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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2020/10/30

パサルガダエの遺構に新説


イランを旅して記事にまとめた後に、『ペルシア帝国』という本が出たので読んでみると、アケメネス朝ペルシアの遺跡の一つパサルガダエの遺構が、これまで比定されていたものとは異なることが判明した。
Google Earthで見えたパサルガダエとそれぞれの遺構

⑧キュロス王(クールシュ2世)の墓
キュロス2世の墓平面図

『ペルシア帝国』は、紀元前530年、嫡子カンブージャ2世をバビロン王に封じた後、クールシュ2世はエジプト攻略を後回しにして、中央アジア遠征に取り組んだ。
しかし、オリエント史上初となる壮図を企てたクールシュ2世は、逆にあらん限りの不幸を招き寄せ、恐ろしい代価を支払わねばならなかった。すなわち、アム・ダリヤ川下流域のホラズムを進軍中の12月4日、中央アジアのアーリア系遊牧民マッサゲタイの奇襲を受けて、あっけない戦死を遂げたのである。クールシュ2世の遺体は、故郷ペルシア州に運ばれ、パサルガダエに造営された巨大な石棺のなかに収められたという。
カンブージャ2世はカンビュセス2世
北側より撮影したキュロス2世の墓

キュロス2世墓の他の画像はこちら
南側より撮影したキュロス王の墓

②ソロモンの牢獄(ゼンダーネ・ソレイマーン)と呼ばれている遺構
ゼンダーネ・ソレイマーンの平面図

同書は、クールシュ2世の追憶は、彼の死後わずか17年後にそれを簒奪したハカーマニシュ朝の大王たちによって聖化された。前任の大王が死亡した際には、新大王は前大王の葬儀を執行した後、パサルガダエでクールシュ2世が即位前に着用していた質素な衣装を身に付ける儀式をおこなった。ながらく用途不明だったパサルガダエのゼンダーネ・ソレイマーン遺跡の不思議な塔は、現在ではクールシュ2世の衣装の倉庫と解釈されており、その塔の屋上で、クールシュ2世の衣装を着用した新大王のお披露目式がおこなわれたと推定されているという。
キュロス2世の衣装だけのために、こんな石造りの倉庫を造ったとは。
西側より撮影したゼンダーネ・ソレイマーン

また同書は、クールシュ2世の記憶は以後の王朝の正統性の保証となった。クールシュ2世が造営したパサルガダエは、後にダーラヤワウシュ1世が造営したペルセポリスによって完全に凌駕されてしまったものの、大王の即位式の際だけは息を吹き返したのであるという。
クールシュ2世はキュロス2世、ダーラヤワウシュ1世はダリウス1世
ゼンダーネ・ソレイマーンの他の画像はこちら
北東から撮影したゼンダーネ・ソレイマーン キュロス1世の墓は見えないくらい遠い

ダリウス1世は一般に王位簒奪者とされていて、『ペルシア帝国』には「ダーラヤワウシュ1世によるハカーマニシュ王家の系図」が記載されている。
また、同書は、注目すべきは、「ペルシアの王」との称号である。クールシュ2世までは「アンシャン王」を名乗っていた点を踏まえると、この頃に地名交換がおこり、「アンシャン」は「ペルシア」と呼ばれるようになったという。

①タッレ・タフト
同書は、カンブージャ2世は、3年に及ぶエジプト在陣から、バビロンあるいはアンシャンへ帰還する途中、紀元前522年6月1日以降にシリアで急逝した。彼の近衛兵だったダーラヤワウシュ1世が造営したバガスターナ碑文(近世ペルシア語でビーソトゥーン碑文)には、「彼は自分自身の死を死んだ」と記されているものの、これが正確に何を意味するのかは不明であるという。
カンブージャ2世の墓所は長らく不明だったが、2006年になってようやく発見された。パサルガダエで農作業に従事していた農民が、パサルガダエ中心部にあるタッレ・タフトの城壁近くで偶然石板を発見し、これがカンブージャ2世の墓所への門だと判明したのである。シリアで非業の最期を遂げたカンブージャ2世は、最終的には、チシュピシュ王家の故地パサルガダエで眠ることができたようであるという。
この大きな石造物が門だったとすると、墓はもっと巨大なものだったのだろうか。
タッレ・タフトと呼ばれているカンブージャ2世の墓所への門

