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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2021/04/16

涼州式偏袒右肩とは


雲崗石窟の20窟は太武帝の廃仏後、最初に造られた仏像である。

『中国の仏教美術』は、いわゆる西方式といわれ右肩を袒(かたぬ)ぐ偏袒右肩(へんたんうけん)式だが、右肩先に大衣の端がかかっており、このかたちは、多く河西回廊の涼州地域にみられるので、涼州式偏袒右肩と称されるという。
涼州式偏袒右肩は私もずっと右肩にだけ大衣の端がペロッとかかっているのだと思っていた。
向きを変えて右腕を眺めると、ジグザグの衣端は肘まで続いていて、後は状態が良くないが、腕の下側に回っていたのに、見学した時は気付かなかった。

また、麦積山石窟の78窟正壁如来坐像も涼州式偏袒右肩だ。
『天水麦積山』は、高い肉髻、顔は四角く鼻は真っ直ぐ、目は前を向く。体は健康的で偏袒右肩の衣を着ける。衣文は不規則な平行線が陰刻される。結跏趺坐し、説法印を結ぶという。
しかし、右肩に現れた大衣は右腕を覆うようにして、首の左側から出たものと胸前で結ばれている。実際にどうなっているのか、頭に描けないのだが、涼州式偏袒右肩というものは、大衣が右肩だけにかかるのではないことが、この像で分かった。
麦積山石窟78窟正壁如来坐像 北魏 『中国石窟 天水麦積山』より

西壁の如来は落下した頭部が継がれている。手は78窟正壁西壁と同じ定印だったのだろう。結跏趺坐した脚部と台座の境目がわからない造像こそがこの時代の特徴になるのかな😊
麦積山石窟74窟西壁如来坐像 北魏 『中国石窟 天水麦積山』より

とはいえ、このような涼州式偏袒右肩は、今までにも見ているはずなのに、見えていなかったのだ。

如来坐像 石造 西安市王家巷出土 北魏・和平2年(461) 西安碑林博物館蔵
『北魏仏教造像史の研究』は、太平真君7年(446)太武帝の排仏の詔が発せられ、文成帝が即位するに至って、ようやく仏教復興の詔が発せられた、興安元年(452)12月のことである。
袈裟を涼州風の偏袒右肩に着けており、河北省正定の太平真君元年銘如来坐像が旧来の通肩で表されているのと大きく異なっているという。
マトゥラー仏の偏袒右肩とは異なり、右肩に大衣が懸かるものを涼州式偏袒右肩と呼ぶが、それが仏教復興後間もないこの像に、早くも採り入れられている。
西安市王家巷出土如来坐像 北魏和平2年銘 『北魏仏教造像史の研究』より

雲崗石窟では初期窟だけでなく中期窟にも涼州式偏袒右肩の如来坐像が多く造られた。

二仏並坐像 第12窟前室東壁
見学して以来、偏袒右肩でも、次の様式の双領下垂式でもない、不思議な着衣だと思っていたが、これこそが涼州式偏袒右肩だったのだ。

涼州式偏袒右肩について『北魏仏教造像史の研究』には、興味深い文があった。
涼州造像に見られる特徴は、北魏の平定以降次々と平城に到来したと考えられる。
河北省蔚県発見の太平真君5年(444)銘朱業微如来坐像は、銘記によれば廃仏以前の河北の作品であるが、袈裟を涼州風の偏袒右肩に着けており、同じく太平真君元年銘如来坐像が旧来の通肩で表されているのと大きく異なっている。これは、439年の涼州からの大量徒民によって平城にもたらされた涼州式造像様式が、早くも河北方面へ及び始めていることを示している。
甘粛省の敦煌、酒泉、武威、新疆の吐魯番などから多数出土している石造の経塔は、発願文中に420-430年代の年記を有する作品があり、北涼期の仏教信仰と造像の状況を知る上で、極めて重要かつ確実な作例である。8面に仏龕を設けて7体の如来坐像と1体の菩薩坐像。7体の如来は釈尊までの過去七仏、1体の菩薩は未来の仏陀弥勒であることが、題記からも確認できるという。 

高善穆石塔 五胡十六国時代・北涼、承玄元年(428) 高44.6㎝ 蘭州市甘粛省博物館蔵
残念ながら涼州式偏袒右肩の如来の画像はない。
高善穆石塔 五胡十六国時代・北涼 『世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝』より

