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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2012/12/18

敦煌莫高窟9 285窟に南朝の影響



285窟の伏斗式天井には様々な雲気文と赤い線が駆け巡っていて素晴らしかった。
しかしながら、今年は足場が組まれていたために、端の方からのぞき込むようにしてしか天井の壁画を見ることはできなかった。
そして、今まで疑問に思っていたことを敦煌研究院の王さんに質問した。
蓮華やいろんな小さな文様と、その間に描かれた赤い線は何ですか?
すべて雲気を表しています
花に見えるものなども宙に浮かんでいるのではなく、それも雲気の一種らしい。
『中国石窟敦煌莫高窟1』には、敦煌莫高窟の北朝期の特徴が記されている。そこでは285窟は西魏時代に開窟され、249窟などと共に第3期第2類に分類されている。
同書は、新題材と新しい表現形式が多い。新題材として、中原の伝統的芸術の影響の受容が始まった。痩骨清像という人物の顔、褒衣博帯という服制、頬を染める暈繝法という。
285窟に表されているような細身の人物像は「痩骨清像」となっているが、同書の他の文では「秀骨清像」になっている。
『中国の仏教美術』は、この天井および、西壁を除く北、東、南各壁は白地に、細面の天人や菩薩が、天衣を長くなびかせ描かれている。これは漢民族士大夫の美意識にかなった「秀骨清像」と評される様式であるという。
秀骨清像で良さそうだ。

ウィキペディアによると、北魏が分裂して成立した2つの魏のうち、函谷関の東側で中原を中心とした版図を持つ国として東魏を定義している。私は西魏の都長安で流行していた新しい様式が西漸して、敦煌に伝わったものと思っていた。
西魏の仏像も細いが、東魏の仏像も細身である。

菩薩立像 石灰岩 東魏時代(534-550) 1996年清州市龍興寺遺跡出土 清州市博物館蔵
『中国・山東省の仏像展図録』は、単純な曲面で構成された体軀も、複雑な着衣や装飾品に隠されることなく、溌剌とした印象を醸し出している。下半身に着けた裳に刻まれた縦向きの平行な衣文が、少し突き出た腹部の柔らかさを伝えているのも、像の清廉な印象を強めており、裳裾に刻まれた品字形衣文も厳格な対称性を失っていないという。

しかし、秀骨清像は北魏後半にはすでに現れている。
釈迦多宝二仏併坐像 金銅 北魏、熙平3年(518) パリ、ギメ東洋美術館蔵
秀骨清像と呼ばれる細身の容姿、褒衣博帯に双領下垂式の大衣という漢族の衣装を着て、その裾を左腕にかける。着衣の裾はヒレ状と北魏後期様式の典型のような作品である。

ともかく、そのような北朝様式の影響を受けて、285窟の塑像及び壁画の仏像、供養者、飛天などはほとんどが細身に表されている。
ところが、細身の人物は南朝(420-589)ではもっと早くに現れている。それは1958年河南省鄧州市学荘村南朝墓より出土した画像磚で、5世紀後半の墓の甬道と墓室の壁面に嵌め込まれて墓内を飾っていたものであるという(『中国★美の十字路展図録』より)。

郭巨埋児画像磚 高19幅38厚6 河南博物院蔵
『中国★美の十字路展図録』は、郭巨埋児」の故事を主題としている。この故事によれば、郭巨が老母を養うために我が子を土中に埋めようと地面を掘っていると、黄金の詰まった釜が出現し、そこには「孝子郭巨に賜う」と記されていたという。この内容に従って、画面中央には黄金で満たされた釜が配され、その左に地面を掘る郭巨を、右に子を抱く妻を表し、それぞれに「金壱釜」「郭巨」「妻子」の傍題を添えているという。
顔が丸いので北魏後半や西魏の仏像に似ているとは思わなかったが、確かに体つきは細身だ。
北魏の孝文帝が中原の洛陽に遷都したのが493年のことなので、秀骨清像は南朝から中原へと伝わったといえるだろう。
また、右の女性の天衣が風に翻る描写は、285窟の天人の天衣によく似て先端が尖っている。このような天衣の表現も、南朝から北朝へと将来されたものだったのだ。
吹笙鳳鳴画像磚 高19幅38厚6 河南博物院蔵
同書は、「王子喬」の故事に基づいている。王子喬は周の人で、笙を吹くのを好み、鳳凰の鳴き声を得意とし、道士の浮丘公に従って嵩山に登って修行し仙人になったという。画面左には、樹下の岩に座って笙を吹く王子喬を、右には払子を持って立つ浮丘公を、中央には雲気に乗って降下してきた鳳凰を配し、右上方には遙か彼方に浮かぶ遠山が見える。
故事を扱ったこれら2点は、人物の衣裳、樹木、雲気、遠山などが流麗な表現で処理されており、いずれも優美で装飾的な六朝時代の絵画表現をよく物語っている
という。

