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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2014/08/29

蓮華座4 韓半島三国時代


飛鳥時代の仏像が韓半島三国時代の様式だとすれば、蓮華座も同地の仏像に見られるだろう。
『小金銅仏の魅力』は、ほぼ同時代に並存した高句麗・百済・新羅により成る三国時代の仏像は、気候と風土によって各々 異なる地域的様式を見せている。しかし、いずれも同じ文化的基盤の上に立ち、中国の北魏・東・西魏・北斉・北周の作風を取り入れて発達したので、三国の様式的特徴は一つの傾向をしめすものであって、固定的ではない。
例えば、三国時代の仏像は、いずれも痩せ型で、顔が面長で、唇には古式の微笑を浮かべた像が多い。また、側面から見ると体軀が扁平で、体にまとった衣の襞は、左右対称的に彫りだされている場合が多いという。

高句麗
同書は、427年に都を満州の通溝から平壌に移したが、それより以前の小獣林王2年(372)に仏教が公認された。この年、中国・五胡十六国の内の前秦王符堅から西域僧の順道と仏像・経文(即ち仏・法・僧の三宝)が送られたのである。これにより通溝には4世紀の末までに仏寺が次々と建てられ、5世紀前半からの古墳の壁画に仏教的要素が見え始めるという。

菩薩半跏像 銅造鍍金 高句麗(6世紀後半) 通高83.2㎝ ソウル、国立中央博物館蔵
『世界美術大全集東洋編10』で姜氏は、この像は、宝冠に日輪と三日月が結合した特異な形式を示している。正面から見ると、弾力性のある身体の曲線が大きく強調され、正面では腰部を細くするものの、過大な頭部と下半身を弾力性をもって連結させている。天衣は両肩と台座下部で鋭利に反転しており、身体の流れに沿ってしなやかに密着している。
また、両膝の褶(ひだ)と背面の椅子覆いは、それぞれS字形とU字形によって変化を出している。制作地に関しては、百済、新羅などさまざまな説があるが、身体と天衣の力に満ちた勢いは、高句麗古墳壁画、とくに四神図に見られる激しい動勢と類似し、筆者は高句麗仏と考えている
という。

左足を置く蓮台は単弁の反花となっている。長い裳裾の下には蓮弁が見えない。
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百済
『小金銅仏の魅力』は、百済の初めての都であった漢江下流地域は、既に定着していた中国郡県と隣接していたため、早くから特に楽浪郡から強力な影響を受けていた。この漢城(現ソウル)の時代、枕流王元年(384)に、東晋から来た胡僧の摩羅難陀によって仏教が伝えられた。476年に漢城から能津(現公州)へ、538年に首都を泗沘(現扶余)に移し、国号を南扶余とした。この公州と扶余の時代、6世紀初から、中国南朝の梁と密接な関係を持ち、新たな国際秩序を形成していた。その影響を受けて仏教が大きく流行した。即ち、北魏-高句麗の影響と楽浪の影響、更に南朝の梁の影響などにより多方面で複合的な文化を受容し、それが新羅と日本に伝播されたのである。即ち、扶余遷都の年(552)年に日本へ仏教を伝え、541年には梁にも毛詩博士・仏書・工匠・書師を請い、577年には日本に律師・造仏工・造寺工などを造っているという。

菩薩半跏像 百済(7世紀) 通高93.5㎝ 金銅 ソウル、国立中央博物館蔵
『世界美術大全集東洋編10』は、弾力ある童顔のモデリング、子どものようなかわいい手、平らな胸、細い腰をした少年の姿。
金銅造と木造との違いはあるが、京都、広隆寺の像との類似が指摘されている。三山冠をつけていること、胸と腰の処理、膝および裙衣の処理、倚坐の両横に垂れる装身具は同じである。しかし、広隆寺の像は童顔ではなく青年の顔であり、顔も明るい微笑ではなく、深い瞑想にふけり、全体の雰囲気も静的であるという。
榻座は小さく、長い裳裾が床まで懸かっている。反花は見えないが、左足が小さな蓮華座にのる。反花は複弁で、蓮台は前側が低く、後ろ側が高くつくられており、その上、裳裾に触れる箇所は蓮弁が翻っている。
広隆寺の半跏思惟像は、百済の菩薩半跏像によく似ているが、大きく異なっているのはこの蓮華座の有無である。

