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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2019/10/18

ターラント国立考古学博物館 土器・テラコッタ


『世界美術大全集4 ギリシア・クラシックとヘレニズム』は、前8世紀以来、イタリア半島南部(現在のカンパニア州以南)およびシチリア島にはギリシア人によって植民された都市が繁栄し、西方ギリシア文化圏を形作っていた。製陶はほとんど行わず、ギリシア本土からの輸入-当初はペロポネソス半島東北端の都市コリントスで作られたコリントス陶器、その後アッティカ陶器-でまかなっていた。それが前5世紀後半に突如として赤像式陶器の製造が開始され、以来約1世紀間活況を呈した。南イタリア陶器誕生の動機としては、前443年にアテナイ人を中核とした植民都市トゥリオイがターラント湾沿岸に建設され、アテナイの陶工が移住してきたことなどが指摘されている。
南イタリア陶器画はアッティカの陶工の指導の下に始められたから、初期には手本の忠実な写しのごとき作品が多かったが、しだいに独特の画風が地方ごとに形成された。現在までのまところオーストラリアの学者A.D.トレンドールの研究によってルカニア(現バジリカータ州の古名)、アプリア(現プーリア州の古名)、カンパニア、パエストゥム、シチリアの五大流派の存在が明らかにされている。
五大流派のうち最も早く始まったのがルカニア派とアプリア派という。

円盤形アクロテリオン 前6世紀
アクロテリオンは三角破風の頂点に設置される飾り。おそらくペルセウスがゴルゴン(メドゥーサ)を仕留める場面。
上の説明から、アッティカで作られたものが将来されたことになる。

アンテフィクス(軒瓦留め) 前6世紀 アッティカで製作
人物あるいは神々の顔面が多い。

アンテフィクス 前4世紀
側面を見ると軒丸瓦のよう。彩色のものもある。
これが前4世紀後半のものなら、アプリアで作られ始めたものということになる。

競技者たちの墓に副葬されていた赤絵式の土器類 前6世紀末-前5世紀初頭
ギリシアからの輸入品 
上左端 赤絵式カリクス・クラテル 前410-400年頃 アッティカ式 
幾何学文様を組み合わせたような、この時期にしては不思議にな作品。イタリアにやって来たアッティカの陶工から学んだアプリア人の陶工が作ったということだろうか。
何故か土器や青銅器、青銅製動物像、鉄剣などに混じって金のペンダントが。それについては後日

リース 前4世紀半ば 鍍金テラコッタ
葡萄の実やドングリ、花などをテラコッタでつくつて金メッキしたものらしい。銅製ワイヤーで繋いでいるが、人物が身に着けたのではないだろう。

青銅製ヒュドリアのリース 前330年頃 テラコッタに鍍金した実
同館図録は、ヒュドリアの頸部に銅鍍金のギンバイカの葉と、テラコッタに鍍金した実のリースが取り付けられている。ターラントで火葬が再び導入された最も早い例である。同時にもっと古い埋葬が行われたという。
先ほどの鍍金テラコッタのリースもこんな風に骨壺を飾っていたのかも。

玉座の副葬品 前350-325年 彩色テラコッタ 
前面にはライオンの獣足、背もたれには鳥の装飾がある。
肘掛けには女性の頭部も。

赤絵式の壺類 
『世界美術大全集4』は、アプリア派はルカニア派にやや遅れて、前430-20年頃タラスで起こった。この派はモニュメンタルな大きさと豪華さ、ポリクロミーへの好みを示し、終始一貫して南イタリア陶器画の主導的地位にあって最大の流派を形成した。アプリア陶器には「華麗な様式」と呼ばれる大型陶器のほかに「簡素な様式」とよばれる小型陶器の系列もあり、むしろ後者のほうが数は圧倒的に多かったという。