鳳凰の乗る長く尾を引く雲は、285窟には見られないものだが、鳳凰の前と、浮丘公の上にある4枚のカザグルマのようなもの、これはひょっとすると、285窟の様々な形をした雲気文へと繋がるものではないだろうか。
このような文様について言及されていないが、南朝期の四神の表された画像磚にもカザグルマ状の文様がある。

瑞禽神獣画像磚 1957年河南省鄧県出土 陶製 縦19-19.5横37.5-39厚6.5 南朝 中国国家博物館蔵
『世界四大文明 中国文明展図録』は、4種の神獣を描いた画像磚で、それぞれ細かな描写がされており、色彩が残っている珍しい例である。被葬者を守るために墓中に配置されたと考えられている。四方の守り神である白虎(西)・青龍(東)・朱雀(南)・玄武(北)の四神を墓中に配する例は南朝に多いが、この画像磚では青龍を馬に似た神獣の形で描いているという。
今年四神についていくつかまとめたが、この画像磚は見落としていた。四神5の北魏北斉時代のものよりも古く、四神8の東晋時代に次ぐものだった。

青龍
周囲に3つカザグルマ状の文様があり、青龍の足元には勢いを示すような数本の筋が表されている。青龍の「気」を表したものとも解釈できる。
玄武
亀の前後にカザグルマ状の文様が2つある。その上方には根、葉、花が付いた蓮が表されている。
甲羅には当然だが亀甲繋ぎ文がある。
鳳凰
カザグルマ状の文様はないが、鳳凰と比べるとかなり小さく飛ぶ鳥が描かれていて、それが十字のカザグルマ状文様になっていくことを想像させる。
周囲の文様帯には、蓮がデザイン化されたと思われる文様が細い線で表されている。
白虎
青龍と同様に、足元には「気」あるいは勢いを示す細い線。カザグルマ状の文様の他に、空に舞う蓮が表されている。
285窟では、壁面の説法図などの間にも雲気文がちりばめられている。
よく見ると先の青い四弁花文がある。そしてその上には渦巻く蓮華。ここには、南朝のカザグルマ状の文様から生まれた四弁花文が、天花と呼ばれる文様へと成長していく様子が表されているようだ。
更に上には、南朝の一つの根から出たと思われる蓮華の葉や花までもが描かれている。
まるで地上に咲いていた花が茎から切れて天花となったり、茎や葉とともに飛んだ蓮華が段々上昇していき、天空(天井)では、中国の神々や飛天などの素早い動きで生じた風にあおられて舞っている様子が描かれているのだろう。
秀骨清像的な細身の人物像、飛天のシャープな天衣だけでなく、天花や雲気文なども南朝から将来されたモティーフが元になっているのだった。
秀骨清像は、見てきたように北魏時代後半には将来されている。
西魏は535~556年なので、5世紀後半の南朝の画像磚の天衣や雲気文などが直接伝わったのではなく、北魏に伝播されて消化されたものが北朝様式となり、それが西魏にも受け継がれたのだろう。
これらは南朝将来の北朝様式なのだった。

関連項目
敦煌莫高窟8 285窟の天井を翔る雲気
敦煌莫高窟5 暈繝の変遷2
新羅石仏の気になる着衣を山東省に探す
二仏並坐像を探したら北魏時代のものがあった
騎馬時の服装は
四神

※参考文献
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 1982年 文物出版社
「中国の仏教美術 後漢時代から元時代まで」 久野美樹 1999年 東信堂 世界美術双書
「中国・山東省の仏像 飛鳥仏の面影展図録」 2007年 MIHO MUSEUM
「週刊朝日百科世界の美術92 南北朝時代」 1979年 朝日新聞社
「中国★美の十字路展図録」 曽布川寛・出川哲朗監修 2005年 大広

