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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2024/01/05

明兆の白衣観音図に龍


昨年白衣観音図をまとめていた頃、1978年発行の『水墨美術大系第5巻』に明兆の白衣観音図がとても小さなモノクロームの図版を見つけた。それで作品自体も小さなもので、あまり重視されていない作品なのかと思っていた。
ところが、東福寺展が2023年春に東京国立博物館で、秋に京都国立博物館が開催され、この作品が展示されることがわかった。そして、ある美術展を紹介する番組で、驚くほど大きなものであることを知り、秋の東福寺展に足を運んできた。
実際にそれは、博物館の展示スペースぎりぎりの高さほどもあった。白衣観音図は下から見上げたが、下辺右端の龍やや視線を下げてしっかりと見ることができた。年を取ると文字に限らず、大きい方が有り難い。

これが明兆が描いた龍である。明兆がこれ意外にも龍を描いているのかわからないが、迫力があるというよりは、波涛と岩との間に顔を出して、座禅を組む白衣観音の妨げになるものを追い払うべく睨んでいる程度。
東福寺蔵吉山明兆筆白衣観音図部分 東福寺展図録より


白衣観音図 吉山明兆筆 東福寺蔵 室町時代、15世紀
紙本着色 縦336.2㎝ 横281.2㎝ 
同展図録は、明兆は数多くの大作・連作を描いたことで知られるが、そのなかでも本作の巨大さは圧倒的である。ダイナミックな筆致による岩窟描写のなか、荒れ狂う波濤上の岩座に正面向きの白衣観音を描き、画面下部には龍と善財童子とを配して、安定した三角形構図を形作っている。筆勢あふれる水墨描写と計算された画面構成とが絶妙に均衡を保っている作といえよう。
本作は東福寺法堂の仏後壁に貼られていた可能性が指摘されている。法堂の再建上棟は応永35年(1428)だが、本作にみる荒々しい水墨描写からみても明兆最晚年作とみられ、この時期に制作されたものとして様式的に矛盾はない。ただし面貌表現には固さが残り、「寒山・拾得図」と紙継ぎの寸法が一致することとも合わせ、この時期における明兆工房の様態を改めて検証する必要があるだろう。ただいずれにせよ、明兆の最晩年様式がここに如実に示されていることは間違いなく、その規格外のスケールからみても、明兆の代表作の一つとして評価できるという。
その番組では、白衣観音の大きな頭光が垂れ下がる岩窟の奥に描かれているので、岩座は岩窟よりも向こうにあるとも言っていた。ということは、白衣観音は奥の岩の上に坐っていて、善財童子や龍は岩の手前にいるので、両者の間にはかなり距離があることになる。
東福寺蔵吉山明兆筆白衣観音図 東福寺展図録より

静かに座禅を組む白衣観音
中国では南宋時代以降、高麗仏画にも、日本でも、白衣観音図は様々な描き方をされているが、このように正面向きの作品は少ない。それは、掛け軸などのような個人で鑑賞するものと違い、法堂の仏後壁という描かれた場所なので、寛いだ白衣観音を描く訳にもいかなかったのだろう。
東福寺蔵吉山明兆筆白衣観音図部分 東福寺展図録より


そして善財童子
『明恵の夢と高山寺展図録』は、『華厳経』の最終章である入法界品は、善財童子が文殊菩薩の教えを受けた後、53人の善知識(よき友)のもとを訪れ、教えを請う物語であるという。
着物の後ろ側がもこもこしているので、どちらかというと迦陵頻伽のように見えた。
東福寺蔵吉山明兆筆白衣観音図部分 東福寺展図録より

善財童子と言えば、2019年の「明恵の夢と高山寺展」で、文殊菩薩の教えを受けた後、53人の善知識(よき友)のもとを訪れ、教えを請う物語である(同展図録より)。この主題を描いた華厳海会善知識曼荼羅(鎌倉時代 13世紀)は不鮮明なところが多く、白衣観音に教えを請う図があるのかどうか分からなかったので、検索すると、奈良国立博物館の収蔵品データベースに絹本墨画の白衣観音(鎌倉時代13-14世紀)を見つけた。

同サイトは、さとりの道を求める旅に出た善財童子が補陀落山で観音菩薩にまみえるという、『華厳経』入法界品に説かれる一場面を水墨で描く。竹林が茂る深山幽谷の中、白衣をまとった観音菩薩が坐禅瞑想し、小岩上で合掌礼拝する善財童子と相対する。賛者の約翁徳倹(1245-1320)は、中国に渡って阿育王寺や天童寺で学び、帰国後に南禅寺などの住持を務めた禅僧。
本図への着賛は、帰国後に建長寺内の長勝寺の開山となった永仁4年(1296)以降の晩年と考えられる。日本で描かれた現存最古の白衣観音図の一つとして貴重という。
昨年まとめた白衣観音図 日本では一番古いもので、一山一寧(1299来朝-1317没)賛の白衣観音図だったので、奈良博本の方が古そうだ。 


せっかくなので、明兆の寒山拾得図も。

寒山拾得図 吉山明兆筆 二幅 室町時代、15世紀
紙本着色 各縦248.6㎝ 横112.0㎝(描表装を含む)
紙継ぎの寸法が白衣観音図と一致することから、同時期の作品と考えられている作品。
同展図録は、寒山と拾得は中国唐時代の風狂の僧で、水墨画の画題として多く取り上げられた。本作における二人の奇怪な面貌は、中国の道釈画家・顔輝の作例に通じる表現である。 
文化12年(1815)の「虫拂方丈之図」 や、天保4年(1833) 刊『新古書画雲烟供養展観録』などでは、本作は達磨図の脇幅として掲出されている。ただし、達磨図やそれと同時期作とみられる蝦蟇鉄拐図および「円爾像」とは、描表装の形式や画風が微妙に異なり、それらに合わせるために後に追加制作されたものとみられる。 
近年の修理により、本作は各幅とも最大値で縦34.2、横58.9㎝ほどの料紙を継いで構成されていること、またそれら一紙あたりの寸法が「白衣観音図」と近似することが報告されている。渇筆混じりの野太く粗削りな岩描など、画風の面でも共通点を見出すことができ、両者が同時期に制作された可能性は高い。白衣観音図は応永35年(1428)の法堂上棟に合わせて描かれたとも指摘されており、本作もこの時期に制作されたものとみられる。明兆最晩年における工房の様態は明らかではないが、本作の描写の一部には弟子の関与も考慮されるという。
東福寺蔵吉山明兆筆寒山拾得図 東福寺展図録より

