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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2026/06/02

青銅大鍋はウラルトゥ


装飾付き青銅の大鍋はウラルトゥが原産だった。

人面鳥付き大鍋 ゴルディオン出土 アンカラのアナトリア文明博物館蔵
人面鳥(ギリシア神話ではセイレン)が四方から大鍋の中をのぞき込んでいる。
説明パネルは、ゴルディオンで出土した青銅製の大鍋は、フリギア金属工芸における最も傑出した発見の一つ。これらの丸い胴体の大鍋の縁には、人や動物を模したものが装飾として施されている。
人頭の魔物で装飾された大鍋は、アッシリア美術の影響を示している。これらの大鍋はウラルトゥの大鍋と非常に類似しており、ウラルトゥから請来されたものと考えられるという。
フリギアの金属工芸といいながら、ウラルトゥから請来されたものとしている。

毛髪や翼の細部を細かい彫りで表現しているし、背中に環付きが残っている。


確かによく似た大鍋がウラルトゥの工芸品として展示されていた。

人面鳥付き大鍋 ウラルトゥ アナトリア文明博物館蔵
フリギア時代にゴルディオンから出土した大鍋とほぼ同じ。こちらには環も残っている。

環のついた人面鳥の翼は1枚1枚が丁寧に彫られていて、ゴルディオン出土品よりも緻密な作りである。


もう一つのタイプは牛の頭がついたもので、牛の肢をかたどった三脚にのっていた。


牛頭付き大鍋 前7世紀初 ウラルトゥ、アルトゥンテペ出土 アナトリア文明博物館蔵
同館図録は、4頭の牛の頭がついて典型的ウラルトゥ風に飾られたこの大鍋はフリギア、ギリシア、イタリアに輸出されていたという。

鳥の形の平たい板が留め金で取り付けられているのに牛の頭部とは。鳥の尾や翼の線刻がない。


よく似たものが平山郁夫氏の所蔵品にもある。
牛頭装飾付き大鍋 前8世紀末-7世紀 トルコ、アルトゥンテペ出土 青銅高20㎝口径26㎝ 神奈川県、シルクロード研究所蔵
『世界美術大全集東洋編16 西アジア』は、二つの牛頭把手の大鍋はウラルトゥ美術を代表する作品である。大鍋の口縁は外側に反り返っている。
このような丸底の把手付きの鍋は西アジアの調理用鍋の典型的な形で、古くから土製のものが使用されていた。その形をまねて金属で大型に製作し、牡牛の装飾把手をつけたのは、特別な儀式に用いられたためと考えられるという。

『ウラルトゥの美術と工芸展図録』は、本来は牛の脚をかたどった三脚の上に据えられ、径1mに達する大きなものもある。口縁のところには雄牛や鳥、神像などの形をした把手が付けられている。このような青銅鍋はフリュギアやエトルリアでも出土しており、ウラルトゥの文化的影響を示しているという。
大鍋の把手は四つと決まっていた訳でもないようで、この大鍋の把手は二つだけ。取れてしまった跡もない。
シルクロード研究所蔵 アルトゥンテペ出土牛頭装飾付き大鍋 世界美術大全集東洋編16 西アジアより

『ウラルトゥの美術と工芸展図録』は、牛頭はおそらく蠟型技法によって製作され、細かい線刻を加えて額の毛並みや後頭部の毛の流れが表現されている。T字形の基部は三つの鋲で留められ、鳥の翼と尾を表し、線刻で羽根の一筋一筋が刻まれている。力強い牡牛の表情がしっかりとした角、ぴんと張った耳、はっきりと刻んだ目や、鼻の皺からうかがわれる。これは牡牛のもつ力への畏れの現れで、魔除けとしてつけられたのであろうという。
アナトリア文明博物館品よりも鳥の翼や尾の表現が丁寧だけれど、何故牛頭の基部が鳥の翼と尾なのだろう。
シルクロード研究所蔵 アルトゥンテペ出土牛頭装飾付き大鍋部分 ウラルトゥの美術と工芸展図録より


アンカラのアナトリア文明博物館の前6千年紀のチャタルフユックの部屋が再現されていた。部屋の壁面にはたくさんの牛の頭が掛けられていた。古来よりアナトリアでは大きな角を持った牛を畏れ、魔除けとするということが、広く行われていたのだろう。