切石には表面に凹凸がある。日本の石垣では、金場切り残し積みと呼ばれている。
金場切り残し積みの城壁

墓所への門に上がると柱列の跡。
柱頭か柱礎、或いは円柱が土に埋まっている

門の上からゼンダーネ・ソレイマーン(クールシュ2世の衣装の倉庫)が見下ろせるほどの距離。


関連項目

参考文献
「ペルシア帝国」 青木健 2020年 講談社現代新書2582

2018/03/23

アレクサンドロスの向かった道2 ペルセポリスから中央アジア


『図説アレクサンドロス大王』は、ペルセポリスから北東へ直線距離で43㎞の地点に、パサルガダイの都がある。アレクサンドロスはここも接収した。慣例に従って女達一人ひとりに金貨を与えた。またキュロスの墓に大きな感銘を受けた。6年後にインドから帰還して再びここを通過した時、キュロスの墓が荒らされているのを発見し、部下に修理を命じているという。
パサルガダエは現在現地ではパサルガードと呼ばれていて、今回のイラン旅行でも見学した。
キュロスの墓についてはこちら

『図説アレクサンドロス大王』は、エクバタナまであと3日の地点(現アラク)で、かつての王アルタクセルクセス3世の息子ビスタネスと出会った。彼によれば、ダレイオスは騎兵3000と歩兵6000を率いて4日前に逃走した。
アラクを出発して11日目にラガイ(現シャフレ・レイ)に着いた。アラクからラガイまで約300㎞つる途中には「塩の砂漠」の西端にあたる荒れ地があり、細く流れる水は雨季でも塩分が多いため飲み水には適さない。この時ダレイオスは、ラガイの先の南カスピア門と呼ばれる隘路を通り過ぎていたという。
アルタクセルクセス3世(在位前359-38年)はペルセポリスのラフマット山中腹にアケメネス朝式の摩崖墓を築き、そこに埋葬されている。

同書は、大王はラガイに5日間留まり、軍勢を休ませた。それから追撃を再開し、東へ向かってパルティア地方へ入った。1日目は現アイヴァネケフの川のそばに宿営し、2日目に南カスピア門を通過した。2日目は現アラダンに宿営した。
そこへダレイオス陣営から離脱したペルシア人貴族2人が出頭してきた。バクトリア総督ベッソスや騎兵指揮官のナバルザネスといった高官が、すでにダレイオスの身柄を拘束したという。まぎれもないクーデターだ。アレクサンドロスは直ちに出発した。途中で休んだ地点は現アブドルアッバードと思われる。次の明け方にはダレイオスが拘束されたという宿営地(現ラスジェルド)に着いた。
ここで新しい情報を手に入れた。ダレイオスは箱馬車で護送されている。ベッソスはダレイオスを黄金の鎖で縛り、外から見えないよう馬車を獣皮で覆っていた。
その夜から翌日の昼まで駆け抜けてとある村にやって来た。そこはダレイオス一行が前日に宿営した場所だという。現セムナンあたりと思われる。
出発したのは午後も遅い時間だった。夜明けごろ、現ダムガンあたりで遂に追いついた。ベッソスらは何とかダレイオスを連行しようとした。しかし相手がすぐ後ろに迫ったため、仲間の二人がダレイオスに剣で切りつけ置き去りにして逃げ去った。アレクサンドロスが到着した時、ダレイオスはすでに息絶えていた。前330年7月、享年約50歳だった。大王は遺体をマントで覆い、ペルセポリスへ運んで埋葬するように命じた。
ダムガンはダレイオス死亡地点の第一候補地、シャールードは第二候補地という。
同書の「ダレイオス3世追撃行の調査」という図を参考に、Google Earthでそれぞれの地点を調べてみた。

『図説アレクサンドロス大王』は、ダレイオス追撃行を終えたアレクサンドロスは、ヘカトンピュロスという町に戻って後続部隊の到着を待ち、軍を再結集した。ヘカトンピュロスは「百の門」という意味で、カスピ海沿岸地方と中央アジアを結ぶ交通の要衝である。東寺の名称は不明だが、のちにセレウコス1世がこれを拡張し、ヘカトンピュロスと改名した。
クルティウスの大王伝によれば、次のように兵士達に語った。遠征はまだ終わっていない。ペルシア人はまだ我々の支配に馴染んでおらず、王に背いたベッソスはバクトリアの地から我々を脅かしている。どんな小さな火種でも、残しては大火になろう。反逆者を倒せば最高の栄誉が得られるのだ。
兵士達は熱烈な歓呼の声で応え、どこへでも望みのところへ連れて行ってくれと叫んだ。アレクサンドロスの目ははるか東へ向けられていた。ここからはいかなる大義名分にもとらわれない彼自身の遠征が始まるのだ。
ヘカトンピュロスを発ったアレクサンドロスは、エルブルズ山脈を越えてカスピ海南岸に至り、属州ヒュルカニアを平定した。そこでベッソスがバクトリアで王位を名のっているとの知らせが入った。アレクサンドロスもこれに対抗してペルシア風の衣装や宮廷儀礼を採用し、旧王族を側近に取り立てる。今やアケメネス朝の後継者としての正統性を争う立場になったのである。
遠征軍は酷寒のヒンドゥークシュ山脈に入り、翌年春にはバクトリアへ達し、炎熱の砂漠を越えてオクソス川(現アムダリア川)に到達した。ベッソスは仲間の裏切りにあって大王に引き渡された。アレクサンドロスは彼を王に対する反逆罪に問い、エクバタナ送って処刑させたという。
メルヴのエルク・カラは広大な遺跡をバスで走り抜けて辿り着いた、丘のような遺構だった。
トルクメニスタンの現地のガイドさんは、アケメネス朝期に栄えていたマルグッシュが、マルガブ(Murgab)川の流れが変わって衰退したため、場所を変えて建設されたのがメルヴ。メルヴのエルク・カラにアケメネス朝の都城が造られた。
周りに川があるという地の利を活かし、防衛のため高い城壁を築いた。当時は登り口の近くに橋があったらしい。
前4世紀末にアレクサンドロスが遠征してアケメネス朝が滅ぶ。アレクサンドロスはエルク・カラにアレクサンドリア・マルギアナという町を築いたと言っていたが、この文によるとメルヴには行っていない。
『アレクサンドロス大王と東西文明の交流展図録』の「アレクサンドロス大王の東征ルートとシルクロード」の地図では、中央アジアではある地点からシルクロードと東征ルートが重なっているが、このシルクロードはアレクサンドロス大王以前からあった交易路を指すのだろう。当時あった道路を通るのは、目的地への最短で楽なルートだったはず。
やはりこの地図でもメルヴはアレクサンドロスのルートから外れている。