2012/08/17

龍が「龍」になるまで



四神は前漢時代にできたとしても、龍はかなり古くから登場している。

龍形玉飾 新石器時代、薛家岡文化(前3500年頃) 安徽省含山県凌家灘出土 長径4.4㎝厚0.2㎝ 合肥市、安徽省文物考古研究所蔵
『世界美術大全集東洋編1先史・殷・周』は、龍の体軀はC字形に丸くなり、口と尾がつながっている。やや稚拙な線で目、耳、角、背中の鱗文を刻んでいる。尾に近いところに小さな孔を両面からあけている。しかし、ここから吊り下げると龍の頭が逆さになって、いささか不自然である。この龍形玉飾は、石家河文化に継承され、殷代につながっているという。
手足はなくても角はあった。ただし、一角か二角かはっきりわからない。
龍虎尊 銅 殷、二里岡期(前16-前14世紀) 安徽省阜南県朱砦出土 高50.5㎝口径45.0㎝ 北京市中国歴史博物館(現中国国家博物館)蔵
肩部の稜角には乗り出すような形で、龍の頭が三方につく。龍は瓶形の高く突出した角をもち、口を大きく開いて、上顎が前に張り出している。胴体は肩部に左側にうねって尾を丸め、上には菱形の鱗文様がある。尾の後ろには小型の舌出し虁龍文があるという。
龍はこの時代になっても足はないが、角ははっきりと二角になっている。
龍形玉飾 山西省曲沃県晋侯墓地出土 殷後期-西周後期(前14-前8世紀) 長7.8㎝厚0.7㎝ 太原市山西省考古研究所蔵
龍頭から爪形の短い胴が伸びた觿(けい、くじり。帯の結び目を解く道具)で、滑らかな太い刻線と細い刻線で浮彫り風に龍頭を表現しているところに時代の特徴が現れている。龍は上顎の先が丸くなり、下顎が外に巻いて垂下用の孔を作っている。目に長い上瞼を表現するのも特徴的である。後頭部に雲気文を刻んだ角と胴が伸び、鋭い爪を持つ足を刻んでいるという。
龍に前足ができた。
銅象嵌龍文扁壺 銅 春秋中~後期(前6世紀) 河南省輝県市琉璃閣出土 通高52.8㎝口径12.0X13.5㎝ 鄭州市河南博物院蔵
頸部の下には頭を振り返らせた龍または獣が3列、銅象嵌で表されるという。
現在までに見てきた中では、4本の足のある龍の最も古い例である。4本といっても、前足と後ろ足が2本ずつ重なっている。
いずれも背後を振り返った姿で表されている。
龍文三足壺 銅 春秋後期(前6-前5世紀) 河南省固始県侯古堆出土 通高19.0㎝口径7.5㎝ 鄭州市河南博物院蔵
器体と頸部には沈線で龍の輪郭を表しているという。
下から突き上がってきたものを中心に龍が向かい合う。前・後ろ足がそれぞれ1本で表されているため、角も1本のS字形の線となっている。この角さえなけれぱ虎に見える。
空心磚 戦国時代 陝西省咸陽市咸陽宮出土
『図説中国文明史3春秋戦国』は、秦国の空心磚である。空心磚は古代で壁をつくったり、墓に用いたりした一種の磚で、防音・防湿・保温などの効果をもつという。
正方形に近い区画の中いっぱいに咆哮する龍が描かれている。前足の爪も鋭く3本がしっかりと表され、鼻に接するように後ろ足が出て2本の爪がある。
不思議なのは、中央の渦巻で、胴体の途中からわかれてカタツムリの殻のようだ。ひょっとすると羽根だろか。
錞于(打楽器)の蓋 秦(前3世紀) 咸陽市塔児坡出土 高さ69.6㎝口径32-40㎝ 青銅 咸陽博物館蔵
『始皇帝と彩色兵馬俑展図録』は、鈕は龍である。背中を丸め頭を後方に振り返る。尾部は欠損するが、首と同様に上部に丸く形成されていたと思われ、腰部に尻尾の先の接合痕が見える。胴部には翼と鱗が表現されているという。 
前脚の付け根に羽根がある。龍で有翼のものはこれが最古かも。

『中国国宝展図録』は、龍は中国伝統の空想的動物で、ワニ、馬、蛇などさまざまな動物の特徴を合成したものであるという。
龍が「龍」になるには、長い年月を要したのである。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編1 先史・殷・周」 2000年 小学館
「図説中国文明史3 春秋戦国 争覇する文明」 劉煒編著 2007年 創元社 
「中国国宝展図録」 2004年 朝日新聞社

2012/08/10

四神11 青龍・白虎・朱雀・玄武の組み合わせは前漢時代



前漢の陽陵には礼制建築の門の階段に四神の空心磚があった。前漢以降の四神をみても、墓廟に関連のある場所に表されるものだと思っていた。
ところが、同じ前漢時代の青銅器にも四神が表されていて、必ずしもそうとも言えないことがわかった。

