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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2010/10/08

唐では袋物の形で身分を表した



『大唐皇帝陵展図録』は、太宗の子、第3代皇帝高宗李治とその皇后則天武后の合葬陵-乾陵は、海抜1048mの独立峰である梁山を陵体として造営された。
南門から乳台までの神道の両側には神道石刻列がある。
昭陵に始まった山陵制度は、乾陵で事実上の完成をみた。高宗が埋葬されたのは文明元年(684)、則天武后が追葬されたのは神亀2年(706)で、20年以上の年月を経ている。その間も陵園の整備は続けられ、則天武后の意向が多分に反映されたのであろうという。
その神道彫刻は写真で紹介されていた。その中にはベルトの方形の巡方から丸い袋物を提げたものがあった。どうも蕃酋長たちは袋物を腰から提げる習慣があったらしい。

蕃酋像佩用品 長方形箱物 唐、乾陵南神道 石刻
箱形容器は算木・発火具・砥石等を納める容器と考えられているという。
小さな箱物に見えるが、これらの道具が収まりよく作られていたのだろう。箱物にも縦にベルトが通っていたのだろうか。


蕃酋群像  乾陵南神道
乾陵の南門と門闕の間には、計64体の石像が東西に32体ずつ4列8行に並び、神道を挟み対峙して配置されている。背面に刻まれた銜名(王朝社会における職名・氏名・民族名など)から、唐王朝が領土拡大した際に支配下においた少数民族の長の像であることが判明しており、蕃酋像(蕃臣像)と名付けられている。
その着衣は、胡服など民族衣装を着用したものが少なくとも4体確認できるが、大半は唐王朝において文武官人が出仕する際の常服を着用する。
帯は丸鞆や巡方が付いた銙帯で、細帯(跕蝶帯)を介して佩用品が垂下されている。このような常服と銙帯から器物を吊り下げる風俗は、西方騎馬民族に起源が求められ、隋代以降の官人の服飾に取り入れられたものと考えているという。
西方騎馬民族とはどの民族をいうのだろう。墓主がソグド人と思われる棺床屏風の門闕(北周、6世紀後半、MIHO MUSEUM蔵)にも胡人が右の腰に袋物を提げた姿が浮彫されている。門の前で左手で太刀を支えながら立っているので、護衛の任務についているのだろうが、その袋物がこの蕃酋群像が腰から提げているものとよく似ている。

唐代の衣服規定は、官位の上下関係を一目瞭然とするために、衣服の色・銙帯の種類・垂下できる品目を階位ごとに細かく決めており、蕃酋像におけるこうした組み合わせと垂下位置は規定に従う階位表現となっているという。
ということは上の蕃酋長たちは同じ官位にあった者たちで、丸い袋物を提げた蕃酋長は官位が異なっていたようだ。馬牽きと同じ形の袋物を提げているので、あまり高い官位ではなかったかも。

乾陵六十一賓王像

『図説中国文明史6隋唐』は、唐の高宗がなくなったとき、61人の近隣諸国および辺境少数民族の首領たちが長安に来て葬儀に参列した。則天武后は大唐帝国の威厳を誇示するため、特に石工に命じて彼らの姿を彫らせ、乾陵の朱雀門の両側に置いたという。
以前は上の写真とは別の場所に置かれた写真があった。以前にテレビで見た時もこのように首のない王像がまとめて置かれていたように記憶している。そう言えば、新聞の記事に、皇帝陵が観光目的の整備が進んでいるというようなことを読んだ気がする。
この写真からは最前列中央の賓王像の袋物だけが識別できる。
蕃酋像佩用品 たて長半円形袋物 唐、乾陵南神道 石刻
たて長半円形袋物・刀子・手巾は細帯が長く膝頭より低く垂下されている。
たて長半円形袋物は既知の絵画資料に認めることができず、いまのところ乾陵蕃酋像にのみ確認できる佩用品であるが、『旧唐書輿服誌』に記す「鞶嚢」である可能性が高い。鞶嚢の帯紐は「二品以上金縷、三品以上銀縷、五品以上綵縷」と規定されており、蕃酋像においても彩色で区別されていた可能性があるという。
ベルトの方形の巡方から長い帯紐が通され、その先端が袋物の開閉に用いられている。簡略した線刻ではあるが、山東省清州市傳家村の墓(北斉、550-577)より出土の囲屏もしくは石槨の商談図の胡人が下げる袋物と、形や帯だけでなく、上蓋があるところなどそっくりだ。この胡人は髪の毛がカールしておりソグド人ではないと見られている。中央アジアよりも更に西からやってきた人のようだ。
遅くとも唐になると、袋物の形が身分を示すものとなった。こんな小物が意外と重要な役目を負っていたのだ。
それにしてもこの中には一体何が入っていたのだろう。こんなに長いと馬に乗ったらぶらぶら揺れて邪魔だったのでは。 
面白いことに、日本の古墳に副葬されていた革袋がこの蕃酋長の提げていた袋物に似ているという。