次に石松氏は、殷光明氏が公刊した詳細な研究成果について記述している。
殷氏は14基の石塔の分期を試みている。如来の着衣に着目し、「半偏服飾」「半披肩袈裟」と呼んで、石塔にやおけるこの着衣の出現を434年の白双且石塔以前としている。殷氏が着目したこの着衣形式は、すでに浅井和春氏が「涼州式偏袒右肩」と名づけた形式に相当し、筆者も、肩を露出しないという点で着衣の中国的な変化とする見解を提示している。
炳霊寺石窟169窟(西秦時代、420頃)に出現したこの新しい着衣形式が、河西地区では434年頃に現れるとする殷氏の指摘は、この着衣形式の伝播を考える上で重要であるという。  
炳霊寺石窟169窟北壁後部仏龕如来坐像 西秦 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

日本では偏袒右肩と涼州式偏袒右肩のどちらもが採り入れられている。

釈迦浄土変 金堂1号壁 飛鳥時代(706-711年) 法隆寺
涼州式偏袒右肩で、じっくり見ると、大衣の黒い裏地(現在)の間から右腕が出ていた。
法隆寺金堂1号壁釈迦浄土変 飛鳥時代 『日本の美術204 飛鳥・奈良絵画』より


法華堂根本曼荼羅図 麻布着色 縦107.1横143.5㎝ 奈良時代(8世紀) 1911年寄贈 ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション
右肩が露出する、クシャーン朝将来の偏袒右肩である。
法華堂根本曼荼羅図 奈良時代 『ボストン美術館 日本美術の至宝展図録』より

仏画だけでなく、仏像を調べても、日本で涼州式ではない偏袒右肩の像は、奈良時代になって描かれたり造像されたりしているようだ。


関連項目

参考文献
「中国石窟 天水麦積山」 天水麦積山石窟芸術研究所 1998年 文物出版社
「麦積山風景名勝 李克強撮影集」 2014年 天水市旅游局
「中国石窟芸術 麦積山」 花平宁・魏文斌主編 2013年 江□鳳凰美術出版社
「北魏仏教造像史の研究」 石松日奈子 2005年 ブリュッケ
「日本の美術204 飛鳥・奈良絵画」 百橋明穂編 1983年 至文堂
「中国石窟 永靖炳霊寺」 甘粛省文物工作所・炳霊寺文物保管所 1989年 文物出版社 
「ボストン美術館 日本美術の至宝展図録」 2012年 NHK

2014/07/29

仏像台座の獅子2 中国の石窟篇



もちろん、石窟でも獅子は登場する。

蘭州郊外にある炳霊寺石窟では、もっと古い時代の獅子があるだろうと思っていたが、北魏後期のものしかなかった。

交脚菩薩像 北魏、延昌2年(513)  高1.87m 炳霊寺第126窟北壁 
『中国石窟永靖炳霊寺』は、菩薩は交脚して方座に坐り、台座の下に踞る2頭の獅子が浮彫されているという。

北魏後期になると菩薩も中国風の衣を身に着けるようになる。両足の下に長い裳裾が2段に襞を折り重ねている。
その下に身繕いをするかのように後肢をあげる獅子が表される。蓮茎が裳懸座に繋がっているのかと思っていたが、獅子の尾が双葉のように裳裾まで達しているのだった。細身の仏像に似つかわしくない、武骨な獅子である。

麦積山石窟そのものには獅子は表されていないが、運び込まれた石碑にある。

造像碑 北魏(439-535) 麦積山石窟第133窟第11号造像碑
龕内に一仏二菩薩が表され、台座の下に香炉ではなく、パルメットの葉が両側に広がっているようだ。その外側の一対の獅子は、台座の二段目に片足をかけ、背後を振り返って咆哮するかのように大きな口を開けている。


造像碑 北魏(439-535) 麦積山石窟第133窟第10号造像碑
『中国石窟天水麦積山』は、龕内に一仏二菩薩、下層屋形建築の下に四天王と一対の獅子がいて、龕の支柱を二力士が支えているという。

その力士の両足を地神のようなものが支えている。
その外側で、量感のある獅子が腰を下ろしている。

北魏後半の都洛陽の郊外に開かれた龍門石窟では、

交脚弥勒菩薩像 龍門古陽洞北壁第3層 長楽王夫人尉遅氏造 太和19年(495)
『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』は、龕楣には華縄を牽く天人を配し、菩薩交脚像と脇侍菩薩立像(右像亡失)の三尊を彫刻する。菩薩交脚像は銘文中に明記されるように弥勒菩薩で、兜率天で説法する姿である。仏菩薩像や飛天などの姿は西方式で、まだ中国化されていないが、線刻や浮彫りを多用した光背装飾は早くも龍門石刻芸術の片鱗を見せているという。