四神温酒器 前漢(前2-前1世紀) 西安市大白楊村出土 高さ11.2㎝柄も含めた長さ24.1㎝幅10.7㎝ 青銅 西安市文物保護考古所蔵
『始皇帝と彩色兵馬俑展図録』は、長方形の台の上に青竜・朱雀・白虎・玄武の四神を配し、取っ手がひとつ付いた楕円形の炉があり、その炉の上部にさらに耳杯が載った構造である。下の炉で炭を焚き、上に乗っている耳杯を暖め、酒の燗をするためのものであるという。
これが明器(墓に副葬するために作った器物)だったのか、日用品だったのか。
『中国国宝展図録』は、耳杯とは、戦国時代から漢時代にかけて、酒の杯やおかずを盛る小皿として用いられた食器。上から見ると顔の両側に耳がついているような形であることからこの名がある。実用の耳杯の多くは漆器であった。本作は耳杯としても大型の部類に属しと、楚王陵出土の玉耳杯(長14.3)について解説しているので、この青銅製の温酒器は、ミニチュアの明器ではなく、実用品として作られたものだろう。
この四神温酒器も、陽陵羅経石遺跡出土の四神空心磚も、前漢時代の青龍や白虎には翼がないことを示している。

二十八宿が描かれた衣装箱 戦国時代(前5世紀) 湖北省随州市擂鼓墩曾公乙墓出土 長71㎝高40.5㎝幅47㎝ 湖北省博物館蔵
『図説中国文明史3春秋戦国』は、箱の蓋の中央には北斗七星が描かれ、その周りには順序よく二十八宿すべての名称と四象(二十八宿を4分割し、方角を表したもの)の蒼龍(東方)・白虎(西方)が描かれている。二十八宿と北斗七星の組み合わせは、中国の交河流域の気象独特のものであるという。
蓋の面積の限界から、四神の残り玄武と朱雀が描ききれなかったのか、それともまだ四神というものが完成していなかったのか。
戦国時代の青龍と白虎にも翼はなかった。

調べた限りでは、朱雀も玄武も出現が前漢時代のため、青龍・白虎・朱雀・玄武の組み合わせの四神は前漢時代に出来上がったことになる。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編1 先史・殷・周」 2000年 小学館
「図説中国文明史3 春秋戦国 争覇する文明」 劉煒編著 2007年 創元社

2012/08/07

四神10 前漢景帝の礼制施設に四神の空心磚



漢陽陵博物館図録は、漢の景帝劉啓(紀元前188-141年)は前漢王朝第4代の皇帝である。
陽陵は、漢の景帝と王皇后が合葬された陵園である。紀元前153年に建設が始められ、28年の歳月を要して紀元前126年に竣工した。ただし両者の墓室は別になっている。
現在まで既に、漢陽陵の主要部分は、帝陵陵園、后陵陵園、南北区の従葬坑、礼制建築、倍葬墓園、罪人の墓地や陽陵邑などのいくつかの部分から成り立っていることが解明されている。
帝陵は東向きで陵園の西に位置しており、幅約110mの司馬道は平坦で東に向かって伸び3.5㎞あまり、陵邑へと直接つながっているという。
画面中央西よりの帝陵から南東に二号建築遺址がある。下中央の茶色い部分

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陵園の中心部に内外城が設けられ、正方形をなす。城の外とうちの間には大型礼制遺跡が多数あり、そのうち、一号、二号が一番重要である。
二号遺跡(羅経石遺跡とも言う)は帝陵東南約300mの場所に位置しており、幅260mの正方形で、外側に壕溝が巡っている。遺跡中部から地面より5.3mの所に版築の53.7㎡の正方形土台が発見され、主体建築の土台だと思われる。この土台の中心には石柱がある。土台の回りはレンガが敷かれている回廊と散水があり、四つの面にそれぞれ14の壁柱と3つの門があるという。
散水とは、おそらく柱穴の外側にある丸い石の敷かれた部分だろう。それを羅経石ともいうのではないだろうか。
雨水がたまらないように傾斜をつけているか、樋がないために屋根から落ちる雨水が土を撥ねたりしないような役割を果たすと思われる。
二号建築遺址は、現在ではガラス張りにして見学できるようになっているらしいが、漢陽陵博物館の見学が2時間程度ではここまで行くこともできなかった。
門の階段に四神紋様の空心レンガが敷かれている。四面のレンガ、壁、屋根は東西南北の方位によって、青、赤、白、黒四種類の色に染められているという。

四神の塼はそれぞれの守る方角の階段に敷かれていたということだろうか。
二号建築遺址の東方に造られた考古陳列館には、二号遺址より出土した塼があった。出土状況を示す写真パネルもあったが、写真ではどれが塼かわからない。
蛇足だが、背後の壁面には画像石が並んでいるのかと思ったが、2種類の図柄が何度も出てきて、現代に作られたものだっとわかった。
玄武
羅経石遺址出土 前153-126年
巨大な塼で、1mはあっただろう。しかも、左側は縦の縁がないので、当初はもっと長かったようだ。
亀の脚は短く、甲羅には大きな亀甲が並んでいる。蛇は亀に巻きつかず、甲羅の上を巡って、尾をS字形に曲げ、頭は亀の前で折り曲げている。
漢陽陵博物館図録には、全く別の図柄があった。