漆塗り革袋 飛鳥時代、7世紀末葉 1999-2001年葛城市三ツ塚古墳出土 高16.8㎝幅17.5㎝厚さ10.0㎝ 橿原考古研究院蔵
改葬骨を納めた70X50㎝ほどの木櫃の隅に置かれており、改葬墓の副葬品であったと思われる。有機素材の上に漆が塗布された製品で、木櫃が腐朽する前の段階から穏やかに内部へ土砂が浸入していたため、袋はもとの形状をほぼとどめている。
その形状は、本体から延びる一辺が覆いかぶさって蓋となるポシェット状のもので、蓋をとじる帯紐が付く。縦断面形は正面が丸くふくらみ、背面は平坦であるという。
高さや幅の割に厚みがあり、ころんとした形で、背面の上の方にも帯紐を通す金具がある。前側だけでは安定しないだろうなとは思っていた。
三ツ塚古墳出土の革袋に比べて蕃酋長たちが右腰に提げたものはかなり平たい。ひょっとすると革製ではなく、錦などの布製だったかも。

※参考文献
「平城遷都1300年記念春期特別展 大唐皇帝陵展図録」 2010年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館
「図説中国文明史6隋唐 開かれた文明」 稲畑耕一郎監修 2006年 創元社

2010/10/05

唐では丸い袋を腰から下げるのが流行か



去年の秋は騎馬遊牧民が腰に下げる腰佩が気になっていた。調べていると、腰佩の中には袋物も混じっていて、中国の俑や浮彫にも腰から袋を下げる人物が表されていた。そして、袋物にも様々な種類の物があって興味深かった。それについてはこちら
今年は平城遷都1300年ということで、奈良県では様々な特別企画が催されている。奈良県立橿原考古学研究所附属博物館では『平城遷都1300年記念春季特別展 大唐皇帝陵展』が開催され、まだエジプト呆け状態で見てきた。皇帝陵展ということもあって、実物ではなく写真だったりしたが、袋物を腰に着けた像が幾つか展観されていた。


十四国蕃君長石像 唐、永徽年間(650-655) 2002年昭陵北司馬門遺跡出土 陝西省考古研究院蔵 残存高130㎝幅56㎝厚さ37㎝ 石灰岩
同展図録は、大きな襟を折り返した胡服を着てまっすぐに立ち、右手を胸の前にの襟にかけ、左手を腰のベルトにかけている。腰の前のベルトからは様々な器物を下げる。左前には細長い小刀状の腰佩(ようはい)と鞶嚢(はんのう)を下げる。鞶嚢は径11.5㎝の円形をしたポシェット風の袋で、蓋カバーと上下にのびる帯が表現されているという。
展示室ではこんなに明るい状態でこの像を見ることはできなかった。また、像が倒れないように厳重な仕組みがあって細部を見るのは困難だったが、何とか左腰の丸い袋を確認することができた。しかし蓋カバーや上下にのびる帯はこの図版でもわからない。
陝西省礼泉県鄭仁泰墓出土の武士俑(麟徳元年、664)には袋物がなかったので、唐になると腰から袋を下げる習慣がなくなったのかと思っていた。
そう言えば灰陶加彩の女子俑(8世紀)も腰から下げていたし。胡人の風俗を真似ることも当時の流行りであった(『新シルクロード展図録』)という。同展では三彩の男子俑の腰にもあった。


