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2023/02/14

南宋時代の仏画


数年前に京都の泉屋博古館で開催された『高麗仏画 香りたつ装飾美展』で、その中には南宋時代の普悦筆の仏画を参考にしたとしか思えない仏画があった。それが普悦筆阿弥陀三尊像であった。それについてはこちら


阿弥陀三尊像内観音菩薩立像 南宋(12世紀後半) 普悦筆 絹本着色 高127.0㎝幅48.8㎝ 京都市清浄華院蔵
『世界美術大全集東洋編6 南宋・金』は、正面向きの阿弥陀如来を中心として、その左右にやや横向きの観音菩薩と勢至菩薩を配し、いずれも踏割蓮華に立つ姿に表している。
やわらかな姿態とともに淡い彩色や墨色を控えた線を通して描き出される三尊は、淡墨の微妙な濃淡変化によって暗示される舟形光背から発する光を受けて、ほのかに輝いているかのようで、空間から個別化されることはない。
このように光に包まれた空間全体のイリュージョンを例えば、「阿弥陀三尊像軸」に落款をとどめる普悦は、その名から天台浄土教と関係する画僧であろう。現出する表現は、光や湿潤な大気に代表される、形の定まらない気象変化の表現を目的とする江南山水画とも共通する特色で、本画像に江南的な絵画表現の伝統が流れていることを思わせるという。
本図の光背は、非常に淡く描かれているので、見ていても消えてしまいそうだ。それが返ってこの仏画の特徴として深く印象に残っているが、江南地方の風土を反映した表現だったとは。
三尊が頭光をいただき、舟形光背が阿弥陀あるいは三尊を包むように描かれるのが一般的だが、三尊それぞれに舟形光背をつけるのも江南地方の特徴だろうか。
京都市清浄華院蔵阿弥陀三尊像 南宋・12世紀後半  『世界美術大全集東洋編6 南宋・金』より

同書は、宝冠に阿弥陀如来の化仏いただく向かって右の観音は、左手に捧げ持つガラス碗に右手先でつまんだ柳枝を遊ばせているという。
ガラス碗に柳の枝、何を表しているのだろう。
清浄華院蔵阿弥陀三尊うち観音像 南宋・12世紀後半  『世界美術大全集東洋編6 南宋・金』より


阿弥陀净土図 南宋·淳熙10年(1183) 絹本着色 150.5×92.0㎝ 重文 知恩院蔵
 『世界美術大全集東洋編6』で井手誠之輔氏は、蓮池を前に阿弥陀三尊が踏割蓮華座に立つ、極楽浄土のようすを表した一図である。
阿弥陀三尊を立像に表す構想については、重源が将来した宋画に基づいて制作されたと考えられている、京都・長香寺本や奈良・阿弥陀寺本の観経十六観変相図における第十三雑想観の図像と一致することが指摘されている。
着色画の傾向が強いとはいえ、その画風は三次元空間のイリュージョンを追求する南宋仏画の中にあり、卍字や千輻輪文を表示しない阿弥陀如来の姿も、高麗仏画の領分に収まるものではない。普悦との画風の差異は、むしろ普悦が修行僧として画像を制作した可能性が高いのに対し、本図の作者が、寺院に帰属しながらも職業的な仏画師としての側面が強い専門画僧であった点に求められるのではないだろうか。その制作地には、画師の帰属しうる有力な天台寺院の存在した寧波や杭州の可能性が考えられてよいだろうという。
重源は平家の焼き討ちに遭った東大寺を復興したが、立像の阿弥陀三尊像をもたらしたのも重源だった。別所として小野の浄土寺も建立し、そこには快慶作阿弥陀三尊立像がある。
知恩院蔵阿弥陀浄土図 南宋·淳熙10年(1183) 『世界美術大全集東洋編6 南宋・金』より

同書は、脇侍菩薩はいずれも袈裟を着用するが、このような着衣は、12世紀後半から13世紀初頭ごろに描かれたハラホト(内モンゴル自治区)の阿弥陀三尊来迎図の脇侍菩薩や、日本の鎌倉時代における宋風彫刻にも見られ、本図は中国におけるその起源を示す一例となる。
三尊の背後には、金彩を交えた瑞雲が湧き上がっている。
本尊の阿弥陀如来は右手を垂下し、左の掌を上にして印を結ぶ、いわゆる逆手の図像である。向かって左の勢至菩薩は右手に経冊を取り、左手でその紐をつまんでいるという。
知恩院蔵阿弥陀浄土図部分 南宋·淳熙10年(1183) 『世界美術大全集東洋編6 南宋・金』より

