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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2026/03/03

昔は世界一古い町と言われたチャタルホユック遺跡


チャタルホユックについて『古代オリエント事典』の大村幸弘氏の記事は、中央アナトリアの都市コンヤの南東 40 ㎞、 チュムラ Çumra の北11㎞に位置するという。

アナトリアのヒッタイト遺跡群 Google Earth より
❶アラジャホユック Alacahöyük ❷ハトゥシャ Hattuşa ❸アンカラ Ankara ❹ビュクリュカレ Büklükale ❺カマンカレホユック Kaman Kalehöyük ❻ヤスホユック Yassıhöyük ❼トゥズ湖(塩湖 Tuz Gölü) ❽カッパドキア Kapadokya ❾コンヤ Konya ➓ファスッラール fasıllar monument ⓫ベイシェヒル湖 Beyşehir Gölü ⓬チャタルホユック Çatalhöyük


チャタルホユックの二つの遺丘 Google Earth より
Google Map で360°写真で内部を見ることができます。
ⓐシロエリハゲワシが人間を襲う場面の壁画のある神殿 ⓑほぼ平面に家屋が密集している遺構 ⓒ斜面に家屋が密集している遺構
同書は、双子山状の遺丘、径東西500m×南北300m、 高さ17.5m。遺丘は東西二つの遺丘からなり、西丘では前期銅石器時代の建築遺構を確認、東丘からは前8-7千年紀、新石器時代の12建築層からなる集落が出土しているという。


発掘調査の写真(『アナトリア文明博物館図録』より)
『興亡の世界史 人類文明の黎明と暮れ方』(以下『興亡の世界史』)は、農業、交易、そして物づくりが盛んになることによってチャタル・ヒュユクは繁栄期を迎え、住民の住居も整備されていった。1961年の最初の発掘で出土した139室の部屋は巨大な集合住宅のような造りで、それぞれの住居を分ける路地などがなく、住居同士が共有壁によって分かれているだけであった。このため住居の出入りにはハシゴをかけて陸屋根にのぼり、そこから居室に入るようになっていた。
居室はいずれも4×5mほどの大きさで、粘土製の炉やベンチがしつらえてあった。住居の中核をなしている居室の周囲には小部屋がいくつかあり、食料貯蔵庫や倉庫としてもちいられたという。
下の部屋の壁面中央下部に突き出ているのは牡牛の頭部だろう。
チャタルホユック遺跡 神殿の壁 アナトリア文明博物館図録より

別の部屋の壁面にも突き出たものがあるが、牛頭には見えない。
チャタルホユック遺跡 神殿の壁 アナトリア文明博物館図録より

部屋の床は区切られていて、壁側に少し高い区画が並んでいる。アナトリア文明博物館で復元展示されている部屋の床に似ている。
チャタルホユック遺跡 神殿の壁 アナトリア文明博物館図録より

アナトリア文明博物館の説明パネルに家屋の様子が描かれていた。
説明パネルは、9000年前、チャタルホユックに最初の農民が住み、屋根を出入口として利用していた。平らな屋根と日干しレンガ造りの家々は石造りの基礎がなく、広々とした居間を除いて貯蔵庫で構成されていたという。


『世界美術大全集東洋編16 西アジア』は、土器新石器時代のもう一つの特徴は、色彩による絵画的表現の出現である。彩文土器の文様もその一例ではあろうが、なんといってもカンヴァスが小さく、図像も幾何学文中心である。本格的な絵画表現とは認めがたい。チャタル・ホユックやテレイラート・ガッスール (ヨルダン)に見られる各種の神殿壁画がある。洞窟壁画を欠く西アジアの先史美術にとって、住居壁画の台頭は、色彩絵画の出現という大きな意義をもっているという。

