お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
ラベル 騎馬遊牧民 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 騎馬遊牧民 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026/10/27

皆川泰三コレクションのコプト織


いつか現地でコプト織を見たいという夢が叶った後に、コプト織に出会うきっかけとなった展覧会の図録を久しぶりに開いてみた。

『古代エジプトの染織美 コプト織 皆川泰三コレクション展図録』(以下『コプト織展図録』)は、トルコのチャタル・フユックという遺跡からは前6500年頃の亜麻の織物が発見されている。
エジプトでは前4000年頃の遺跡から亜麻を用いた麻織物が出土している。エジプトで毛織物が普及したのはローマの版図に組み入れられてからのことである。一説によれば、キリスト教徒が毛織物の技術を持ち込んだとも言われている。経糸は従来の麻を用い、文様を織り出す緯糸は羊毛を用いる事も行われた。そのような方式が広まったのは3-4世紀のことと言われる。
シリアのパルミラの建築装飾と織物の文様が似ていることでもわかるように、互いの文様表現や主題が共通のものであることが多い。
織物に表される主題は、ギリシア・ローマ神話の神々、キリスト教的なシンボルの採用、ササン朝ペルシアの影響がみられる狩猟文、聖樹文と変幻自在であるという。


人物文
『コプト織展図録』は、初期の綴織には、裸体の人物像が多く見られるが、そこには人間の体が最も美しいという意識の強かったギリシアの影響を見ることができる。ギリシア神話の英雄や神々の姿を表現していることもあるキリスト教美術とは思えない裸体表現やギリシア神話のモチーフの採用はギリシア・ローマ文化の残像が見て取れるという。

人物文胸飾り綴織 5-6世紀 27X35
同書は、盾を持ち、つばのある帽子とスカーフのような長い布をまとった男性は踊っているようでもあるという。
主文様よりも帯文様の方が印象的。これは何という文様だろうか? 装飾的な正方形?
古代エジプトの染織美 コプト織 人物文胸飾綴織 皆川泰三コレクション展図録より

女性胸像花文綴織 5-6世紀 17.5X48
多色の緯糸を使い、複雑な文様を織り出したおそらく壁掛けの一部。左右の壺からのびたギザギザの葉はアカンサスで、コリント様式の柱頭にも使われた地中海一帯で見られる植物である。眼の大きな女性は装身具や服の文様表現が細かく、高い技術がうかがえるという。
体は正面向きなのに大きな目だけ左の方を向いている。額や鼻筋などが白っぽい糸で綴られているのは、ローマ時代からの立体感ほを出す隈取りの名残なのだろう。
口の下の黒い円はこの時代の顎の表現であることが、壁画によって知ることができた。
古代エジプトの染織美 コプト織 女性胸像花文綴織 皆川泰三コレクション展図録より

天使鳥文 8-9世紀 9X28
花環を持った天使像はギリシア神話の勝利の女神ニケのようである。このような図像は死に対する勝利のシンボルとして、パルミラの墓のモチーフやイランのターク・イ・ブスタンの入口にも見ることができるという。
時代が下がるとバランスの悪い天使になってしまった。
古代エジプトの染織美 コプト織 天使鳥文綴織 皆川泰三コレクション展図録より


騎馬人物文綴織 6-7世紀 19X20
騎馬人物の図像もコプト織りにしばしば表されるが、 彼らは短い上着、マントをなびかせ、ズボンをはいている。 これは「ペルシア式服装」と呼ばれる。元来ズボンは北方の騎馬民族の服装であった。やがて、その服装は前後頃にはイランのアルサケス朝パルチアで採用された。このような服装がエジプトに波及したのはササン朝ペルシアがエジプトを短期間占拠した7世紀初頭前後(619-629)とされ、そう古いことではない。
ペルシア的服装と呼ばれるズボンの騎士はロマネスク美術にも及んでいるという。
北方騎馬民族の服装であるズボンが、アルサケス朝パルティアに、そしてササン朝ペルシアへと伝播し、10年ほどエジプトに占拠した期間にエジプトに伝えられたとは。
古代エジプトの染織美 コプト織 騎馬人物文綴織 皆川泰三コレクション展図録より

様々な人物文綴織 5-12世紀 
時代を限定せずに、人物文の断片を集めたものである。初期の裸体の戦士や踊る女性像はヘレニズム的な身体バランスのとれた動きのある造形であるが、次第にデフォルメされて、「ゴーグルのような目」と称される異様に強調された風貌になり、終末期には、あたかもロボットのような体つき(左上)になっていくのがわかるという。
古代エジプトの染織美 コプト織 様々な人物文綴織 皆川泰三コレクション展図録より