阿弥陀如来の白毫から放たれる白色光が照らし出す上空には、左右の十方世界から十如来・十菩薩・十天・十四声聞衆が来臨するという。
知恩院蔵阿弥陀浄土図部分 南宋·淳熙10年(1183) 『世界美術大全集東洋編6 南宋・金』より

長香寺本や阿弥陀寺本をはじめ、南宋の図像に基づいた14世紀の高麗仏画における観経十六観変相図が、いずれも蓮池に化生する九品の往生者を菩薩衆・声聞衆人民衆に分類し、北宋(960-1127)末の元照『観無量寿経義疏』の解釈に依拠しているのに対して、本図では蓮池に往生する人々を菩薩衆のみとしている点に注意したい。つまり、本図は上根(優れた資質)の信者のみを対象とする阿弥陀浄土図となっている点に特色が見られ、元照の解釈とは別の思想がその信仰背景に考えられてよいという。
往生者を上品上生から下品下生までの9段階の往生に描き分けているのではない。この頭光では、上根の信者たちは、当然上品上生に往生するのだ。
蓮池の両端に供物を捧げ持つ迦陵頻伽がいる。
知恩院蔵阿弥陀浄土図部分 南宋·淳熙10年(1183) 『世界美術大全集東洋編6 南宋・金』より

蓮台や大きな蕾の下に描かれるくるくると纏わり付くような葉はなんだろう。日本ではみかけないが、中国にはこのような水草があるのかも。
本図にはカモなどは描かれていないが、左下にはタンチョウがいる。
知恩院蔵阿弥陀浄土図部分 南宋·淳熙10年(1183) 『世界美術大全集東洋編6 南宋・金』より

そして右下には太湖石に留まるクジャク。その近くの大きな蕾にも草が纏わり付く。これは、やがて極楽に往生する者を暗示しているのだろう。
水がほとんど見えないほど、蓮の葉や花の間には睡蓮も繁茂している。
知恩院蔵阿弥陀浄土図部分 南宋·淳熙10年(1183) 『世界美術大全集東洋編6 南宋・金』より


阿弥陀如来像 南宋・12-13世紀 絹本着色 97.0×38.5㎝ 福井県西福寺蔵
同書は、立像の阿弥陀如来について、経典では『観無量寿経』の序分義で釈迦が韋提希夫人に現出して見せた三聖像のほかには見いだせないという元照の指摘が、宗暁『楽邦文類』(慶元6年、1200年自序)に見えるが、そのほかにも『楽邦文類』は、北宋後期の杭州や寧波で、立像の阿弥陀如来彫像が宝閣や懺堂の本尊として造立された事実を伝えている。
とりわけ、元符2年(1099)、『観無量寿経』の新たな解釈に従い、阿弥陀浄土を観想する僧俗に開かれた道場として寧波・延慶寺に創建された十六観堂では、その中心となる宝閣の本尊に彫刻の阿弥陀三尊の立像を造立したほか、十六観のための各室にも、三尊立像の彫像を置いていた。延慶寺に範をとる十六観堂は、後に南宋の乾道3年(1167)、杭州の上天竺寺と宮中にも造営され、また入来した俊芿によって日本にも移入されており、阿弥陀三尊立像という新たな構想が、彫刻と絵画の双方で、江南各地や東アジア世界に広く波及する中心的な役割を果たしている。
向かって右から来迎する作例として西福寺本をあげておきたいという。
この図像も観音菩薩図・勢至菩薩図と共に三幅対に描かれたものが散逸してしまったのだろう。
普悦筆阿弥陀三尊像が浄土にいる図を描いていて、斜め向きの菩薩なのに舟形光背は正面を向いているのに対して、本画像は来迎している場面を描いているので、舟形光背も斜め向きに描かれている。
西福寺蔵阿弥陀如来像 南宋・12-13世紀  『世界美術大全集東洋編6南宋・金』より

控えめに金泥で着衣の文様が描かれている。そして足にはそれぞれ紅白の踏割蓮華。  
西福寺蔵阿弥陀如来像部分 南宋・12-13世紀  『世界美術大全集東洋編6南宋・金』より


阿弥陀来迎図 南宋・13世紀 絹本着色 97.1×53.8㎝ ボストン美術館蔵
同書は、13世紀の阿弥陀来迎図は、画面上における阿弥陀如来一行の来迎してくる方向性に決まりを持たない点で、日本の中世(向かって正面)や西夏(向かって右)、高麗(向かって右と正面)と対照的である。向かって左側から来迎する作例という。
細く長い火焔が揺れる舟形光背。
ボストン美術館蔵阿弥陀来迎図 南宋・13世紀  『世界美術大全集東洋編6南宋・金』より

