ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2015/10/06
頭を下にして舞い降りる飛天
以前に敦煌莫高窟で飛天について調べたことがあり、薬師寺東塔水煙の飛天のような倒立とはいかないまでも、頭を下にして飛来する例が、隋末唐初(7世紀初)以降の窟にみられることがわかった。
390窟北壁中央 説法図
頭を下にして華籠や蓮華を持って天から舞い降りてきた様子が描かれているが、胴体はほぼ水平で、脚だけが上に残っているような描き方。
初唐期(618-712)になると、
220窟北壁薬師経変
天蓋右の飛天は、五色に尾を引く雲の間に、頭から飛び込むように両手を頭の上で合わせている。体は足の先まで真っ直ぐ伸ばしているのが、細い裙の両側に少し出ていることでわかる。
敦煌莫高窟の他の窟の飛天について詳しくはこちら
石造の舟形光背石像などでも、頭を下にして飛来するものもある。
如来三尊像 唐、長安3-4年(703-4) 石造 高110.6㎝
『なら仏像館名品図録』は、陝西省西安市宝慶寺の仏殿及び仏塔に嵌められていた石仏群のうち1点。この石仏群は元来、女帝武則天(在位690-704)が、側近の僧徳感を総監督として長安3年から翌年にかけて造営させた、光宅寺七宝台(仏塔とみられる)を荘厳していたものであるという。
仏龕の中に天蓋があり、その左右にははっきりと頭を下に、両脚を上にして宙に舞う飛天が表されている。
拡大すると、右の飛天は手の仕種は不明だが、両脚をそろえ、天衣は体に添って長く上にたなびいている。左の方は、小さな華籠を両手で持って、脚は開いて足の先から天衣が長く伸びている。
でも、この作品は8世紀初頭のもの。日本でもそれ以前に頭を下にして宙に舞う飛天が出現している。
中国の飛天を遡っていくと、
弥勒菩薩交脚像 北斉、河清3年(564) 銅製鍍金 現状高27.8像高9.0光背幅26.0㎝ 1983年博興県龍華寺遺跡出土 博興県博物館蔵
『中国・山東省の仏像展図録』は、像は台座を含む本体、光背、それに光背外周に鋲留めされた宝塔と飛天を別々に鋳造している。
飛天は両手を上げて広げるように舞っているという。
飛天は左側と右側で向きが異なるだけで、片側には同じ型で作ったのではないかと思われる姿態に見える。
それは、頭を下にしているとまでは言えず、どちらかというと、上半身を起こし、胴から脚にかけては横にしたようなもので、それが舟形光背に付ける位置によって段々上半身が横に、脚が上になっているのではないだろうか。それでも、脚は上になった飛天ではある。
仏三尊像 北斉、天保9年(558) 漢白玉 総高120.3主尊像高59.0最大幅60.0台座奥行23.4㎝ 濵州市文物管理所蔵
同書は、光背に表された片手に宝珠を捧げる飛天の丸々として愛らしい姿も北斉の典型的作風を示しているという。
左右の飛天は、どちらも手前の膝から下を折り、向こうの足は裙からはみ出した裳から高く出ているが、頭を下にしてはいない。裳裾、天衣が共に後方に靡いている。
頂部の宝塔を2頭の龍ず捧げ持っているが、その姿は頭を下にして天より飛来した姿とも思える。ひょっとして、頭を下にして舞い降りる飛天は、このような龍の表現から派生したのかも。
菩薩三尊像 東魏、武定7年(549) 白大理石 高56.8幅35.9奥行20.8㎝ 大阪市立美術館蔵
微笑む菩薩に、天から舞い降りた飛天が宝珠を差し出している。飛天の脚は残念ながら欠けているが、残った箇所から判断すると、背ををU字形に反らせ、頭と同じくらいの高さで両脚を交差させている。かなり足が高い位置に残っているが、胸部から上は普通の姿勢となっている。
弥勒三尊像 東魏、武定4年(546) 石灰石 総高45.0主尊像高22.0光背幅27.0奥行9.0㎝ 1988-90年諸城市体育場出土 諸城市博物館蔵
