お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
ラベル 折畳文 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 折畳文 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2023/02/07

川崎美術館展 南宋の仏画


よみがえる川崎美術館展には南宋時代の阿弥陀三尊図も展観されていた。

阿弥陀三尊像 南宋時代・13世紀 絹本著色 90.0X52.6㎝ 九州国立博物館蔵
『よみがえる川崎美術館展図録』は、下方から勢いよく湧き上がり各所で渦を巻く瑞雲の上に、阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩を描く。三尊は両足をそれぞれ独立した蓮華(踏み割り蓮華)に載せて立つ。三尊ともに頭光を、阿弥陀如来はその外側に巨大な舟形光背を背負う。
着衣にみられる濃い緑と赤を主調とした彩色や金泥による精緻な文様、阿弥陀の低平な肉髻と大振りの肉珠、各尊にみられる長く伸びた爪、朱、緑、黒で彩られた瑞雲の表現など、南宋仏画の造形語彙が各所に充溢しているという。
瑞雲に乗った阿弥陀三尊が描かれているが、来迎図とは定義されていない。
九州国立博物館蔵阿弥陀三尊像 南宋・13世紀  『よみがえる川崎美術館展図録』より

同展図録は、阿弥陀如来は正面を向き、右手は施無畏印とし、左手は腹前で掌を上に向けて水瓶らしきものを捧げ持つ。阿弥陀は、濃朱の大衣、緑の裳、内衣、半透明な覆肩衣を着す。観音、勢至の両菩薩は、壮麗な宝冠、瓔で身を飾り、幅広の天衣、内衣裳、腰布を着す。いずれの着衣にも金泥により精緻な文様が施されるという。
ただ、大衣の衣端を注目すると、折畳文が襞を表すものであることは忘れられているようで、特に中央の衣端は風に翻っているかのよう。
九州国立博物館蔵阿弥陀三尊像部分 南宋・13世紀  『よみがえる川崎美術館展図録』より

ガラスの瓶? 阿弥陀如来が物を持っているのを初めて見た。
細い長頚の丸い水瓶。これは南宋時代に中国で作られたものだろうか。
九州国立博物館蔵阿弥陀三尊像部分 南宋・13世紀  『よみがえる川崎美術館展図録』より

舟形光背の内部には、阿弥陀の聖なる力の表象である雲氣が、下方から上方に向けて激しい動勢をみせながら上昇する。この雲氣の表現は、仏教伝来以前の漢代の造形作品のそれをも想起させ、北魏時代の仏教美術にも通じる古様さを感じさせる点が注目されるという。
舟形光背と呼ばれるが、もちろん蓮弁である。
九州国立博物館蔵阿弥陀三尊像部分 南宋・13世紀  『よみがえる川崎美術館展図録』より

両菩薩は、中央の阿弥陀の方をわずかに向き、観音菩薩は左手に水瓶、右手に柳を、勢至菩薩は両手で蓮茎を持つという。
阿弥陀如来が持つのはガラスの水瓶だが、観音菩薩が提げるのは陶磁器の水瓶のよう。
勢至菩薩は蓮茎を上向きに持ち、X肩あたりに側面を見せた葉が描かれる。
九州国立博物館蔵阿弥陀三尊像部分 南宋・13世紀  『よみがえる川崎美術館展図録』より

同展図録は、中国伝統の気の造形を取り入れ、類例のない神秘的阿弥陀三尊を現出させた張思恭の作風を今に伝える貴重な絵画であり、特異な図像に秘められた信仰背景について研究がまたれる作例であるという。
九州国立博物館蔵阿弥陀三尊像部分 南宋・13世紀  『よみがえる川崎美術館展図録』より


         徽宗皇帝の作品←       →南宋時代の仏画

関連記事
南宋の仏画にガラスの器


参考文献
「よみがえる川崎美術館-川崎正蔵が守り伝えた美への招待-展図録」 神戸市立博物館・毎日新聞社 2022年 神戸市立博物館・神戸新聞社・毎日新聞社・NHK
 

