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2021/11/12

敦煌莫高窟275窟 菩薩交脚像は北魏か北涼か


今回の黄土高原石窟巡りでは、古いところでは後秦時代とされる武山水簾洞千仏洞の菩薩像や、炳霊寺石窟169窟の西秦時代の仏像仏画などを見学した。それをまとめているうちに、これまではさまざまな文献やテレビの番組で北涼時代のものといわれてきて、私も北涼時代と思ってきた敦煌莫高窟275窟の菩薩交脚像を、北魏時代のものとする『北魏仏教造像史の研究』の石松比奈子氏の次の文が気になってきた。

『北魏仏教造像史の研究』(2005年)は、こんにち敦煌莫高窟で最も早期と見なされているのは第268、第272、第275の3窟で、時代について敦煌研究院は北涼期(北涼の支配は421-439)としている。ただし、3窟とも年代を確定できる材料があるわけではなく、近年宿白氏は様式的観点から3窟の年代を北魏の太和8年(484)頃から洛陽遷都(494)頃、雲崗石窟の影響を受けて開かれたとする新説を唱えている。また、桑山正進氏は第275窟の塑造菩薩交脚像の宝冠形式を検討した結果、やはり北涼期には遡り得ないことを指摘している。筆者も第275窟については、後述するように北魏まで下げるべきと考えている。
1989年に宿白氏が提起した新年代論は衝撃的であった。氏はこれら3窟には河西地区の石窟や炳霊寺石窟との共通性は少なく、むしろ雲崗石窟第2期(470-494)の影響が認められるとして、その上限を太和8年(484)頃、下限を「洛陽遷都(494)をあまり隔たらない時期」まで下げたのである。宿白氏の新説は現在までのところ学会で認められたとは言えないが、明確に反論する意見も出されていない。これら3窟の年代は敦煌のみならず涼州地区全体の石窟造像の年代に大きな影響力を持つはずであるが、現状では漠然と敦煌研究院の公式見解である北涼説が採用されているという。

敦煌莫高窟275窟は北涼時代ではなかったのだろうか。

菩薩交脚像 西壁(正壁)
同書は、西壁本尊に菩薩交脚大像、南北壁上段には闕形龕内菩薩交脚像2、樹形龕内の菩薩半跏思惟像1を塑造で作るが、みな天衣が肩を広く覆って臂に懸かる独特の形状を示しているという。
確かに両肩にはギザギザの天衣がかかり、肘の後ろから下に垂下して、交差した脚の奥から端が出ている。このような天衣は他に見たことがない。

同書は、これらの菩薩像の尊格については、交脚像は兜率天で説法する上生の弥勒、思惟像は龍華樹下で思惟する下生の弥勒と見なす解釈が多い。しかし、酒泉から出土した北涼時代の白双且石塔(434)では、6体の如来像と1体の菩薩半跏思惟像、1体の菩薩交脚像の8体が組み合わされており、その配置から交脚像は弥勒菩薩として造像されたと推定できる。したがって、本窟の思惟菩薩像の尊格についても慎重に検討する必要があろうという。
背後には逆三角形のが描かれている。これは靠背と呼ばれる椅子の背もたれに懸かる布で、炳霊寺石窟169窟16龕の菩薩思惟像(西秦)にも描かれているが、背後に回った布帛は16龕の方が長い。靠背は短い期間にしか見られないもののように記憶しているが、275窟内にも西秦時代の、あるいは炳霊寺石窟の影響が及んでいる証拠の一つといえよう。
敦煌莫高窟275窟西壁菩薩交脚像 『世界美術大全集3 三国・南北朝』より


莫高窟の実測図には東入口から入って1/3の所に壁のようなものがあるが、後世に造られたもので、すでに取り除かれている。

『敦煌の美と心』は、窟頂は中国中原地域の木造建築を模しており、中央の両端を切妻形に折りあげた人字坡、すなわち人の字型の構造をしている。
奥行7mの正面に初期における最大の塑像といわれる高さ3.4mの交脚弥勒菩薩像が、人々を迎えるように両手をひろげ泰然と坐っているという。
同書では弥勒菩薩としている。

敦煌莫高窟275窟立面図及び平面図 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より


南壁上段 菩薩交脚像
『中国石窟 敦煌莫高窟1』(以下『中国石窟』)は、闕形龕にはひとしく交脚菩薩があり、弥勒が兜率天宮にいることを表現しているという。坐り方が交脚でも、両手の印相はそれぞれ異なる。
菩薩像の肩から腕には、天衣(あるいは披巾)がぺらっと懸かっているように見える。
(画像に書籍名のないものは、敦煌石窟陳列館で写したものです。以下同じ)