ということで、昨年顔輝の寒山拾得図に似ていると記事に書いたが、誰もが感じることだった。
きっと明兆は、顔輝の寒山拾得図を見たことがあって、その顔が気に入っていたのだろう。
東福寺蔵吉山明兆筆寒山拾得図部分 東福寺展図録より


          白衣観音図 日本←     →建築倉庫に行ってみた


関連記事

参考文献
「東福寺展図録」 東福寺・東京国立博物館・京都国立博物館・読売新聞社編 2023年 読売新聞社・NHK・NHKプロモーション
「明恵の夢と高山寺展図録」 2019年 中之島香雪美術館

2023/01/17

蓮池水禽図

 

前回の藤田美術館蔵刺繍釈迦阿弥陀二尊像には最下段に蓮池水禽図があった。それを見ていて、若い頃に蓮池水禽図には必ず病葉(わくらば)が描かれていることに興味をもったのを思い出した。おそらく博物館の平常陳列か、企画展示で見たので、残念ながら図録はない。
あれこれ古い書物を引っ張り出してきて、少しながら蓮池水禽図に行き当たった。


蓮鷺図 双幅 伝徐崇嗣筆 北宋?元? 絹本墨画 各95.2X43.6㎝ 東京国立博物館蔵
『水墨美術大系第3巻』で海老根聰郎氏は、今日、著色の蓮池水禽図が数点伝わっているが、本図のような水墨のものは珍しい。
落款も印章もない本図は、箱書によれば、北宋の徐崇嗣の作という。徐氏一派にこの種の題材があったことや、没骨の水墨画であることからいえば、この伝承もかなりうがったものと考えられるが、実際はもっと時代の下った、元時代の無名の職業画工による制作と考えられる。
白鷺は外暈で、蓮花や葉は没骨でかかれるが、ともに筆墨のなまな動きを抑制して、文様を彩色するように、丁寧に平面的に墨彩色される。この単調な墨法と、パターン化した景物一つ一つの明確さは、この画に生動感の乏しい固着した印象を与える。すでに南宋時代には、蓮池水禽図の構成や彩色法が定型化したものになっていたことは、遺品からもうかがえるが、本図はその彩色の部分を墨におきかえたところが興味深いところであるという。
古い書物はモノクロームの図版が多いので、着彩されていても水墨画のように見ている。
伝徐崇嗣筆蓮鷺図 『水墨美術大系第3巻 牧谿・玉澗』より

右幅下の隅に病葉が描かれているように見える。

伝徐崇嗣筆蓮鷺図部分 『水墨美術大系第3巻 牧谿・玉澗』より


伝蘿窓筆 元時代・13世紀後半-14世紀後半 掛幅 絹本墨画 102.6X50.7㎝ 大徳寺塔中高桐院蔵
『水墨美術大系第3巻』で海老根聰郎氏は、蓮花に水禽や小魚を配した蓮池水禽というモチーフが画題として取り上げられるのは、古く五代までさかのぼりうるが、北宋以前にまでのぼる遺作はないようである。現存遺品は南宋以後のものであるが、それらが江南地方の職業画工達によって大量にえがかれてきたためか、著色画と水墨画とを問わず、布置構成、著彩法、用墨法に一定のパターンがある。
本図は、おそらく双幅の一方であろうと思われるが、敗荷と蘆に2羽の白鷺を点綴した意匠といい、また白鷺の姿態や蓮葉の描法も、他の蓮池水禽図とさして距離のあるものではない。布置に奥行を暗示するものがなく、景物を平面的に並列したのは、著色画の構成をそのまま借用したためであろう。このように本図は、部分的に使用された粗放な水墨技法にもかかわらず、パターン化された伝統的な方式と密接なつながりがある。ただ蓮の根本に岩石をおき、骨気を導入したのはこの種の作品に例のない新意匠といえる。筆者を蘿窓と伝えるが、水墨の蓮鷺で彼の名を冠したものは他にも例がある。彼の作と定めることは出来ないが、筆技からみて、職業画工の作というより、余技的な画人の作になると思われる。制作期は元時代であろうという。
高桐院蔵蓮鷺図  『水墨美術大系第3巻 牧谿・玉澗』より

若い頃見ていた蓮池水禽図は、元気な蓮の葉に混じって病葉(わくらば)が描かれていて、それが蓮池水禽図の決まりごとだという風な解説があったように思う。
ところが、ここでは、蓮の花は散り、花托には実が熟しているような様子で、蓮の葉も病葉というよりも、季節の終わりに乾燥した縁から粉々になって散っているよう。海老根氏が「敗荷」と呼ぶものである。
高桐院蔵蓮鷺図 病葉部分  『水墨美術大系第3巻 牧谿・玉澗』より


蓮池白鷺図 元・13-14世紀 絹本着色 104.8X55.1㎝ 京都国立博物館蔵
『世界美術大全集東洋編7 元』で宮崎法子氏は、元の画僧たちが、鎌倉時代以後の当時の日本へ与えた影響は少なからぬものがあったと思われる。またそれら日本に伝わった作品がなければ、南宋や元の江南での当時の絵画の層の厚さを、今日知ることはできなかったであろう。そのことは、このような画僧の作品ばかりでなく、名もない職業画家の描いた吉祥の意をもつ一般向けの花鳥画、とくに常州地方で宋代以降、書き継がれていった蓮池水禽図、藻魚図、草虫画などの作品についても、まったく同様である。彼ら民間の職業画家たちは、絹本着色の蓮池水禽図から絹本墨画に至るまで、伝統を継承しつつ新たな絵画の動きや一般の好みを反映して、数々の作品を描いたという。
蓮池水禽図が吉祥の図だったとは。 
京都国立博物館蔵蓮池白鷺図 元・13-14世紀  『世界美術大全集東洋編7 元』より

病葉は葉がしおれたり、枯れたりしているが、シラサギは蓮の葉がどうなろうと意に介せず、ひたすら魚を探している。
京都国立博物館蔵蓮池白鷺図部分 元・13-14世紀  『世界美術大全集東洋編7 元』より


蓮池図 鎌倉時代・13世紀前半 絹本著色 二曲一隻屏風装 180.0X274.4㎝ 法隆寺蔵
 『法隆寺』は、かつては舎利殿内を荘厳していた。舎利殿は、聖徳太子の掌中から出現したとする南無仏舎利を奉安するために、承久元年(1219)に再建された殿堂である。江戸時代中頃に編集された『古今一陽集』の護持仏堂の条に「宮殿の後壁には荷葉に白鷺を描く」とあり、本図がその後壁貼付図であったと考えられている。
また、承久4年(1222)に絵師尊智によって描かれ堂内に掲げられていたとする聖徳太子勝経講讚図と同じ頃に描かれたものと推定されている。
なお中国で制作されたとする説もあるが、日本での制作であれば、蓮池水禽図の最古最優の遺例となるという。
ここに病葉は描かれているのだろうか。
法隆寺蔵蓮池図 鎌倉時代 『法隆寺』より