獅子は四肢を踏ん張り、菩薩に侍している。下段から出てきた地神または力士が、菩薩の交差させた足を支えている。

北魏前半の都、平城郊外に開かれた雲崗石窟について『図説中国文明5魏晋南北朝』(以下『図説中国文明史5』)は、453年に開鑿が始まり、北魏の時代に全盛を迎え、520年代まで彫り続けられたという。
まずは北魏後期のものから、
同書は、北魏が洛陽に遷都した後、平城に住んでいた鮮卑の貴族は争うように雲崗で石窟を開鑿した。この時期の石窟の多くは貴族個人や何人かの出資によって開鑿されたものであるため、芸術的な水準は初期や中期のものより劣るという。

交脚菩薩像 雲崗石窟後期(494-524年) 雲崗石窟第4-1窟東壁楣栱帷幕龕
裳懸座に左右からすり寄るように、すごい顔つきの獅子が表される(左側は失われている)。

如来坐像 雲崗石窟後期 第35-1窟西壁下層仏龕
角形の龕に中国式服制の如来が結跏扶坐する。その下の段には、博山炉を中央に、象、獅子が並ぶ。象は特徴のない表現だが、その両側にいる獅子は、やはりかなりすごい顔つきで、口を開いて威嚇している。これでも多少は阿吽になっているらしい。
右端では、力士が踏ん張って上の層を持ち上げている。

雲崗石窟中期窟(470-494)では、いろんな獅子像がみられる。
『図説中国文明史5』は、中期に開鑿された石窟は、いずれも皇族や貴族の援助によって造営された。中期の石窟は整然と並んでいて、入念な計画に基づいて工事が行われたものと思われるという。

菩薩交脚像 雲崗石窟中期 第11窟南壁第3層西側仏龕
獅子は周囲を威嚇せず、菩薩に寄り添っている。獅子のたてがみの表現が独特。右側の獅子は舌を出している。
如来坐像 雲崗石窟中期 第11窟西壁第3層南側仏龕
涼州式偏袒右肩に大衣を着けた如来が龕内で結跏扶坐する。その下に珍しく右に頭を向ける仏涅槃図が浮彫されている。釈迦の頭部と足元に小さく各一弟子が表され、その背後に弟子が2名ずつ、そして一番外側には大きな獅子が一頭ずつ表されている。右側の獅子は嘆息しているのだろうか、口から長い息が見える。
交脚如来像 雲崗石窟中期 第12窟後室東壁第3層南側仏龕
獅子は寝そべっている。

交脚如来三尊像 雲崗石窟中期 第12窟前室西壁第2層仏龕
通肩の如来が交脚で表される。左側の獅子は失われているが、右側の獅子は目が出ていて、敦煌莫高窟第275窟の獅子に似ている。

初期窟(460-465)は、曇曜五窟と呼ばれている。『図説中国文明史5』は、曇曜五窟の規模はもっとも雄大で古風で素朴な趣をとどめているという。

交脚菩薩三尊像 雲崗石窟初期 第18窟南壁下層西側仏龕
交脚の中尊に、両側で半跏思惟の菩薩が侍している。しかも、獅子の上に腰掛けているのは珍しい。
しかし、『中国石窟雲崗石窟2』は、帷幕龕の中央に交脚菩薩が獅子座の上に坐す。両側の思惟菩薩は束帛座の上に坐すという。
そう見えなくもないなあ。

このように見ていくと、雲崗石窟は獅子座の宝庫だった。
しかし、トルファン高昌国郊外の吐峪溝石窟や亀茲国郊外の克孜爾石窟では獅子座は見られなかった。


菩薩交脚像 北涼(397-439年) 敦煌莫高窟第275窟正壁 塑造
この獅子もライオンには見えない。たてがみは粘土ではなく、布か藁でつくったものを被せていて、いつの間にかなくなってしまったのだろうか。
背後の壁面に描かれた両脇侍菩薩は、獅子の上に乗っているかのようだ。
しかし、実際には両者には距離がある。そして、現地で何よりも驚いたのは、獅子は壁面から出ていて、後肢がないのだった。