アプリア式赤絵式渦形クラテル 前330年頃 ダリウスの画家彩絵 
説明パネルは、頸部には、フィラエ盃と杖を持ったディオニソスが、松明とカンタロス盃を持ったサテュロスと、王冠と聖具箱そして飾り紐のある月桂樹の枝を持ったマイナスの間に坐っている。
胴部には、ナスコスと呼ばれる葬礼用の建物の中で、尖った兜と飾り紐が描かれ鎧、ベルト、短い肩掛けを着け、槍と盾、尖った兜を持った若い人物が描かれる。
建物の周りには、献酒用のフィラエ盃や葬礼用のリースなどを持つ男女が描かれるという。
この立派な器は骨壺だった。クラテルでも把手が口縁部のところで渦を巻いたようなタイプは渦形クラテルと呼ばれている。
『世界美術大全集4』は、アッティカのタロスの画家とプロノモスの画家の作品は高さ75㎝に達する渦形クラテルで、両作品ともこのアプリア地方のルーヴォから出土していることは、器形といいポリクロミーといい、アプリアの陶器画家たちに影響を与えたことを推測させる。
多数の人物を2層に配するやり方も、手本はアッティカ陶器画に求められるが、アプリア派ではこれを好んで用い、3層にまで発展させる。
アプリア派のポリクロミーは白と黄、暗赤色が主体で、限られた色数によって、特に白と黄を多用して華やかさを印象づける。白と黄の使用には立体の陰影やハイライトの効果も意識されていて、絵画的といえる。
ブロンズの像が安置されている神殿にみられるように、アプリア派の陶器画家は場面設定に建築を用いるのを好む。
アプリア派の華麗な様式は後期のダレイオスの画家のアプリア・バロックともよばれる1mを超える大構図において爛熟に達するという。 
アプリア式赤絵土器の本拠地なのに、これだけしか写していなかった。

              →ターラント国立考古学博物館 金色の装身具

関連項目
ターラント国立考古学博物館 墓の変遷
ターラント国立考古学博物館 ガラス


参考文献
「世界美術大全集4 ギリシア・クラシックとヘレニズム」 1995年 小学館
「MARTA IL MUSEO NAZIONALE ARCHEOLOGICO DI TARANTO」 2015年 Scorpione Editrice

2017/03/21

ジッグラトがイラン高原の山だったとは


『ペルシア建築』は、古代の中東地域には、山を讃美し崇拝する傾向があまねく存在した。メソポタミア平原の単調な景観を救っていたのは堂々たるジッグラトであるが、これはイラン高原をとりまく山々、馴染み深い聖なる山々の、宗教的な模造品に他ならない。要するに、こうした巨大建築の目覚ましい発展は、それ自体、たとえメソポタミア的なものであったにせよ(ジッグラトはシュメールの地で前2200年頃までに成立した)、その発想や解釈は明らかにペルシア的なものであったと言える。東方から低地へ移住した人々は、自分たちの山々を一緒に運んでくることはできなかったので、みずから「聖なる丘」「万国の山」を築いたのであるという。
そのイランで最初に見たジッグラトは、ザクロス山脈の麓にあるテペ・シアルク遺跡だった。 このジッグラトについて『世界美術大全集東洋編16西アジア』は前1000-800年としている。


同書は、イランとシュメールとの間を結ぶ役割を演じたのは、前3千年紀に早くも王国を形成するに至ったエラム人である。全ジッグラト中、最も大規模な例といえば、おそらくエラムのチョガ・ザンビルが挙げられようという。
チョガ・ザンビルは後日見学したので、記事はかなり後になります。

チョガ・ザンビル以前に築造されたジッグラトは、

ドゥル・クリガルズ(現代名アカル・クフ)のジッグラト カッシート時代(前15-14世紀) バグダード近郊
『世界の大遺跡4メソポタミアとペルシア』(以下『世界の大遺跡4』)は、ドゥール・クリガルズはアッカド語で”クリガルズ(王)の城塞”を意味するが、クリガルズ(カッシート語で”カッシート人の羊飼”の意)を名乗る王はカッシート王朝に2名知られており、シカゴ大学のブリンクマンはクリガルズ1世をこの建設者と見做している。
ジッグラトの積み重ねられた煉瓦の間には、一定間隔で葦が水平に敷かれ雨水が自然に外部に排出されるように工夫されている。この葦の茎は今でもなお、3000年を経たとは到底考えられないつややかな輝きを見せているという。
日干レンガの建物の強度を高めるために葦を挟んだのかと思っていたが、排水のためだったとは。
こんな風に高く残っていることは珍しい。

