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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2024/03/08

黒マリアからとりなしの聖母へ


オーヴェルニュのロマネスク様式の時代につくられた聖母子像、そして今でもその正体に諸説ある黒マリアを見てきた。
その後聖母子像はどうなるのだろう。

『黒マリア』は、民衆が「安らかな死」を与えてくれるように祈っていた黒マリアはまさしく「魂の導き手(プシコポンプ)」であったわけだが、この意味では聖ミカエルは黒マリアの協力者、というよりもむしろその分身であったとさえ言い得るのであり、ここからも両者の強い結び付きが理解されるのであるが、聖ミカエルのこの「魂の導き手」という性格もまた、彼がメルクリウスの、そしてまたその前身であるルフから引き継いだものと考えられるのだからである。
そして、このことをはっきりと示しているのが、12世紀前半、コンク(Conques)のサントフォワ聖堂のタンパンにはじめて現われた「最後の審判」図における、死者の魂の計量者としての聖ミカエルの姿に他ならない。
『マタイによる福音書』25章に基くこの「最後の審判」図は、天国と地獄をなまなましく描き出したキリスト教世界最初の「最後の審判」図であり、その後オータンのサン・ラザール大聖堂タンパンにおいて模倣され、更にゴシック時代に入ってからは、ブールジュのサンテチェンヌ大聖堂をはじめ、ランスやアミアンのノートルダム大聖堂などの壁面を飾ることになった重要な図像なのであるが、これらの図像の中で、天秤を持って死者たちの魂を計量しているのが大天使聖ミカエルなのであるという。

コンクのサントォワ修道院聖堂のタンパン
右側に地獄の責め苦が二段にわたって描写されているのに対して、左側の二段天国の門をくぐった人々という図である。

その大天使聖ミカエルは魂の計量を行っていて、その向こうで悪魔が天秤の片方に指を1本の指をかけ、地獄に落とそうとしている。魂が重いと地獄に堕とされるのだ。
大天使ミカエルが天秤を持つのはエジプトの「死者の書」の影響とされている。


『フランスの歓び』は、キリスト教の歴史観はきわめてわかりやすい。天地創造に始まり最後の審判で終わる直線的な時間の流れだ。「創世記」に始まり「ヨハネ黙示録」で終わる聖書の構成と同じである。この最後の審判は、いつ起こるかわからない。今すぐかもしれないし、ずっと先かもしれない。そのとき時間が止まる。天空はまるでカーペットのように巻き取られ、すべての死者がよみがえり、再び姿を現したキリストの前で審判を受けることになる。そのため常日頃から準備を怠るなということが、新約聖書には繰り返し説かれている。
このいつ起こるかわからない審判を、タンパンの彫刻は常に人々の目の前に提示していた。どのような説教よりも効果的に、見る者に恐怖を実感させたにちがいない。このテーマを取り上げている聖堂はとても多く、それぞれに個性があってひとつとして同じものはないが、基本的な構成要素は共通しているという。

ブールジュ、サンテティエンヌ司教座聖堂西ファサード中央扉口タンパン最後の審判 ゴシック様式
ブールジュ、サンテティエンヌ司教座聖堂西ファサード中央扉口タンパン最後の審判 フランスの歓びより


そもそもロマネスク様式の時代にマリアは「受胎告知」「マリアのエリザベート訪問」「キリスト降誕」「エジプト逃避」「マギの礼拝」くらいにしか登場しなかった。それをオーヴェルニュ地方の聖堂内で探すと、

受胎告知 クレルモンフェランのノートルダムデュポール聖堂内陣の柱頭彫刻 「The Sculptures of Notre-Dame du Port」より
クレルモンフェラン ノートルダムデュポール聖堂内部柱頭彫刻 The Sculptures of Notre-Dame du Port より


マリアのエリザベート訪問 「The Sculptures of Notre-Dame du Port」より
クレルモンフェラン ノートルダムデュポール聖堂内部柱頭彫刻 The Sculptures of Notre-Dame du Port より


キリスト降誕 クレルモンフェランノートルダムドラソンプシオン司教座聖堂周歩廊サンタンヌ祭室のステンドグラス(ロマネスク様式の聖堂より採取) 2段目左

エジプト逃避 同5段目左


同書は、この「最後の審判」を図像化したコンクやオータンのタンパンの前で、彼らは自分の死の後に待ち受けている裁きにふるえおののき、不安の中で自分の魂の救済を真剣に願ったにちがいない。
ロマネスクの図像を決定的に変化させてしまったのは、激しく自分の魂の救済を求めるこの都市住民の不安であった、と思う。この不安がロマネスクの「再臨のキリスト」を天の彼方から地上に呼び下して十字架にかからせ、その一方で、救済の慈母観音として聖母を天の高みに押し上げてしまったのだ。ゴシックの図像の特質であるキリストの下降と聖母の上昇は実は一対のものなのであり、救済の宗教ともいうべきゴシック信仰の表裏をなしているのではないであろうか。
ゴシックにおける聖母崇敬の昂揚は、それ故、三位一体の教義によって排除されてきた第四者=女性原理の復活であった。この女性原理による救済を渇望する人びとは、聖書正伝の提供する聖母についての限られた情報だけではあきたらず、外典偽典を借りて聖母の姿をいやが上にもふくらませる。こうして、聖母は天に昇って女王の冠を受け、最後の審判の場においてはキリストの傍らに坐して罪人なる人間のためにとりないてくれる救済の慈母観音となったのである。特に北フランスで発展した大都市の中心に、次つぎに聖母に捧げられた大寺院が建造され、その壁面を「聖母被昇天」図や「聖母戴冠」図が埋めつくしたのは、人びとのこうした宗教感情の激変の結果に他ならないという。