2021/10/01

通肩に大衣をまとう如来 


通肩という大衣のまといかたはガンダーラから始まった。

仏陀立像 2-3世紀 灰色片岩 高さ109㎝ ガンダーラ出土
『ガンダーラとシルクロードの美術展図録』は、典型的なガンダーラ仏立像。施無畏印という右掌を正面に向けて挙げるポーズは西アジアの神像・王像に、左手で衣の一端をとるのはローマの皇帝像に由来するという。
ガンダーラ美術はヘレニズムの影響と解釈されがちだが、仏像が制作される頃(後2世紀、後1世紀とする説もある)はローマとの交易が盛んで、ローマ文化の影響も受けている。
ローマの男性は、長い布を左肩後方に回して、背中に回した布の端を左手で握っているのだろうか。今までガンダーラ仏は見てきたが、この端がどこからどのように続いたものなのかを注意して見てこなかった。
背中側から長々と続いた衣端ではないにしたら、どこの衣端だろう。左腕から垂れるものとも思えない。
目立たないが翻波式衣文もある。翻波式衣文についてはこちら


仏坐像 3-4世紀 ガンダーラ 灰色片岩 高さ96.5㎝
『ガンダーラとシルクロードの美術展図録』は、両端にライオンを配した獅子座は西アジアに起源し、王権の象徴であった。仏教でも仏陀や弥勒菩薩の台座に用いられた。衣を台座正面に垂らす裳懸座はガンダーラに生まれ、東漸した表現であるという。
この如来が左手で握るのは巾着のようでもある。その巾着によって大衣が細かな襞をつくり、台座に懸かっているにも見える。どうも大衣の端には見えない。
ギリシア・クラシック期に始まった翻波式衣文がはっきりと現れている。


通肩に大衣を着た如来像はシルクロードを通って東漸し、中国へも伝わり、古式金銅仏と呼ばれるものが五胡十六国時代につくられた。幸いにも『中国の金銅仏展図録』には、小金銅仏の背面の図版が掲載されていた。


金銅如来立像 高さ15.8㎝ 五胡十六国時代(4-5世紀) 京都国立博物館(京博)蔵
『中国の金銅仏展図録』は、五胡十六国時代の唯一の如来立像である。肉髻に毛描きはせず、地髪部は太い黒線によって大きく区分けして中に細線で毛筋を刻すが、この線は、正面中央から両側に同心円状に展開する。
この時代の坐像と同じU字形衣褶で、大衣の端を同じく左肩より後ろに垂らす。左手に衣を掴み、指に関節を刻むという。
左肩に掛かった大衣の端は折畳文に近い襞が刻まれて、薄くて広い布が折畳まれた様子をよく表現している。その端は短いので、表側で如来が握るのは別の衣端ということになる。
蛇足だが、左下の大衣の裾の襞が折畳文にならずに動物の耳のような形が3つ付いている。これは騎馬遊牧民の好む貴石の象嵌に形が似ていること、内側がくぼみ縁が高くなっていることなどから、制作当初は貴石が象嵌されていたのではないだろうか。
金銅如来立像-五胡十六国(4-5世紀) 京都国立博物館蔵 『金銅仏展図録』より


金銅如来坐像 五胡十六国時代(4世紀) 高さ13.5㎝ 東京国立博物館(以下東博)蔵
『中国の金銅仏展図録』は、肉髻は大きく、上に孔があり、五胡系の肉髻は舎利容器に用いられたという言い伝えを信じさせる。
胸前の衣褶の片流れ、大衣の端を左肩より背後に垂らす方法も、フォッグ美術館像と類似し、地髪部正面のアーモンド形の毛描きも共に、ガンダーラ風が強く、中国初期の仏像が、中央アジアの仏像を通じて西方の様式を反映していることが分かるという。
左肩の衣端が短冊状に付属する。
フォッグ美術館像の画像はこちら
金銅如来坐像 五胡十六国時代(4世紀) 『中国の金銅仏展図録』より

金銅如来坐像 五胡十六国時代(4-5世紀) 高さ14.7㎝
『中国の金銅仏展図録』は、肉髻が異様に大きく、舎利壺の役目をした名残りにも見える。衣褶は片流れであるが両腕より垂れる衣端が三角状に下に向かう点や台座両脇の獅子や、その内側の供養者らしい人物や指の関節の表現は東博像と異なり、フォッグ美術館像との繋がりを考えさせる。しかも台座は東博像と同様に横断面が半円形で、後頭部に枘をつけて頭光を備えていたことを示すなど、東博像とそれより古いフォッグ美術館像との両方に通ずる要素を持つ点が注目される。五胡十六国の如来坐像が以下の像のような形に固まる以前に多様な形体が存在したことを示す例であろうという。 
左肩より背後の背後にかかる衣端は幅広に折られている。
金銅如来坐像 五胡十六国時代(4-5世紀) 『中国の金銅仏展図録』より

