お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2014/03/18

イラクリオン考古博物館2 女性像



クノッソス宮殿東翼の31:王妃の間の東壁には女性像が描かれていた。
もちろん複製。
白いく長い服はベルトのようなものが回っている。下には黄色く短いスカートと、足首まである青いスカートを着け、半袖の上着を着ている。
縮れた髪は左右に翻っているが、背中にも垂れている。

踊る女性図 前15世紀 王妃の間出土
『クノッソスミノア文明』(以下『クノッソス』)は、踊りながら回転した勢いで髪が舞い上がったように見える。女性の衣裳、とくに染糸で縫い取りされた半そでの上衣は興味深いという。
回転している場面の描写だとは思わなかった。当時の踊りはかなりスピードのあるものだったようだ。
『名画への旅1美の誕生先史・古代Ⅰ』は、婦人は、宮廷の女官ではなく神であり、しかもその顕現と考えられるという。

クレタの女神像といえばこれ。
23:宝物保管室の床下に埋め込まれていた石製の宝物箱の中に収められていたという(『クノッソスミノア文明』より)。

蛇女神像 前1600年頃 ファイアンス 高さ29.5㎝ イラクリオン考古博物館蔵
『世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック』は、蛇女神は大地母神の信仰に属していた。本作品の蛇女神の頭部に付けられた野生の猫は牝獅子とも考えられており、女神と獅子の組み合わせはクレタの印章上にも登場する。
胸をあらわに見せる上着と、細く絞ったウェスト、エプロン風の前垂れ、その下に切り替えのあるスカートという出で立ちという。
王妃の間の女性像は、蛇女神ではないらしい。
蛇女神像 前1600年頃 ファイアンス 高さ約34㎝ イラクリオン考古博物館蔵
同書は、高い三段帽子をかぶり、3匹の蛇が女神の身体にまといついているという。
上の像とはスカートが地面すれすれの長さでは共通するが、こちらは切り替えもない、シンプルなスカートだ。

平たい女性像もあった。

女性の装飾板 ファイアンス 時代・出土地不明
衣服のモデルという(『HERAKLEION ARCHAEOLOGICAL MUSEUM』、以下『MUSEUM』より)。
長いスカート、半袖の上着、太いベルトというのが王妃の間の女性像に似ている。

その他に参考にできるものといえば、印章にも表された女性像だ。

印章指輪 前1450-1400年頃 黄金 長径訳2.5㎝ イソパタの王墓出土 イラクリオン考古博物館蔵
『世界美術大全集3』は、クノッソス宮殿の通称「王家の墓」イソパタから出土した黄金製の印章指輪。印章とは金石などに文字や図柄を彫って、器物や文書に押印するものであり、所有権を示し、また印章自体が護符の役割を果たすこともあった。
百合の野で執り行われる女神の「顕現」と、女神を取り巻く女性信者の陶酔に身を任せた舞踊が表現されているという。
長いスカートを着けて踊っているが、髪が左右に広がるほどの旋回はしていない。
動きがあるせいか、切り替えのあるスカートの端がギザギザに表されている。

印章指輪 前1600-1500年頃 イラクリオン考古博物館蔵
中央の巨大な女神の切り替えのあるスカートはV字形に表されている。

印章指輪 前1600-1500年頃 クノッソス宮殿地域南方セロポウロの墓出土 イラクリオン考古博物館蔵
『MUSEUM』は、女神と翼を広げたグリフィンという。
おそらく切り替えのあるスカートを表現したのだろうが、横に衣端が突き出ているようになっている。

印章指輪 前1450-1400年頃  
右端の女神は建物に腰掛けている。切り替えのあるスカートは、幅広のパンツのようで、それぞれに衣端が突き出ている。画面中央下には、波間に舟が浮かんで、女神が櫂を漕いでいる。
考古博物館で小さな印章をじっくり見るのは難しいが、指輪側を見るのはもっと困難である。ギリシア語版しか売っていなかった『Το Δαχτμιδι τομ Μινψα: η οπισθια οψη της οφενονης χαι ο χφχος』には大きく横側面と縦側面の図版があり、粒金が並んでいたことを知った。
ある程度大きさの揃った金の粒を、大小それぞれ一列に鑞付けしている。
鑞付けについてはこちら

彩色石棺 前1400年頃 クレタ、ハギア・トリアダ出土 石灰石 長さ137㎝ イラクリオン考古博物館蔵

『MUSEUM』は、黄色い背景では、女祭祀が犠牲の牛に手をかけ、その背後に女性たちの行列があるという。

宮殿期以後(前1400-1100年頃)になると、女性は全く異なった姿で表現されるようになる。
女性像 イラクリオン近郊ガジ出土
『MUSEUM』は、衣服は円筒のように扱われている。腕は挨拶または祝福のために挙げている。
頭頂には様々な象徴を載せている。鳥、角、ポピーの花などという。
この女性たちは、女神でも女祭司でもなく、礼拝者または崇拝者ということらしい。


   イラクリオン考古博物館1 壁画の縁の文様←
                →イラクリオン考古博物館3 粒金細工


関連項目
イラクリオン考古博物館4 水晶製のリュトン
イラクリオン考古博物館5 ミノア時代の建物の手がかり
イラクリオン考古博物館6 ミノア時代のファイアンスはすごい
イラクリオン考古博物館7 クレタの陶器にはびっくり
イラクリオン考古博物館8 双斧って何?