ただし、クレルモンフェランのノートルダムデュポール聖堂の柱頭彫刻には聖母被昇天の場面が刻まれている。
『The Sculptures of Notre-Dame du Port』は、中央で、キリストは大きな手でマリアの体を抱きしめ、包帯がまだ解けていない聖骸布に包まれた生まれたばかりの赤ん坊のように抱きしめている。彼女の目は大きく見開かれている。その下には空の石棺があるす。キリストはマリアではなく、遠くを見つめている。右と左の二人の天使はそれぞれ石板を持っている。ここは安全な港、キリストの腕という。


そしてカトリックでは聖母被昇天と呼ぶものをビザンティン美術ではキミシス(聖母の祈り)と呼ぶ。

聖母の眠り(キミシス) イスタンブール、コーラ修道院(現カーリエジャーミイ)本堂西壁 モザイク 1316-21年
『コーラ カーリエ博物館』は、このテーマに登場するすべての人々を描き込むため、死の床に横たわった聖母を底辺とする三角形の構図をとっている。キリストの弟子たちが聖母を囲み、天使が三角形の外側から近づいてくる。顔だけ聖母の方に向けたキリスト、その手に抱かれた赤ん坊はマリアの魂を象徴しているという。


キミシスが何時頃から描かれるようになったか分からないが、東トルコのアニ遺跡にティグラン・ホネンツが寄進した聖ゲオルギウス教会の右壁はフレスコ画がよく残っていた。説明板には1215年建立とされるので、ゴシック様式が始まった頃に当たる。


『黒マリア』は、多くのゴシック大寺院の呼称となったノートル・ダムという言葉は、元来、民衆が彼らの女主人であるそれぞれの黒マリアを古くから親しみをこめて呼んできた名前だったのだ。ゴシック時代以前にもすでに、クレルモン・フェランのノートル・ダム・デュ・ポール教会のように、ノートル・ダムの名を冠した教会は存在したが、それらはみな黒マリアが祀られている教会だったのである。このことはゴシックの聖母崇敬の起源が黒マリア信仰にあったことを示す何よりの証拠だとは言えないであろうか。民衆信仰として教会の外で生きつづけてきた黒マリア信仰は、今や教会当局も押しとどめることのできない奔流となって教会内部に流れ込み、ついにゴシックの聖母崇敬時代を現出したのだという。


サンドニ聖堂聖母子像 12世紀ロマネスク期 木彫 撮影小野祐次氏
「全一冊 フランスの歓び 美術でめぐる、とっておきの旅ガイド」(以下『フランスの歓び』)は、王冠をかぶり、女王然とした威厳あるたたずまいという。
サンドニは北フランスに位置し、12世紀前半に創建されたが、13世紀前半に初期ゴシック様式で建てられたものが大部分を占めるので、この聖母子像は後期ロマネスク様式の像である。同じ聖母子像でもオーヴェルニュ地方のものとはかなり違う。
サンドニ司教座聖堂の聖母子像 フランスの歓びより


『フランスの歓び』は、ゴシック期は、マリアがキリスト教という宗教を具現化するイメージとして、教会によって徹底して使われた時代でもあった。王であるキリストの隣に座って冠を受ける「聖母戴冠」という新しい図像がこの時代に広まる。あらゆる美徳をそなえ、天の女王であり、キリストの母であり花嫁でもあり、苦難に陥った人々を救済し、最後の審判において人類のために祈ってくれる女性。マリアにあらゆる願望が投影され、マリアはそれに応えていくという。

聖母戴冠 13世紀 ランスノートルダム司教座聖堂西正面中央扉口上 現在同所にはレプリカが嵌まり、オリジナルはトー宮殿に展示
『フランスの歓び』は、ゴシック期の新モードでは、被昇天後のマリアが、キリストから天の女王の冠をいただくという。
ランスノートルダム司教座聖堂西正面中央扉口上聖母戴冠 フランスの歓びより


マギの礼拝をロマネスク様式とゴシック様式で比較すると、

クレルモンフェランのノートルダムデュポール聖堂南扉口の楣石部分は顔が欠失しているが、聖母子はややマギたちに体を向けてマギが献納するものを受け取っている。


それが時代が下がると、

シャルトルのノートルダム司教座聖堂内陣と周歩廊を隔てる周壁のうち 16世紀 ジャン・スーラ作 
『フランスの歓び』は、優しいマリア像はゴシック期以降に広まったという。
一般に聖母マリアと聞いて思い浮かぶ顔はこのようなものだろう。
シャルトル ノートルダム司教座聖堂マギの礼拝部分 フランスの歓びより