『中国・山東省の仏像展図録』は、光背は先端を欠失しているが、頂に蓮華座に坐る化仏を表しており、その下の左右に2体ずつ、両手で円筒状の持物を捧げる飛天を表しているという。
体が半円を描くような姿勢で、ゆったりと宙に浮かんだ飛天だが、足は微笑んだ顔とは裏腹に、後方上に反らせている。
弥勒仏立像 北魏、孝昌3年(527) 石灰石 総高290.0像高216.0光背幅130.0光背厚140.基壇奥行61.0㎝ 1956-57年出土 山東省石刻芸術博物館蔵
同書は、北魏は天平2年(535)に、高歓の建てた東魏と宇文泰の西魏に分裂する。明るい微笑みを浮かべる表情に初々しさを見せる本像は、北魏末期の山東省の息吹をたたえているという。
光背の頂部に逆立ちする龍は逆立ち気味、その縁に左右4組の飛天が楽器を奏でながら、それぞれの姿勢で宙に浮かんでいる。
このように主に山東省の仏像を時代を遡ってみると、頭を下に舞い降りる飛天は、龍の姿からきているとも思える。
しかしながら、これらの飛天は、日本で最初期に現れた白鳳時代(7世紀後半)の細身の飛天とはかなり異なったものだった。
日本にはどのような形で頭を下にして舞い降りる飛天が伝わったのかはわからないが、細身という点では初唐期のものになるので、頭を下にして舞い降りる細身の飛天は中国で出現して、割合早い期間で日本にも伝わった可能性がある。
白鳳展2 透彫灌頂幡の飛天←
関連項目
白鳳展1 薬師寺東塔水煙の飛天
敦煌莫高窟14 飛天2 西魏以後
※参考文献
「中国石窟 敦煌莫高窟3」 敦煌研究院 1987年 文物出版社
「なら仏像館 名品図録」 2010年 奈良国立博物館
「大阪市立美術館 山口コレクション 中国彫刻」 齋藤龍一 2013年 大阪市立美術館
2015/10/02
白鳳展2 透彫灌頂幡の飛天
白鳳展では、法隆寺献納宝物の金銅灌頂幡が4点出ていた。本来は縦に6枚繋いで吊り下げていたことが、『法隆寺宝物館』の図版でわかる。
法隆寺の灌頂幡 白鳳期、7世紀中頃-末頃 銅製透彫鍍金 法隆寺献納宝物N058 東京国立博物館蔵
『法隆寺宝物館』は、法隆寺献納宝物には数多くの染織製や金銅製の幡が含まれている。なかでも灌頂幡は法隆寺献納宝物を代表する名品で、天平19年(747)の『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』に「金泥銅灌頂壱具」と記されたものにあたり、その名もこれに由来する。四角い傘形の天蓋から6枚1連の大幡と小幡4組をつり下げ、各部に精緻な透彫りと流麗な毛彫りで如来三尊像や供養菩薩、奏楽天人などを表している。縦長の坪の形や細部の意匠の特色からみて、7世紀後半のいわゆる白鳳期に制作された可能性が高いという。
『白鳳展図録』から、薬師寺東塔水煙の飛天に近いものをみると、
幡身第5坪 長76.7幅33.4㎝
『白鳳展図録』は、いずれも天人あるいは唐草文様を、銅板を透彫し毛彫を加えて表し、鍍金を施している。
第4坪には香炉を持す天人を2体、下方に舞踏、また笛を吹く天人を1体ずつ配置する。第4坪の意匠は第5坪でも繰り返され、第1坪に安置された如来像を中心とする仏菩薩とともに浄土を現出するという。
上部では、横向きの天人は、体を曲げ、脚を上に残して天から舞い降りながら、右手に香炉を持ち、良い香りを蒔き散らしているよう。
中段の飛天は、踊ったり笛を吹いたりしている天人たちに香りを降り注ぐべく、その上空に体を横向きにして浮かんでいるかのよう。
登場する天人たちはみな、顔に丸みがある。
金銅四隅小幡
