鏤で模様をあらわした儀式用のものさしで、寸法の目盛りはなく、実用に供されたものではない。表裏両面と側面に美しい撥鏤の模様がみられる。中国の唐では、毎年2月2日に鏤牙尺と木画尺を朝廷に調達する行事があったが、この紅牙撥鏤尺もそうした儀式に用いられたと思われるという。
ここにも花喰鳥のヤツガシラが登場する。クチバシが長いので、ものをくわえた図を描くのが容易だったからだろうか。 碧地金銀絵箱(みどりじきんぎんえのはこ)  1985年(第37回正倉院展)
ヒノキ製、長方形印籠蓋造り、床脚つきの箱。外面を碧色の顔料で塗り、蓋表と4側面に金銀泥で文様を描く。蓋表の文様は、中央に団花文を置き、中に花座にのり、花枝をくわえた対向の双鳥を配し、その周囲に花喰鳥、花卉、蝶をあしらい、4隅に団花の一部をのぞかすという。
こちらも花喰鳥として描かれていて、他の作品のヤツガシラよりも表現が細密である。このような手本となる作品をまねて、簡略化したり、尾が長くなったりしながら、いろんな作品に描かれるようになったのだろうか。冠羽が文字通り冠をかぶったように見えて、天皇にふさわしい鳥とされたのかも。 それとも、現代では稀に来る鳥だが、奈良時代にはそこかしこで見かけることができたのだろうか。

※参考文献
「第三十七回正倉院展図録」(1985年 奈良国立博物館)
「第五十七回正倉院展図録」(2005年 奈良国立博物館)
「第六十回正倉院展図録」(2008年 財団法人仏教美術協会)
「日本の野鳥」(1985年 山と渓谷社)

2007/09/06

高昌国で玄奘三蔵が説法をした講堂は


高昌故城の観光で、ロバ車で到着したところは南壁に近いβ寺院址の前だった。 内城壁址の陰にいるのは、帰りのロバ車を待っている人たち。β寺院と名づけられた遺跡は、その場にいると、このような、壁に囲まれたお寺の境内として捉えることができないくらい広大だった。不思議なことに、右側にはラクダに乗って記念写真を撮るコーナーまであった。もちろん富士フイルムではなく、中国製のフィルムである。日乾しレンガを敷き詰めた参道をまっすぐ西に向かうと大塔址がある。
大塔の周壁は後世付け加えられたものらしい。大塔そのものもかなり修復が進んでいるようだ。しかし、側面にまわると、仏龕には仏像もなく、土台の日乾しレンガが現れているところもある。 塑造の仏像はあまりにも風化が進んでいた。頭部があったらしいことは、残った土に彩色されている光背らしきものからわかる。他にわかるのは、塑像を支えていた棒状のものを差し込んだ穴、そして塑像の残骸らしきものくらいだ。 大塔の参道が右に分かれ、その先にあるのが講堂址。入っても良いらしい。
高昌故城及び講堂址はグーグルマップでこちら  これが玄奘三蔵が講義を行ったとされている講堂だ。『シルクロード第5巻 天山南路の旅』 で陳舜臣氏は、
この高昌の遺跡に立つと、奇異の念にうたれる。ここは古くから漢族が移住し、漢族王朝が栄えた土地だった。それにもかかわらず、この遺跡には、漢ふうの雰囲気はまったくないのである。正方形の基台のうえの建造物は、ドームをもっているが、これはあきらかにイランの様式なのだ。あるいは、階段をもつ塔があり、インド様式であることを示している。
漢ふうの建物ははじめからなかったのか?それとも木材を用いた漢式建造物は、早くからこわされてしまったのか?  ・・略・・
住居については、イランやインド様式のほうが合うと、この地の漢族も認めたにちがいない。乾燥していること、木材が豊富には得られないことなども、その理由の一つであろう