病葉らしきものは、左隻の蓮茎群の下に描かれた薄茶色のものくらいと拡大して見ると、オシドリのつがいだった。
法隆寺蔵蓮池図部分  『法隆寺』より

では、その右下の葉はどうかな? 古い葉がしおれ始めているように見えなくもないが。
法隆寺蔵蓮池図部分  『法隆寺』より


その後は時代がかなり下がる。

蓮池水禽図 17世紀初か 俵屋宗達筆 伊年印 京都国立博物館 国宝 掛幅 紙本墨画 116.0X50.0㎝
『水墨美術大系第10巻』で山根有三氏は、図中に款記がなく、問題の多い「伊年」印のみが捺されているけれども、画そのものから、これこそ宗達水墨画の傑作として早くより認められた作品である。宗達と伝える水墨画は、現在掛幅になっているものでも、もとは屏風に貼交ぜられていた例が多いが、この図も「伊年」印をもつ他の「蓮花水禽図」と同じ屏風に貼られていたと伝える。しかし確証はなく、またこの図の素地が他に例のない繊維の多い紙なので、当初から一幅として描かれた可能性も考えられる。
ゆったりとして張りのある太い筆致と水墨の微妙な濃淡の調子による花・茎・茎のつけ根・果肉・葉・葉脈の簡潔で的確な表現である。さらに濃墨による鋭い雄しべと精密な羽毛の描写が目をひきつける。また蓮の花や葉、2羽の水禽の布置構成も自由で新鮮であり、とくに全体の静かな奥深い感じ、ほのかに明るくしっとりした雰囲気がすばらしい。これらの背後には、なによりも、宗達の温かな心と鋭い感覚による自然の観察がある。彼は、京都附近の蓮池の夜明けに舟を静かに進めながら、このような光景をしばしばみたのであろう。
ではこの図の制作時期はいつか。これだけの絵に落款がないというのは、宗達が法橋になる以前の作であるのを示す。「伊年」印を捺すのはそのことと関係があろう。それは法橋時代の基準的な水墨画との比較からもいえる。全体の感じの清らかさや墨調の初々しさ、たらしこみの慎重な用い方や濡れ羽根の精密な描き方などから、私はこれを現存する宗達水墨画中、もっとも初期の作品と考えている。最初の作品が代表的な傑作とは不思議だが、遺品の現状ではそうとしかいえない。その時期についてはかつて金銀泥蓮図和歌巻のそれとの関係から、元和初年(1615頃)と推定したことがあるという。
この水禽は小さく首が短いので、カイツブリだと思っていたが、「カイツブリ」は首が白くないので、ハジロカイツブリかな。もっと大きなカルガモではなさそう。
俵屋宗達筆蓮池水禽図  『水墨美術大系第10巻 光悦・宗達・光琳』より

病葉の拡大
俵屋宗達筆蓮池水禽図部分  『水墨美術大系第10巻 光悦・宗達・光琳』より


蓮花水禽図 俵屋宗達筆 伊年印 掛幅 紙本墨画 112.6X45.9㎝
『水墨美術大系第10巻』で山根有三氏は、この「伊年」印をもつ「蓮花水禽図」は、もと「蓮池水禽図」と同じ屏風に貼られていたと伝えるもの。それよりやや保存が悪く、向って右端が約2㎝ほど切られたと思われ、飛ぶ小禽の脚や羽根の一部は紙の破れを補って描いており明らかに補筆である。「蓮池水禽図」の遺品は多く、いずれも「伊年」印をもつのは興味深い。
「蓮花図」は蓮花のみを描く点と、その花の姿と同じものが他の「蓮池水禽図」にみられない点、および宗達と同時代の人の賛がある点で注目される。賛の筆者は妙心寺第131世の輝岳宗暾で、寛永20年(1643)に92歳で没した。彼の「前正法山再住」の時期がわかればこの「蓮花図」の制作期はより明確となろうという。
脚や羽根が補筆であったとしても、この鳥はカモでもなければカイツブリでもない。飛ぶ時にS字に首を曲げる鳥はいるのだろうか。宗達とは思えないへんな鳥図である。
俵屋宗達筆蓮池水禽図  『水墨美術大系第10巻 光悦・宗達・光琳』より

俵屋宗達筆蓮池水禽図部分  『水墨美術大系第10巻 光悦・宗達・光琳』より




参考サイト

参考文献 
「水墨美術大系第3巻 牧谿・玉澗」 戸田禎佑 1978年 講談社
「水墨美術大系第10巻 光悦・宗達・光琳」 山根有二 1978年 講談社

2023/01/10

藤田美術館 刺繍釈迦阿弥陀二尊像に蓮池水禽図


藤田美術館で久しぶりに蓮池図を見たが、それは繍仏だった。

刺繍釈迦阿弥陀二尊像 鎌倉時代・12-13世紀
外側の仕覆は蓮華唐草文金襴以外は刺繍でつくられた仏画である。
同館図録は、全体に刺繍をほどこした繡仏。向かって右に釈迦如来、左に阿弥陀如来の二尊をあらわす遣迎図である。縁には蓮唐草文をめぐらし、四隅に四天王の種字をおく。上部には中国の僧・善導の文があり、その間を飛天や楽器が蓮華の花びらとともに舞うという。


また、藤田美術館の繊細な刺繍による仏画に精密な画像とQ&A式の解説があり、それを参考にこの仏画をみると、上段左右に配された色紙には、浄土思想を確立した善導の書物からの引用文、中央には飛天が虚空で散華していて、柔らかな色彩の蓮弁や楽器が舞う。
中段はそれぞれ形の異なる天蓋を掲げた釈迦如来(右)と阿弥陀如来(左)が来迎雲に乗っている。大きな頭光は光線が幅広で、菊の花のように密に並んでいて、傘形光背とも思える。

釈迦如来と阿弥陀如来の立像の下で、観音菩薩は蓮台を持ち、勢至菩薩は合掌して往生者を迎えに来ている。ということは、これは来迎図?
繊細な刺繍による仏画によると、釈迦如来は亡くなった人を送り出し、阿弥陀如来は亡くなった人を極楽に迎え入れるというそれぞれに役割があって、この二如来を組み合わせたものを遣迎図というのだそう。「遺迎図」? この年になるまで知らんかった😣
そして二如来二菩薩の間には装飾的な三脚の机があり、一対の花瓶と獅子形香炉が置かれ、見えにくいが、上を向いた獅子の口から香の煙があがっている。煙は繊細な刺繍による仏画ではっきりとわかります。