『白鳳展図録』は、施入者の「片岡御祖命」については所説あるが、聖徳太子の娘の片岡女王(生没年未詳)にあたると考えられる。本品の制作年代は、大幡の縁金具と百済観音像の臂釧・腕釧における唐草文様の意匠構成、また法量も一致することが確認されており、制作の時期が近接することが指摘される。本品はその制作に長い期間を要したと考えられ、各部位は制作年代を異にする説も提出されており、7施中頃から末頃にかけて制作されたと推定できるという。
左側の部分
上坪の天人は斜め右を向き、毛彫りでその表情や着衣を表し、両腕を広げる。下坪の天人は蓮台の上に結跏扶坐し、横笛を吹く。
どちらも細身であるが、大幡よりも自然な人体表現となり、やや遅れて制作されているのではないかと思う。
そして、東博の法隆寺宝物館(2016年3月14日まで休館中)にはこれらの上にのる天蓋がある。区画の制約のあるなか、横向きに宙に浮く飛天が多いが、それぞれ横笛・筝・鈸などを奏でている。
『法隆寺宝物館』は、幡は仏堂内の天蓋や柱に懸けたり、境内に立てた竿の先に懸けて用いられる荘厳具の一つである。本品のように天蓋を伴うものを灌頂幡と称するが、この「灌頂」は密教の儀式とは異なり、古代インドで国王等の即位の時に四大海の水を注ぎかけて祝福したという風習が仏教に取り入れられたものという。
灌頂幡図解
また、白鳳展ではもう少し小さな金銅製透彫幡も展観されていた。獅子に合わせたのだろうか、横向きに配置されていたので、仏や天人を見るのは困難だった。周りの人たちも「見難いなあ」「分かりにくいなあ」と言いながら見ていた。
金銅小幡 白鳳期、7世紀末 金銅透彫鍍金 長304.0幅11.5-12.0㎝ 法隆寺献納宝物N060 東京国立博物館蔵
同書は、幡身は全体で7坪あり、第2坪から第7坪までは同程度の大きさであるが、第1坪のみやや大きい。各坪は銅板を透彫し、そこに毛彫を施すことによって文様を表し、鍍金を施し荘厳する。坪部は内外2条の帯と唐草文様とにより構成される縁部を設け、その内部には如来立像、如来坐像、菩薩立像、横笛を吹くかあるいは散華する天人、獅子を配する。いずれも部分的に彩色が点じられており、眉や目は墨、口唇は朱、頭髪部は群青の顔料が残る。
本品の一部の唐草文様には波状の刻線表現が見られ、これが法隆寺金堂の西の間天蓋に描かれた天人の戯画、阿弥陀三尊像(伝橘夫人念持仏)の蓮池など、法隆寺再建期の作品群に見られることから、7世紀末頃に制作されたと考えられるという。
第1坪
上から天蓋、如来立像、左手に蓮華の蕾をのせる飛天は宙で寝そべっている感じ。その下に気を吐く獅子。拡大してみると、口中が赤く塗られ、歯は白い。
第5坪
上から蓮華に結跏扶坐する天人は正面を向いて横笛を吹く。その下では、下降姿勢の天人が左手に蓮華、右手に華籠を持ち、下の獅子の前肢に掴まれそう。
第6坪
上から、右手に蓮華の蕾、左手に蓮弁を持った天人は下降しながら顔は正面に向ける。その下では天人が結跏扶坐して横笛を吹く。その下の天人は手には中庭も持たず、地面に接触した模様。
薬師寺東塔水煙の飛天も顔の輪郭は丸いが少し違う。
ところで、頭を下にして飛翔する天人というのは、中国ではいつ頃からあるのだろう。とっくにまとめていたと思ったら、まだだった。
白鳳展1 薬師寺東塔水煙の飛天←
→白鳳展3 法輪寺蔵伝虚空蔵菩薩立像
関連項目
白鳳展5 法隆寺金堂天蓋の飛天
白鳳展4 金龍寺蔵菩薩立像
頭を下にして舞い降りる飛天
参考文献
「白鳳-花ひらく仏教美術-展図録」 2015年 奈良国立博物館
「法隆寺宝物館」 1999年 東京国立博物館
2015/09/29
白鳳展1 薬師寺東塔水煙の飛天
奈良国立博物館の開館120年記念展が白鳳で、その図録の表と裏の表紙に、現在解体修理中の薬師寺東塔相輪の水煙の2つが使われていた。しかも造られたのは奈良時代という。白鳳展の図録の表紙が奈良時代のものって何で?
