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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2016/08/19

アク・ベシム遺跡


『シルクロード紀行12』で林俊雄氏は、現在のキルギス共和国の領域は、西部天山山脈の北麓からフェルガナ盆地の南にまで及んでいる。
この地にキルギス人が現れたのは今から400-500年前のことで、それ以前は、同じテュルク(トルコ)系の突厥やテュルギシュ(突騎施)、カルルク、イラン系のソグド人、さらに遡ると、やはりイラン系のサカ(塞)や系統不明の烏孫などが住んでいた。
天山山脈からキルギス、カザフスタンの草原には、サカの築いた古墳が今でも数多く残されている。その一部は烏孫が造ったものではないかとする説もあるが、確証はない。
6世紀になると、今日のキルギスの地域には西突厥の本拠が置かれる。ここまで名前を挙げた部族集団は、みな騎馬遊牧民であるが(ただし烏孫の一部は農耕を行っていたとする説もある)、この頃から定住民の活動も目立ってくる。
天山山脈から北に流れ出る川の中でも、イリ川と並んで大きいのがチュー川であるという。

そのチュー川が平原に出たばかりのところに、アク・ベシム遺跡がある。その中心部分をなすのは厚い城壁で囲まれたほぼ四角形の主市街区(ペルシア系の言語ではシャフリスタンという)で、面積は約35万㎡に達する。城内の西南隅に砦跡がある。主市街区の東側に接して面積60万㎡以上の隣接市域(ラバトという)が広がっているが、ここは建築址が散在するだけで、密集した住居区画はない。遺跡全体の形は、中世初期の中央アジア西部の都市とほぼ同じであるという。

アク・ベシム遺跡平面図

見学したのはシャフリスタンの南東隅の遺構。南西部にはGoogle Earthで確認できる幾つかの建物跡は、上の図の蛇行する城壁の内側のもので、外側にある2つの仏教寺院址は土の中のよう。
Google Earthより

『シルクロード紀行12』は、この遺跡では、少なくとも3つの仏教寺院址と一つのキリスト教(ネストリウス派)教会址が発見されている。そのうち、1号仏教寺院址はシャフリスタンの西南隅の外にある。東西方向に長く、東に入口があり、西に本堂がある。その中間は中庭になっていて、庭に面した側は開いていて柱が立ち並んでいる。このような構造は、ソグド地方など、中央アジア西部のオアシス地帯に特徴的である。建築材料は日干レンガ(藁まじりの軟らかい泥を木枠に流し込んで天日で乾燥させたレンガ)で、その寸法は3種あるが、いずれもソグドの日干レンガと一致するという。

『PARADIGM OF EARLY MIDDDLE AGE TURKIC CULTURE:AK-BESHIM SETTLEMENT』(以下『AK-BESHIM SETTLEMENT』)は、どちらの寺院も建築技術は同一で、土(版築)、壁を築くのに突き固めた土の塊と、その間に水平な数段の日干レンガ列を入れることという。

第1仏教寺院
正方形の寺院で、広い通路と長方形の中庭そして幾つかの部屋のある入口の建物(前門)があり、長さ76m、幅22mの長方形であるという。
西奥にあるほぼ正方形平面で、東に入口のある建物が本堂で、内部中央に空間がある。赤く塗った4本ずつ南北2列に並んだ8本の角柱は柱廊だろうか。

復元図によると、8本の角柱のあるところも陸屋根が架かっていた。その奥のドームはストゥーパ?

2本の木柱(平面図では角柱だが、復元図では円柱になっている)で梁を支え、梁が横木を支える平天井になっている。ウズベキスタンの夏用モスクになっている柱廊(ボロ・ハウズ・モスク)のよう。中央アジアでは、このような木材を使った平天井が伝統的に受け継がれてきたということか。
仏坐像と立像が中央の開口部両側に安置されている。
キルギスでは、仏陀の3つの伝統的な姿勢、坐像、立像、涅槃像全てが、アク・ベシムとクラスナヤ・レチカでの発掘によって出土しているという。

