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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2026/09/08

南禅寺界隈 水路閣


南禅寺界隈 地図 Google Earth より
ⓐねじりまんぽ ⓑ何有荘 ⓒ對龍山荘 ⓓ金地院 ⓔ南禅寺中門 ⓕ南禅寺山門 ⓖ天授庵 ⓗ水路閣 ⓘ水路 ⓙⓚ蹴上発電所取水口 ⓛ蹴上放水所 ⓜ蹴上インクライン ⓝ蹴上船溜 ⓞ 蹴上義経地蔵 ⓟびわ湖疏水船 蹴上乗下船場 


その後ⓗ水路閣へ。
説明パネルは、史跡琵琶湖疏水のうち「水路閣」。疏水事業は、京都府知事北垣国道の発意により、田辺朔郎工学博士を工事担当者として、明治18年に起工され、同23年に竣工した。
水路閣は、この疏水事業の一環として施工された水路橋で、延長93.17m、幅4. 06m、水路幅2.42m、煉瓦造、アーチ構造の優れたデザインを持ち、京都を代表する景観の一つとなっているという。


説明パネルは、西欧技術が導入されて間もない当時、日本人のみの手で設計、施工されたもので、土木技術史上、極めて貴重なものという。
外国人技師の協力で造られたものと思っていた。

数十年前に見た頃よりもカビなどで赤煉瓦がくすんでしまったという印象を受けた。


誰もが写したがるアーチの重なりだが、やや中心線からずれてしまった。


そして階段を上がって振り返る。

そして左側に行くとⓘ水路に出た。 
Google Map で水路閣からⓙ蹴上発電所取水口まで細い線が見えたので、通路があるだろうと予想して歩くことにしていた。

水路は地形に従って左カーブするので、先がどれくらいあるのかが全くわからない。


木々の間から見えた建物は、何有荘(旧稲畑勝太郎邸)だろうか。



ⓙⓚ蹴上発電所取水口 

本願寺水道の水源地
パネルは、「本願寺水道」とは、明治時代に敷設された東本願寺独自の防火用水道です。琵琶湖疏水の水を、埋設された約4.6㎞のベルギー製の鋳鉄管を通して、東本願寺まで運んでいます。水源地と東本願寺の高低差は約48mあり、防火に必要な自然水圧で水を噴き上げるというものです。
これは江戸時代に四度の焼失の歴史が契機になったものであり、現代の社会事情では到底なし得ない斬新で大がかりな近代の防災文化遺産ですという。
ここから東本願寺まで水を通していたとは。




何かの建物が建設中で、

その反対側


その先は急な下り坂になっていて、



を見ると坂道を下る人

そして自分の下側

坂を下った先にはこんな装置が。

つづいてⓛ蹴上放水所

これはものすごく長かった。


ⓜ蹴上インクライン
ず~っと歩いて行きたかったが、ⓐねじりまんぽでは下りられないので止めた。 
説明パネルは、インクラインは、高低差のある蹴上の舟だまりと南禅寺の舟だまりを結ぶ傾斜地に上下2本のレールを敷き、艇架台により舟を運ぶ施設で、当時の舟運による交通事情がよくうかがえるという。


背後にはⓝ蹴上船溜 


ⓞ 蹴上義経地蔵
立て札は、平安時代末期、義経(遮那王・牛若丸)は鞍馬を離れ、平家打倒を胸に秘め金売吉次とともに奥州へ向かう途中、日ノ岡崎に差し掛かりました。
行く手から馬に乗った平家の関原与一ら九人の一団とすれ違った時、一団の人が誤って泥水を蹴り上げ義経の衣服を汚してしまいました。謝ることなく、通り過ぎた一団の無礼に怒った義経は、九人を切り殺したと伝えられます(異本義経記より)。
切り殺した後、我にかえった義経が自分の行為を悔やみ、村人に菩提を弔うよう頼んで旅を続けたとも伝えられます。九体の内、一体がここに祀られています。
「蹴上」の地名は、この馬の蹴り上げか、力を入れてり上げる「蹴り上げ」が由来と伝えられていますという。