黒マリアがケルト時代の地母神像であったとか、黒く塗られたのがずっと後の時代だったとか、まだ定説はないようだが、聖母マリアは、聖母子像から独立して、執り成しの聖母として表されるようになったのだった。




関連記事

参考文献
「Conques」 Emmanuelle Jeannin・Henri Gaud 2004年 Edition Gaud
「The Sculptures of Notre-Dame du Port」 Édition du Signe 2012年
「コーラ カーリエ博物館」 ファティヒ・ジモク 原田武子訳 

2024/03/01

オーヴェルニュの黒マリア


ルピュイの司教座聖堂の内陣には小さな小さな黒い聖母子像が祀られていた。

また、衣装を着けていない聖母子像が『Vierges romanes』に記載されていた。
それは、図版で見た限りでは、ふっくらした着衣に金色の草花がちりばめられ、貴石を象嵌した帯状のものを聖母は三連、幼子は二連肩に巻いている。
こんなに荘厳されているのに、別の衣装を着せる必要があるのだろうか。現在被っている冠もきらきらして別のもののようだし。
ルピュイ ノートルダム司教座聖堂内陣の聖母子像 Vierges  romanes より


ルピュイ司教座聖堂に残るもう一体の聖母子像
『The Treasures of Romanesque Auvergne』は、聖遺物箱の中央には、1794年6月8日、革命の混乱の中心でマルトゥレ広場で焼かれた黒い聖母のコピーがある。ヴェランクのデッサンとフォージャドサンフォンの描写をもとにフィリップケッペランが制作した。いわば、イコンのような顔、色彩豊かな目は魅力的である。最初の像の起源は依然として謎に満ちているため、多くの伝説が生まれた。
15世紀以前には聖母像が黒かったことを裏付けるものは何もない。すべての黒マリアの場合と同様、その色の起源は不明である。
木材に古色を付けることから始まり、つづいて18世紀に上塗りした塗料によって黒くなったのだろうかという。
ルピュイ司教座聖堂のもう一つの聖母子像のコピー La Cathédrale Notre-Dame du Puy-en-Velay より


黒い聖母像について『Vierge romane』は、起源はまだ解明されていない。しかし、一つ確かなことは、ロマネスク様式の聖母子像は黒い像としてつくられたのではない。1950年代に、当時は黒だったヴォクレールとオルシバルの聖母の修復により、黒い絵の具の層の下にオリジナルの彩色が発見された。
他の彫像の調査により、この仮説が確認された。
クレルモンのマルサとノートルダムドラボンヌモールの聖母は1830年代に黒く塗られた。無原罪の御宿りと呼ばれる黒い聖母と幼子は、何故、何時できたのだろう?
最古の文献はロマネスク以降のもので、中世末期である。15世紀、マルグリトドートリシュ Marguerite d'Autriche の時祷書には、白いマントを着た黒マリアであるルピュイの聖母が、ルイ11世によって提供された玉座に座っている様子が描かれているという。
マルグリトドートリシュ(1480-1530)とは23年春に訪れたブーカンブレス Bourg-en-Bresse にブル王立修道院を奉献した女性である。

同書にはヴォクレールの聖母子像が黒かった頃の図版があるが、
ヴォクレールの聖母子像 Vierges romanes より

現在のヴォクレールの聖母子像  Vierge de Vauclair は、上図版の聖母子像とは似ても似つかないように見えるが、額の左右に分けた髪が似ている。角度によっては上図版と同じように見えるかな? 
ヴォクレールの聖母子像 Vierges romanes より


教会に祀られているマルサの聖母子像
『Vierge romane』は、916年にはノルマン人の侵入から町を守り、1631年にはペストから町を守ったと記録されているという。 
教会内陣に祀られたマルサの聖母子像 Vierges  romanes より

マルサの聖母子像
『The Treasures of Romanesque Auvergne』は、マルサ教会の名声は、19世紀に衣装が金メッキされ、顔が黒く塗られたロマネスク様式の聖母であるという。
聖母子像は古いものかも知れないが、現状のような外観になったのは19世紀だったとは。
マルサの聖母子像 The Treasures of Romanesque Auvergne より


ノートルダムドラボンヌモール聖堂の聖母子像 La Vierge de Notre-Dame-de-la-Bonne-Mort à Clermont クレルモンの司教座聖堂蔵
『Vierge romane』は、1972年にクレルモン司教座聖堂の礼拝堂で発見された。黒い色は1830年代のものという。
ボンヌモール bonne mort を日本語にすると「善き死」である。