三彩牽馬俑 唐、慶雲元年(710) 1995年節愍(せつびん)太子陵出土 陝西省考古研究院蔵 高78.5㎝の部分
節愍太子陵三彩の飾り馬と馬牽きが3組出土している。目の彫りが深く鼻の高い顔立ちに、胡人の風貌があらわれている。
後輪が傾斜している様子がよく分かる鞍に、黄色い鞍伏(覆い布)を被せている。その下から輪鐙の下端が見え、腹の白い帯は鞍を馬体に装着するための腹帯であるという。
馬牽きは右腰に袋を下げている。このような胡人が腰につけた丸い袋が唐で流行していたようだ。
久しぶりに鐙を見たが、どうも鐙の位置が上過ぎるように思う。節愍太子は反乱を起こして殺害された(『世界四大文明 中国文明展図録』より)というから成人はしていたのだろう。馬が大き過ぎるようにも思えないが。
上着の腰には革帯をしめて、右半身部に帯飾りを装着している。それらは、半円形の丸鞆1、方形の巡方2、丸鞆2の順に並べ、帯の先端の蛇尾は腰の後ろの帯に挿入している。また、右の腰には丸い緑色の鞶嚢を下げる。鞶嚢は円形のポシェット風の袋で、ふくらみがあり、縦方向に帯が装着されているという。
この袋物のベルトにはバックルが付いているが、まさか下側に開くのではないだろう。おそらくベルトは帯に取りつけられているのではなく、ベルトをはずして上部が開くようになっていたに違いない。そうでないと中のものが落ちてしまう。十四国蕃君長の袋物もこのような蓋やバックルのついた帯状のものがあったのだろう。 
蕃酋像佩用品、円形袋物 唐、乾陵南神道 石刻
円形袋物は匂袋や身分証を入れる魚袋と考えられているという。
袋物そのものは割れて失われているが、その下に垂下した帯の端が認められる。上の俑のポシェット風のものと同様に縦方向に帯が着けられていたことがわかる。その帯は腰のベルトに通すようにもなっていたいたらしい。
山東省清州市傳家村出土の商談図(北斉、550-577)には、漢人の商人は長い紐に布製と見られる袋を下げていた。髪の毛がカールした胡人は短い紐でポケットの形状の袋物を腰に下げていたが、その後方にいるソグド人が袋物を下げていたかどうか見えないのが残念だ。ひょっとするとこのように丸く膨らんだものだったかも。

※参考文献
「平城遷都1300年記念春期特別展 大唐皇帝陵展図録」 2010年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館
「世界四大文明 中国文明展図録」 2000年 NHK
「新シルクロード展図録」 2005年 NHK

2009/09/29

帯の垂飾も腰偑もただの飾りに


鮮卑族が帯に小物入れを吊り下げた例もある。

棺床屏風の門闕(部分) 北周(6世紀後半) 高51.5㎝幅53.3-56㎝ MIHO MUSEUM蔵
『中国★美の十字路展図録』は、石板の浮彫は、ソグド人と思われる墓主の生前関係した人々、隊商、墓主夫妻の宴、葬儀 ・・略・・  などの描写と解釈される。ここではエフタル人、中央アジア人、突厥人がその風俗によって描き分けられる。門闕には鮮卑の兵士と馬が刻まれ、この棺床の衛兵となっているという。
右脇の帯の下には3つの垂飾ついていて、その中央には商談図に見られた小物入れを吊り下げている。左脇にも同じく吊り下げ具があって、太刀を吊っているのだろうか。手で支えているのではないようだ。
侍者図壁画 漆喰の上に墨、彩色 隋、大業5年(609) 高132㎝幅56.5㎝ 寧夏回族自治区固原市史射勿墓出土 固原博物館蔵
『中国★美の十字路展図録』は、円領で筒袖の赤い長袍を着用し、腰に重い革帯を締め、足には烏皮靴を履く。容貌からおそらく侍者は漢族なのであろうという。
漢族が腰偑のついた騎馬遊牧民の帯をしているが、何も吊り下げていない。当時流行していたので身につけたのだろうか。それとも、主人に命令されると何でも腰に提げられるように、空の状態にしているのだろうか。 武士俑 加彩金貼 唐、麟徳元年(664) 71.5㎝ 陝西省礼泉県鄭仁泰墓出土 陝西歴史博物館蔵
『中国★美の十字路展図録』は、鄭仁泰が生きたのは唐王朝が目覚ましく発展した時期である。とくに第二代皇帝太宗の頃は異種族の制圧に力が注がれ、突厥、吐谷渾、高昌などを制圧、中国の北辺や西辺、西域はことごとく唐の領域になった。鄭仁泰自身も、晩年はシルクロード方面を統括する要職に就いていたという。
後ろ中央に帯の端が垂れ、その両側に紐状のものがある。これが腰偑の名残かも。太刀を付ける人物の図像を探していたら、聖徳太子像があった。