金銅如来坐像 五胡十六国時代(5世紀) 高さ8.9㎝
『中国の金銅仏展図録』は、このタイプが五胡十六国仏の形体として固定したものであるらしく、現存のものでは最も多いタイプである。元は後頭部に頭光が取り付けられていたという。
左肩から垂れる大衣の端は上の像と同じように幅広に折りたたまれている。
金銅如来坐像 五胡十六国時代(5世紀) 『中国の金銅仏展図録』より


西秦は431年に滅亡する。北涼(匈奴沮渠氏、397-439)では北涼石塔と呼ばれているものが幾つか出土している。

高善穆北涼石塔部分 承玄元年(428)高44.6㎝ 酒泉城内出土 蘭州市甘粛省博物館蔵
『世界美術大全集東洋編3』は、7層の相輪の下に八つの仏龕をつくり、うち7龕には袈裟を通肩につける禅定印の如来坐像、残り1龕には化仏宝冠を戴き転宝輪印で交脚坐する菩薩像を半肉彫りで表す。これらが過去七仏と未来仏の計8軀であることは、他の作例に記された題記からも明らかであるという。
3体の如来坐像は左肩から衣端を背中側に垂らしているらしく、左肩から腕にかけて添っている様子はない。
高善穆北涼石塔部分 承玄元年(428) 甘粛省博物館蔵 『世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝』より

その少し後の通肩の仏像は、

金銅如来坐像 劉宋時代(南朝・宋)、元嘉14年(437) 高29.3㎝ 永青文庫蔵
『中国の金銅仏展図録』は、光背・台座も完備する南朝の数少ない仏像として貴重である。頭部は髪を大きな束に分けて細線を施し、京博像と同工の面がある。頬から首に至る面に区分がなく自然味を欠くが、着衣や印相、四脚座も五胡十六国仏と同工。
左肩に回る衣端が肩の外に僅かに張り出すのは太平真君像に似るという。
五胡十六国時代の如来像と異なる点として、表側に左肩から腕にかけて衣端が線状に添う。背中側を見ると、右腕に比べて左腕がやや張っている。
永青文庫蔵金銅如来坐像 南朝宋時代元嘉14年(437) 『中国の金銅仏展図録』より


如来立像 北魏・太平真君4年(443) 銅製鍍金 高さ53.5㎝ 
『小金銅仏の魅力』は、北魏金銅仏最古の紀年銘像で、スケールの大きな逞しい造形と肉体の起伏にあわせた着衣の写実的表現には、ガンダーラに起源をもつ中央アジアの彫像からの影響が考えられるという。
如来坐像のものは大衣の衣端は折りたたまれて左肩から背中に垂れているが、本像はその衣端が鰭のように左肩から腕にかけて続いている。

このように五胡十六国時代(304-439)において、通肩に大衣をまとう古式金銅仏には、通肩の衣端は左肩から腕にかけて表されることはなく、背中側に折りたたまれれて表現されていたが、炳霊寺石窟の169窟では、左肩から腕にかけて、幅広く衣端が表されている。


おまけ 菩薩立像とその後ろ姿
金銅菩薩立像 高さ33.6㎝ 西晋-五胡十六国時代(4世紀初) 伝陝西省三原県出土 藤井斉成会有鄰󠄄館蔵
『金銅仏展図録』は、束ね上げる髪、もみ上げ、口髭、耳や首の飾り宝櫃を両側から喰わえる獣頭付きの胸飾、腕釧、それらはいずれもガンダーラの菩薩像にみられる。出土地は古都長安の近くと伝えられるが、黒眼に象嵌のあとを残す眼やサンダルの着用などは独特であり、地肌のクレーター状の多孔から鉛含有量が多いと判断されるなど中央アジアとする説も古くからある。本像のように左手に瓶を持つ菩薩はガンダーラでは弥勒菩薩とされるという。
衣端には折畳文が表されている。
背中側の片流れの大衣の表現が京博の如来立像と似ている。しかし、裙や天衣の裏側は着衣らしい衣文は刻まれていない。
藤井斉成会有鄰󠄄館蔵金銅菩薩立像-西晋~五胡十六国(4世紀初) 『金銅仏展図録』より



