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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2017/01/10

高麗仏画展4 13世紀の仏画


『高麗仏画 香りたつ装飾美展図録』(以下『高麗仏画展図録』)は、高麗(918-1392)は、仏教を国教とした朝鮮半島唯一の国家で、仏教美術の全盛期と称するにふさわしく、全国各地には数多くの寺院が建てられ、仏画や仏像といった信仰の対象物も大量に制作された。
現存する高麗仏画は、大部分が高麗時代後期にあたる13世紀半ばから14世紀の制作であるという。
確かに今回展観されていた仏画は最も古いものでも13世紀だった。

阿弥陀如来像 至元23年・忠烈王12年(1286) 自回銘記 絹本着色 縦203.5横105.1㎝ 団体所有
同展図録は、下辺には水波を表す墨線が引かれ、向かって左には大輪の白蓮華が開き、右には淡い紫色の蓮華が今にも咲く風情で風に揺れている。中央の荷葉上に立つ阿弥陀如来はほぼ等身大で、肉付きのよい体を画面の右側に向けつつ体幹は正面向き、しかし頭部は左側に巡らせて下方に視線を向けるという、複雑な姿勢をとる。この如来は、高麗仏画に多く見られる覆肩衣や僧祇支を着けず、裙と袈裟のみをまとう。右肩を覆う袈裟から突き出すように表された右腕は力強く、太い腕を左下方にまっすぐに伸ばし、千幅輪文を表した掌を外側に向ける。
井手誠之輔氏が本書所収の論考に論じているように、阿弥陀は、極楽浄土で信者を、足下に咲く蓮華の台に迎えて授記をさずけ、そして『華厳経』が説く毘盧遮那如来の世界へといざなう姿と理解されるのであるという。
日本では12世紀後半以降、阿弥陀像といえば『観無量寿経』に説かれた来迎する図像で、西方極楽浄土に往生することを求めたが、高麗時代には、西方極楽浄土に往生した後に、阿弥陀に誘われて毘盧遮那仏のいる世界することを願った。
蓮華や荷葉に、中国・宋代の花鳥画を思わせるしなやかな筆線と微妙な賦彩がみられること、しかしその一方で衣の輪郭や衣文線には、きわめて観念的あるいは慣習的というべき表現形式が見られることには、本図の図様と表現の源流の多元性が看取されるという。
蓮のところだけ、花鳥画専門の画工が描いた可能性はないのだろうか。

弥勒下生変相図 至元31年・忠烈王20年(1294) 李晟筆 絹本着色 縦227.2横129.0㎝ 京都妙満寺蔵
『高麗仏画展図録』は、本図は、釈迦入滅後、56億7千万年後のこの世に下生した弥勒が、龍下樹の下で成道して仏となり説法して多くの人を悟りに導いたという劇的な場面を、集約的な構成の中にあらわしているという。
敦煌莫高窟ではこれまで阿弥陀経変図や観無量寿経変相図などを見てきたが、弥勒下生変相図はあったかな?
中央上方では、龍下樹の下で金色に輝くひときわ大きな弥勒仏が倚坐し、脇侍をともなう三尊として説法相をあらわしている。周りで賛嘆護持する尊格は、10体の供養菩薩、天龍八部衆、10比丘、梵釈、四天王であり、それぞれ左右対称に配されている。
内陣には、出典が特定できないものの、弥勒の足下に帝釈天をはじめとする諸施主や龍たちの奉献による僧伽梨を納めた函と黄金製の五重塔が置かれている。左右では龍王と龍女の背後で、王と后がそれぞれ冕冠と鳳凰冠を脱いで剃髪しているようすであるという。
大きな弥勒倚像よりも、この剃髪をしている場面に注目してしまった。
そうそう、本図の女性像の顔貌表現を見なければ。
高麗仏画展1 高麗仏画の白いヴェールで、浅草寺本水月観音像について同展図録で、観音や童子の顔貌表現、ことに額や瞼、鼻梁、口元に施される白い彩色は、例えば「十王図・十二使者図」(静嘉堂文庫美術館)のような元代仏画の女性表現に共通点が見出される。13世紀後半、高麗は元の支配下に入り、忠烈王による親元政策下でさまざまな文化が元を通じてもたらされた。その時期に描かれた「弥勒下生変相図」(1294年、妙満寺)にもまた同じ彩色法の天女や女性供養者が見られるという。
確かに女性たちは額・鼻梁・顎などを白く塗り、頬を赤く染めているが、これは当時の宮廷女性たちの化粧法で、それをそのまま描いたように見える。静嘉堂文庫本の「十王図・十二使者図」ではどんな表現をしているのか不明だが、浅草寺本水月観音像のは淡い照隈という程度である。
それにしてもそれぞれの衣装には異なる文様をあしらい、非常に丁寧で細密な描き方である。
王妃の頸に巻いた布、外衣、袖口にのぞく幾重もの着物は其々の色とことなる文様になっていて、僧侶の地味な色目の衣装でさえそれぞれ文様を違えて、金泥で描き分けている。
供養者の坐る檀の塼でさえ、一枚一枚細かく表現している。
 