聖徳太子二王子像 紙本著色 縦101.5横53.6 奈良時代(8世紀) 宮内庁蔵 
革製?の帯をしているが、それとは別にカラフルな矢筈文の組紐で作った吊り下げ具から長さの異なる2本の紐が下がり、太刀の金具に取り付けられているようだ。
また、太子は、①の組紐の他に②穴に通す金具付の革帯、その内側に③銙板のある革帯と、3本も帯を付けている。左脇にベルトの端を垂らしているが、それが②の端か③の端なのかよくわからない。
ひょっとするとこれは最後に残った腰偑で、華やかな飾りを付けているのだろうか。
二王子もそれぞれ左脇にいろいろと吊り下げている。これらは小物入れかとも思ったが、同じ8世紀の唐の胡服女子俑が腰に提げる小物入れとは形が全く異なる。どちらかというと、平たいが華やかな装飾品に見える。ひょっとすると、この飾りは将来されたものではなく、倭国風のものかも。
門闕の衛兵はベルトは1本のようなので、おそらく帯に長さの異なる紐(それも腰偑か)をつけ、それに太刀を取り付けたのだろう。  統一新羅でも日本でも、腰偑が定着しなかったのは、必需品とはならなかったからだろう。その点、騎馬遊牧民の突厥は、腰偑のある帯が日用品であり続け、それが後世にも金帯飾りが作られる背景だったのでは。

※参考文献
「中国 美術の十字路展図録」 2005年 大広
「法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録」 2004年 奈良国立博物館 

2009/09/25

帯に下げる小物入れは中国や新羅にも

 
突厥の金帯飾りについた小物入れに似たものがあった。

山岳仙人霊獣文錦袋 絹 長12㎝幅10㎝ ニヤ1号墓地8号墓出土 漢-晋時代(1-5世紀) 
『シルクロード絹と黄金の道展図録』は、緑地平絹の縁をめぐらし、中央に茶地平絹の帯紐をつけた櫛袋である。表の錦は経錦(たてにしき)で、藍地に後方を振り返る虎のような動物や角を生やした動物に仙人が乗っている姿が、立ち上がる山形風の雲気文の間に配されているという。
同展で見た時、手首に通して持つのだと思っていたが、突厥のように帯に下げていたのだろうか。櫛を入れるための袋というのは騎馬遊牧民が持ち歩きそうにないなあ。 
ニヤ遺跡についてはこちら 商談図(拓本) 石製 北斉(550-577) 高135㎝幅98㎝ 山東省清州市傳家村出土 清州市博物館蔵
『中国★美の十字路展図録』は、石板に線刻された画像は、囲屏もしくは石槨を構成していたものと推測される。頭に折上巾をつけた墓主と思われる人物が、筌蹄に坐して左手に杯を持ち、前に立つ胡人と対飲している。髪の毛がカールした胡人は胡服独特の派手な飾りの服を着、腰をかがめて相手の機嫌をうかがうかのようであり、奧に控えた人物がもつ珊瑚は献上品であろう。おそらくソグド人であるという。
胡人は腰に細い帯をしている。等間隔で区切りがあるので、銙板が付いた帯だろう。その下には丸い垂飾が銙板の区切りとは関係なく並んでいるのは、銙板と垂飾が同じ数だけある新羅の金製腰偑とは異なるところだ。
そして垂飾に通さずに、細い帯に直接小物入れが通してある。形は櫛入れと似ているが、蓋付なので、突厥の金帯飾りに下がった小物入れの方に近い。
漢人の商人も銙板のあるベルトをして、左脇には垂飾の間に長い紐で何かを吊り下げている。ソグド人の小物入れとは形が異なるが、小袋を腰に提げるのは当時の流行だったのかも。 胡服女子俑 唐(8世紀) 灰陶加彩 高50㎝幅13.3㎝ 咸陽市辺防村楊諫臣墓出土
『新シルクロード展図録』は、男装をした女俑で、襟を外側に折り(翻襟)、袖を搾った胡服を纏い、両手を腹前に置き直立している。胡服の下からは袴(こ、ズボン)と革靴が覗いており、腰帯から香袋のようなものを提げている。胡人の風俗を真似ることも当時の流行りであったという。
中国では8世紀ともなると、小物入れは円い妙な形になってしまった。当時の香袋はこんな形だったのか。
銙帯はまばらだが等間隔についていて、垂飾はなくなっている。そして、今まで気付かなかったが、ベルトの端は後ろ側に垂らすものだったのだ。そうだとすると、突厥の金帯飾りは、小物入れが腰側の左右にきたことになるなあ。 石人一対 慶州掛陵(クェルン) 統一新羅(798年頃)
『ユーラシアの風新羅へ展図録』は、韓半島の地にソグドを含む西域人が一定程度定着し、大規模に活動していたことを示す史料はない。史料はないが、新羅には東アジアの人種とは思えない特徴を持つ人物を表現した遺物が残されている。統一新羅時代の王陵級の古墳の前面に立ち並ぶ石像群の中にも、西域の人物と思しき武人像が存在する。ただし、これらの石造物や俑から、ソグド人らが新羅の地にいたかどうかを判断するのは実際には難しい。あるいは、唐の文化を導入した際に、それが誰を表しているのか理解されないままに異国風の人物を含む定型化したセットが認識され、石人像や俑として作られた可能性もある。
石人の後ろ姿には興味深いものがある。小さな楕円形のポシェットである。このような小物を入れる小さな袋は、騎馬の風習のある人々にも見られる
という。
こちらは平べったい小物入れだ。何かを持ち運ぶものというよりも、胡服と言えば腰に小物入れというように「定型化された」装飾だったのかも。巻き上げた袖のボリュームとはえらい違いだ。
長い上着の余った部分がベルトの上に垂れているので、銙帯や腰偑があるかどうかわからないが、慶州の積石木槨墳(-6世紀前半)から出土したような長い腰偑は流行らなくなって久しいのだろう。 騎馬遊牧民にとっては必要な腰偑のついた帯や小物入れも、中国の中原や山東省ではただの流行の装身具になり、更に統一新羅では袋という用途も忘れられてしまったかのようである。