地蔵を見た後、歩いて行くと、ⓝ蹴上船溜の反対側が見えて、


その先でⓟびわ湖疏水船の蹴上乗下船場が見えた。すぐ先にトンネルが見え、びわ湖疎水船のホームページで、隣の洋風建築が旧御所水道ポンプ室であること、防火用水として御所に水を送る専用の水道が「御所水道」。 ポンプ室は、御所で一番高い紫宸殿の屋根より高く放水できるよう、背後の山上の貯水池に水を圧送する施設だったこと、設計は京都国立博物館等で知られる建築家・片山東熊で、宮内庁が建設したものであることを知った。

びわ湖乗船場から蹴上下船場まで2時間10分かかり、要予約とのこと。
いつか乗ってみたい。



      南禅寺界隈 天授庵←


関連記事

参考にしたもの
びわ湖疎水船のホームページ
このページは、びわ湖乗船場から船がいろんなところを通っていくのが見ることができて、結構楽しめます。


2026/09/01

南禅寺界隈 天授庵


ⓓ金地院の次はⓖ天授庵へ。

南禅寺界隈 地図 Google Earth より
ⓐねじりまんぽ ⓑ何有荘 ⓒ對龍山荘 ⓓ金地院 ⓔ南禅寺中門 ⓕ南禅寺山門 ⓖ天授庵 ⓗ水路閣 ⓘ水路 ⓙⓚ蹴上発電所取水口 ⓛ蹴上放水所 ⓜ蹴上インクライン ⓝ蹴上船溜 ⓞ 蹴上義経地蔵 ⓟびわ湖疏水船 蹴上乗下船場 


❹中門より外を眺める。
人力車には気が付いていなかった。

東山に向かって上り坂に❻天授庵がある。

❺南禅寺山門


❻天授庵の通用門


天授庵の栞は、天授庵は南禅寺の開山第一世大明国師無関普門禅師を奉祀する南禅寺の開山塔であり、山内で最も由緒のある寺院である。 凡そ700年前の文永元年(1264)亀山上皇は当地の風光を愛されて離宮を営まれ、禅林寺殿と号された。たまたま正応年間(1288頃)妖怪の出現に悩まされ給ふたが、これを一言の読経を用ふるでなく、唯だ規矩整然と坐禅するのみで静められた当時の東福寺第三世大明国師の徳に深く帰依されて自ら弟子の礼をとり法皇となられ、正応4年(1291)離宮を施捨して禅寺とされ、大明国師を奉じて開山となし給ふた。これが南禅寺の開創であるという。

門を入った所にある地図
❶通用門 ❷庫裡 ❸方丈(本堂) ❹正門 ❺東庭 ❻南庭 ❼澄心庭 ❽普門殿 ➒大書院 ➓小書院 ⓫求巳庭 ⓬茶室松関亭


❷庫裡
切妻屋根で何階建てかに見える梁と柄の重なりの禅宗寺院らしい建物。厨房であったり、僧の宿坊だったりするみたい。静かな前庭。
栞は、文安4年4月22日(1447)の南禅寺大火に類焼し、幾ばくもなく再び応仁の兵火に見舞はれた後は復興の事もなく荒廃の侭130年余を経過した。慶長年間に至り世情の安定と共に伽藍の復興が盛んとなるに及び一山の僧達は協議の結果開山塔天授庵の復興を当時五山の間に屈指の名僧と言はれた当時の南禅寺住持たる玄圃霊三和尚に一任するに至った。
霊三はその弟子雲岳霊圭をして天授庵主とし、知友であった細川幽斎に天授庵の復興を懇請したのであるという。