おまけ
後肢が表されない獅子というのは他にも見られる。

弥勒菩薩交脚像 北魏前期 砂岩 高44㎝ 河北省曲陽県修徳寺遺址出土 河北省博物館蔵
『中国★文明の十字路展図録』は、頭に宝冠をつけ、両側に冠繒を長く垂らした菩薩が、2頭の獅子座に交脚して坐し、胸前で合掌するという。

このように前肢だけの一対の獅子が菩薩の脇から出て来たように表された獅子座は、道教三尊像にも見られる。


また、敦煌莫高窟では意外なことに獅子座はなく、やっと見付けたのは隋時代のものだった。しかも壁画である。

双獅子図 隋(581-618年) 敦煌莫高窟第292窟人字披頂西披龕下
白い鈴つきの首輪をはめられて、まるで犬のよう。銜えているのはパルメット?それとも285窟(西魏、535-556年)で空を漂っていた雲気文?
中央には蓮池があり、蓮華とその葉と共によく似たものが生えている。

    仏像台座の獅子1 中国篇← →仏像台座の獅子3 古式金銅仏篇

関連項目
獅子座を遡る
仏像台座の獅子4 クシャーン朝には獅子座と獣足
中国の仏像でギザギザの衣文は
X字状の天衣と瓔珞8  X字状の瓔珞は西方系、X字状の天衣は中国系
X字状の天衣と瓔珞3 炳霊寺石窟
前屈みの仏像の起源

※参考文献
「図説 中国文明史5 魏晋南北朝 融合する文明」  稲畑耕一郎監修 羅宗真著 2005年 創元社
「雲崗石窟」 1999年 李治国編・山崎淑子訳 人民中国出版社
「北魏仏教造像史の研究」 石松日奈子 2005年 ブリュッケ
「中国石窟 永靖炳霊寺」 甘粛省文物工作所・炳霊寺文物保管所 1989年 文物出版社

「中国石窟 天水麦積山」 天水麦積山石窟芸術研究所 1998年 文物出版社 

2014/06/20

中国の仏像でギザギザの衣文は



ギリシアのアルカイック期に始まったジグザグの衣文線は、まだ釈迦が像として表されない頃にすでに伝播し、クシャーン朝期には仏教の像として表されるようになった。
それについてはこちら

菩薩立像 後2-3世紀 パキスタン、シャーハバーズ=ガリー出土 片岩 高さ120㎝ ギメ美術館蔵
『世界美術大全集4ギリシア・クラシックとヘレニズム』は、菩薩像はインドの王侯貴族をモデルとしている。写実的な顔、筋肉の描写、襞の表現はギリシア美術に由来する。立像の場合は、ギリシアの神像の立脚遊脚の原理を導入して、身体に微妙な動勢を与えているという。
裙は広い布を巻き着けているためか、大きくギザギザに垂れ、そこに襞の端がギザギザの衣文で表される。

その表現は日本の仏像でも見られるものだが、まず、中国に伝わっていった痕跡を辿ってみると、

双菩薩立像 3世紀末~4世紀中葉(キジル石窟の草創期) 新疆ウイグル自治区クチャ郊外、キジル石窟92窟主室ヴォールト天井右側
『中国新疆壁画全集克孜爾1』は、草創期の人物表現は外来のものが顕著である。壁画の中でも、天人の形象はガンダーラの3世紀における菩薩彫像に近い。
菩薩の裙の上に鈎勒捧の褐色線で衣文が描かれる。黄色の暈繝で質感が強く表されるという。
説明の通り、ギリシアの壺絵にも見られなかったような隈取りで、ただの線ではなく、衣の厚みが感じられる。
中国でも、このジグザグの衣文線に名称はないようだ。

金銅菩薩立像 西晋~五胡十六国時代(4世紀初め) 高33.6㎝ 伝陝西省三原県出土 藤井斉成会有鄰館蔵
『中国の金銅仏展図録』は、束ね上げる髪、もみ上げ、口髭、耳や首の飾り、宝櫃を両側から喰わえる獣頭付きの胸飾、腕釧、それらはいずれもガンダーラの菩薩像にみられる。出土地は古都長安の近く(陝西省三原県)と伝えられるが、黒眼に象嵌のあとを残す眼やサンダルの着用などは独特であり、地肌のクレーター状の多孔から鉛含有量が多いと判断されるなど中央アジアとする説も古くからある。本像のように左手に瓶を持つ菩薩はガンダーラでは弥勒菩薩とされるという。
体のバランスはかなり違うが、上のガンダーラの菩薩立像とよく似た仏像で、顔も東アジアっぽくない。当時中央アジアで暮らしていたイラン系の民族によってつくられたものだろう。
裙も短めだが、その衣がジグザグに垂れたり、襞の端がジグザグに表されたりと、ガンダーラの影響を強く受けている。ただ、ジグザグの衣文線は様式化され、天衣の端にはびっしりと並んでいる。
仏像や仏画の制作は、技術の高い工人を現地に呼び寄せて造らせたりするが、このような持ち運びできる像は、もたらされた場所でコピーをつくることができるという点で、伝播に貢献している。