銙板と垂飾についてはこちら

※参考サイト
佛教大学日中共同ニヤ遺跡学術調査

※参考文献
「新シルクロード展図録」 2005年 NHK
「中国 美の十字路展図録」 2005年 大広
「シルクロード 絹と黄金の道展図録」 2002年 NHK
「ユーラシアの風 新羅へ展図録」 2009年 山川出版社
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」 1998年 小学館 

2009/09/22

新羅の腰偑は突厥の金帯飾りに似ている

 
慶州の巨大積石木槨墳からは幾つか銙帯(かたい)と腰偑が出土している。

金製銙帯・腰偑 5-6世紀 長102.0㎝ 
瑞鳳塚出土のものは金冠塚出土や天馬塚出土のものに比べて腰偑の数が半分くらいしかないし、中程には耳飾りのようなものが1対取り付けられているように見える。『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、木槨内は盗掘もなく完存していたというので、埋葬時にはこれで全てだったのだ。 実際に見ると、腰偑は長い上にたくさん吊り下げられていて、あまりにも重そうなので、儀式や祭祀など特別なときだけ身につけたのだろうと思った。しかし、いくら儀式用とはいえ、腰偑をこんなに長くするのには、どのような意味があったのか。
そう思いながら、シルクロード関係の書物を探していると思わぬものを見つけた。

突厥の金帯飾り 出土地不明 時代不明  
『週刊シルクロード12キルギス』 に掲載されていた写真(ユニフォト)で、金細工の部分に狩猟紋(狩猟する絵)が描かれているという。
おそらく革に金製の金具がついているのだろう。ベルトを前で留めると、小物入れ状のものがちょうどポケットのように左右にくるように作られているようだ。しかし、他の腰偑は長短はあるが、武器も道具もつけていない。普段はこのままの状態で使用し、必要な時にだけ腰偑に取り付けていたのかも。 突厥の名が出るとは思わなかった。そもそも突厥とはどういう民族なのだろう。
同書で林俊雄氏は、6世紀中頃、柔然の支配下から独立したテュルク(トルコ)系の民族。後に柔然を併合して草原地帯を統一。西はカスピ海から東は中国の北方まで領土を広げ、匈奴以来の内陸アジア全域を支配する強力な遊牧国家を建設したという。
6世紀中頃と言えば、新羅では巨大な積石木槨墳がもう作られなくなった頃である。
『シルクロードを知る事典』は、突厥は北周と相互に婚姻関係をもって発展したが、次第に大小の可汗が分裂抗争し、やがて東突厥(モンゴリア)、西突厥(中央アジア)に分裂した。
630年、東突厥(第一可汗国)は唐のために滅ぼされ、部族は唐の北辺でその支配をうけた
という。
新羅に近い東突厥は7世紀前半に滅んでしまった。西突厥はどうだろう。
西面可汗シルジブルがエフタルを破って中央アジア全域を支配し、ササン朝と東ローマに対抗して西方へ発展したのが、西突厥の基礎となった。アパ可汗が西突厥を称したのは583年であった。
611年射匱が隋に任命されて可汗となり、その弟統葉護可汗期に最盛期を迎えた。統葉護は可汗庭をスイアブに移し、その勢力はアム川を越えてカピシ(現アフガニスタンのベグラム遺跡)に及んだ。
640年唐の高昌征伐を初めとする積極的西域進出が始まり、西域と西突厥は唐の支配下にはいった。
高宗は三度の大討伐を行なって、657年西突厥を滅亡させた。
唐はもとの西突厥の領域を傀儡の2可汗に統治させ、西突厥支配下にあった中央アジア諸国に都督府と州を置いて支配した。
683年東突厥の地では、阿支那氏のクトルグが突厥勢力を糾合して独立し、第二可汗国が成立した。彼らはゴビをわたって本拠ウチュケン山を回復し、モンゴリアを再統一した。次のカプガン可汗は西突厥の後継者の突騎施(テュルギシュ)を討ちソグディアナにまで遠征した。第三代のビルゲ可汗時代は玄宗皇帝期にあたり、玄宗と父子関係を結んで繁栄したが、その後は内紛が多く、唐と組んだトルコ諸部族の反乱が起こって、第二可汗国は744年に滅亡した。
8世紀初めには十姓の一部突騎施が復興し、東では東突厥と、西では東進してくるイスラム勢力と衝突する
という。
西突厥の方はかなり長い間中央アジアにいたのだ。

