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2024/01/05

明兆の白衣観音図に龍


昨年白衣観音図をまとめていた頃、1978年発行の『水墨美術大系第5巻』に明兆の白衣観音図がとても小さなモノクロームの図版を見つけた。それで作品自体も小さなもので、あまり重視されていない作品なのかと思っていた。
ところが、東福寺展が2023年春に東京国立博物館で、秋に京都国立博物館が開催され、この作品が展示されることがわかった。そして、ある美術展を紹介する番組で、驚くほど大きなものであることを知り、秋の東福寺展に足を運んできた。
実際にそれは、博物館の展示スペースぎりぎりの高さほどもあった。白衣観音図は下から見上げたが、下辺右端の龍やや視線を下げてしっかりと見ることができた。年を取ると文字に限らず、大きい方が有り難い。

これが明兆が描いた龍である。明兆がこれ意外にも龍を描いているのかわからないが、迫力があるというよりは、波涛と岩との間に顔を出して、座禅を組む白衣観音の妨げになるものを追い払うべく睨んでいる程度。
東福寺蔵吉山明兆筆白衣観音図部分 東福寺展図録より


白衣観音図 吉山明兆筆 東福寺蔵 室町時代、15世紀
紙本着色 縦336.2㎝ 横281.2㎝ 
同展図録は、明兆は数多くの大作・連作を描いたことで知られるが、そのなかでも本作の巨大さは圧倒的である。ダイナミックな筆致による岩窟描写のなか、荒れ狂う波濤上の岩座に正面向きの白衣観音を描き、画面下部には龍と善財童子とを配して、安定した三角形構図を形作っている。筆勢あふれる水墨描写と計算された画面構成とが絶妙に均衡を保っている作といえよう。
本作は東福寺法堂の仏後壁に貼られていた可能性が指摘されている。法堂の再建上棟は応永35年(1428)だが、本作にみる荒々しい水墨描写からみても明兆最晚年作とみられ、この時期に制作されたものとして様式的に矛盾はない。ただし面貌表現には固さが残り、「寒山・拾得図」と紙継ぎの寸法が一致することとも合わせ、この時期における明兆工房の様態を改めて検証する必要があるだろう。ただいずれにせよ、明兆の最晩年様式がここに如実に示されていることは間違いなく、その規格外のスケールからみても、明兆の代表作の一つとして評価できるという。
その番組では、白衣観音の大きな頭光が垂れ下がる岩窟の奥に描かれているので、岩座は岩窟よりも向こうにあるとも言っていた。ということは、白衣観音は奥の岩の上に坐っていて、善財童子や龍は岩の手前にいるので、両者の間にはかなり距離があることになる。
東福寺蔵吉山明兆筆白衣観音図 東福寺展図録より

静かに座禅を組む白衣観音
中国では南宋時代以降、高麗仏画にも、日本でも、白衣観音図は様々な描き方をされているが、このように正面向きの作品は少ない。それは、掛け軸などのような個人で鑑賞するものと違い、法堂の仏後壁という描かれた場所なので、寛いだ白衣観音を描く訳にもいかなかったのだろう。
東福寺蔵吉山明兆筆白衣観音図部分 東福寺展図録より


そして善財童子
『明恵の夢と高山寺展図録』は、『華厳経』の最終章である入法界品は、善財童子が文殊菩薩の教えを受けた後、53人の善知識(よき友)のもとを訪れ、教えを請う物語であるという。
着物の後ろ側がもこもこしているので、どちらかというと迦陵頻伽のように見えた。
東福寺蔵吉山明兆筆白衣観音図部分 東福寺展図録より

善財童子と言えば、2019年の「明恵の夢と高山寺展」で、文殊菩薩の教えを受けた後、53人の善知識(よき友)のもとを訪れ、教えを請う物語である(同展図録より)。この主題を描いた華厳海会善知識曼荼羅(鎌倉時代 13世紀)は不鮮明なところが多く、白衣観音に教えを請う図があるのかどうか分からなかったので、検索すると、奈良国立博物館の収蔵品データベースに絹本墨画の白衣観音(鎌倉時代13-14世紀)を見つけた。

同サイトは、さとりの道を求める旅に出た善財童子が補陀落山で観音菩薩にまみえるという、『華厳経』入法界品に説かれる一場面を水墨で描く。竹林が茂る深山幽谷の中、白衣をまとった観音菩薩が坐禅瞑想し、小岩上で合掌礼拝する善財童子と相対する。賛者の約翁徳倹(1245-1320)は、中国に渡って阿育王寺や天童寺で学び、帰国後に南禅寺などの住持を務めた禅僧。
本図への着賛は、帰国後に建長寺内の長勝寺の開山となった永仁4年(1296)以降の晩年と考えられる。日本で描かれた現存最古の白衣観音図の一つとして貴重という。
昨年まとめた白衣観音図 日本では一番古いもので、一山一寧(1299来朝-1317没)賛の白衣観音図だったので、奈良博本の方が古そうだ。 


せっかくなので、明兆の寒山拾得図も。

寒山拾得図 吉山明兆筆 二幅 室町時代、15世紀
紙本着色 各縦248.6㎝ 横112.0㎝(描表装を含む)
紙継ぎの寸法が白衣観音図と一致することから、同時期の作品と考えられている作品。
同展図録は、寒山と拾得は中国唐時代の風狂の僧で、水墨画の画題として多く取り上げられた。本作における二人の奇怪な面貌は、中国の道釈画家・顔輝の作例に通じる表現である。 
文化12年(1815)の「虫拂方丈之図」 や、天保4年(1833) 刊『新古書画雲烟供養展観録』などでは、本作は達磨図の脇幅として掲出されている。ただし、達磨図やそれと同時期作とみられる蝦蟇鉄拐図および「円爾像」とは、描表装の形式や画風が微妙に異なり、それらに合わせるために後に追加制作されたものとみられる。 
近年の修理により、本作は各幅とも最大値で縦34.2、横58.9㎝ほどの料紙を継いで構成されていること、またそれら一紙あたりの寸法が「白衣観音図」と近似することが報告されている。渇筆混じりの野太く粗削りな岩描など、画風の面でも共通点を見出すことができ、両者が同時期に制作された可能性は高い。白衣観音図は応永35年(1428)の法堂上棟に合わせて描かれたとも指摘されており、本作もこの時期に制作されたものとみられる。明兆最晩年における工房の様態は明らかではないが、本作の描写の一部には弟子の関与も考慮されるという。
東福寺蔵吉山明兆筆寒山拾得図 東福寺展図録より