『黒マリア』は、ノートルダムドラボンヌモール「善き死の聖母」という象徴的な呼名を持つオーヴェルニュ州の首邑クレルモンフェランの黒マリアは石棺の中から発見されたものであるし、同じ呼称を持つ同州ビョン(Billom) のサンセルヌフ教会に1936年まで存在していた黒マリアは、墓地から発見されたものである。
クレルモンフェラン のノートルダムデュポール (港の聖母) 教会の黒マリアやシャルトルのそれをはじめ、多くの黒マリアは教会の地下祭室に祀られているが、そこはまさしく聖人の遺骨などの置かれた墓所なのだからである。そして、エミールマールも言うように(『ガリヤにおける異教の終焉』)、起源の古い教会はほとんどかつてのドルイド教の聖地の上に建てられているのであり、地下祭室の多くがケルト以来の墓所であった可能性は極めて高いのだという。
ただし、フランス・ロマネスク散策 Balade dans l'Art Roman en Franceのクレルモンフェランは、ポールは港ではなく、ポール Portという名は、ラテン語で「倉庫」を意味するPORTUSという名の地区に、教会堂が建てられたことに由来しています。この界隈はかつて交易の場でしたという。
ノートルダムドラボンヌモールの聖母子像 The Treasures of Romanesque Auvergne より


しかしながら、黒マリアだった像もある。
『Vierges romanes』は、最新の研究によると、黒マリアの人気は中世の終わり、十字軍が聖地から締め出された時代にまで遡るという。エレミヤが不信心なユダヤ人を改宗させるために〈膝に子供を抱いた侍女像〉を作ったという伝統を引き継ぎ、当時の聖職者は黒マリアを将来の異教徒の改宗を象徴するお守りとしたのだろうという。
ロマネスク様式の時代よりも後に制作されたものということか。


トゥルニュの聖母子像 Vierge la Brune de Tounus トゥルニュのサンフィリベール聖堂蔵 
『Vierge romane』は、ノートルダムラブリュヌ(茶色)という名前の由来は、もともと黒色だったことに由来しているという。
トゥルニュの聖母子像 Vierges romanes より


ムーランの聖母子像 La Vierge noire de Moulins ノートルダムドラノンシアシヨン Notre-Dame-de-l’Annonciation 蔵
Wikipedia によると、この像はブルボン領主によって聖地から持ち帰られ、ルイ9世によって奉納されたものと考えられます。これは11世紀に作られた威厳のある聖母像で 、15世紀に安置されましたという。
聖王ルイ(1214-70)が聖母子像を奉納したという話は他の教会でもあったように思う。
この聖母は腕が欠失している。他の聖母子像には見られない襞であるが、右膝に幼子を乗せてる点はトゥルニュの聖母子像と共通する。

また『黒マリア』は、アリエ河に沿ったブルボネ地方の首邑ムーランのカテドラルに祀られているル・ピュイのそれとよく似た黒マリアは、同じように東方からもたらされたという伝承を持っているのであるが、1655年の大火の際、一人の住民がこの黒マリアの着けていたマントを炎の中に投げ入れたところ、嘘のように火事がおさまってしまったということである。また、ピレネー山脈の地中海寄りの山裾の町リムー (Limoux)の「マルセーユの聖母」は、例によって牡牛によって 丘の中腹の畑の土の中から発見され、その場所から動こうとしなかったという伝承を持つ黒マリアであるが、この場所はマルシラの泉と呼ばれるドルイド教の聖地だった所であり、この黒マリアがガリアの地母神の後身であることは明らかであろう。そして、この黒マリアもまた1685年の大火から奇跡的にこの町を救ったと言われているのであるということで、この黒マリア像が聖地から持ち帰られたものではなく、ガリアの地母神が黒マリアとして教会内に祀られたとする。
実は私もそう思っていた。また、文献で異なる見解があった時は、その発行年の新しい方を受け容れることにしているのだが、ロマネスク期の聖母子像に黒マリアはないとしながら、黒マリア像をあげていたりして矛盾があるので、今回は『黒マリア』のガリアの地母神説をとりたい。
ムーランの聖母子像 Vierges romanes より


サンジェルヴァジーの聖母子像 Saint-Gervazy
聖ジェルヴァジーの黒い聖母は、ロマネスク様式の黒マリア像で、12 世紀後半に建造されたという。
『Vierges romanes』は、1980年代に盗難に遭ったサンジェルヴァジーの聖母子像は、20年以上たってから見つかったという。
本像の衣文線は左右対称と言ってもよいくらいだ。ストゥールのような玉座や聖母の長い指などは、オーヴェルニュの聖母子像にも共通している。
サンジェルヴァジーの聖母子像 Vierges romanes より

サンジェルヴァジーの聖母の横顔
サンジェルヴァジーの聖母の横顔 Vierges romanes より


『黒マリア』は、異民族の侵入、飢饉、伝染病など、無防備な貧しい庶民たちにとって、安らかな死を迎えることがいかに困難であったかは想像にあまりある。それは昔のガリヤの庶民においても中世の農民においても同じだったであろう。幸せな生とは結局、安らかな死を迎えることができるということに他ならず、「善き死」を願うことは豊饒や安産を願うことと本質的にはまったく変りのないことだったのだ。かつてガリヤの庶民が彼らの地母神に捧げていた信仰を、中世の農民がそのまま継承していたとしても少しも不思議ではない。優しく情け深い慈母観音の姿を求 める民衆の心はいつも同じであり、それがドルイド教のものであろうとキリスト教のものであろうと、彼らにとっては同じことなのである。キリスト教時代の農民は、彼らの発見した地母神像を聖母子像と思い、この像に対して彼らの昔ながらの祈りを捧げた。黒マリアと黒マリア信仰の起源は、おそらくはそこにあるのではないだろうかという。