万五千仏図 13世紀 絹本着色 縦175.9横87.1㎝ 広島不動院蔵
『高麗仏画展図録』は、大円相のなかに、宝冠をいただき袈裟をゆったりとまとった観音菩薩が、くつろぐ姿勢で安坐する。(肉眼ではわかりにくいが)X線撮影によれば、宝冠に観音の標識である化仏が確認される。頭光ほを背負った頭部を左上に巡らせ、斜め上方に視線を向けている。その先、画面右端に白色の円相のなかにの一部が見え、これによれば月を見上げる観音菩薩といえよう。画面上端には大きく「萬五千佛」、その下に「太平」の文字が記されている。
この図像は中国・唐代の画家周昉の創案とされ、その発展の系譜には、宋代に李公麟が創案した「長帯観音」があり(現存せず)、この図像を想像させる遺例に、南宋の禅僧西潤子曇が着賛した「長帯観音図」(絹本墨画淡彩 京都国清寺)がある。そしてこの国清寺本が、不動院本に酷似することは注目される。北宋の李公麟の図像が早く高麗に伝わったか、あるいは南宋の禅宗とともに伝えられたかは、さらなる検討が必要であろうという。
高麗時代に多く描かれた水月観音像とは全く趣きの異なる図像だ。
本図に特筆されるのは、尊像の肉身と頭光の内側を除くすべての部分に小さな仏がびっしりと描き込まれていることである。袈裟の小仏は、各部の色地に応じて金泥や墨で描き分けられ、虚空部分も隙間無く小仏で埋め尽くされているという。
細かく見て行くほど小仏の顔で埋め尽くされていることがわかってくる。
表情も、菩薩というよりは、実在の人物(当時の王侯しかいないだろうが)の日常に佇む姿として描いたのではと思わせる寛いだ坐り方だ。
本図は、理知的で暖かみのある観音の表情、膝を抱える腕を直線的に表す力強い描写、衣の裾や帯のやわらかな表現にみる感覚が特筆され、その作風は至元23年(1286)銘の「阿弥陀如来像」に匹敵する水準にある。これもまた宮廷画家クラスの画工の手によるとみられる。その風が示す時代は13世紀後半から14世紀初期であるが、国の危機的状況下に「太平」が祈願された時期をおもうならば、蒙古との緊張関係、そして元寇への参戦による内政不安や財政危機に苦しんだ13世紀後半、忠烈王時代の制作ではなかっただろうかという。
腕や足に淡い隈取りが施されていて、着衣の小仏群に負けない存在感を醸し出している。