ということで、昨年顔輝の寒山拾得図に似ていると記事に書いたが、誰もが感じることだった。
きっと明兆は、顔輝の寒山拾得図を見たことがあって、その顔が気に入っていたのだろう。
東福寺蔵吉山明兆筆寒山拾得図部分 東福寺展図録より


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関連記事

参考文献
「東福寺展図録」 東福寺・東京国立博物館・京都国立博物館・読売新聞社編 2023年 読売新聞社・NHK・NHKプロモーション
「明恵の夢と高山寺展図録」 2019年 中之島香雪美術館

2022/12/23

白衣観音図 日本


日本でも白衣観音図はよく描かれた。


白衣観音図部分 鎌倉時代末期 一山一寧(1299来朝-1317没)賛 絹本墨画淡彩 89.2X38.2㎝
 『水墨美術大系第5巻 可翁・黙庵・明兆』で海老根聰郎氏は、初期水墨画の発展に力があったのは、禅僧と禅林社会であるが、彼等が中国から舶載し、受容した作品のうちには、中国の職業画工の作品がかなり含まれていたと思われる。観音のような広い信仰にささえられ、需要の多かった図像には、特にそうした例が多かったと思われるが、本図の作者が下敷きにした作品は、そのようなものであったろう。
この図にみる、衣褶のくまどり、微妙な衣の襞の再現、観音の右手の位置などは、卓抜な技巧の持主にしか実現できない、高度な写実表現が原画にあったことを伝えているし、衣の下縁部にみえる文様や、顔面の精細さは、禅余の率意の作品とはことなった仕上げの作品であったことを充分推察させるのである。本図の画家は、それらをかなり忠実に再現しえているが、不明瞭な細部や、対象表現から浮き上がった生まな線描をのぞかせているのは、いかにも初期水墨画らしい、ういういしさといえるであろうという。
芦葉達磨図は知っていたが、白衣観音が大きな蓮華に乗るとは。どこへ行くのだろう。
一山一寧が賛を書くほどの者が描いているのだから、崖に結跏趺坐したり、くつろいだりする図と同じくらい画題としては成立していたのだろう。
一山一寧賛白衣観音図部分  『水墨美術大系第5巻』より


白衣観音図 鎌倉時代末期・1319年以前 約翁徳倹賛 絹本墨画 100.8X41.7㎝
同書で衞藤駿氏は、補陀落山中にあって竹林を背景にした幽境の岩上に瞑想する白衣観音に、善財童子を配している。図様は中国元代水墨白衣観音図を踏襲しているが、暈渲豊かな水墨技法はかなりの習熟を示している。
賛者の約翁徳倹(1244-1319)は鎌倉の出身で、蘭溪道隆に師事し入元帰国の後諸寺を歴任、文保元年(1317) 一山一寧をついで南禅寺に住した。南禅寺塔頭法皇寺に自賛の頂相がある。元応元年(1319)、76歳で示寂しているから、本図はお よそ1300年前後の制作と推定され、制作時期を明確にする初期水墨画としての資料価値は高いという。 
善財童子が登場する白衣観音図は珍しい。
善財童子については安倍文殊院の文殊菩薩と善財童子の像が有名だが、53人の善知識を訪れ、普賢菩薩と同等の智識を得た。詳しくはこちら
約翁徳倹賛白衣観音図  『水墨美術大系第5巻』より


白衣観音図部分 鎌倉末-南北朝 伝良全筆 常盤山文庫 絹本墨画淡彩 95.4X47.8㎝
同書で衞藤駿氏は、 妙興寺本乾峰士曇賛白衣観音図の筆致に近似するもので、良全画および同時代絵仏師系画人による水墨画の様相を知る上に貴重な資料である。
従来可翁筆と伝えられて来たがもとより確証はなく款記印章ともに存在しない。複雑に構成された前景の岩座、遠景の土坡、そして松樹は、控え目に引かれた衣文線に比してやや意欲的に描写されている。座右に置かれた楊柳、煩瑣な松葉の表現は片隅に配された滝と波頭の表現とともに新流入の水墨画法を試み、その模索的な態度が逆に本図に古様を与えているという。
岩に寄りかかって水の流れを愉しんでいるのだろうか。
伝良全筆白衣観音図部分  『水墨美術大系第5巻』より


白衣観音図部分 室町時代初期・14世紀前半 黙庵筆 平石如砥賛 絹本墨画 121.4X49.0㎝
同書で海老根聰郎氏は、白衣観音という題材は、黙庵が生存していた元末には、観音より も周囲の山水描写に作者達が腕をふるう場となっている。黙庵に山水の作はないが、「四睡図」にみる微細な墨調の使いわけは、彼が山水画をも描ける力量の持主だったことを思わせる。
しかし、本図にみる黙庵は、暗示的に素っ気なくしか、背景を描かない。表現の主眼は、観音とその微妙な表情におかれている。その意味で、彼はいささか古風である。白衣観音図は、当時多量に描かれたらしく、ほぼ相似たものがいくつかあり、本図とまったく同じ観音の形姿をもつものも2、3ある。ただ本図にみる、対象を単純化していく、息の短い曲線は、黙庵のものである。上方に平石如砥の天童寺住持時代の題賛があるから、この作品は、天暦(1328-30)から元統(1333-35)にかけての作品であり、入元してから比較的年月をへていない頃のものと考えられるという。
背景の崖や寄りかかる岩は没骨で表されていて、筆の運びで描かれた白衣観音はその中で際だっている。
黙庵筆平石如砥賛白衣観音図部分  『水墨美術大系第5巻』より


白衣観音図部分 室町時代初期・1352年 徹翁義享賛 真珠庵 絹本墨画 108.3X50.7㎝
同書で衞藤駿氏は、図上に正平7年(1352)の年記をもつ大徳寺第2世徹翁義亨の著賛があり本図の制作年代を知ることができる。
飛瀑を伴う樹下岩上に安坐する楊柳白衣観音で、画面構成は背景などを含めかなり煩瑣ではあるが、淡墨と流れるような筆線の巧みさが全体を瀟洒なものにしている。おそらく絵仏師系画人の手になるものと思われるが、達者な筆法ではあるが量感に欠け、骨法も未熟である。藪本家室町時代の制作と思われる本図の模本が存在するという。
柳の枝を持つものを楊柳観音と呼ばれている。
観音は滝を見上げているというよりは、その爆音をしみじみと聞いているよう。
徹翁義享賛白衣観音図部分  『水墨美術大系第5巻』より