関連項目

参考文献
「中国石窟 永靖炳霊寺」 甘粛省文物工作隊・炳霊寺文物保管所 1989年 文物出版社
「北魏仏教造像史の研究」 石松日奈子 2005年 ブリュッケ
「インド・マトゥラー彫刻展図録」 2002年 NHK
「パキスタン・ガンダーラ彫刻展図録」 2002年 NHK
「平山郁夫コレクション ガンダーラとシルクロードの美術展図録」 2002年 朝日新聞社
「小金銅仏の魅力」 村田靖子 2004年 里文出版
「中国の金銅仏展図録」 1992年 大和文華館
「仏教美術の名宝展図録」 2018年 泉屋博古館
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館

2021/09/17

炳霊寺石窟 他の窟にも西秦の仏像


1980年代の炳霊寺石窟
大仏への参道もまだ整備されておらず、桟道もない。NHKでシルクロードシリーズが放送されたのが1980年だったが、その時は舟で近づいたというか、1974年に完成した劉家峡ダムに舟が運航できるくらいの水量がなければ行き着けないところとなった。
炳霊寺大寺溝 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

大仏の上方の2つの穴は169窟と172窟。その高さのところで、南(向かって左方向)の方も人工的に削られているように見える。小さな窟は下の方に並んでいるが、何故この高さのところが気になるかというと、
炳霊寺の石窟群 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

『中国石窟芸術 炳霊寺』(以下『炳霊寺』)に、西秦時代につくられた1窟がかなり上の方に開鑿されているらしい図版(1960年代)があるからだ。
この顔は西秦時代のものではなさそうだけど・・・🤔
炳霊寺石窟1窟 一仏二菩薩像 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

西秦時代の如来は肩幅が広く、腰が締まった逆三角形なのにこの如来はずんぐりしている。涼州式偏袒右肩に大衣を着ているにしても、衣文線が変だし、両脇侍菩薩も西秦時代のものではない。
『炳霊寺』は、1960年代の写真。西秦、後に明代の重塑と両脇侍菩薩が造られたという。明代とはね。
炳霊寺石窟1窟一仏二菩薩像 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

如来立像 
同書は、像高4m、螺髻、額が広く、大きな目、薄い大衣を通して身体が透ける。大衣の端は明代に削られた。衣文線U字形で、インドのマトゥラー風である。
劉家峡ダム建設で水没してしまう場所にあった1967年では、石胎泥塑の像を別の場所に搬送する技術がなく、壁画と共に計測するに留まり、水没してしまったという。
崖の上方ではなく、水没するほど下の方にあったのだ。

如来が通肩に着た大衣にはほぼ左右対称にU字というよりはV字状に衣文線(2本で一つの襞を表す)が刻まれているが、脚部にいくほどまばらにまた浅くなっていること。大衣は薄く体に密着して脚部や膝頭などもはっきりと分かるような造像であることが確認できた。
これは169窟北壁7龕の如来立像と同じで、一つは衣が体に密着し、服を通して全身の体の線や、肩から肘にかけてのたくましい肉付けが見て取れる点である。さらに左右2本の腕から下がる衣端の細かいひるがえりの表現も、炳霊寺像とマトゥラー像の共通する特徴である。
5世紀前半のインド・マトゥラー彫刻のもつ特徴を、同じ5世紀前半に造られたと考えられる中国、炳霊寺の像が備えていることは、文化伝播の速さという点で大変注目に値する(『中国の仏教美術』より)という。

西秦時代の像容だけでなく、如来の両腕の外側に脇侍菩薩が描かれていたらしいことも、この写真で知ることができた。
炳霊寺石窟1窟一仏二菩薩像 西秦 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

西秦時代の如来には、丸く小さな肉髻にだけ螺髻があり、髪は渦巻状の線刻だったこと、真っ直ぐな鼻筋から長い弓なりの眉が伸びていること、大きな白毫があったこと、口角が少し上がって、切れ長の目と共に笑みを浮かべた明るい表情である。
しかしながら、この顔貌だけは7龕の如来と全然異なる。西秦時代の他の如来を探しても、似ているものない、独特の顔である。
炳霊寺の石窟群 『中国石窟芸術 炳霊寺』より


172窟桟道崖 西秦-北周
大小の如来や菩薩の塑像が残っている。大きな四角い穴は楼閣を懸けるためのもの。小さな四角い穴は塑像を崖面に貼り付けるためのもの。一つだけ大きな丸い穴がある。
中央には天蓋の垂飾や光背が描かれた痕跡があるので、小さな穴から推測して、大きな如来坐像の塑像がつくられていたのだろう。
炳霊寺石窟172窟桟道崖 西秦-北周 『絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟第169窟 西秦』より