動物文
『コプト織展図録』は、西アジア美術は動物表現の多様さが一つの特徴ともいえるものだが、コプト織りもその伝統を受け継いで、様々な動物が描かれているという。

鳥文
同書は、鳥類の描写も種々様々あり、身近な水鳥系、猛禽の鷲、エジプト人に馴染み深い鳩系、インド的な孔雀などが見られる。古代社会では鳥はあの世と現世を結ぶ使者として尊ばれていたこともあったが、コプト美術の鳥がどのような意味をもっていたのか不明な点も多いという。

水鳥花文綴織 6-7世紀 39X53
アカンサスのようなぎざぎざのある葉に囲まれた水鳥の文様を持つ壁掛けの一部であろう。コプト織りにはこのような水鳥のデザインが多く用いられるが、ナイル河に見られる身近な鳥を登用したのかもしれないという。
私がナイル川で見た鳥はサギ類だった。これはカモかな。アカンサスの葉4枚で水鳥を囲んでいるが、半分の葉が色褪せてしまっている。アカンサスでつくられた輪っかが接するところには四弁花があしらわれて可愛い。子供の服だったのかも。
古代エジプトの染織美 コプト織 水鳥花文綴織 皆川泰三コレクション展図録より

動物文綴織 9世紀 8.5X10.5
ライオンを囲む蔦の文様はかなりデザイン化され、その中には嘴をあけた鳥が織り出されているという。
それぞれの文様が退化していっている。主文のライオンを囲む連珠円文はソグド人が中国に請来した文様だが、それが西方にも伝わっていたのだろうか。中国の織物もエジプトでも出土しているので、それを真似たものかも。
古代エジプトの染織美 コプト織 動物文綴織 皆川泰三コレクション展図録より

鹿花文円形綴織 8世紀 23X26
この時期特有の多色使いのギローシュが周囲をめぐり、中央の円文は鹿が織りだされている。その外側は様式化された植物文が華やかに取り巻いている。上下左右には一見蛸のような文様があるが、これは壺に盛られた花のデフォルメとみるべきであろうという。
ギローシュは組紐文。壺に飾られた花に見えるのは下側のものくらい。それぞれを外側が壺というふうに見るのが正解。
古代エジプトの染織美 コプト織 鹿花文円形綴織 皆川泰三コレクション展図録より


植物文
『コプト織展図録』は、シリアの1-3世紀に栄えた隊商都市パルミラからは中国漢代の絹織物が出土し、最西端の絹織物の出土地として織物研究には欠かせない資料である。そこでよく言われるのは中国の織物には動物文が多く、パルミラ産のものには植物文様が多いということである。また、コプト織りにも多くの植物文があり、これらは単に装飾的効果というだけで採用されたのではない。
ローマ時代のモザイク文様にも柘榴やいちじく、棗椰子、オリーブなどの樹木が描かれ、これは楽園思想の現れとされる。楽園思想はキリスト教、イスラム教では天国、仏教では極楽浄土として信徒の憧憬の地であるが、これらを具体的に表現しようとすると、植物の生い茂る様が最もふさわしいと考えたのだろうという。

カルトネージュ 前6世紀頃 皆川泰三コレクション
『コプト織展図録』は、亜麻布で覆った遺体をさらに亜麻布を何枚も重ねて覆い故人の肖像画や死後の祝福の絵が施された 「いちじくの樹の姿のヌウト女神」と言われるものである。左端の樹の中から体をだしている女神はいちじくの化身で、ヌウトとは天空の女神でもある。このような図像は墓の壁画にもよく使われる題材で、墓の主人に命の食物を与えているのであるという。
古代エジプトの染織美 いちじくの姿のヌウト 皆川泰三コレクション展図録より

樹木文綴織 5世紀 64X47.5
木の種類は特定できないが、下図のように壁掛けとして数本織られたうちの一つであろうという。
先に花が咲く枝と葉しかない枝がある。枝の先に咲く花にはグラデーションが、葉は片側が濃く、反対側が薄いなど、細かな織り方が見られる。
古代エジプトの染織美 コプト織 樹木文綴織 皆川泰三コレクション展図録より