白衣観音図 室町時代・1361年以前 良全筆 乾峰士曇賛 絹本墨画 88.4X40.2㎝ 妙興寺蔵
同書で衞藤駿氏は、瀑布を背景とした水中の岩上に趺坐瞑想する正面向きの白衣観音図で「良全筆」の款記は画面向って左下隅にかくし落款風に墨書されている。
図様は水墨白衣観音図として通常のもので、中国画の模写的稚拙さはなく流麗な筆致をもった良全画中の白眉といえる。ここでは絵仏師的な硬直した筆致は水墨画的な方向へ移行していることがわかる。賛者の乾峰士曇は筑前博多の出身で上洛後諸寺を歴参した後、建武4年(1337)東福寺、貞和4年(1348)南禅寺に住し、ついで関東に下って文和4年(1355)円覚寺の長となり康安元年(1361)に示寂している。本図は年記を欠くが歿年を最下限とすることはできる。
良全画に士曇が著賛する作例には騎獅文殊図(正木美術館)があり、両者の関係が東福寺を介して密接であったことが指摘できる。なお良全画には「海西人良全」の款記をもつものがあり、海西すなわち九州出自とする説、中国とみなす説、さらには朝鮮と解する見解もあるが、画格に相当なひらきが認められ、仏画的作例の描法から推察すれば日本の絵仏師的素養をもつ画人と考えるべきであろう。なお良全面には「良詮」の款記も併用しているという。
岩座下には激流が表されているが、それでも眉一つ動かさない白衣観音である。
しかし、白い大衣は両肩から外されて、胸前にたぐり寄せられている。
良全筆乾峰士曇賛白衣観音図  『水墨美術大系第5巻』より


白衣観音図 室町時代・1370年ごろ 愚渓筆 絹本墨画 大和文華館蔵
 『日本の美術69』は、漁樵山水図の中幅で、岩上に坐る最も典型的な形の図である。しもぶくれの顔が不思議な魅力をもち、非常に簡潔に描かれた描線がつくり出す雰囲気とともに素朴さが好ましい。水上に突き出すように描かれる岩坐の表現において大樹寺本にみられるような鋭角的な角の線がなくなり、丸味をおびた量感の描写が可能になった時代の進歩を考えなければならないという。
雨の当たらない岩陰で、安定した大きな岩の上に円形の敷物を敷き、坐している。その下には穏やかな流れがある。
大和文華館蔵 愚渓筆白衣観音図  『日本の美術69 初期水墨画』より 

そして水甁ではなく鉢が置かれていて、その縁には一枝の楊柳が無造作にのせてある。
丸顔の白衣観音図は少ないのでは。
大和文華館蔵 愚渓筆白衣観音図  『日本の美術69 初期水墨画』より


白衣観音図部分 南北朝時代・15世紀 吉山明兆筆 健中清勇賛  紙本墨画 61.2X28.4㎝  東京国立博物館蔵
同書で金澤弘氏は、図右下隅に破草鞋の印があり、上部に建仁寺122世を董した 健中清勇の賛詩がある。図はMOA美術館本と全く等しい景物によって構成されるが、中央岩上に観音が全身を現わして端座する点が異なる。
観音は非常に細身で、面貌、衣ともに軽やかな墨線が流麗に形づくる。下方の岩は対称的に力強い焦墨によって端的に表わされる。円光の外側と上半身及び衣のすその部分に外隈的に墨のぼかしを用いて浮き出させる手法は「大道一以像」にもみられる手法で、この図の特色になっている。この技術と、強い感じの岩座と軽い観音の対比によって、この図はきわめて静止した印象を与えるようである。
なお像そのものの表現は明兆の白衣観音のうちではもっとも古様で、愚谿の「白衣観音図」などに近い。永享年間(1429-41)に没したと思われる健中清勇の賛はその位置、図の構成から考えて当初は予定されていなかったものであろうが、図の制作期と距たらない永享年間のものであろうという。
崖や岩が、太い線で表され、植物ともに濃墨で描かれる。点苔がほどよく散らされている。
明兆筆健中清勇賛白衣観音図部分  『水墨美術大系第5巻』より


白衣観音図部分 15世紀初頭 明兆筆 天性寺  絹本墨画 74.7X36.5㎝
同書で金澤弘氏は、明兆の白衣観音図中もっとも本格的な図で、先人良全の「白衣観音図」と同の趣をもつ。格調のある衣紋線が周到に像を形づくり、面貌描写も非常に精緻である。これと対応するように水中につき出した岩も、明兆としてはかなり本格的な法を用い、明暗の諧調もきわめて自然で、優れた立体感をもっている。下部の水波と笹様の草も濃墨で描かれ、上部の懸崖と垂れ下る夢の没骨描による中墨との対比も見事で、完璧な遠近感をみせている。図右下隅に「明兆筆」の落款と明兆の壺印があるが、壺印は他の作品にみられないもので信はおけない。筆致から推して、この強い筆線と完全な構成は「普明国師像」に近く、作画年もこれに近い15世紀初頭の明兆の完成期にあたるものであろうという。
明兆筆白衣観音図部分  『水墨美術大系第5巻』より


白衣観音図部分 室町時代中期 伝明兆(1352-1431)筆 東福寺蔵
 『水墨美術大系第5巻』には参考図版としてモノクロームで記載され、解説がない。2023年10月7日から開催される京都国立博物館での「東福寺展」に展示されるらしいので、これがどのような作品なのか期待している。
東福寺蔵伝明兆筆白衣観音図部分  『水墨美術大系第5巻』より

東福寺展図録ではもちろん大きな図版が記載されていたので、それも添付するが、詳しくはこちら
東福寺蔵吉山明兆筆白衣観音図 東福寺展図録より


白衣観音図 室町時代・15世紀 霊彩筆 紙本墨画淡彩 93.1X37.7㎝ 玉泉寺蔵
同書で金澤弘氏は、図中、岩石の間に「霊彩」の隠し落款があり、脚踏実地の白文方印をもつ。隠し落款の手法は中国の宋時代からしばしば用いられたものであるが、わが国の室町水墨画では数少い。
図は真正面から端正に坐る白衣観音を捉えているが、像の描線も他の霊彩画ほど抑揚のある線描ではなく、赤脚子ほどの煩雑さもなく、洗練されている。像の静止した姿に較べて波頭の動的な描写は見事な調和を示していて好ましい。岩の表現はさほど強いを用いずに墨色豊かに面的に表わし、陵線に沿ってわずかに描き残された白地が巧みにハイライトになり、岩の量感を表わしている。霊彩は赤脚子と異って道釈人物画のみにその筆跡をとどめる画家で、この派で最も特徴的であるが、本図はなかでも最も静かで端正な図といえる。伝統的な画題と伝統的な構図を踏襲したためであろうか。衣紋、瓔珞などに淡彩が賦されているという。
顔は正面を向いているが、視線はやや下を向くが、手先を見ている風でもない。ぼんやりとお茶を点てているのだろうか。
霊彩筆白衣観音図部分  『水墨美術大系第5巻』より


