ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2018/09/21
カオール、サンテティエンヌ司教座聖堂 フレスコ画
最初の殉教者聖ステファノまたは聖ステファヌスに捧げられたカオールのカテドラルは、Visiter la Carhédrale Saint-Étienneによると、7世紀の司教聖ディディエによって奉献された。広大な建物は12世紀に再建が開始され、主祭壇はローマ教皇によって1119年に捧げられた。身廊は二つの円蓋(右側から見上げるとクーポール=coupole、外側から見るとドーム=dôme)に覆われ、仏南西部では最も大きい。
後陣と西側の支壁は、アルビジョワ十字軍の後に南仏に入り込んできたゴシック様式を用いて完成した。内部の建築は一面壁画で覆われ、13世紀末のものが西円蓋や西の支壁に残っているという。
西の円蓋(coupole)
内部の建築は一面壁画で覆われ、13世紀末のものが西円蓋や西の支壁に残っているという。
St Etienne de Caorsというページは、壁画のオリジナルの部分は14世紀だが、19世紀の修復で隠れてしまったという。
聖ステファヌス(サンテティエンヌ)は、円蓋頂部に描かれている。
投げられた石が頭に当たっているのかな。岩山に跪いて左手を挙げている。その背景には割合整然と並ぶ円の中には輝く星が表されているのだが、ロンデルが並ぶ窓のよう。
聖ステファヌスのいる円を囲んだドーナツ形のところには、聖ステファヌスに石を投げる人々が14名。
ステファヌスの頭上から時計回りに。
当時の人々の服装が伺える。
樹木が何本か人物の背景に描かれるが、場面の区切りでもなさそう。
wikipediaのステファノによると、ステファノはユダヤ人の歴史を引き合いにしながら「神殿偏重に陥っている」とユダヤ教を批判したため、ファリサイ派によって石打ちの刑に処せられた。この場にサウロ(後のパウロ)が立ち会っていたという。
後の多くの殉教者のようにローマの執政官によって刑に処されたのではなく、ユダヤ教徒によって殺され、キリスト教史上初の殉教者となった。
立派な椅子に坐り剣を立てている人物がファリサイ派の指導者。
地中から石を掘り出す者、その石を投げる人に渡す者など
その外側に8名の預言者が描かれ、それぞれが自分の名が記された巻物を持っている。
人物の描かれている枠は、ゴシック様式の窓の形。縦の区画には細い葡萄の蔓が茎を左右に分岐しながら上へと伸びていく。実も描かれている。
同サイトによると、預言者たちはエレミヤ(Jérémie)、イザヤ(Isaï)、エゼキエル(Ezéchiel)、ハバクク(Habacuc)、エスドラ(Esdras)、ヨナ(Jonas)、ダニエル(Daniel)、ダビデ(David)の8名だが、どの絵が誰かは不明。
中央の若者は他の預言者が被る帽子とは違うものを頭に付けている。これは王冠で、この人物はダビデ王かも。
それぞれに配色や身に付け方の違う服装にして、丁寧に描いている。
西ナルテクスの壁画
St Etienne de Caorsというページは、原罪について描かれた壁画は14世紀という。
二人の裸の人物がアダムとエヴァらしいこと、壁面を切石に描いていること程度はわかるのだが、
ピントを合わしきれなかった。円柱はなくなっているのに柱頭だけ壁に残っているのは不思議。
聖堂では本も売っていないようで、残念。
モワサック、サンピエール修道院 北回廊柱頭← →サンテティエンヌ司教座聖堂 北扉口タンパン
関連項目
サンテティエンヌ司教座聖堂 モディヨン
カオール サンテティエンヌ司教座聖堂
参考サイト
カオール観光局のVisiter la Carhédrale Saint-Étienne
フランスの歴史的建造物 司教座聖堂のSt Etienne de Caors
wikipediaのステファノ
参考文献
「中世美の様式下 ロマネスク・ゴシック美術」 オフィス・ド・リーブル編 大高保二郎・岡崎文夫・安發和彰訳 1991年 連合出版