南ウズベキスタン、テルメズ郊外のオクサス河畔に位置するカンプル・テパ遺跡もアレクサンドロスと関係があるようだ。
『偉大なるシルクロードの遺産展図録』は、15世紀のペルシャの著述家ハーフィズ・アブルーは、アムダリヤの渡し場のリストの中に、タルミズ(テルメズ)より西方におけるさらにもう一つの渡し場を挙げた。
それには次のように述べられている『<ブルダグイ>はテルメズに近いジェイフン河岸の土地である。そこはテルメズよりもずっと以前に存在し、アレクサンドロス大王によって築かれたと言われている。<ブルダグイ>とはアレクサンドロス大王の時代にあたえられたギリシャ名称であり、<客をもてなす家>という意味であった。』という。

Google Earthで見てみると、アレクサンドロスが名付けたオクサス川(アムダリヤ)の港町ブルダグイからマラカンダ(サマルカンドのアフラシアブの丘にあった町)へ、次いでイスタラフシャンでロクサーヌと結婚してホジャンド(アレクサンドリア・エスハータ)へと進軍していった道のりが概観できる。

後のアラブ軍はマラカンダからザラフシャン川に沿ってペンジケントを破壊して東進したが、アレクサンドロスは山岳地帯を避けてマラカンダへと向かっことになる。
サマルカンドのアフラシアブの丘は、モンゴルの破壊で廃墟と化した町の遺跡だが、それ以前にも度々破壊と再建を繰り返してきた。
『中央アジアの傑作サマルカンド』は、紀元前4世紀後半、アジア大陸の西側からアレクサンダー大王を先頭にギリシア・マケドニア軍が侵入してくる。それにより、アケメネス朝ペルシア大国は粉砕されてしまう。
アレキサンダー大王は一時的にマラカンダに野営し、懲罰などは自身で直接指導していた。周知のように、彼は街の近くの帝国のバシスタ自然公園で、ライオン狩りを楽しんでいた。
戦友であり、ソグディアナの支配者に任命されたアレキサンダーの乳兄弟のクリットは、大王に「この国は、以前にも反乱を起こした。そして、征服されたことはないし、これからも征服されることはないはずだ」と述べた。その後、マラカンダの宴会で、アレキサンダー大王は怒りクリットを殺す。そして、反乱が鎮圧され、スピタメンも戦死した後、アレキサンダー大王はマラカンダの全てを滅ぼしてしまった。
この当時、12万人のソグド人が死亡し、繁栄していたソグディアナは破壊された。しかし、サラブキー時代にはこの地域は復興され、ヘレニズム文化の東の前進的な中心地となったという。当時はマラカンダと呼ばれていたのだ。

『図説アレクサンドロス大王』は、このあとマケドニア軍は、当時アジアの果てと見なされていたヤクサルテス川(現シルダリア川)に至り、アレクサンドロスはその河畔に「最果てのアレクサンドリア」を建てた。ところがペルシア人貴族スピタメネスの指導下にバクトリア・ソグディアナ地方の住民が一斉に蜂起し、大王は丸2年に及ぶ困難な平定戦を強いられるという。
タジキスタンのホジャンド(ソ連時代はコージェント)こそが、アレクサンドロスが「アレクサンドリア・エスハータ(最果てのアレクサンドリア)」という名に変えた町で、ソグド人に囲まれていたために6㎞に及ぶ城壁を築いたという。今ではほとんど土の塊のようになってはいるが、その一部が町の中に残っている。
ホジャンドから南西にあるイスタラフシャンという町は、アレクサンドロスがこの町のロクサーヌと結婚して、町を出て行く時に、人々が「ロクサーヌを連れて行かないで」と言った言葉が、なまって現在の町の名前になったのだという。町の北にあるムグ・テパという遺跡は、アケメネス朝のキュロス大王が砦を築き、アレクサンドロスが破壊したのだそう。
こんな風に自分の旅してきた土地が、ピンポイントではなく、アレクサンドロスの東征ルートということばで繋がって線となった。