と、高昌故城の建物、インド様式の大塔やイラン様式の講堂について述べている。ところで、このような建物を表したであろう壁画が敦煌莫高窟にある。
1つ目は盛唐期(712-781年)の第45窟南壁「観音経変」西端に半分だけ描かれている。実はこれは建物の端に編み残し状のものが出ているので、葦などの植物を編んで作ったものだと勘違いしていたので、妙な形だとは思っていても、長い間この講堂と結びつかなかった。 2つ目も盛唐期の第23窟で、窟頂南披「法華経変観音普門品」西端に描かれている。『中国石窟 敦煌莫高窟3』の解説には「土築成的監獄」となっていて驚いた。 高昌国ではお寺の講堂に造られた建物の形が、敦煌の盛唐期には監獄になってしまうとは。共通しているのは上部がドームのようになっていないことだ。だから、この講堂がかつてはドームが載っていたのではないことがわかる。
陳舜臣氏がイラン式という表現をしているということは、現在のイランに、このような建物が残っているということだろう。


関連項目
高昌国のペルシア風建物はソグド人?
高昌故城の講堂の起源



※参考文献
「シルクロード第5巻 天山南路の旅」 1981年 日本放送出版協会
「中国石窟 敦煌莫高窟3」 1987年 文物出版社

2007/08/31

高昌国のペルシア風建物はソグド人?


高昌故城はトルファンの東40㎞、火焔山の前平原にある。海抜-40mで夏になると蒸し暑く、火州と呼ばれたと小冊子『高昌故城』にある。
海抜以下というのは確かなようだが、何mかは書物によって異なる。トルファンの暑さについては「バケツの水をかぶってもすぐに乾いてしまうほど」と表現する人もいる。我々が行った時は40度だったが、日本の夏のように汗がだらだら出るようなことはなかった。

版築の周壁が見えてきた。地面も壁も同じ色だ。前日は大雨が降り、遺跡が崩れたということだったが、建物でさえ同じ色なので、どこが崩れたのか見当がつかなかった。畑の隣が遺跡というのは、高昌国の時からだろうと勝手に想像している。 高昌故城の歴史は、同小冊子は、前104年(前漢武帝期)に、「地勢が高く、人間が隆盛である」ということで高昌と名づけられ、駐屯部隊の兵士のとりでである「高昌壁」を建てた。327年より前に涼王朝の張駿が高昌郡を設立して高昌城の歴史に入った。 
443年に北涼王族沮渠氏が兵士部隊を率いて、東から高昌城に入った。柔然が沮渠氏を攻めたりした後、499年に麹嘉が登場、「麹氏高昌」の歴史に(499-640)。
640年に唐朝の軍隊が高昌に入って、西州都御府を設立。9世紀中後期に回鶻人が高昌に入って高昌回鶻汗国を建てた
という。

匈奴やウイグル族などの北方民族の侵入はあったが、ペルシア人がトルファンまで侵攻したという事実はない。何故漢族の麹(きく)氏の時代に高昌国の建物がペルシア風だったのだろう。
高昌故城の大きさは早稲田大学シルクロード調査隊トルファンホームページの高昌故城によると東西1600m、南北1500mもある。そのためロバ車で見学するのだが、我々はガイドの丁さんを含め3人、10人揃わないと出発しないとオヤジが言うのでしばし待った。 ロバ車に8分ほど揺られ、南にあるβ寺院(その講堂で玄奘三蔵が説法をしたことで有名)の前で降ろされた。帰りも同じ道を通ったので、高昌故城の遺跡のごくわずかを見ただけだ。
上の地図で「可汗堡」というところだろうか。ヴォールトらしきものが見えてきた。 この穴もヴォールト天井だ。 四角い穴もあるかも知れないが、半円形の穴もありそうだ。 ドームのようにも見える。 半分弧を描き、半分四角いようにも見える。こちらはヴォールト天井の部屋が並んでいるようにも見える。殷時代からあるという版築の技術で作られた壁面を間近に見ながら、丁さんが力を入れて説明してくれた、板で囲いをして土を入れて、とんとん突き堅めて、また板で囲いをして、と繰り返して高くしていきますと。
蛇足だが、NHKの『探検世界遺産』という番組の万里の長城後半編で、版築の頂上を私財を投じて修復している人が数人でリズムよく土を突いている場面があり、どのように突き固めるかがよくわかった。その中国の伝統的な工法でペルシア風の建物を造ったというのは面白い。ペルシア風と表現したのは玄奘三蔵である。日本でも長らく正倉院のもので中国でないものはペルシアと言われてきた。「胡」がつくものもペルシアから中国にもたわされたものとされてきた。
しかし、数年前NHKスペシャルで『文明の道』というシリーズが放映された。その第5集に「シルクロードの謎 隊商の民ソグド」というのがあり、以前はペルシアだと思っていた事柄が、実はソグドだったという画期的な内容に驚愕した。番組では、シルクロードの交易を仕切っていたのは同じイラン系のソグド人だという。