2014/03/11
窓にアラバスターの薄板
ロドスのヨハネ騎士団長の館の窓には、すべてではないがアラバスターの薄板が嵌め込まれていた。おそらく、14世紀に建立されてから1856年に火薬庫が爆発するまでは、窓ガラス全てがアラバスターだっただろう。
アラバスターは、日が射し込んでいる間は光を通すので、採光の役割は果たす。
それだけでなく、アラバスターの薄板は、縞模様が左右対称になるように並べられている。軍事拠点であっても、それくらいのゆとりはあったようだ。
そして、窓の中央の柱には線刻のような十字架が。
アラバスターの薄板が窓ガラスの代わりに使われていたことは、ギリシア美術に興味を持つよりも、ビザンティン美術を勉強するよりもずっと以前、ロマネスク美術に心を奪われていた頃に知った。
それでスペインやフランスの田舎に点在するロマネスク教会を巡って、アラバスターの窓を見つけた教会で、窓から日が差している間じっくりと眺めて、時の移ろいを感じたいという夢を抱くようになったのだが、なかなか実現せずに、今に至っている。
サンタマリア教会後陣 1123年献堂 スペイン、タウール
後陣側に日が差している時。
『ロマネスクの園』は、聖母子の向かって左にメルヒオール、右がガスパール、バルタザールの文字が見えるがこれはマギ(三賢王)の名である。これらの壁画は何十年か前に驢馬の背中にのせられて、はるばるバルセローナのカタルーニア美術館に運ばれて展示されている。現地には現在模作が飾られているという。
機会があれば、カタルーニア美術館も、タウール(現在はカタルーニア語のタウイとなっていることがある)にも行ってみたい。
それにしても細くて小さな窓。こんな窓から光が射し込んだとしても、教会堂内を明るくできたのかと思うほどだ。
夜または光の差していない時間帯
ミレニアムが過ぎても世界の終末はやってこなかったのは神のご加護があったからだということで、1000年以降信仰心が高まり、各地に教会堂が建立されたが、ローマ時代の建築技術は西ローマ帝国滅亡後失われてしまったため、アーチをつくることさえ困難で、ヴォールト天井を架けていて天井が崩れてしまうということも度々あったと、何かの本で読んだことがある。
『図説ロマネスクの教会堂』は、トンネルヴォールトでは横圧力と垂直荷重は下の壁体に均一にかかる(矢印)ので、壁体に大きな開口を設けることは難しいという。
そんな時代には、後陣でさえも小さな開口部を開くのがやっとだったのだろう。
壁画がコピーだとしても、このようなひなびた外観を見ると、ボイ渓谷には是非行ってみたいと改めて思う。
しかし、その短くはない年月には、他の時代にもアラバスターの薄板をはめ込んだ教会、あるいは墓廟があることもわかってきた。
ガッラ・プラチーディア廟 5世紀半ば イタリア、エミーリア・ロマーニャ州ラヴェンナ
地上階の奥壁と、リュネットそれぞれの中央に四角い窓がある。
ラヴェンナには、そして初期キリスト教時代にはもっと窓を大きく、たくさん開いた聖堂があるのに、この建物は数少ない小さな窓があるだけ。
『イタリアの初期キリスト教聖堂』は、この建物はガルラ・プラチディアが自分の墓廟として建てたと従来考えられていたが、今日ではそれは疑わしく、むしろ聖ラウレンティスの記念堂であったのではないかと考えられているという。
どちらにしても、この建物は墓廟として建てられたので、窓を大きく開く必要がなかったのだ。
『イタリアの歓び』では、アラバスターの薄板から入り込む光のこの写真に1頁を割いていて、アラバスター(大理石の一種)の薄板を通過したやわらかな外光が、堂内をほのかに照らすという。
アラバスターの窓に注目した人が他にもいたのだった。
しかしながら、『ガラスの考古学』は、宙吹きガラスの技法が確立されると、ガラス容器の大量生産が可能となり、 ・・略・・ 窓ガラスまでも製作されるようになったという。
これは板ガラスのことだろうか、それともロンデル窓かな?