また、第1仏教寺院からはパルメットや金メッキした青銅の飾板が出土しているという。

① パルメットまたはアカンサスの葉の間に仏または千仏が座した飾板
② 宝相華文の中に仏坐像と仏の方を向く2人の人物
③ 神または王族の夫婦像
これは異教神々の影響を受けた地域独特の仏教図像で、頭飾をつけた男性と鋸歯状の王冠を被った女性、そして二人の前には玉座がある。二人とも片腕をあげ、頭を右に向け肢を曲げて座るバクトリアのラクダを掲げているという。

同書によると第2仏教寺院は、平面図を見ると正方形で、前門の役割のある建物と中庭は、寺院内部の前面位置する広大なホールになっている。内陣は10X10.5mの正方形の十字ドーム型である。全体の大きさは38X38.4mの正方形平面で、内陣から同心状に2本の通路を持つという。

同書は、ラバドの方では、シャフリスタンの城壁から165m東方で、ネストリウス派キリスト教会が発掘された。シリアの4-6世紀の十字ドーム型プランをもつ教会との比較によって8世紀とされた。教会は楕円形で東西方向にのび、36X15mであるという。
その平面図も想定復元図も掲載されていない。

キリスト教会の発掘は1996-98年に、シャフリスタンの南東隅で始まった。修道院の建物群は、建立されてから、都市が存続している間は使われ続けたことがわかった。3つの主要な部分-教会(南側にある)と2つの建物の内一つは北に、もう一つは中央に平行して立っていた。西側では、2つの長方形の中庭は一続きで、広大な中庭であった。
十字架をイメージした陶製飾板(建物の聖なる区域の壁面を飾っていたらしい)遺物を伴った建物の配置は、キリスト教会の建物に一致する。建物群の規模は巨大であるという。
ということは、我々が見学した建物はキリスト教会だったのだ。

東側より
西側より

東寄りの側は、西側まで続くヴォールトの格天井が互いに連結する3つの部屋からなるドームのある建物が並んでいるという。
ということは、三廊式のバシリカ式教会、中庭などが南北に並んでいたのだった。近寄りすぎないで、城壁跡から全体を写せば良かったのだ。

これらの部屋は主ドームのある建物のように、それぞれ入口があった。西側には家事のための小さな部屋がいくつかあった。G.L.Semenovは、建立時期に言及せずに、この建物の使用期間を10-11世紀とした。
発掘は完了していないが、すでに発見された陶器は、6-8世紀の特徴を示している。このことは、キリスト教の修道院としての存続を示しているようだ。10-11世紀の施釉陶器はカラハン朝期の様相を見せている。多数の出土物や甲冑と武器の破片などによって、この建物の終末期には、別の目的で使用されたのは確かであるという。
それで時期が2つ記されているのだ。

仏教とキリスト教の建築(イスラーム以前)には画一性が見られる。シャフリスタンのキリスト教建物群と第1・第2仏教寺院を比較すると、通路とヴォールト状の柱廊は、長方形と正方形の繰り返しによる独特の外観となっている。
寺院はドーム架構され、第2仏教寺院には柱廊玄関がない。寺院の前面に中庭を配置することで、その代わりとしている。
3つの建物の玄関は、壁面が土の塊の分厚い基礎という同じような様式で造られている。その上には日干レンガがドームあるいは格天井まで積み重ねられた。日干レンガのサイズはいろいろあって、40-45X20-22X10㎝。パフサの塊は80X85㎝の高さで70㎝幅という統一規格。この寺院は、当時の中央アジアで最大で最も複雑なものであったという。

ところで、玄奘三蔵が西突厥の可汗に会うためにペダル峠を越えてやってきた。
『玄奘三蔵、シルクロードを行く』は、峠を過ぎればすでに国域は西突厥である。ひたすららに山を下ると、やがて目の前に波立つ青黒い湖が見えてくる。大清池である。
玄奘一行は束の間の休息を湖のほとりにとった。ここから葉護可汗の王庭のある素葉水城(スーヤーブ、素葉城)に至るのに、彼らは湖の北岸沿いの道をとったのか、南岸沿いに進んだのかは、明らかではない。ただ「海に循い」(『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』)、「清池の西北へゆく」(『大唐西域記』)としか記されていない。