北壁上層

菩薩半跏像 塑造
275窟は小さな窟で、入ると正面に獅子を両側に従えた大きな菩薩交脚像がある。石窟の左右壁の上段に各3つの龕があるが、ほとんどが闕形龕と呼ばれる中国建築となっていて、中には菩薩交脚像が置かれている。そして、この写真の菩薩のみが半跏像で、樹形龕に坐している。
『中国石窟』は、双菩提樹龕には半跏坐思惟菩薩像が造られていて釈迦の後に弥勒が下生し、仏道を修行する姿であるという。
胸飾りや短い瓔珞をつけた菩薩の左肩には、折畳文を3つほどつくる布帛がかかる。これは主尊では描かれていただけの天衣が、塑土で表されたものである。
そして天衣は右肩も覆い、右脚の下に波状の揺らぎを出しながら、右足と左手の奥からその端はやや下方向に曲がっている。その端は折りたたまれていて、天衣は幅のある布帛であることを表している。
敦煌莫高窟275窟北壁上層菩薩半跏像 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より

北魏窟の菩薩半跏像と比べてみると、

敦煌莫高窟257窟 菩薩半跏像 北魏(439-535) 塑造
菩薩の顔は275窟の主尊と似ているように思う。
宝冠を留める宝繒の端がひらひらと重なり、曲線的な折畳文をつくるところなどは、275窟よりも表現が進んだものと思われる。
『中国石窟』は、闕形の下に帷幔が出る龕内に弥勒菩薩が半跏に坐すという。
本像は天衣を肩から腕に添わせ、肘の内側に回しているところまではわかるが、その後天衣がどのようになっているのかは分からない。
敦煌莫高窟275窟北壁上層菩薩半跏像 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より

上図の菩薩半跏像の天衣の表し方は、炳霊寺石窟169窟22龕の脇侍菩薩像(西秦)に似ている。

脇侍菩薩立像 22龕 高さ1.28m
肘の内側から垂下している披巾は、脚部の外側で風に揺れているような優美な表現なのだが、両肩から腕にかけて、こんな風に魚の背びれのように披巾(または天衣)を添わせることに、制作者は不自然さを感じなかったのだろうか。主尊の大衣の端が左肩から腕に添っているのをただ真似ただけだろうか。
炳霊寺石窟169窟22龕 西秦 『炳霊寺石窟第169窟 西秦』より


そして、何よりも高善穆北涼石塔(承玄元年、428、酒泉城内出土 蘭州市甘粛省博物館蔵)の菩薩交脚像の天衣も、このような形式である。
『世界美術大全集東洋編3』は、7層の相輪の下に八つの仏龕をつくり、うち7龕には袈裟を通肩につける禅定印の如来坐像、残り1龕には化仏宝冠を戴き転宝輪印で交脚坐する菩薩像を半肉彫りで表す。これらが過去七仏と未来仏の計8軀であることは、他の作例に記された題記からも明らかであるという。
本石塔は、北涼時代に西秦時代の菩薩の独特な天衣が伝わっていたことを示しているが、275窟の菩薩像でこのような天衣は見られない。両肩から腕にかけて天衣が掛けられ、その衣端が折畳文のようになっている。それはやはり様式が進んだ北魏時代の制作であることを示しているのだろうか。
高善穆北涼石塔部分 承玄元年(428) 甘粛省博物館蔵 『世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝』より

菩薩の宝冠(三面頭飾)について
『北魏仏教造像史の研究』は、桑山正進氏も第275窟左右壁の塑造菩薩交脚像の宝冠について、ササーン朝ペルシャのヤズデガルド2世(在位438-457)の王冠形式の影響を指摘しているという。
ヤズデギルド2世の王冠がどのようなものかがわからないが、丸いものが3つ肉髻を囲んでいる。主尊の三面頭飾の正面には化仏が表される。
敦煌莫高窟275窟西壁菩薩交脚像 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より

菩薩交脚像 北壁上層
宝冠は西壁菩薩交脚像と同じく丸い三面頭飾で、それぞれに化仏が配されているようだ。
また、主尊とおなじく天衣は両肩にかかり、肘の内側に回って斜め下に垂れる。その端の表現が主尊の天衣と似ている。
敦煌莫高窟275窟北壁上層菩薩交脚像 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より

菩薩交脚像 北壁上層
三面頭飾には丸い文様がある。
そして、主尊と同じく天衣が両肩にかかり、肘の内側に回してその端は斜め下に張り出している。
敦煌莫高窟275窟北壁上層菩薩交脚像 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より