ポンペイ、スタビア浴場控え室の円窓 前2世紀
『完全復元ポンペイ』は、天井は半円筒形で、複雑なスタッコの浮き彫りが施されている。写真の奥にみえるのは運動場への出入り口、その上にガラスをはめこんだ小さくて円い採光窓があるという。
吹きガラスが誕生したのは前1世紀第3四半期頃とされているので、ロンデル窓はまだ登場していない。前2世紀では鋳造で平たいガラスを作っていたのだろう。
アラバスターの窓があることを知って以来、まず窓には光を通す石の薄板が嵌め込まれ、後に板ガラスができたのだと思っていた。
ところが、その後、ポンペイのガラス窓や吹きガラスのロンデル窓の存在を知り、必ずしもアラバスターの窓が歴史的に古いというわけではないことがわかってきた。
関連項目
ロドス島6 ヨハネ騎士団長の館1
ロドス島7 ヨハネ騎士団長の館2
ポンペイでスタビア浴場を見学したかった理由
※参考文献
「ものが語る歴史2 ガラスの考古学」 谷一尚 1999年 同成社
「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」 サルバトーレ・チロ・ナッポ 1999年 ニュートンプレス
「ロマネスクの園」 高坂知英 1989年 リブロポート
「中世が見た夢」 小佐井伸二 1988年 筑摩書房
「建築と都市の美学 イタリアⅡ神聖 初期キリスト教・ビザンティン・ロマネスク」 陣内秀信 2000年 建築資料研究社
「イタリアの歓び 美の巡礼 北部編」 中村好文 2003年 新潮社
「図説 ロマネスクの教会堂」 辻本敬子 ダーリング・益代 2003年 河出書房新社
「建築巡礼42 イタリアの初期キリスト教聖堂 静なる空間の輝き」 香山壽夫・香山玲子 1999年 丸善株式会社
2011/07/08
フィレンツェにもロンデル窓
ルネサンス美術に興味のない私は、フィレンツェは白い大きな建物の並ぶ冷たい街という思い込みがあったが、実際に行ってみると、古い小さな建物の残る小ぢんまりした町で、気に入ってしまった。
まず目に留まったのは、ドゥオーモの洗礼堂の南東角にある建物だった。
苔むした屋根瓦や窓の形が気になった。よく見ると窓ガラスが、ヴェネツィアで見かけた円い形を並べたものだった。この時はまだロンデルという言葉を知らなかった。
下のアーチの中の赤い旗にピガッロ美術館とあった。中に入れたのだろうか。
建物の途中にある大きな屋根が気になって左側面に回って見ると、屋根の上に黄色い外壁の上階があるように見えたものは隣の建物だった。
側面にも大きな軒の下にはもロンデル窓が一対あった。何となく窓ガラスがに歪みが生じているようだ。ヴェネツィアで見たものより古そうだ。じっくり見ると、この窓は、ヴェネツィアのように、上下左右に並べているのではなく、果物などを箱に入れる時のように、上下交互に並べて、隙間を小さくしている。隙間の形は三角形状で、1つのロンデルの周囲に6つの三角形ができている。
その後ポンテヴェッキオ(Ponte Vecchio)へ行くのに、一つ西のローマ通(Via Roma)に入った。
大きな地図で見る
レプブリーカ広場(Piazza Repubblica)を過ぎて左側にも古い建物があった。屋上が砦のようになっていて、面白いので撮ったら、ここの窓はさっきのピガッロ美術館のものと形が同じで、ガラスもロンデルだった。
その建物の北壁には他の形の小窓もあって、どれもがロンデル窓になっている。
その窓の一つから明かりが見えた。やっぱりこの窓もロンデルが交互に並んでいる。
円いガラス1つ1つに室内の明かりが映っていて、その明かりがロンデルごとに少しずつ異なっているのを面白く思い、カメラに収めた。
円形一枚一枚をロンデルと呼び、吹きガラスで容器を作る要領で作った後、更に熱をかけて広げていきながら勢いよく廻すと器が遠心力でお皿になり、最後に真ん中を支えているポンテを切り落として徐冷します。