アレクサンドロスの向かった道1 スーサからペルセポリス← 
                           → パサルガダエの遺構に新説

関連項目
パサルガダエ(Pasargadae)3 キュロス2世の墓
カンプル(カンプィル)・テパ遺跡1
イスタラフシャン1 ムグ・テパ遺跡
ソグド州博物館1 ホジャンドにアレクサンドロス大王が
ペンジケント(パンジケント)遺跡1 2、3階建ての建物跡
アフラシアブの丘を歩く
メルヴ1 エルク・カラ

参考文献
「図説アレクサンドロス大王」ふくろうの本 森谷公俊著・鈴木革写真 2013年 河出書房新社  
「偉大なるシルクロードの遺産展図録」 2005年 株式会社キュレイターズ
「中央アジアの傑作 サマルカンド」 アラポフ A.V. 2008年 SMI・アジア出版社 

2018/03/16

アレクサンドロスの向かった道1 スーサからペルセポリス


今回のイランの旅で、スーサからやって来たアレクサンドロスが、ここを通ってペルセポリスへと向かったとイランでは思われている場所が見えるところで写真ストップした。それはシーラーズ山脈からビーシャープールへと向かってザグロス山脈に入り、アボルハヤートという町へ出る前の切り通しのような地点だった。
Google Earthより

アケメネス朝ペルシアでは広大な版図に「王の道」が張り巡らされていたのは知ってはいたが、移動中はザグロス山脈の景観、中でも古代テチス海の鮮烈な色彩に目を奪われて、王の道が実際にどこを通っていたかまでに思いを馳せることができなかった。
『ペルシア帝国』は、ザグロス山脈南方の小地方、ペルシアから出発して、キュロスとカンビュセス各王の軍隊は、広大な領土を席巻した。ダレイオスの時代に版図は、バルカン半島からインダス河渓谷、サマルカンドからナイル河第一瀑布にいたるまで拡張した。帝国中心部の3首都ペルセポリス、スーサ、エクバタナの各王宮から、国道(「王の道」)が延びて、交通を可能にしたという。
『古代オリエント事典』は、20-30㎞間隔で宿駅が、行政区の境界地点や渡河地点など要衝の地には関所や衛兵所が設置され、交通の便と安全がはかられたという。
スーサからペルセポリスまでのルートは、この地図を見てもアボルハヤート辺りは通っていないようだ。