アナトリアの東部にあったウラルトゥで製作された青銅製鼎あるいは大鍋はギリシアに請来されて、東方化様式というものが生まれたが、ウラルトゥではなかった大きなグリフィンやライオンの頭部が付属するものだった。

大鍋 オリンピア出土 前670年頃 オリンピア考古博物館蔵
『OLYMPIA THE ARCHAEOLOGICAL SITE AND THE MUSEUMS』は、東方の原型を受け継いだライオン頭部、グリフィン、セイレンが周囲を巡るという。
幾何学様式では垂直の把手だったのが、背中に鐶付きのついたセイレンとなる。これはウラルトゥの把手の一種である人面鳥をそのまま受け継いだのではないのかな。

円錐形の台 前8世紀 青銅製 オリンピア考古博物館蔵
同書は、前700年頃からそれまでのギリシア式の鼎に代わって、オリエント直輸入の形式が登場する。比較的平らな釜を円錐形の台脚に載せる着脱式のタイプで、この新型の釜の原産地は主な出土地である東アナトリアのウラルトゥないし中央アナトリアのゴルディオンとも考えられるが、北シリア地方の石造レリーフとの様式上の類似点も多く、詳細はなお不明である。
いずれにせよこのオリエント製の鼎は東方化時代に入ったばかりのギリシア人の想像力を強く刺激したらしい。ギリシアの主な神域であるオリンピアやデルフィ、サモス島のヘライオンで多数の類品が出土し、また幾何学時代最末期のアテネでこの新型の鼎を模した器形の陶器が登場し、あるいはこの釜を描いた後期幾何学式や初期プロト・コリントス式陶器画も存在するという。
その大流行したオリエント様式の鼎の台脚には、行進する有翼精霊の間に、ポリュフェモスの画家が人物の足の間に描いた「一本の木」によく似たものが描かれている。
それは、花というよりも蕾のようなもので、2段ある葉は渦巻いている。


別の鼎の図
この図からは4枚の翼のある4名の上にはザクロの実のようなものが巡り、精霊は左手で松毬状のナツメヤシの雄花のようなものを持ち行進している。翼の下には小さな植物の芽、脚の間にはちょっと成長した植物が、そして精霊の間にはもっと大きくなった植物が表されているが、ギリシアに運ばれたナツメヤシの実を見て、ナツメヤシはこんな風に出来るものと思って描いたのだろうか。実際のナツメヤシは文字通りヤシなので、どんどん高く成長して、雌雄異株で、人が雄株を雌株に包んでいるのを何かの番組で見たことがあるが、干した実(英語ではデーツ)しか知らないギリシア人が、こんなものかと思ってナツメヤシの成長の様子を描いたのではないだろうか。


大鍋 デルフィ出土 前7世紀 デルフィ考古博物館蔵
口縁周辺に突起物が取り付けられた痕跡はないが、背後の想像復元図ではそのようになっている。三脚の台はウラルトゥのものと同じ牛の足なので、造られた時は牛の頭が付いていたのでは。

その想像復元図
(何故かオリンピアの鼎と同じ)
ギリシアで造られた大鍋は牛の頭ではなく、外側を向いた3つのグリフィン頭部と内側を向いた3つのライオン頭部、そしてセイレン型の鐶付が付いてにぎやかになる。
『DELPHI ARCHAEOLOGICAL MUSEUM』は、東方様式の奉献品は、新たな鼎のタイプ、おそらく北シリア地域を起源とするものに取って代わった。鎚打ちの大鍋は持ち運ぶことができ、縦溝飾りのある三本の脚に支えられた輪っかに載せた。縁の周りは、牡牛、ライオン、そしてもっとよくあるグリフィンやセイレンのような想像上の動物で飾ったという。
また、幾何学様式時代の鼎の把手は垂直に固定された大きな円形のものだったが、東方化様式の時代になるとそれはなくなってしまう。一見把手はわからないが、一対のセイレンの背中に小さな鐶付(かんつき)があり、そこに小さな輪(鐶)が通してある。
デルフィ考古博物館蔵 デルフィ出土大鍋想像復元図 前7世紀 DELPHI ARCHAEOLOGICAL MUSEUM より 