※参考文献
「クノッソス ミノア文明」 ソソ・ロギアードウ・プラトノス I.MATHIOULAKIS
「ギリシア美術紀行」 福部信敏 1987年 時事通信社
「世界美術大全集3 エーゲ海とギリシア・アルカイック」 1997年 小学館 
「名画への旅1 美の誕生 先史・古代Ⅰ」 木村重信・高階秀爾・樺山紘一 1994年 講談社
「Το Δαχτμιδι τομ Μινψα: η οπισθια οψη της οφενονης χαι ο χφχος」  ΤΟ ΔΑΚΤΥΑΙΑΙ ΤΟΥ ΜΙΝΩΑ 
「HERAKLEION ARCHAEOLOGICAL MUSEUM」 ANDONIS VASILAKIS EΚΛΟΣEΙΣ ADAM EDITIONS

2013/12/06

ギリシアのグリフィン



オリンピアやデルフィに奉納された東方化様式時代の大鍋や鼎にはライオンやグリフィンの頭部が取り付けられていた。

オリンピア出土の大釜
三脚に輪のついた台に載せられたらしい。
様々な容貌のグリフィンやライオンの頭部も展示されていた。

デルフィ博物館では、そのような飾りのある鼎あるいは大鍋(大釜)は出土していない。
あるのは装飾がなかったか、とれてしまった大鍋だけだった。
その想像復元図には、ライオンの頭部と共にグリフィンの頭部も描かれている。


そして、グリフィンの頭部だけはたくさん出土しているようで、大きな展示ケースを飾っていた。どれも大きな目がぽっかりと空いて不気味。

グリフィンの頭部 前8世紀 青銅製
同書(以下同じ)は、青銅板からの鎚打ち出し、大鍋の縁を飾ったという。
デルフィ出土の鼎の付属品として最古のグリフィンらしく、他のグリフィンとは趣が異なる。そして他の頭部はひと続きなのに、これは上下2段に分けてつくっている。
飛び出した目には貴石の象嵌でもあったのかな。それともガラスかな。
くちばしの内側には、鳥にはないはずの歯が並んでいるし、首からは蛇のしっぽのようなものがさがっている。
グリフィンの頭部 前7世紀 青銅製
東方様式の鼎の縁を飾った。
目の外側に渦巻、眉間にトサカ状のものと、丸いものを冠した突起、あるいは角がある。
グリフィンの装飾品 前7世紀 青銅製
東方様式の鼎を飾った。
耳は上に長く伸び、前頭部に擬宝珠のようなものを先に付けた角?がある。

このようなものを見ながら、どこかで見たような気がしていた。
それは滋賀県は信楽山中にあるMIHO MUSEUMの収蔵品で、複数回見たことのあるものだった。

グリフィン形の飾り 前7世紀 青銅 高21.7㎝
『古代バクトリアの遺宝展図録』は、前2千年紀後半には地中海地域とヒッタイト、エジプト、メソポタミアの帝国が商業活動ばかりでなく知的社会的交渉によって深く結びついていったが、地中海地域の人々は古くから鉱物資源を求めて移住定住を繰り返し、また神殿に鼎を奉納する習いがあったという。
ギリシアだけでなく、エトルリアでも鼎あるいは大鍋が出土しているのは、エトルリアでも神殿に奉納するために必要だったのか。
エトルリアの鼎についてはこちら

このグリフィン形の装飾は、頭部に1本の角を頂き、上下等しい長さの嘴を開け、頭の両脇から今は上部が折れているが、真っ直ぐに驢馬型の耳を立てている。その耳の下に襟巻き状の隆起が見られる。その首の下端に鼎に取り付けるためのフリンジが残っている。内部は中空に鋳造され表面を半円形の鏨で羽文を刻み、眼窩の部分は現在失われているが練りガラスの眼が象嵌されていたと思われるという。
この羽文の鏨が東に伝わって魚々子になったとは思わないが、面白いものをギリシアで発見!
目にはガラスが象嵌されていたという。どんな色の、どんな目だったのだろう。