同書は、周囲を城壁で囲まれたペンジケントは、13ヘクタールという小さな都市と、その周囲の農耕地が領土のすべてだった。城壁のなかには、土でつくられた小さな家々がびっしりと建てられていた。当初、ペンジケントは家々が整然と並ぶ町だったが、人口の増加によって、2階、3階と建て増しされ、通りの上にまで家がつくられた。  ・・略・・  建て増しの際の強度を保つため、天井はアーチ型という。
また、2000年に西安郊外で見つかったソグド人の墓の墓碑銘について、北京大学歴史系教授の栄新江氏は、・・略・・  商業を目的に中国にやってきた多くのソグド人たちが、交易に便利な場所を選んで集落を築き、定住していたことが、明らかになってきたと説明する。
ペルシア人が高昌国にペルシア風の建物を伝えたのではなく、高昌国に住んでいた隊商の民ソグド人が、中央アジアの故地の建物を造ったのではないだろうか。

ところが、一緒に出土した数枚の石のパネルに描かれたレリーフが彼らの生活を現代に伝えている。  ・・略・・  『墓主夫婦図』には中国式の館のなかで暮らす、主人とその妻の姿が描かれていると、取材班の文が続いていた。「高昌国はペルシア風の建物ばかり」と玄奘三蔵の見たものは、麹氏の趣味だったのか。