下段 蓮池
中央の州浜状のところに多宝塔があり、扉が開いて中に二仏が並坐している。これは二仏並坐像といって、多宝如来と阿弥陀如来が並んですわっているとされているが、釈迦阿弥陀二尊図であれば、釈迦如来と阿弥陀如来ということになるのだろうか。
池には蓮華が咲き、蓮華や蓮の葉の間に水の流れが描かれ、2羽の鳥が飛んでいる。蓮池水禽図では水辺の鳥が描かれるが、ここでは尾の長い小鳥になっている。   

蓮の葉にしては妙だと思っていたら、クジャクの尾羽だった。身をかがめて尾をあげ、餌を探している様子。


繊細な刺繍による仏画では、この飛ぶ鳥はオナガらしい。州浜にはもう1羽、羽を繕っているカモのような鳥も。カモだけが水禽だが、蓮池水禽図と呼んでも良いだろう。


この蓮池図を見ていて、若い頃に蓮池水禽図には必ず病葉(わくらば)が描かれていることに興味をもったのを思い出した。それについては次回。


          藤田美術館←     →蓮池水禽図

参考サイト

参考文献 
「水墨美術大系第3巻 牧谿・玉澗」 戸田禎佑 1978年 講談社
「水墨美術大系第10巻 光悦・宗達・光琳」 山根有二 1978年 講談社


2022/12/23

白衣観音図 日本


日本でも白衣観音図はよく描かれた。


白衣観音図部分 鎌倉時代末期 一山一寧(1299来朝-1317没)賛 絹本墨画淡彩 89.2X38.2㎝
 『水墨美術大系第5巻 可翁・黙庵・明兆』で海老根聰郎氏は、初期水墨画の発展に力があったのは、禅僧と禅林社会であるが、彼等が中国から舶載し、受容した作品のうちには、中国の職業画工の作品がかなり含まれていたと思われる。観音のような広い信仰にささえられ、需要の多かった図像には、特にそうした例が多かったと思われるが、本図の作者が下敷きにした作品は、そのようなものであったろう。
この図にみる、衣褶のくまどり、微妙な衣の襞の再現、観音の右手の位置などは、卓抜な技巧の持主にしか実現できない、高度な写実表現が原画にあったことを伝えているし、衣の下縁部にみえる文様や、顔面の精細さは、禅余の率意の作品とはことなった仕上げの作品であったことを充分推察させるのである。本図の画家は、それらをかなり忠実に再現しえているが、不明瞭な細部や、対象表現から浮き上がった生まな線描をのぞかせているのは、いかにも初期水墨画らしい、ういういしさといえるであろうという。
芦葉達磨図は知っていたが、白衣観音が大きな蓮華に乗るとは。どこへ行くのだろう。
一山一寧が賛を書くほどの者が描いているのだから、崖に結跏趺坐したり、くつろいだりする図と同じくらい画題としては成立していたのだろう。
一山一寧賛白衣観音図部分  『水墨美術大系第5巻』より


白衣観音図 鎌倉時代末期・1319年以前 約翁徳倹賛 絹本墨画 100.8X41.7㎝
同書で衞藤駿氏は、補陀落山中にあって竹林を背景にした幽境の岩上に瞑想する白衣観音に、善財童子を配している。図様は中国元代水墨白衣観音図を踏襲しているが、暈渲豊かな水墨技法はかなりの習熟を示している。
賛者の約翁徳倹(1244-1319)は鎌倉の出身で、蘭溪道隆に師事し入元帰国の後諸寺を歴任、文保元年(1317) 一山一寧をついで南禅寺に住した。南禅寺塔頭法皇寺に自賛の頂相がある。元応元年(1319)、76歳で示寂しているから、本図はお よそ1300年前後の制作と推定され、制作時期を明確にする初期水墨画としての資料価値は高いという。 
善財童子が登場する白衣観音図は珍しい。
善財童子については安倍文殊院の文殊菩薩と善財童子の像が有名だが、53人の善知識を訪れ、普賢菩薩と同等の智識を得た。詳しくはこちら
約翁徳倹賛白衣観音図  『水墨美術大系第5巻』より


白衣観音図部分 鎌倉末-南北朝 伝良全筆 常盤山文庫 絹本墨画淡彩 95.4X47.8㎝
同書で衞藤駿氏は、 妙興寺本乾峰士曇賛白衣観音図の筆致に近似するもので、良全画および同時代絵仏師系画人による水墨画の様相を知る上に貴重な資料である。
従来可翁筆と伝えられて来たがもとより確証はなく款記印章ともに存在しない。複雑に構成された前景の岩座、遠景の土坡、そして松樹は、控え目に引かれた衣文線に比してやや意欲的に描写されている。座右に置かれた楊柳、煩瑣な松葉の表現は片隅に配された滝と波頭の表現とともに新流入の水墨画法を試み、その模索的な態度が逆に本図に古様を与えているという。
岩に寄りかかって水の流れを愉しんでいるのだろうか。
伝良全筆白衣観音図部分  『水墨美術大系第5巻』より


白衣観音図部分 室町時代初期・14世紀前半 黙庵筆 平石如砥賛 絹本墨画 121.4X49.0㎝
同書で海老根聰郎氏は、白衣観音という題材は、黙庵が生存していた元末には、観音より も周囲の山水描写に作者達が腕をふるう場となっている。黙庵に山水の作はないが、「四睡図」にみる微細な墨調の使いわけは、彼が山水画をも描ける力量の持主だったことを思わせる。
しかし、本図にみる黙庵は、暗示的に素っ気なくしか、背景を描かない。表現の主眼は、観音とその微妙な表情におかれている。その意味で、彼はいささか古風である。白衣観音図は、当時多量に描かれたらしく、ほぼ相似たものがいくつかあり、本図とまったく同じ観音の形姿をもつものも2、3ある。ただ本図にみる、対象を単純化していく、息の短い曲線は、黙庵のものである。上方に平石如砥の天童寺住持時代の題賛があるから、この作品は、天暦(1328-30)から元統(1333-35)にかけての作品であり、入元してから比較的年月をへていない頃のものと考えられるという。
背景の崖や寄りかかる岩は没骨で表されていて、筆の運びで描かれた白衣観音はその中で際だっている。
黙庵筆平石如砥賛白衣観音図部分  『水墨美術大系第5巻』より