この様式はサモス島出土、前7世紀頃の青銅製グリフィン形装飾と近似している。同時代のギリシャ本土のオリンピア型グリフィンはより装飾的なもので、嘴の誇張も見られる。
前1千年紀初頭、西アジアの金属工芸の中心地であったウラルトゥから、この類の大鍋(鼎)がギリシャやエトルリアなど東地中海域に伝えられたとされているが、西アジアでは牡牛がその装飾として付けられていたのに対し、ギリシャ人はグリフィンの装飾を付けたのである。グリフィンはギリシャでは黄金を守るものとして伝えられており、何らか辟邪の意味合いが込められていたものであろうという。
グリフィンが魔除けとして大鍋に付けられたというのはあり得るだろう。

牡牛の装飾がある西アジアの大鍋で知っているのはこれだけ。

牛頭装飾付き大鍋 前8世紀末~7世紀 トルコ、アルトゥンテペ出土 青銅高20㎝口径26㎝ 神奈川県、シルクロード研究所蔵
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、二つの牛頭把手の大鍋はウラルトゥ美術を代表する作品である。大鍋の口縁は外側に反り返っている。
このような丸底の把手付きの鍋は西アジアの調理用鍋の典型的な形で、古くから土製のものが使用されていた。その形をまねて金属で大型に製作し、牡牛の装飾把手をつけたのは、特別な儀式に用いられたためと考えられるという。
小鳥の体に牡牛の頭部という妙な組み合わせの把手だ。

グリフィンと言えば、想像上の有翼獣だが、大鍋には頸部より上だけが表されている。
時代は下るが、大鍋ではなく楯のような円形のものに取り付けられていたとみられているグリフィンの装飾板には背びれと翼がある。

グリフィン形装飾板 前5世紀 青銅 高42.0幅34.0
同書は、前7世紀頃のギリシャ美術、特に壺絵の表現は、植物文、聖獣や怪物意匠の長い伝統のあるオリエント美術の影響を強く受けた。オリンピア型のグリフィンに見られるような先端が巻き上がった翼の表現の類はこの時期に見られるものである。そしてこの壺絵に次第に英雄譚を始めとして彼ら独自の神話的題材が導入されるようになり、それにはしばしば怪物が登場した。海の怪物ケトスや海馬などはその主要な題材であったが、これらは魚に特有のぎざぎざの背鰭をつけて表現された。おそらくこうして作り上げられた彼らの様式に伴って前6-前5世紀頃には、このグリフィンの意匠が、同様の背鰭をつけたものに変容していったものと想像される。この時期は同時に翼の表現も伸びやかなものになっていった。
このグリフィンの装飾板は、おそらく盾のような丸い器物の装飾に使われたものと考えられ、左前足を上に挙げ、嘴を開いて威嚇する体勢をとっている。この体勢はすでに前7世紀のオリンピア型にも見られる伝統的なものであるが、耳は直立せず斜めに突き出し、その下に延びる襟のような隆起は皺のようになり、背中にぎざぎざの背鰭をつけている。筋肉表現はごく自然な表現に近づいており、怪物をも現実味をもって表現する自然主義的要素の強くなっていった前5世紀頃の傾向を示しているという。
尻尾も蛇のようで、ギリシアの鳥グリフィンは、ますます奇怪な動物へと変化を遂げていくようだ。

ギリシア神殿10 ギリシアの奉納品、鼎と大鍋←

関連項目
ウラルトゥの美術2 青銅の鋳造品
オリンピア考古博物館3 青銅の鼎と鍑(ふく)
ギリシア神殿9 デルフィに奉納した鼎は特別

※参考文献
「DELPHI」 ELENI AIMATIDOU-ARGYRIOU 2003年 SPYROS MELETZIS
「世界美術大全集東洋編16」 西アジア」2000年 小学館

2013/12/03

ギリシア神殿10 ギリシアの奉納品、鼎と大鍋



『DELPHI ARCHAEOLOGICAL MUSEUM』は、最初期の最も多い奉納物は青銅製鼎であるというように、ギリシアでは鼎を神殿に奉納することが古くから行われていた。

幾何学様式時代

鼎 オリンピア出土 前9世紀 オリンピア考古博物館蔵
把手は垂直に取り付けられているが、大鍋の大きさに見合った大きさ。
脚は先細りで長さもバランスがとれている。リベットで取り付けられていたようだ。
これなら調理に使うこともできただろうが、元々奉納品としてつくられたものかも。

鼎 オリンピア出土
脚が非常に長くなっている。薄い脚は上も下も幅は同じくらい。手前の脚を取り付けた箇所の左隣に、把手を固定するための穴が3つ認められる。
調理などの実用品とは思われない。奉納品としてつくられたのだろう。
オリンピア考古博物館に掲示されていた幾何学様式時代の鼎の想像復元図
こちらは全く口がすぼまっていないが、三脚で支えられているのでやはり鼎。
2つの垂直に取り付けられた円形の把手には、頂部には馬などの動物の小像が頂部にのるのが一般的だったようだ。人物が両側から把手を支えるような姿勢で取り付けられるのは、おそらく把手の補強という役目があったのだろう。
しかし、補強されていたとしても、この垂直の把手が鼎の持ち運びに使われたかどうかは疑問だ。本来は把手として作られたものが、段々装飾部品となっていったのではないだろうか。
デルフィ考古博物館には鼎の形になっているものはほとんどなかった。

