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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2018/10/19

岡山高梁 備中松山城


NHK「趣味どきっ! おとなの歩き旅」の備中松山城編を見て訪ねてみたくなった。
「高橋」ではなく「高梁」という文字にも惹かれるものがあったが、以前は町の外側、高梁川に沿う国道180号線を通り過ぎただけで、いつか行ってみたい町で終わってしまう気がしていた。
それがこの放送のおかげで、松山城にも興味がわき、同じく和気町で催されていた田上惠美子氏の硝子展とひっかけて出かけることとなった。

高速岡山道賀陽インターを下りて、赤や黒の釉薬のかかった屋根を見ながらカーブの多い地帯に展望台が2箇所ほどあった。
そこから見えたのは高梁川、高梁の町、それを縦断する伯備線、そして右前方に聳える臥牛山。
鞴峠にあった説明パネルは、古くは「松山」と呼ばれていたが、江戸時代に入り、牛が伏せた姿に似ていることから「臥牛山」と呼ばれている。北から大松山・天神の丸小松山・前山の4つの峰からなり、東北の一部が連なるほかは、そそり立つ断崖を要した天然の要害という。
ただし西側から見た場合のことなので、ここからは分かりにくい。
臥牛山の樹木の間に松山城が顔を出していた。
最後にループ橋を通り、町へとどんどん下っていく。
国道180号線に出て、ほぼ町の北端の交差点から町に入り、案内通りに狭い道を通っていくと、木製のガードレールが続く。
やがて石垣が整備された中州公園内を通り、
山道に入ると間もなく係員の案内で鞴峠Pではなく、シャトルバス乗り場に誘導された。
バスは休日には10-15分間隔で運行され、
離合不能の狭い山道へ。

鞴峠Pで下車。標高290m。
ここの駐車場は狭いので城見橋Pでシャトルバスに乗り換えるようになっているらしい。往復400円。所要5分程度。
今回は標高430mの小松山城を目指すが、同番組では、ずっと奥の標高445mの地点にある大池まで行っていた。
説明パネルは、地元では「血の池」と呼ばれ、人の首や戦で使われた刀を洗ったと伝えられる。別名「首洗いの池」。山中に数か所ある水利(井戸や溜井戸)のうち最大のもので、総石積の人工池。日照りが続いても渇れないよう屋根がかけられ、小舟が浮かべられたという江戸時代の記録が残るという。
遊歩道へ。
迂回路らしい。
歩き出しはまず数段の下りから。
緩い上り坂をジグザグに足を進める。ブナの木かな?根元から分かれて細い幹がたくさん出ているのが珍しい。上に車の通る道のガードレールが見えて、
その下のコンクリートの壁に沿って行くと、車の通る道からの迂回路と合流する。
ここの緩い石段や登山道は砂にコーティングされた面になっていて、反動がごんごん響かないので足に優しい。
途中の崖の状態。
ゆっくりと登ったので、同じバスの人たちは先に行ってしまった。
それでも8分ほどでここまできた。見えているのは中太鼓櫓跡。
その石垣
中太鼓櫓跡へ。河原の破片が散乱している。
高梁川と高梁の町並みを展望できる。
そして左遠方の賀陽インターから高梁へと向かった道も。

登り再開。やや平たい道から階段へ。
岩をも砕く松の根
何故かここだけ岩が露出している。

などと木陰を歩いてくると小松山城の大手門前に着いた。
説明パネルは、小松山の山頂を中心に築かれた近世城郭。一般に「備中松山城」と呼ばれるのは、この小松山城を指し、天守の現存する山城としては随一の高さを誇る。城内には天守・二重櫓・土塀の一部が現存しており、平成6年度から、重要文化財を中心に本丸が復元整備され、本丸南御門をはじめ東御門、腕木御門、路地御門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが史実に基づいて復元されているという。
突然石垣が群をなして迫ってくる。
右前方には岩が。同番組で「天然の岩を利用して石垣を積み上げた」と言っていたがこのことだったのか。
これを見たくてやってきた。
大手門を入って土塀近くからは、石垣の重なりとその右手の岩の連なりが望める。

