ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2012/07/27
四神7 東晋時代雲南省の墓室画
『魏晋南北朝壁画墓の世界』は、西暦317年司馬氏の西晋が匈奴族の劉淵に滅ぼされ、戦乱を避けて逃げまわる華北の農民は次々と故郷を離れて江南へと移住し、民族大移動の時代が始まった。西晋の宗室瑯琊王司馬睿が、江南の建業(南京、後に建康と呼ぶ)で、南渡した北方貴族と江南土着豪族の支持を得て王朝を再建した。史上、この王朝は東晋と呼ばれる。420年、北伐戦争で悲願の帝都洛陽・長安の奪還を実現して名声を博した将軍劉裕に脅迫され、司馬氏は政権を禅譲し、宋が建てられたという。
そのような南朝の約1世紀にわたる東晋という時代にも、墓室に四神が描かれたものもある。
雲南省昭通県霍承嗣墓 東晋太元年間後半(太元11-19年、386-394)
雲南省昭通県は東晋の西の国境に接する地域であり、東晋王朝が地元の豪族霍氏に行政と軍事の運営を任せていた。霍承嗣墓は、江南地域で数の少ない壁画墓として注目されている。
内部施設は羨道と方形墓室から構成されており、羨道の底部が傾斜し、両脇に小龕を設けている。墓室の天井には、雲気文の下に四神などが配されているという。
青龍(西壁)
西には仙草を持つ玉女と青龍を中心に鹿・鳥・人面獣・三足鳥・楼閣を配しており、玉女に「玉女以草授龍」、青龍に「右青龍」、楼閣に「龍楼」という墨書傍題が見られるという。
青龍は通常は東側に表されるが、霍承嗣墓では西壁に描かれている。雲南省では四神と四方を結びつけるということがまだ定着していなかったのだろう。
龍は前足の片方を上げているのは、契丹の木彫青龍(10世紀)や、五代ホータンの青龍・白虎へと繋がる特徴なのだろろうか。
白虎(東壁)
東に白虎の上・下・前に鳥、後ろに鹿と楼閣および闕を描き、白虎に「左帛虎(さびゃこ)」鹿に「番鹿」などの題名がついているという。
青龍と同様に翼はないが、縞で虎であることがわかる。
楼閣の後方にいる人物が登場している。虎の前方の黒い球体は何だろう。
朱雀(南壁)
南には、朱雀・兔・蓮華を描き、「朱雀」という傍題があるという。
蓮華は、円に3本の直線で6分割した文様をさしているようだが、他の図からも仏教の信仰とは関係のないもののようだ。
玄武(北壁)
北では玄武・蓮華の間に小さな騎馬狩猟の人物も描き出している。
霍承嗣の肖像が大きく表現され、両脇に節・傘・扇・兵器など儀仗の調度品および18人の侍従が配されている。肖像の傍に墨書の墓誌銘が見える。
墓誌銘によって、被葬者の官位・爵位が安岳3号墓の冬寿とあまり変わらず、墓の年代は東晋太元年間後半(太元11-19年、386-394)で、冬寿墓よりやや年代が新しいことがわかるという。
北朝の北魏-北斉時代と同じく、四神は様々なものと一緒に描かれている。
伏斗式天井の四面に、四神に護られ、様々な動物や蓮華に囲まれて、楼閣に暮らす安穏な死後の生活が表されている。
雲気文のような文様帯の下には墓主の生前の生活、特に官位・爵位に応じた場面が描かれる。玄武の下には墓主が大きく、正面を向いて表されるが、文中に登場した冬寿よりも簡素な服装のようだ。
冬壽墓は安岳3号墳という高句麗古墳群の中にあり、冬壽が描かれている。
墓主政治図 黄海南道安岳郡五菊里、安岳3号墳前室西側室の西壁 4世紀後半
『世界遺産高句麗壁画古墳展図録』は、西側室左側の人物の頭上には、この墓の主人公の墓誌が768字にわたり墨で書かれる。これによれば、357年に没した中国遼寧省蓋平県出身の冬壽(とうじゅ)の墓であることがわかるという。
『世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗』は、高句麗の王だけが用いた「白羅冠」を被り、五色に輝く華麗な絹織物を身にまとった墓主が、文武の官人たちを従えて政治を執り行う場面が描かれている。
屋蓋上に三つの蓮華飾りを置き、幕を朱紐で絞り上げた帳房内の牀座に、像高96㎝におよぶ堂々とした体軀を正面に向けて坐しているという。
墓主の顔が印象的なため、安岳3号墳は記憶していた。
霍承嗣墓の図版が白黒なので、すべてが簡素に感じることもあって、冬壽は霍承嗣よりも裕福な生活をしていたような印象を受ける。
肩書きは「口口使持節都督諸軍事、平東将軍護撫夷校尉、楽浪相・昌黎・玄菟・帯方太守・都郷侯」。
冬寿は、『資治通鑑』晋紀咸康2年(336)正月乙未年条に記されている、慕容鮮卑の前燕の内乱により高句麗に亡命した、慕容皝の司馬の佟寿である。高句麗へ亡命してから中国の正史から名前が消えてしまったが、墨書墓誌に書かれた肩書きは東晋王朝からもらったものと見られるという。
霍承嗣も冬壽も東晋に仕えた人物だった。
蛇足だが、霍承嗣と同様に冬壽も牀座の上に坐っている。胡座をかいているような膝の張り方だ。
何時の頃からか中国人は、土足のまま部屋に入り、椅子に坐り、ベッドで眠るようになったが、元々はその周辺の民族のように、靴を脱いであがり、床に坐っていたのだと、何かで読んだことがある。
それについては一度調べてみようと思いながら忘れてしまっていた。東晋の時代には床に坐っていたことが確かめられた。
それで、何故中国人は土足で部屋に入り、椅子に坐るようになったかだが、その本は、東西交流の結果だという。ローマなどの習慣が入ってきたのだと。
冬壽墓には夫人像も描かれ、夫人の牀座の幕や、夫人の着衣そのものにも金色に輝く歩揺がちりばめられていて、裕福というよりも、豪奢な生活をしていたようだ。それについてはこちら
しかし、四神図は冬壽墓には描かれていない。
つづく
※参考文献
「魏晋南北朝壁画墓の世界 絵に描かれた群雄割拠と民族移動の時代」 蘇哲 2007年 白帝社アジア史選書008
「世界遺産高句麗壁画古墳展図録」 2005年 社団法人時事通信社
「世界美術大全集東洋編10 高句麗・百済・新羅・高麗」 1998年 小学館