セイレン 前625-600年頃 青銅製
東方様式の鼎を飾った。東方のモデルに影響を受けたギリシア工房の特徴的な作品。
女性の頭部をした有翼のセイレンは、オデッセイの冒険で知られるセイレンに似ているので、便宜上付けられた名称である。ギリシアの工人たちが東方のものを真似て、自身の作風へと換えていく過程を示している。アーモンド形の目、肉付きのよい頬、だんご鼻をした東方の怪物の顔だちは、強さと生命力のある人物像の表現となったという。
これまでの人面鳥は翼の上に腕が表現されていたが、このセイレンは腕が翼の下にあるみたい。
デルフィ考古博物館蔵 デルフィ出土青銅製大鍋の装飾セイレン 前7世紀 DELPHI ARCHAEOLOGICAL MUSEUM より


脚のとれた大鍋 
残念ながら説明板を写していなかったので、制作年代は不明
他の大鍋が壊れて残った上下を繋いだような形。

翼を広げた鳥形の青銅板が付けられていた。付けるための穴や小さなリベットが残っている。どんな頭部が付いていたのだろう。



イタリア(エトルリア)で出土した大鍋

兵士と動物のレベス(宗教儀式用大釜) 前7世紀 イタリア、パレストリーナ(ローマの東方)、ベルナルディーニの墓出土 銀、鍍金 ローマ、ヴィッラ・ジュリア国立博物館蔵
『世界美術大全集5 古代地中海とローマ』は、外面は上下3段に分割されており、下段は戦車に乗る人物と楯や槍を持つ兵士の行進、中段は騎馬人物と武器を持つ兵士の行進、上段は水鳥が並んでいる。いずれもエジプトのモティーフを手本としているが、細部に曖昧なところがあり、エジプト人の手によるものではないことは確かである。事実、パレストリーナ出土の他の1点にはフェニキア文字でかつての所有者の名前が刻まれている。
銀製の本体に鍍金を施したこの容器がレベスと称されるのは、口縁近くから蛇を模した6本の突起があるためで、宗教儀式における大釜としてギリシアやエトルリアで用いられたという。
外側を向いた6匹の蛇が口縁部を飾っている。
銀に金の鍍金とは、よほど大切な儀式に使用されたのだろう。
ヴィッラ・ジュリア国立博物館蔵兵士と動物のレベス 前7世紀 パレストリーナ、ベルナルディーニの墓出土 世界美術大全集 古代地中海とローマより
 
ウラルトゥ請来の牡牛の頭部や人面鳥の控えめな造形が、ギリシアやエトルリアではこんなにおどろおどろしいライオンやグリフィンの装飾になったとは。




関連記事

参考文献
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」2000年 小学館
「DELPHI ARCHAEOLOGICAL MUSEUM」 DIANA ZAFIROPOULOU 2012年  ATHENS
「OLYMPIA THE ARCHAEOLOGICAL SITE AND THE MUSEUMS」 OLYMPIA VIKATOU 2006年 EKDOTIKE ATHENON S.A.
「世界美術大全集5 古代地中海とローマ」 1997年 小学館

2026/05/19

円形劇場 古代ギリシア時代


アイザノイの円形劇場はギリシア時代の劇場のように観客席は斜面を利用して造られている。何故もっと先まで行ってオルケストラを見下ろさなかったのだろう。

幸い説明パネルに航空写真があった。オルケストラはほぼ円形のようで、観客席は180°以上になっている。 


『イラスト資料 世界の建築』の円形劇場の配置と構造は、ギリシア時代の代表的円形劇場は、演奏場あるいは舞踏場は唱歌隊と踊り手の専用であった。観覧席の境界内はだいたい2/3円であった。舞堂すなわちスケネは俳優の支度部屋となり演奏場の上にたいへん高くなっていたという。
アイザノイの円形劇場は2/3円よりも角度が小さいけれど・・・
❶テアトロン(観客席) ❷ディアゾマ(通路) ❸オルケストラ(演奏場) ❹スケネ(ギリシア時代は支度部屋、ローマ時代は舞堂)
ギリシア時代の代表的な円形劇場 配置と構造 イラスト資料 世界の建築より