『白鳳展図録』は、平安時代の11世紀に編集されたとされる『扶桑略記』には、天平2年(730)3月29日に「始建薬師寺東塔」(はじめて薬師寺東塔を建つ)と記されている。薬師寺伽藍が藤原京から移築されたのか、それとも平城京において新築されたのか。明治時代以来議論がある。ただし、擦銘が天武天皇と持統天皇を称え、白鳳様式の水煙を掲げているように、東塔は白鳳時代以来の由緒、形式を大切にしている。平城薬師寺の性格を考える上で興味深い問題を提起しているという。
それで敢えて薬師寺のものを出したのか。
これがその図録の表紙。同じように編集しても、どうしても色が同じにならない。
東塔水煙 奈良時代、8世紀 銅製鍍金 各面高194.5下辺幅49.0㎝ 薬師寺
『白鳳展図録』は、薬師寺東塔の上部を飾る相輪の一部で、水煙は相輪の最上部に位置し、4枚あり、それが十字型に組まれる。4枚とも同じ意匠で、各面表裏は同文である。意匠は3人の飛天を表したもので、背景には飛天の天衣と筋状の雲が透彫されているという。
地上から東塔頂部のこの水煙を見ても、飛天は見分けられないだろう。それくらい巧妙に天衣のたなびく端や雲の尾の間に潜ませている。
同書は、飛天[上]は花のつぼみらしき物を両手で包み、ほぼ垂直に倒立する姿勢を見せる。飛天[下]は唯一帽子を被り、駆けるような姿を見せ、横笛を吹くという。
同書は、 飛天[中]は片手で華籠を持ち、もう一方の手は頭上に伸ばす。腰を「く」の字に曲げ、脚を若干広げている。飛天[上]ほどの倒立ではないが、頭を下にして斜め下方に舞い降りる姿を見せるという。
実は、飛天[中]は頭の上に手か足が付いていて、それで枠を支えているように見え、妙に思ったのだった。
また同書は、このうち飛天[中]は川原寺裏山出土の三尊塼仏(明日香村所蔵)や三重・夏見廃寺出土の三尊塼仏(当館所蔵)、法隆寺金堂壁画など白鳳時代の作品に見える飛天と近似した姿を見せており、水煙のスタイルが白鳳時代のものを強く反映していることがうかがえるという。
それらの作品も展示されていた。
三尊塼仏 白鳳時代、7-8世紀 土製 高23.1幅18.5㎝ 川原寺裏山遺跡出土 明日香村蔵
同書は、塼仏はすべて同型で起こされた方形三尊塼仏で、倚坐して定印を結ぶ中尊と、左右の脇侍、上方には天蓋と飛天が表されている。また裏面に「釋」「勒」や「阿弥他」と篦書きのある破片があり、それぞれ「釈迦」「弥勒」「阿弥陀」に対応すると考えられる。これを製作していた工人が表面の中尊を多様に認識していたことがうかがわれて興味深いという。
右飛天
かつて敦煌莫高窟を見学した時、敦煌研究院の王さんは飛天は仏が説法したりすると、その行いが素晴らしいと讃美するために現れますと言っていた。
この飛天はいかにも天から舞い降りたような姿で、左手に華籠のようなものを持っている。足の裏が見えたりと、水煙の飛天[中]の仕種に似ているが、顔はこちらを向いて笑っている。これは表情のない水煙の飛天が真横を向いているのとは大きく異なる点である。
三尊塼仏 白鳳時代(7世紀後半) 土製 復元:縦23.2横14.4㎝ 三重県名張市夏見廃寺出土 奈良国立博物館蔵
同書は、二光寺廃寺の大型多尊塼仏と同型品で、その一部とみられる破片中に「甲午年」(持統8年、694)の陽刻銘がある。
三尊塼仏は、中央に倚坐する中尊を置き、左右上方には散華を撒く飛天を表す。川原寺裏山遺跡や橘寺の三尊塼仏と基本的な構図は同じであるという。
川原寺の飛天と体の動きはほぼ同じで、顔も笑っている。異なる点といえば、両足の裏が見えているくらいだろうか。
三尊塼仏 白鳳時代(7世紀後半) 土製 縦23.5横18.3㎝ 南法華寺出土 同寺蔵
同書は、南法華寺は、飛鳥の南方、吉野に向かう山麓地に所在し、通称壺阪寺という。