帝釈天像 13-14世紀 絹本着色 縦97.9横54.5㎝ 京都聖澤院蔵
同書は、大円相のうちに、頭光を負い、豪華な冠をいただいた天部形が、玉座に椅坐し、団扇を右手でとり、その柄の端を左手で支えもつ姿である。淡墨の描線に薄い朱線を添わせて表した面貌は淡い肌色で、眼窩や鼻筋に朱をぼかすことで、涼しげな表情をつくる。左膝をわずかに前方に出すことで着衣の左右に微妙な変化をつける表現や背もたれにかけた織物の繧繝彩色も特筆され、闊達な筆線と豊かにいろどられた本図は、高麗仏画屈指の名品である。制作は14世紀もごく初期、あるいは13世紀後半に遡る可能性があるという。
格調の高い、落ち着いた色彩が、金泥による荘厳を際立たせている。 

地蔵菩薩像 13-14世紀 絹本着色 縦239.4横130.0㎝ 神奈川円覚寺蔵
同書は、釈迦亡きあと、遙か未来に弥勒が出現するまでの間、比丘の姿で六道(天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄)を巡り、人々を救うことを本願したほとけが地蔵菩薩である。
主尊は、頭巾を被った通有の地蔵像だが、向かって右側に錫杖をもつ道明、左側に布に載せた経箱を持つ無毒鬼王が侍立し、中央に道明が連れていた獅子を表す。
本図で注目されるのは、その充実した作風である。肉身や衣文を描写するしなやかで破綻のない筆線、三者三様に異なる面貌を量感豊かに描き分けることに、画師の高い技量が感じられる。道明と無毒鬼王の面貌表現や、形式化した獅子のすがたには、中国・元代の羅漢図像との関係が推察される。
本図と比較されるのは、13世紀から14世紀に入る頃の高麗仏画で、これらに共通するおおらかな気分や繊細な描写によれば、本図の制作もまた14世紀もごく早い時期あるいは13世紀末にまで遡りうるという。
同展に出品されていた地蔵菩薩像の中でも、最も気品のある図像である。

水月観音像 13-14世紀 絹本着色 縦144.0横62.6㎝ 慧虗筆 東京・浅草寺蔵
同展図録は、水面からのびる踏割蓮華の上で、右方へ一歩足を踏み出す白衣の観音。左手には浄瓶、右手には柳枝を指先で軽くとり、全身は大きな緑色の滴形の光背に包まれる。全体に白を基調とした精緻な描写が際立つ。文様が衣褶線に合わせて変形するなど、高麗仏画には珍しい合理的な造形感覚もまた宋代画に通じるといえようという。
光背の緑色が異彩を放っていた。光背の緑に包まれた白衣の観音は朧気である。
観音の顔には控えめな照隈が見られるが、それは妙満寺本の女性像のものとは別のように思う。
観音像の詳細についてはこちら
確かに南宋時代(1127-1279)の仏画の中に、上図の作品を彷彿させる作品が日本に残っている。

阿弥陀三尊像内観音菩薩立像 南宋(12世紀後半) 普悦筆 絹本着色 高127.0幅48.8㎝ 京都市清浄華院蔵
『世界美術大全集東洋編6南宋・金』は、本画像は、正面向きの阿弥陀如来を中心として、その左右にやや横向きの観音菩薩と勢至菩薩を配し、いずれも踏割蓮華に立つ姿に表している。
宝冠に阿弥陀如来の化仏いただく向かって右の観音は、左手に捧げ持つガラス碗に右手先でつまんだ柳枝を遊ばせている。
やわらかな姿態とともに淡い彩色や墨色を控えた線を通して描き出される三尊は、淡墨の微妙な濃淡変化によって暗示される舟形光背から発する光を受けて、ほのかに輝いているかのようで、空間から個別化されることはない。このように光に包まれた空間全体のイリュージョンを現出する表現は、光や湿潤な大気に代表される、形の定まらない気象変化の表現を目的とする江南山水画とも共通する特色で、本画像に江南的な絵画表現の伝統が流れていることを思わせるという。
本図の光背は、非常に淡く描かれているので、見ていても消えてしまいそうだ。それが返ってこの仏画の特徴として深く印象に残っているが、江南地方の風土を反映した表現だったとは。
大きな滴形光背の中に描かれているのは共通するが、顔は似ていない。
しかし、この観音は白いヴェールらしきものをまとっていた。高麗仏画のものよりも短く、天衣に近いもののようだが、これが高麗に伝播して、あの透明感のある白いヴェールとなっていったのかも。