玄武空心磚 残長52高34厚10
亀の甲羅がいろんな形で面白い。脚も長い。
蛇は亀の甲羅をくぐり、首の背後から抜けたところで塼が欠けている。
白虎
羅経石遺址出土
博物館では寸法が記されていなかった。隣の玄武とは高さは同じだが、長さは半分くらいだった。塼は置かれる場所に合わせて幾つかの種類が作られたらしい。
顔は笑っているようだが、爪が鋭い。
陽陵の白虎空心磚は日本で開催された「始皇帝と彩色兵馬俑展」で見ていた。

白虎空心磚 漢陽陵羅経石遺跡出土 縦43㎝横118㎝厚さ16.5㎝ 前漢(前2-前1世紀) 陝西省考古研究所蔵
同展図録は、内側が空洞になっていることから空心磚と呼ばれる。また、空間があることによって保温性が高いことが推定され、それを適用した使用方法も考えられる。
表面に白虎2匹が向かい合う形が凸線で描かれている。互いに前足を揚げまさにお互いがとびかかる寸前のような迫力がある。また、側面にも虎が対峙しており、そのあいだに璧らしい円形文様がみられるという。
この塼の虎は、爪も鋭いが顔も威嚇的だ。
青龍文空心磚 残長66高37
龍はU字形に体を曲げ、左右の前脚が体の両側に表されるなど、非常に活発に動きのある描写である。
龍の左には宝珠のようなものがありそうで、脚の長い方の玄武と同じ系統の塼らしい。
胴体は鱗状、脚には点々と、表現が細かい。
朱雀文空心磚 羅経石遺跡出土 縦37.2㎝横50㎝厚さ7.5-9.6㎝ 陝西省考古研究所蔵
中国では、鳳凰は古くから表されてきたが、調べた範囲では、朱雀の出現は前漢時代だった。
孔雀のような尾羽を4枚、頭には2枚つけている。
景帝の墓室そのものは発掘されていないので、墓室に四神が描かれていたかどうかはわからない。

西晋時代の四神には翼があるが、前漢時代のものには翼はなかった。

※参考文献
「漢陽陵博物館図録」 2007年 文物出版社
「始皇帝と彩色兵馬俑展図録」 2006年 TBSテレビ・博報堂

2012/08/03

四神9 西晋時代の四神はゴビ灘に



敦煌の仏爺廟湾西晋画像磚墓にも四神は描かれている。
仏爺廟湾古墓群は、敦煌の空港(机場)から市街へと向かうS313号線の途中からゴビ灘に入っていった所にある。
下のグーグルアースでは、S313号線とS217号線の間にあります。
S217号線は莫高窟へ向かう道路で、その南端に小さく見えているのが莫高窟のあるオアシスです。

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右側に鳴沙山が横たわり、広々としたゴビ灘に現代の墓地がある。
ガイドの史さんは、北京などは墓地は高いですが、敦煌ではタダです。幾つか固まってあるのは、その一家の墓ですと言っていた。
しばらく走って建物(写していない)の近くでバスは停止。これが西晋墓。地上に土饅頭を築くのは今も昔も変わらない。
現代は1-2m掘って埋葬しますが、西晋墓は10mもの深さまで掘っています。だから、今の人が墓地に使っても、西晋墓を壊すことはありません
仏爺廟湾にはたくさんの西晋墓が確認されていますが、発掘されたものは少ないです。現在見学できるのは、この墓だけです。外気にふれると色が褪せてしまうので、発掘はしていません
右側にも西晋墓があるが、ここは見学できない。前方の岩山は三危山。砂の山があれば岩の山もある。
建物にいた管理人が鍵を開けてくれた。閉ざされた墓道の中は寒いくらいだった。
懐中電灯しか明かりのない、暗い階段を下りていくと、記憶にあるよりもずっと狭い、塼を積み上げた壁面が現れた。
実はこの西晋墓は10年前に見ている。その時の記憶よりも色褪せた画像磚が積み重なっていて、たった10年でこんなに風化してしまったのが残念。
若くて目のいい史さんは、私の目には判別できない画像を上から順に説明してくれた。我々はその痕跡を見つめたが、よくは見えなかった。
その中に四神があった。上から4段目は中央に朱雀が1対、その外側に玄武が1対。7段目には外側に青龍と白虎が1頭ずつという配置になっている(下図の赤い部分)。
画像塼なので、ほぼ同じ大きさの塼(焼成レンガ)の一つに一つの絵がある。
後日石室書軒で購入した『敦煌仏爺廟湾西晋画像磚墓』では、塼は土偏ではなく石偏の磚になっていた。「塼」こそ「せん」の正しい漢字だと思って使ってきたのに。