ある新聞の書評欄で『アレクサンドロス大王東征路の謎を解く』という本が紹介されていたので、早速購入した。
同書は、スーサからペルセポリスへ至るには、ザグロス山脈を越える「王の道」をたどらねばならない。その道は具体的にどこを通っていたのだろう。それを知りたくて文献を調べていくうちに、米国の古代史研究誌に発表されたスペックという研究者の論文がこの問題を扱っていることがわかった。
スペック説の当否を検証するため、私自身がイランで実地調査を行うことにした。
アレクサンドロスは前331年12月下旬にペルシア帝国の都スーサを出発し、前330年1月末にペルセポリスへ到着した。この間の経路については、ローマ時代に書かれて現存する5篇の大王伝のうち、アリアノス、クルティウス、ディオドロスの三人が比較的詳しく記述している。それによると、アレクサンドロスはスーサ進発後、山岳部族のウクシオイ人と戦ってこれを制圧し、それから副将パルメニオンに輜重部隊を委ねて平坦な道を進ませた。彼自身はペルシア門と呼ばれる隘路でペルシス州総督アリオバルザネスの軍隊を破り、ペルセポリスを占領した。しかし3篇の記述には多くの食い違いがあり、具体的な経路も極めて曖昧である。
スペックは、ザグロス山中で実地調査に基づいて、まったく異なる結論に到達した。
スペック説は単なる遠征経路の復元にとどまらず、アカイメネス朝時代の「王の道」に対する根本的な見直しを含んでいる。詳細な実地調査をふまえた彼の新説は、近年アレクサンドロス研究における最も注目すべき成果であるという。
アレクサンドロスはスーサからペルセポリスまでは「王の道」を辿り、その道はザグロス山脈の中を通っていたのだった。
『ペルシア建築』は、スーサからペルセポリスまでと、スーサからエクバターナまでのルートは舗装さえしてあった。これらはすべてローマ帝国の道路網の先駆をなすものと言えるという。
北西から南東方向に数本に分かれるこのザグロス山脈の中を、舗装された「王の道」が通っていたとは。道路は険しい山中は避けて、できるだけ平たい場所に造ったのかと思っていた。
『アレクサンドロス大王東征路の謎を解く』は、アカイメネス朝時代、スーサ~ペルセポリス間の「王の道」には、夏のルートと冬のルートがあったと考えられる。夏のフーゼスタン平野は猛烈な暑さだが、ザグロス山中のカールーン川沿いはそれほど暑くなく、冬には積雪がある。ディオドロスの記述によると、スーサの東の渓谷を抜けた先にペルセポリスへ通じる快適な山の道があり、これが夏のルートを指すと思われる。一方、平地のベフバハーンを経て、ファーリアンないしヌーラーバードを通る経路は冬のルートであったろうという。
確かに、旅した5月でも、フーゼスタンの土地が一番暑かった。午後には40度を超え、50度近くに達するところもあったほどだ。
Google Earthより(スーサ~ペルセポリス間は直線距離だけで500㎞を超える)
ザグロス山脈はGoogle Earthでこの程度の縮尺では幾筋かの波のように並んでいるが、もっとズームしていくと、夥しい数の峰があり、更にそれを横断して浸食された渓谷もあり、かなり複雑である。その中を著者の森谷公俊氏はスペック説が正しいかを実際に走破し、あるいは危険な山岳地帯に登り、時にはスペック説にも間違いがあることを確かめた。
今回のイランの旅はペルセポリスにもスーサにも行ったし、ヌーラーバードでは昼食もしたので、ザグロス山脈にも平地もあれば集落があることもいくらかは見てはいたのだが、山脈が幾筋もあって、その谷筋の水の流れる土地には今も人々の暮らす集落や町が点在することなどは、この本に出会わなければ知らずに終わっていただろう。
ところが、その後森谷公俊氏が『アレクサンドロス大王東征路の謎を解く』より以前に『図説アレクサンドロス大王』を出版されていることを知り、入手すると、この間の「王の道」の風景写真の多くがカラーで載っていた。前者は丁寧に地図が提示されていたが、写真は小さく白黒だったので、合わせて見ていくとザグロス山脈の表情が豊かに伝わってくる。
また、そのザグロス山中は、ただ通過したのではなく、ペルシス州総督アリオバルザネス率いるペルシア軍を打ち破りながらの行軍だった。それが実際にどこで行われたのかを森谷氏たちは実地調査したのだが、アレクサンドロスほどではないものの、そこにはさまざまな困難が待ち受けていたことが『アレクサンドロス大王東征路の謎を解く』で活写されている。

『図説アレクサンドロス大王』は、すでに真冬であった。だが12月末、アレクサンドロスはスーサを出発し、帝国の首都ペルセポリスへ向かった。冬のザグロス山脈では積雪が2mを越える。なぜわざわざ厳冬のザグロス山脈を踏破してペルセポリス占領を急いだのか。
現存する大王伝は直接語ってはいないが、兵士達の略奪欲である。古代の戦争において、敗者から略奪するのは勝利者の権利であった。マケドニア兵士にとって、征服したペルシア帝国の諸都市で思う存分に略奪することは当然の権利であり、また夢でもあったろう。ところがバビロンもスーサも平和裏に占領されたため、略奪は許されず、兵士の不満が募ったに違いない。アレクサンドロスは兵士らの不穏な空気を察知し、彼らの不満を解消する必要に迫られた。それゆえ彼は春の訪れを待つことなく、早期ペルセポリス占領を果たそうとしたのではないかという。
逃亡中のダリウス3世はエクバタナにいる。
『図説アレクサンドロス大王』は、マケドニア軍のペルセポリス滞在は4ヵ月の長きに及んだ。これも補給上の理由による。冬の間、ペルセポリスからザグロス山脈の東側を通って現イスファハンに至る道は氷に閉ざされる。それゆえダレイオス追撃には春の終わりを待たねばならなかったのだ。
5月末、出発を前にしてアレクサンドロスは宮殿に火を放った。ペルセポリス炎上、それは東方遠征における最も劇的にして最も謎めいた事件である。
アレクサンドロスはあらかじめ宮殿から金銀の塊や重要な貴金属製品を接収し、エクバタナへ運ぶ準備をした。そして5月末、兵士達に一日だけ宮殿の略奪を許した。翌日、アパダーナと玉座の間の大広間に可燃物を敷き詰めて火を放ち、大広間を支える柱の大半を破壊した。こうして宝蔵と後宮を含む4つの建物が炎上した。それから直ちにマケドニア軍はペルセポリスを発ち、ダレイオス3世に向かって進軍を開始したのであるという。