参考文献
「Vierges romanes」 2018年 Éditions DEBAISIEUX
「The Treasures of Romanesque Auvergne」 Text :Noël Graveline Photographs: Francis Debaisieux Design Mireille Debaisieux  2010年 Édition DEBAISIEUX 
「La Cathédrale Notre-Dame du Puy-en-Velay」 Emmanuel Gobilliard et Luc Olivier 2010 Édition du Signe
「黒マリアの謎」 田中仁彦 1993年 岩波書店

2024/02/09

オーヴェルニュの聖母子像


ルピュイのノートルダム司教座聖堂内陣に祀られていたのは小さな黒い聖母子像だった。ラヴォデュのサンタンドレ修道院教会やブリウドのサンジュリアン聖堂、クレルモンフェランのノートルダムデュポール聖堂、サンサテュルナンのノートルダム聖堂には内陣には聖母子像も他の像もなかった。イソワールのサントストルモワヌ聖堂にあるのは、ずっと時代の下がった聖母子像だった。


オルシヴァルのノートルダムバジリカ聖堂の聖母子像 細かい襞型(後述)
『世界歴史の旅 フランス・ロマネスク』(以下『フランス・ロマネスク』)は、この像はオーヴェルニュのなかの聖母子像のうち、唯一貴金属の飾りものをつけたものである。全身、金でおおわれ、肘掛け椅子の左右は、半円アーチのなかに柱までついている。幼な子イエス・キリストを正面におき、膝の上に乗せるニコポイア型のもので、面長のマリアは髪をとめる帯をし、被り物をつけている。目は大きく見開かれ、カタルーニア地方のあちこちで見た聖母子像をどこか思わせるところがあった。幼な子は本をもっているが、むろん福音書なのであろう。この像は、おそらくこの教会と同じころにつくられたに違いないという。
オーヴェルニュ地方の他の聖堂の聖母子像よりも、カタルーニア地方の聖母子像を彷彿とさせるとは。

私が撮影したマリアは目を閉じているように、或いはうつむいているように見えるが、実際にはしっかりと前を見ている。
オルシヴァルの聖母の顔 Vierges romanes より

こういう本が有り難いのは、ガラスケースに邪魔されない像が写っていることだ。
『Vierges romanes』は、1950年代に元の色が発見されるまで、長い間黒い聖母として崇拝されてきたという。
顔や手が黒く塗られていたということは、黒マリアに見せかけたかったからだ。黒マリアについては次回
オルシヴァルの聖母子像 Vierges romanes より

幼子に触れていない手と幼子
更に、幼子は持つ本を閉じて垂直に持ち、ギリシャ文字のアルファとオメガ、アルファベットの最初と最後、つまり始まりと終わりが記されているという。
「私はアルファでありオメガである」というキリストの言葉が聞こえてきそうだ。だから、ガリアの地でキリスト教化される以前に信仰されてきた地母神ではないのに、ある時期に顔と手を黒く塗られ、黒マリアとして信仰された像ということになる。
オルシヴァルの聖母子像の手 Vierges romanes より


サンネクテール聖堂の聖母子像 ドレープ型(後述) 
『SAINT-NECTAIRE』は、サンネクテール教会が建てられた岩だらけの丘の名前からノートルダムデュモンコルナドール Notre-Dame du Mont Cornadore と呼ばれる、12世紀の威厳のある聖母像。
キリストの生ける玉座としての聖母マリア、父の永遠の知恵という神学的概念を象徴している。この表現は、5世紀に神の母マリアを宣言したエフェソス公会議に由来するもので、神の子でありマリアの子である「真の神であり真の人」であるイエス・キリストの受肉の深遠な神秘を知覚できるようにするものであるという。
この幼子の持つ本も聖書、或い自分が神の子であることを示す書物を持っている。
この大きな手は幼子を抱いていないのは、母としてのマリアよりも、玉座としてのマリアに重点を置いている表れだろうか。
ロカマドゥールの黒い聖母子像は左膝に幼子を乗せているが、やはり手は幼子に触れていない。
キリストを抱いているのは、オルシヴァルのノートルダム聖堂の聖母子像や、長いクッションの上に坐ったルピュイのノートルダム聖堂ポーチタンパンに描かれている聖母子像や、トゥールーズのオーギュスタン美術館の柱頭彫刻がある。

玉座がどういうものかが少し分かる図版。
そして、平板ながら、幼子と聖母の着衣の細かな襞の折り重りが丁寧に表されている様子を知ることができる。また、右肩の実際にはこのような衣褶はできないだろうと思うような、同心円状に重なる楕円形のような表現も特徴的だ。
下を向いた聖母の眼差しと、上を向いた幼子の目に、当時の人々は何を感じていたのだろうか。
サンネクテール聖堂の聖母子像 Vierges romanes より