ウルク(ワルカ)、エアンナのジッグラト跡 前34-前6世紀 サマワ近郊
『世界の大遺跡4』は、ウルクにはふたつのジッグラトが建てられていた。ひとつは”白色神殿”の立つ天神アヌのジッグラト、他のひとつはエアンナ聖域に立つこのジッグラトで、ウル・ナンム王が建設し、シュメール語でエ・ギバル・イミン(7つのギバルの家)と呼ばれたという。
こちらにも葦の層がある。

ウル(現代名テル・アル・ムカイヤル)のジッグラト ウル第3王朝時代(前22-21世紀) 
『世界の大遺跡4』は、ウル第3王朝時代には100年近くシュメール全土の政治・経済の中心であった。月神ナンナ(アッカド語名シン)を守護神とする聖市であった。
テメノス(聖域)の西端に位置する本来3層からなる階段形ジッグラト。内部は古い泥煉瓦の層で、その表面に2.4mの厚さで焼成レンガが積まれ、その間に瀝青(ピトゥメン)が塗りこまれている。一番下の層はもっとも保存が良く、地面のところで63X43m、高さは20mである。ウル・ナンムが建設をはじめ後継者によって完成された。ジッグラトの各処に縦長のせまい孔穴が、一定の間隔を置いて整然と並んでいるのが見えるが、この穴は焼煉瓦の化粧積みを通して、内部の泥煉瓦の層に達し、そこにこわれた土器がつめられていた。つまり、内部からの排水を意図した流し孔であるという。
この図版からは、葦の層は確認できないが、排水のために日干レンガの間に土器の破片を詰めてある。これだけの大きな建物ならば、たとえ僅かな雨水でさえ、日干レンガが水を含むことをおそれて、このような工夫がされている。
同書は、ジッグラト周辺の平坦部はウル・ナンムの建設した基壇テメン・ニ・グル(おそれに満ちた土台)。右下は月神ナンナ(シン)の拝殿址。左上は、月神ナンナに仕える女祭司の住居として、アマル・シン王が建造したエ・ギバル・ク(聖なるギバル殿)という。

『世界美術大全集東洋編16 西アジア』は、楔形文字の世界が教えるところ、ジッグラトという単語は「高きこと」あるいは「頂上」を意味するアッカド語に由来する。それに相当する宗教上の構造物は間違いなくもっと古くからあったにもかかわらず、前2000年ころより古くにこの語が用いられた形跡はない。さらに正せば、「その機能や外観を言い表した同時代史料はほとんどない」との指摘さえある。じつは「ジッグラトとはなにか」という問いに、われわれはまだ誰も正確に答えられないでいる。
1940年代には、ドイツの調査隊を率いていた古代建築史の碩学H.レンツェンと、聖書とメソポタミア考古学を結び付けて多くの人々の支持を集めたフランス人のA.パロが、相ついでジッグラトに関する専門書を著した。以来、欧米圏において顕著な研究の進展は見当たらない。彼らの主張によると、ウル第3王朝のウルナンム王が、ウルのほか、ニップル、ウルク、エリドゥのジッグラトの形式を一新し、階段状の基壇をもつジッグラトの様式を確立した。この見解は今も広く受け入れられている。ただウルナンム以前の時代、あるいはのちの時代でも文献上の記述が残っていない遺跡についてとなるといささかおぼつかない。というのも、神を奉じるための建造物であること、通常以上の高さのある基壇を持つこと、といった程度が判別の基準とされ、それなら、どういう事例がジッグラトの範疇に加えられるかとなるとはっきりしないからであるという。 
ジッグラトの祖型が、高い基壇の上に建つ神殿にあることはジッグラトの起源ですでに紹介している。
ただ、民族の移動に詳しくないため、『ペルシア建築』でいうように、ジッグラトを築いた人たちが、メソポタミアから見れば東方にあるペルシアから移住してきた民族であったかどうか、不明である。