白衣観音図部分 室町時代・15世紀 赤脚子筆 紙本著色 93.0X34.7㎝
同書で金澤弘氏は、赤脚子の印は古くから知られていたが、その伝記は全く判っていない。建仁寺の古心慈柏や東福寺の愚極礼才(1452歿)の賛があることと、この印形が明兆の破草鞋、霊彩の脚踏実地に非常に近いこと、さらに画風のつながりから東福寺画系の第3の画人と確認されるが、遺作はかなりの数に及んでいる。
図は深山の奥、渓流につき出した岩上に坐る白衣観音の典型で、他の赤脚子の白衣観音図と比較しても、背景の布置が異なるものの像自体の表現はほとんど同じで、一種の形を用いた制作を思わせるほどである。またこれが赤脚子の多作の一因にもなっているのであろう。像の線描は非常に煩瑣で、短く切断され、ひだを表わすのに平行状の曲線を多用し、しかも筆速がない。この特徴は明兆、霊彩より強調され、そして明兆の力強さはなく、霊彩の洗練さには劣るが非常にまとまりのよい特徴をもっている。背景も同様に複雑で、えぐられたような形の岩、わき立つような波頭、多用される緑青を伴った点苔などに赤脚子独得の画風を示している。なお左方岩の間に赤脚子白文印が捺されるという。

赤脚子筆白衣観音図部分  『水墨美術大系第5巻』より


白衣観音図部分 室町時代・16世紀 一幅 紙本墨画 46.3X20.7㎝ 茨城県立歴史館蔵
 『雪村 奇想の誕生展図録』は、雪村は生涯数多くの白衣観音図を描いているが、本図は常陸時代の最初期の作。
白衣観音図は室町時代の水墨画の世界でも数多く描かれ、本図もしかるべき手本があったかもしれない。岩座と崖は没骨で、観音の衣文線は太筆で引かれるが、とくに膝前から裾にかけての筆はまだこなれていないように見えるという。
確かに結跏趺坐する膝の膨らみの表現が変。
茨城県立歴史館蔵雪村筆白衣観音図  『雪村 奇想の誕生展図録』より


観世音図 室町時代・16世紀 一幅 紙本墨画 59.3X16.5㎝
同展図録は、一葉の蓮弁に立って水上を行く白衣観音を描く。この画題は古い作例では一山一寧(1247-1317)賛の白衣観音図が知られ、こちらは蓮弁型の光背を背負う。また雪村作品としては、本作のほかに、白文方印「鶴船」と朱文印「雪村」を捺す円光を背負った一葉観音図が知られる。
あるいは祥啓作品の模本や、祥啓の弟子の興悦筆観音・寒山拾得図にもやはり円光を背負った一葉観音が見られ、水難を退けるという一葉観音の姿は、関東水墨画壇において親しまれたモチーフと考えてよいだろう。雪村の人物画にしばしば登場する、大きく翻る袖や衣の裾の描写が、ややたどたどしい線ながらも本作にも見られるという。
一葉観音は水難を退けるらしい。
雪村筆観音図  『雪村 奇想の誕生展図録』より


観音・龍虎図うち観音図 安土桃山-江戸初期 狩野興以筆 三幅対中幅  紙本墨画 各167.0X93.0㎝ 長野県建福寺蔵
 『水墨美術大系第8巻』は、興以の確実な基準作は必ずしも多いとはいえない。そのように数少ない彼の基準作品の代表作のひとつとして、つとに知られているのは、これらの三幅対である。その各幅には、「狩野」(朱文長方形)、「法橋」(朱文火灯窓形)、「興以」(朱文方形)の三印記が捺されている。
興以は、師光信の弟孝信からその愛児守信(探幽)、尚信、安信の薫陶を託されたところから推すに、単に画技が堪能であったばかりでなく、人柄も温厚篤実で信頼すべき人物であったにちがいない。
ところで、これらの三幅対の画因が、牧谿画より得られたものであることは明らかで、特に龍虎図は、牧谿筆龍虎図(大徳寺蔵)に学ぶところが多い。しかし中幅の観音図は、牧谿の観音図(大徳寺蔵)に比べると、観音そのものの姿態や背景の描写において工夫のあとがみられる。その描写は、詳細であって、岩にみられる柔らかな皺法は牧谿画に学ぶところがあったのであろう。そして観音の容姿はなかなか美しく、牧谿画の観音の崇高な気高さとは異った一種親しみ深い美しさが感じられるという。
牧谿筆白衣観音図はこちら
表情は牧谿筆白衣観音図によく似て穏やかである。これから結跏趺坐するのか、その後で立ち上がろうとしているのか、両足の動きが他に例を見ない。
それに、頭光が岩の隙間より奥にあるように感じる。
長野県建福寺蔵狩野興以筆白衣観音図  『水墨美術大系第8巻』より


                       白衣観音図2 中国←        →明兆の白衣観音図に龍


関係項目
明恵の夢と高山寺展 善財童子は善知識を訪れる


参考文献
「水墨美術大系第5巻 可翁・黙庵・明兆」 田中一松 1978年 講談社
「水墨美術大系第8巻 元信・永徳」 土居次義 1978年 講談社
「日本の美術69 初期水墨画」 金沢弘 1972年 至文堂

2022/12/16

白衣観音図2 中国


水墨画の画題に白衣観音図というものがある。 『水墨美術大系第3巻』は、観音は宗派をこえた広い信仰によってささえられ、宋以後、技法的にも図様的にも、さまざまなかたちで描かれてきた。水墨画の観音には白衣をきて岩上に安坐する姿を描いたものが多いが、時代を下るにしたがって観音の姿よりも周囲の点景物に作者の関心がうつっていくという。

以前にまとめた白衣観音図1とやや重なるが、できるだけ年代順にまとめてみた。


白衣観音図 南宋(12世紀中頃) 掛幅 絹本著色 40.4X40.4㎝ 
 『水墨美術大系第4巻』で戸田禎佑氏は、この作品は、淡雅な色彩と洗練された瀟洒な形態の美しさにより、南宋の人物画のなかで、ひときわ目立つ存在である。やや顎をつき出すようにして坐る観音の姿態には信仰の対象というより、鑑賞的性格の強さがうかがえる。頭上に化仏が画かれていないことも(水墨の白衣観音の多くは化仏がない)、これとかかわるものかもしれぬ。肥痩のない衣文線は李公麟風の白描画の存在を意識しているが、この描線に胡粉による白線が添えられて、静かななかに華やかさを醸し出す。
観音の坐る蓮座の描写は仏画の枠のなかではあるが自然の花に近く、蓮華の蕊はさまざまに倒れ伏している。このような繊美な絵画は、単なる画工というより個性をもった画家の創作と考えたい。おそらく院体の花鳥画・美人画等をよくした人物ではなかったろうか。
なお、この「観音図」は大正3年7月17日付で高津村(現大阪市城南地区)大仙寺より久原家に譲渡された。田能村竹田もかつて大仙寺を訪れており、彼による本図の写しも現存しているという。
確かに蓮弁は優美で、蕊の上には蓮華状の敷物のようなものが見え、その上には着衣の端だろうか、薄い布帛が蓮弁のように重なっている。極めて座り心地が良さそうだ。
白衣観音図 南宋  『世界美術大全集東洋編6 南宋』より