朱雀
斜め前を向いて羽根と尾をあげた力強い姿で表されている。足を広げているのは前へ進んでいる姿だろうか。
玄武
何故か玄武は亀に蛇が巻きついた姿で表される。巻きついて亀と顔を向かい合わせている蛇の表現は面白い。
右前足をあげて左後ろ足を後方に残すのは下の青龍と同じだ。
青龍
龍はいつ頃翼をつけたのだろう。
白虎
白虎は胴の長い青龍と見分けがつかないものもあるが、この白虎は虎の特徴をよく表している。こちらも有翼。
四神はいつ頃から表されるようになったのだろう。

※参考文献
「敦煌仏爺廟湾西晋画像磚墓」甘粛省文物考古研究所 1998年 文物出版社

2012/07/31

四神8 東晋時代、江南の画像磚



東晋、太和年間後半(386-394年)に、雲南省の霍承嗣墓に四神図があったが、どちらかといえば稚拙な図だった。
ところが、江蘇省の墓出土の画像磚の四神図は、とても同じ時代のものとは思えない、完成度の高いものだった。 

『図説中国文明史5』は、呉および西晋による江南の開発を経て、北方の貴族の多くが、こぞって南に移住した。江南に移住した名門貴族は、北方にいたときの生活習俗をそのまま踏襲した。東晋の時代、江南の墓によく見られる四神の画像磚は、漢王朝の時代から流行していたのである。四神の画像磚は、東西南北の守護神の象徴であるという。

四神画像磚はすべて、
東晋時代(317-420年) 江蘇鎮江隆安二年墓出土  高18幅31.5厚4.5鎮江市博物館蔵

青龍
朱雀や玄武と同じ区画のため、長い身体を無理なく丸め、4本の脚を四隅に広げて画面いっぱいに表されている。前足の片方は、高く上げるのは、霍承嗣墓の青龍と共通する特徴である。
翼はない。
両端の文様帯は不明。
白虎
青龍とは反対向きという程度で、身体の表現はほぼ同じ。虎の縞もない。
異なっている点は、首を伸ばして頭を後足近くまで上げていること、その頭の形くらいだ。
朱雀
頭の上に何かをのせている。片足を一歩踏みだし、飾り羽根が3本細いながら曲線を描いて表される。その割に羽根が小さくて、飛べそうにない。
両端の文様帯は渦巻いた曲線文。
玄武
頭の極端に小さな亀に、同じく極端に小さな頭の蛇が巻きついて、甲羅の上でにらみ合っている。その巻きついた胴だけが異様に太い。
両側の文字は読めそうで読めない。
画像磚は規格化された大きさで、幅31.5㎝というのは大きなものではない。高句麗の古墳四壁に描かれた四神からみると、かなり小さなものだ。
四神の画像磚は江南の墓にはよく見られるものということなので、型作りの規格品だったかも。

つづく

※参考文献
「図説中国文明史5 魏晋南北朝 融合する文明」 劉煒編 2005年 創元社

2012/07/27

四神7 東晋時代雲南省の墓室画



『魏晋南北朝壁画墓の世界』は、西暦317年司馬氏の西晋が匈奴族の劉淵に滅ぼされ、戦乱を避けて逃げまわる華北の農民は次々と故郷を離れて江南へと移住し、民族大移動の時代が始まった。西晋の宗室瑯琊王司馬睿が、江南の建業(南京、後に建康と呼ぶ)で、南渡した北方貴族と江南土着豪族の支持を得て王朝を再建した。史上、この王朝は東晋と呼ばれる。420年、北伐戦争で悲願の帝都洛陽・長安の奪還を実現して名声を博した将軍劉裕に脅迫され、司馬氏は政権を禅譲し、宋が建てられたという。
そのような南朝の約1世紀にわたる東晋という時代にも、墓室に四神が描かれたものもある。

雲南省昭通県霍承嗣墓 東晋太元年間後半(太元11-19年、386-394)
雲南省昭通県は東晋の西の国境に接する地域であり、東晋王朝が地元の豪族霍氏に行政と軍事の運営を任せていた。霍承嗣墓は、江南地域で数の少ない壁画墓として注目されている。
内部施設は羨道と方形墓室から構成されており、羨道の底部が傾斜し、両脇に小龕を設けている。墓室の天井には、雲気文の下に四神などが配されているという。