ローマ時代の円形劇場(南仏オランンジュ)について同書は、演奏場は半円形の大きさに縮小し唱歌隊の使用を廃して貴賓席となり、現代劇場の特別席に相当した。踊るためには使用されなかった。その結果、舞堂はますます重要となり、観覧者の注意はここに集中したという。
❶テアトロン(観客席) ❷ディアゾマ(通路) ❸オルケストラ(演奏場) ❹スケネ(ギリシア時代は支度部屋、ローマ時代は舞堂)

ローマ時代のオランンジュの円形劇場 配置と構造 イラスト資料 世界の建築より


アイザノイの円形劇場平面図 現地説明パネルより
❶テアトロン(観客席) ❷ディアゾマ(通路) ❸オルケストラ(演奏場) ❹スケネ(支度部屋)
ギリシア時代の代表的円形劇場と比較してみると、❸オルケストラは円形でなくなっているが、❶テアトロンは半円以上ある。ローマ時代になると半円になるので、その中間のアイザノイの円形劇場は、古代ギリシア時代に造られたものを、ローマ時代になっても改修しながら使っていたのかも。あるいは、ギリシアの円形劇場からローマの円形劇場への過渡期とか。


❹スケネが残っている円形劇場は少ないが、アイザノイでは部分的に黒っぽい石積みが残っている。

スケネ立面図 説明パネルより
半円アーチが使われているので、それが創建時のものならローマ時代やね。


わずかだが、私が見学したギリシアの円形劇場を時代順に並べてみると、

アテネ ディオニュソス劇場 創建前5世紀末、最終改築後1世紀? 
『世界歴史の旅ギリシア』は、アテネのディオニュソス信仰は、僭主ペイシストラトスの時代にボイオティアとの国境に位置するエレウテライから勧請されたもの。前5世紀には、木造の観客席を備えた本格的な劇場として、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスらの悲劇、アリストファネスらの喜劇などが上演された。劇場はリュクルゴスによって前330年頃に大理石で改修され、さらに後1世紀のローマ皇帝ネロの時代に改築されたという。 
古代ギリシアの観覧席が木造だったとは。



❶テアトロン(観客席) ❷ディアゾマ(通路) ❸オルケストラ(演奏場) ❹スケネ(支度部屋)説明パネルより

各時代に改築あるいは補修された擁壁 説明パネルより

❸オルケストラ全景
四角形の石を敷き詰めたものが古代ギリシアのもので、その中、もっと小さな石を並べた菱形部分があるのがローマ時代のものだろう菱形は珍しいのでは。

前から見たオルケストラ(合唱隊が演技や歌を披露する場所)



❶テアトロン
いつものように強引なパノラマ合成

当時右上方では復元作業中だった。これは劇場の最上部には、トラシュロス合唱隊記念碑の土台の跡があるというものかな。

テアトロンとオルケストラの間には広い通路。

オルケストラに近いところには背もたれのある貴賓席。



平面図と復元(説明パネルより、一部欠けてしまった)
現在、舞台の部分に残っているのは3世紀のファイドロスの演壇で、その前面にはディオニュソスの生涯が浮彫りにされているという。


ファイドロスの演壇 後2世紀 ローマ帝国時代
『South Slope of the Acropolis』は、後5世紀初め、第一執政官ファイドロスは演壇に改修した。2世紀の建物のディオニュソスの生涯の主なできごとを表した浮彫を用いたという。

説明パネルは、ローマ時代の社会政治的変化は、舞台建築に大きな変化をもたらした。舞台はより高くなり、広々としたプロセニアム(プルピトゥム)と、精緻な建築装飾とディオニュソス神の神話に登場するサテュロス像で飾られたファサードを備えるようになったという。
ディオニュソスではなくサテュロスという説も。

中央の踞って天井を支えているのはヘラクレスだと思っていた。


エピダウロス 円形劇場 前4-2世紀
『古代ギリシア遺跡事典』は、ギリシアでもっとも保存状態の良いこの劇場は、前4世紀に建造された後、前2世紀に現在見ることができる形に拡張されたという。

同書は、
観客席は水平通路(ディアゾマ)を挟んで二層からなり、下層に34列、上層に21列設けられた弧状の座席は、さらに上下方向の階段によって下段は12、上段は22のブロックに区分されている。収容能力は、少なくとも12000人と見積もられているという。
現地ガイドのジョージさんは、上の方は前3世紀、下の方は前4世紀に造られたといっていた。
①テアトロン ②ディアゾマ(通路) ③オルケストラ ④スケネ
エピダウロスの円形劇場 ギリシア時代 古代ギリシア遺跡事典より