金銅菩薩立像 五胡十六国時代(4世紀) 高8.4㎝ 個人蔵
同書は、小像ながら、頭部の形式や、胸飾り、腕釧、左手の小瓶、天衣の掛け方、背面の衣褶など諸点が形式を共にする点で貴重であるという。
将来像を真似て鋳造を重ね、オリジナルからかけ離れてしまったようだ。それでも目鼻立ちがはっきりしていて、西域系の住民がつくったことを感じさせる。
ギザギザの衣文線は残っている。

思惟菩薩像 4世紀中葉-5世紀末(キジル石窟の発展期) キジル石窟38窟主室前壁
左手に絡んだ天衣の端に、白線でジグザグの衣文線が見られる。

飛天図 高昌郡ないし高昌国期(327-640年) 新疆ウイグル自治区、トルファン郊外火焔山中、吐峪溝石窟20窟後壁北端上層
曲線的だが、左右対称にギザギザの衣文線が表されている。

仏立像 西秦(385-431年) 甘粛省蘭州郊外、永靖炳霊寺第169窟北壁後部
炳霊寺石窟は西秦時代という、かなり早い時代に開鑿された石窟で、しかも開創期の仏像が残っている。
『北魏仏教造像史の研究』は、甘粛省の祁連山脈北側の山々に囲まれた長さ1000㎞に及ぶいわゆる「河西回廊」は、インドから西域を経て敦煌、長安へと通じる仏教の幹線路であった。西秦が都を置いた金城、苑川、枹罕は当時仏教が盛んであった長安と姑臧の中間に位置し、東西に行き交う求法僧の通過地であったため、国内外の高僧が集まったという。 
左手の下に垂れた長衣や、右手でつまんだ衣の端がギザギザになっている。
これをギザギザと決めつけるのは強引かも知れないが、このような体に密着した衣や、薄い衣を通して体の線がわかる表現は、5世紀のインド、グプタ朝の仏像の特徴でもある。
それについてはこちら
しかし、ギザギザの衣文線は同窟内の菩薩像に残っている。

菩薩半跏像 西秦 同第169窟西壁下部 塑造
右膝にのせた左脚から垂れる裙が、左右対称の曲線的なギザギザの衣文線となっている。藤井有鄰館蔵菩薩立像の衣文線に似ている。

菩薩交脚像 北涼(5世紀前半) 甘粛省敦煌莫高窟第275窟正壁 塑造
『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』は、莫高窟は前秦・建元2年(366)、僧楽僔によって開創されたという。しかし、開創期にさかのぼる洞窟は現存していないという。
裙は両脚にぴったりと貼り付くような薄い衣で、襞は凸線でほぼ平行に表されるが、裙の中央部には、褪色した青色でと細い刻線で、ギザギザの衣端が表されている。
また、両肩に掛けた披巾の衣端は外側に反り返り、青い色のギザギザと、その外側に模様のある布の端が、やや丸みのあるギザギザで表現されている。 
そして裙にもギザギザの衣文線がある。前中央部で、左右の布が合わさっているところが、襟のように折り返しになっているし、実際にはそんなことがあり得るのかどうかわからないのだが、ふくらはぎの上側にも同様の衣端がかかっている。

如来坐像 北魏(5世紀後半) 山西省大同市雲崗石窟第20窟正壁 石造
同書は、文成帝の和平(460-465)の間に曇曜が、帝都平城(現、大同市)の西、武州塞において、山の石壁を彫って石窟を5か所開き、各窟に仏像を1体ずつ彫り出すことを奏上したと伝え、これが現在の雲岡石窟のことと考えられるという。
涼州式偏袒右肩の着衣は、左肩から腹部中央へと向かう袈裟の衣端と、右肩に掛かった衣の端に、ギザギザの衣文線が刻まれている。
涼州式偏袒右肩について『北魏仏教造像史の研究』は、本来の偏袒右肩では、袈裟は背面を左肩から斜めに横切って右腋下へ回るのであるが、背面側の衣の縁を引っ張り上げて、右肩に懸けているのである。
このような変則的な偏袒右肩は、浅井和春氏が「涼州式偏袒右肩」と命名したように、涼州一帯で早く出現したように見える。ただし、ガンダーラの塑像やギリシャ・ローマ彫刻の中には、これと近似する着衣表現が認められ、直接的ではないにせよ、関連があった可能性も否定できないという。
涼州式偏袒右肩は河西回廊で生まれたものと思っていた。