玄奘は先を急いだ。大清池の西端を過ぎてさらに行くと、やがてチュー川のむこうに素葉城が見えてきた。現在のトクマクの南方にあるアク・ベシムの遺跡がその城址だという。玄奘のいう素葉も『唐書』にみえる砕葉城も同じで、ともに現地語「スイアブ(河水)」の音訳である。「城の周囲は6、7里で、諸国の商胡が雑居している」、玄奘が素葉で目にしたのは、国も扱う商品もさまざまに異なっていた商人たちがここに集まり、騒然とし活気にみちた国際的な交易・中継市場の光景であった。
ソグド人の植民市であったここには妍祠(ゾロアスター教の礼拝堂)はあっても仏寺はなかった。チュー川を10数㎞下るとクラスナヤ・レチカの城址がある。こんにちでは発掘によって涅槃仏もある仏寺の存在も確認されているが、玄奘が素葉を訪れたときにはまだ創建されてはいなかったと思われる。麹文泰が玄奘に統葉護可汗を訪ねるよう勧めたのも、当時の可汗の力が南のガンダーラ地方にまで及んでいたからであったという。
アク・ベシムやクラスナヤ・レチカで発掘された仏教寺院もキリスト教会も、まだ建立される前に玄奘三蔵はやってきたのだった。

涅槃像は、チュー川の少し下流のクラスナヤ・レーチカ遺跡で出土しているが、ほぼ脚部のみ残っている。





※参考文献
「シルクロード紀行12 キルギス イシク・クル湖 ビシケク」 2006年 朝日新聞社
「PARADIGM OF EARLY MIDDDLE AGE TURKIC CULTURE:AK-BESHIM SETTLEMENT」 L.M.VEDUTOVA SHINICHIRO KURIMOTO 2014 ALTYNTAMGA
「玄奘三蔵、シルクロードを行く」 前田耕作 2010年 岩波新書

2007/11/21

弥勒の大仏像は



ところで、弥勒像には巨大なものがある。有名なのは、バーミヤンの西大仏と呼ばれるの立像である。
『Shotor Museum アフガニスタンの美』は、谷を挟んで南側にある高台からバーミヤン渓谷を望むと、はるか対岸に2つの大仏が見える。 
西にそびえるのが西の大仏で高さ55m、右に見えるのが東の大仏で38m。二者の間には約800mの距離がある。  ・・略・・
顔面を欠如し、年記も文献もなく、大仏の制作年を確定するのは難しい。しかし東の大仏について玄奘が「この国の先の王が建てたもの」と書き、彼が見た時はまだ傷みも少なそうな様子から、玄奘がこの地を訪れた632年をそれほどさかのぼらない頃の作ではないかと思われる。バーミヤンを調査した樋口隆康氏も年代の確定を困難としている(『バーミヤンの石窟』同朋舎)
という。

バーミヤンに限らず、敦煌莫高窟もキジル石窟も、雲崗石窟も、石窟は修行僧の生活の場でもあったので、川の流れに面した崖に開鑿されている。『仏教美術のイコノロジー』は、仏教美術はインドから中央アジア・中国へと伝わるが、その過程で大きな変貌をとげる。湿潤気候で大地の豊かさに根づいたインドの仏教美術は、乾燥した砂漠地帯の広がる中央アジアの風土の中で、全く新しい様相をおびる。中央アジアの茫漠とした地では、天空に対する神秘感がつよく、釈迦の次にこの世に現れる弥勒菩薩が兜率天という天上世界にいて、そこに再生したいという、弥勒信仰(弥勒上生信仰)の美術がクローズアップされてくる。 
アフガニスタンのバーミヤーンは6~7世紀頃に栄えた仏教遺跡で、摩崖から掘り出した二大仏(東大仏と西大仏。ともに立像)と数多くの窟寺で名高いが、ここではインドの仏教美術の核となっていたストゥーパに代わって、高さ38mと55mという巨大仏が遺跡の中心にあり、大仏の仏龕壁画や祠堂窟の装飾には弥勒信仰が深い影を落としている。  
西大仏は高さは55mで、天井壁画は中央部分が剥落し台座や天衣の一部が残るのみであるが、そこには大きな弥勒菩薩坐像が描かれていたと推定される。大菩薩像を取り囲んで、多くの天人たちがアーチや梯形破風の建築物の下に坐し、中心の弥勒菩薩を讃美し、兜率天の楽土を描き出している。
この西大仏の天井の大構図の縁には、天蓋の帳幕飾りがつけられており、弥勒菩薩の大構図が天上世界であることを示している。また、大仏の肩部に当たる仏龕の張出し部には、円形区画の中に飛天たちが大仏に向かって散華する姿が描かれている。この大仏自身は下生の弥勒仏、つまり遠い将来兜率天よりこの世に下る弥勒の仏陀としての姿と思われる(弥勒下生信仰)。というのも、弥勒下生経典には弥勒が大仏となって出現することが説かれているからである。例えば『弥勒大成仏経』に人間の寿命が8万4千歳となった時、弥勒が下生し、その身は「釈迦仏より長じ、32丈なり」と述べられている。バーミヤーンの西大仏は、東大仏の釈迦仏より大きく造られており、天井に兜率天の弥勒菩薩の世界を描き、その弥勒が下生するあり様を大仏で表したものであろう
という。