白衣観音図部分 室町時代初期・1352年 徹翁義享賛 真珠庵 絹本墨画 108.3X50.7㎝
同書で衞藤駿氏は、図上に正平7年(1352)の年記をもつ大徳寺第2世徹翁義亨の著賛があり本図の制作年代を知ることができる。
飛瀑を伴う樹下岩上に安坐する楊柳白衣観音で、画面構成は背景などを含めかなり煩瑣ではあるが、淡墨と流れるような筆線の巧みさが全体を瀟洒なものにしている。おそらく絵仏師系画人の手になるものと思われるが、達者な筆法ではあるが量感に欠け、骨法も未熟である。藪本家室町時代の制作と思われる本図の模本が存在するという。
柳の枝を持つものを楊柳観音と呼ばれている。
観音は滝を見上げているというよりは、その爆音をしみじみと聞いているよう。
徹翁義享賛白衣観音図部分  『水墨美術大系第5巻』より


白衣観音図 室町時代・1361年以前 良全筆 乾峰士曇賛 絹本墨画 88.4X40.2㎝ 妙興寺蔵
同書で衞藤駿氏は、瀑布を背景とした水中の岩上に趺坐瞑想する正面向きの白衣観音図で「良全筆」の款記は画面向って左下隅にかくし落款風に墨書されている。
図様は水墨白衣観音図として通常のもので、中国画の模写的稚拙さはなく流麗な筆致をもった良全画中の白眉といえる。ここでは絵仏師的な硬直した筆致は水墨画的な方向へ移行していることがわかる。賛者の乾峰士曇は筑前博多の出身で上洛後諸寺を歴参した後、建武4年(1337)東福寺、貞和4年(1348)南禅寺に住し、ついで関東に下って文和4年(1355)円覚寺の長となり康安元年(1361)に示寂している。本図は年記を欠くが歿年を最下限とすることはできる。
良全画に士曇が著賛する作例には騎獅文殊図(正木美術館)があり、両者の関係が東福寺を介して密接であったことが指摘できる。なお良全画には「海西人良全」の款記をもつものがあり、海西すなわち九州出自とする説、中国とみなす説、さらには朝鮮と解する見解もあるが、画格に相当なひらきが認められ、仏画的作例の描法から推察すれば日本の絵仏師的素養をもつ画人と考えるべきであろう。なお良全面には「良詮」の款記も併用しているという。
岩座下には激流が表されているが、それでも眉一つ動かさない白衣観音である。
しかし、白い大衣は両肩から外されて、胸前にたぐり寄せられている。
良全筆乾峰士曇賛白衣観音図  『水墨美術大系第5巻』より


白衣観音図 室町時代・1370年ごろ 愚渓筆 絹本墨画 大和文華館蔵
 『日本の美術69』は、漁樵山水図の中幅で、岩上に坐る最も典型的な形の図である。しもぶくれの顔が不思議な魅力をもち、非常に簡潔に描かれた描線がつくり出す雰囲気とともに素朴さが好ましい。水上に突き出すように描かれる岩坐の表現において大樹寺本にみられるような鋭角的な角の線がなくなり、丸味をおびた量感の描写が可能になった時代の進歩を考えなければならないという。
雨の当たらない岩陰で、安定した大きな岩の上に円形の敷物を敷き、坐している。その下には穏やかな流れがある。
大和文華館蔵 愚渓筆白衣観音図  『日本の美術69 初期水墨画』より 

そして水甁ではなく鉢が置かれていて、その縁には一枝の楊柳が無造作にのせてある。
丸顔の白衣観音図は少ないのでは。
大和文華館蔵 愚渓筆白衣観音図  『日本の美術69 初期水墨画』より


白衣観音図部分 南北朝時代・15世紀 吉山明兆筆 健中清勇賛  紙本墨画 61.2X28.4㎝  東京国立博物館蔵
同書で金澤弘氏は、図右下隅に破草鞋の印があり、上部に建仁寺122世を董した 健中清勇の賛詩がある。図はMOA美術館本と全く等しい景物によって構成されるが、中央岩上に観音が全身を現わして端座する点が異なる。
観音は非常に細身で、面貌、衣ともに軽やかな墨線が流麗に形づくる。下方の岩は対称的に力強い焦墨によって端的に表わされる。円光の外側と上半身及び衣のすその部分に外隈的に墨のぼかしを用いて浮き出させる手法は「大道一以像」にもみられる手法で、この図の特色になっている。この技術と、強い感じの岩座と軽い観音の対比によって、この図はきわめて静止した印象を与えるようである。
なお像そのものの表現は明兆の白衣観音のうちではもっとも古様で、愚谿の「白衣観音図」などに近い。永享年間(1429-41)に没したと思われる健中清勇の賛はその位置、図の構成から考えて当初は予定されていなかったものであろうが、図の制作期と距たらない永享年間のものであろうという。
崖や岩が、太い線で表され、植物ともに濃墨で描かれる。点苔がほどよく散らされている。
明兆筆健中清勇賛白衣観音図部分  『水墨美術大系第5巻』より


白衣観音図部分 15世紀初頭 明兆筆 天性寺  絹本墨画 74.7X36.5㎝
同書で金澤弘氏は、明兆の白衣観音図中もっとも本格的な図で、先人良全の「白衣観音図」と同の趣をもつ。格調のある衣紋線が周到に像を形づくり、面貌描写も非常に精緻である。これと対応するように水中につき出した岩も、明兆としてはかなり本格的な法を用い、明暗の諧調もきわめて自然で、優れた立体感をもっている。下部の水波と笹様の草も濃墨で描かれ、上部の懸崖と垂れ下る夢の没骨描による中墨との対比も見事で、完璧な遠近感をみせている。図右下隅に「明兆筆」の落款と明兆の壺印があるが、壺印は他の作品にみられないもので信はおけない。筆致から推して、この強い筆線と完全な構成は「普明国師像」に近く、作画年もこれに近い15世紀初頭の明兆の完成期にあたるものであろうという。
明兆筆白衣観音図部分  『水墨美術大系第5巻』より


白衣観音図部分 室町時代中期 伝明兆(1352-1431)筆 東福寺蔵
 『水墨美術大系第5巻』には参考図版としてモノクロームで記載され、解説がない。2023年10月7日から開催される京都国立博物館での「東福寺展」に展示されるらしいので、これがどのような作品なのか期待している。
東福寺蔵伝明兆筆白衣観音図部分  『水墨美術大系第5巻』より