ⓐ神殿 シロエリハゲワシが人間を襲う場面の壁画
『興亡の世界史』は、神殿と推定される部屋の一つには、シロエリハゲワシが首のない胴体部分だけの人間を襲っている場面が描かれており、鳥葬のような習慣があったことを示唆している。
集落から一定の距離をおいた遺体置場で野ざらしにされて白骨化させる一次葬としての鳥葬を含む風葬がおこなわれ、次いでその白骨を親族が布や獣皮に包んで故人の自宅や神殿のベンチ状の寝台下に埋葬するという、葬祭の一連の推移であるという。
ハゲワシの胴部に二つずつ何かが描き込まれているのは呑み込んだ人体の一部?
チャタルホユック出土神殿壁画復元図 世界美術大全集東洋編16 西アジアより 


アナトリア文明博物館の復元展示
『興亡の世界史』は、東丘の日干し煉瓦で構築されている建築遺構内の壁面からは幾何学、狩猟場面、猛禽類の飛び交う光景、噴火、集落等が描かれており、またメラートが発掘した166の遺構内からは牡牛の頭部で飾った日干し煉瓦作りの柱をもつ祠も確認されいる。そのなかからは丸底の粗製土器、土製、石製の地母神像、黒曜石製品が数多く出土している。
西丘から出土してる銅石器時代の彩文土器を手がかりとして、中央アナトリアの銅石器時代が文化的にタウルス山脈の南側との結びつきで捉える傾向が強いという。
アナトリア文明博物館に復元展示されていたのは、一般家庭ではなく祠堂だったのだろうか。

『興亡の世界史』は、部屋の天井にはカシの木の頑丈な梁がわたされ、その上に細い横木とアシが敷きつめられ、粘土で固めてあった。この天井が住居の陸屋根を形成していたという。
梯子の上に木製の段がある。その上の天井は木材を細かく加工して凝った装飾になっているが、これはチャタルホユックとは関係なさそう。
左の壁沿いは台所のようなので、祠堂ではなく一般家庭だったのでは。それにしては牛頭が多すぎるようにも思える。

梯子の向こうに竈
説明パネルは、居間には炉、窯、テラスがあった。長時間にわたる工芸作業は、主室にある炉の周りで行われていた。黒曜石は削られ、主室の階段脇に保管されていたという。

左には浅い石の器と丸い石で穀物を潰す道具。
『古代オリエント事典』は、穀物などを脱穀・製粉するための、大型の半磨製石器の総称、石灰岩や玄武岩などの、 きめの粗い石材が好んで用いられた。穀物の脱穀・製粉用具としての石臼は、続旧石器文化から現れ、先土器新石器文化以後に一般化しているという。
日本では新石器時代に土器がつくられたのに対して、穀物を挽くところは煮炊きする必要のないところではそのための容器が要らないので無土器(先土器)新石器時代というものがあると聞いたことがある。粉にして水で練って焼けば食べられるからだ。

奥の黒いのは炭ではなく、黒曜石かも。
説明パネルは、黒曜石は、加工しやすい脆くて硬い構造のため、チャタルホユックの石材産業において最も注目され、最も頻繁に使用される原材料。黒曜石は、チャタルホユックの集落から徒歩で10-13日かかるカッパドキアから運ばれたと考えられている。これらの黒曜石製の道具、ナイフ、矢じり、槍先は、野生動物の狩猟や屠殺に使用されたという。

牛の頭部の並ぶ壁
『アナトリア文明博物館図録』は、チャタルフユックの家々のきわだった特徴は、壁画と壁に飾られた牛の頭のシンボルである。この呪術的な飾りは特別な建物にだけあるわけではなく、各家の宗教的目的のために使われた場にもおかれていた。牛の頭は高浮彫り、又は丸彫りて、時には本物の牛の頭に粘土を塗って壁に飾ったという。
本物の牛頭ではないとはいえ、人々の暮らす部屋には多過ぎるのでは。家族の一人が亡くなると新たな牛頭をつくって祀ったのだろうか。

手前のベンチには人骨が埋められていた。
『アナトリア文明博物館図録』は、チャタルフユックでは、家の床下に埋葬する慣わしだった。 子供の場合は部屋の床下に、大人はペンチの下の部分に一人、又は数人いっしょに埋葬して、そのわきには副葬品も埋めていたという。
説明パネルは、家の床の下には、家を守り、力を与えた先祖が埋葬されているという。