関連項目
キュロス大王の墓はジッグラト風
ジッグラトの起源

※参考文献
「ペルシア建築」SD選書169 A.U.ポープ著 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
「世界の大遺跡4 メソポタミアとペルシア」 編集増田精一 監修江上波夫 1988年 講談社
「図説ペルシア」 山崎秀司 1998年 河出書房新社 

2017/03/17

テペ・シアルクに日干しレンガの初期のもの


カーシャーン郊外の遺跡テペ・シアルクは、各時代の日干レンガの建物の遺丘である。

『ペルシア建築』は、ペルシアの建築は、少なくとも紀元前5千年頃から今日まで通算6千年以上に及ぶ連綿たる歴史を持つうえに、その影響のもとで生まれたさまざまな実例をも含めると、西はシリアから東はインドの北部や中国の辺境まで、北はコーカサスの山地から南はザンジバルまで、膨大な地域にひろがっている。
建築の基本的な形態は利用できる材料によって支配されてきた。粘土は大抵の場所で容易に得られるので、先ずこれがピゼの発達を促した-つまり、仮枠の内側に泥を詰め、可能なかぎり突き固めたのち、自然に乾燥させるという素朴な土壁であるという。
このピゼ(pisé、仏語)というものは、おそらくタジキスタンのソグド人の町だったペンジケント(現地ガイドの人たちはパンジケントと言っていたが)でも使われていた、日干レンガよりもずっと大きな土塊、パフサと同じようなものではなかっただろうか。
ペンジケントの住居壁面写真

同書は、イラン(イーラーン)つまり「アーリア人の土地」とイラン名称は、この地へ移住してきた部族集団の名に由来するが、そのイラン高原は、そもそも今から1万年もさかのぼるような古い高地定住民たちの生活の舞台であった。先史時代のこうしたペルシアについて、いま判明している最初の住民たちは、まばらに散在する小集落の中に分かれて暮らしていた。いっそう急速な発展を遂げつつあったメソポタミア平原との間には、戦争も繰り返されたが、しだいに実りの多い関係が結ばれていった。建築にとってきわめて重要な意味を持つ宗教思想はたぶん高原で芽生えたものであり、これが低地に伝わり、そこで新しい要素を加えたのち、ふたたび高原のイラン人のもとへ戻って来たらしい。かかる過程を通じて内容が高度化し成熟が進んだのである。農耕集落については、前8000-6000年頃までさかのぼる実例-基礎と壁と土間床に石を用いた小住居の集合-が、ブレイドウッド教授を隊長とするシカゴ大学の調査隊によって発掘されている。このような粗末な住居はとうてい建築と呼べないにせよ、しかし、これこそが建築にとっての必要な祖先であった。
イランの集落や住居について初期の様相が知られているのは、ほとんどが、西部の渓谷地帯においてである。デヘ・ルーラン渓谷のアリー・コーシュで発見された新石器時代初期の集落遺跡はその一例で、前6200-5800年頃と推定できる土層の中に、いくつかの大形住居の跡が残っていた。部屋はたいへん広く(3.0X4.8m)、構造用の材料としては、現地の粘土をおおよそ直方体に切って干した手作りの煉瓦が使われている。
一方、メソポタミアの北部にあるジャルモ(前6500年頃)、ハッスーナ(前6000年頃)、テペ・ガウラ(前4500年頃)などの諸遺跡は、互いに文化の上で共通の様相を示し、それは「東方の山地から」伝播したものとされている。この場合、東方の山地とは、ペルシアでしかあり得ないという。
テペ・ガウラの第8層の神殿図