意外と聖母子像に出会えなかった旅となったが、『Vierges romanes』という本にはオーヴェルニュ地方の沢山の聖母子像が紹介されていた。


Ⅰ 聖母子像がマギの礼拝と共に現れる。 

マギの礼拝 ヌイイアンドンジョン Neuilly en Donjon サント=マリー=マドレーヌ教会 Sainte-Mrie Madeleine タンパン
ヌイイアンドンジョンはオーヴェルニュ地方クレルモンフェランの北東85㎞の小さな町。

ノートルダムデュポール聖堂の切妻型楣石が中央から外れた位置に聖母子像が表され、礼拝に来たマギたちの方にやや向いているのに比べ、ここではタンパンの中央に、幼子に捧げ物をするマギの一人が表されている。他のマギは両足を板状のものに載せているのに、先頭のマギは聖母子に駆け寄る様子で表されている。こんな動的な表現は珍しいのでは。
登場者全員が細身で、聖母子と三人のマギ以外はラッパを吹く四人の天使しかいない。
彼らの足下に腹這いになっているのは、四福音書家のマルコのシンボルであるライオンと、ルカのシンボル牡牛。玉座の背後には背が高いが上半身を屈めている天使? でもマタイのシンボル鷲はいないのでは?

蛇足ですが、このタンパンの下の楣石が面白いので、
『異形のロマネスク』は、人物は、自分の区画を守りながら、タンパンを支えている矩形の石の内で、締めつけられるように列をなして並んでいる。垂直線は、使徒たちの身体を、真っ直ぐな棒のように硬直化させている。他方、水平線は、上部では数珠状に並ぶ使徒たちの頭が、その線を決定している。そして、構図の中央では、端から端までテーブルクロスで覆われたテーブルがその線を、下部では、台座に沿って置かれた使徒たちの足がその線を決定している。この正確で生硬な表現は、背後の建築的枠組による幾何学から、直接的に生まれているのであるという。
確かに動きといえば、十二使徒たちが二人で話し合っていたり、キリストの方を向いていたり、あるいは腕を上げているくらいだが、テーブルの左端の下で何者かが腰をかがめて柄の付いたブラシでキリストの足を洗っているのには笑ってしまう。
12人の弟子たちは皆テーブル席に並んでいるのに、いったい何者だろう。キリストの足を洗う人物をわざわざ彫り出さずにはいられないロマネスク時代の石工たち。こういうのを見つけるのもロマネスク美術の醍醐味。
ヌイイアンドンジョン サントマリーマドレーヌ教会タンパン下の楣石 Vierges romanes より


玉座の聖母子像 モザ、サンピエール・サンカプレ修道院タンパン Abbaye Saint-Pierre-et-Saint-Caprais de Mozac
フランス・ロマネスク散策 Balade dans l'Art Roman en France のモザは、この楣石は「栄光の聖母マリア」を表していて、聖母は王座に座り、膝に幼子キリストを抱いています。
右側に、天国の鍵を手にした聖ペテロ、聖オストルモワヌ、祈る姿をしているモザの修道院長スミュールのユーグの姿、左側には、聖ヨハネと杖を手にした二人の司教の姿があるという。
この聖母子像は正面を向いて、玉座の聖母子像の完成された型になっている。
モザ サンピエール・サンカブレ修道院のタンパン Vierges romanes より

正面を向いた聖母子像が独立していく。両腕に隠れているのか、玉座の背もたれがどんなものか分からない。
モザサンピエール・サンカプレ修道院タンパンの聖母子像 Vierges romanes より


Ⅱ 三種類に分類される聖母子像

独立した聖母子像について『Vierges romanes』は、襞の研究から、いくつかの系統が示唆されている。美術史家のアイリーン・フォーサイスは、ドレープ、プリーツ、細長いシルエットの三つのスタイルに分類したという。
それは①ドレープ型、②細かい襞型、③細長いシルエット型だった。 


① ドレープ型 (アイリーン・フォーサイスは書道のようなドレープと表現)
同書は、ドレープ型は、ユムレグリーズ、ムーサージュ、サンヴィクトールモンヴィアニー(ニューヨークの回廊に保管)、ヴォークレール、サンジェルヴァジーの聖母像、そしてタクサセナとして知られるリオンのマンデ美術館の聖母像に代表される。ニューヨークのメトロポリタン美術館に保管されているモーガンの聖母子像も含まれるという。

ユムレグリーズの聖母子像 Vierges d'Heume-l'Église 
被り物と上衣が一体化している。
この聖母子像の玉座も背もたれはないが、丸みのある椅子で、クッションもある。
腕も太く側面観も量感のある聖母で、背中に衣文線がほぼ平行に表されている。
ユムレグリーズの聖母子像 Vierges romanes より