この出土地も時代もわからない金帯飾りは、『週刊シルクロード12キルギス』が採り上げているのだから、現キルギスの地のどこかから発見されたものだろう。
意外なことに、このような長い腰偑のついた形式のものは、長い期間にわたって、北方ユーラシアで使用し続けられたていたようだ。
そして新羅では、実用品でない腰偑もあるので、新羅では、突厥の帯飾りに似たものが武人などの間で使われていたのだろう。

石人 出土地不明 時代不明 ベラサグン、野外博物館 
『シルクロードを知る事典』は、砕葉城からさらに10㎞ほど南下すると、ベラサグンの遺跡がある。約1㎞X800mほどの広大な廃墟だが、遺跡に入るとまず半壊したミナレット(尖塔)があり、王宮の跡か住居址か巨大なテペ(遺跡の丘)がそれに続いてわだかまっていた。遺跡右手の空き地には、キルギス共和国の各地から集められた石人や直径1~2mの巨大な石臼が20~30個もズラリと並べられていて壮観だった。残念なことにこれらの石人は、採集地はすでに分からなくなったものが多いという。
この石人は膝を曲げて坐っているように見える。2本の剣は帯から下げているのか、脚の前に立てかけているのか、よくわからない。石人はたくさんあるようなので、探せばベルトから武器を吊り下げたようなのもあるかも。ベラサグン遺跡の位置は下図をどうぞ。

付近のアク・ベシム遺跡について『週刊シルクロード12キルギス』は、アク・ベシム遺跡が西突厥の本拠地であったスイアーブ、すなわち中国史料に見られる砕葉城あるいは素葉城に相当することがほほ確実であるという。
『シルクロードを知る事典』は、『大慈恩寺三蔵法師伝』には、法師のこの地方での旅を次のように述べている。玄奘三蔵がイシック・クルから西北に500余里進んで素葉城(アクベシム)に着くと、そこで西突厥の葉護可汗に会った。可汗はちょうど狩猟に行くところで、多数の兵馬を従えていた。玄奘が可汗を訪れると、可汗は大いに喜んだという。
玄奘三蔵がここまでやって来たのは630年のことである。きっと狩猟の服装をしていた可汗は、革に金の金具を付けた腰偑に狩りの道具をいろいろと吊り下げていたことだろう。 
慶州瑞鳳塚についてはこちら

※参考文献
「国立慶州博物館図録」(1996年 通川文化社)
「週刊シルクロード12 キルギス イシク・クル湖ビシケク」(2006年 朝日新聞社)
「シルクロードを知る事典」(長沢和俊 2002年 東京堂出版) 

2009/09/18

鹿石の帯に吊り下げられた武器と新羅古墳出土の腰偑

 
モンゴル、オーラン・オーシグの今でも立っている鹿石(前2千年紀末-前1千年紀初)は下の方に帯状のものがあり、それにいろんな道具がぶら下がっている。剣のような武器らしい。帯の上部には弓矢がある。 