ですから真ん中にポンテ痕が付いていて、その外側に同心円状の輪が幾つもできるので、光も揺らぎながら入ってきて、とても趣がありますなあという個展で聞いた田上惠美子氏の言葉通りだ。
しかし田上氏は言葉を続けた、ロンデルは古いものほど同心円状の輪が多くて、中央のポンテ痕も大きいと。やっぱりこの窓もそれほど古くなさそうだ。
フィレンツェ半日観光の最後はヴェッキオ宮殿だった。窓の形は上の二つの建物とよく似ているが、ロンデル窓ではなく板ガラスだった。
ウィキペディアは、1299年から1314年にかけてアルノルフォ・ディ・カンビオによって建設され、1550年から15665年の間に、ジョルジョ・ヴァザーリによって部分的に改築されたという。
中庭から見上げた2階の窓にもロンデルが交互に並んでいた。
今回フィレンツェで見かけたロンデル窓は、どれもが鉛線の枠があり、ロンデルの隙間の三角形状の部分がどんなガラスを使ったものかまではわからなかった。
ロンデル窓がいつ頃からあるのかについて記された本が見当たらなかったので、検索してみると、『ガラスの王国』のクラウン法に、4~7世紀頃、シリア人が発明したといわれる板ガラス聖像方法の草分けじゃ。 ・・・略・・・ この製法をきっかけに、窓にもガラスが多く使われるようになったといわれておる。
初期の頃は、ビールびんの底のような、小さな円盤しか作れなかったため、これをステンドグラスのように鉛の枠でつなぎ合わせて窓にはめ込んだりしてした。このような窓を「ロンデル窓」というとあった。
発明されたとされる時期が4-7世紀と幅がある。そして、ロンデルとロンデルの隙間はどのようになっていたのかはわからないままだ。
※参考サイト
ウィキペディアのヴェッキオ宮殿
ガラスの王国のクラウン法
まず目に留まったのは、ドゥオーモの洗礼堂の南東角にある建物だった。
苔むした屋根瓦や窓の形が気になった。よく見ると窓ガラスが、ヴェネツィアで見かけた円い形を並べたものだった。この時はまだロンデルという言葉を知らなかった。
下のアーチの中の赤い旗にピガッロ美術館とあった。中に入れたのだろうか。
建物の途中にある大きな屋根が気になって左側面に回って見ると、屋根の上に黄色い外壁の上階があるように見えたものは隣の建物だった。
側面にも大きな軒の下にはもロンデル窓が一対あった。何となく窓ガラスがに歪みが生じているようだ。ヴェネツィアで見たものより古そうだ。じっくり見ると、この窓は、ヴェネツィアのように、上下左右に並べているのではなく、果物などを箱に入れる時のように、上下交互に並べて、隙間を小さくしている。隙間の形は三角形状で、1つのロンデルの周囲に6つの三角形ができている。
その後ポンテヴェッキオ(Ponte Vecchio)へ行くのに、一つ西のローマ通(Via Roma)に入った。
大きな地図で見る
レプブリーカ広場(Piazza Repubblica)を過ぎて左側にも古い建物があった。屋上が砦のようになっていて、面白いので撮ったら、ここの窓はさっきのピガッロ美術館のものと形が同じで、ガラスもロンデルだった。
その建物の北壁には他の形の小窓もあって、どれもがロンデル窓になっている。
その窓の一つから明かりが見えた。やっぱりこの窓もロンデルが交互に並んでいる。
円いガラス1つ1つに室内の明かりが映っていて、その明かりがロンデルごとに少しずつ異なっているのを面白く思い、カメラに収めた。
円形一枚一枚をロンデルと呼び、吹きガラスで容器を作る要領で作った後、更に熱をかけて広げていきながら勢いよく廻すと器が遠心力でお皿になり、最後に真ん中を支えているポンテを切り落として徐冷します。
ですから真ん中にポンテ痕が付いていて、その外側に同心円状の輪が幾つもできるので、光も揺らぎながら入ってきて、とても趣がありますなあという個展で聞いた田上惠美子氏の言葉通りだ。