同書は、その「山地」において発見された建造物で、とりわけ興味深いのは、シアルク遺跡のものであった。この遺跡では、最初の集落が前5千年紀に属しており、明らかに、木の枝で造った小屋だけから成り立っている。次の段階になると、手作りの煉瓦を使った建物が現れる。この煉瓦はいわば楕円形を呈する土塊であり、手で整形し、天日で乾かしたものであったという。
テペ・シアルクは北丘の方が古い。

同書は、ところが、こうした段階においてさえ、構造技術を改善しようという努力が払われており、煉瓦の側面を見ると、親指を押し付けてつくった凹みがありその分だけ深くモルタルが食い込むように工夫されているのである。初歩的な建築装飾として、酸化鉄を果汁に溶かし、室内の壁画をこれによって赤く塗ることも始まっているという。  

同書は、今日ふうの煉瓦-枠を用いて作る各面とも平らな直方体状の煉瓦-は、前4千年紀になると現れてくるが、これもまた明らかにイランの発明であったという。
テペ・シアルクの南丘では前4100年の建物跡が、発掘によって左下の穴から発見されている。
南丘ジグラットの日干レンガと接着剤としての土
現在でも広範囲で日干レンガ材料にした建物は造られ続けている。
自分の家を建てるために日干レンガを作っているところ(キルギスにて)。日干レンガ5つ分の小さな木枠を持っているご主人。地面に木枠を置き、藁を混ぜた土を入れては木枠をずらして置き、という繰り返しの作業。民家を建設するだけでもかなりの量のレンガが要る。

テペ・シアルクでは日干レンガで巨大な建造物が造られていた。それはジッグラト。
その想像復元図

そして展示室にあった復元図は3段になっていた。しかも、日干レンガで造り、被覆材として焼成レンガを貼り付けていたようになっている。焼成レンガも出土しているのだろう。
2段目の側面にアーチ形の刳りがある。これはジッグラトにもあったが、内部への入口というわけでもなかったようだ。

このジッグラトの建設時期について『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、前1000-800年としている。

            →ジッグラトがイラン高原の山だったとは

関連項目
テペ・シアルク(Tepe Sialk)遺跡

※参考文献
「ペルシア建築」SD選書169 A.U.ポープ著 石井昭訳 1981年 鹿島出版会

2016/11/29

竹中大工道具館6 土のしらべ展


新神戸駅近くにある竹中大工道具館で2016年秋に開催された「土のしらべ展」に行った。
常設展は地下に、企画展は地上階、玄関を入った1階ホールで開催されていた。
名栗仕上げの自動扉は、近くでじっくり見たいと思っても、当然ながら開いてしまう。
この釿の削り痕がなんとも心地良い。

入ると、土というよりもアーチや薄い紙、そして左官の道具が、舟底天井の下に広がっていた。

真
同展図録は、真の空間には凜とした空気が漂うほどの緊張感がもとめられます。アーチ部分の縁取りに石膏で面取を施し、面は浅葱土糊土仕上げで土の質感を殺して色味だけを際立たせます。連続アーチで和の庭園に額を付け、人の動きと目線をさまざまな角度へと誘いますという。
連続アーチとそれを支える柱が、庭の一部分を切りとって、それぞれのアーチや、見る場所から様々な風景が見える。
ず~っと昔、高校生の頃、洛北の蓮華寺を拝観していた時のことだったと思う。案内してくれた人が、柱と柱の間から庭を切りとって見るという見方があると教えてくれた。そのような見方が額縁庭園と呼ばれているのを知ったのは後年のことだが、このような庭の楽しみ方を言っているのだろう。
土の質感を感じさせない「真」の壁
半円アーチは「真」の塗りだが、奥の壁は「草」。