立樹文の壁掛け 高さ222㎝ エルミタージュ美術館蔵
花の配置や葉の縁取りなどは異なるが上図の樹木とよく似ている。木々の間には蔓に巻かれて本物の葉を生やしたコリント式柱頭がのる、見過ごさなければ妙なものが配置されている。
エルミタージュ美術館蔵立樹文の壁掛け 古代エジプトの染織美 コプト織 樹木文綴織 皆川泰三コレクション展図録より

紺地唐草文浮織 9世紀 63X23
植物文が様式化されている。全面に文様を織りだした中国的な要素が感じられる。衣服であったとすれば見事なものだっただろうという。
中国的な要素とは、柿蔕文のことかな?
古代エジプトの染織美 コプト織 紺地唐草文浮糸織 皆川泰三コレクション展図録より

菱花文綴織 10世紀 55X22(の部分)
はっきりとした文様と色使いで現代的な感じさえする作品という。
上下(あるいは左右)に波文を配し、一つの文様はほぼ同じ大きさの区画に収まっている。真ん中の菱花の中の模様が気になる。
古代エジプトの染織美 コプト織 菱花文綴織 皆川泰三コレクション展図録より

組紐円文浮糸織 10-11世紀 31X28
初期の幾何学紋様に比べて後期になると文様の構成はより複雑で密度の高いものになっていくという。
ムスリムがもたらした幾何学文様や組紐文が熟れてきたのだろう。あるいはムスリムの技術者がいたのかも。
古代エジプトの染織美 コプト織 組紐円文浮糸織 皆川泰三コレクション展図録より

組紐文円形綴織 11-12世紀 10X12
濃い紫の染料は貝紫とよばれている高級品の他にも赤と黄色の染料を混ぜてつくりだされていたことがパルミラの織物などでも知られている。紫が好まれたのはその希少性のためだろうという。
赤と黄色の染料を混ぜて濃い紫色を作っていたとは知らなかった。
古代エジプトの染織美 コプト織 組紐文円形綴織 皆川泰三コレクション展図録より

組紐文綴織 12世紀 27X15
複雑な組紐文の組み合わせである。上下の十字架はマルタ十字と呼ばれるものであるという。
組紐文で八角形をつくり、その中に花文、マルタ十字などが表されている。
古代エジプトの染織美 コプト織 組紐文綴織 皆川泰三コレクション展図録より


綴織はどこで始まったのだろう。
『世界遺産 大シルクロード展図録』は、西方から中央アジアに伝わった綴織(中国では「緙絲(こくし)」と表記)は平織に比べて少し間隔を空けた経糸に、文様におうじた色の緯糸を手作業で折り返して詰めていくので、緯糸が密になり、一見すると絵画のようにもみえます。色の境目には「ハツリ」と呼ばれる縦の隙間がみられる場合が多いです。錦のように大掛かりな織機を必要としませんという。

西方でつくられたものの参考例
半人半馬および武人像壁掛 前2-後2世紀 毛、綴織 縦116.0㎝、横48.0㎝ 1984年新疆ウイグル自治区ホ-タン・ロプ県サンプラ古墓1号墓出土 新疆ウイグル自治区博物館蔵
は、この毛織物の断片は被葬者のズボンの一部でしたが、もとは大きな壁掛であったと考えられています。左端に織耳が残っていることから、壁掛の左端にあたることが分かります。帯状の繧繝模様によって上下二段に分かれています。西方の高い綴織技法で制作された壁掛が、ホ-タンにもたらされ、被葬者のズポンに仕立てられたと考えられますという。
西方から請来されたもので、色のグラデーションや、顔に綴られた隈取りなど、当時最高の壁掛けとして東方にもたらされたようだ。


←


関連記事

参考文献
「古代エジプトの染織美 コプト織 皆川泰三コレクション展図録」 宮下佐江子・坂本和子 1998年 古代オリエント博物館
「世界遺産 大シルクロード展図録」 学術監修・責任編集石松日奈子 2023年 東京富士美術館
「シルクロード 黄金の道展図録」 2002年  NHK

2016/08/26

石人とは


キルギスで見られる人を象った記念物を石人と呼ぶのは日本人だけだろうか。英語では単にstone carvingという言葉を使っている。
『The Stone Carvings at Burana Tower』は、ブラナの塔に置かれている石人は戦士たちに栄誉を授けるための記念碑となる墓石である。アルタイに突厥が建国した552年、6世紀中頃からキルギスの土地に石人を戦うことを発揚するものとして表すようになった。この汗国は、西突厥が建国した時に、天山、セミレチエそして東トルキスタンの一部を合併した。
チュー、イシク・クルそしてナリンにあった石人をブラナ野外博物館で見ることができるという。