南崖体の仏像群 1-5
炳霊寺石窟172窟桟道崖仏像群 西秦-北周 『炳霊寺石窟第169窟 西秦』より

1・2 二仏立像
如来か菩薩かが見分けるのが困難なほどに風化が進んでいる。向かって右の如来はやや左に重心をおいて立つ。
彩色の跡が少しでも残っている。
霊寺石窟172窟桟道崖仏像群 西秦-北周 『絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟第169窟 西秦』より

3 菩薩立像
『第169窟』は一仏二菩薩像の中尊とみていて、私も最初は満面の笑みを浮かべた如来と思っていたが、8のように上半身は裸で、裙を履いた菩薩とみた。左手のあげ方が8と左右対称になっており、如来らしくない。

4 脇侍菩薩像
披巾は両肩を覆い、斜めに垂下して腹前で短くX字状に交差して腕にかかり、外側に垂れる。
左手は水瓶を提げ、右手はこれまでみてきた菩薩と同じように蓮茎を掲げていただろう。

5 如来立像
『第169窟』は一仏二菩薩像の脇侍とみているようだが、偏袒右肩に大衣を着た如来立像である。
169窟北壁の如来立像よりも肩が張っていて、脚も太い様子が薄い着衣からもはっきりと分かる、力強い像である。左側の大きな菩薩立像と同じ腕の挙げ方なので、大きな菩薩立像の脚部はこの如来立像と似たものだったと推測する。 
炳霊寺石窟172窟桟道崖仏像群 西秦-北周 『炳霊寺石窟第169窟 西秦』より

北崖体 6-9
炳霊寺石窟172窟桟道崖仏像群 西秦-北周 『炳霊寺石窟第169窟 西秦』より

6 如来立像
通肩に大衣を着て左手をあげて衣端を握り、右手は垂下する。着衣の裾は長く、内着の僧祇支は足首が隠れるほど。

7 如来立像
おそらく1像と大差ない造形であったと思われる。崖面に貼り付けられた塑像のだめ、頭部から上半身までの背骨のような木材が塑土や藁などから露出している。
炳霊寺石窟172窟桟道崖仏像群 西秦-北周 『炳霊寺石窟第169窟 西秦』より

8 菩薩大像 西秦(385-431)
同書は、花冠をかぶり、長い眉細い目、高い鼻小さな口で微笑む。上半身は裸で、長裙を履き、首から垂らした飄帯を肘の下で後ろに回す。挙げた右手には持物があり、左手は下ろす。頭光と光背が描かれ、千仏図が右側に残るという。

9 如来立像 北周(556-581)
『絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟第169窟 西秦』(以下『第169窟』)は、平らな肉髻で顔は方円形、長い眉細い、鼻筋が通り、薄い唇はやや上がる。
内着は僧祇支で、外に双領下垂式に大衣を着て衣文に塑土を貼り付ける。着衣の襞は厚い。菩薩立像と同じ時期に造られたものではないという。
ずんぐりした体型、低い肉髻で北周時代の造立だろう。
2体の仏像の下、そして菩薩の右側に千仏図が描かれている。
炳霊寺石窟172窟桟道崖仏像群 西秦-北周 『炳霊寺石窟第169窟 西秦』より

10 如来坐像の光背と天蓋
頭光と身光の重圏文に気がついてここにも仏像があったことが分かった。身光には化仏が描かれていたようだ。等間隔の縦線が並んでいることから天蓋も描かれていたことも。
そして重圏文の内側の8個の四角い穴は塑造の如来坐像を造るための木を差し込むためのものだったことも。ほぼ中央部にあるので、西秦時代に造られたのだろう。
炳霊寺石窟172窟桟道崖仏像群 西秦-北周 『炳霊寺石窟第169窟 西秦』より


172窟 西秦-北周 不規則な天然窟 高さ約10.00m、幅7.00m、奥行20.00m
北魏前期の一仏二菩薩像の外側にある独尊の如来坐像
炳霊寺石窟172窟北壁-西秦~北周 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