水月観音像 13-14世紀 絹本着色 縦100.4横49.6㎝ 大和文華館蔵
『高麗仏画展図録』は、画面中央、波立つ海上に湧出した岩に、半跏にした観音の姿を描く。ひきしまった上半身をやや右に傾けて、右手を膝にかけ、くつろいだ姿勢をとる。切れ長のややつり上がった目元、ひきしまった唇などによる表情も若々しく、清新な印象を与える。天衣や瓔珞、足元の蓮華が左に向かい風にたなびく描写には、優れた風動表現がみられる。この風のなかで、善財童子は蓮弁の舟で巧みに波に乗り、膝を軽く曲げ合掌しつつ観音を仰ぎ見るという。
他の水月観音像とは全く異質の図像である。 
本図は高麗の水月観音像としては類のない図様であり、観音が正面を向くのみならず、着衣や装身具の表現も特筆される。冠から下ろしたヴェールはほとんど透明といってよく、細いリボンのように両腕にからみつく。条帛は観音には珍しい鮮やかな赤色で、裙は、朱地に亀甲文の一般的な組み合わせではなく、淡い橙色地に七菊花円文であるという。
条帛の赤い色が目を惹く。
胸元の装飾品は方形の宝函の上に宝珠を据えたかたちで、高麗仏画では泉屋博古館本に見られるのだが、中国・宋代の「阿弥陀浄土図」(京都・知恩院)や普悦筆「阿弥陀三尊像」(京都・清浄華院)などに同様の宝函の装飾が見いだされることから、この魅力的な水月観音像が宋代の図像を継承することが指摘されてるという。
確かに宋画を直に写したのではと思うほど、同時期の高麗仏画とは雰囲気が違う。

阿弥陀三尊像 13-14世紀 絹本着色 縦166.4横88.8㎝ 大阪法道寺蔵
同展図録は、虚空に浮かぶ阿弥陀三尊が悠然と風を受けて右方へ進みゆく。阿弥陀如来は来迎印を結び、右足を軽く踏み出し、前方に視線を向ける。向かって左側の勢至菩薩は水瓶をあらわした宝冠をいただき、両手で梵経を載せた蓮茎を持ち、同じく歩みを進めながら、ひとり顔を正面に向ける。天衣や裙、瓔珞が風にゆらぎ、足元の踏割蓮華が踏みだした仏の足の重みを受け柔らかに広がる。
上質な顔料で繊細な中間色を多用した色彩は、本図だけの特色といえる。淡い隈取りと抑制された墨線で確実に捉えられた肉身表現や多彩な装飾表現、明澄な色感には、中国・宋代の画風との近似性が推測され、現存する高麗仏画中でも早い時期の作と考えられる。さらに浄瓶と柳枝をとる観音菩薩や、勢至菩薩の胸元にみえる宝函上に火焔宝珠を据えた装飾品が、五代末から北宋初期の敦煌仏画に見出されるとの指摘もあり、高麗が中国の様々な時代や地域の仏教図像を受容したことを示す一例といえようという。
これまでは、敦煌莫高窟の壁画といえば、せいぜい晩唐期までしか見てこなかったような気がする。高麗仏画が宋元時代のものにも目を向けるきっかけとなるかな。
雲気文に火焔宝珠を表した宝冠、不思議な植物をつなげたような垂飾などはどこかエキゾチックな風情が漂うという。
この勢至は阿弥陀如来や観音菩薩とともに左の方に向かっているはずなのに、何故か正面を向いている。その顔貌は、大和文華館本の水月観音に似ているのでは。それだけではない。菩薩の宝飾品も、火焔があるかどうかだけの違いで、よく似ている。
同じ宋代の図像を参考にして描かれたか、同一の画家の筆によるものかも。いずれにしても、これほど色調が異なるとは。