白衣観音図部分 南宋後期 笑翁妙堪(1177-1248)賛 掛幅 絹本墨画 119.0X44.2㎝
『水墨美術大系第4巻』で戸田禎佑氏は、この「白衣観音立像」は、衣文線をかなり太い筆線でいて、姿態の大要をとらえ、顔貌、瓔珞、手のあたりの描写には細密な白描風の描写を用いている。衣文の大胆ともいえる大まかな筆使いは、故宮博物院所蔵の趙孟類筆と伝える「魚籃観音図」の表現に近く、 両者には様式的に何らかの関わりあいのあることがわかる。すなわち、趙孟類筆とされる「魚籃観音図」は、趙孟類の真蹟とは認めがたいものの、その特異な画風は、この「白衣観音図」の存在によって根拠のあるものとみる推察が可能なのである。また、本図に様式的に近い作例として、円覚寺の伝牧谿筆「観音図」があげられようが、円覚寺の作品よりも本図の方がさらに洗練されており、より本格的な作品といえるであろうという。
このような立ち姿の白衣観音は珍しい。特に裳裾の翻る描写が、一筆書きで素早く描いたようでいて秀逸である。
笑翁妙堪賛白衣観音図部分 『水墨美術大系第4巻』より 


観音猿鶴図(三幅)うち観音図 南宋末元初(13世紀後半) 牧谿筆 大徳寺蔵 掛幅 紙本墨画淡彩 172.2X97.6㎝
 『水墨美術大系第3巻』で海老根聰郎氏は、本図は、妙心寺の僧太原崇孚が大徳寺に寄付したものであるが(『正法山誌』)、牧谿画中の最高の作品として、最大級の賛辞の言葉で埋められてきた。ここでは、中唐以来変化と発展を示してきたあらゆる水墨画の技法が駆使されているが、彼の他の作品と同じように、深い自然観察にもとづき、対象が適確に把握されている。
筆墨法には、名式をもって呼ぶべき皺法や、線描法もなく、放縦なところや、目立ったところもない。すべては自然で、大らかにみえる。この印象は、牧谿の空間感覚に由来するのであろう。物象は孤立的ではなく、周囲の空間と統一的に、融和的にとらえられ、障壁画性と呼びうるような大きさを画面に与えている。彼は手びろく多くの題材を描いたが、この画の空間感覚は山水画的である。彼の山水画を、瀟湘八景図巻で考えるならば、その意図するところは、北宋的な大観的なスケールにある。本図のもつ大きさもその辺に起因するのだろう。観音も、猿も、鶴も普通の形体よりも大きく巨大にみえ、作品自体も、あたかもどこかの寺院の壁面にかえろうとしているようにみえるという。
岩の上に結跏趺坐しているが、ややそれを崩して描かれ、安堵感を醸し出している。
大徳寺蔵牧谿筆白衣観音図  『水墨美術大系第3巻』より


白衣観音図はくつろいで岩に寄りかかり、崖下または水面を眺めているような、あるいは物思いにふけっているような図柄の方が多い。

観音図部分 元代(13世紀後半-14世紀後半) 伝牧谿筆 掛幅 絹本墨画 154.5X93.7㎝ 円覚寺蔵
 『水墨美術大系第3巻』で海老根聰郎氏は、本図は大幅で礼拝像的な大きさをもっているものであるが、画家は岩石や竹葉の描写に観音より以上の関心をもって描写している。観音の姿は伝統的なパターンを踏襲したもので、垂下する衣文の形式的なまとめ方は、元代の仏画一般に広くみとめられるものである。
一方、丸みのある岩の形や岩、竹葉の描写は、元代文人画の李一派の描写形式と近似している。本図はこのように二つの別個の表現形式を一画面に混在させたものであるが、これは元代の職業画工の道釈人物画にみられる特色である。補墨のために画致をそこなっているところもあり、画家の手腕も第一級のものとはいえないが、種々の問題を提起する興味深い大幅であるという。
寛ぎすぎではありませんか観音さん。
ということで、牧谿筆と言い伝えられているが、元代(1279-1368)の職業画工であろうとされている。
円覚寺蔵伝牧谿筆観音図  『水墨美術大系第3巻』より


観音図 元代・14世紀前半-後半 平石如砥賛 掛幅 紙本墨画淡彩 55.1X25.2㎝
 『水墨美術大系第4巻』で海老根聰郎氏は、この画にみられる一種繊弱な線描は、作者が李公麟流の白描画を意識していたことを思わせるが、ここには、伝称作品や、後継者のものを含めた彼の作品に共通してみられる対象の起伏をたどっていこうとする意志はみられない。画家は、抽象的な円形の中に、それにみあった形に観音の形姿を抽象化する。そして唇に点じられた 朱、下方の衣の裏の青がひびき合い、線描と協力してリリックな印象を与える。作者のねらいもそのような情趣的表現にあったと思われる。本図は白描画が情趣的表現と結合した一例とみられ、これはそれなりに白描画の一つの展開とみられないこともない。
賛者平石如砥は、東巌浄日の法嗣、本図の賛末にあるように五山の一つ天童寺に、天暦2年(1329) 入寺し、至正17年(1357)に歿したという。
観音がすっぽり収まるこの大きな円は光背ではないらしい。
平石如砥賛観音図部分  『水墨美術大系第4巻』より


観音図部分  中峰明本賛 掛幅 紙本墨画淡彩 42.5X29.4㎝
同書で川上涇氏は、蓮の葉の舟に乗り、楊柳の枝を手にした観音を画く。顔と髪に胡粉を用い、唇には朱を点じ、眉を濃墨であらわす。風にひるがえる 天衣や布の裾の線の折れ曲ったところに、僅かに太く濃い個所が見 えるほか、淡墨の肥瘦のない筆線で慎重に画かれている。典型的な 白描画の一佳作。
図の上部に中峰明本(1263-1323)の賛があり、笹の葉のようだといわれた明本の筆くせは出ているが、印章もなく、「魚籃観音図」の賛とともに検討を要するという。
芦葉達磨図はあるが、蓮の葉に載る観音は珍しいのでは。
中峰明本の賛があるので、制作期の分かる作品かと思っていたら、それが疑われている。
中峰明本賛観音図部分 『水墨美術大系第4巻』より 