壁画
説明パネルは、チャタルホユックの家の最も重要な特徴の一つは、何百回も塗り直された壁の装飾で、ヒョウのレリーフ、漆喰で塗られた雄牛の頭、具象画、幾何学文様などが描かれているという。
右壁

何か特定できないが野生の草食獣を狩っている場面。動く人物の表現が秀逸。



復元家屋の外側に壁画が展示されていた。
人間は牛と同じ色で描かれていて、人と比べて巨大過ぎる牛

鹿も巨大

絨毯模様のフレスコ画 前6000年 
説明パネルは、赤と黒の三角形に点線や絵画的な文様が組み合わされ、長方形のモチーフが生み出されている。絨毯を模したこの壁画では、隙間が目立ち、その間に縫い目のようなものが見られるという。


向かい合うヒョウの浮彫 前6000年
説明パネルは、チャタルホユックの人々にとって、ヒョウは特別な位置を占め、あるいは宗教的な意味を持っていたに違いない。これらの漆喰で彩色されたヒョウのレリーフは、かつてチャタルホユックの家屋の壁を飾っていた。ヒョウの頭部に塗られた漆喰と塗料の層数から、これらのレリーフが長年にわたりチャタルホユックの住居を飾っていたことが窺えるという。 
ヒョウ同士が縄張り争いをしている場面だろうか。


当時の生活の想像図 (説明パネルより)
屋根から出入りするところも描いてほしかった。


ところで、『世界美術大全集東洋編16 西アジア』は、黒曜石の産地を抱えるアナトリア周辺の遺跡では、黒曜石製の鏡(チャタル・ホユック)や黒曜石を半溶解して作った蛇の像(テル・シムシャラ)などといった珍品も出土しているという。
黒曜石を半溶解していたとは。全部溶かしてガラスの器や蜻蛉玉をつくることはなかったのか。

黒曜石製鏡 前6千年紀前半 チャタルホユック出土 高4㎝
青銅製の鏡は裏面の装飾について話題になるが、どのように見えたかはあまり聞かない。夫に尋ねると、良くは見えなかったのではないかと言う。黒曜石の鏡もあまり良く見えなかったのでは。

黒曜石について『興亡の世界史』は、チャタル・ヒュユクの東130㎞ほどにある火山ハサン・ダー(ダーは山の意味)で採れる黒曜石は、鋭いエッジをもつことからナイフの刃として利用され、東地中海沿岸やペルシア湾沿岸にまで運ばれたという。

ハッサン山と思われる火山の壁画のコピー (説明パネルより)
説明パネルは、この壁画は、チャタルホユックの町の背後にそびえる火山、ハサン山を描いたものだと考える人もいる。一方、幾何学文様をあしらった様式化されたヒョウの皮を描いたものだと考える人もいる。前者の解釈が正しいとすれば、これは世界初の都市計画と言えるかもしれないという。
下はチャタルホユックの家々、上は噴火する火山。


同書は、副葬品は貧弱だが、神殿のような部屋に埋葬された遺体の場合は黒曜石製の鏡、儀式用の短剣、金属製のビーズのような高価な副葬品をともなっていることから、集落の首長たちの墓であった可能性がある。そうであるならチャタル・ヒュユクは共同体としてかなり成熟した段階にあり、住居の規模では成員間の差は認められないが、首長のような地位が生まれる程度の社会的垂直性が進展しつつあったことがうかがわれる。
この時代にこれほど高度な集落社会が出現する条件として、肥沃な耕作地の確保、黒曜石という当時の社会における貴重な資源が近くで産出され交易が盛んだったこと、さまざまな物資の交易にともないさまざまな地域の人々と接触できたことなどがあげられる。しかも交易を有利におこなうため、一次産品に細工を加えて付加価値を与える工人集団が誕生した。集落社会の中に農業以外の職業が確立し、社会のより有機的な構造化をうながすことになった点も見のがせないという。
チャタルホユックは新石器時代の集落の一つではなく、交易の要衝だった。