石人の中で、右手に盃を持ち、左手で武器を持つ男性の彫像ははっきりと見分けることができる。石人は理想化された突厥の戦士を表しているという。
同石人の図解
実物の写真では分かりにくいが、戦士は2本の刀を左腰につけていて、背中には長い髪が腰まで届いている。これはサマルカンド、アフラシアブの丘で発掘された宮殿の壁画に表された西突厥人の後ろ姿に似ている。

キルギスの人々は今でも石人をバルバルと呼ぶ。バルバルは人間の姿ではない墓石で、戦士が殺した敵の数だけある。
石人のある場所で行われた考古学的な発掘で、石板を垂直に立てた囲いが、葬礼儀式のためにつくられたものであることを検証した。人間の埋葬はここでは行われなかった。ここは食べ物と火を必要とする弔いの儀式と宴会の場所だった。戦士とその家族の墓は、近くの別の墓域にあるという。
戦士を馬と全ての装備とともに埋葬するのは古代のテュルク系に典型的なものであるという。
これはビシュケクの国立博物館のパネルで示されていたことだった。
確かに、発掘によって石板を立てて並べた四角形の囲いとその1辺の中央近くに石人が立てられていた状態が出土している。
その下の図では、墓地には四角い囲いと円形の囲いとがあること、円形の方に人が埋葬されていたことが示されている。戦士の場合には馬も一緒に葬られている。

古いテュルク系文化の中で、キルギスには特徴があった。例えば、アルタイやモンゴル、トゥバでは彫像は顔を東に向けているが、天山ではしばしば西を向いている。婦人の石人は先祖崇拝の墓石として徐々に現れた。
天山とセミレチエの特別なグループの石人は婦人の顔で3つの突起のある冠を被っている。ある研究者は、子供と戦士の保護者であるウマイ女神のイメージを重ねているという。
左の人物の顎の下の帯は髭だと思ったが、女性像だった。
3つの飾り板のついた冠というと、仏像の三面頭飾(三面宝冠)を思い出す。

一つの石人の反対側の端に両刃の剣、丸いシンボルと続かない線がある。このような目印は青銅器時代後期にシカが描かれていた石の特徴である。そこでは、指導者や名のある兵士のような人々の石彫記念物とされた。前2千年紀-前1千年紀初頭に造られた。現在では、石に彫刻されたシカの図は、バイカルからモンゴル、トゥバそしてアルタイにわたって見ることができる。これは、キルギスの古い住民は他の中央アジア東方と関係があることを物語っている。
古い石彫記念物の反対側を使って500年後に石人を造ったのは、テュルク系の人々の独特のものであるという。
これはきっとイシク・クル湖から運んで来た石人だろう。それにしても、青銅器時代の岩絵のある人の形に近い石を上下逆にして石人にしていたとは。このような岩絵のある石が戦士の勇敢さを示す特別なものと捉えていたのか、それとも、ただ石人像に相応しい形というだけだったのか。

死んだ男性の戦での価値は、完璧に整えられた身だしなみの三面の石人に反映されている。ベルトの装身具はサーベル、鞘に収まった両刃の剣、火を起こす道具を入れる小さな袋や食器類などという。
騎馬遊牧民は馬で遠出する時にベルトに様々な道具を吊り下げた。それが戦士の正装でもあったようだ。
後に腰佩という装身具になる。腰佩についてはこちら
突厥人の腰佩の図版がある。

突厥の金帯飾り 出土地不明 時代不明  
『週刊シルクロード12キルギス』 に掲載されていた写真(ユニフォト)で、金細工の部分に狩猟紋(狩猟する絵)が描かれているという。

石人が造られたよりも後の時代のもののように思われる。






関連項目
ブラナ野外博物館についてはこちら
ビシュケク、キルギス国立博物館に展示されていた石人はこちら
チョン・ケミン渓谷、アシュ・ゲストハウスの庭に集められていた石人はこちら
鹿石の帯に吊り下げられた武器と新羅古墳出土の腰偑
新羅の腰偑は突厥の金帯飾りに似ている