『北魏仏教造像史の研究』は、筆者は北壁に描かれた本生図がみな『賢愚経』(北魏、慧覚等訳)に収められている物語である点に注目したい。
この経典は443年に慧覚が訳出したと伝えられており、本窟を北涼期の造営とするならば訳出以前に描かれたことになるという。
北涼は439年に北魏により滅亡しているので、下図のような具体的な本生図は描くことができなかっただろう。

南壁中層 四門出遊図
敦煌莫高窟275窟南壁四門出遊図 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より

北壁中層 月光王本生図
敦煌莫高窟275窟北壁中層四門出遊図 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より

北壁供養者像
下段は南北壁ともに供養者がそれぞれ主尊に向かって並んでいる。
『北魏仏教造像史の研究』は、胡服供養者列像についても、同様の胡服供養者列像は5世紀半ばから末頃までの北魏造像に常見されるという。
敦煌莫高窟275窟北壁供養者像 『世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝』より

こんな風に275窟が北涼ではなく北魏に入ってからの開鑿であるというのが正解かも知れないが、炳霊寺石窟169窟(西秦)の影響もあることは間違いなく、宿白氏が河西地区の影響がないとする説には疑問がある。


関連項目

参考文献
「北魏仏教造像史の研究」 石松日奈子 2005年 ブリュッケ
「敦煌の美と心 シルクロード夢幻」 李最雄他 2000年 雄山閣出版株式会社
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌文物研究所編 1982年 文物出版社

2021/07/30

炳霊寺石窟 北魏後期


窟や仏像のデータは『中国石窟 永靖炳霊寺』(以下『永靖炳霊寺』)より。

1窟は水没、3窟は炳霊寺石窟の入口の近くにあった。2窟はどこにあるのだろう。
『永靖炳霊寺』は、高い懸崖の南の石窟群にあるという。

2窟 北魏、唐・明重修
二仏並坐像 如来高さ1.10m 北側菩薩立像高さ1.07m、南側菩薩高さ1.34m
『中国石窟芸術 炳霊寺』(以下『炳霊寺』)は、「妙法蓮華経・見宝塔品」に依拠して制作された釈迦・多宝如来の並坐像であるという。
大衣の長い裾が規則的な折畳文で表現されている。段々と脚部の盛り上がりが大衣に隠れてしまったり、大衣だけでなく、内着の裾も台座にかかって複雑になったりするようになっていく。
2如来は結跏趺坐しているので、やがて半跏趺坐するようになる二仏並坐像よりも早い時期に造られたのだろう。
炳霊寺石窟2窟二仏並坐像 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

『炳霊寺』は、仏像は細身、着衣は双領下垂式で裳裾は台座に垂れる。
「秀骨清像、褒衣博帯」という中原の造像様式の影響を受けているという。
双領下垂式(襟が下にまっすぐ垂れている)の大衣、嵩の低い脚部にはほとんど衣文がない。
頭部については、釈迦如来は北魏らしいが、多宝如来はどうだろう。丸顔の上に髪の生え際が真っ直ぐで、お椀を被っているようだ。

『永靖炳霊寺』は、窟頂の壁画は剥落しているが、北壁には火焔文の頂光が残るという。
頭光は後世の重修で植物文様が描かれている。背後の蓮弁状光背の頂部や向かって右に坐す釈迦如来の外側などには線刻の落書きのようなものがある。
炳霊寺石窟2窟二仏並坐像 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

左脇侍菩薩は天衣を着け、裙を履き、蓮台に立つという。
菩薩の頭部も後補のよう。北魏の菩薩は両肩を覆う帔帛を着けていただろうか。帔帛に沿った蕨手が大きく表され、興味深い。
炳霊寺石窟2窟脇侍菩薩像 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より


北魏窟群
炳霊寺石窟北魏時代窟群 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

125窟 アーチ形浅龕 龍頭龕楣 高さ1.60m、幅1.46m、奥行0.30m
その経典について『建築を表現する展図録』は、『法華経』見宝塔品には、霊鷲山で『法華経』を説く釈迦と大衆の前に、1基の大宝塔が地中から涌出する場面が記される。
涌出し、空中に浮いた宝塔の中には多宝如来の舎利が納められており、中から多宝如来が釈迦の説法が真実であることを大音声で宣言した。その後、宝塔内に入った釈迦は十万世界から集まった諸仏や菩薩とともに多宝仏の分身を拝し、さらに、釈迦如来は多宝如来に座を与えられ並んで結跏趺坐し、ともに法華経を説いたという。
私は長い間、座を与えるしぐさの向かって右が多宝如来だと思っていたが、右手を挙げて説法している釈迦だった。