ヴォクレールの聖母子像  Vierge de Vauclair 
『Vierges romanes』は、ヴォクレールの聖母はその鋭い視線で、視力を失った人々の視力を回復する力を持つことになるという。
逆ドレープが腕にも密に施され、幼子の裳裾は折り畳み文が細かく表されている。
玉座に背もたれがない。
聖母も幼子も目つきは鋭い。聖母像には正面の首の付け根にガラスか水晶の飾りがある。仏像の衣文にもありそうな、通肩で、多くの襞が規則正しく表されている。特に腕の衣文はU字状に収束していく。その先の手は幼子を支えているように見える。
幼子は仏像の施無畏印のように右のてのひらを見せて、左手には開いた本をのせている。
ヴォクレールの聖母子像 Vierges romanes より

聖母の右手は幼子をしっかりと抱いている、というよりも一体化して彫り出されている。
本を開いた時の紙(当時は羊皮紙)が盛り上がる様子まで表現しているというのに、聖母の顔がちょっと・・・
ヴォクレールの聖母子像 Vierges romanes より


上の二つの聖母像のドレープが、首からU字形が同心円状に幾重にも続いているので、似たものを探すと、


クラヴィエの聖母子像 Vierge de Claviers ムサージュに保存
低い背もたれのある玉座は装飾的なデザイン。
頭巾と一体化した上衣。
ドレープは上衣にとどまらず、薄い生地の裳にまで。幼子の服にも細かなドレープがある。
長い指の両手は幼子を抱いているようには見えない。
クラヴィエの聖母子像 Vierges romanes より


トゥルニュの聖母子像 Vierge la Brune de Tounus
頭巾から始まるドレープが胸まで続くが、裳には細かな襞がある。
表情の高さまである玉座は、像と同じく金色に輝き、その形はオルシヴァルの玉座に似ている。
この聖母の手は幼子をしっかりと抱いているように見える。
トゥルニュの聖母子像 Vierges romanes より


メイエの聖母子像 Vierge de Meiller
玉座には肘掛けがあり、その高さで背後に背もたれが見えるが、簡素な椅子という程度。
やや笑みを浮かべた聖母はまるで孫を抱く老婆のよう。両手はかろうじて幼子に触れている程度。
聖母の胸前にはドレープはあるが、幼子ともに膝から下の裳裾が規則的。
メイエの聖母子像 Vierges romanes より


② 細かい襞型 
同書は、プリーツ型の像には、マルサとオーシヴァル、そしてサンプルサンシュルシウールとサンフルールの聖母像が含まれており、最初の像はトゥルニュにあり、2番目の像はリヨンの美術館に保管されているが、わずかにずれているのが特徴である。子供を中央に配置し、よりシンプルなドレープになっているという。


サンプルサンシュルシウルの聖母子像 Vierge de Saint-Pourçain-sur-Sioule
玉座は肘より低い肘掛け、背もたれは不明。脚部が円柱になっている。
聖母の衣装は、被り物と上衣は一体化しているように見えるのだが、胸前のドレープは左右に分かれている。首から続く帯状のものは、上衣とは別なのだろう。
裳裾に小さな品字形の折り畳み文が中央と左右の端にある。
聖母の手は幼子をしっかりと抱いている、というか、一つの木から彫り出されている。
サンプルサンシュルシウルの聖母子像 Vierges romanes より


ヴェルノルの聖母子像 Vierge de  Vernols
玉座は簡素だが、肘掛けの下は柱頭のある円柱になっている。
被り物の形は異なるが、サンプルサンシュルシウルの聖母の上衣、そして裳裾の品字形の折り畳み文がよく似ている。
幼子は左膝に寄り気味だが聖母がしっかりと抱いているのもサンプルサンシュルシウルの聖母子像と同じ。
ヴェルノルの聖母子像 Vierges romanes より

玉座
脚部には4本の円柱、肘掛けと背もたれには角柱がそれぞれ2本と3本で、その上にアーチがのる。座り心地の良さそうなクッションまで彫り出している。


ショリアの聖母子像 Vierge de  Chauriat
胸前にはドレープはないと判断した。
聖母の腕はだらりと垂れ、幼子を抱いていない。これは、別々に作って組み合わせただけなのだろうか。
幼子は三本の指を上げて信者たちを祝福しているかのよう。左手には開いた本をのせている。
ショリアの聖母子像 Vierges romanes より


アントルモンの聖母子像 Notre-Dame d'Entremont
失われたのか、最初から作らなかったのか、肘掛けも背もたれもない玉座。
ソーグのように中央の帯はあるものの、首を回らない。ドレープはなく、細かいプリーツは腕に逆U字状の衣文をつくっている。
アントルモンの聖母子像 Vierges romanes より


ヴィエレダブシエの聖母子像 Notre-Dame du Villeret-d'Apchier 
シャナレイユ Chanaleilles
聖母の脚部も玉座も失われている。
着色もあまり残っていないが、細かい襞がアントルモンの聖母子像に似て、上腕部の輪っかや肩から腕にかけて逆U字状の襞をつくっている。この二体は同一工房で制作されたのかも。
ヴィエレダブシエの聖母子像 Vierges romanes より