阿弥陀如来は白と黒の踏割蓮華。勢至菩薩は白、観音菩薩は赤の踏割蓮華  
ボストン美術館蔵阿弥陀来迎図 南宋・13世紀  『世界美術大全集東洋編6南宋・金』より

光背の上には宝珠を戴いた瓦屋根の天蓋が。
ボストン美術館蔵阿弥陀来迎図 南宋・13世紀  『世界美術大全集東洋編6南宋・金』より


阿弥陀如来図 伝喩弥陀思浄筆 絹本着色 131.8X48.2㎝ 京都金蓮寺蔵
同書は、南宋の着色仏画には、とりわけ絵画性に優れた一群がある。いずれの作品も、厳粛な法会の本尊としての風格を備えており、その担い手は、寺院や教団に帰属し、図像の選定から絵具の調合にかかわる専門的な知識と技術を習得していた画家であったらしい。
杭州で活躍した喩弥陀思浄も、阿弥陀画像の専門的な画技で知られ、「阿弥陀如来像軸」の筆者にあてられている。永保寺の「千手千眼観音像軸」を描いた画家も、杭州上天竺寺のような有力な天台寺院に帰属する画家の一人と見てよいという。
正面向きの来迎図。変色しているのか、阿弥陀の踏割蓮華は本図でも白と黒?
京都金蓮寺蔵伝喩弥陀思浄筆阿弥陀如来図 南宋・13世紀 『世界美術大全集東洋編6 南宋・金』より


阿弥陀来迎図 張思恭筆 南未-元・13世紀 絹本着色 102.8×57.4㎝ 京都府永観堂禅林寺蔵
同書は、正面から来迎する作例。禅林寺本に金泥の落款をとどめる張思恭は、この種の来迎図の担い手として日本でよく知られてきたが、俗姓を名乗るその画家としての実態は、浄土結社あるいは浄土教団に帰属し、半僧半俗的な性格を持った画家ではなかったろうかという。
永観堂蔵阿弥陀来迎図 南宋-元(13世紀)   『世界美術大全集東洋編6南宋・金』より

金泥で描かれた光背の外縁部。火焔が蔓草のよう。
永観堂蔵阿弥陀来迎図部分 南宋-元(13世紀)   『世界美術大全集東洋編6南宋・金』より

観音菩薩は両手で小さな蓮台を持っていて、蓮華の輪郭が金泥で描かれているが、それがこの画像ではわかりにくい。
永観堂蔵阿弥陀来迎図部分 南宋-元(13世紀)   『世界美術大全集東洋編6南宋・金』より


阿弥陀三尊来迎図 西夏・12-13世紀初頭 内モンゴル自治区阿拉善盟額済納旗土隗口故城(ハラホト)出土 木綿着色 142.5×94.0cm サンクトペテルブルグ、エルミタージュ美術館蔵
『世界美術大全集東洋編5』は、井手誠之輔氏は、ハラホト絵画には、阿弥陀三尊来迎図の作例が少なくない。しかも、画面向かって左下の生者(本図では僧侶)が、阿弥陀如来の白毫から放たれる白色光に照らされながら、その中を童子形となって昇っていき、観音菩薩と勢至菩薩が捧げ持つ金蓮台の中に迎えられるという形式が共有されている。阿弥陀三尊が阿弥陀と観音・地蔵で構成される点や化生童子の有無で若干の違いを持つが、同じ形式の阿弥陀三尊来迎図(挿図120)が、14世紀の高麗仏画の中にも見られ、こうした来迎図がもともと中国で構想され、それが東西の高麗と西夏へ伝播したことが考えられる。
本図では、中国に起源する図像から要請される自然空間のイリュージョンはほとんど後退しているが、群青・緑青・朱金泥白色などの色面が織りなす平面的な原色のアラベスクをとおして、素朴な趣が作り出されている。そこではラマ教絵画と宋代絵画とが独特の感覚のもとで巧みに融合され、西夏独自の表現の可能性を伝えている。その制作は、西夏の文化が最盛期を迎えた12世紀の後半以降であろうという。
西夏(1038-1227)は仏教に帰依し、敦煌莫高窟でも壁画を奉献している。
エルミタージュ美術館蔵ハラホト出土阿弥陀三尊来迎図 西夏・12-13世紀  『世界美術大全集東洋編5』より


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参考文献
「世界美術大全集東洋編6 南宋・金」 2000年 小学館
「世界美術大全集東洋編5 五代・北宋・遼・西夏」 1998年 小学館