想像復元図 デルフィ、アポロンの神域出土 
鼎は脚の長い、口かややすぼまり、3本の長い脚がつく。把手はやはり垂直に取り付けられ、はずれないように舌状の金具で補強されている。

東方化様式時代
グリフィンやライオンの頭部が付いた奇怪なものになる。


大鍋 オリンピア出土 前670年頃 オリンピア考古博物館蔵
『OLYMPIA』は、東方の原型を受け継いだライオン頭部、グリフィン、セイレーンが周囲を巡るという。
幾何学様式では垂直の把手だったのが、背中に鐶付きのついたセイレンとなる。
下の円錐状の台はこの大鍋に付いていたものではないが、想像復元図でも、三脚ではなく、円錐状の台が取り付けられていたことになっている。


大鍋 デルフィ出土 デルフィ考古博物館蔵
口縁周辺に突起物が取り付けられた痕跡はないが、背後の想像復元図ではそのようになっている。
その想像復元図
外側を向いた3つのグリフィン頭部と内側を向いた3つのライオン頭部、そしてセイレン型の鐶付が付いてにぎやかになる。
『DELPHI ARCHAEOLOGICAL MUSEUM』は、東方様式の奉献品は、新たな鼎のタイプ、おそらく北シリア地域を起源とするものに取って代わった。鎚打ちの大鍋は持ち運ぶことができ、縦溝飾りのある三本の脚に支えられた輪っかに載せた。縁の周りは、牡牛、ライオン、そしてもっとよくあるグリフィンやセイレンのような想像上の動物で飾ったという。
把手を垂直に立てることもなくなり、長い脚を取り付けることもなくなって、三脚の輪っかにのせるようになったようになったようだ。

似たような大鍋はエトルリアでも見られる。

兵士と動物のレベス 前7世紀 イタリア、パレストリーナ、ベルナルディーニの墓出土 銀、鍍金 ローマ、ヴィッラ・ジュリア国立博物館蔵
『世界美術大全集5古代地中海とローマ』は、外面は上下3段に分割されており、下段は戦車に乗る人物と楯や槍を持つ兵士の行進、中段は騎馬人物と武器を持つ兵士の行進、上段は水鳥が並んでいる。いずれもエジプトのモティーフを手本としているが、細部に曖昧なところがあり、エジプト人の手によるものではないことは確かである。事実、パレストリーナ出土の他の1点にはフェニキア文字でかつての所有者の名前が刻まれている。
銀製の本体に鍍金を施したこの容器がレベスと称されるのは、口縁近くから蛇を模した6本の突起があるためで、宗教儀式における大釜としてギリシアやエトルリアで用いられたという。
こちらは外側を向いた6匹の蛇が口縁部を飾っている。エトルリアでも宗教儀式にこのような大鍋が使われたらしい。
ライオンやグリフィンではなく、蛇になっているのは、フェニキア人の好みだろうか。
デルフィの大鍋も、グリフィンとライオンの頭部が3つずつ、合計6つの突起があるという点で共通している。また、宗教儀式に用いられる祭器であることも同じだ。

ところが、エトルリアでは5つの突起の大釜がある。

動物頭部の口縁装飾付き大釜 前7世紀半ば イタリア、チェルヴェテリ、レゴーニ・ガラッシの墓出土 ブロンズ 高さ41直径38 ヴァティカーノ美術館蔵
はっきりとはわからないが、有翼の動物が胴部を半時計回りに並び、その上にライオンのような動物の頭部が5つ内側を向いて取り付けられている。
これは別の国から請来された大釜(釜と鍋の違いは?)ということになるのだろうか。 

そして、不思議なことに、クラシック様式時代になると、また幾何学様式の鼎が復活したようだ。

コイン 前420-290年 デルフィ出土
『DELPHI』は、の広がった大鍋に獣足のある三本の脚が取り付けられている。面白いことに、垂直の把手も3つある。
東方化様式時代に垂直の把手が失われて、脚の数と同じ3つにしたのかな。
鼎からは何が垂下しているのだろう。 
鼎 想像復元図 前479年頃 
同書は、前479年プラタイアの戦いでペルシア人に勝ったギリシア連合軍がその10分の1税として奉納した戦勝記念物。連合軍の各ポリス名を刻んだ3匹の青銅の蛇体がよじれてできた円柱の頂上に黄金のデルフォイの聖三脚鼎を載せていたという。
あまりにも省略されたこの復元図から想像すると、クロトン人のコインに表された鼎と同じ、長い三脚は獣足になっていて、垂直の3つの把手がついている。
やはり、幾何学様式時代の鼎を真似た形だ。
3人の踊り子の円柱台座 想像復元図 前335-325年頃 11m(台座共で12.50m)
同書は、アテネ人がペンテリコン産大理石で造った。柱頭同様、植物の茎を模した円柱の台座は、下向きに彫り出したアカンサスの葉を放射している。頂部は高浮彫の3人の踊り子が掲げられる。アカンサスの葉に載った三脚の鼎を踊り子たちのポロス帽で支えているという。
踊り子像の上に載り、オンファロスを乗せていた鼎は、やはり幾何学様式時代の鼎を元にしてつくられたと考えられているらしい。脚の長い鼎は、脚と脚の間に3つの垂直の把手をつけ、それを下側と斜め方向から支えている。