新羅
『小金銅仏の魅力』は、高句麗と百済は王室において仏教を早くから受け入れた後に、民衆の間に徐々に拡大したが、新羅では、民衆の間に仏教が広く伝播した後に、その勢いに追されて王室が仏教を公認することになった。それが法興15年(528)であるという。

思惟半跏像 銅造鍍金 新羅(7世紀)  通高17.1㎝ ソウル、国立中央博物館蔵
『世界美術大全集東洋編10』は、この像は、高句麗や百済の思惟半跏像に比べて変形・図式化されている。右側の膝を下から力強く押し上げねばならない。衣端も平凡で、天衣の衣襞も図式化・単純化されている。身体のモデリングも弱く、上体は偏平で、腕もパイプのようで、身体細部の変化もなく、全体的に古拙さが感じられる。顔と上半身を大きく倒した姿勢、図式化した様式など、新羅的特徴をもっともよく示している作例であるという。

上図では裳裾が床まで垂れているが、この像は榻座と左足をおく蓮台の下部が一体でつくられているが、どこにも蓮弁の痕跡がない。

韓半島三国時代には、これらの他の半跏像にも、左足を置く小さな蓮台だけで、蓮華座ははなかったのだろうか。

法隆寺献納金銅仏158号 三国時代(7世紀) 20.3㎝
『法隆寺献納金銅仏展図録』は、右手第一指を掌の一部と共に別鋳鋲留とするほか、台座を含む略全容を一鋳とし、鮮やかな鍍金が前面に施されている。宝冠、垂髪、裳なども大胆に意匠化され、全体に平明簡素な印象を与え、半跏思惟像中異色の作風を示している。朝鮮三国時代に制作されたものであろう。この様な作品が手本となって、わが国の飛鳥彫刻が制作されたと考えられる貴重な作例であるという。
別鋳あるいは木製か何かの蓮華座があったのだろうか、この像自体には蓮弁は見当たらない。
右側面から見ると、裳懸座の前面は直線的だが、背後は丸みを帯びている。
背面は半円形で、榻座という丸椅子に掛けた布の表現も、下側は前面同様二段の規則的な折り返し、その上は彫りの深い波状の線となっている。

蓮華座のある菩薩半跏像を見付けた。

菩薩半跏像 百済(7世紀) 高さ11.0㎝ 銅造鍍金 伝忠清南道公州寺址石塔内発見 東京国立考古博物館蔵
『法隆寺日本仏教美術の黎明展図録』は、公州はかつて熊津といい、475年から538年まで、三国時代の百済の都であった。伝えが確かであれぱ、百済の王都周辺の寺院に安置された由緒正しい作品ということになるという。
蓮華座は高さはないが、足を置く蓮台ともに大きな素弁の受花である。法隆寺献納金銅仏でいうと、150号如来立像(7世紀)の高い蓮台の素弁と雰囲気が似ている。

立像の蓮華座は、

高句麗
如来立像 延嘉7年(539) 総高16.2㎝ ソウル、韓国中央博物館蔵
『小金銅仏の魅力』は、韓半島の最古の仏像。平壌に遷都してから100年余の延嘉7年の銘を光背裏に刻む北魏式の金銅如来立像である。舟形の火焰光背と高い框を持つ蓮台ともに全体が一鋳で、蓮肉部も高い。螺髪は賽目に刻み、面長な顔で、胸前を広く開けた中国式通肩の厚手の大衣の端を左腕にかけている。大衣は体側で魚鰭状を成しているという。

素弁の反花のみ。
高い蓮肉といい、その上に乗った如来の足といい、法隆寺金堂釈迦三尊像脇侍のものとよく似ている。反花は框へとかなりの斜度で反り返っている。この点が同釈迦三尊像脇侍の蓮華座と異なる点だ。

百済
菩薩立像 6世紀中葉 通高11.2㎝ 忠清南道扶余郡軍守里廃寺木塔址出土 ソウル、国立中央博物館蔵
『小金銅仏の魅力』は、頭に大きな三花(さんか)と思われるものを乗せ、冠の太い飾帯を肩まで垂らし逆火頭形の頸飾をつけ、顔は方形に近い丸顔に目鼻を明確に表し、交叉する天衣も太く明瞭で左手はこれまでと異なってハート形の宝器を下げる。体軀は短めで、両足は伏蓮三段重ねの蓮台にしっかりと立っているという。
持物や頸飾は、北魏時代から見られるものだ。顔は東魏風かなとも思ったが、少し異なる。
素弁の反花が三段にもわたって表現されるのは珍しい。段数は少ないが、法隆寺金堂釈迦三尊像の光背に数体表された化仏の蓮華座は、この蓮台に一番近いかな。 