拝観しようと入ったら立ち入り禁止の結界が。でも建物の中に静謐な空気が満ちている。


邪心に満ちた私はガラス戸越しの庭園を撮影してしまう。これは
➒大書院の南にある庭やね。


❸方丈の北側へ。ここも結界だらけ。

北側の庭には、正方形の石を斜めに並べた石畳と、縁側の外にも斜め格子に敷き詰められた塼。

反対側から
栂尾の高山寺にもある斜めに置いた飛び石のこの意匠には、石畳の両側に石の枠はない。帰りはこの石畳を楽しく踏み踏み。


❹正門
通用門よりも小さな門は新緑のもみじに隠れている。

小さな松の周りに重圏文の浅い
砂紋。南禅寺ではこんな風に箒目を浅くつくるように統一されているのかも。というよりも、昔はこんなあっさりしたものだったような。


❺方丈東庭へ。この縁側には結界がなかった。ということは上がって庭を見ても良かったのかな。
栞は、東庭は枯山水で正門より本堂に至る幾何学的な石畳を軸として配するに数箇の石と白沙を以てし、これに緑苔を添えたものである。二条の石畳の中で正門より本堂に至るものは恐らく暦応4年当庵創建当初のものと思はれるが一方の短いものは幽斎の廟所に向ふもので、慶長十五年幽斎歿後に設けられたものであるという。

正門から東庭へ続く石畳は途中で直角に曲がって終わる。

方丈の庭は幅が広い。小堀遠州の作庭と言われているらしいが、栞にはその名はない。

新緑に目が向きがちだが、苔も美しい。小さなキノコのような胞子体がびっしり。



南端で通路は二つに分かれる。左手を行けば墓所で、順路には右手へ。


この道もまた違ったデザインで、


➒大書院前の庭に繋がっていた。この庭の緑が庫裡の入口から見えていたのだろう。


建物に近寄らず、すぐに❻南庭の池へ。
栞は、書院南庭は庭園の根本的構想或は設計とも言ふべき地割の上から見ると明らかに鎌倉末期から南北朝時代の特色を備えて居る。特に中央の出島にそれが顕著である。即ち書院側より長大な出島を作り、向い側からやや小さい出島を配し、之等をさながら巴形に組み合はせる事によって東西大小の二池を区切って居る処、又大小の出島を作り池庭の汀の線に多くの変化を見せて居る事、或は東池を西池より小にしたれになだらかな斜面の堤を設けるなど、東池瀧組俯近の石組に残る手法と共に暦応四年本庵創建当時に作庭されたものであることを物語って居るという。

❼澄心庭
池は睡蓮の葉に覆われていると言っても良いくらい。

白い睡蓮の蕾。一つだけ開きかけている。

満開のものも。


赤い矢印に従って歩いていると、こんな灯籠が。

池の中に飛び石があったので喜んで渡らせて戴く。竹の手すりがついているので安心して渡れました。

戻る時に対岸から撮影した飛び石と手すり 

飛び石に足を置く前に池を写しておく。

近くのほぼ満開の睡蓮。
黄色い雄蕊は長さがばらばら

どちらかというと花は満開のものよりも開きかけのものが好きなのだが、それは母の影響なのかも。
葉はくるくる巻いた状態で水面に出て、だんだん開いて水面に浮かぶことは分かったけれど、茎が長過ぎたら水中で曲がるのだろうか。


池を過ぎると石が無造作に積まれて苔生していた。何かに使うためだった石かな、池を掘っていて出てきた石かも。

栞は、西池に蓬莱島を設け石橋を作るなど明治初年に著しい改造を行った為一見すると明治調が強く感じられるのが惜まれるという。
こんな橋は明治以降のものだった。

戻る時に対岸から撮影。 気付かないうちに通路は高くなっていたみたい。


水は意外と透明

細い枝なのに大きな梅の実。こんなのを撓わというのかと検索してみると、実りの重みで枝が下がっている様子を意味するようで、この木は細くても撓っていない。


花菖蒲?カキツバタ?アヤメ?


風変わりな灯籠をもう一つ発見。

枯山水の庭の裏側に回れなかったので、方丈の建物を撮影できなかった。柿葺きの屋根が見たかった。


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参考にしたもの
天授庵の栞