3匹の蛇の上に載る鼎や、3人の踊り子像の上にのる鼎は、想像復元したものだが、クロトン人のコインは、当時の実物の鼎を元に表されているはずで、垂直の把手が3つある妙なものだが、その原型を幾何学様式時代の鼎に求めているのは明らかだ。
実物を見てみたいものだなあ。

    ギリシア神殿9 デルフィに奉納した鼎は特別←   
                    →ギリシア神殿11 格間天井に刳り形

関連項目
ギリシアとヘレニズムの獣足
デルフィ6 アポロンの神域5 青銅蛇の柱に載っていたのは鼎 
オリンピア考古博物館3 青銅の鼎と鍑(ふく)

※参考文献
「OLYMPIA THE ARCHAEOLOGICAL SITE AND THE MUSEUMS」 OLYMPIA VIKATOU 2006年 EKDOTIKE ATHENON
「DELPHI ARCHAEOLOGICAL MUSEUM」 DIANA ZAFIROPOULOU 2012年 ATHENS
「DELPHI」 ELENI AIMATIDOU-ARGYRIOU 2003年 SPYROS MELETZIS
「世界美術大全集5 古代地中海とローマ」 青柳正規編集 1997年 小学館

2013/11/26

第65回正倉院展7 花角の鹿



夾纈の布を見ていると、花輪の中で鹿が小さくうずくまっていた。しかもその角が妙だった。


夾纈羅几褥 きょうけちらのきじょく 長103幅53.5 南倉
『第65回正倉院展目録』は、褥とは敷物のことである。宝庫には仏前に宝物を献じた際に用いた机が多数伝わっており、本品は大きさなどからみて、こうした机の上敷きとして使われたものであろう。
表に使用されている薄い茶色の生地は、小菱格子文の羅に夾纈染め(板締め染めの一種)で文様を表したものである。主文様は、花葉を円状にめぐらせたなかにうずくまる花角の鹿を表し、他にも回旋形や菱形をした花葉文なども配されている。これらは奈良時代に流行した、いわゆる動物唐花文の系統に属するものであるが、鹿を囲んでいる花葉がやさしい折り枝風になっている点などからも、盛唐風の重厚な雰囲気が薄れて、繊細な和様化へと次第に移行する気配を感じさせるという。
花輪の中にいるのは花角の鹿だった。
一見、1本の枝が鹿の周囲を回っているかのように見えたが、拡大してみると、一つの花を咲かせ数枚の葉が出た短い枝が6本で鹿を囲んでいる。
今回は他の宝物にも花角の鹿が表されているものがある。

檜和琴 ひのきのわこと 長156.0頭部幅13.5尾部幅17.0 南倉
同書は、わが国固有の楽器で「やまとごと」あるいは「あずまごと」とも称する。
本品は宝庫の和琴(わごん)中もっとも小形で、唯一華麗に装飾された品である。槽と磯はヒノキ製、底板は環孔材を用いている。槽の頭部は金箔地に樹木、鹿、狩猟する人物などを描いた上に玳瑁を貼り、その内側に柏葉形に切ったシタン材を貼り、螺鈿で唐草文を表す。柏葉形の縁は金銀2線で縁取り、唐草文の蔓には金線が用いられている。槽の尾部は緑地に花卉を描いて玳瑁を貼り、その外側(鴟尾)は6箇の突起を有する櫛形を作り、シタンを貼り螺鈿で小花文を表している。櫛の数より6弦を張っていたことが分かる。螺鈿はヤコウガイを用い、線刻を施している。槽の中心部は素木に金銀泥で麒麟、花角の鹿、鳥、花卉を描くが、これらの鳥獣は綬帯か花枝をくわえているという。
和琴は会場では四方から見られるようになってはいたが、このような現状では白く輝く螺鈿以外は分からなかった。
槽に花角の鹿があるらしいのだが、拡大した図版でもわからない。
描き起こし図でやっとわかった。この花角の鹿は綬帯を銜えて走っている。しかも翼まであった。
有翼の花角の鹿というのは珍しいのではないだろうか。