14世紀初頭の年代のわかる作品がある。

阿弥陀如来像 大徳10年(1306、忠烈王32年) 絹本着色 縦162.2横92.2㎝ 根津美術館蔵
同展図録は、肩の張ったがっちりととした体格の阿弥陀如来が、大円相のうち、高い台上の蓮華座に結跏扶坐する、堂々たる独尊像である。胸前にあげた両手は、いずれも第一指と第三指を捻じる説法印を結ぶ。衣は、左肩に吊し胸部にまわした僧祇支(胸前で紐を結ぶ)、下半身をつつむ裙(腹帯で留める)、左肩を覆う覆肩衣、そして右肩にかけた袈裟である。こうした着衣の組み合わせに加え、胸に右旋の卍字、掌に千福輪文を金泥で表すのは、高麗時代の如来像におよそ共通する図様である。
鉢の張ったかたちの頭部には、威厳に満ちた表情が表される。
第25代高麗王となった忠烈王(1236-1308)は、元の風習や文化を高麗に導入し、その後の高麗に元の政治・文化の基盤を形成した人物であるという。
暗い背景に赤い着衣が映える。
西方極楽浄土で、授記をさずけ、『華厳経』が説く毘盧遮那如来の世界へといざなう場面だろうか。
珍しく結跏扶坐しているので、台座の様子がよくよかる。
精緻な装飾を施した宝檀の下には、涌雲が表されているという。
涌雲ということは、虚空に浮かんで説法している場面だろうか。
千福輪文や唐草文など、実物の台座でも平面に描かれるもののほか、透彫にされた蔓草の間から白い蓮華が、開敷、未敷など様々な形で描き込まれており、この白い色が他の彩色を引き立てている。
檀の上の受花、反花もそれぞれに荘厳されている様子を描写しきっていて、実物を見ているかのようだ。

最後になったが、高麗仏画展で最も古いものはこれまでみてきたものとはかけ離れたものだった。

五百羅漢像 乙未・高宗22年(1235) 絹本墨画淡彩 縦55.1横38.1 大和文華館蔵
『高麗仏画展図録』は、羅漢が岩上で結跏趺坐し、両手を胸前で重ね合わせる。伸びた髭や眉、耳の毛も生々しく、右目をしかめ、唇を半開きにする。傍らの小卓には三足の香炉と経冊らしきものが置かれ、一筋の香煙が静かに立ち上がる。面貌をあらわす細勁な墨線と、衣文線の速度ある肥痩線を使い分け、北宋の李郭派山水画の皺法を駆使した岩肌との対比も明快である。全体に水墨を基調としつつ、頭光は白緑で淡く縁取られ、肉身の輪郭には朱線を重ね、さらに朱で隈取りも施される。襟元や袖口は鉛白で引き締めるほか、袈裟の黄みがかった色彩、縁のやや青みがかった墨色などには染料の使用が想像されるという。
こういう羅漢図を見ると、貫休の羅漢図が気になってきた。もっとも全てが後世のコピーだが。
伝貫休筆羅漢図についてはこちら

一つの展覧会に行くと、ほかのものが気になり出す。何時まで経ってもこのブログは終わりそうもない。

       高麗仏画展3 浄瓶の形←    →高麗仏画展5 着衣の文様さまざま

関連項目
伝貫休筆羅漢図
高麗仏画展6 仏画の裏彩色
高麗仏画展2 観音の浄瓶は青磁
高麗仏画展1 高麗仏画の白いヴェール

※参考文献
「高麗仏画 香りたつ装飾美展図録」 編集 泉屋博古館 実方葉子、 根津美術館 白原由紀子 2016年 泉屋博古館・根津美術館
「世界美術大全集東洋編6 南宋・金」 2000年 小学館