チャタルホユックの出土品には小さな地母神像が多い。

一番有名な地母神像 前6千年紀前半 
説明パネルは、豊かな胸と広い腰から、農業と人間の豊穣の両方と結び付けられてきたこの女性像は、二頭のヒョウの間に座る姿で描かれており、強い社会的人格を示唆している。脚の間の丸い形は、生まれたばかりの子供の頭部、あるいは高貴な祖先の頭蓋骨を表しているのかも知れないという。

双頭の女神 前6千年紀前半 17.2㎝ 大理石

頭部がないのが残念だが、ヒョウの毛皮を纏った女神? ボリュームのない女神像だが背面にもヒョウ文が彫られている。右肘や左膝に穴があるのは、置物ではなく、紐のようなもので掛けておくものだったのでは?


首飾り 前6千年紀前半 石・鹿の骨・歯など 黒いものは黒曜石かも

骨や黒曜石でつくられた装身具類
左上は黒曜石製鏡だろう。写していても気が付いていなかった。
黒曜石は箱のようなものにも成形して使われていた?

チャタルホユックはいつか訪れてみたい遺跡の一つである。


                   →アスランハネジャミイのタイルとキュンデカリ


関連記事

参考文献
「古代オリエント事典」 日本オリエント学会編集 2004年 岩波書店
「世界歴史の旅 トルコ」 大村幸弘 2000年 山川出版社
「アナトリア文明博物館図録」 アンカラ、アナトリア文明博物館

参考にしたもの
アナトリア文明博物館の説明パネル

2026/02/24

アナトリア考古学研究所が発掘しているヒッタイト時代の遺跡


アナトリア考古学研究所が発掘調査しているのは、カマンカレホユック以外にビュクリュカレとヤスホユックのヒッタイト時代の遺跡がある。
地図 Google Earth より
ⓐアンカラ ⓑビュクリュカレ Büklükale 遺跡 ⓒカマンカレホユック遺跡 ⓓヤスホユック Yassıhöyük 遺跡

ⓑビュクリュカレ遺跡について『古代オリエント ガイドブック』は、前 17世紀中ごろから中央アナトリア北部のハットゥーシャを中心として栄えたヒッタイト王国があった。それ以前のアナトリアでは、カールム(アッシリア商業植民地)時代のキュルテペ遺跡をはじめとする王国が隣立してアッシリア商人が活躍していたが、それらが崩壊してからヒッタイト王国成立までのことは詳しくわかっていなかった。しかし、現在発掘中のビュクリュカレ遺跡ではその未解明の時期が明らかにされはじめているという。
「暗黒時代」とも呼ばれてきた空白の時代に光が差してきたのですね。 
ビュクリュカレ遺跡 Google Earth より

この遺跡のすぐ南(上流)にアナトリア・セルジュク朝期に建造されたチェシュニギル ÇEŞNİGİR 橋がある。  カマンカレホユック博物館の写真パネルより


ビュクリュカレ遺跡 宮殿跡の発掘 写真パネルより

発掘中の貯蔵庫に並んだ大甕とその中に入る学生たち 写真パネルより
貯蔵用大甕が並んでいる。大甕の大きさと器壁が薄いことが分かる。

同書は、ビュクリュカレ遺跡の考古学調査の目的は、ここの前2千年紀、特にヒッタイト帝国時代の地方都市を調査し、カマン・カレホユック遺跡で確立した中央アナトリア編年における空白部を埋めることです。発掘調査は2009年に開始され、今日まで毎年継続されている。これまで地中磁気探査では「下の町」と呼ばれる都市部ではヒッタイト時代の箱式都市壁とそれより古い、アッシリア商業植民地時代と思われる二つの都市壁が確認されているという。
写真パネルの右の白っぽい城壁がヒッタイト時代だろう。すると、左のグレーの城壁はアッシリア商業植民地時代になる。