その後もギザギザの衣文線は続いていく。

如来三尊像うち両脇侍 北魏正始2年(505)以前 龍門石窟古陽洞正壁右側
曲線的なギザギザの衣文線が裙の裾にある。

裳懸座にもギザギザの衣文が並ぶ。

仏三尊像うち二尊 北魏時代後半(494-534年) 甘粛省天水県麦積山石窟第133窟第3号龕
北魏時代は、孝文帝が洛陽遷都後推し進めた漢化政策によって、人民だけでなく、仏像も双領下垂式の中国式服制となり、重く分厚い服装をしている。
主尊の両手から下がる大衣の衣端は、ギザギザの線を描きながら台座にまで長く垂れている。
本来は下半身に裙を着け、上半身は裸の菩薩も中国式の服装となり、天衣の端にギザギザに折りたたまれた衣文が見えている。

菩薩立像(蝉の菩薩) 北魏-東魏(6世紀) 石灰石・彩色 像高97.2cm 博興県崇徳村龍華寺遺跡出土 山東省蔵
膝あたりから、裙の中央に左右対称のギザギザの衣文線が2段見られる。今は失われた両足にかかる衣端は曲線的に折れ曲がり、ギザギザの衣文線が装飾的に変化している。

金銅菩薩立像 高65.0㎝ 北周(557-581) 東京藝術大学美術館蔵
蝉の菩薩よりも裙が短くなり、中央から左右にギザギザの衣文線が繋がっていく。天衣の衣端もギザギザの衣文線があり、裙の傍に添って左右に広がる。


     アルカイック期の衣文が仏像の衣文に←
                 →ギザギザの衣文線は半島経由で日本にも

関連項目
身体にそった着衣はインドから?


※参考文献
「世界美術大全集4 ギリシア・クラシックとヘレニズム」 1995年 小学館
「中国石窟 永靖炳霊寺」 甘粛省文物工作隊・炳霊寺文物保管所 1989年 文物出版社
「中国石窟 天水麦積山」 天水麦積山石窟美術研究所 1998年 文物出版社
「中国新疆壁画全集 克孜爾1」  中国壁画全集編集委員会編 1995年 新華書店天津発行所
「中国新疆壁画全集6 吐峪溝・伯孜克里克」 中国壁画全集編集委員会編 1995年 遼寧省新華書店
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館
「中国の金銅仏展図録」 1992年 大和文華館
「北魏仏教造像史の研究」 石松日奈子 2005年 ブリュッケ
「中国・山東省の仏像 飛鳥仏の面影展図録」 2007年 MIHO MUSEUM
「金銅仏-東アジア仏教美術の精華展図録」 2002年 泉屋博古館

2013/06/14

X字状の天衣と瓔珞8  X字状の瓔珞は西方系、X字状の天衣は中国系



雲崗石窟で最も早く開かれた曇曜5窟(460-465年)の中の飛天や供養天に、X字状に交差したり、交差部に丸い飾りのある、短い紐状のものがあった。

供養天 雲崗石窟第一七窟西壁仏龕 雲崗前期(460-465年)
天衣とも瓔珞とも思えないような紐状のものが腹部の丸い飾りのところで交差している。
X字状に交差する天衣というものは、北魏が洛陽に遷都して間もない頃(498年)、古陽洞北壁の交脚弥勒像に最初に表されたはずだった。
それについてはこちら
それが、北魏前期に、菩薩像ではないものの、X字状のものを身に着けているのは驚きだ。