東福寺展図録ではもちろん大きな図版が記載されていたので、それも添付するが、詳しくはこちら
東福寺蔵吉山明兆筆白衣観音図 東福寺展図録より


白衣観音図 室町時代・15世紀 霊彩筆 紙本墨画淡彩 93.1X37.7㎝ 玉泉寺蔵
同書で金澤弘氏は、図中、岩石の間に「霊彩」の隠し落款があり、脚踏実地の白文方印をもつ。隠し落款の手法は中国の宋時代からしばしば用いられたものであるが、わが国の室町水墨画では数少い。
図は真正面から端正に坐る白衣観音を捉えているが、像の描線も他の霊彩画ほど抑揚のある線描ではなく、赤脚子ほどの煩雑さもなく、洗練されている。像の静止した姿に較べて波頭の動的な描写は見事な調和を示していて好ましい。岩の表現はさほど強いを用いずに墨色豊かに面的に表わし、陵線に沿ってわずかに描き残された白地が巧みにハイライトになり、岩の量感を表わしている。霊彩は赤脚子と異って道釈人物画のみにその筆跡をとどめる画家で、この派で最も特徴的であるが、本図はなかでも最も静かで端正な図といえる。伝統的な画題と伝統的な構図を踏襲したためであろうか。衣紋、瓔珞などに淡彩が賦されているという。
顔は正面を向いているが、視線はやや下を向くが、手先を見ている風でもない。ぼんやりとお茶を点てているのだろうか。
霊彩筆白衣観音図部分  『水墨美術大系第5巻』より


白衣観音図部分 室町時代・15世紀 赤脚子筆 紙本著色 93.0X34.7㎝
同書で金澤弘氏は、赤脚子の印は古くから知られていたが、その伝記は全く判っていない。建仁寺の古心慈柏や東福寺の愚極礼才(1452歿)の賛があることと、この印形が明兆の破草鞋、霊彩の脚踏実地に非常に近いこと、さらに画風のつながりから東福寺画系の第3の画人と確認されるが、遺作はかなりの数に及んでいる。
図は深山の奥、渓流につき出した岩上に坐る白衣観音の典型で、他の赤脚子の白衣観音図と比較しても、背景の布置が異なるものの像自体の表現はほとんど同じで、一種の形を用いた制作を思わせるほどである。またこれが赤脚子の多作の一因にもなっているのであろう。像の線描は非常に煩瑣で、短く切断され、ひだを表わすのに平行状の曲線を多用し、しかも筆速がない。この特徴は明兆、霊彩より強調され、そして明兆の力強さはなく、霊彩の洗練さには劣るが非常にまとまりのよい特徴をもっている。背景も同様に複雑で、えぐられたような形の岩、わき立つような波頭、多用される緑青を伴った点苔などに赤脚子独得の画風を示している。なお左方岩の間に赤脚子白文印が捺されるという。

赤脚子筆白衣観音図部分  『水墨美術大系第5巻』より


白衣観音図部分 室町時代・16世紀 一幅 紙本墨画 46.3X20.7㎝ 茨城県立歴史館蔵
 『雪村 奇想の誕生展図録』は、雪村は生涯数多くの白衣観音図を描いているが、本図は常陸時代の最初期の作。
白衣観音図は室町時代の水墨画の世界でも数多く描かれ、本図もしかるべき手本があったかもしれない。岩座と崖は没骨で、観音の衣文線は太筆で引かれるが、とくに膝前から裾にかけての筆はまだこなれていないように見えるという。
確かに結跏趺坐する膝の膨らみの表現が変。
茨城県立歴史館蔵雪村筆白衣観音図  『雪村 奇想の誕生展図録』より


観世音図 室町時代・16世紀 一幅 紙本墨画 59.3X16.5㎝
同展図録は、一葉の蓮弁に立って水上を行く白衣観音を描く。この画題は古い作例では一山一寧(1247-1317)賛の白衣観音図が知られ、こちらは蓮弁型の光背を背負う。また雪村作品としては、本作のほかに、白文方印「鶴船」と朱文印「雪村」を捺す円光を背負った一葉観音図が知られる。
あるいは祥啓作品の模本や、祥啓の弟子の興悦筆観音・寒山拾得図にもやはり円光を背負った一葉観音が見られ、水難を退けるという一葉観音の姿は、関東水墨画壇において親しまれたモチーフと考えてよいだろう。雪村の人物画にしばしば登場する、大きく翻る袖や衣の裾の描写が、ややたどたどしい線ながらも本作にも見られるという。
一葉観音は水難を退けるらしい。
雪村筆観音図  『雪村 奇想の誕生展図録』より


観音・龍虎図うち観音図 安土桃山-江戸初期 狩野興以筆 三幅対中幅  紙本墨画 各167.0X93.0㎝ 長野県建福寺蔵
 『水墨美術大系第8巻』は、興以の確実な基準作は必ずしも多いとはいえない。そのように数少ない彼の基準作品の代表作のひとつとして、つとに知られているのは、これらの三幅対である。その各幅には、「狩野」(朱文長方形)、「法橋」(朱文火灯窓形)、「興以」(朱文方形)の三印記が捺されている。
興以は、師光信の弟孝信からその愛児守信(探幽)、尚信、安信の薫陶を託されたところから推すに、単に画技が堪能であったばかりでなく、人柄も温厚篤実で信頼すべき人物であったにちがいない。
ところで、これらの三幅対の画因が、牧谿画より得られたものであることは明らかで、特に龍虎図は、牧谿筆龍虎図(大徳寺蔵)に学ぶところが多い。しかし中幅の観音図は、牧谿の観音図(大徳寺蔵)に比べると、観音そのものの姿態や背景の描写において工夫のあとがみられる。その描写は、詳細であって、岩にみられる柔らかな皺法は牧谿画に学ぶところがあったのであろう。そして観音の容姿はなかなか美しく、牧谿画の観音の崇高な気高さとは異った一種親しみ深い美しさが感じられるという。
牧谿筆白衣観音図はこちら
表情は牧谿筆白衣観音図によく似て穏やかである。これから結跏趺坐するのか、その後で立ち上がろうとしているのか、両足の動きが他に例を見ない。
それに、頭光が岩の隙間より奥にあるように感じる。
長野県建福寺蔵狩野興以筆白衣観音図  『水墨美術大系第8巻』より


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関係項目
明恵の夢と高山寺展 善財童子は善知識を訪れる


参考文献
「水墨美術大系第5巻 可翁・黙庵・明兆」 田中一松 1978年 講談社
「水墨美術大系第8巻 元信・永徳」 土居次義 1978年 講談社
「日本の美術69 初期水墨画」 金沢弘 1972年 至文堂