『炳霊寺』は、釈迦、多宝如来が並坐する。その目は薄く開き、鼻唇は小さく、口角をわずかに上げる。着衣は下に伸び、彫りは浅い。これは北魏時代の経典によって造られたという。
できる限り自分の写真を使いたかったが、浅い衣文線がほとんどわからないので、『中国石窟芸術 炳霊寺』の図版から。
という。右足を組まずに外に出しているのを半結跏趺坐(半跏趺坐)というらしい。二仏並坐像が造像されるようになってからこの坐り方ができたようにも思える。
『永靖炳霊寺』の126窟の解説から、両如来の右足を出す坐り方が半跏趺坐であることを知った。
炳霊寺石窟125窟二仏並坐像 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

麦積山石窟148窟の二仏並坐像に比べると、こちらの方が北魏仏らしい。角張った典型的な北魏仏の顔である。肉髻も高いが唐代ほどではない。


126窟 北魏、明代重絵 平面方形穹窿天井 高さ3.05m、幅3.75m、奥行2.95m アーチ形窟門

平面図 
『炳霊寺』は、北魏延昌2年(513)、曹子元が資金を提供して修復した。窟内には石彫の三世仏、菩薩及び千仏像が総数115尊あるという。
炳霊寺石窟126窟平面図 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

正壁立面図 二仏並坐及び両脇侍菩薩
炳霊寺石窟126窟正壁 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

『永靖炳霊寺』は、如来たちは半結跏趺坐するという。
右足を組まずに外に出しているのを半結跏趺坐(半跏趺坐)というらしい。二仏並坐像が造像されるようになってからこの坐り方ができたようにも思える。

釈迦及び多宝如来が並び坐して説法する。彫像は痩身で、目鼻が小さくまとまった顔。着衣の裾は折畳文がある
という。
折畳文は一つ一つが大きい。
炳霊寺石窟126窟正壁二仏並坐像 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

多宝如来と左脇侍菩薩
脇侍菩薩の方が、目鼻がより中央にまとまっている。
炳霊寺石窟126窟正壁多宝如来及び左脇侍菩薩像 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

北側面図 交脚菩薩像及び両脇侍菩薩像
炳霊寺石窟126窟北壁 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

交脚菩薩像を主尊とした三尊像
炳霊寺石窟126窟北壁交脚菩薩像 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

菩薩なので宝冠や腹部で交差する天衣などを付けている。厚い着衣のためか、交差する脚部は強調されていない。その下で尾を接しながら威嚇している獅子が興味深い。
炳霊寺石窟126窟北壁交脚菩薩像 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

頭部は筒状に見える。
炳霊寺石窟126窟北壁交脚菩薩像 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

窟頂と各壁の如来頭部
こういう見方をすると、各如来の頭部はみな円筒形に見える。
曹子元が資金を提供して修復した(『炳霊寺』より)というのは、この天井の亀裂のことだろう。
炳霊寺石窟126窟窟頂 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

周囲を立像や坐像の千仏が囲んでいるが、中心のものは不明。
壁画ではなく、全て浮彫している。
炳霊寺石窟126窟窟頂 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

思惟菩薩像
こちらを向いた菩薩の頭部は円筒形である。千仏群は浮彫だが、思惟菩薩像と供養者は半ば透彫で立体的。
炳霊寺石窟126窟正壁思惟菩薩像 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

128窟 北魏、明代重絵 平面方形穹窿天井  高さ3.50m、幅3.90m、奥行3.50m 
『永靖炳霊寺』は、アーチ形窟門で、門両側に方形石柱、柱頭には蓮華、楣の下端に龍の首を彫り出すという。
   
正壁 
二仏並坐及び二菩薩像。 如来は半跏趺坐し、総高2.10m。 二仏の上に2つの龕があり、維摩と文殊が分かれてる。南北両壁にはそれぞれ一仏二菩薩像
釈迦如来坐像の顔は眉から鼻筋までが1本の線でつながり、目鼻の配置は中央に集中するというほどでもない。
炳霊寺128窟正壁如来坐像 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

東壁
菩薩半跏像
炳霊寺128窟東壁菩薩半跏像 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

東壁
門上上部に六仏及び七仏像
六仏及び七仏像



132窟 北魏 アーチ形窟門 平面方形伏斗式天井 高さ3.50m、幅4.10m、奥行3.90m
平面図
126窟とほぼ同じ配置の窟。どちらが先かな?
炳霊寺石窟132窟正壁立面図 北魏  『中国石窟 永靖炳霊寺』より