如来坐像 石胎泥塑 高さ0.9m 
『第169窟』は、丸い肉髻で7ふくよかな顔、眉は細長く、目は閉じ、真っ直ぐな鼻で唇は硬く閉じている。
大衣を通肩に着て禅定印を結び、結跏趺坐する。着衣の衣文はU字形を呈しているという。
南壁下層の結跏趺坐する如来の、両袖口から足元へと続く帯状のものや、前に垂下する裳裾、そして丸く盛り上がる膝などの形式と共通する。
この大衣を通肩に着て結跏趺坐する如来坐像のU字形の衣文は、北魏後期、正光2年(521)銘の小金銅仏にも見られるが、これほどの膝の盛り上がりはみられないので、本像は西秦時代の作であるのは確か。
炳霊寺石窟172窟 西秦-北周 『炳霊寺石窟第169窟 西秦』より


現地での見学と、炳霊寺石窟に関する3冊の書物の図版のおかげで、僅かしか残っていない西秦時代(385-431)の貴重な仏像仏画を堪能することができた。



関連項目
参考文献
「中国石窟 永靖炳霊寺」 甘粛省文物工作所・炳霊寺文物保管所 1989年 文物出版社
「中国石窟芸術 炳霊寺」 甘粛省炳霊寺文物保護研究所編 2015年 江蘇鳳凰美術出版社
「中国の仏教美術」 久野美樹 1999年 世界美術双書006 東信堂

2021/07/30

炳霊寺石窟 北魏後期


窟や仏像のデータは『中国石窟 永靖炳霊寺』(以下『永靖炳霊寺』)より。

1窟は水没、3窟は炳霊寺石窟の入口の近くにあった。2窟はどこにあるのだろう。
『永靖炳霊寺』は、高い懸崖の南の石窟群にあるという。

2窟 北魏、唐・明重修
二仏並坐像 如来高さ1.10m 北側菩薩立像高さ1.07m、南側菩薩高さ1.34m
『中国石窟芸術 炳霊寺』(以下『炳霊寺』)は、「妙法蓮華経・見宝塔品」に依拠して制作された釈迦・多宝如来の並坐像であるという。
大衣の長い裾が規則的な折畳文で表現されている。段々と脚部の盛り上がりが大衣に隠れてしまったり、大衣だけでなく、内着の裾も台座にかかって複雑になったりするようになっていく。
2如来は結跏趺坐しているので、やがて半跏趺坐するようになる二仏並坐像よりも早い時期に造られたのだろう。
炳霊寺石窟2窟二仏並坐像 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

『炳霊寺』は、仏像は細身、着衣は双領下垂式で裳裾は台座に垂れる。
「秀骨清像、褒衣博帯」という中原の造像様式の影響を受けているという。
双領下垂式(襟が下にまっすぐ垂れている)の大衣、嵩の低い脚部にはほとんど衣文がない。
頭部については、釈迦如来は北魏らしいが、多宝如来はどうだろう。丸顔の上に髪の生え際が真っ直ぐで、お椀を被っているようだ。

『永靖炳霊寺』は、窟頂の壁画は剥落しているが、北壁には火焔文の頂光が残るという。
頭光は後世の重修で植物文様が描かれている。背後の蓮弁状光背の頂部や向かって右に坐す釈迦如来の外側などには線刻の落書きのようなものがある。
炳霊寺石窟2窟二仏並坐像 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

左脇侍菩薩は天衣を着け、裙を履き、蓮台に立つという。
菩薩の頭部も後補のよう。北魏の菩薩は両肩を覆う帔帛を着けていただろうか。帔帛に沿った蕨手が大きく表され、興味深い。
炳霊寺石窟2窟脇侍菩薩像 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より


北魏窟群
炳霊寺石窟北魏時代窟群 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

125窟 アーチ形浅龕 龍頭龕楣 高さ1.60m、幅1.46m、奥行0.30m
その経典について『建築を表現する展図録』は、『法華経』見宝塔品には、霊鷲山で『法華経』を説く釈迦と大衆の前に、1基の大宝塔が地中から涌出する場面が記される。
涌出し、空中に浮いた宝塔の中には多宝如来の舎利が納められており、中から多宝如来が釈迦の説法が真実であることを大音声で宣言した。その後、宝塔内に入った釈迦は十万世界から集まった諸仏や菩薩とともに多宝仏の分身を拝し、さらに、釈迦如来は多宝如来に座を与えられ並んで結跏趺坐し、ともに法華経を説いたという。
私は長い間、座を与えるしぐさの向かって右が多宝如来だと思っていたが、右手を挙げて説法している釈迦だった。