スケネでは修復作業が行われていた。

環状の大理石によって囲まれたオルケストラは、直径約20mの円形で、古代ギリシア本来の形状を伝える数少ない例となっている。中心には円形の石があるが、その機能はよく分かっていないという。
現地ガイドは、中心の石の上で、いろんな高さで手を鳴らして、どの位置で一番音が響くかを教えてくれた。それは人の背丈ほどの位置だった。
席が埋まるほど人が入っている時が、反響が一番良いように設計されていたのだそうだ。
若者達が、石の上で熱唱していた。終わると拍手喝采。

その石も大理石みたい。



デルフィ アポロンの聖域 ギリシア時代の円形劇場 前4-3世紀
『古代ギリシア遺跡事典』は、観客席には35列の大理石製の座席が設けられており、約5000人を収容したと推定されているという。エピダウロスの方は12000人だった。

ピュティア祭での演劇や音楽の競演が華々しく催された劇場で、デルフィの民会議場としても用いられていた。前4世紀に建造され、前2世紀半ばにペルガモン王国のエウメネス2世によって修復されたという。

劇場の名称 現地説明パネルより
①テアトロン ②ディアゾマ(通路) ③オルケストラ ④スケネ

『古代ギリシア遺跡事典』は、アポロン神殿の北西側へ上がって行くと、神域の最高所を占める劇場に至るという。

同書は、標高596mの劇場の最上部からは、アポロンの神域全体とアテナ・プロナイアの神域も見はるかす見事な眺望が開けているという。
オルケストラの形が帆立貝型というのがやっとわかった。オルケストラの向こうのほとんど基壇のものがアポロン神殿。




関連記事

参考文献
「古代ギリシア遺跡事典」 周藤芳幸・澤田典子 2004年 東京堂出版
「South Slope of the Acropolis」 Kaiti Kyriakopoulou  Association of Friends of the Acropolis

参考にしたもの
現地説明パネル


2020/06/19

ドームをもつ教会堂の起源は墓廟建築


前回のローマでは、4世紀初頭にコンスタンティヌス帝が娘のために建立した、円形のサンタ・コスタンツァ廟に行った。 
ドームには後世のフレスコ画があり、明かり取りのための窓がドラムに12箇所開いている。
外側から、外壁と付け柱、壁龕が等間隔で並ぶ厚い円筒状の壁面、円柱を2本ずつ12箇所に巡らせ、中央のドームの支えとする。
円形なので、中心へと集約される集中式プラン。後世に聖堂に改築されているので、中心部には祭壇がある。。

中央のドームが高いので外観としては二階建てだが、ドーム下は吹き抜けになっている。
『世界美術大全集5古代地中海とローマ』は、
パンテオンにおいて共和政以降のドーム建築が一つの到達点に達したように、後2世紀以降のドーム建築に見られるこうした内部空間の流動化、ドームの軽量化、開口部の拡大、異なる曲率のドームを組み合わせる構法といった傾向がたどり着いた到達点がイスタンブール(古名コンスタンティノポリス)のアギア・ソフィアであるという。
その過程がこのコスタンツァ廟であるが、正方形平面に円形のドームを載せるのと、パンテオンやこの廟のように円形平面からドームを立ち上げるのとでは、発想の転換が必要である。

このような同心円状の構造はどんな発想で生まれたのだろうと思っていたところ、テッサロニキにも聖堂になった墓廟建造物があった。

アギオス・ゲオルギオス聖堂(ロトンダ) 4-5世紀 テッサロニキ
『世界歴史の旅ビザンティン』は、円形をはじめとした集中式プランは、古代ギリシア以来墓廟建築としておなじみの形式であった。キリスト教聖堂に改造された時期については、4世紀末から6世紀初頭に至る諸説があってはっきりしない。東にアプシスの突出部がつけ足されて、聖ゲオルギオスを祀る聖堂となったという。
古代ギリシア以来墓廟建築としておなじみの形式とはいうが、古代ギリシア時代の円形の墓廟は未だに見つけられないでいる。
『世界美術大全集6ビザンティン美術』は、バシリカ式聖堂と並んで、初期キリスト教建築の代表的形式である集中式聖堂の起源の一つが、帝国の墓廟建築にあることの例証となっているという。 
 