観音図 元代・1330年以前 絶際永中筆 中峰明本賛 掛幅 紙本墨画 78.9X31.7㎝
同書は、本図の左下隅には、篆書の「幻住永中」の落款がある。幻住庵は、中峰明本が定居なく諸所に草庵を結び、それらすべてに幻住と榜したことにもとづくが、本図のそれは、平江(江蘇省呉県)のもので、永中とは、そこに中峰とともに住した禅僧、絶際永中のことである。彼は、中峰が平江を去った後も、ここに止まり、『鐔津文集』、 『稲門警訓』などの出版にたずさわり、この地で、至順元年(1330)前後に寂したという。
これは中峰明本の賛であることは確かな作品のよう。素人目ながら、確かに笹の葉のような筆づかいである。
この白衣観音図は、どこにすわっているのかもわからないが、よけいなものを排した閑かな図に見受けられる。
絶際永中筆中峰明本賛白衣観音図部分  『水墨美術大系第4巻』より


白衣観音図 正悟筆 元代・1324年以前 雲外雲岫(1242-1324)賛 京都国立博物館蔵 掛幅 絹本 127.2X54.3㎝
海老根聰郎氏は、観音は宗派をこえた広い信仰に支えられ、さまざまなかたちで絵画化されてきた。その表現形式や図様の多様なこと、また、さまざまな身分の画家達がその制作にたずさわったことはおどろくべきことである。水墨画の観音にかぎっても、さまざまなこころみがなされてきたが、水流から突出した岩上に安坐する観音を描いたものが、もっとも多いタイプであり、そこには、一定の描写形式があって、観音を白描風に精細に、背景を粗放な水墨画で描いていく。
この元僧、雲外雲岫の題賛のある作品も、ほぼそのようなタイプの作品である。ただ観音の形姿は、画工の描いた著色画から抜け出してきたような固さと、細部表現がのっていて、奇妙な茸状の岩座をかく、藁筆風の描写とアンバランスな状態になっている。なお、岩座中に隠し落款風に、正悟とよめる落款があるという。
平石如砥賛観音図と同様に、大きな円の中に観音が結跏趺坐している。
京都国立博物館蔵正悟筆雲外雲岫賛白衣観音図部分  『水墨美術大系第4巻』より


観音図部分 伝牧谿 元末明初(14世紀後半) 掛幅 絹本墨画 76.6X37.4㎝
同書で海老根聰郎氏は、本図の観音の形姿は、長い間くりかえし描かれてきたもので、よ く似た姿をしばしばみることができる。垂下する衣文の先端が独特の形にとがっているが、これも水墨といわず、著色の観音図にも広くみられるところである。
本図の目立つところは、岩石や水波をえがく粗豪な水墨技法であろう。濃墨の二、三筆で描く樹木、没骨の巾広いで肉付けされた岩石、波頭をあげる水波の描法、これらは速筆で一気に描き上げたようになかなか巧みであり、作者は山水画をもかきうる人であることを思わせるが、印象は、静寂な観音の住する境界とはうらはらにさわがしく、動勢に富んでいる。この印象は、明代の派の山水画にも通じるもので、本図にみられる水墨技法もそれに近いものがみられる。おそらく、浙江地方に伝統的な縦逸な水墨画の影響のもとにこの画もつくられたものと思われるという。
これもまた牧谿の名を冠した後代の作品のようだ。
観音に大きな頭光が表されている。
伝牧谿筆観音図  『水墨美術大系第3巻』より


白衣観音図部分 清遠文林賛 元末明初 掛幅 絹本墨画 93.7X39.7㎝
同書で海老根聰郎氏は、本図の賛末に普慈比丘文林とあり、青遠の印がある。明初の禅僧円極居頂(1404年卒)の『円菴集』には、青遠禅師が昌国(寧波府定海県)の普慈寺に住する際の疏があるが、この賛者文林は、この清遠禅師ではなかろうか、もしそうとすれば、元末明初の人となり、描写形式からみた制作年代とも一致する。
宋あるいは元時代にさかんに描かれてきた水墨の観音図には一定の描写形式がある。それは、観音を比較的細緻な白猫体で仕上げ、背景の岩石や水流を粗放な水墨画で描く方式であるが、本図もほぼその形式になる。観音はしばしば類似のものがみられる形姿に描かれ、岩石は大まかな法で肉付けされる。この描法も、同時代の羅漢図などにみられるもので、本図は職業画工が手なれたパターンを組み合せて作り上げた作品のように思われる。水墨の白衣観音の作例としては、最末期のものと考えられる点、史的価値があるという。
明初以降は水墨画では白衣観音図は描かれなくなるという。飽きられたのだろうか。
清遠文林賛白衣観音図部分  『水墨美術大系第3巻』より


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参考文献
「日本の美術69 初期水墨画」 金沢弘 1972年 至文堂
「水墨美術大系第3巻 牧谿・玉澗」 戸田禎佑 1978年 講談社
「世界美術大全集東洋編6 南宋」 2000年 小学館

2017/01/31

白衣観音図1


京都の住友泉屋博古館で16年秋に開催された「高麗仏画展」では、白いヴェールを被った菩薩、特に観音菩薩像が印象的だった。それらは「水月観音像」と呼ばれていて、同展図録は、水月観音の名は、すでに9世紀の敦煌仏画のかたわらに「月観音」という表記が見られるという。
水月観音図についてはこちら
しかしながら、岩陰に佇む観音といえば、白衣観音が思い浮かぶ。 日本では禅宗仏画として水墨画で白衣観音図が描かれてきた。若い頃は私もそのつもりで見てきたので、高麗仏画の華麗に彩色されたたくさんの水月観音図に「高麗仏画 香りたつ装飾美展」で出会って、まずは驚いた。

『日本の美術69初期水墨画』は、禅宗仏画の中では白衣観音図が最も多く、楊柳観音・如意輪観音などがこれにつぐ。しかし通常の白衣観音の姿は儀軌には説かれておらず、おそらく唐代以降の像容であろう。一方楊柳観音も右手に楊柳の枝をもつ古い姿はみられずに、楊柳瓶をかたわらに置くものの全体の相としては白衣観音図に近い。同様に如意輪観音も通常の六臂には描かれずやはり似た姿になる。また三十三観音の中に滝見観音という相があるが、この要素も白衣観音の図容に含まれる場合が多い。これらのことを総合して考えると禅宗では儀軌は問題にせず、観音菩薩のもつ慈悲と力を白衣観音の姿に包括して表したものと解した方がよかろう。そこで像容の近い観音図を年代順に並べて一覧すると次のようになるという。
なんと、いつものように図版を年代を遡るあるいは順に並べるという手間をかけずに済んでしまった。