ところが、北魏前期とされる交脚弥勒像にX字状に交差する瓔珞が見つかった。

弥勒菩薩交脚像 砂岩 高44㎝ 河北省曲陽県修徳寺遺址出土 北魏前期 河北省博物館蔵
『中国★文明の十字路展図録』は、頭に宝冠をつけ、両側に冠繒を長く垂らした菩薩が、2頭の獅子座に交脚して坐し、胸前で合掌する。菩薩の四角く丸い顔立ちやふとりじしの体軀に、北魏前半期の特徴が見出される。交脚菩薩は兜率天で下生を待つ弥勒菩薩を表し、同時期の雲崗石窟でも多くの弥勒菩薩が造像され、未来仏に対する信仰の隆盛さを物語っているという。
頭部が大きく、それが前に突き出して表されている。
敦煌莫高窟の275窟(北涼時代、397-439年)交脚弥勒像も2頭の獅子を従えているが、獅子に後ろ肢はなかった。この像もやはり獅子は前脚しかなさそうで、同じ系統の弥勒像といえるだろう。
275窟の弥勒像とは、瓔珞が小さな丸い珠と細長い珠を交互に繋いでいる点は共通するが、異なる点は、瓔珞が腹部で交差していることだ。
交脚菩薩像 雲崗石窟第17窟明窓東側 北魏、太和13年(489)年銘 
『北魏仏教造像史の研究』は、銘により弥勒であることが明らかで、他の大方の無銘の交脚菩薩像についても同様に弥勒菩薩と考えられている。 
太和13年龕と第11窟明窓東側の太和19年(495)龕はわずか6年の差であるが、その像容は著しく変化し、太和18年(494)の洛陽遷都を境とした雲崗前期と後期の変化、つまり、張りのある量感的な表現から、そりの強い線条的な中国様式への変化を顕著に表している。

ここでは13年像グループを雲崗前期式、19年像グループを雲崗後期式と呼ぶことにする。
この前期式の着衣は、上半身裸形系のものと、胸を左肩から斜めに覆う布(通常絡腋と称される幅広の布)をつけるものと2種ある。この斜めに覆う布は背面にまわって両端を結ぶか巻きつけるかしたと思われるが、天衣とは別の布のようである。この形式は炳霊寺石窟の西秦時代の像にすでに見られ、天水麦積山等の早期石窟造像に多い。頸飾(下辺中央が尖る)や双獣が向かい合うデザインの胸飾のほか、瓔珞をV字状あるいはX字状に懸ける。この天衣が肩上で丸く弧を描く表現も炳霊寺西秦像をはじめとする中国初期の菩薩のほか、西域に多く見られる。双獣胸飾ももちろんインド伝来のもので、この雲崗前期式像の着衣・装飾はことごとく西方色が強い形式であるという。
なるほど、菩薩は量感的で、3本の線条のある幅広の絡腋といい、頸飾は中央下が尖っている。
そして、私にとって謎だったX字状の瓔珞についても記述があった。西方的な装身具だったのだ。
では、X字状の瓔珞は西方的なら、X字状の天衣もその影響を受けたのではないのだろうか。

同書は、後期式の着衣はすべて上半身裸形、胸を斜めに覆う布を着ける例はない。天衣は両肩を覆って正面でX字状に交叉し、両腕に懸けたのち左右に垂下する。天衣の肩に懸かる部分を外側にヒレ状に尖らせるものや、天衣のX字状の交叉点に環状飾りをつけるものも多い。裙は両膝下の垂下部を大きく作り、幾条もの襞を作ってその先端を左右に扇状に広げる。装身具は全体に簡略化する傾向にあり、前期式で見られた双獣胸飾は姿を消し、頸飾も瓔珞もつけない例がかなりある。そして、これらの装身具にかわって菩薩の胸~腹部を飾るのがX字状の天衣と、その交点に留められた環状飾りである。この環状飾りは漢文化に古い伝統を持つ璧の一種と考えられ、後期式では西方的要素が消えて漢化の傾向が強いことがわかる。上半身裸形の形式は前期式にもあったが、後期式のそれは前期裸形式の延長ではなく、むしろ、前期における胸を斜めに覆う布や双獣胸飾などの西方的要素を排し、X字状天衣を採用したことによって生じた結果だろうという。
何と、私の知りたいことが全て記されていた。この本は出版されてすぐに買ったが、開くのがおこがましくて、もっと勉強してから読もう、入院した時にでもじっくり読もうなどと思いながら、開かないでいたのだった。