③細長いシルエット型 
同書は、細長いシルエット型は、オートロワールの聖母子像、特にソーグとラショメットの聖母子像で、セザリエのロシュシャルルやコラミヌスヴォダブルの聖母子像も、楕円形のひだの少ない衣服になっている。オーヴェルニュの聖母たちは、少数の工房によって作られたものと考えられるという。


ソーグの聖母子像 Vierge de Saugues 
玉座は簡素ながら肘掛けがあり、脚部は円柱のような丸みがある。
②のヴェルノル、サンプルサンシュルシウルと同系統の上衣と首からさげた装飾が似ていること、裳裾の中央と左右に品字形の折り畳み文があるなど共通点が多いので、この三点は同じ工房で作られたものと思われる。何故アイリーン・フォーサイスがこれをサンプルサンシュルシウルの聖母子像と別のタイプに分類したのだろう。
聖母の手は幼子をしっかりと抱いているように彫り出されている。
ソーグの聖母子像 Vierges romanes より


ロシュシャルルの聖母子像 Vierge de Roche-Charles
素朴だが、肘掛けから背もたれにかけて、縦の柱は斜めに彫りのある円柱に、脚部は彫りはないがやはり円柱で、その上はアーチにしている点など、当時の優品を見てこの玉座は作られたのではないだろうか。ひょっとすると革張りでクッション性の良い椅子だったのかも。
聖母は幼子の玉座のようで、膝には乗せているものの、両手は離れている。
聖母子共に上衣は襞は少ないが、裳裾は箱襞を丁寧に、しかも布のように、各所に自然な襞を彫り出している。
ロシュシャルルの聖母子像 Vierges romanes より 


コラミヌスヴォダーヴルの聖母子像  Vierges de Colamine-sous-Vodable
同書は、多色性には意味が込められており、青は聖母を、赤は生命を象徴しているという。
左手で本を立てて持つ幼子は聖母の膝の上に坐っているが、聖母の手はやはり幼子に触れていないように見える。
玉座は壊れているようで、手すりや背もたれがあったかどうかさえ分からない。
コラミヌスヴォダーヴルの聖母子像 Vierges romanes より 


シェイラの聖母子像 Vierge de  Cheylat
低い玉座に坐った聖母は幼子を失っている。
腕は袖があったのかと思うくらい襞がないが、被り物からは丁寧に折り畳まれた襞が整然と並んでいる。
シェイラの聖母子像 Vierges romanes より


シャシニョルの聖母子像 Vierge de Chassignolles
低いスツールに坐した聖母は長い手で右手で人々を祝福し、左手で本を持つ幼子を抱いている。幼子は長めの上衣の襞を片下がりにして坐っている。
こんな風に日の当たる屋外に置いて撮影すると、もっと明るい色になった聖母子像は多いだろう。
シャシニョルの聖母子像 Vierges romanes より


シャト-ヌフレバンの聖母子像 Châteauneuf-les-Bains
優美な衣装なのに、玉座があまりにも簡素。
母子ともに冠を被り、襟元などにも貴石の象嵌のある着衣を着て、王妃と王子のような盛装である。幼子は聖母の膝の間に坐っている。
同書も、12世紀に作られた聖母子像は、ゴシック様式への移行期を示し、中世を通じて続いた栄光の聖母という存在感を示しているという。
シャト-ヌフレバンの聖母子像 Vierges romanes より


サンジュリアンデシャズの聖母子像 Notre-Dame de Saint-Julien-des-Chazes
聖母の長い手は幼子に触れていない。また幼子は手を上げることもせず拳を握っているだけで、聖母の膝の間に前屈みに坐っている。
聖母の着衣の衣文は妙である。上下逆になっているように感じる。こんな襞ができる衣服はあるのだろうか。
サンジュリアンデシャズの聖母子像 玉座 Vierges romanes より

被りものを着けない数少ない像
サンジュリアンデシャズの聖母子像 頭部 Vierges romanes より

玉座は木製で、細かな文様が刻まれ、脚部、肘掛け、背もたれには胴張りの円柱とアカンサスの柱頭をつけるなど、豪華であるが、クッションもなく、硬かったかも。
サンジュリアンデシャズの聖母子像玉座 Vierges romanes より


このように、オーヴェルニュのロマネスク様式の聖母子像は、近付きがたい容貌の像が多い。因みに、日本では神像というものはなかったが、仏教が入ってきて仏像がつくられるようなって、平安時代から神像が作られるようになったが、その神像や女神像も、すがりたいような容貌できはなかったのだった。それについてはこちら




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参考文献
『世界歴史の旅 フランス・ロマネスク』 饗庭孝男 1999年 山川出版社
「The Treasures of Romanesque Auvergne」Text :Noël Graveline Photographs: Francis Debaisieux Design Mireille Debaisieux  2010年 Édition DEBAISIEUX 
「黒マリアの謎」 田中仁彦 1993年 岩波書店
「Vierges romanes」 2018年 Éditions DEBAISIEUX
「異形のロマネスク」 ユルギス・バルトルシャイティス 馬杉宗夫訳 2009年 講談社