※参考文献 
「シルクロード第5巻 天山南路の旅」 1981年 日本放送出版協会

「文明の道3 海と陸のシルクロード」 2003年 日本放送出版協会
「高昌故城 シルクロードの名城の1400年の歴史を総観する」 2001年 新疆美術撮影出版社

※参考ウェブサイト
早稲田大学シルクロード調査隊トルファンホームページ高昌故城

2007/08/23

トルファンのウイグル族の家



『中国大陸建築紀行』の著者たちは交河故城付近の維吾爾(ウイグル)族の民家にも足を運んでいる。
維吾爾族の住居は  ・・略・・  オアシス地帯に限ってみれば、日乾しれんがの中庭型が一般的で、夏・冬住まい分けるためか部屋数が多く、比較的大きな家となることが多い。その中にあって気温の寒暖が特に激しい吐魯蕃では、ほとんどの家に地下室や半地下の部屋があり、オンドル式のベッドを備えた冬の寝室や、夏の台所など、季節に応じた使い方がなされている
という。
下の写真が添付されているが、このヴォールト(トンネル型)天井についての記述がないのが残念だ。
上の写真を見ると、トルファン郊外の火焔山の中にあるトユク村を思い出さずにはいられない。小さな村の中心には、ドームとそれを取り囲む鉛筆のようなミナレットのモスクがあった。少し上流のダムから見たものだが、隠れ里のように思っていたこの村から、遙か向こうに広がるトルファン盆地のオアシスが見渡せる。そのダムのために、トユク村を縦断するのはこのような小さな流れでしかない。渓谷の奥にあるトユク石窟を見学するには、この村を通り抜けることになる。 小川に沿った道を歩いていると、何故か道路の上にヴォールト天井があったのだった。日乾しレンガでつくられていて、その先はまるで誰かの家の中の通路のような道だった。突き当たり(京都ではどんつきと言う)はオート三輪車の車庫となっていて、その前を右に曲がり、さらに右折したように記憶している。その道に面した民家の扉が開いていたので写させてもらった写真には、天井が写っていないのが残念だ。町の中には、ドイツ人シルクロード学者勒柯克(ルコック)が住んだ家というのもあった。ウイグル人の村なのに、木の枝を使って漢字でそれを表しているのが面白くて撮った。扉の上部には、北京の四合院の玄関で見かけた一対の木の突起と同じものがあった。ここだけ漢族が作ったのだろうか。 ウイグル族は遙か昔からトユクやトルファンで暮らしてきた民族ではない。『中國新疆壁畫全集6』では、同じく火焔山中の渓谷に開かれたベゼクリク石窟は9世紀中葉より回鶻(ウイグル)期となっている。そしてここトユク石窟は、五胡十六国時代の前涼が高昌郡を置いた327年から麹氏高昌国が唐に滅ぼされる640年までの間としているので、おそらく石窟を造営したのは漢族だったのだろう。

ウイグル族はトルコ(テュルク)系の遊牧民族なので、元来は平面が円形の穹廬(きゅうろ、パオ・ゲル)または平面が方形のフェルト製テントに住んでいただろうと勝手に想像するのだが、ウイグル族は何時頃からこのような日乾しレンガで作った家に住むようになったのか。
『シルクロード建築考』 に面白い記述がある。
『大唐西域記』によると、玄奘三蔵一行が高昌城を訪ねたときは、初唐の太宗貞観2年、紀元628年の春のころである。
玄奘が広大な外城を通って内城に入ってみると、各種の建築は殆どペルシャ的で、壁面には美しい壁画が色鮮やかに飾られていたという。だが、残念ながら、中国的な建築遺跡は一向に見当たらなかったらしい
という。

そのペルシア風建築がウイグル族に受け継がれてきたのだろうか。 

※参考文献
「建築紀行16 中国大陸建築紀行」 茶谷正洋・中澤敏彰・八代克彦 1991年 丸善
「中國新疆壁畫全集6」 1995年 新疆美術攝影出版社
「東京美術選書32 シルクロード建築考」 岡野忠幸 1983年 東京美術

2007/08/20

トルファン、交河故城にも窰洞(ヤオトン)



夏になると思い出すのが西域旅行だ。このところ猛暑が続いているが、トルファンはもっと暑かった。お昼前に見学した東南郊の高昌故城では40度もあったが、トルファンにしてはものすごく暑いとは言えない温度だった。
現在の市街地から西10㎞にある交河故城は翌朝見学した。文字通り2つの河に挟まれた中州にある。
トルファンに戻ってバザールの近くにたまたまあった書店で見つけた小冊子『交河故城』は「シルクロード城郭古都の美を感受する」という妙な直訳の日本語訳の副題がついている。本文も日本語訳がすごいので、それを意訳すると、台地の断崖の高さが30mで両側にヤルナーズ河が流れている。台地の形は柳葉状で南北1700m、東西で一番広いところが300mです。紀元前2世紀から車師人が暮らし、その王国の都城として最古の記述が「漢書西域伝」にある。漢代より北涼(5世紀)まで存在した。 