従って、雲崗石窟第17窟の飛天や供養天のX字状のものは天衣ではなく、西方系の瓔珞ということになる。

脇侍菩薩立像 永靖炳霊寺第169窟東壁 西秦時代(385-431)
『中国石窟永靖炳霊寺』は、不揃いに並ぶ千仏の中に説法図的な一仏二菩薩図が二方にある。その北側のものは仏は通肩の袈裟をまとい、禅定印を結び、二菩薩は立って侍すという。
同書は菩薩の着けているものへの記述はないが、この菩薩は、雲崗石窟第17窟供養天と同じような紐状のものを飾りのところでX字状に交差させたものを着けている。これが西方的な瓔珞らしい。
X字状の瓔珞が西方的なものなら、もっと西にあるキジル石窟にもあるはずだ。

交脚弥勒菩薩 キジル石窟第177窟主室入口上方弥勒菩薩説法図 発展期(4世紀中葉-5世紀末)
『中国新疆壁画全集克孜爾1』は、弥勒菩薩は珠冠を被り、宝繒は翻っている臂釧などの装身具を着け、右手は説法印、左手には浄瓶を持ち、交脚して坐すという。
確かに天衣とは異なる細い線状の瓔珞がX字状に交差している。しかも瓔珞は長くて、体と脚をくぐって上方に向かっている。
菩薩半跏像 キジル石窟第38窟主室入口上方弥勒菩薩説法図うち 発展期(4世紀中葉-5世紀末)
同書は、これは左右対称に坐す思惟菩薩である。服飾や体型は右側の菩薩とほぼ同じで、身光の保存状態が良い。輻射形線条の光があるという。
こちらの菩薩の瓔珞は短く、うつむき加減に坐っているので、瓔珞が前に垂れて、二の腕から後方に向かっている。
また、瓔珞ははっきりと小さな珠が2列に並んでいるのがわかる。
太子像 キジル石窟第118窟主室正壁仏伝図うち 初創期(3世紀末-4世紀中葉)
同書は、太子の宮中での生活部分であるという。
出家前の釈迦が着けているのもX字状の瓔珞だ。こちらの瓔珞も短い。
確かに、雲崗石窟より西にある永靖炳霊寺では五胡十六国時代、西秦(385-431)の窟でX字状の瓔珞が見られ、それより遙か西、キジル石窟では、石窟の初創期(3世紀末-4世紀中葉)にX字状の瓔珞が菩薩を飾っていた。
X字状の天衣中国風のものだったが、X字状の瓔珞は西方から請来された装身具由来のもので、この2つは全く異なる起源を持つものだということが確認できた。
キジル石窟の菩薩は3図ともに冠から出た、或いは冠を頭部にくくりつけたリボン状のディアデムが翻っている。
このディアデムとの起源がササン朝ペルシアなら、X字状の瓔珞もササン朝ということになるだろうか。

アルダシール1世硬貨(表) 銀 ササン朝ペルシア、224-241年 平山氏蔵
『ガンダーラとシルクロードの美術展図録』は、鷲文と耳覆いのあるティアラ冠を戴く、右向きの国王胸像という。

ササン朝では3世紀前半にすでにディアデムは見られるが、この図からはX字状の瓔珞を付けていたかどうかわからない。 
帝王ライオン狩り文皿 銀鍍金 ササン朝ペルシア、4世紀
この図では、ディアデムは付けているが、X字状の瓔珞は付けていない。
X字状の瓔珞の起源はササン朝ではなかったのかも。

関連項目
前屈みの仏像の起源
X字状の天衣と瓔珞7 南朝
X字状の天衣と瓔珞6 雲崗曇曜窟飛天にX字状のもの
X字状の天衣と瓔珞5 龍門石窟
X字状の天衣と瓔珞4 麦積山石窟
X字状の天衣と瓔珞3 炳霊寺石窟
X字状の天衣と瓔珞2 敦煌莫高窟18
X字状の天衣と瓔珞1 中国仏像篇
ボストン美術館展6 法華堂根本曼荼羅図2菩薩のX状瓔珞

※参考文献
「中国★文明の十字路展図録」 曽布川寛・出川哲朗監修 2005年 大広
「中国の石仏 荘厳なる祈り展図録」 1995年 大阪市立美術館
「小金銅仏の魅力 中国・韓半島・日本」 村田靖子 2004年 里文出版
「北魏仏教造像史の研究」 石松日奈子 2005年 ブリュッケ
「中国石窟 永靖炳霊寺」 甘粛省文物工作所・炳霊寺文物保管所 1989年 文物出版社
「中国新疆壁画全集 克孜爾1」 段文傑主編 1995年 天津人民美術出版社
「世紀世界美術大全集14 西アジア」 2000年 小学館  
「ガンダーラとシルクロードの美術展図録」 2002年 朝日新聞社