『炳霊寺』は、釈迦、多宝如来が並坐する。その目は薄く開き、鼻唇は小さく、口角をわずかに上げる。着衣は下に伸び、彫りは浅い。これは北魏時代の経典によって造られたという。
できる限り自分の写真を使いたかったが、浅い衣文線がほとんどわからないので、『中国石窟芸術 炳霊寺』の図版から。
という。右足を組まずに外に出しているのを半結跏趺坐(半跏趺坐)というらしい。二仏並坐像が造像されるようになってからこの坐り方ができたようにも思える。
『永靖炳霊寺』の126窟の解説から、両如来の右足を出す坐り方が半跏趺坐であることを知った。
炳霊寺石窟125窟二仏並坐像 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

麦積山石窟148窟の二仏並坐像に比べると、こちらの方が北魏仏らしい。角張った典型的な北魏仏の顔である。肉髻も高いが唐代ほどではない。


126窟 北魏、明代重絵 平面方形穹窿天井 高さ3.05m、幅3.75m、奥行2.95m アーチ形窟門

平面図 
『炳霊寺』は、北魏延昌2年(513)、曹子元が資金を提供して修復した。窟内には石彫の三世仏、菩薩及び千仏像が総数115尊あるという。
炳霊寺石窟126窟平面図 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

正壁立面図 二仏並坐及び両脇侍菩薩
炳霊寺石窟126窟正壁 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

『永靖炳霊寺』は、如来たちは半結跏趺坐するという。
右足を組まずに外に出しているのを半結跏趺坐(半跏趺坐)というらしい。二仏並坐像が造像されるようになってからこの坐り方ができたようにも思える。

釈迦及び多宝如来が並び坐して説法する。彫像は痩身で、目鼻が小さくまとまった顔。着衣の裾は折畳文がある
という。
折畳文は一つ一つが大きい。
炳霊寺石窟126窟正壁二仏並坐像 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

多宝如来と左脇侍菩薩
脇侍菩薩の方が、目鼻がより中央にまとまっている。
炳霊寺石窟126窟正壁多宝如来及び左脇侍菩薩像 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

北側面図 交脚菩薩像及び両脇侍菩薩像
炳霊寺石窟126窟北壁 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

交脚菩薩像を主尊とした三尊像
炳霊寺石窟126窟北壁交脚菩薩像 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

菩薩なので宝冠や腹部で交差する天衣などを付けている。厚い着衣のためか、交差する脚部は強調されていない。その下で尾を接しながら威嚇している獅子が興味深い。
炳霊寺石窟126窟北壁交脚菩薩像 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

頭部は筒状に見える。
炳霊寺石窟126窟北壁交脚菩薩像 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

窟頂と各壁の如来頭部
こういう見方をすると、各如来の頭部はみな円筒形に見える。
曹子元が資金を提供して修復した(『炳霊寺』より)というのは、この天井の亀裂のことだろう。
炳霊寺石窟126窟窟頂 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

周囲を立像や坐像の千仏が囲んでいるが、中心のものは不明。
壁画ではなく、全て浮彫している。
炳霊寺石窟126窟窟頂 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

思惟菩薩像
こちらを向いた菩薩の頭部は円筒形である。千仏群は浮彫だが、思惟菩薩像と供養者は半ば透彫で立体的。
炳霊寺石窟126窟正壁思惟菩薩像 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

128窟 北魏、明代重絵 平面方形穹窿天井  高さ3.50m、幅3.90m、奥行3.50m 
『永靖炳霊寺』は、アーチ形窟門で、門両側に方形石柱、柱頭には蓮華、楣の下端に龍の首を彫り出すという。
   
正壁 
二仏並坐及び二菩薩像。 如来は半跏趺坐し、総高2.10m。 二仏の上に2つの龕があり、維摩と文殊が分かれてる。南北両壁にはそれぞれ一仏二菩薩像
釈迦如来坐像の顔は眉から鼻筋までが1本の線でつながり、目鼻の配置は中央に集中するというほどでもない。
炳霊寺128窟正壁如来坐像 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

東壁
菩薩半跏像
炳霊寺128窟東壁菩薩半跏像 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

東壁
門上上部に六仏及び七仏像
六仏及び七仏像



132窟 北魏 アーチ形窟門 平面方形伏斗式天井 高さ3.50m、幅4.10m、奥行3.90m
平面図
126窟とほぼ同じ配置の窟。どちらが先かな?
炳霊寺石窟132窟正壁立面図 北魏  『中国石窟 永靖炳霊寺』より