城塞部の発掘調査ではアッシリア商業植民地時代に属する宮殿址と思われる巨石建築遺構が出土している。
発掘では、長さ2mを超える巨石が用いられた、高さ7mを超える壁を持つ巨石建築物(長さ50×幅30m)が出土した。この建物は、その規模に加え多数の穀物貯蔵壺が出土し、公共建築物か王宮と考えられ、カールム時代からヒッタイト王国の初めまで居住されており、ヒッタイト王国成立前後の歴史解明において貴重な資料となっているという。
ビュクリュカレ遺跡 宮殿跡の内部 古代オリエント ガイドブックより


同書は、この大型建築物の南東隅からは二つの地下室が見つかり、大量の酒杯とともに白い大理石製のヒョウの頭部小像をはじめとする貴重な遺物が多数出土した。廃棄された大量の土器から判断すると、3000人以上が儀礼に参加し、酒を飲んだ椀を地下室に投げ入れ、地下室の底からのびる「坑道」から地界の神をよび寄せたと考えられる。これはヒッタイト時代以前のアナトリアの土着民ハッティの伝統である建築儀礼と考えられ、ビュクリュカレ遺跡の住人がハッティ人であった可能性を示しているという。

豹の頭部小像 ヒッタイト時代 大理石 ビュクリュカレ遺跡出土 
『古代オリエント ガイドブック』は、地下室から出土した。王笏に付けられたものと思われ、斑点にはエジプシャンブルーが、目には金とラピスラズリが象眼されているという。

エジプシャン・ブルー について『古代オリエント事典』は、エジプト青ともよばれる、珪酸・銅・石灰にアルカリ溶剤を加え加熱して溶融した化合物、艶のないざらっとした質感が外見上の特徴、しばしばガラスやその類似物質と混同されるが、その構造の大部分が結晶質である点でガラスと、表面に釉の皮膜がない点で施釉石や施釉陶器と、中心部まで均質である点でファイアンスと、それぞれ相違し区別できる。上記原料を粉末状にして混ぜ合わせ、 坩堝で摂氏900-1000度に加熱し2段階溶融して製造された、天然にもごくまれに存在するが、人工物はエジプトの第4王朝時代に初現するとされ、第18王朝に盛期を迎え、第 26王朝前半には、表面に赤・黄などの彩色を施したものも認められるという。


カマンカレホユック博物館で展示されていたガラス瓶は驚くべきものだった。

ガラス瓶 古ヒッタイト時代 前1600年頃 ビュクリュカレ出土
説明パネルは、前1600年ごろに消失した石造建築の一室の床面から出土したガラス製細口壺片は人類のガラス製作史上大きな意味を持ってる。ガラス製容器としては世界最古に年代付けられ、さらにガラス製作史上忘れ去られていたアナトリアで出土したことは、これまで古代ガラス製作の中心地とされていた北メソポタミア及びエジプトとは異なるガラス製作の中心地がこのアナトリアにあった可能性を示しているという。
ガラス製作はヒッタイトとアッシリアに挟まれていた国ミタンニが最初だと思っていたのに、ヒッタイトだったとは青天の霹靂や~、と早合点していた。

ところが、『古代オリエント ガイドブック』は、ガラス製作技術は前3千年紀ごろにメソポタミア北部で出現し、ヒッタイトに敵対したミタンニ王国を建国したフリ人が発展させたと考えられています。ビュクリュカレでガラス壺が出土したということは、フリ文化がヒッタイト時代よりも前にすでにアナトリアに深く浸透していたことを示しています。フリ人のガラス職人がアナトリアで活動していたのかもしれませんという。
制作地はヒッタイトだが、ガラス工人はフルリ人ということかな。こんな場合ヒッタイトでつくられたものとして良いのか、ミタンニとするのが適切なのか。