鹿石に描かれた図 オーラン・オーシグ出土
『騎馬遊牧民の黄金文化』は、鹿石に表されたシカにも2種類ある。1つはモンゴル高原の鹿石によく見られるもので、鼻面が嘴のように突出し、背中には三角形の突起があり、枝角が背中に沿ってたなびき、肢は細い線で表されるものである。
これらの鹿石にしばしば刻まれている武器などは、中国の商代(殷代ともいう)後期に、中国北辺の牧畜民によって用いられたものに似ている
という。
こちらの鹿は肢は折り曲げていないが、極端に短い。
『世界美術大全集東洋編1』は、鹿石の表面には鹿を主としてさまざまな文様が刻まれているが、多くのものには耳飾りのような文様、首輪のような線、真ん中から少し下には帯のような文様、そこから吊り下げられているような形で、短剣、刀子、弓などの図が刻まれている。短剣には、その図からある程度型式が推定できるものがある。たとえば柄の先に動物の頭がつけられているものがあるが、それは柄が剣身に対して曲がっており、中国殷代の北方青銅器の短剣とひじょうによく似ている。鞘には、夏家店上層文化の短剣の鞘にときおり見られるように末端が少し広がったものや、三角形の透かし文様を表したものが見られる。
これらの例から鹿石の年代は殷代から春秋時代の初めごろに相当すると考えられる
という。
時代的にイラン系スキタイ以前である。この顔から類推すると、当時この辺りに住んでいたのは、日本人同様に目が細く鼻が低いモンゴロイド系というよりは、このように深目高鼻のイラン系(東方アーリア系)やなあ。スキタイ以前からイラン系の人々がモンゴル高原に住んでいたらしい。
2つの説を合わせると、殷代後期から春秋時代初期(前12-8世紀前半頃)だが、これだけの長期間に、モンゴル高原に住む人々はずっとイラン系だったのだろうか。それともモンゴル系に代わっても鹿石は作り続けられたのだろうか。 鹿石破片 前822-791年以前 アルジャン古墳出土
『騎馬遊牧民の黄金文化』は、鹿石は元来、人の姿を表したものだと考えられている。確かに真ん中より少し下のあたりには帯が表され、帯からは、短剣や戦斧などが吊されているのが見える。
シカは幾分写実的に見えるスキタイ様式のシカである
という。
どうも鹿石は、北方騎馬遊牧民の狩猟の時の姿を表しているようだ。
アルジャンの位置はこちら 帯にいろいろと吊り下げられているのを見ていると、新羅の積石木槨墳より出土した銙帯と腰偑が気になる。

銙帯(かたい)と腰偑  金製 後5-6世紀 慶州金冠塚出土 長109.0㎝ 慶州国立博物館蔵(現在はソウルの国立中央博物館蔵)
『ユーラシアの風新羅へ展図録』は、新羅の典型的な帯金具で、何条にも下がる腰佩が特徴的である。 腰佩には魚形飾りをはじめ、様々な品物が吊されるという。
『黄金の国・新羅展図録』は、銙板の下部に勾玉・魚・刀子・砥石・薬筒・針筒・ガラス瓶・香嚢・鑵子などの腰偑が垂らされている。腰佩は、北方騎馬民族が旅行や戦争時に必要な各種の日常道具を腰につけていた風習に起源を見い出すことができる。このような風習が、鮮卑族や高句麗を経て新羅に流入して徐々に新羅化していく中でその実用性は失われ、非実用的な華麗な装飾品として製作されるようになった。腰偑装飾のうち、砥石と鑵子は鉄器製作に用いられた道具であり、薬筒は疾病治療のための薬が詰められた容器、勾玉は生命を、魚は食糧を表象したものとみなされる。すなわち銙帯の腰偑には、当時の王や祭司長が管掌した様々な職掌が象徴的に表現されているようであるという。 
やっぱり鹿石の帯に吊り下げられたものと関連があったんや。
腰偑は一番下に吊り下げられているものも含めるのか、その上の円形と四角形を何段か組み合わせたものだけをいうのか、解釈はいろいろだ。いずれにしても騎馬遊牧民にとっては、そのような長い腰偑は邪魔だっただろう。
鮮卑族は鹿角馬頭形歩揺飾を作ったとされる慕容部かも。慕容氏は五胡十六国時代には前燕(307-370年、都は鄴)、北魏が建国した後も、後燕(384-407年、都は中山)・南燕(398-410年、都は広固)などの国を建てた(『中国歴代帝王系譜』より)。 博物館で実際に見ると、金製の歩揺冠も腰偑もあまりにも重そうで、実用品ではなく、儀式や祭儀など特別なときに身につけたのだろうとは思った。時代と様々な民族を経ると、騎馬遊牧民の実用品はこのようなものになってしまうのか。
しかし、鹿石の下限の春秋時代初期(前8世紀前半)から、歩揺飾の制作年である後3-5世紀まで1000年以上の空白がある。このように形が変わっても、よくここまで伝えられたものだなあ。
オーラン・オーシグと新羅の位置関係です。天馬塚出土の腰偑はこちら、その説明はこちら
鹿角馬頭形歩揺飾についてはこちらそして新羅との関連についてはこちら

※参考文献
「季刊文化遺産12 騎馬遊牧民の黄金文化」 2001年 (財)島根県並河万里写真財団
「国立慶州博物館図録」 1996年 通川文化社
「ユーラシアの風 新羅へ展図録」 2009年 山川出版社
「世界美術大全集東洋編1 先史・殷・周」 2000年 小学館
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 1999年 小学館
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」 2004年 奈良国立博物館
「中国歴代帝王系譜」 稲畑耕一郎監修 2000年 (株)インタープラン  