現在サンタンジェロ城と呼ばれているハドリアヌス帝の墓廟も円形平面で、2階(日本風にいうと)の矩形の空間に骨壺の間の扉があった。
外観は正方形の城壁が邪魔しているが、円筒形の建物で、ドームはない。
内部にあった想像模型

そして、ハドリアヌス帝が自身の墓廟を建造するときに参考にしたとされているアウグストゥス帝の霊廟は2017年現在修復中。
同書は、アウグストゥス帝の霊廟は、その後何世紀もの間、城塞、トラヴァーチン石の採掘場、ブドウ園、庭園、闘牛場、大劇場、コンサートホールなどと姿を変え、手が加えられたり、荒らされたりしたので、もともとの姿を正確に想像するのが難しくなっている。
入り口までの道には、今はエスクイリーノとクリナーレの丘にあるオベリスク2本が立っていた。建設当時からのもので残存するのは、地下部を囲む壁で、内部の環状部で釣り合いを取って補強することで上の土を支えていた。アウグストゥス帝の遺灰は中央の柱の龕に、親族の遺灰は柱を囲む環状部に置かれているという。
『ローマの昔の姿と今の姿を徹底的に比較する!』は、この大きなマウソレウム(霊廟)は、ヘレニズム期の王墓から想を得たもので、有名なカリアの王マウソレウスの墓との類推がはっきりとわかるようになっている。アウグストゥス帝は自身と一族のために、紀元前29年にこの霊廟を建てたのであるが、アウグストゥス帝の「primus inter pares(同等の中の長)」の王朝政治を物語る遺跡である。
霊廟は高さがおよそ44mで、外側が四角の台部に円筒形の本体が建てられていた。円筒部は、内部が数階になっていて、アウグストゥス帝のブロンズ像を支える柱の役目をしていたという。  

カリアの王マウソレウスの墓廟について
『世界美術大全集4ギリシア・クラシックとヘレニズム』は、マウソレイオンは西暦14世紀の地震による崩壊までほぼ完全な姿で残存していたものと思われる。
イェッペセンによれば基底部の平面は南北の長辺の長さ38.4m、東西の短辺の長さ32.5m、全周で141.8m、総高は57.6mと算出されているという。
円筒形ではなく長方形の建物で、その上に神殿風のものを建て、戦車がのっている。列柱の内側にある建物は円筒形だったのだろうか。もしそうなら、アウグストゥスは矩形の基壇を低くして、骨壺の間のある建物を円筒形にしたのかも。

Google Earthで上空から見下ろして見ることができる。それによると、この開口部は南を向いているので、2世紀初頭にアウグストゥス帝の霊廟に倣って自分とその一族の廟を造ったハドリアヌス帝の墓廟と同じ。
また、現在復旧作業中!イタリアの歴史的建造物の歴史を紐解くVRサイトがOPENのThe restoration projectの説明では、一番外のリングの土台に半円形の部屋を12、その内側のリングは12の台形の部屋に分割された。それらの部屋はヴォールトの小部屋と呼ばれ、互いに繋がる類似する一連の小部屋と理解されている。半円の壁面と台形の小部屋は、建物全体の荷重を支え続けるために重要である。廟をもっと強固なものにするために、どちらのリングにも土を詰めたという。 
1/4円を対にした半円形のものは、同ページにはモノクロ写真やカラーの平面図があるが、Google Earthでもよく見ることができる。

残念ながら、古代ギリシア以来の墓廟建築というものを探し出せなかったが、少なくとも帝政ローマ時代の墓廟から、ドームのある円形平面のキリスト教聖堂への変遷を、さまざまなところで見てきた聖堂や教会から理解することができた。
次回はこのアウグストゥス帝の霊廟を見学してみたい。


関連項目
テッサロニキ1 ガレリウス帝の記念門と墓廟
9-2 サンタ・コスタンツァ廟(Mausoleo di Santa Costanza)は集中式
ローマで朝散歩1
参考サイト

※参考文献
「世界歴史の旅 ビザンティン」 益田朋幸 2004年 山川出版社
「世界美術大全集6 ビザンティン美術」 1997年 小学館
「世界美術大全集5 古代地中海とローマ」 1997年 小学館