西大仏が弥勒立像であるとしている。バーミヤーンの東大仏も西大仏も破壊されて今はないが、西域の天山南路中央部、クチャの郊外に位置するキジル石窟にも、大仏というか、大像があったことがわかる大きな刳りがあった。それは一般的に観光客が見学する谷西区にあるが、鳩摩羅什の像のある位置からは見えない。そしてキジル石窟では、鳩摩羅什の像近くにある旅遊接待庁でカメラも荷物も預けなければいけない。谷西区・谷東区・谷内区と欲張って見学した後、我々は敷地内にある餐庁で食事をした。その時は預けた荷物を持って行ったので、餐庁前から第47窟の大きなくぼみを撮ることができた。
『シルクロード キジル大紀行』は、キジル大石窟群の中心部に、ひときわ高くそびえる第47窟がある。ここがキジル大石窟群のなかで最も古い石窟の一つとされている。炭素年代測定法によると、第47窟が建造されたのは3世紀後半ではないかという。
第47窟は、石窟のある位置も断崖の上のほうに位置し、窟そのものも大きい。絶壁にうがたれた巨大なアーチ状の穴。アーチの下部から頂部までの高さは17.5m、これは5階建ての建物に相当する。この中に、かつてキジルを象徴する巨大な大仏が立っていたという。今までは大仏そのものは跡形もなく崩れ去ってしまっているが、アーチの天井部に大仏を賛美する飛天らしき像の手の部分だけが彩色とともに残されている。
この大仏がどんな仏様だったのか、詳しいことはわかっていない。弥勒仏の像だったのではないかと考えられている
という。

下生する弥勒像であった可能性を示唆している。
2005年夏、我々が見学する前に大雨が降って47窟の主室天井が崩れ落ち、内部を見学することも、近づくことすらできなかった。当時キジル石窟の専門ガイドだった馬媛(まえん)さんが「修復することができません」と残念そうに言っていた。47窟はキジル石窟で最古の窟で、4世紀に開鑿され、5-6世紀の地震で崩壊したと説明してくれた。最初にバーミヤンを紹介したが、このようにキジル石窟の大仏の方が古い。キジル石窟へは中央アジアの別の石窟から伝わったのだろう。

また、バーミヤンは、玄奘三蔵が行ったことでも有名だ。

『アフガニスタン 遺跡と秘宝』は、『大唐西域記』で玄奘三蔵は、バーミヤーンについて、次のように記している。  ・・略・・  王城の東北の山の阿(クマ)に、立仏の石像がある。高さ104、50尺で、金色にかがやき、宝飾がきらめいている。東に伽藍がある。この国の先王が建てたところである。伽藍の東に、鍮石の釈迦立像がある。高さ100余尺である  ・・略・・
玄奘の記述は、7世紀初頭におけるバーミヤーンの生活を的確に述べている。ただ石窟については、多少の問題がある。王城東北の山の阿にある、高さ104、50尺の立仏石像というのが、西の大仏であることは間違いない。これが金色に輝いているというのは、金箔でも貼ってあったものかとも推測される
という。

玄奘三蔵の見た大仏について推測されている。
玄奘三蔵はバーミヤーンに立ち寄るよりも前に亀茲国(当時クチャあたりにあった西方系の人々の小国)を訪れている。そこでは、当時のシルクロードであった塩水渓谷を通ったと、ガイドの丁鋳さんが行っていた。実際に我々も下りてみたが、水のほとんど流れない川を羊の群れが通っていた。