※参考文献
「The Stone Carvings at Burana Tower」 Kubatbek Shakievich Tabaldiev
「週刊シルクロード12 キルギス イシク・クル湖ビシケク」 2006年 朝日新聞社

2016/08/05

イシク・クル湖北岸の岩絵4 ラクダは初期鉄器時代にやってきた


『Masterpieces of PRIMEVAL ART』には、チョルポン・アタの近くの別の岩絵について書かれた本で、イシク・クル湖の青銅器時代について、
初期青銅器時代は前3500年-2000年、中期青銅器時代は前2000-1600年、後期青銅器時代は前1600-1200年、初期鉄器時代は前1200-450年としている。

チョルポン・アタの岩絵博物館ではラクダの絵もあった。前8-後5世紀のサカあるいは烏孫が描いたものとされている。
フタコブラクダに人が騎乗している場面で、人の手で隠れているが、手綱をラクダの口に付けている。

同書は、ラクダはしばしばスキタイ-サカ族のシンボルである。その姿は儀式的な灯火、犠牲の台、ベルトのバックルや他のものに見られる。最も多いのは2頭のラクダの闘いで、首を絡み合わせお互いに噛み合う図柄であるという。
しかしながら、同書にはそのような場面は載っていない。

ラクダの群 初期鉄器時代 チェト・コイ・スー
これは野生ではなく、放牧されている群だろう。この中に2人の人間が描かれているが、野生の群ならばこんなに近寄れないはず。下の方にイヌもいるみたい。

ラクダの飼育 初期鉄器時代 チェト・コイ・スー
小さなフタコブラクダの鼻に手綱をつけている場面。

フタコブラクダに乗り狩りをする人 初期鉄器時代
太陽の標章がイヌまたは訓練した肉食獣とラクダの間に描かれる。
槍のようなものを持つ狩人の乗るラクダには綱がかけられている。しかし、猟はこれからのようで、ラクダは後肢から立ち上がろうとしている。それとも、獲物の群に近づいた狩人が、ラクダを止め、地面に降りて槍を投げるのだろうか。

ラクダ 中世 チェト・コイ・スー
中世になっても岩絵は描かれた。
ラクダを描いた後に別のもの(白で表される)が描かれたらしい。荷物も運ばず、人間も登場しない。

イシク・クル湖の岩絵にラクダが登場するのは初期鉄器時代。
他の動物は新石器時代以来描かれてきたのに、ラクダが初期鉄器時代まで描かれなかったのは何故だろう。
先史時代に描かれたラスコーの壁画ではウマが多いが、当時はウマは食糧だったと言われている。
もし、イシク・クル湖周辺にラクダがいたなら、やはり騎乗よりも先に食糧とされたに違いない。ラクダとシカ・アルガリ・アイベックスなどの草食獣と比べると、どちらが速く走るかはわからないが、体の大きさからすれば、ラクダはかなり食べでのある動物だっただろう。
そう考えると、フタコブラクダは初期鉄器時代なってこの地域にやってきた、人に飼われた動物ということになる。

      イシク・クル湖北岸の岩絵3 車輪と騎馬←

関連項目
イシク・クル湖北岸の岩絵2 サカ・烏孫期のオオツノヒツジは新石器時代のものが手本?
イシク・クル湖北岸の岩絵1 シカの角が樹木冠に?

※参考文献
「Masterpieces of PRIMEVAL ART」 Victor Kadyrov 2014年 Rarity

2016/07/29

イシク・クル湖北岸の岩絵2 サカ・烏孫期のオオツノヒツジは新石器時代のものが手本?


チョルポン・アタの岩絵に登場する動物で最も多いのはオオツノヒツジ(アイベックス、現地の説明板より)である。

チョルポン・アタの岩絵で見学したのはサカあるいは烏孫が描いたものとされ、前8-後5世紀と、岩絵にしては時代の下がるものだった。
イシク・クル湖に流れ込む川の下流平地に新石器時代からの岩絵が残っていて、弓のようにカーブしたオオツノヒツジだけでなく、角が渦巻くように表された草食獣も描かれていて、その名称はアルガリ・野ヤギ・アンテロープなど様々。
『Masterpieces of PRIMEVAL ART』でイシク・クル湖の青銅器時代について、
初期青銅器時代は前3500年-2000年、中期青銅器時代は前2000-1600年、後期青銅器時代は前1600-1200年、初期鉄器時代は前1200-450年としている。

アルガリ(偶蹄目ウシ科ヒツジ属) 動物は新石器時代、車輪は青銅器時代 カラ・オイ
『Masterpieces of PRIMEVAL ART』は、アルガリ、あるいはオオツノヒツジはヤギも同じく、昔の芸術家の好んだ題材である。螺旋状に渦巻く角は、しばしば標章の役目を果たし、宗教的な儀式に結びつけられたという。
角に力を感じ取ったのか、渦巻いて表されている。肢は4本、角は中央の何重にも巻いたもの以外は2本描かれている。
車輪については次回。馬に乗る人物はいつの時代のものだろう?