こんな風にアケメネス朝は滅亡した。それと共に、彩釉レンガという壁面装飾も消えてしまう。
下の2点はスーサ博物館に所蔵されているものだが、スーサはマケドニア軍の略奪を受けなかったにもかかわらず、このような美しい壁面装飾は後の世に受け継がれなかった。
以前はアレクサンドロスが破壊したために彩釉レンガが絶えてしまったと思っていたが、破壊には関係なく、このような壁面装飾を求める王族や貴族がいなくなってしまったために、職人が伝え続けることができなかったのだと考えるに至った。
その後施釉タイルが再び壁面を装飾するようになるのは紀元後9世紀のことである。
そして、このような一枚のタイルに多色釉で絵付けするハフト・ランギーは、サマルカンドのシャーヒ・ズィンダ廟群のなかのウスト・アリ・ネセフィ廟(1360-70年)が初現であるという(『砂漠にもえたつ色彩展図録』より)。
 
         →アレクサンドロスの向かった道2 ペルセポリスから中央アジア

参考文献
「アレクサンドロス大王東征路の謎を解く」 森谷公俊 2017年11月30日 河出書房新社
「図説アレクサンドロス大王」ふくろうの本 森谷公俊著・鈴木革写真 2013年 河出書房新社  
「ペルシア建築」SD選書169 A.U.ポープ著 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「偉大なるシルクロードの遺産展図録」 2005年 株式会社キュレイターズ
「ペルシア帝国」 知の再発見双書57 ピエール・ブリアン 小川秀雄監修 1996年 創元社
「古代オリエント事典」 日本オリエント学会編 2004年 岩波書店
「砂漠にもえたつ色彩展図録」 2003年 岡山市立オリエント美術館
 

2018/03/13

イランに残るレンガ建築


イランでは多くのレンガ建築を見学した。タブリーズのアゼルバイジャン博物館で『IRAN THE ANCIENT LAND』という巨大な本を見つけた。重くてスーツケースの重量に響くとは思ったが、思い切って買ったのは、そこには今まで知らなかったレンガや石材で造られた建造物が沢山載っているからだった。ただ残念なのは、その建立時期他の詳しい説明がないことだ。

水車場? 時代不明 ラザヴィー・ホラサーン州ホスローヴジェルド
焼成レンガで幾何学文様を描いていて、古そうなミナレットに見える。モスクが崩壊してミナレットだけが残り、水車場に転用されたのでは?

ゴンバデ・カーブース ズィーヤール朝(1006年) 高72m ゴレスターン州(カスピ海東部)の同名の町
世界遺産オンラインガイドは、ゴンバデ・カーブースは、焼きレンガで製作されていますが、世界で最も高い完全レンガ造りの塔として、知られています。ちなみに高さは、土台部分の高さを含めると約72mもあります。
この塔があるのは、ズィヤール朝の首都、ジョルジャーンの古代都市の北方3kmにあたります。土台部分には、碑文から、1006年、当時の君主であったカーブース・ブン・ワシュムギールの命により建造されたことがわかります。
塔の形は、土台部分は、十角形、先端部分が円錐形とユニークな形になっています。内部の装飾は、ムカルナス様式の初期のものとされています。設計には、黄金比Φの近似値である1.618の比率も用いられているのだそうで、高い水準の土木技術があったことがわかります
という。

『イスラーム建築の世界史』は、そびえる建築-墓塔の中で、1006年建設のゴンバディ・カーブースは、時代の画期を象徴する塔状の高い墓建築(墓塔)で、以後中央アジアからアナトリアにかけてたくさんの墓塔が建設される。
高さ55mにも達する塔で、円錐状の屋根を戴く。塔身の部分を垂直に走る鰭状のフリンジが分節し、塔身の下部と上部だけにインスクリプション(銘文)が入り、シンプルで現代的造形に近いという。
同書は、室内は円形だが、外側に10本のフリンジを設けているため、壁面は十点星となる。
ゴンバディ・カーブース以後の墓塔の建設は、トルコ系遊牧民王朝の広がりと重なる。墓塔の誕生と浸透には、トルコ系遊牧民が故地において多神教を奉じた時のトーテム・ポールのような柱への信仰、あるいは彼らが住んでいたテントの造形が影響を及ぼしたともいわれる。十点星のフリンジは、太陽や彗星の光芒を象徴したとされる。武力を重んじるダイラム人、ゾロアスター教に根ざす太陽信仰、トルコ王家から嫁いだ妻など、いろいろな要因が重なって、この塔の造形が選ばれたと推察されるという。

チェヘル・ドゥフタラン塔とジャファール聖人廟 セルジューク朝(11世紀) セムナーン州ダムガーン
コトバンクのピール・イ・アーラムダールの解説(『世界大百科事典第2版』(平凡社)の抜粋)は、後代に再建されたマスジド・イ・ジャーミーはイラン最古のミナレット(1006)を擁する。また,近郊にはセルジューク朝の円筒形墓塔ピール・イ・アーラムダール(1026)とチヒール・ドゥフタラーン(1054-55)があるという。
こちらがチェヘル・ドゥフタラン塔
焼成レンガを嵌め込んだアラビア文字の銘文や幾何学文様の装飾がある。