『シルクロード キジル大紀行』は、亀茲国に60日間滞在したといわれる玄奘三蔵だが、その痕跡を証明するものは現在まで発見されていない。しかし、クムトラ石窟には玄奘が訪れたといわれる場所が残っている。その場所は、クムトラの代表的な石窟として名高い第68窟から第72窟までの5連洞であるという。
残念ながらキジル石窟には行っていないようだ。もし行っていたとしても、第47窟の大仏はすでに地震で崩壊していたのではあるが。

※参考文献
「Shotor Museum アフガニスタンの美」 谷岡清 1997年 小学館
「仏教美術のイコノロジー」 宮治昭 1999年 吉川弘文館
「シルクロード キジル大紀行」 宮治昭 2000年 NHK出版
「季刊文化遺産14 文化の回廊アフガニスタン」 2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団
「アフガニスタン 遺跡と秘宝 文明の十字路の五千年」 樋口隆康 2003年 NHK出版


2007/09/14

高昌故城の講堂の起源



高昌故城β寺院講堂はこの角度からみると長方形の建物に円形の屋根が載っているように見える。それは2段になっていて、下段の各隅にわずかにでっぱりがある。
日傘が見えるアーチ形のところが入口である。

入口から入ると実際には焼成レンガで造られている。外から見るとわずかだったでっぱりが、中から見ると思ったよりも大きな凹みだった。 焼成レンガで積み上げて、上から土を塗って仕上げるということは、メソポタミアのころから行われていたという。
上が屋根になっているわけではなく、丸い壁面となっていて屋根がない。 そして、このように写真を見直すと、自分の記憶が変形していることに気づいた。4隅の持ち送りは、外観ほどでないにしても、正方形の1辺の残り(中央部)と比べると、ずっと小さなものだと思っていたが、持ち送りの一番下の2点の長さとあまり変わらないようにも見える。つまり、正方形から正八角形へと移行させて、持ち送りの頂点が円の弧を作り上げている。玄奘三蔵が講義を行ったとされている講堂がペルシア風あるいはイラン風と言われているからには、イランに原型のような建物が現存しているはずである。
『季刊文化遺産13古代イラン世界2』にサーサーン朝の創始者アルダシール1世の宮殿の写真があった。かなり巨大な建物のようで、正面から見て2つ講堂と同じ円筒形の屋根がある。 同書、岡田保良氏の「サーサーン朝の都市と建築」は、サーサーン朝の建築造形について語るには、まず王朝の開祖アルダシール1世(位226-241)の居城から始めるのが適当のようだ。彼は今日のフィールーザーバードに宮殿を築いたが、それ以前、まだアルサケス朝の諸侯だったとき、近傍の山頂に城を構えていた。ドームやヴォールトといったサーサーン朝建築を特徴づける造形要素をはじめて確かめることができるのが、カラエ・ドフタルと呼ばれるその城なのである。王位に就いたアルダシールは、山城を出て新都「アルダシール・フワッラ(アルダシールの栄光)」の経営を始めることになる。アルサケス朝以来、ハトラやクテシフォンで馴染みの幾何学的な円形に市壁をめぐらせて都の輪郭とし、宮殿はその中央に配置された。
宮殿の主要な建築材料はやや小ぶりに粗く切り出した石材で、石灰モルタルをたっぷり用いて壁を築いた。建物の中でも主要な部屋は正方形につくって丸屋根のドームを架け、その他の細長い部屋はかまぼこ形のヴォールト天井で覆った。それぞれ木材を渡さないで屋根を架けようという工夫から生まれた建築術だ
という。
正方形の平面に頂部の切れたドームを載せたものは、サーサーン朝ペルシアに特徴的な建物と考えて良いようだ。
講堂との違いは円形の開口部が小さいこと、「天窓」という表現をされている。そして、4隅が講堂ほどはっきりとしていないことくらいのものである。
講堂も当初は円筒形の壁面がもう少し高くて、フィルザバード宮殿のように天窓程度のものだったかも知れないなあ。

※参考文献
「季刊文化遺産13 古代イラン世界2」 2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団