野ヤギ(ウシ科ヤギ属) 新石器時代 チェト・コイ・スー
同書は、広大な生息地を持つ野ヤギは、昔の猟師の主な獲物であった。そのような訳で岩絵の大部分はヤギの絵でしめられている。 幾つかの動物の像は象徴的な意味を持っているという。
野ヤギの方がサカや烏孫のオオツノヒツジの角に似ている。先が2本に分かれたものもある。

太陽の標章、車輪 青銅器時代 チェト・コイ・スー
上に両肢が車輪に描かれたオオツノヒツジ、下に二輪を綱で繋がれて牽くオオツノヒツジが描かれている。
角は1本で表されるものと、2本描かれるものとがある。
車輪については次回

太陽の標章と様々な草食獣 青銅器時代、チェト・コイ・スー
『Masterpieces of PRIMEVAL ART』の表紙には、太陽の標章の周囲に様々な草食獣が描かれている。その中で2本の角が頭部の前方に突き出ているものは雄牛。それ以外の動物は角は1本。

アルガリ 後期青銅器時代 チェト・コイ・スー
2本の角が渦巻いて表される。

オオツノヒツジ 初期鉄器時代 
人に飼い慣らされたユキヒョウがオオツノヒツジを狙う場面。
オオツノヒツジの角は、サカ・烏孫期(全8-後5世紀)のように2本には描かれていない。

アルガリ 初期鉄器時代 チェト・コイ・スー
鉄器時代になっても、角は渦巻いて表される。しかし、上の大きなアルガリは1本の角が渦巻き、下の2頭は2本の角が渦巻いている。

このように見てくると、サカ・烏孫期のアイベックスは、新石器時代のものを手本にし、さらにデザイン化したのではないかと思うほど似ている。

   イシク・クル湖北岸の岩絵1 シカの角が樹木冠に?←
                       →イシク・クル湖北岸の岩絵3 車輪と騎馬

関連項目
騎馬が先か戦車が先か
イシク・クル湖北岸の岩絵4 ラクダは初期鉄器時代にやってきた

※参考文献
「図説中国文明史4 秦漢 雄偉なる文明」 稲畑耕一郎監修 2005年 創元社
「Masterpieces of PRIMEVAL ART」 Victor Kadyrov 2014年 Rarity

2016/07/26

イシク・クル湖北岸の岩絵1 シカの角が樹木冠に?


岩絵という言葉から、先史時代の人々が描いたものを想像する。チョルボン・アタ岩絵博物館のパネルにも、前2千年紀からのものがあるとされていたが、見学した岩絵と墓は、サカまたは烏孫の時代のものだった。

サカについて『スキタイと匈奴遊牧の文明』は、イラン西北部のビーストゥーン碑文によると、アカイメネス朝はサカを以下の三種に分けていた。それは、サカ=ティグラハウダー(尖り帽子のサカ)、サカ=ハウマヴァルガー(ハウマを飲む、あるいはハウマを作るサカ)、そしてサカ=(ティヤイー=)パラドラヤ(海のかなたのサカ)である。
サカ=ティグラハウダーは中央アジアの中でもやや西より、サカ=ハウマヴァルガーはやや東よりに住んでいたとする考え方もあるが、それほど根拠があるわけではない。一方、「海のかなたのサカ」は、「海」をカスピ海もしくは黒海と解釈すれば、北カフカスから黒海北岸にいる騎馬遊牧民、すなわちギリシア文献に出てくるスキタイということになる。
ヘロドトスはサカをサカイと表記し、前480年にクセルクセス1世(在位前486-465年)のギリシア遠征に参加した一部隊として、「尖り帽子のサカイ」について言及している。
サカイ、すなわちスキタイは、先が尖ってピンと立ったキュルバシアという帽子を頭にかぶり、ズボンをはき、自国産の弓、短剣、さらにサガリスという(双頭の)戦斧を携えていた。彼らは「アミュルギオンのスキタイ」なのであるが、ペルシア人は彼らをサカイと呼んでいた。というのは、すべてのスキタイにサカイという名前を与えていたからである。(『歴史』巻)
ギリシア人がスキタイと呼んでいるものとペルシア人がサカ(サカイ)と呼んでいるものは同じだとするヘロドトスの解釈は、おそらく正しいだろう。北方の草原地帯に住み同じような文化を持つ騎馬遊牧民をスキタイとかサカなどと総称したのであろう。とすれば、同じ言語を話し、同じ人種に属していたかどうかとは関係なく、西は黒海北岸から東は中央アジア、さらにアルタイ、トゥバを越えてモンゴル高原にいたるまで、文化的に近い騎馬遊牧民をスキタイと呼んでも間違いではなかろう。
欧米の学界ではギリシア語文献による研究が進んでいたため、もっぱら「スキタイ」の名が使われることになった。そして中央アジアの騎馬遊牧民についてだけ、「サカ」の名称が適用されることになったという。