しかし田上氏は言葉を続けた、ロンデルは古いものほど同心円状の輪が多くて、中央のポンテ痕も大きいと。やっぱりこの窓もそれほど古くなさそうだ。
フィレンツェ半日観光の最後はヴェッキオ宮殿だった。窓の形は上の二つの建物とよく似ているが、ロンデル窓ではなく板ガラスだった。
ウィキペディアは、1299年から1314年にかけてアルノルフォ・ディ・カンビオによって建設され、1550年から15665年の間に、ジョルジョ・ヴァザーリによって部分的に改築されたという。
中庭から見上げた2階の窓にもロンデルが交互に並んでいた。
今回フィレンツェで見かけたロンデル窓は、どれもが鉛線の枠があり、ロンデルの隙間の三角形状の部分がどんなガラスを使ったものかまではわからなかった。
ロンデル窓がいつ頃からあるのかについて記された本が見当たらなかったので、検索してみると、『ガラスの王国』のクラウン法に、4~7世紀頃、シリア人が発明したといわれる板ガラス聖像方法の草分けじゃ。 ・・・略・・・ この製法をきっかけに、窓にもガラスが多く使われるようになったといわれておる。
初期の頃は、ビールびんの底のような、小さな円盤しか作れなかったため、これをステンドグラスのように鉛の枠でつなぎ合わせて窓にはめ込んだりしてした。このような窓を「ロンデル窓」というとあった。
発明されたとされる時期が4-7世紀と幅がある。そして、ロンデルとロンデルの隙間はどのようになっていたのかはわからないままだ。
※参考サイト
ウィキペディアのヴェッキオ宮殿
ガラスの王国のクラウン法
2011/07/01
ヴェネツィア サンマルコ聖堂のロンデル
ロンデル窓というものを知らず、円いガラスを並べたガラス窓というものが面白いと思った程度だったが、サンマルコ大聖堂を写すとロンデル窓が写っていた。
前回のロンデル窓のアップは、このファサード(西正面)だった。
『ビザンティン美術への旅』は、サン・マルコの歴史は、都市の守護聖者マルコの遺骸を納めるために造られた9世紀の聖堂に遡る。現在見る建築は1071年に完成、1094年に献堂式が行われたという。
この派手な外観は11世紀のキリスト教会とは思えない。
『ST.MARK’S BASILICA』によると13世紀初期にはこのようなレンガ積みの外観だったらしい。大きな半円のロンデル窓もこの時代にはなかったし、ところどころ見られる窓は斜め格子の枠がある。
当時はロンデル窓ではなかったのだろうか。どのような根拠でこのような窓になったのだろう。
3面の外壁に大理石が貼られるのは、1204年にコンスタンティノープルを征服した後という。
南側の入口が閉じられたのは、16世紀にツェン礼拝室が造られた時らしい。
南側のこの大きな半円形のロンデル窓も16世紀に造られたのだろう。
サンマルコ大聖堂の中に入ると、階上廊から上は金地モザイクで埋め尽くされている。
ドームは高く、暗く、その上ほぼ立ち止まることなく見学していったので、12-13世紀のモザイク画が何を表しているのかよくわからなかった。
まして、暗い内部空間に光を取り込むため、ドームの基部に開けられた小さな窓に、もっと小さな円形が並んでいたとは、想像もできないことだった。
北側には15世紀に小さなマスコリ礼拝室が造られ、その奥には円い窓がある。
丸窓には4種類の大きさのロンデルがびっしりと並んでいる。
サンマルコ大聖堂は、13世紀以降、どんどんと変貌していったので、ロンデル窓がいつから造られるようになったかの参考にはならなかった。
※参考文献
「ビザンティン美術への旅」(赤松章・益田朋幸 1995年 平凡社)
前回のロンデル窓のアップは、このファサード(西正面)だった。
『ビザンティン美術への旅』は、サン・マルコの歴史は、都市の守護聖者マルコの遺骸を納めるために造られた9世紀の聖堂に遡る。現在見る建築は1071年に完成、1094年に献堂式が行われたという。
この派手な外観は11世紀のキリスト教会とは思えない。