2007/09/06

高昌国で玄奘三蔵が説法をした講堂は


高昌故城の観光で、ロバ車で到着したところは南壁に近いβ寺院址の前だった。 内城壁址の陰にいるのは、帰りのロバ車を待っている人たち。β寺院と名づけられた遺跡は、その場にいると、このような、壁に囲まれたお寺の境内として捉えることができないくらい広大だった。不思議なことに、右側にはラクダに乗って記念写真を撮るコーナーまであった。もちろん富士フイルムではなく、中国製のフィルムである。日乾しレンガを敷き詰めた参道をまっすぐ西に向かうと大塔址がある。
大塔の周壁は後世付け加えられたものらしい。大塔そのものもかなり修復が進んでいるようだ。しかし、側面にまわると、仏龕には仏像もなく、土台の日乾しレンガが現れているところもある。 塑造の仏像はあまりにも風化が進んでいた。頭部があったらしいことは、残った土に彩色されている光背らしきものからわかる。他にわかるのは、塑像を支えていた棒状のものを差し込んだ穴、そして塑像の残骸らしきものくらいだ。 大塔の参道が右に分かれ、その先にあるのが講堂址。入っても良いらしい。
高昌故城及び講堂址はグーグルマップでこちら  これが玄奘三蔵が講義を行ったとされている講堂だ。『シルクロード第5巻 天山南路の旅』 で陳舜臣氏は、
この高昌の遺跡に立つと、奇異の念にうたれる。ここは古くから漢族が移住し、漢族王朝が栄えた土地だった。それにもかかわらず、この遺跡には、漢ふうの雰囲気はまったくないのである。正方形の基台のうえの建造物は、ドームをもっているが、これはあきらかにイランの様式なのだ。あるいは、階段をもつ塔があり、インド様式であることを示している。
漢ふうの建物ははじめからなかったのか?それとも木材を用いた漢式建造物は、早くからこわされてしまったのか?  ・・略・・
住居については、イランやインド様式のほうが合うと、この地の漢族も認めたにちがいない。乾燥していること、木材が豊富には得られないことなども、その理由の一つであろう

と、高昌故城の建物、インド様式の大塔やイラン様式の講堂について述べている。ところで、このような建物を表したであろう壁画が敦煌莫高窟にある。
1つ目は盛唐期(712-781年)の第45窟南壁「観音経変」西端に半分だけ描かれている。実はこれは建物の端に編み残し状のものが出ているので、葦などの植物を編んで作ったものだと勘違いしていたので、妙な形だとは思っていても、長い間この講堂と結びつかなかった。 2つ目も盛唐期の第23窟で、窟頂南披「法華経変観音普門品」西端に描かれている。『中国石窟 敦煌莫高窟3』の解説には「土築成的監獄」となっていて驚いた。 高昌国ではお寺の講堂に造られた建物の形が、敦煌の盛唐期には監獄になってしまうとは。共通しているのは上部がドームのようになっていないことだ。だから、この講堂がかつてはドームが載っていたのではないことがわかる。
陳舜臣氏がイラン式という表現をしているということは、現在のイランに、このような建物が残っているということだろう。


関連項目
高昌国のペルシア風建物はソグド人?
高昌故城の講堂の起源



※参考文献
「シルクロード第5巻 天山南路の旅」 1981年 日本放送出版協会
「中国石窟 敦煌莫高窟3」 1987年 文物出版社

2007/08/31

高昌国のペルシア風建物はソグド人?


高昌故城はトルファンの東40㎞、火焔山の前平原にある。海抜-40mで夏になると蒸し暑く、火州と呼ばれたと小冊子『高昌故城』にある。
海抜以下というのは確かなようだが、何mかは書物によって異なる。トルファンの暑さについては「バケツの水をかぶってもすぐに乾いてしまうほど」と表現する人もいる。我々が行った時は40度だったが、日本の夏のように汗がだらだら出るようなことはなかった。