烏孫について『図説中国文明史4』は、西域は36の国にわかれており、砂漠のオアシスや谷間・盆地に分布していました。最大の国は烏孫で、63万の人口がいると称していました。それに次ぐのが大月氏の40万人でした。西域各国はいずれも農業と牧畜業を生業としており、牧畜のために水と草を求めて移動するので、定住していませんでした。
前漢はじめ、匈奴はモンゴル高原から西域に侵入し、しだいにこの地の覇者となりました。
匈奴は西域に侵入し、立てつづけに西域の強国である大月氏と烏孫をうち破り、大月氏を中央アジアに追い払いました。漢の武帝はともに匈奴を討つ同盟軍を探すため、2度にわたって張騫を使節として西域に派遣しました。
張騫の最初の派遣は帰国までに13年を費やし、数々の困難と危険をのりこえてついに中央アジアに大月氏の国を探し出しました。ところが、月氏の王には東方に戻って匈奴と戦う意志はなく、張騫のこのときの派遣は目的を得られませんでした。しかし、張騫は西域に関する知識を持ち帰り、漢人の視野を大い広げました。その後、張騫は再び派遣され、烏孫の王に東方へ帰るよう懸命に勧めましたが、また不成功に終わりました。しかし、烏孫は数十名の使者を派遣して長安へ戻る張騫に随行させました。これにより両国の交流がはじまりましたという。

『Masterpieces of PRIMEVAL ART』では新石器時代からの動物や人間の岩絵が紹介されている。

シカはチョルポン・アタの岩絵にはあまり登場しないが、、ひょっとするとこれがシカを表したものかも。


ところが、枝別れするシカの絵は、他の場所の岩絵には新石器時代から描かれている。

シカ カラ・オイ(Kara-Oy) 新石器時代
『Masterpieces of PRIMEVAL ART』は、シカは古い時代の人々にとって、最も一般的なシンボルである。あるキルギス族の名前は、この動物に由来する。Bugu(シカ)、Sarybagysh(黄色いヘラジカ)、Karabagysh(黒いヘラジカ)、Chonbagysh(大きなヘラジカ)、同時にシカは猟師にとって望ましい獲物である。シカの狩猟場面は、新石器時代以来岩絵にありふれた題材であるという。
樹木のように多くの枝が出るシカの大きな角が特徴的な表現で、シカの右前方で、シカの首に回したロープを引っ張るヒトがいて、その上には、枝角の上に立ち、上の角を掴んでいる人間もいるような・・・ 妄想かも。
シカは体は横向きだが、角と前肢・後肢はそれぞれ2本ずつ、やや斜め向きで表され、人間に抵抗するように、後肢を踏ん張る様子が描かれる。

オオツノシカ 新石器時代
同じ種類の動物を描いているように見えるが、何故上はシカで、これはオオツノシカなのだろう。
巨木というよりは、枝を密に張る灌木のように角を描いている。

青銅器時代になると、体だけでなく角も横向きで表されているので1本になっているが、肢は2本ずつ描かれ、前肢のみ少し動きがある。

シカ 青銅器時代 チェト・コイ・スーの巨岩の岩絵部分
シカ 青銅器時代 チェト・コイ・スーの巨岩の岩絵部分
同じ巨岩には、鹿狩りの場面が描かれている。シカは走ってはおらず、肢は4本、大きな角が1本、樹木のように表されている。右上の大きなシカよりも、中央下の小さなシカの角の方が、樹木っぽい。
ちょっと気になるのは、左上のシカを追う動物(イヌにみえるが、ユキヒョウかも)の前肢と後肢の間に、小さく人物が描かれている。しかもそれが、ウマのような動物の背に乗っていることだ。