青龍(西壁)
西には仙草を持つ玉女と青龍を中心に鹿・鳥・人面獣・三足鳥・楼閣を配しており、玉女に「玉女以草授龍」、青龍に「右青龍」、楼閣に「龍楼」という墨書傍題が見られるという。
青龍は通常は東側に表されるが、霍承嗣墓では西壁に描かれている。雲南省では四神と四方を結びつけるということがまだ定着していなかったのだろう。
龍は前足の片方を上げているのは、契丹の木彫青龍(10世紀)や、五代ホータンの青龍・白虎へと繋がる特徴なのだろろうか。
白虎(東壁)
東に白虎の上・下・前に鳥、後ろに鹿と楼閣および闕を描き、白虎に「左帛虎(さびゃこ)」鹿に「番鹿」などの題名がついているという。
青龍と同様に翼はないが、縞で虎であることがわかる。
楼閣の後方にいる人物が登場している。虎の前方の黒い球体は何だろう。
朱雀(南壁)
南には、朱雀・兔・蓮華を描き、「朱雀」という傍題があるという。
蓮華は、円に3本の直線で6分割した文様をさしているようだが、他の図からも仏教の信仰とは関係のないもののようだ。
玄武(北壁)
北では玄武・蓮華の間に小さな騎馬狩猟の人物も描き出している。
霍承嗣の肖像が大きく表現され、両脇に節・傘・扇・兵器など儀仗の調度品および18人の侍従が配されている。肖像の傍に墨書の墓誌銘が見える。
墓誌銘によって、被葬者の官位・爵位が安岳3号墓の冬寿とあまり変わらず、墓の年代は東晋太元年間後半(太元11-19年、386-394)で、冬寿墓よりやや年代が新しいことがわかるという。
北朝の北魏-北斉時代と同じく、四神は様々なものと一緒に描かれている。
伏斗式天井の四面に、四神に護られ、様々な動物や蓮華に囲まれて、楼閣に暮らす安穏な死後の生活が表されている。
雲気文のような文様帯の下には墓主の生前の生活、特に官位・爵位に応じた場面が描かれる。玄武の下には墓主が大きく、正面を向いて表されるが、文中に登場した冬寿よりも簡素な服装のようだ。

冬壽墓は安岳3号墳という高句麗古墳群の中にあり、冬壽が描かれている。

墓主政治図 黄海南道安岳郡五菊里、安岳3号墳前室西側室の西壁 4世紀後半
『世界遺産高句麗壁画古墳展図録』は、西側室左側の人物の頭上には、この墓の主人公の墓誌が768字にわたり墨で書かれる。これによれば、357年に没した中国遼寧省蓋平県出身の冬壽(とうじゅ)の墓であることがわかるという。
『世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗』は、高句麗の王だけが用いた「白羅冠」を被り、五色に輝く華麗な絹織物を身にまとった墓主が、文武の官人たちを従えて政治を執り行う場面が描かれている。
屋蓋上に三つの蓮華飾りを置き、幕を朱紐で絞り上げた帳房内の牀座に、像高96㎝におよぶ堂々とした体軀を正面に向けて坐しているという。
墓主の顔が印象的なため、安岳3号墳は記憶していた。
霍承嗣墓の図版が白黒なので、すべてが簡素に感じることもあって、冬壽は霍承嗣よりも裕福な生活をしていたような印象を受ける。
肩書きは「口口使持節都督諸軍事、平東将軍護撫夷校尉、楽浪相・昌黎・玄菟・帯方太守・都郷侯」。
冬寿は、『資治通鑑』晋紀咸康2年(336)正月乙未年条に記されている、慕容鮮卑の前燕の内乱により高句麗に亡命した、慕容皝の司馬の佟寿である。高句麗へ亡命してから中国の正史から名前が消えてしまったが、墨書墓誌に書かれた肩書きは東晋王朝からもらったものと見られる
という。

霍承嗣も冬壽も東晋に仕えた人物だった。
蛇足だが、霍承嗣と同様に冬壽も牀座の上に坐っている。胡座をかいているような膝の張り方だ。
何時の頃からか中国人は、土足のまま部屋に入り、椅子に坐り、ベッドで眠るようになったが、元々はその周辺の民族のように、靴を脱いであがり、床に坐っていたのだと、何かで読んだことがある。
それについては一度調べてみようと思いながら忘れてしまっていた。東晋の時代には床に坐っていたことが確かめられた。
それで、何故中国人は土足で部屋に入り、椅子に坐るようになったかだが、その本は、東西交流の結果だという。ローマなどの習慣が入ってきたのだと。
冬壽墓には夫人像も描かれ、夫人の牀座の幕や、夫人の着衣そのものにも金色に輝く歩揺がちりばめられていて、裕福というよりも、豪奢な生活をしていたようだ。それについてはこちら
しかし、四神図は冬壽墓には描かれていない。
つづく