『ST.MARK’S BASILICA』によると13世紀初期にはこのようなレンガ積みの外観だったらしい。大きな半円のロンデル窓もこの時代にはなかったし、ところどころ見られる窓は斜め格子の枠がある。
当時はロンデル窓ではなかったのだろうか。どのような根拠でこのような窓になったのだろう。
3面の外壁に大理石が貼られるのは、1204年にコンスタンティノープルを征服した後という。
南側の入口が閉じられたのは、16世紀にツェン礼拝室が造られた時らしい。
南側のこの大きな半円形のロンデル窓も16世紀に造られたのだろう。
サンマルコ大聖堂の中に入ると、階上廊から上は金地モザイクで埋め尽くされている。
ドームは高く、暗く、その上ほぼ立ち止まることなく見学していったので、12-13世紀のモザイク画が何を表しているのかよくわからなかった。
まして、暗い内部空間に光を取り込むため、ドームの基部に開けられた小さな窓に、もっと小さな円形が並んでいたとは、想像もできないことだった。
北側には15世紀に小さなマスコリ礼拝室が造られ、その奥には円い窓がある。
丸窓には4種類の大きさのロンデルがびっしりと並んでいる。
サンマルコ大聖堂は、13世紀以降、どんどんと変貌していったので、ロンデル窓がいつから造られるようになったかの参考にはならなかった。
※参考文献
「ビザンティン美術への旅」(赤松章・益田朋幸 1995年 平凡社)
2011/06/24
ヴェネツィアで見かけた窓ガラスに並ぶ丸いものはロンデル
ツアーでヴェネツィアに行くと、ガラス制作の実演を見てその後ムラーノガラスのお買い物という風になっているものらしい。我々もその例に漏れず、小さな花瓶や馬の置物などを元ムラーノ島の工房で作っていたという職人が作るのを拝見した。
しかし、その場で一番興味を惹かれたのは職人の作る作品ではなく、建物の窓ガラスだった。
じつは田上惠美子氏の個展に、作家在廊の日を選んで出かけたのは、この面白い窓ガラスを見てもらうためだった。
人のいないのを見計らって田上氏に見せると、これはロンデル窓で、窓にガラスという素材をはめ込む一番古典的な方法だと思いますわ。
円形一枚一枚をロンデルと呼び、吹きガラスで容器を作る要領で作った後、更に熱をかけて広げていきながら勢いよく廻すと器が遠心力でお皿になり、最後に真ん中を支えているポンテを切り落として徐冷します。
ですから真ん中にポンテ痕が付いていて、その外側に同心円状の輪が幾つもできるので、光も揺らぎながら入ってきて、とても趣がありますなあ
何となく吹きガラスを幾つか並べてあるなあとは思っていた。
『ガラスの考古学』は、宙吹きガラスの技法が確立されると、ガラス容器の大量生産が可能となり、 ・・略・・ 窓ガラスまでも製作されるようになったという。
しかしそれは、吹きガラスを大きく長く作っておいて、切り開いて平たくするか、丸く吹いて先を切ってクリクリ回すと遠心力で平たく広がって丸い板ガラスができるというように理解していたので、こんな小さな円形のものが並んでいるのが窓ガラスだとは思わなかった。
こんな窓を見て、鉛の輪っかにガラスを吹いて作るのかと思ったくらいだ。
最初の頃は小さなものしか作れなくて、せいぜい10数㎝くらいで、技術が進んでくると40㎝くらいのものも作れるようになったらしいです
この窓ガラスに並ぶロンデルは、多分10数㎝くらいのものだろう。
もう1枚の写真を見せた。それはヴェネツィアのサンマルコ大聖堂の大窓で見つけた丸いガラスだった。
このロンデルの直径はどれくらいですか?
高いところにあったので、大きさまでは・・・40㎝もなかったと思いますわ。
ところで円が2つずつ上下に並んだら、4つの円が囲む湾曲した菱形状の空間が生まれます。この菱形状のガラスはどのように作るのですか?
お店のロンデル窓は現代のものですからフロートガラス、つまり板ガラスでしょう。サンマルコ大聖堂の窓はいつ頃のものですか?