樹木のような角のシカは、鉄器時代以降は描かれなくなった。

時代的には繋がらないが、この樹木のような鹿の角は、遊牧民の王族の副葬されていた樹木冠に似ている。

帽子の飾り イシック・クルガン出土 前4世紀 エルミタージュ美術館蔵
『騎馬民族の黄金文化』は、冠は、さきの尖った帽子を黄金で装飾し、正面にグリフォンや馬を配置して、側面に山岳に樹木の上にとまる鳥などを取り付けたものであった。この墓の被葬者は「黄金人間」と呼ばれ、足の先から冠まで黄金をまとっていて、スキタイ系民族の1つであるサカ族の一部族長とされている。
南側の埋葬施設は墳丘下に丸太で造られたログハウスのような墓室があった。墓室の大きさは内法2.9X1.5mの細長い長方形。身長はおおよそ165㎝で、形質人類学者のイスマギロフ氏によると年齢は16~18歳、ユーロペオイドとモンゴロイドの特徴が混合しているらしい。
ユーラシアの草原地帯の人々は一日の寒暖の差が激しく防寒の必要もあり、また馬に乗り行動するところから、三角形の帽子を着用していた。その帽子に黄金の装飾をつけたものや帽子の上に立飾りのついた冠帯をかぶることが彼らの冠であった。
このような冠は黒海沿岸から朝鮮半島までいくつか出土している
という。

これが「尖り帽子のサカ」の被っていた帽子で、左耳上方に針金の樹木が見える。
その拡大図
これは青銅器時代の鹿の角に似ていないだろうか。「出」や「山」の字に繋がる形をした樹木の表現でもある。

野山羊と聖樹 北アフガニスタン、シバルガン近郊ティリヤ・テペ4号墓出土 前1~後1世紀 高5.2㎝ カーブル博物館蔵  
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、王 とおぼしき被葬者の頭蓋骨の横で、中空の見事な角をもった野山羊(アルガリ)の像が発見された。蹄の先につけられた4個の小環は、この小像の下にさらに構 造物があって、それに固定するために使用されたものであろう。角のあいだにも中空の管がつけられており、その管に別の何かが差し込まれ、継がれていたと考 えられる。被葬者頭部で発見された円板の葉をつける黄金の樹木(高9.0㎝16.46g)がそれであるという。


金製ディアデム ホフラチ古墳出土 後1世紀 エルミタージュ美術館蔵
『騎馬遊牧民の黄金文化』は、ドン川下流右岸の町ノヴォチェルカッスクで偶然に発見された。サルマタイ貴族の女性の副葬品に由来する。
ディアデム上部には、樹木とその左右に鹿、山羊、鳥が配置されている。鹿と山羊の鼻面の先端には小環が作られており、元来何らかのものが吊り下がっていた。また、樹木の葉は歩揺のように小環で取り付けられていた。
ディアデム上部の樹木と鹿・山羊・鳥からなるユニークな情景はサルマタイの神話的世界の一端を表現していると思われる
という。


たまたま似ているだけかな

→イシク・クル湖北岸の岩絵2 サカ・烏孫期のオオツノヒツジは新石器時代のものが手本?

関連項目
黄金のアフガニスタン展2 ティリヤ・テペ6号墓出土の金冠
歩揺冠は騎馬遊牧民の好み?
金冠の立飾りに樹木形系と出字形系?
イシク・クル湖北岸の岩絵4 ラクダは初期鉄器時代にやってきた
イシク・クル湖北岸の岩絵3 車輪と騎馬

※参考文献
「Masterpieces of PRIMEVAL ART」 Victor Kadyrov 2014年 Rarity
「興亡の世界史02 スキタイと匈奴 遊牧の文明」 林俊雄 2007年 講談社
「季刊文化遺産12 騎馬遊牧民の黄金文化」 2001年 財団法人島根県並河萬里写真財団
「南ロシア 騎馬民族の遺宝展図録」 1991年 古代オリエント博物館
「アフガニスタン遺跡と秘宝 文明の十字路の五千年」 樋口隆康 2003年 NHK出版
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 1999年 小学館