円塔 イルハーン朝? セムナーン州シャールード(エマームルード)近郊メフマンドウスト
網籠のようなレンガ積みの円塔の上部に、レンガの小片だけで幾何学文様やアラビア文字の銘文を構成している。ダムガーンの墓塔よりも以前に建造されたものかも。

ゴンバデ・アラヴィヤーン セルジューク朝(1038-1308年) ハマダーン州(イラン北西部)ハマダーン
アラヴィー家の墓廟。
レンガ積みで表面に浮彫漆喰で幾何学文様などの装飾を施している。

トゥグリル・ベク廟 セルジューク朝(在位1038-63年) テヘラン近郊レイ
『イスラーム建築の世界史』は、煉瓦造で20前後で縦条(フリンジ)で分節されるという。
すっきりとした円筒の上部には簡素なムカルナスの装飾がつく。

ハラカン(Kharaqan)の墓廟群 セルジューク朝(1067・1093年) カズウィーン近郊
レンガの小片を組み合わせた幾何学文様などの装飾が廟の表面を覆う。どちらも二重殻ドームの外側が崩落し、内側のドームが見えているのだろう。
大きい方の廟 高15径4m 
8面で角に付け柱があるが、円柱とドームはどのように繋がっていたのだろう。
レンガで作った幾何学文様が剥がれているのは惜しまれるが、レンガ積みが見えるという利点もある。
トルクメニスタンのメルヴにあったムハンマド・イブン・ザイド廟(12世紀)内部のレンガ装飾に似ているような。

赤いドーム 11世紀 東アーザルバーイジャーン州(イラン北西部)マラーゲ
PARS TODAYの化粧タイルは、ターコイズブルーのレンガの上に書かれた最も古いクーフィック体の例は、イランの考古学博物館に収蔵されており、11世紀のものです。その中にターコイズブルーのタイルが使用された古い宗教的な建物には、イスファハーンのセイイェドモスク、マラーゲの赤いドーム、ゴナーバードのジャーメモスクがありますという。
正方形から八角形に移行しているが、ドームは見えない。四隅のムカルナスが見える建物としてはヤズドのダヴァズター・イマーム廟(1037年)と共通するが、こちらは付け柱が巡ったり、空色タイルが嵌め込まれたりと装飾性の高い墓廟である。

フラグの母の廟 イルハーン朝(13世紀) マラーゲ
焼成レンガと空色タイルの組み合わせのように見えるが、薄過ぎるので浮彫漆喰かも。
石材で建て、焼成レンガと空色タイルで装飾している。

金曜モスク(マスジェデ・ジャーメ) 13世紀後半 西アーザルバーイジャーン州オルーミーイェ
下部は石材、上部は焼成レンガ。この造りからすると、表面には浮彫漆喰かタイルで装飾されていたのだろう。
入口イーワーン
タイル装飾も残っている。
ミフラーブには透彫の漆喰装飾(1277年)があるのだが、この図版からは想像できない。

マスジェデ・ジャーメ 1307-08年 ナタンズ
後方は八角形平面のシェイフ・アブドルサマド廟で、大きな八角錐の屋根が載る。
その手前に見えているのが金曜モスク。空色タイルが嵌め込まれたミナレットは1本。

ジャバリエ・ドーム 時代不明(14世紀?) ケルマーン州(イラン南東部)ケルマーン
『ペルシア湾北岸遺跡と採集陶磁器』は、ゴンバディ・ジャバリエ。墓か、ゾロアスター教の建物か不明。平面8角形の石製建築で、天井はドーム建築。内部には何もないという。
切石積みではなく、小さな石を積み上げている。
八角形の墓廟としては、スルタニーエのオルジェイトゥ廟(ゴンバデ・スルタニエ、1313年完成)があり、似ている。ジャバリエ・ドームは八角形の各角が面取りされている分、時代が下がるように感じる。

ハムドッラー・モストウフィー廟 14世紀 カズウィーン州(イラン北西部)カズウィーン
Wikipediaは、イルハン朝の歴史家、著述家(1281-1344)。「撰史」(ターリーヘ・ゴズィーデ)、「ネズハトルゴルーブ」、「ザファル・ナーメ」などがある。廟は青緑色の円錐ドームをもち、銘はスルス体でモストウフィー家の家系と作品が記されており、ガズヴィーンの建築の中でもひときわ目立つという。
円錐形の屋根はクニャ・ウルゲンチのスルタン・テケシュ廟(1200年没)に似ている。

エステルとモルデカイの廟 時代不明(14世紀?) ハマダーン
Wikipediaは、ペルシア王にユダヤ人のエステルと称する王妃と、モルデカイという宰相がいたことは、史実にもとる、とされている。
ユダヤ教の後の解釈では、モルデカイとエステルは夫婦ということになっている。2人の墓とされるものが、イランのハマダン(エクバタナ)にある。ここも重要なユダヤ人コミュニティーの1つだった
という。