元の色や瓶の下部(何故か展示されていない) 写真パネルより

写真パネルより
このコアガラスが出土したのは、宮殿跡の地下室に廃棄された土器に紛れて。これがその地下室かどうかは分からないが😓


これまで見てきたコアガラスの瓶で似たものと言えば、イラク、アッシュール出土のコアガラス(前15世紀)。

西洋梨形瓶 イラク、アッシュール出土 前15世紀 高23.3㎝ ベルリン国立博物館蔵
元はどんな色をしていたのだろう。テペ・マルリク出土の モザイクガラス坏(前12-11世紀)のように本体が白で文様が赤だったとしたら、かなり派手な器だったことになる。
羽状文が頸部に2本、そのうち下方のものは上下に縄目文、胴部下方に1本、その上に縄目文。頸部の縄目文の下に垂綱文、その下に縄目文がもう1本。
そして、頸部と胴部の主文は縄目文を交差させた組紐文(ギローシュ)とその上下、真ん中の円文(一色のため目玉文とまではいかない)だ。このような文様帯はコアガラスでは今までには見られないものだ。
『世界ガラス工芸史』は、アッシリア帝国の首都であったアッシュールからは、やはり数多くの容器や容器断片が出土するが、この遺跡からは他の遺跡と異なった器形のガラス容器、例えば容器の底部にボタン状の突起のついた西洋梨形瓶や、三足付きゴブレットなどの容器が出土している。それだけでなく文様も眼球文を捻り文が囲んでいるというような同時代のエジプトでも見られるような文様もみられるという。
テペ・マルリク出土のモザイクガラス坏の脚部に似ている。
このような円文も目玉文というのか。
三足付きゴブレットはこちら
イラク アッシュール出土の西洋梨形瓶 前15世紀 世界ガラス工芸史より

ガラスをもう1点、何かわからないが、右端に穴があるので、丸い形のペンダントトップかも。


ⓓヤスホユック遺跡 写真パネルより
説明パネルは、ヤッスホユックは、クズルウルマック川の描く曲線に沿ってそのすぐ東内側にある遺跡としては、発掘調査されている数少ない遺跡の一つで、前3-1千年紀にかけて(青銅器時代-鉄器時代)、南東アナトリアと中央、北アナトリアを結ぶ古代の幹線路に沿って存在した重要な都市を代表する遺跡と考えられる。
ヤッスホユック頂上部で発掘されている大遺構は、北西-南東方向の軸をもち、15.40 X 11.70 m の広さをもつ中央の中庭もしくは謁見の間(R8)を挟んで、廊下や各部屋がまさしく左右対称に配置されている。所により2.30m余りの高さで残っている壁は、石積みの上に日乾煉瓦が積まれ、壁の前面は厚い化粧土と漆喰が塗られていた。R8の北西壁の中央部には、3段のステップがついた壇が設けられ、中央部には鍵穴型の炉(直径220㎝の円形の炉に110X80㎝の矩形の付帯部)が設置されている。ほとんどの部屋の床面には多数の中、大型の土器が押しつぶさてはいるが原位置で検出されている。展示されている遺物の多くはR8の南側の廊下状の細長い空間R27から出土した。
この建物は炭素年代測定により前2260-2135頃(前期青銅器時代末)と年代付けられているという。
ヤスホユック遺跡はビュクリュカレ遺跡よりも更に古そう。

中央に聖なる炉
央部には鍵穴型の炉(直径220㎝の円形の炉に110X80㎝の矩形の付帯部)が設置されているという。

近くの部屋

残念ながらヤスホユックで出土したものを撮影しているのかよく分からない。



参考文献
シリーズ「古代文明を学ぶ」 「古代オリエント ガイドブック」 阿倍雅史・津本英利・長谷川修一編 2024年 新泉社

「古代オリエント事典」 古代オリエント学会編 2004年 岩波書店

参考にしたもの
カマンカレホユック博物館の説明パネル


2025/12/23

ヤズルカヤ ギャラリーBはトゥドハリヤ四世の墓所か


ヤズルカヤギャラリーB・Cの平面図 『Gods Carved in Stone The Hittite Rock Sanctuary of Yazılıkaya 』(以下『The Hittite Rock Sanctuary』)より
ヤズルカヤ ギャラリーB・Cの平面図 Gods Carved in Stone The Hittite Rock Sanctuary of Yazılıkaya より