大手門の中へ。ここが枡形になっていて、敵が攻めてきた場合、四方から攻撃して侵入を食い止めるような構造になっている。
正面の土塀。
高梁市のホームページにある備中松山城の見どころは、大手門跡をはいり、左に曲がると土塀が見えてきます。正面に見える部分が現存している土塀で国の重要文化財に指定されている。表面は修理によってきれいになっていますが、中は昔のままです。重要文化財に指定されているのは一部で、右側は現存の土塀を参考に復原したものです。狭間などの配置も参考にして造っています。現存部分と復原部分は段を設けることで区別していますので、現地で確認してみてくださいという。
のところです。
塀の辺りから振り返る。奥の石段右側は足軽箱番所、門を挟んでこちら側には大手櫓があった。
復元された土塀が続く。
とりあえず外を覗いては見たが、木が邪魔して景色は望めない。
登るに違って石垣が低くなり、ずっと上方まで石垣が段状に積み重なって見えてきた。
この石垣の上は三の丸。足軽番所と上番所があった。
崖側には三の平櫓跡、
続く厩曲輪の石垣は
こんな風に続いていて、ここからも石垣の重なりが満喫できる。
右に折れる。左上の石垣の開口部は黒門跡
その上には四の平櫓跡
この石段の先には
二の丸になっていて、左の石垣には、「城内で最も古い石垣です。大きな自然の石材を使用した野面積みの石垣です」というパネルがある。
この石垣を回り込む。
右手には大手門から見上げた石垣と岩の上の土塀。「二重櫓、江戸時代(1683年修築)」とある。二階建ての櫓跡ということらしい。
そして左側の石段の先に小松山城が見えてきた。ここに二の櫓門があった。
上がって左に「備中松山城復古図」というパネルがあった。
大手門前のパネルの部分の方が見易いかな。

本丸南御門への石段から
本丸に入ると小さな天守閣が岩の上にあった。
本丸の左手、八の平櫓跡に行って見ると、
高梁川を見下ろせた。

天守の入口にしては簡素だなあ。
入ったところにこんな説明板が。接続廊下に入ったのだった。
また、こんな説明板もあったので、
奥の窓へ。
これが石落とし(鰓形窓)。
北に小さな開口部があったのでのぞくと小さな建物が。
急な階段を登ったところが天守の一階。
破風板などの展示のほか、様々な説明パネルがあった。
本丸立絵図と平断面図を合成

高梁の町の正保絵図
御根小屋の復元模型と現在の高校の写真パネル
説明パネルは、御根小屋とは藩主の居館と備中松山藩の政庁を兼ねた建物である。備中松山城が臥牛山山頂に位置するという地形的な条件から、通常の政務は山麓の御根小屋で行われ、実質上の「城」としての機能を果たしていたものと考えられる。
創建時代は不明であるが、天正3年(1575)の備中兵乱によって焼失したといわれていることから、それ以前に造営されたものであると思われるという。

そして現存する土塀の解体時の写真など。
あまりにもすごい色なのでモノクロにすると
天守閣の中に囲炉裏?
説明板は、板石造り、長さ1間、幅3尺、籠城時の城主の食事、暖房用に用いられたと言われている。
天守閣の中に切りこみの囲炉裡があるのは全国でも珍しい。これは戦国時代備中の首都として、この城の激しい争奪戦が幾度も繰り返された経験から生まれたものであるという。
一階の北西の窓からも奥の建物が見える。

一階の幅や梁など。
二階への階段もかなりの傾斜。昔の人たちは足腰が達者だったから、こんな傾斜で普通だったのだろう。

二階の構造。

隅の構造
高梁の町を見下ろす。

外に出て、天守の裏側へ。
東面から
土塀に沿って回り込むと、
門は鍵が掛かっていた。
その左から見えたのが二重櫓。天守閣からも見えた建物だが、中には入れない。

本丸に戻って、
本丸東御門

本丸を出て北の方へ。
本丸東御門を外側から。
搦手門曲輪あたり。柵のところが搦手門跡。
前方に番所跡の石垣が迫ってきたところで本日の見学は終了。

     田上惠美子氏の硝子展←        →岡山高梁 頼久寺

関連項目
津山 津山城(鶴山公園)

参考サイト
高梁市のホームページより備中松山城の見どころ