花角の鹿というのは以前にも見たことがあり、唐時代の中国の貴人たちは、鹿の枝分かれした角に飽きて、こんな妙な角の鹿を好むようになったのかとあきれたものだった。
そしてそれを正倉院展でも見かけることとなり、とっくに記事にしたと思っていたのに、まだだということがわかった。忘れへんうちに今までの正倉院展で見た宝物などと一緒にまとめておこう。

鹿文盤 銀に鍍金 唐、8世紀 高10口径50㎝
1984年河北省寬城県大野鳩嶺出土 河北省博物館蔵
『中国★美の十字路展図録』は、この銀盤は、6弁の菱花形に作られ、盤縁は幅広で、平らな底部には巻葉状の3本の足が付く。盤の中央には前方を向いて立つ1頭の鹿が打ち出されており、頭上の角は霊芝状になった「肉芝頂」を呈している。これと同様の角を持つ鹿は、正倉院の銀盤にも表されているが、ソグドの鹿に見られる枝状の角の表現とは明らかに異なる。広い盤縁には、6弁それぞれに花の文様が配され、いずれも中心の花から左右に葉と実が伸びている。そして中央の鹿と盤縁の花文にのみ、鍍金が施されている。菱花形の器物は、主に7世紀末から8世紀初めにかけて流行しており、また花の文様に見られる大らかな表現などを考え合わせると、この銀盤の制作時期は8世紀半ばまでであろうという。
説明文中の「ソグドの鹿に見られる枝状の角の表現」というのが気になった。鹿の角を枝状に表すことの方がむしろ一般的で、唐に流行した花角の方が特殊だろう。今回の正倉院展でも枝角の鹿を描いた宝物があった。それについてはこちら
とりあえず、今までの記事から、ソグドの鹿らしき図版を探してみた。
「おまけ」の欄をどうぞ

「これと同様の角を持つ鹿は、正倉院の銀盤にも表されている」というのは以下の宝物のことだ。

金銀花盤 きんぎんのかばん 径61.5高13.2重4496 南倉
『第61回正倉院展目録』は、六花形の銀製の大皿。中央には花弁状の角を持った鹿、外周部には三花を一連とする唐花文を配し、文様の部分にのみ鍍金を施している。
皿の中心には表裏にコンパスの軸点跡が残り、コンパスの軸点跡の円にあわせて銀板を切り抜き、内側から鎚で打ち込んで盆形に成形したことがわかる。
花弁状の角をもった鹿は、霊獣・瑞獣の一種であり、唐代の工芸品には吉祥文様としてしばしば登場するという。
歩きながら後方を振り返っていることと、顎髭があることくらいが、上図の鹿と異なっている。
第1回正倉院展のチケットにこの花角の鹿が使われていたらしく、毎回目録の最初の方に載っている。
金銀花盤の鹿の体には、小さな点々が刻まれているが、この鹿には子鹿のような斑点が表されている。

紅牙撥鏤尺 こうげばちるのしゃく 長30.2幅3.0厚0.9 中倉
『第63回正倉院展目録』は、象牙の表面を色染めし、そこに撥彫(はねぼり)を施して図柄を表す撥鏤技法で彩られた物差し。本品は紅色に染めた後に撥彫を施し、随所に緑や黄色の彩色を施す。両面とも横使いで、一方の面は区切りを設けずに、下方に土坡を連ね、樹木や岩で場面をゆるやかに区切りながら、鳥獣(鳥・狐・花弁状の角を持った鹿・虎)をほぼ等間隔に配す。追いかける虎と振り返る鹿のように、横方向の連なりを活かした表現を見ることができるという。
これは金銀花盤の後方を向く花角の鹿を手本にしたのではなく、追われる花角の鹿が、虎がどこまで迫っているか確認するために振り返っているのだった。

おまけ ソグド人は鹿の文様を好んだというので、「中国★美の十字路展図録」の説明でソグドの鹿ということばを使ったようだ。

石棺床飾板 大理石 北周-隋時代(6-7世紀) 個人蔵
『天馬展図録』は、墓主は国際商人として中央ユーラシアの東西を往来し、ゾロアスター教(拝火教、祆教。ペルシア起源)を信仰したソグド人であった可能性が高い。
ササン朝ペルシアで多用された連珠円文の中に有翼馬を描いている。それは単なる装飾ではなく、石棺の主の来世に対する配慮であろうという。
ここでは馬の他に大角羊と鹿が、それぞれ首にリボンをつけ、翼も表されている。
大鹿文錦 緯錦 アスターナ332号墓出土 唐(7世紀前半) 新疆博物館蔵
『中国美術大全集6染織刺繍Ⅰ』は、黄色の綾地に濃紺・果緑・灰緑色の綾文である。円環の中央には頭を高くして歩いている姿の鹿文があり、周りには連珠文を、その上下左右には花を飾っているという。