新羅
金銅薬師如来立像 6世紀後半-7世紀初期 高さ12.8㎝ 大和文華館蔵
同書は、頭部に螺髪なし。後頭部に大きな枘あり。背面にも衣文を表す。全体に北魏様式を受けた四角張った像容で、腰をわずかに左に捻る。右手に薬壺のようなものを持つ。このようなタイプの像がこの時代に流行した。大らかな蓮台が時代の古さを示しているという。
蓮台はほぼ下降する、膨らみのない素弁の反花に覆われる。

高句麗
金銅一光三尊像 平原33年(571)「景4年在辛卯」銘像 高さ15.5㎝ 黄海道谷郡出土三 ソウル、個人蔵
同書は、両脇侍のみが光背と同鋳で、その両脇侍が東魏-北斉風に宙に浮いたように表される。大衣も古式の左右相称だが、衣端の張りは鈍く柔らかくなっているという。

如来は高い蓮肉の上に乗り、反花も、取りつけた蓮弁もない。おそらく別鋳の反花に差し込まれていたのだろう。
両脇侍の蓮華座は素弁の反花となっている。「宙に浮いた」ように作られているので、中尊と同じ蓮華座にはできなかったのかな。

百済
三尊仏立像 6世紀 金銅 鄭智遠銘 忠清南道扶余郡扶蘇山城出土 高さ8.5㎝ ソウル、国立中央博物館蔵
『世界美術大全集東洋編10』は、延嘉7年銘像より多少柔らかくなり、装飾化が進んで細やかとなった像で、東魏・西魏、また北斉(550-77)・北周(557-581)初めの様式であり、中国との交流の重要な証拠となっているという。
蓮台は框に向かって広がり、蓮弁が上部に一段刻まれている。その下の半球形の大きな台は安定させるためのものだろうか。
脇侍の台座は不明。化仏は蕾のような蓮華座に坐している。

法隆寺献納金銅仏143号如来及び両脇侍立像 左脇侍蓮華座 7世紀 銅造鍍金 中尊28.1左脇侍20.9㎝
蓮肉が少し見え、すぐに下に大きな蓮弁を垂らす反花となっている。蓮弁は素弁で、その稜ははっきりしない。台座とは別鋳だったようだ。
『法隆寺日本仏教美術の黎明展図録』は、舟形光背と通称される大きな蓮弁形の光背の前に、如来及び両脇侍の三尊像が立つ、いわゆる一光三尊形式の作品。従来より、朝鮮半島三国時代、とりわけ百済との関わりにおいてとらえられることが多いという。
三尊像の台座下部が後補(『法隆寺献納金銅仏展図録』より)ということで、当初の蓮華座はどのようだったか分からない。中尊は高い蓮肉の上に立ち、両脇侍は半球状に膨らんだ素弁の反花の蓮華津に立つ。
光背には見える範囲で5体の化仏が取りつけられている。化仏はパルメットと共に茎で繋がっていて、その蓮華座は開きかけた蓮華のような形になっている。

法隆寺献納金銅仏にときどきみられる、着衣や蓮華座の縁に打たれた複連点文は、今回参考にした韓半島の6-7世紀の仏像にはなかった。

    蓮華座3 伝橘夫人念持仏とその厨子←  →蓮華座5 龍と蓮華

関連項目
蓮華座1 飛鳥時代
蓮華座2 法隆寺献納金銅仏
蓮華座6 中国篇
蓮華座7 中国石窟篇
蓮華座8 古式金銅仏篇
蓮華座9 クシャーン朝
蓮華座10 蓮華はインダス文明期から?
蓮華座11 蓮華座は西方世界との接触から

※参考サイト
新羅時代の半跏思惟像

※参考文献
「法隆寺献納金銅仏展図録」 1981年 奈良国立博物館
「図説韓国の歴史」 金両基監修 1988年 河出書房新社
「世界美術大全集10 高句麗・百済・新羅・高麗」 1998年 小学館

「小金銅仏の魅力 中国・韓半島・日本」 村田靖子 2004年 里文出版