ギャラリーBへの入口の浮彫(左側)
⑯No.67・68ライオンの精霊
『The Hittite Rock Sanctuary』は、体は人間で、男性像によくあるように、大股開きの脚を持ち、幅広のベルトを締めた短いスカートを履いている。足も人間のようだが、伝統的な先の尖った靴は履いていない。頭部は顎を開けたライオンのようで、掲げられた両腕は人間の手とライオンの足を交差させたような形になっている。この生き物には翼があり、左翼は腰から急角度で立ち上がり、右翼は上腕の下に垂直に垂れ下がっている。像の高さは1.01mという。
この翼はギャラリーAのNo.34 有翼日輪をのせた太陽神の翼のような複数の縦帯によって節に分割されておらず、隣のNo.35 月の神の翼のようだ。
ヤズルカヤ ギャラリーB入口 ライオンの精霊 Gods Carved in Stone The Hittite Rock Sanctuary of Yazılıkaya より


狭い岩間を進んでいくと、

開けたところに四角い石が見える。それがⓐトゥドハリヤ四世像の台座とされているもの。
ヤズルカヤ ギャラリーB トゥドハリヤ四世像の台座? Gods Carved in Stone The Hittite Rock Sanctuary of Yazılıkaya より

ⓐかつてあったとされるトゥドハリヤ四世像の台座 ⓑⓐに付属していたとされるトゥドハリヤ四世のカルトゥシュ ⓒC室(現在は石が積んであり立入禁止、用途不明)

ⓑトゥドハリヤ四世のカルトゥシュ


ギャラリーBは岩場で終わっている。

No.81 シャルマ神とトゥドハリヤ四世
『ヒッタイトの歴史と文化』は、狭い石室の最も高いところには、おそらくトゥドゥハリヤ四世の等身大の立像がかつて立っていた。また、ここでもレリーフにトゥドゥハリヤ四世が描かれており、個人神シャルマに抱擁されている。
そして通路を挟んだ反対側には、(主室の行列の最後にも描かれている)三日月状の剣をもった12柱の神々が一定の方向へ向かって行進している。ここがトゥドゥハリヤ四世を讃えて、その亡骸を安置した間であったのかもしれないという説は、王の像があるだけでなく、珍しい「短剣の神」の姿があることからも裏づけられるという。
王墓は発見されていないが、ギャラリーBはトゥドハリヤ四世の墓所だったということだろうか。
ヤズルカヤ ギャラリーB シャルマ神に守られるトゥドハリヤ四世 Gods Carved in Stone The Hittite Rock Sanctuary of Yazılıkaya より

『古代都市Ⅰ ヒッタイトの都ハットゥシャ』(以下『古代都市Ⅰ』)は、シャルマ神は短い衣装をまとい、とんがり帽子には六つの角が見える。右上に有翼日輪と王名を示す象形文字が彫られているという。
角らしきものがやっと写せた。角が多いほど位の高い神だったと思う。


⑲ No.82 巨大な刀剣を表した風変わりな浮彫(説明パネルより)
『ヒッタイトの歴史と文化』は、ヤズルカヤの「短剣の神」は冥界の神の一柱である。 この神が小室にいることは、(その他の手がかりと共に)ここが王の埋葬室として使われたことを示しているという。
『古代都市Ⅰ』は、高さは3.39mに達し、刀の先は地中に突き立てられている。刀の握り部分は左を向いた神の頭部を象り、そのとんがり帽子には幾つもの角が並んでいる。刀身には上半身を背中合わせにした2頭のライオン、その下は逆立ちした2頭のライオンというシンメトリ-なデザインとなっている。この浮彫は一般に刀の神と呼ばれてきたが、冥土の神ネルガルの像と思われる。刀は冥土の神ネルガルのシンボルだったという。
ヤズルカヤギャラリーB 冥途の神ネルガル Gods Carved in Stone The Hittite Rock Sanctuary of Yazılıkaya より