図像は橘寺や川原寺裏山遺跡の方形三尊塼仏と同じであるが、型抜けにやや甘さがみられるという。
これまで見てきた飛天と似ているが、型抜けの甘さか、真似て作ったためか、なんとなくぼんやりとした雰囲気がある。肉付きのよい顔は笑うというよりは微笑んでいる程度。
水煙の飛天は、天衣や雲の間に組み込むという制約があるせいか、塼仏の飛天ほどには自由に宙を舞うような表現にはなっていない。それとも、仏像に微笑みのなくなる時期と重なるのだろうか。
飛天は塼仏だけではない。法隆寺献納宝物の灌頂幡にも透彫で表されている。
それについてはこちら
→白鳳展2 透彫灌頂幡の飛天
関連項目
頭を下にして舞い降りる飛天
白鳳展6 法隆寺金堂六観音像
白鳳展5 法隆寺金堂天蓋の飛天
白鳳展4 金龍寺蔵菩薩立像
白鳳展3 法輪寺蔵伝虚空蔵菩薩立像
※参考文献
「開館120年記念特別展 白鳳-花ひらく仏教美術ー展図録」 2015年 奈良国立博物館
2013/01/08
敦煌莫高窟14 飛天2 西魏以後
西魏時代、描かれる場所によって西域風飛天と南朝風飛天が表された。
その後の飛天はどちらが主流になっていくのだろう。
北周時代(557-581)
428窟北壁前部
『敦煌莫高窟1』は、初期では最大の中心柱窟で、縦13.75m横10.8m。
北壁人字披は木造建築の用に表現されており、その下の三角形の空間に説法図が描かれている。北魏の第259窟以降、この部分には大型の説法図が占めていたが、北周になって再び小型説法図が出現したという。
小型のため、仏三尊像の両脇には蓮台に坐る姿勢で供養菩薩が表され、本来は仏の頭部両側あたりに舞う飛天は、両端で仏の説法が素晴らしいと讃美している。
飛天の表現は、南朝風ではなく、第一期以来の重そうな体つきで、空間の都合で、お腹が下がった形にはなっていない。
頭光もあって西域風の飛天が描かれている。
同窟人字坡
同書は、敦煌石窟の中でも出色の人字披の図案。忍冬の間には蓮華、草花、飛天、馳鹿、飛鳥、猿などが華麗多彩に描かれるという。
描かれた丸地垂木の間に忍冬文が表される。左右の手にそれぞれ何かを持っている。両膝を開いて飛んでいる。
腕に複数回巻き付け、風にあおられて鋭く翻る天衣は、北魏以来の様式だ。
頭光はなく、中原風の飛天が描かれている。
北周末隋初(6世紀後半)
301窟窟頂南坡
飛天は秀骨清像的な細身ではなく、仁王のような逞しさがある。
天衣は一度腕を通しただけだが、その端が2~4本に分かれていたり、頭飾の紐が長く風になびいたりしている。
頭光はないが、天衣を何度も腕に巻いていない。これは新しい飛天かも。
隋時代(581-618)
407窟東壁門上 説法図
『中国石窟敦煌莫高窟2』は、東壁門上の説法図は北魏にできるが、隋代中期に再び採用されるという。
丸い天蓋の左右で釈迦の説法を讃美する飛天は、天衣を一度腕に通しただけだが、その天衣は細く、表が見えたり裏返ったりしながら後方にたなびいている。
頭飾や裙の紐なども白色で、もっと細く風に翻っている。
北周末隋初に出現した新しい様式の飛天だが、天衣・頭飾、裙の紐が長々と伸びていて、隋時代に完成した新しい飛天といっても良いだろう。
飛天の周りの雲気も、西魏の285窟のものからはかなり変化している。
西魏の雲気文はこちら
窟頂藻井
同書は、この窟の窟形、龕形、窟頂の天井装飾の様式は隋代中、晩期に流行する。
八弁の大蓮華には回りながら追う三兔の文様が描かれる蓮華の周囲には、藍地に飛翔する飛天が8体、藍色の天空を仰ぎ見るているのを彷彿とさせるという。
三兎の図は隋時代特有の意匠で、407窟のウサギは緑色だ。当窟は前回も今回も未公開窟だったが、他の窟で白いウサギが駆け巡っているのを見た。
407窟の三兎についてはこちら