窟内の様子
各壁の如来像の上部には伏斗式天井の斜め台形壁面となっている。
炳霊寺石窟132窟内部 北魏  『中国石窟 永靖炳霊寺』より

南北両壁の台形壁面に菩薩像が大きく描かれる。諸像の頭上に伏斗式天井。
炳霊寺石窟132窟窟頂 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より


伏斗式天井にはラテルネンデッケが浮彫される。ラテルネンデッケとは正方形が90度ずつ回転するように入れ子になり、段々と高さを増す明かり取りの天窓であるが、その用はなくなり、意匠だけが東漸したので、中央は塞がってしまった。
ウズベキスタン歴史博物館で展示されていたワラフシャ宮殿の復元図に空がのぞいているラテルネンデッケの天井があった。
その中心には蓮華と化仏、他の区画にも何か刻まれているようだが不明。小さな蔓草はあちこちに描かれている。
炳霊寺石窟132窟窟頂 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

窟頂図
蓮華と化仏ではなく、蓮華化生童子(『炳霊寺』より)が彫り出されていた。

正壁
二仏並坐像 総高2.60m
炳霊寺石窟132窟正壁立面図 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

126窟正壁の二仏並坐像と同様に如来たちは半跏趺坐している。
炳霊寺石窟132窟正壁立面図 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

北壁
交脚菩薩像 総高2.55m
炳霊寺石窟132窟北壁立面図 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

両脇侍菩薩とで三尊像になっている。
炳霊寺石窟132窟北壁菩薩半跏像 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

腕を挙げて菩薩の足を支える力士は蹲坐する。

炳霊寺石窟132窟北壁菩薩を支える力士像 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

脇侍菩薩
やはりこの窟でも如来や菩薩の頭部は円筒形だ。それに長い耳がついている。
炳霊寺石窟132窟北壁左脇侍菩薩像 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

南壁 
一仏二菩薩像 如来総高2.50m
半跏趺坐する如来も両脇で立つ菩薩も説法印を結んでいる。
『永靖炳霊寺』は、高僧が修行している姿を写したようで、北魏宣武帝の延昌年間の代表作の一つである。壁画は明代重絵、明、清期に香を焚くのが流行したために黒ずんでいるという。
延昌年間は512-515年で、同帝が没したために終わる。
炳霊寺石窟132窟南壁一仏二菩薩像 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

東壁窟門上のアーチ形龕
炳霊寺石窟132窟南壁上部仏涅槃像 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

仏涅槃像 長さ2.15m
『永靖炳霊寺』は、仏光の背後に弟子が哀悼している。頭部に跪いているのは仏弟子の一人舎利弗であるという。
炳霊寺石窟132窟南壁上部仏涅槃像 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

『炳霊寺』は、肉髻は低く、顔は四角く、目を閉じ、右手を枕にし、左腕は体にそわせている。丸い襟の袈裟はU字形の衣文を刻む。8人の弟子たちは腕を挙げたりして哀悼を表しているという。
枕元の舎利弗、背後の8人の弟子、ではもう1人は、まだ到着していない迦葉ということかな。
炳霊寺石窟132窟南壁上部仏涅槃像部分 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

涅槃像といえば、移設された16窟の像がある。

仏涅槃像 長さ8.6m
説明パネルは、仏涅槃像はこの下15mにあった。1967年に堤防が建設される前に、撮影や記録が行われたあと、涅槃像は9つの木箱に入れられて窟から出された。2001- 02年に修復された後、元の窟の川向かい側の仏殿に陳列された。またこの窟の壁画は、 炳霊寺文物研究所内に保管されているという。
この白いものは人物などを描いているように見える。

調査の様子。胸にあいた丸い穴は何だろう?

炳霊寺石窟16窟の調査の様子 1967年 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

『炳霊寺』は、足には鞋を履いている。2001年に修復して、北魏時代の像容となったという。
パノラマ合成するとふっくらして別の時代のようだが、実物は北魏らしい角張った顎だった。
炳霊寺石窟16窟仏涅槃像 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より


関連項目

参考文献
「中国石窟 永靖炳霊寺」 甘粛省文物工作所・炳霊寺文物保管所 1989年 文物出版社
「中国石窟芸術 炳霊寺」 甘粛省炳霊寺文物保護研究所編 2015年 江蘇鳳凰美術出版社
「仏のきた道 中国の仏教文化を探る」 鎌田茂雄 1997年 PHP新書
「建築を表現する展図録」 2008年 奈良国立博物館