ロンデル窓がいつ頃から作られるようになったのかわかりませんが、そんなに古くはないと思います
そこまで話をしたところで、お客さんが途切れなくなり、話は途切れてしまった。
ロンデル窓は他の建物にもあった。これはサンマルコ広場からボート乗り場までの間にあったレトロな雰囲気のホテル。
そしてその窓。
なんといってもヴェネツィアはガラス製作の本場。このホテルの窓は何時の頃にかサンマルコ大聖堂の窓ガラスを真似たのだろうし、ガラス工房のものは更に時代が下がってから真似て作られたのだろう。
何気なく面白いと思って撮った窓ガラスの写真だが、思わぬ発見があった。さすがに古代のガラス技術でガラスを作る人だけのことはあるなあ。八木洋子さんにも聞いてみたかった。
※参考文献
「ものが語る歴史2 ガラスの考古学」(谷一尚 1999年 同成社)
しかし、その場で一番興味を惹かれたのは職人の作る作品ではなく、建物の窓ガラスだった。
じつは田上惠美子氏の個展に、作家在廊の日を選んで出かけたのは、この面白い窓ガラスを見てもらうためだった。
人のいないのを見計らって田上氏に見せると、これはロンデル窓で、窓にガラスという素材をはめ込む一番古典的な方法だと思いますわ。
円形一枚一枚をロンデルと呼び、吹きガラスで容器を作る要領で作った後、更に熱をかけて広げていきながら勢いよく廻すと器が遠心力でお皿になり、最後に真ん中を支えているポンテを切り落として徐冷します。
ですから真ん中にポンテ痕が付いていて、その外側に同心円状の輪が幾つもできるので、光も揺らぎながら入ってきて、とても趣がありますなあ
何となく吹きガラスを幾つか並べてあるなあとは思っていた。
『ガラスの考古学』は、宙吹きガラスの技法が確立されると、ガラス容器の大量生産が可能となり、 ・・略・・ 窓ガラスまでも製作されるようになったという。
しかしそれは、吹きガラスを大きく長く作っておいて、切り開いて平たくするか、丸く吹いて先を切ってクリクリ回すと遠心力で平たく広がって丸い板ガラスができるというように理解していたので、こんな小さな円形のものが並んでいるのが窓ガラスだとは思わなかった。
こんな窓を見て、鉛の輪っかにガラスを吹いて作るのかと思ったくらいだ。
最初の頃は小さなものしか作れなくて、せいぜい10数㎝くらいで、技術が進んでくると40㎝くらいのものも作れるようになったらしいです
この窓ガラスに並ぶロンデルは、多分10数㎝くらいのものだろう。
もう1枚の写真を見せた。それはヴェネツィアのサンマルコ大聖堂の大窓で見つけた丸いガラスだった。
このロンデルの直径はどれくらいですか?
高いところにあったので、大きさまでは・・・40㎝もなかったと思いますわ。
ところで円が2つずつ上下に並んだら、4つの円が囲む湾曲した菱形状の空間が生まれます。この菱形状のガラスはどのように作るのですか?
お店のロンデル窓は現代のものですからフロートガラス、つまり板ガラスでしょう。サンマルコ大聖堂の窓はいつ頃のものですか?
ロンデル窓がいつ頃から作られるようになったのかわかりませんが、そんなに古くはないと思います
そこまで話をしたところで、お客さんが途切れなくなり、話は途切れてしまった。
ロンデル窓は他の建物にもあった。これはサンマルコ広場からボート乗り場までの間にあったレトロな雰囲気のホテル。
そしてその窓。
なんといってもヴェネツィアはガラス製作の本場。このホテルの窓は何時の頃にかサンマルコ大聖堂の窓ガラスを真似たのだろうし、ガラス工房のものは更に時代が下がってから真似て作られたのだろう。
何気なく面白いと思って撮った窓ガラスの写真だが、思わぬ発見があった。さすがに古代のガラス技術でガラスを作る人だけのことはあるなあ。八木洋子さんにも聞いてみたかった。
※参考文献
「ものが語る歴史2 ガラスの考古学」(谷一尚 1999年 同成社)
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