2022/12/16

白衣観音図2 中国


水墨画の画題に白衣観音図というものがある。 『水墨美術大系第3巻』は、観音は宗派をこえた広い信仰によってささえられ、宋以後、技法的にも図様的にも、さまざまなかたちで描かれてきた。水墨画の観音には白衣をきて岩上に安坐する姿を描いたものが多いが、時代を下るにしたがって観音の姿よりも周囲の点景物に作者の関心がうつっていくという。

以前にまとめた白衣観音図1とやや重なるが、できるだけ年代順にまとめてみた。


白衣観音図 南宋(12世紀中頃) 掛幅 絹本著色 40.4X40.4㎝ 
 『水墨美術大系第4巻』で戸田禎佑氏は、この作品は、淡雅な色彩と洗練された瀟洒な形態の美しさにより、南宋の人物画のなかで、ひときわ目立つ存在である。やや顎をつき出すようにして坐る観音の姿態には信仰の対象というより、鑑賞的性格の強さがうかがえる。頭上に化仏が画かれていないことも(水墨の白衣観音の多くは化仏がない)、これとかかわるものかもしれぬ。肥痩のない衣文線は李公麟風の白描画の存在を意識しているが、この描線に胡粉による白線が添えられて、静かななかに華やかさを醸し出す。
観音の坐る蓮座の描写は仏画の枠のなかではあるが自然の花に近く、蓮華の蕊はさまざまに倒れ伏している。このような繊美な絵画は、単なる画工というより個性をもった画家の創作と考えたい。おそらく院体の花鳥画・美人画等をよくした人物ではなかったろうか。
なお、この「観音図」は大正3年7月17日付で高津村(現大阪市城南地区)大仙寺より久原家に譲渡された。田能村竹田もかつて大仙寺を訪れており、彼による本図の写しも現存しているという。
確かに蓮弁は優美で、蕊の上には蓮華状の敷物のようなものが見え、その上には着衣の端だろうか、薄い布帛が蓮弁のように重なっている。極めて座り心地が良さそうだ。
白衣観音図 南宋  『世界美術大全集東洋編6 南宋』より


白衣観音図部分 南宋後期 笑翁妙堪(1177-1248)賛 掛幅 絹本墨画 119.0X44.2㎝
『水墨美術大系第4巻』で戸田禎佑氏は、この「白衣観音立像」は、衣文線をかなり太い筆線でいて、姿態の大要をとらえ、顔貌、瓔珞、手のあたりの描写には細密な白描風の描写を用いている。衣文の大胆ともいえる大まかな筆使いは、故宮博物院所蔵の趙孟類筆と伝える「魚籃観音図」の表現に近く、 両者には様式的に何らかの関わりあいのあることがわかる。すなわち、趙孟類筆とされる「魚籃観音図」は、趙孟類の真蹟とは認めがたいものの、その特異な画風は、この「白衣観音図」の存在によって根拠のあるものとみる推察が可能なのである。また、本図に様式的に近い作例として、円覚寺の伝牧谿筆「観音図」があげられようが、円覚寺の作品よりも本図の方がさらに洗練されており、より本格的な作品といえるであろうという。
このような立ち姿の白衣観音は珍しい。特に裳裾の翻る描写が、一筆書きで素早く描いたようでいて秀逸である。
笑翁妙堪賛白衣観音図部分 『水墨美術大系第4巻』より 


観音猿鶴図(三幅)うち観音図 南宋末元初(13世紀後半) 牧谿筆 大徳寺蔵 掛幅 紙本墨画淡彩 172.2X97.6㎝
 『水墨美術大系第3巻』で海老根聰郎氏は、本図は、妙心寺の僧太原崇孚が大徳寺に寄付したものであるが(『正法山誌』)、牧谿画中の最高の作品として、最大級の賛辞の言葉で埋められてきた。ここでは、中唐以来変化と発展を示してきたあらゆる水墨画の技法が駆使されているが、彼の他の作品と同じように、深い自然観察にもとづき、対象が適確に把握されている。
筆墨法には、名式をもって呼ぶべき皺法や、線描法もなく、放縦なところや、目立ったところもない。すべては自然で、大らかにみえる。この印象は、牧谿の空間感覚に由来するのであろう。物象は孤立的ではなく、周囲の空間と統一的に、融和的にとらえられ、障壁画性と呼びうるような大きさを画面に与えている。彼は手びろく多くの題材を描いたが、この画の空間感覚は山水画的である。彼の山水画を、瀟湘八景図巻で考えるならば、その意図するところは、北宋的な大観的なスケールにある。本図のもつ大きさもその辺に起因するのだろう。観音も、猿も、鶴も普通の形体よりも大きく巨大にみえ、作品自体も、あたかもどこかの寺院の壁面にかえろうとしているようにみえるという。
岩の上に結跏趺坐しているが、ややそれを崩して描かれ、安堵感を醸し出している。
大徳寺蔵牧谿筆白衣観音図  『水墨美術大系第3巻』より


白衣観音図はくつろいで岩に寄りかかり、崖下または水面を眺めているような、あるいは物思いにふけっているような図柄の方が多い。

観音図部分 元代(13世紀後半-14世紀後半) 伝牧谿筆 掛幅 絹本墨画 154.5X93.7㎝ 円覚寺蔵
 『水墨美術大系第3巻』で海老根聰郎氏は、本図は大幅で礼拝像的な大きさをもっているものであるが、画家は岩石や竹葉の描写に観音より以上の関心をもって描写している。観音の姿は伝統的なパターンを踏襲したもので、垂下する衣文の形式的なまとめ方は、元代の仏画一般に広くみとめられるものである。
一方、丸みのある岩の形や岩、竹葉の描写は、元代文人画の李一派の描写形式と近似している。本図はこのように二つの別個の表現形式を一画面に混在させたものであるが、これは元代の職業画工の道釈人物画にみられる特色である。補墨のために画致をそこなっているところもあり、画家の手腕も第一級のものとはいえないが、種々の問題を提起する興味深い大幅であるという。
寛ぎすぎではありませんか観音さん。
ということで、牧谿筆と言い伝えられているが、元代(1279-1368)の職業画工であろうとされている。
円覚寺蔵伝牧谿筆観音図  『水墨美術大系第3巻』より