行
「行」は真と草の中間の格式です。真と呼応する連続アーチは尖塔アーチにかわります。淡路の中塗土と京都の城陽砂を吹き付け、風化した石壁のような和とも洋ともつかない浮遊した風情をつくりますという。
半円アーチは、向きが変わると尖頭アーチとなっている。ややザラザラした感じ。
塗るのではなく、吹き付けないと、こんなザラ感は出ないのだ。塗った後、何かで不均一に剥がすのかと思っていた。
「美を創る匠の技」という解説のリーフレットでは、1分5厘程度の砂利を投げつけた上に大きめの砂を配合した土を吹き付け、乾燥後にスポンジでふき取ります。この時に浮いている石は剥脱し、その痕が残りますという。
やっぱり。

草
同展図録は、崩しではあるが風雅の心得を如何に醸せるかが「草」の格式を決めます。錆丸太の列柱に赤錆土の引き摺り仕上げという正統から徐々に壁を三次元に曲げて遊離させ、内壁の黒土下地赤錆土荒壁様仕上げへとつなげますという。
この図版には、真・行・草の壁すべてが写っているが、この小さな画像では、その違いはわかりにくい。
「草」の壁
これが引き摺り仕上げ。
「草」の壁を塗っている。これは鏝で仕上げる。

そして、白、灰、黒の、典具帖紙と石膏で化粧した立木を組合せて空間を演出します。光と影が土・木・紙の空間を彩りますという。
この薄い膜をくぐって通路に入り込んだ時は、布かと思ったが、やがて紙であることが分かってきた。典具帖紙という和紙だったのか。
この先は出口がなく、入口に戻ってしまったが、他の人が入って出てこないので、再挑戦。ちゃんと正面の紙を分けると次の展示室に行くことができた。

左の壁のぶちぶちも気になった。

「破格」の壁
「美を射る匠の技」解説のリーフレットは、草の内側の壁は黒土下地赤錆土荒壁様擦出仕上げです。
赤錆土で下地塗した後、1寸ほどの土塊を潰して貼り付け、砂利も投げつけます。
その上から少量の色粉を混ぜた黒土を塗付け、乾燥しない内に赤錆土を吹き付けます。塗厚は合計で2分以上になります。
数日すると土が乾燥して痩せ、土塊と砂利が浮かび上がり、荒壁の様に凹凸感が強くなります。最後に手擦りして表面の土を少し落とし、黒土を染み出させますという。

「美を創る匠の技」という解説は、古代中国の漢字書体から派生し、日本で形態論として形成された「真行草」の概念は、連歌・能・花・茶・庭などの芸にも伝播しました。特に数寄屋建築では一定の形式を形づくる上で大切です。たとえば角柱に竹の下地窓が使われていれば、聚楽土を細目に使った水捏仕上げとし、窓枠もピン角にするのです。丸みにもそれぞれの各式に合わせた曲率を用意しますという。

ところで、展示室は、草・行・真の順に、壁の見本と使う鏝がずらりと並んでいた。

草
行
真

個人的に楽しむのなら写真やビデオ撮影は「可」ということで、今回も鏝など撮りまくったが、だからといって何もわからない。それで、知識のない人間でも左官の技が納得できる図版を。
これは久住章氏の仕事

同展図録には、2015年に「the SAKAN 継承と革新」という展覧会が東京で開催されたことも紹介されている。久住章氏のご子息有生氏が造られた「土の門」、何時か見てみたいが、まさか、企画展の時だけのものなどということはないだろう・・・

同展図録は、その昔、最も身近な素材である土を使った建物が多く造られました。最初は土を練って突き固めるか泥団子や煉瓦にして積み上げていましたが、やがて木や竹を編んで下地とし、その上に土を塗るようになりました。日本では百済から工人が渡来して始まった工法です。その頃左官は「土工(つちのたくみ)」と呼ばれ、主に仕上げを担う職人でした。中世にかけて塗壁が多くなるにつれ、左官の中でも職制が分かれました。庶民の家に使う荒壁と専門職による上塗りはまったく別ものであったのですという。