如意輪観音図 1300年ごろ 絹本着色 鏡堂覚円賛 岡崎市大樹寺蔵
同書は、金泥で壮厳された豪華な宝冠、身にまとう薄衣も褐色と緑青の彩色に細かい波形文などの金泥が施される。肉身の輪郭線には朱線が重ねられるなどほぼ伝統的な仏画の手法によっている。しかし岩の描写は上面を表地のまま残し、稜線を明確に引いて立面に濃墨で彩る手法は水墨画的な技法といえる。鏡堂覚円(1244-1306)は子学祖元とともに来日した高僧で建仁寺16世。
むしろ旧来の仏画の範囲にはいる像容と金泥彩色をもつがわずかに当たりのある墨線と薄墨の隈を用いる像と墨だけで描かれた岩石は、単に宋元画を学んだ仏画という以上に水墨画的趣致が観取される。しかも岩石の皴と墨暈の技法は一山賛の達磨図のそれに近似しており、時代の近さを表しているという。
こちらは白衣観音と水月観音の中間のような描き方で、日本の仏画とは雰囲気が異なる。鏡堂覚円が来日した時に画僧も連れてきていたのかも、その画僧が日本の僧か画工に描き方を伝授して描かれた作品かも、と想像させる。
 
白衣観音図 1317年以前 絹本墨画彩色  一山一寧賛 京都光明寺蔵
同書は、彩色を伴う図で、観音の姿も小さく穏和で、樹石の表現にもさほど水墨画的趣致はみられない。左上方に濃墨で枯木を描き、胡粉で彩色された小鳥が描かれるのが珍しい。
図上方に枯木と一羽の小禽を描くのが新味といえようか。しかし像の表現はまだ線的ではないという。
破損箇所が多いので、白い小鳥と傷が見分けられない。もっとも、記載された文献が古いので、現在では修復されてよくわかる可能性はある。
この観音は大きな円光に包まれていないのでは?しかし、下の弧線は見えているような。
 
白衣観音図 1320年以前 絹本墨画 約翁徳倹賛 奈良国立博物館蔵
同書は、細身の観音が淡泊な線描で表され美しい。左端に滝を落とし、右上方に雲烟のなかに竹叢を描いて巧みに調和を保つ。墨の濃淡を主にした岩や竹、地塗りによって円光部を浮かびあがらせる描法はきわめて水墨画的なものといえよう。約翁徳倹(1244-1320)は蘭渓道隆の高弟で建仁・建長・南禅に住したという。
白衣観音図を取り巻く自然や童子など、高麗仏画の水月観音図と共通するものがほぼ網羅されて描かれている。

白衣観音図 1329-42年 絹本墨画 黙庵筆 平石如砥賛
同書は、遙か前方に一条の落瀑を見る懸崖の下、岩上に白衣の観音がゆったりと描かれる。簡単な描線のなかにかくされる観音が軽やかで、これに呼応するように岩や崖が柔らかい潤いのある筆致で描かれるのが好ましい。岩の下方に墨色が薄れるように潑墨の技法が用いられることなど、元画に負うところが多い。平石如砥は無準師範の法系に属し、わが国にも名が聞こえ、天童山で黙庵が学んだ僧であるという。
滝は残っているが、童子も、水瓶も消えてしまった。滝を見ながら頬杖をついて、観音さん、和み過ぎ!
 
白衣観音図 1344年以前 黙庵筆 了庵清欲賛
同書は、上図とほぼ同じ形の図である。少し観音の姿が近くなり、滝の替りに遠山が配される。像の筆致はさらに柔らかで丸味をおび、岩と崖は水気の多い筆で没骨風に描かれる。ここでも遠山が図の奥行きを深めていて、景観的な表現を行なっているのが黙庵の観音図の特色になっている。了庵(南堂)清欲は古林清茂の法を嗣いだ元僧で、本覚寺に住した時に黙庵が参禅しているという。
滝もなくなり、寝そべった観音の目の先には何があるのだろう。同時代の白衣観音図と違っている。
同書は、黙庵画の特徴はさらに像の扱いを景観的にして、瀟洒な図に仕上げていることである。黙庵の作品は総て彼地で描かれたものであり、そのために少し古様な可翁画などとは違って当世風の元画に近くこの意味では日本の初期水墨画の系列に入れると実際年代よりは新しい感覚で描いたような印象を与えるという。
そういうことだったのか。それにしても、この幅は、横線はあるものの、上図のような縦線が見られない。絹本ではなく、紙本だったのだろうか。
 
白衣観音図 1345年以前 絹本墨画 可翁筆
同書は、約翁本と図容・画風が非常に近い。童子が描かれず、竹叢が崖と枯木に代わっている。岩の線描が少し強調され、点苔がふえることと雲烟が希薄になって透明度がふえる点に水墨画的な発展をみることがてきようか。観音を非常に近くにおいて描き、明確にその姿を表そうとしているのは牧谿画などにも通じる趣があり、可翁の比較的早年の作であろうという。
波頭なども丁寧に表されている。あの寒山図を描いた人物の作品とは思えないが、水墨画を学び始めた頃に、手本を忠実に写したものと思えば納得できる。
  
白衣観音図 1352年 絹本墨画 徹翁義亨賛 大徳寺真珠庵蔵
同書は、端正な顔の描写と細かい毛描き、反転しながら流れる白衣のうちにすぐれた肉体描写がみられるが、景物の表現は疎い。岩や滝、樹木など景感に乏しく、骨法に欠ける点は、技法的には旧来の仏画師による作であろう。徹翁義亨(1295-1369)は大燈国師をついだ大徳寺第2世。
正平7年という時点での墨画としては旧来の仏画的要素を残した作品で、煩瑣な曲線が目立つという。
上方の岩や滝と、下方の天衣の長々と垂れる雰囲気とが合わない。
 
観音図 1361年ごろ 絹本墨画・金泥 良全筆 東京国立博物館蔵
同書は、宝冠と瓔珞に金泥の色どりがみられるほかは墨一色であるが、焦墨主体の墨色に、潤い、表情がみられない。像容も旧来の観音図そのままでけっして禅宗仏画としての特徴を示しているとはいえない。その意味では騎獅文殊図などとおなじ趣向をもつ仏画的な図といえよう。
そして小さい滝と背後に山と本格的な松樹が描かれる点は、大樹寺本と50年ばかりの間の展開と方向を如実に物語っている。
像には当たりの強い細線を用い、背景の没骨風の描写は山水図の趣致をもつ。像容ともに白衣観音図のバリエーションの一つであるという。
観音は古様な作風で、下の岩の怪異さとが目立って、蓮華座に坐しているのに気付かなかった。
 