大蓮華の周りを8体の飛天が流されるように描かれている。やはり天衣が頭飾や裙の紐と共に後方に長く伸び、その間にも新様式の雲気が入り込んでいる。手には開敷蓮華や未敷蓮華など様々な蓮華を持っている。
下図中央の飛天は天衣を着けておらず、着衣も偏袒右肩となっている。持物は蓮華の花弁をのせた華鬘だろうか。
隋末唐初(7世紀初頭)
390窟北壁中央 説法図
菩薩の背後には双樹、上には宝蓋、左右に脇侍菩薩が描かれる。壁画は弥勒菩薩説法図で、これは隋代の新しい題材であるという。
宝蓋の外側に一対の飛天が舞っている。正面を向いた顔は口以外はわからない。手に持っているのは双樹の花かな。
頭飾の紐はますます長くなり、裙の紐よりも長いくらいだ。
天衣は表裏を見せながら、優雅に翻っている。
南壁上部
こちらの飛天も説法図中の飛天と同じような表現になっている。
北周時代までは、描かれる場所によって西域風の飛天と北朝風の飛天が描き分けられていたが、遅くとも隋時代(581-618)には、新しい姿の飛天が登場する。
その姿は細身で顔は卵形、頭光はない。
天衣は両腕に一度通しただけで、頭部の上に丸く風を受け、その両端と頭飾や裙の長い緒が体に沿って流れ、表裏が翻っている。
そしてその飛天は、以前とは異なって、どの位置、どの図中にかかわらず、同じ様式で描かれるようになった。
初唐(618-712)
220窟
北壁薬師経変
『中国石窟敦煌莫高窟3』は、貞観16年(642)の紀年銘があり、初唐で最も早い時期の窟という。
説明がないのでよくわからないが、仏三尊が飛地味な飛雲に乗って東方薬師浄土に戻ってきている。
その横に、薬師如来の宝蓋を囲むように、左下から1体の飛天が雲と共に上昇し、左上から伸びた雲と共に、もう1体の飛天が下降している。天衣よりも飛雲の方が目立つ。
上昇する飛天の天衣は体に密着していて、スピード感を表している。下降する飛天は飛び込むように両手を頭上で合わせている。その天衣は右上に細く描かれるが、隋時代までの天衣と比べると地味な表現にとどまっている。
飛雲に乗る仏三尊の方が、それぞれに風に翻る天衣を着けている。
57窟 伏斗式天井西坡
隋様式の飛天とさほど変わらない。
南壁中央説法図
隋時代までは、大きな宝蓋の左右に飛天が大きく描かれていたが、この説法図では宝蓋は樹木の間から見え隠れするように小さく表され、飛天も左右両端にかろうじて描かれる程度になってしまった。
というよりも、一見して飛天だとは思わなかった。裙と天衣はわかるが、弧を描く天衣の内側を探して、ひょっとしてこれが飛天の頭部かなという程度にしか見えない。
この飛天も飛雲と共に描かれている。
321窟 西壁龕頂南側
『中国石窟敦煌莫高窟3』は、長い飄帯は隋風に伸びたり巻いたりしている。洗練された表現という。
長々と伸びる天衣、いや飄帯が印象的だ。初唐期を代表する飛天らしい。
初唐期の飛天はそれぞれに異なった表現となっているが、こらちの飛天も飛雲に乗っていて、これが初唐期の新様式といえるだろう。
盛唐(618-712)
39窟西壁龕頂
同書は、涅槃像龕内には、横になった仏塑像の上方に5体の散華する飛天が描かれている。『大般涅槃経・機感荼毘品』に従って、七宝真珠香花瓔珞が虚空に浮かぶ。図中の飛天は両手で香花を捧げて供養し、長い裙と披巾は花文で飾られるという。
ここでは天衣でも飄帯でもなく、披巾と呼んでいる。その披巾には花文まで描かれている。
盛唐になっても飛天は飛雲に乗っている。
初唐期には窟内の飛天は少なくなり、飛天ではなく、楽器や装身具が天衣をつけて虚空に浮かぶようになった。そして、盛唐期になると飛天の数はますます減っていく。
それは、壁画のテーマが様々な経変を主とするようになったことと無関係ではないだろう。