640年に唐王朝は高昌国を滅ぼし、交河郡を設立して西州に属した。
9世紀にウイグル族が交河城を建築し、高昌ウイグル風の遺物も少なくない。13世紀の末になって(元代)交河故城はだんだん廃棄されたという。
様々な時代・民族の遺構が残る遺跡だ。南側にスロープのある道があり、そこから入城した。当時も両側の河の交わるこのあたりから人々は行き来したのだろう。北側は青空が見えているのに、南側は雲に覆われていたおかげで、前半は日陰の状態で見学することができた。『建築巡礼16 中国大陸建築紀行』は、船首に相当する南の入口から城内に入ると、幅10mほどの大通りが交河城最大の遺構である仏教寺院まで続く。  
住居をはじめ多くの建築が自然の大地を掘り抜いて造ってある交河城にあって、用途のはっきりしない地下建築がある。高さ2mほどの土塀が巡らされた一角に、1辺が約10mの矩形の竪穴を深さ6mほど掘り下げ、これを中庭とする四周の壁に横穴を穿った遺跡で、形態的には私達の旅の目的である黄土高原の地下住居、「下沈式窰洞住居」そのものだが、城内に一つしか見られないところから住居とは考えにくく、廟とか監獄の跡という説も実証するものは何もない。しかし私達にとっては下沈式の窰洞建築には違いない
という。

それを読んで、私の頭に浮かんだのは、「官署遺址」だった。その説明板には、1994年に一大型古井が考古学的に発掘されたというようなことが書いてあった。我々は金属の囲いの向こうの階段から降りて入ったが、四角い空間しかなく、その周囲ばかり撮って、空間そのものの写真は撮らなかった。小冊子『交河故城』に平面図があった。階段(A)を下りてその四角い空間(D)へ入る。土地を掘り下げた壁面が両側にあり、同じ色ながら、版築や日干しレンガとはまた風合いの違うものだった。確かに、ヴォールト天井(半円筒形・トンネル型の天井。中国語では巻頂天井)の部屋が周囲にあった。これが窰洞だとは思ってもみなかった。Bは崩壊したのか、明かり取りなのか、奥に穴が開けられていた。Cは逃げ道であると、ガイドの丁さんが教えてくれた。左にカーブしながら続いていることがぼんやりと見える。Bと比べると天井の堀り方が雑なので、秘密の通路と言われれば、そうかなと思うようなものだった。これも窰洞というのだろうか?同書によると、東から段階を降りると天井庭院に着く。庭院は方形で交河県の官署であると天井という言葉がでてくる。そして平面図には、天井院和窰洞面積・・・と、窰洞という文字もあった。この本には簡体文字で記してあるのだが、ヤオトンが窰洞という漢字であることも知らなかった。
説明板には、官署は唐時代に安西都護府の最高行政機関があったとしているので、漢族が唐時代に造ったものとわかる。『中国大陸建築紀行』で中澤氏が「高さ2mほどの土塀が巡らされた」 というのは、このような途切れ途切れの周壁のことだろう。『シルクロード第5巻 天山南路の旅』は、南区の中央に一段深く7、8m堀りこまれた広場があった。監獄跡だろうという。下に降り、門口と思われるところから入ると、10mほどの「トンネル」を通って広場に出る。15m四方はあろうか。ここには、小作料を払えなかったり、賦役や兵役を逃れようとしたり、「過料」をもたずに旅した人たちが押しこめられたのだろうか-さえぎるもの一つない陽光が容赦なく注ぎ、暑熱はたまって動かず、往時の人びとの怨嗟の声が聞こえてくるようだという。

トルファン住民の言い伝えから空想を膨らましている。我々も「官署遺址」よりも「監獄跡」の方が熱心に見学できたかも知れない。「10mほどのトンネル」というのは、Cの逃げ道のことだろう。せっかくだから、我々も通ってみたかったなあ。

※参考文献
「建築紀行16 中国大陸建築紀行」 茶谷正洋・中澤敏彰・八代克彦 1991年 丸善
「交河故城 シルクロード城郭古都の美を感受する」 2004年 新疆美術撮影出版社
「シルクロード第5巻 天山南路の旅」 陳舜臣・NHK取材班 1981年 NHK出版