                →竹中大工道具館7 海外の建築と大工道具

関連項目
竹中大工道具館4 大木を板にする
竹中大工道具館3 大鋸(おが)の登場
竹中大工道具館2 大工道具の発達
竹中大工道具館1 古代の材木と大工道具

※参考文献
「竹中大工道具館 常設展示図録」 2014年 公益財団法人 竹中大工道具館

「美を創る匠の技」という解説のリーフレット

2016/09/30

始皇帝と大兵馬俑展8 陶鍑


以前から騎馬遊牧民や鍑という青銅製の鍋に興味を持っていたが、始皇帝と大兵馬俑展で陶製の鍑に出会うとは思いも寄らなかった。

陶鍑 陶製 高16.8幅24.5奥行20.0㎝ 戦国時代(前5-4世紀) 黄陵県寨頭河48号墓出土 陝西省考古研究院蔵
同展図録は、鍑は把手と高台をもつ深めの容器であり、肉などを煮炊きするのに用いる。その分布は北方ユーラシアに広がることから、遊牧文化圏の所産と考えられるが、材質は基本的に青銅であり、土器で仕上げた例はたいへん珍しい。胎土は灰色であるが、表面に白土で塗膜を施している。全体的になめらかで明るい印象をもつ。こうした遊牧文化圏の青銅器が土器へと転写されている点に、西戎文化の多元性がかいまみえるという。
当時、青銅器がどの程度普及していたのだろう。ある程度以上の階級の人物でないと青銅器を持つことができなかったということはなかったのかな。
この陶鍑の把手は上部が角ばっている。似た把手をもつ鍑が、シベリアのトゥバで出土している。

鍑 青銅 前7世紀末 アルジャン2号墳出土

同展図録は、ここでは、中国西北部で牧畜を主な生業とし、青銅器や玉器による中国の伝統的な祭祀儀礼や漢字を受容しなかった、中国側から見て「野蛮」な集団を一括して「西戎」と呼ぶ。
秦と「西戎」とのかかわりは密接である。秦の初期の都城が置かれたと考えられる甘粛省礼県では、「西戎」の暮らしていた痕跡が数多く見つかっている。秦と「西戎」は、互いに明確な境界線を設けて住み分けていたのではなく、雑居と呼ぶにふさわしい様相を呈していた。
多くの民族や集団が暮らす中国大陸で初めて統一国家を打ち立てたのが、「雑居」に早くから慣れ親しんだ秦であったのは、決して偶然ではないであろうという。

余談だが、春秋戦国時代の青銅製鍑が秦の都城から出土している。
雍城出土の鍑は春秋戦国時代のものとされているので、雍城に都があった前677年から櫟陽に遷都した前383年までに製作されたものとする。
北方ユーラシアの鍑と大きく異なるのは、肩部に文様帯がめぐっていることで、その文様はS字形の双頭有舌螭龍が二重に絡んで構成されている(『泉屋博古中国古銅器編』より)という螭文であることから、他の地域から請来されたものではなく、当時の中国でつくられたものである。
器体もアルジャン2号墳出土の鍑よりもずっと薄く、中国の鋳造技術の高さを示している。しかし、丸い把手の上に突起があるのは、同古墳出土の大きい方の鍑と共通していて、当時の秦と騎馬遊牧民に交易などの交流があったことが窺える。

         始皇帝と大兵馬俑展7 繭形壺←

関連項目
積石塚は盗掘され易い
春秋秦の雍城出土の鍑が最古?
始皇帝と大兵馬俑展6 馬の鞍
始皇帝と大兵馬俑展5 銅車馬と壁画の馬
始皇帝と大兵馬俑展4 銅車馬と文様
始皇帝と大兵馬俑展3 銅車馬
始皇帝と大兵馬俑展2 青銅器で秦の発展を知る
始皇帝と大兵馬俑展1 満を持した展覧会

※参考文献
「始皇帝と大兵馬俑展図録」 2015年 NHK・朝日新聞社