それとも飛天に飽きたのだろうか。
関連項目
敦煌莫高窟13 飛天1 西魏まで
敦煌莫高窟12 285窟は飛天が素晴らしい
法隆寺金堂天蓋から1 敦煌にも
※参考文献
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌研究院 1982年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟2」 敦煌研究院 1984年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟3」 敦煌研究院 1987年 文物出版社
2013/01/04
敦煌莫高窟13 飛天1 西魏まで
敦煌莫高窟の285窟の飛天は細身で天衣の表現も素晴らしかったが、それは南朝の影響によるものだった。
飛天は仏が説法したりすると、その行いが素晴らしいと讃美するために現れます
そう敦煌研究院の王さんは言っていた。そういうことだったのかと、窟内に無数に描かれた飛天に納得した。
莫高窟の飛天を古い時代のものからみていくと(書名のないものは、敦煌莫高窟の陳列館でコピー窟を撮影したものです)、
第一期 北涼時代(421-439年)
275窟南壁中層、四門出遊図部分
重そうな飛天は、腰を曲げて、「くの字」状に浮かんでいる。身につけているのは裙と呼ばれる長いスカート。西域風の飛天で、東漸して敦煌に伝わったものだ。
天山南道の真ん中あたりに位置するキジル石窟では、6-7世紀になってもこのようにお腹を下にして浮かぶ飛天が描かれている。
キジル石窟の飛天はこちら
頭光がある。
268窟 窟頂平棋 北涼
狭い通路の天井に大小のラテルネンデッケが並んでいる。その図はこちら
その一つが下図。
やはりお腹を下にして飛んでいる。
頭光がある。
272窟 西壁から南壁 北涼
西壁の大龕が掘られ、四壁の上部が次第に曲面になって、隣り合う壁の曲面と交わって狭まっていく。天井部中央のラテルネンデッケ(斗四藻井)は立体的に表されている。その図はこちら
ラテルネンデッケの四隅にはお腹を下にして飛ぶ飛天。
ラテルネンデッケの外側には楽器を奏でたり、舞ったりする飛天。
その下の曲面にもお腹を下にして飛ぶ飛天がいるが、西壁では大龕に向かって合掌する3体の飛天は、ややくの字気味だが、足を下にしていて、北涼時代の飛天では珍しい体勢かも知れない。
頭光がある。
第二期 北魏時代(莫高窟では439-535年、中央では386-534年)
435窟 前部人字披頂 北魏
西魏特有の天衣と思っていたものが、すでに北魏には描かれていた。天衣は風を受けて丸く翻らずに、火焔のように鋭角に表されている。
このような天衣は、細身の秀骨清像的表現とともに、5世紀後半の南朝の画像磚にも表現されている。それが北魏に将来され、北魏の中原様式となって、敦煌に西漸してきた様式ということになる。
南朝の表現様式についてはこちら
体も細身で、膝を開いているのがはっきりとわかるほど、裙が体に密着して描かれている。
天衣は、2回腕を通して、先が二つに分かれている。
頭光はない。
ところが中心柱の回廊部分の天井には、くの字に曲がり、従来の天衣をまとった西域風の飛天がラテルネンデッケの四隅で舞っている。
2体には頭光があり、ほかの2体には頭光がないように見えるのは、おそらく頭光は描かれていたが褪色してしまったのだろう。
一つの窟に西域風と南朝風、2種類の飛天が描かれていた。
248窟 前部人字披頂 北魏
こちらの方が、飛天も天衣も285窟に近い。435窟の人字坡頂の飛天は細身だが顔が丸かった。しかし、当窟の飛天は285窟の飛天のように面長になっている。頭光はない。
天衣は腕の付け根と二の腕と、2箇所で腕を通している。