版築の周壁が見えてきた。地面も壁も同じ色だ。前日は大雨が降り、遺跡が崩れたということだったが、建物でさえ同じ色なので、どこが崩れたのか見当がつかなかった。畑の隣が遺跡というのは、高昌国の時からだろうと勝手に想像している。 高昌故城の歴史は、同小冊子は、前104年(前漢武帝期)に、「地勢が高く、人間が隆盛である」ということで高昌と名づけられ、駐屯部隊の兵士のとりでである「高昌壁」を建てた。327年より前に涼王朝の張駿が高昌郡を設立して高昌城の歴史に入った。 
443年に北涼王族沮渠氏が兵士部隊を率いて、東から高昌城に入った。柔然が沮渠氏を攻めたりした後、499年に麹嘉が登場、「麹氏高昌」の歴史に(499-640)。
640年に唐朝の軍隊が高昌に入って、西州都御府を設立。9世紀中後期に回鶻人が高昌に入って高昌回鶻汗国を建てた
という。

匈奴やウイグル族などの北方民族の侵入はあったが、ペルシア人がトルファンまで侵攻したという事実はない。何故漢族の麹(きく)氏の時代に高昌国の建物がペルシア風だったのだろう。
高昌故城の大きさは早稲田大学シルクロード調査隊トルファンホームページの高昌故城によると東西1600m、南北1500mもある。そのためロバ車で見学するのだが、我々はガイドの丁さんを含め3人、10人揃わないと出発しないとオヤジが言うのでしばし待った。 ロバ車に8分ほど揺られ、南にあるβ寺院(その講堂で玄奘三蔵が説法をしたことで有名)の前で降ろされた。帰りも同じ道を通ったので、高昌故城の遺跡のごくわずかを見ただけだ。
上の地図で「可汗堡」というところだろうか。ヴォールトらしきものが見えてきた。 この穴もヴォールト天井だ。 四角い穴もあるかも知れないが、半円形の穴もありそうだ。 ドームのようにも見える。 半分弧を描き、半分四角いようにも見える。こちらはヴォールト天井の部屋が並んでいるようにも見える。殷時代からあるという版築の技術で作られた壁面を間近に見ながら、丁さんが力を入れて説明してくれた、板で囲いをして土を入れて、とんとん突き堅めて、また板で囲いをして、と繰り返して高くしていきますと。
蛇足だが、NHKの『探検世界遺産』という番組の万里の長城後半編で、版築の頂上を私財を投じて修復している人が数人でリズムよく土を突いている場面があり、どのように突き固めるかがよくわかった。その中国の伝統的な工法でペルシア風の建物を造ったというのは面白い。ペルシア風と表現したのは玄奘三蔵である。日本でも長らく正倉院のもので中国でないものはペルシアと言われてきた。「胡」がつくものもペルシアから中国にもたわされたものとされてきた。
しかし、数年前NHKスペシャルで『文明の道』というシリーズが放映された。その第5集に「シルクロードの謎 隊商の民ソグド」というのがあり、以前はペルシアだと思っていた事柄が、実はソグドだったという画期的な内容に驚愕した。番組では、シルクロードの交易を仕切っていたのは同じイラン系のソグド人だという。

同書は、周囲を城壁で囲まれたペンジケントは、13ヘクタールという小さな都市と、その周囲の農耕地が領土のすべてだった。城壁のなかには、土でつくられた小さな家々がびっしりと建てられていた。当初、ペンジケントは家々が整然と並ぶ町だったが、人口の増加によって、2階、3階と建て増しされ、通りの上にまで家がつくられた。  ・・略・・  建て増しの際の強度を保つため、天井はアーチ型という。
また、2000年に西安郊外で見つかったソグド人の墓の墓碑銘について、北京大学歴史系教授の栄新江氏は、・・略・・  商業を目的に中国にやってきた多くのソグド人たちが、交易に便利な場所を選んで集落を築き、定住していたことが、明らかになってきたと説明する。
ペルシア人が高昌国にペルシア風の建物を伝えたのではなく、高昌国に住んでいた隊商の民ソグド人が、中央アジアの故地の建物を造ったのではないだろうか。

ところが、一緒に出土した数枚の石のパネルに描かれたレリーフが彼らの生活を現代に伝えている。  ・・略・・  『墓主夫婦図』には中国式の館のなかで暮らす、主人とその妻の姿が描かれていると、取材班の文が続いていた。「高昌国はペルシア風の建物ばかり」と玄奘三蔵の見たものは、麹氏の趣味だったのか。