白衣観音図 1361年以前 絹本墨画 良全筆 乾峰士曇賛 一宮市妙興寺蔵
同書は、上図に比べてこの図はまったく水墨画的な要素をもつ。像の輪郭線、柔らかい顔の描線、リズミカルな波、濃淡であらわされる岩の量感などは同一筆者によるものとは思えないほどの差がある。しかし像そのものの正面向きの端正な姿はやはり旧来の仏画に通じるものである。良全の技法のさえと幅の広さを物語るすぐれた作品であるという。
これまで見てきた作品では、観音は突き出た岩に坐っていたが、本図ではその岩の先端に右肘をつき、奥の低い岩に坐している。これではみずしぶきがかかるのではと心配。

だが、観音は左手に茶碗をのせ、右手で茶筅を振っている。着物が濡れることは構わずに、無心に抹茶を点てているのだ。しかし、その小振りな茶碗は天目形ではない。しかし、肘を台につけてお茶を点てるのは難しいと思うが・・・

白衣観音図 1364年以前 絹本墨画 古源邵元賛 正木美術館蔵
同書は、肘かけのような岩によりかかる、図容的には新しい図で、像には当たりの強い線を用い、背景は面的に墨色を生かす対比をみせる技巧性をもつ。線と面の意識が明確に持たれているのは新しい展開といえよう。古源邵元(1294-1364)は双峰宗源の法嗣で東福寺25世という。
1361年に良全が描いた上図と同じく、後方の低い岩に坐り、前方の岩に両手をついて寄りかかっている。その寛いだ姿勢は、1344年以前に、黙庵が中国で描いた観音に似ている。黙庵は帰国を果たさずに没したというが、その新しい様式が入ってきた頃の作品だろう。
でも、これは白衣とは思えないのだが。

白衣観音図 1370年ごろ 絹本墨画 愚渓筆 大和文華館蔵
同書は、漁樵山水図の中幅で、岩上に坐る最も典型的な形の図である。しもぶくれの顔が不思議な魅力をもち、非常に簡潔に描かれた描線がつくり出す雰囲気とともに素朴さが好ましい。水上に突き出すように描かれる岩坐の表現において大樹寺本にみられるような鋭角的な角の線がなくなり、丸味をおびた量感の描写が可能になった時代の進歩を考えなければならないという。
雨の当たらない岩陰で、安定した大きな岩の上に円形の敷物を敷き、坐している。その下には穏やかな流れがある。
そして水甁ではなく、鉢が置かれている。お茶を点てるには大きすぎるなと思って拡大してみると、一枝の楊柳が無造作にのせてあるのだった。

ところで、白衣観音図といえば牧谿の「観音猿鶴図」の中幅である。

観音図 南宋末元初(13世紀) 絹本墨画 京都大徳寺蔵
同書は、東洋の水墨画の極点ともいえる。完璧な構図、豊かさ、墨を重ねて表わす質量感、わが国の水墨画がつねにめざしたのがこの図のもつ形であり技法であり、内奥に極める精神性であった。牧谿は中国の画史にほとんど名をみせず、元の夏文彦が粗放にして古法なしと評したが、わが国ではとくに室町朝以降牧谿を単に和尚の絵と称するほど愛好したが、遺作をみる限りこの評価は間違っていない。そしてこの時代の黙庵や可翁が牧谿を学んだことはさらに見識があったといえよう。
深い山中の流れに臨む岩上に静かに結跏する観音の姿は華麗な線描と潤いのある淡墨を幾重にも重ねて表わす物量感によって、見事に安坐する。極端に軽やかな体軀を思わせる白衣の描写はともかく、構図的には完璧に近い安定感をもち、岩や崖や樹枝の背景描写も全く過不足がみられないという。
『世界美術大全集東洋編6』は、三連幅が牧谿によりいつごろ、どんな目的によって描かれたものか明らかではないが、率意に(心に任せて)描かれたものではなく、どこかの寺院の公的な使用のために描かれたことが想像される。落款に「謹製」とみずから記したように、仕上げもきわめて綿密であるという。
水面の描写は、絹地の緯糸ではないかと見紛うばかりに穏やか。
この観音も円形の敷物の上に坐している。一見、ゆったりとした着衣に惑わされるが、観音の髪、宝冠、螺旋状の耳飾り、首飾り、下着らしい布が、赤いという僧衣の下からのぞく様子、そして僧衣の円文などが精密に描き込まれている。
あの浄瓶は注口が後方に向けられているのか、それともないタイプのものだろうか。この浄瓶が定窯の白磁であってほしいな。

牧谿以前の白衣観音図を一幅。

白衣観音像軸 南宋時代(12世紀中頃) 絹本着色 直径41.2㎝
『世界美術大全集東洋編6南宋・金』は、円相内に描かれた観音の全身は宝髻の上から全身を白衣で包まれ、蓮華座上に結跏扶坐している。画風の点では類例に乏しいものの、円相の白衣観音図は本図のほかに元時代(1271-1368)の平石如砥(1268-1357)賛「観音図軸(東京国立博物館)などがある。これらはともに北宋時代(960-1127)末の文人画家、李公麟(1049?-1106)によって描かれた白描画の白衣観音像を意識したものである。李公麟は自在観音を描き、破坐ではなく結跏扶坐に自在の精神の境地があると主張している(南宋・鄧椿『画継』巻3)。
両図は肥痩のない細墨線を駆使することで。着色画ながら白描画のような印象が強調されている。とくに絹本の本図は、施された賦彩は全体に淡彩で裏彩色が用いられており、衣文線にはそれと同様に細い白線を沿わせている。蓮華座の蓮弁の描写は、同時代の本格的な着色花鳥画のそれに通じるもので、画家の技量のたしかさと時代性を示している。つまり、本図の前提には南宋時代(1127-1279)前期の士大夫らの趣向の反映が顕著に見られ、禅余画僧とも職業画工とも異なる高い技量と洗練された感性があったとみなせようという。
蓮華座に結跏扶坐しているが、淡い背景には、観音の背後に樹木、前方に竹を思わせるものが描かれていて、他の白衣観音図と同様に自然の中で坐しているらしい。





関連項目
高麗仏画展1 高麗仏画の白いヴェール

※参考文献
「水墨美術体系第3巻 牧谿・玉澗」 戸田禎佑 1978年 講談社
「日本の美術69 初期水墨画」 金沢弘 1972年 至文堂
「世界美術大全集東洋編6 南宋」 2000年 小学館