南朝将来の北魏中原様式だ。
ところが、北壁の人字披下の説法図では、仏左右上側で仏を讃美する飛天は、丸顔で天衣も西域風で頭光もある。
やはり2種類の飛天が描かれている。
第三期 西魏時代(535-557)
288窟 窟室東南隅人字披下 西魏
西魏のものでさえ、天衣は複雑に翻っているわけでもなく、285窟のような中原風の飛天に表されていない窟もあった。
今までに見てきたものと同様に、西域風の飛天には頭光がある。
後部平棋頂の飛天は、どの窟でもそうであったように西域風に描かれている。
285窟 南壁上層
北魏時代からこのような天衣の飛天は描かれていたが、様々な雲気と共に空を舞う姿は西魏特有のものだろう。
頭光はない。
しかし当窟でさえ、龕内で仏を讃美する飛天は、翻った天衣でもなく、軽やかに宙を飛んでいる風でもなかった。
主尊の光背の左右に飛ぶ飛天は、2体ずつ左右対称に飛んでいるが、下の飛天は片足を出していて、今までにない表現となっている。
体は細身だが、頭光のある西域風の飛天だ。
249窟 西坡
285窟に似た天井の絵画を持つが、かなり小さな窟だった。当窟を代表するのは伏斗式天井の西坡中央の阿修羅像と、その両側の風神・雷神像だろう。
それらの間に南朝風の頭光のない飛天が描かれている。
一見285窟の飛天と同じようだが、天衣の描き方は285窟のように先が尖ってもいないし、肥痩の表現も鈍い。
北魏時代にすでにシャープな天衣が描かれていることから、249窟は、285窟よりも後に開かれ、飛天の描き方も形骸化してしまったように思われる。
西龕頂北側の飛天(左)と北壁中央説法図の飛天(右)
このように並べてみると、体型も顔もあまり変わらない。
左図:舞い降りるスピード感が天衣の先や裙の襞に表れている。頭光がある。
右図:飛天には頭光はない。上の飛天は中国風の服装をしていて、その長い袖や裾が腕を通っていない天衣と共に後方に流れている。
下の飛天は上から急降下しているようで、頭上の尖った天衣がその風を受けて引っ張られ、大きく丸く膨らもうとするその瞬間を表しているようだ。天衣の先端は二つに分かれ、本来は中原様式の飛天だったことをうかがわせる。
顔はこちらを向いて、不自然なほど折り曲がった体が上に残っている。このような飛天はほかの窟でもあったが、それは後の時代のものだったかな。
このように見直してみると、中原風の飛天が描かれている窟でも、主尊や仏の周囲に表される飛天は西域風と決められていたようだ。
535-557年と22年しか続かなかった西魏時代でも、285窟とは異なった様式へと向かって行く気配が感じられる。
それが次の時代にはどのように変化していくのか、楽しみ。
おまけ
249窟西坡には阿修羅の右に飛天がいるが、左側には人面鳥がいる。
そして北坡にも人面鳥が描かれていた。
これは迦陵頻伽ではなく、中国の想像上の動物の一つを描いたものらしい。迦陵頻伽は唐時代以降に描かれるようになった。
それについてはこちら
関連項目
敦煌莫高窟12 285窟は飛天が素晴らしい
敦煌莫高窟7 迦陵頻伽は唐時代から
敦煌莫高窟5 暈繝の変遷2
敦煌莫高窟4 暈繝の変遷1
敦煌莫高窟275窟2 菩薩は匈奴人の顔?
敦煌莫高窟285窟の辟邪は饕餮
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※参考文献
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌文物研究所 1982年 文物出版社
「敦煌への道上 西域道編」 石嘉福・東山健吾 1995棊年 日本放送出版協会
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