2009/02/20

慶州天馬塚の金製品

 
天馬塚は、封土もしっかりと残っていて、学術的に発掘された積石木槨墳である。発掘の様子はこちら。そして、山字形金冠が出土したことから王陵とされているが、金冠だけでなく、他にも豪華な金製品が木槨内より出土している。

金製冠帽 高19.0㎝ 6世紀 国立慶州博物館蔵
様々に透彫された金板を組み立てて冠帽にしてあるのを『黄金の国・新羅展図録』でみていたが、国立慶州博物館で実際に目にすると、思っていたよりもずっと小さかった。頭に被ることはできないので、髷にでもかぶせるものだったのかと思った。
図録は、金冠塚から出土した冠帽と非常に類似し、新羅の冠帽の中でももっとも華麗なものである。前面に2枚、後面に1枚、上部に1枚の計4枚からなる透彫された金板を組み合わせて作られている。規格と形態からみて、白樺樹皮で作られた帽子にかぶせて装飾したものと推定されるという。
帽子にかぶせたものだったのだ。勾玉や歩揺で装飾された「山」字形の立飾のついた金冠がハレの日用なら、ケの普段使いの冠として使われたものだろうか。
『世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗』は、天馬塚からは、ほかに白樺樹皮製冠帽が6個出土しているが、そのうち形がわかるのは2個である。一つはこの金製冠帽と同じく側面が半円形をなすもの、他は頂部が平らな台形をなすものである。
木棺内で被葬者が身につけていた金冠などの装身具が葬送用あるいは特殊な儀礼用とすれば、石壇上にあったこの冠帽は日常的に使用されていたものと見ることもできる
という。
白樺樹皮製冠帽のうち、金製冠帽と同じ形のものにかぶせるものだったのだろか。
図録は、冠帽は、多様な文様を精巧に透彫して美しく製作されている。文様の種類としては、猪目文やT字文が大部分で、このほかにも菱形文、半環文、変形龍文などがあり、錐状の道具で裏側から打ち出して表現した小型突起による装飾もみられる。このうち半環文は、金冠塚から出土した冠帽の例をみると、天馬塚の蝶形冠飾で確認される猪目文が変形したものとみられる。文様がない余白は、直線または曲線の打出列点文で装飾され、金板の連結部分は厚みのある金帯を当ててから金糸で連結しているという。
それぞれの文様が素晴らしい。半環文が猪目文の変形したものというのも興味深い。蝶形冠飾については次回。
また、皇南大塚南墳出土の銀製冠帽には金銅製の唐草文のような変形龍文の透彫が取り付けられているが、そこには列点文はない。
このように、文様の変化や技術が進んだことが、5世紀中葉の皇南大塚南墳、後半の金冠塚、6世紀初の天馬塚の出土物からうかがえて面白い。  銙帯(かたい)一式 金・瑪瑙・硬玉製 長125.0㎝ 6世紀 国立慶州博物館蔵
『黄金の国・新羅展図録』は、主に銙帯は、皮革や布で作られた帯の表面を金・銀・金銅・銅などの薄い金属板で装飾したものである。
この銙帯は、薄い金板を切り抜いたり、打ち出して製作した44枚の銙板・垂飾、帯端金具、および13組の腰佩などから構成されている
という。
慶州博物館では末広がりの筒状のものに巻き付けるようにして展示してあり、実際に身に着けるとどんな感じかわかるように工夫されていた。しかし、残念ながら暗くて細かいところまでじっくり見ることができなかった。
『世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗』は、類似した文様の銙板と垂飾は、1990年に発掘された中国、遼寧省朝陽市の王子墳山墓群からも出土している。天馬塚と組み合わせも同じ金銅製帯金具で、3~4世紀の鮮卑の墓と考えられている。また、高句麗の都のあった中国、吉林省集安市の山城下330号墳からも透彫唐草文の銙板が出土しており、これによって新羅の帯金具の系譜を北方に求めることができる。さらにこの帯金具の影響は倭にも及び、福岡県飯塚市櫨山古墳から天馬塚とまったく同じ文様の金銅製の銙(東京国立博物館蔵)が出土しているという。
銙帯と腰偑は、壺杅塚・瑞鳳塚・金冠塚・皇南大塚北墳などから出土しているので、新羅独特のものかと思っていたが、北方系のものだったようだ。 
※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「図説韓国の歴史」(金両基監修 1988年 河出書房新社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」(2004年 奈良国立博物館)
「天馬 シルクロードを翔る夢の馬展図録」(2008年 奈良国立博物館)