こちらの鹿に翼はなさそうだが、首にリボンをつけている。

    第65回正倉院展6 続疎らな魚々子←  →第66回正倉院展1 正倉を見に行く

関連項目
中国のソグド商人
アスターナ出土の連珠動物文錦はソグド錦か中国製か
第65回正倉院展5 六曲花形坏の角に天人 
第65回正倉院展4 華麗な暈繝
第65回正倉院展3 今年は花喰鳥や含綬鳥が多く華やか
第65回正倉院展2 漆金薄絵盤(香印座)に迦陵頻伽
第65回正倉院展1 樹木の下に対獣文

※参考文献
「第65回正倉院展目録」 奈良国立博物館編 2013年 仏教美術協会
「第63回正倉院展目録」 奈良国立博物館編 2011年 仏教美術協会
「第61回正倉院展目録」 奈良国立博物館編 2009年 仏教美術協会
「中国★美の十字路展図録」 曽布川寬・出川哲朗 2005年 大広

2012/08/24

中国の有翼獣を遡る2



しかし、それよりも古い有翼獣あった。

立鶴方壺部分 河南省新鄭県李家楼出土 春秋時代中期、前6世紀 北京故宮博物院蔵
『グリフィンの飛翔』は、中国における合成有翼獣については、李零の優れた研究がある[李 2004]。それによれば、中国に有翼獣が最初に出現するのは春秋時代中期、前6世紀であるという。
体は鱗に覆われていて龍のように長い。この獣は首を180度曲げて後ろを向いているが、このポーズが草原地帯の動物表現の特徴である点に注目している。
そしてそれから戦国時代にかけて(前6~3世紀)いくつかの例が現れる。これらがみな中国北部、すなわち草原地帯や西域と接した地域から出土していること、特に中山王は北方遊牧民系の白狄出身であったこと、前6~3世紀には草原地帯でグリフィン図像が流行していたことから、これらの有翼神獣は北方や西方から伝来したのではないかという説を発表した。
戦国時代には北方遊牧民との交流が活発化しており、グリフィンのような装飾モティーフが中国に受け入れられた可能性も十分にある。ただしその交流が春秋時代中期、前6世紀にまでさかのぼるかどうかは現段階では不明であるという。
すると、この有翼獣は中国独自のものという可能性もあるのだろうか。それとも、前6世紀まで遡らないのではということなのだろうか。『世界美術大全集東洋編1先史・殷・周』もこの方壺の年代は前6世紀としている。
前足の付け根から出た翼は背中よりも上外側に出ている。前足と後足の上に出ているのは何だろう。魚のヒレのようなものだろうか。
南シベリア、山地アルタイのパジリク古墳群の出土品にはグリフォンが表されているという遺品は絨毯だった。

絨毯(部分) アケメネス朝(前5世紀末~前4世紀初) ロシア、アルタイ、パジリク5号墳出土 羊毛 全体189X200㎝ エルミタージュ美術館蔵
パジリク5号墳は積石木槨墓。その様子はこちら
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、この生産地は織りの細かさや文様の点から見て、アルタイではなくペルシアであろうと発掘者のルデンコは考えているという。
絨毯の一番外側と、中央の24個の方形の枠の外側にグリフィンを表した方形の文様が並んでいる。グリフィンのあるものは前を向き、あるものは後ろを振り返っている。
翼は黒と白?の横縞で表されている。
また、『グリフィンの飛翔』は、マルサドロフはパジリクの墓室に使われている木材を資料に、年輪年代学的研究と放射性炭素同位元素の分析から、アルタイの古墳の年代を割り出している。それによれば、パジリクで最も古い古墳は2号墳で、その年代は前5世紀の第3四半期(すなわち前450-426年)であり、それと最も新しい古墳(5号墳)との年代差は約50年であるという[Zarsadolov 1988:80;マルサドローフ1991:38]という。
有翼獣の表された絨毯が、アケメネス朝からもたらされたものとしても、パジリク5号墳の年代から考えて、方壺(春秋中期)の有翼龍の方が古いことになる。
仮に、方壺がこの絨毯よりも後に作られたものであったとしても、このような天馬の翼が、立鶴方壺の龍の翼に繋がるとも思えない。
いったい、この龍の翼は、どこから伝わったのだろう。

※参考文献
「ユーラシア考古学選書 グリフィンの飛翔~聖獣からみた文化交流」 林俊雄 2006年 雄山閣
「世界美術大全集東洋編1 先史・殷・周」 2000年 小学館
「季刊文化遺産12 騎馬遊牧民の黄金文化」 2001年 島根県並河萬里写真財団