両肩それぞれにライオンの頭部と前肢、その下にはライオンの後片肢があって、もう一方の後肢が胴体に添っている。

両肩にライオン

両腕でそれぞれライオンをぶら下げて、更に下に向かって狭くなるので刀の先端とされている。


ところで、トゥドハリヤ四世王名紋章(カルトゥシュ)はギャラリーAとBに三つあるが、それぞれに異なる。

ギャラリーA No.64
同書は、山の神は掲げた手に棍棒を持っていないという。
有翼日輪に太陽を表す円盤が縦に二つあり、上の太陽の放射光は適当に彫られていて、完成された定形とは言えない。ヒッタイトにとって、新たに加えられた文様だろうか。
翼は三つの縦帯によって節に分割されている。
山を表したようなギザギザのある長衣の外側にもギザギザがあるのは立体的に見える工夫だったのかも。
ヤズルカヤ トゥドハリヤ四世のカルトゥシュ図解 Gods Carved in Stone The Hittite Rock Sanctuary of Yazılıkaya より

ギャラリーB No.81
同書は、山の神は表意文字に置き換えられているという。
有翼日輪の翼は二つの縦帯によって節に分割されている。日輪そのものは散りかけの花びらのようだ。
中央に表されているのは、私には神の坐像、その両側には神の方を向く脇侍のように見える。もっとも、ヒッタイトの神は、アラジャホユックのスフィンクス門前のオルトスタットのように椅子に坐っているのを除くとl立像だが。
ヤズルカヤ トゥドハリヤ四世のカルトゥシュ図解 Gods Carved in Stone The Hittite Rock Sanctuary of Yazılıkaya より


ギャラリーB No.83
有翼日輪の翼は縦帯によって節に分割されていないが、先に曲がる前に斜めの線があり、線の方向が変わっている。他にはない翼の表現。
こちらの長衣は丸い山を積み重ねたのだろうか。外側にギザギザがある。
ヤズルカヤ トゥドハリヤ四世のカルトゥシュ図解 Gods Carved in Stone The Hittite Rock Sanctuary of Yazılıkaya より


『The Hittite Rock Sanctuary 』は、B室の他の二つの浮彫は来世を題材としている。B室の剣神は、冥界の神ネルガルである可能性が高い。ヒッタイトの祈祷儀式において、「十二神」はこの神と同じ文脈で言及されている(Yazılıkaya 1975, 191)。これはそれ自体では説得力のある証拠ではないが、ネルガルの向かい側の壁面浮彫パネルに描かれた人物像を冥界の神々と特定する根拠となっている(例えば、Haas 1994, 368, 488)。そして、この前提に基づいて、B室は葬儀の慣習と何らかの関連があるという仮説が立てられている。もしこれが事実であり、他に説得力のある説明がないのであれば、B室はトゥドハリヤ四世の死後、彼の崇拝に用いられたに違いないという。
トゥドハリヤ四世の墓がここにあったのではなく、トゥドハリヤ四世を神のように崇拝するところだったという方が納得できる。
ただし、トゥドハリヤ四世の没後その息子アルヌワンダ三世(前1220-1215)とシュピルリウマ二世(1215-1220)が跡を継いだが、前1200年頃ヒッタイト帝国は滅んでしまった。
昔は「海の民」に滅ぼされたとされてきたが、そうではないというのが最近言われている。




関連記事

参考文献
「古代都市Ⅰ ヒッタイトの都ハットゥシャ」 2013年 URANUS
「鉄を生みだした帝国 ヒッタイト発掘」 大村幸弘 1981年 NHKブックス391
「Gods Carved in Stone The Hittite Rock Sanctuary of Yazılıkaya」 Jürgen Seeher 2011年 YAYINLARI
「ヒッタイトの歴史と文化 前2千年紀の忘れられた帝国への扉」 ビリー・ジーン・コリンズ著 アダ・タガー・コヘン日本語版監修 山本孟訳 2021年 リトン
「古代オリエント事典」 日本オリエント学会編 2004年 岩波書店

参考にしたもの
現地説明パネル