窟内の様子
各壁の如来像の上部には伏斗式天井の斜め台形壁面となっている。
炳霊寺石窟132窟内部 北魏  『中国石窟 永靖炳霊寺』より

南北両壁の台形壁面に菩薩像が大きく描かれる。諸像の頭上に伏斗式天井。
炳霊寺石窟132窟窟頂 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より


伏斗式天井にはラテルネンデッケが浮彫される。ラテルネンデッケとは正方形が90度ずつ回転するように入れ子になり、段々と高さを増す明かり取りの天窓であるが、その用はなくなり、意匠だけが東漸したので、中央は塞がってしまった。
ウズベキスタン歴史博物館で展示されていたワラフシャ宮殿の復元図に空がのぞいているラテルネンデッケの天井があった。
その中心には蓮華と化仏、他の区画にも何か刻まれているようだが不明。小さな蔓草はあちこちに描かれている。
炳霊寺石窟132窟窟頂 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

窟頂図
蓮華と化仏ではなく、蓮華化生童子(『炳霊寺』より)が彫り出されていた。

正壁
二仏並坐像 総高2.60m
炳霊寺石窟132窟正壁立面図 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

126窟正壁の二仏並坐像と同様に如来たちは半跏趺坐している。
炳霊寺石窟132窟正壁立面図 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

北壁
交脚菩薩像 総高2.55m
炳霊寺石窟132窟北壁立面図 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

両脇侍菩薩とで三尊像になっている。
炳霊寺石窟132窟北壁菩薩半跏像 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

腕を挙げて菩薩の足を支える力士は蹲坐する。

炳霊寺石窟132窟北壁菩薩を支える力士像 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

脇侍菩薩
やはりこの窟でも如来や菩薩の頭部は円筒形だ。それに長い耳がついている。
炳霊寺石窟132窟北壁左脇侍菩薩像 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

南壁 
一仏二菩薩像 如来総高2.50m
半跏趺坐する如来も両脇で立つ菩薩も説法印を結んでいる。
『永靖炳霊寺』は、高僧が修行している姿を写したようで、北魏宣武帝の延昌年間の代表作の一つである。壁画は明代重絵、明、清期に香を焚くのが流行したために黒ずんでいるという。
延昌年間は512-515年で、同帝が没したために終わる。
炳霊寺石窟132窟南壁一仏二菩薩像 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

東壁窟門上のアーチ形龕
炳霊寺石窟132窟南壁上部仏涅槃像 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

仏涅槃像 長さ2.15m
『永靖炳霊寺』は、仏光の背後に弟子が哀悼している。頭部に跪いているのは仏弟子の一人舎利弗であるという。
炳霊寺石窟132窟南壁上部仏涅槃像 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

『炳霊寺』は、肉髻は低く、顔は四角く、目を閉じ、右手を枕にし、左腕は体にそわせている。丸い襟の袈裟はU字形の衣文を刻む。8人の弟子たちは腕を挙げたりして哀悼を表しているという。
枕元の舎利弗、背後の8人の弟子、ではもう1人は、まだ到着していない迦葉ということかな。
炳霊寺石窟132窟南壁上部仏涅槃像部分 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

涅槃像といえば、移設された16窟の像がある。

仏涅槃像 長さ8.6m
説明パネルは、仏涅槃像はこの下15mにあった。1967年に堤防が建設される前に、撮影や記録が行われたあと、涅槃像は9つの木箱に入れられて窟から出された。2001- 02年に修復された後、元の窟の川向かい側の仏殿に陳列された。またこの窟の壁画は、 炳霊寺文物研究所内に保管されているという。
この白いものは人物などを描いているように見える。

調査の様子。胸にあいた丸い穴は何だろう?

炳霊寺石窟16窟の調査の様子 1967年 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

『炳霊寺』は、足には鞋を履いている。2001年に修復して、北魏時代の像容となったという。
パノラマ合成するとふっくらして別の時代のようだが、実物は北魏らしい角張った顎だった。
炳霊寺石窟16窟仏涅槃像 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より


関連項目

参考文献
「中国石窟 永靖炳霊寺」 甘粛省文物工作所・炳霊寺文物保管所 1989年 文物出版社
「中国石窟芸術 炳霊寺」 甘粛省炳霊寺文物保護研究所編 2015年 江蘇鳳凰美術出版社
「仏のきた道 中国の仏教文化を探る」 鎌田茂雄 1997年 PHP新書
「建築を表現する展図録」 2008年 奈良国立博物館