2012/08/21

中国の有翼獣を遡る1



西晋画像磚墓の四神のうち、青龍と白虎は有翼だったが、前漢の陽陵(前2世紀後半)羅経石遺跡出土のそれらには翼はなかった。中国で有翼獣はいつ頃出現するのだろう。

辟邪 玉 高5.4㎝長7.0㎝ 前漢後期(前1世紀) 陝西省咸陽市新荘漢元帝渭陵(前33年頃)付近出土 咸陽博物館蔵
『世界美術大全集東洋編2』は、頭に二つの角、体には大きな翼をもった想像上の動物、麒麟あるいは桃抜をかたどった玉像である。高さ8cmの鍍金鼎の中に入った状態で発見された。古代中国では、二角のものを「辟邪」、一角のものを「天禄」と呼んだという見方もあり、  ・・略・・  ここにあげた玉像は二角の例だが、二角のものとしては、今のところこれが中国最古の例である。付近からはこれと一対になる一角のものも出土している。以後、後漢から六朝時代にかけて、帝陵や豪族墓の墓道に石獣を並べて置くことが流行し、「辟邪」「天禄」など麒麟形の造形が急速な広がりを見せていったという。

こめかみにある小さな突起が角かな。
前漢でも後期(前1世紀)には有翼獣が登場している。
加彩有翼獣 陶製 高20.0長35.5 前漢時代(前3-後1世紀) 陝西省西安市北郊紅庙坡出土 西安博物院蔵
『天馬展図録』は、犬のような顔つきの肉食獣の体に、上下に巻上がる大きな翼が付けられている。墓に納められた鎮墓獣の一つであり、前後の脚を矯めて飛びかかろうとする姿勢をとる。獅子を意識したとは思えない華奢な体つきは、鎮墓獣としては珍しく、ユーラシア大陸西方のグリフィンとも結びつかない奇妙な造形である。
近年、中国北朝の墓中壁画や石棺に描かれた有翼獣の一つを、ササン朝ペルシアの霊獣シームルグに関連付ける説が出されている(Matteo Compareti 2006年)。シームルグは犬の頭をもった怪鳥で王家の守護神的存在である。中国に移住したソグド人がこれをもたらし、犬ないし鹿のような頭をもつ有翼獣が登場したとする。本品の幅広で板状の尾をせり上げる姿や、たてがみ状のエラなどはシームルグの姿を意識している可能性もあるが、さらに検討を要するところであろうという。
シームルグについては、イラン、ターケ・ボスターン大洞内奧の浮彫(7世紀前半)やウズベキスタン、アフラシアブ出土の壁画(650年以降)、あるいは東トルコ、アニ遺跡聖ゲオルギウス教会壁画(1215年)に残っている。
北朝時代(439-589年)の有翼獣にシームルグの影響があったとしても、この前漢(前206-後8年)よりもずっと後の時代の話だ。
秦時代にも有翼の獣があった。

錞于(打楽器)の蓋 秦(前3世紀) 咸陽市塔児坡出土 高さ69.6㎝口径32-40㎝ 青銅 咸陽博物館蔵
『始皇帝と彩色兵馬俑展図録』は、鈕は龍である。背中を丸め頭を後方に振り返る。尾部は欠損するが、首と同様に上部に丸く形成されていたと思われ、腰部に尻尾の先の接合痕が見える。胴部には翼と鱗が表現されているという。 
前脚の付け根から出た羽根は、胴に沿って伸びている。龍で有翼のものはこれが最古かも。

銀象嵌有翼神獣 銅 戦国中期(前4世紀) 河北省平山県中山王さく(前313年頃)墓出土 高24.4㎝長40.1㎝重11.0㎏ 河北省文物研究所蔵 
『図説中国文明史3春秋戦国』は、獣は頭を上げて咆哮しており、4本の足は弓状に湾曲し、胸の両脇から翼が生えている。造型は力強く勇猛である。これは歴史書の記録に見える「龍雀」で、北方民族が崇拝する神鳥であるという。
獣に翼があるのではなく、龍雀という鳥なのに足が4本ある。
『世界美術大全集東洋編1先史・殷・周』は、現在中国で知られているもっとも早い有翼獣の例といってよいであろう。後代の天禄、辟邪の先駆である。
グリフォン、あるいは有翼獣は西アジアでは前2千年紀から知られており、その後ギリシア世界やスキタイなどにも広まった。南シベリア、山地アルタイのパジリク古墳群の出土品にはグリフォンが表されている。中山国の例はこのような西方からの影響が、中国にまで到達したことを示すものかも知れないという。
この神獣は鎮墓獣としてかなり前に採り上げたことがあった。それについてはこちら
結局というか、やっぱりというか、有翼獣は中国古来のものではなく、西方からの伝播だったようだ。
現在までのところ、この戦国時代中期(前4世紀)のものが中国最古の有翼獣ということになる。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編1 先史・殷・周」 2000年 小学館
「世界美術大全集東洋編2 秦・漢」 1998年 小学館
「始皇帝と彩色兵馬俑展図録」 2006年 TBSテレビ・博報堂
「図説中国文明史3 春秋戦国 争覇する文明」 劉煒編著 2007年 創元社
「天馬 シルクロードを翔ける夢の馬展図録」 2008年 奈良国立博物館