極端な二重殻ドームで空色タイルのシンプルな文様が嵌め込まれる。建物の角には付け柱が付く。

シェイフ・ジェブライル廟 14世紀 アルダビール州(イラン北西部)アルダビール
シェイフ・ジェブライルについて『IRAN THE ANCIENT LAND』は、シェイフ・サフィー・ユッディーンの父という。
二重殻ドームで、その形がイスファハーンのスルタン・バフト・アガー廟(1356年)に似ているので、14世紀の建物とした。
所々に素朴な空色タイルが嵌め込まれている。

シャイフ・ハイダール廟 時代不明 アルダビール州メシュキン・シャフル
円形の墓廟
入口付近にはモザイクタイルの装飾が残っているが、上部の絵付けタイルの帯は修復によるものかも。

金曜モスク(マスジェデ・ジャーメ) 14世紀? セムナーン州バスターム
外観は不明。
内部は美しい浮彫漆喰で覆われる。
ミフラーブ
ミフラーブの上部
2種類のアラビア文字の銘文と植物文様の組み合わせ。
ミフラーブの壁龕
尖頭アーチ内の浮彫漆喰は、イスファハーンのマスジェデ・ジャーメ(金曜モスク)西翼小礼拝室にあるオルジェイトゥのミフラーブ(イルハーン朝、1310年)の装飾をもう少し平面的にしたよう。ちょっと時代が下がるのかも。
以前のオルジェイトゥ廟のタイル装飾を受け継いだ廟という記事で、同じバスタームで近隣に建立されたシェイフ・バヤズィド廟(1313年)のタイル装飾について記したが、それとよく似た空色タイルと浮彫タイルの組み合わせが、この金曜モスクのどこかに残っているらしい。
ということは、同じタイル職人が金曜モスクの装飾も手がけたとみられるので、14世紀前半の建立なのだろう。

カスハーネ(カシャーネ?Kashaneh)塔 イルハーン朝(1256-1335年) バスターム
Google Earthで見ると、バスタームの金曜モスクの傍に立っている。
20を越えそうなフリンジの上部には焼成レンガと空色タイルによる装飾がある。

金曜モスク イルハーン朝(14世紀) ファルマード
浮彫漆喰によるアラビア文字の銘文が尖頭アーチの枠を装飾し、薄いアーチ内の壁面には、組紐で区切られた幾何学形の区画の中に植物文様の漆喰が嵌め込まれている。
スルタニーエのオルジェイトゥ廟(1307-13年)の2階の天井では、もっと幅の広い組紐の中にさまざまな植物文様(イスリーミー)の浮彫漆喰の埋め木が嵌め込まれている。オルジェイトゥ廟で天井のそれぞれに趣向を凝らした装飾を見上げた時は、唯一無二のものだと思ったが、それは、このように受け継がれていたのだった。

リバート(イスラーム神秘主義の施設)時代不明 ホラサーン州サング・バスト

以降は省略。ずっと時代は下がって、

太陽の城 アフシャール朝(1736-96年) ラザヴィー・ホラーサーン州マシャド
アフシャール朝の首都だったマシャド(マシュハド)にあるという石造の建物。
沢山のフリンジのあるバスタームのカスハーネ塔などの塔を模したような短い円塔が、おそらく八角形の建物の中央から出ている。

アヴィセンナ廟 1954年 ハマダーン
まるで、ゴンバデ・カーブース(1006年)のフリンジと円錐ドームだけを残して内部が見えるように造られたような建物で面白いのでここにあげた。



関連項目
マスジェデ・ジャーメ オルジェイトゥのミフラーブ
スルタニーエのオルジェイトゥ廟(ゴンバデ・スルタニエ)
オルジェイトゥ廟の漆喰装飾3 華麗なるドーミカル・ヴォールト
クニャ・ウルゲンチ3 スルタン・テケシュ廟
ムハンマド・イブン・ザイド廟の焼成レンガ装飾
オルジェイトゥ廟のタイル装飾を受け継いだ廟

参考サイト
「ペルシア湾北岸遺跡と採集陶磁器」 金沢大学考古学紀要26 2002,27-47. 佐々木花江・佐々木達夫
世界遺産オンラインガイドのゴンバデ・カーブース
PARS TODAYの化粧タイル
コトバンクのピール・イ・アーラムダールの解説(『世界大百科事典第2版』(平凡社)の抜粋)

参考文献
「IRAN THE ANCIENT LAND」 ペルシア語のため出版社他は不明
「岩波セミナーブックスS11 イスラーム建築の世界史」 深見奈緒子 2013年 岩波書店
「イスラーム建築の見かた」 深見奈緒子 2003年 東京堂出版