※参考文献 
「シルクロード第5巻 天山南路の旅」 1981年 日本放送出版協会

「文明の道3 海と陸のシルクロード」 2003年 日本放送出版協会
「高昌故城 シルクロードの名城の1400年の歴史を総観する」 2001年 新疆美術撮影出版社

※参考ウェブサイト
早稲田大学シルクロード調査隊トルファンホームページ高昌故城

2007/03/12

三蔵法師が首に巻く骸骨は

朝日新聞の火曜夕刊に連載されている『祈りの美』を楽しみにしている。先日は「玄奘の首飾り」というものだった。それで思い出したのだが、以前玄奘三蔵の首にある、小さな頭蓋骨の目に紐を通したような首飾りについて書いたことがあったので、忘れへんうちに、記載しておこう。

玄奘三蔵像 鎌倉時代(14世紀) 絹本著色 東京国立博物館蔵(重文)
これはインドから経典を持ち帰る玄奘三蔵を描いたものである。その首には頭蓋骨を9つぶらさげている。ずらりと並んだ頭蓋骨の首飾りというのは、見ようによっては不気味だ。
少し気になって頭蓋骨の首飾りは他にないか調べた。つい最近見たような気がする。『大勧進 重源』展で展示されていた深沙大将立像だった。

深沙大将立像 鎌倉時代(13世紀) 木造彩色 和歌山・金剛峰寺蔵
6つの頭蓋骨を付けている。なんでこんな髪が天を衝き、恐ろしい形相の大将と三蔵法師が同じような首飾りをしているのか。

『仏教美術の基本』は、玄奘三蔵が天竺に渡り経典を負って流沙(砂漠)にさしかかったときに、奇怪な姿であらわれ、三蔵を守ってぶじ唐に送り、また姿を消したといわれる神で、赤身の裸形で臍と膝頭に人面があり、頸から骸骨をつないだ瓔珞(ようらく)をかけているという。
ただ、13世紀(鎌倉初期)に快慶によって作られたというこの深沙大将立像の膝は象面となっている。三蔵法師の「骸骨をつないだ瓔珞」は深沙大将からもらったものなのだろうか。『玄奘三蔵の道』展図録は、このような姿の僧は、玄奘の砂漠での旅を救い、また大般若経の守護にあたる深沙大将とともに釈迦三尊十六善神像や大般若十六善神像の中に描かれており、その説話的要素によって玄奘と解釈されるという。
「髑髏の胸飾り」についての説明はない。これを苦難の砂漠路を無事に抜けるためのお守り、あるいは魔よけ、つまり辟邪と考えるとどうだろうか。

虎を伴う行脚僧図 唐末期(9世紀末) 紙本著色 敦煌莫高窟出土 大英博蔵(スタインコレクション)
 玄奘三蔵と特定されていないものの、玄奘三蔵伝説の初期的なすがたを示唆するものとされている(『三蔵法師の道展』図録より)。この僧は骸骨をつないだ瓔珞をつけていないが、虎という強い獣が魔よけとなっているのかも知れない。
それにしてもこの行脚僧は違和感のある顔立ちである。トルファン郊外というか、火焔山の中に開かれたベゼクリク千仏洞の回鶻期(ウイグル族の統治期で、ウイグル族がイスラーム教徒になるまで)に描かれた壁画にこんな顔があったと思う。
私が何回か取り上げてきた鎮墓獣も、時代と共に恐ろしい形相のものへと変化している。虎や骸骨の首飾りも見た目には恐ろしい程、守護される側には心強いものになっていったのではないだろうか。

ところで、奈良国立博物館研究員永井洋之氏の「ある説として、深沙大将の髑髏は玄奘のもの」を読んでびっくりしたが、結びの「玄奘のかけた髑髏の首飾りも、天竺までの旅の困難さと、玄奘自身の天竺への思いの強さをあらわしたものと考えてみてはどうか」という言葉に、辟邪にこだわり過ぎて、玄奘三蔵の苦難の旅に思いを馳せることを忘れていたことに気がついた。

※参考文献
「三蔵法師の道展図録」 1999年 朝日新聞社
「大勧進 三蔵法師の道展図録」 2006年 奈良国立博物館
「仏教美術の基本」 石田茂作 1967年 東京美術