※参考文献
「魏晋南北朝壁画墓の世界 絵に描かれた群雄割拠と民族移動の時代」 蘇哲 2007年 白帝社アジア史選書008
「世界遺産高句麗壁画古墳展図録」 2005年 社団法人時事通信社
「世界美術大全集東洋編10 高句麗・百済・新羅・高麗」 1998年 小学館

2012/07/24

四神6 唐の恵陵の四神図は離ればなれ



唐時代の四神のうち、青龍と白虎が墓道の入口両側の壁面に描かれていたので、忘れへんうちに補足しておこう。
『大唐皇帝陵展図録』の説明を掻い摘むと、唐の太宗は父李淵のために、かつて漢王朝を打ち立てた漢高祖劉邦の陵にならい、方形の墳丘をもつ「献陵」を造営した。しかし、自分と皇后の合葬陵は九嵕山に築いた、というより、山全体を陵とした。
「山に因って陵を為す」という山陵制度の理念は、それ以降、唐の歴代皇帝に採用されたという。
しかし、公主墓や追諡皇帝陵などは方形の墳丘墓だったらしい。
譲皇帝李憲は、第5代睿宗の長子。唐隆元年(710)、李隆基によるクーデターが成功し、50歳になる睿宗が26年ぶりに皇帝位に返り咲くと、李憲は自ら皇太子の位を辞退し、果敢に兵を挙げて政権の奪還に功のあった弟隆基に譲った。
開元29年(741)、李憲が63歳で亡くなると、玄宗は「譲皇帝」の諡号を贈り、その葬儀を皇帝に準じて取り扱わせ、妃元氏と新たに造営された恵陵に合葬された。
恵陵は陝西省蒲城県の北西、睿宗橋陵の陪葬墓区の一角にある。陵園は東西217.5m、南北252.5mの方形で、四隅に角闕があり、南に門を開く。封土は陵園内の中央やや北寄りにあって、一辺60m、高さ14mの方形である。
南門の南側には神道に沿って門闕、石刻列がある。石刻は大半が失われているが、記録によればかつては華表1対、翼馬1対、儀仗馬5対、石人10対、獅子1対が存在した。
こうした陵園の構造・規模、石刻列の構成などは、いずれも墳丘形式の皇帝陵に準じており、「皇帝の礼」による造営を裏付けるものであるという。弟の隆基が後の玄宗皇帝。
東西の壁に青龍と白虎、さらにそれぞれの入り口側に飛人図、墓室側に出行儀仗図が左右対称になるように配されているという。
青龍と白虎は魔除けのために入口付近に描かれたのだろうか、それとも儀仗隊を先導しているのだろうか。
青龍図 長さ700㎝幅330㎝ 龍体長590㎝ 陝西省考古研究院蔵
恵陵の墓道には、壁面に漆喰を塗りその上に壁画が描かれている。
青龍は、胴部からS字形に胸、頸を立ち上げていて、右向きの頭部の額の上は欠けているが、口を大きく開けた上顎に黒い両目が見える。口からは赤い舌を出し、瑞気を吐く表現である。頸には、珠文で縁取った帯状の飾りを巻き、その後ろに火焔状のものが付くという。
模写図の方が分かり易い。
恵陵の青龍と白虎は、周囲に雲文と飛人を配して天空を飛翔する姿に描かれているという。
今までに見てきた青龍は地面に接しているようだったが、この青龍は確かに宙を駆ける躍動感が感じられる。
飛人がどこに描かれているのかわからないが、北魏・北斉の神人の影響がまだ残っているようだ。
白虎 長さ700㎝幅330㎝ 虎体長600㎝ 陝西省考古研究院蔵
白虎の体長は6m、長い胴の前に胸から頸をS字状に立ち上げて、それに続く頭部は目を見開き、大きく開けた口から赤い舌を出し、瑞気を吐いているのが見える。頸の後ろから胴の背面にかけて火焔状のたてがみが連なり、前肢の付け根に赤い色の双翅があるのは青龍と同じで、聖獣らしさを特徴づけているという。
白虎の方は背中が真っ直ぐに描かれているせいか、空を飛ぶような軽やかさがない。
前肢の付け根にあるヒレのようなものは双翅というのか。前漢後期(前1世紀)の辟邪にもついている。
墓道両壁の前半部には巨大な青龍・白虎、墓室南北壁には朱雀・玄武の四神を描いているという。
四神は墓室や棺の四面に描かれるのではなく、離れて描かれるということもあったようだ。これが盛唐期の四神の特徴だろうか。
墓室から出てきて儀仗隊を先導しているのかな。
つづく

※参考文献
平城遷都1300年記念春季特別展 大唐皇帝陵展図録」 2010年 橿原考古学研究所附属博物館