観音図 元代・14世紀前半-後半 平石如砥賛 掛幅 紙本墨画淡彩 55.1X25.2㎝
 『水墨美術大系第4巻』で海老根聰郎氏は、この画にみられる一種繊弱な線描は、作者が李公麟流の白描画を意識していたことを思わせるが、ここには、伝称作品や、後継者のものを含めた彼の作品に共通してみられる対象の起伏をたどっていこうとする意志はみられない。画家は、抽象的な円形の中に、それにみあった形に観音の形姿を抽象化する。そして唇に点じられた 朱、下方の衣の裏の青がひびき合い、線描と協力してリリックな印象を与える。作者のねらいもそのような情趣的表現にあったと思われる。本図は白描画が情趣的表現と結合した一例とみられ、これはそれなりに白描画の一つの展開とみられないこともない。
賛者平石如砥は、東巌浄日の法嗣、本図の賛末にあるように五山の一つ天童寺に、天暦2年(1329) 入寺し、至正17年(1357)に歿したという。
観音がすっぽり収まるこの大きな円は光背ではないらしい。
平石如砥賛観音図部分  『水墨美術大系第4巻』より


観音図部分  中峰明本賛 掛幅 紙本墨画淡彩 42.5X29.4㎝
同書で川上涇氏は、蓮の葉の舟に乗り、楊柳の枝を手にした観音を画く。顔と髪に胡粉を用い、唇には朱を点じ、眉を濃墨であらわす。風にひるがえる 天衣や布の裾の線の折れ曲ったところに、僅かに太く濃い個所が見 えるほか、淡墨の肥瘦のない筆線で慎重に画かれている。典型的な 白描画の一佳作。
図の上部に中峰明本(1263-1323)の賛があり、笹の葉のようだといわれた明本の筆くせは出ているが、印章もなく、「魚籃観音図」の賛とともに検討を要するという。
芦葉達磨図はあるが、蓮の葉に載る観音は珍しいのでは。
中峰明本の賛があるので、制作期の分かる作品かと思っていたら、それが疑われている。
中峰明本賛観音図部分 『水墨美術大系第4巻』より 


観音図 元代・1330年以前 絶際永中筆 中峰明本賛 掛幅 紙本墨画 78.9X31.7㎝
同書は、本図の左下隅には、篆書の「幻住永中」の落款がある。幻住庵は、中峰明本が定居なく諸所に草庵を結び、それらすべてに幻住と榜したことにもとづくが、本図のそれは、平江(江蘇省呉県)のもので、永中とは、そこに中峰とともに住した禅僧、絶際永中のことである。彼は、中峰が平江を去った後も、ここに止まり、『鐔津文集』、 『稲門警訓』などの出版にたずさわり、この地で、至順元年(1330)前後に寂したという。
これは中峰明本の賛であることは確かな作品のよう。素人目ながら、確かに笹の葉のような筆づかいである。
この白衣観音図は、どこにすわっているのかもわからないが、よけいなものを排した閑かな図に見受けられる。
絶際永中筆中峰明本賛白衣観音図部分  『水墨美術大系第4巻』より


白衣観音図 正悟筆 元代・1324年以前 雲外雲岫(1242-1324)賛 京都国立博物館蔵 掛幅 絹本 127.2X54.3㎝
海老根聰郎氏は、観音は宗派をこえた広い信仰に支えられ、さまざまなかたちで絵画化されてきた。その表現形式や図様の多様なこと、また、さまざまな身分の画家達がその制作にたずさわったことはおどろくべきことである。水墨画の観音にかぎっても、さまざまなこころみがなされてきたが、水流から突出した岩上に安坐する観音を描いたものが、もっとも多いタイプであり、そこには、一定の描写形式があって、観音を白描風に精細に、背景を粗放な水墨画で描いていく。
この元僧、雲外雲岫の題賛のある作品も、ほぼそのようなタイプの作品である。ただ観音の形姿は、画工の描いた著色画から抜け出してきたような固さと、細部表現がのっていて、奇妙な茸状の岩座をかく、藁筆風の描写とアンバランスな状態になっている。なお、岩座中に隠し落款風に、正悟とよめる落款があるという。
平石如砥賛観音図と同様に、大きな円の中に観音が結跏趺坐している。
京都国立博物館蔵正悟筆雲外雲岫賛白衣観音図部分  『水墨美術大系第4巻』より


観音図部分 伝牧谿 元末明初(14世紀後半) 掛幅 絹本墨画 76.6X37.4㎝
同書で海老根聰郎氏は、本図の観音の形姿は、長い間くりかえし描かれてきたもので、よ く似た姿をしばしばみることができる。垂下する衣文の先端が独特の形にとがっているが、これも水墨といわず、著色の観音図にも広くみられるところである。
本図の目立つところは、岩石や水波をえがく粗豪な水墨技法であろう。濃墨の二、三筆で描く樹木、没骨の巾広いで肉付けされた岩石、波頭をあげる水波の描法、これらは速筆で一気に描き上げたようになかなか巧みであり、作者は山水画をもかきうる人であることを思わせるが、印象は、静寂な観音の住する境界とはうらはらにさわがしく、動勢に富んでいる。この印象は、明代の派の山水画にも通じるもので、本図にみられる水墨技法もそれに近いものがみられる。おそらく、浙江地方に伝統的な縦逸な水墨画の影響のもとにこの画もつくられたものと思われるという。
これもまた牧谿の名を冠した後代の作品のようだ。
観音に大きな頭光が表されている。
伝牧谿筆観音図  『水墨美術大系第3巻』より


白衣観音図部分 清遠文林賛 元末明初 掛幅 絹本墨画 93.7X39.7㎝
同書で海老根聰郎氏は、本図の賛末に普慈比丘文林とあり、青遠の印がある。明初の禅僧円極居頂(1404年卒)の『円菴集』には、青遠禅師が昌国(寧波府定海県)の普慈寺に住する際の疏があるが、この賛者文林は、この清遠禅師ではなかろうか、もしそうとすれば、元末明初の人となり、描写形式からみた制作年代とも一致する。
宋あるいは元時代にさかんに描かれてきた水墨の観音図には一定の描写形式がある。それは、観音を比較的細緻な白猫体で仕上げ、背景の岩石や水流を粗放な水墨画で描く方式であるが、本図もほぼその形式になる。観音はしばしば類似のものがみられる形姿に描かれ、岩石は大まかな法で肉付けされる。この描法も、同時代の羅漢図などにみられるもので、本図は職業画工が手なれたパターンを組み合せて作り上げた作品のように思われる。水墨の白衣観音の作例としては、最末期のものと考えられる点、史的価値があるという。
明初以降は水墨画では白衣観音図は描かれなくなるという。飽きられたのだろうか。
清遠文林賛白衣観音図部分  『水墨美術大系第3巻』より


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参考文献
「日本の美術69 初期水墨画」 金沢弘 1972年 至文堂
「水墨美術大系第3巻 牧谿・玉澗」 戸田禎佑 1978年 講談社
「世界美術大全集東洋編6 南宋」 2000年 小学館