お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、南イタリアの旅を再開しました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2021/06/25

石の宝殿の正体


石の宝殿を周囲の崖から眺めると、建物が横倒しになったように見える。

『石の宝殿竜山めぐり ガイドブック』(以下『ガイドブック』)では、「浮石と歴史考察」で、西谷真治氏の実測図に浮石の彫り出し方を紹介されている。
 東側の彫り込み 深さ約1.8m。浮石を東側に倒すときに回転しやすくしている
 浮石と台座との境目 全周にわたって縁が切れている
 この境目から浮石の設計行程を考えたのでは
 西側の切れ目に楔を入れる為?の凹部がある
 南側 浮石の倒れ防止のためか、直方体のかまし板あり
西谷真治氏の実測図 『石の宝殿竜山めぐり ガイドブック』より

もう少し詳しい図も載っている。
1 南東部の上部角を基点に彫り込む
2 浮石の上面をまず削り出す
浮石の推定彫り出し図 『石の宝殿竜山めぐり ガイドブック』より

3 矢を打ち込んで岩をはがしていく
  矢は30度ぐらいの角度で打ち込む
矢を打ち込む図 『石の宝殿竜山めぐり ガイドブック』より
 
  岩をはがす要領で独特の波状の痕跡が残る
波状の痕跡というのは周囲の岩に見られるものだと理解した。

そして、建物の形だとすれば、不思議なのは屋根の上の三角の突起。これは起こす時に、繩を掛けるためのものではないだろうか。家形石棺の四方に飛び出している縄掛け突起のように、もっと縄が引っかかり易い形に削ることになっていたと思う。

横口式石槨説
『古代からのメッセージ 播磨国風土記』(1998年、以下『播磨国風土記』)は、この石の宝殿はじつは、横口式石槨を途中で放置したもの、中断したものです。石槨というのは、古墳のなかで棺を収めるための石造の施設です。
石の宝殿は上の方に木が茂っていまして、どうも穴があいているようなのです。横口式石槨というのは横に入口があって、そしてずっと掘り込んでいるものですからそれはなぜ上に穴があいているのか、石屋さんに聞きますと、石を細工する場合に横向けまつすぐ掘り込んでいくのは非常にむずかしいのだそうです。かならず上から下へ掘り込んでいって、そして最後に横倒しするのだそうです。
この石の宝殿も、屋根が横向きになっていることからもわかりますように、上から下へまっすぐ掘り込んでいって、それが完成すれば底を切り離して、そして横倒しに立てる。そうするとそうすると横口式石槨になるわけですね、そこまでいかないうちに中断してしまってしまったために、いまのような奇妙な姿で残されたわけですという。

以前から横口式石槨と推定されてきたものに、益田岩船がある。
『石宝殿 古代史の謎を解く』(以下『古代史の謎を解く』 1996年)は益田岩船について、橿原市の見瀬丸山古墳の西方1.5㎞ばかりの低い丘陵上に、遠くからでも眺められる形で存在する。この妙な巨石が、石宝殿と最も似た形をしていることは、以前から注目されていた。
山側に屋根部を向け斜面下方へ底の方形部を向けている点まで似ている。益田岩船の方は現在上面に向いている半面だけが加工されている点が違っている。また形も、石宝殿は胴部がほぼ正方形であったのに、岩船は長方形である。現在上面になっている部分の幅は約7.8m、現状では高さに当たる一辺が約6m、傾斜した屋根の先端までの長さが約6.6mで、下半の未加工部分は全体に広がっているという。
奈良県橿原市益田岩船  『石宝殿 古代史の謎を解く』より

もし起こしたらどうなるのであろうか。『古代史の謎を解く』でそんな画像も用意されていた。
全体形の屋根だけでなく、胴部に浅いが幅広い溝状の掘りこみがめぐらされている点までも同じである。溝幅160㎝で、この大きさも石宝殿と共通する。ただこの溝の屋根形部分側には一段、段がもうけられている天は異なる。また、この胴部へめぐらされた溝の中に、2つの方形の穴がきざみこまれているのである。この穴は、面に直角に、二つ並んで彫られているが、両穴とも120㎝の方形で、穴と穴の間は142㎝であるという。
なるほど益田岩船は石宝殿とよく似ている。もし私が考えたように、横倒しから起こすために、頂部に縄掛け突起もあるのかな。
益田岩船と石宝殿を引き起こした図 『石宝殿 古代史の謎を解く』より

また、石の頂面および穴の内壁は堅い岩を平滑に仕上げているにもかかわらず、底面は荒削りの粗面を残していること、また底面は一方に傾き、その四周には幅約5㎝、深さ約3㎝の溝がうがたれていることを知った(天理大学報の西谷氏報文より)。
つまり、穴の頂面奥の部分は仕上げられていないという。
こちら側は岩の表面を格子状の線がおおっているが、岩の風化が進んでできたものというよりは、人工的に刻んだもののよう。
JAPAN GEOGRAPHIC奈良県橿原市 益田の岩船というページには、別の面にも部分的に同じような格子状の線刻があるのが、豊富な画像で紹介されている。
奈良県橿原市益田岩船  『石宝殿 古代史の謎を解く』より

② 牽牛子塚古墳 伝斉明天皇の墓 661年(没年) 径15m高さ約4m 奈良県高市郡明日香村
『古代史の謎を解く』は、益田岩船の南東約1㎞ばかりの丘陵上に、外形はあきらかではないが現状では高さが5m、径が15mばかりの墳丘が見られる。この中に、二上山産の巨大な一つの凝灰岩塊を刳り抜いて作った石槨が存在する。この石槨は入口が一つで、奥は間仕切りをもって二つの石槨に区切られ、石槨下面には棺台まで彫り出された精巧なものである。ともに大きさは長さ2.1m、幅1.2m、高さ1.3mであり、棺台の大きさは長さ1.9m幅0.8m。入口は南面しているが、これの大きさは幅1.4m、高さ1.2mで、長さは0.6m、この入口には金具付きの石の蓋が存在した。また、入口の外方には切り石の短い羨道状の部分があり、ここにも大型の平石で扉のような蓋石が存在していた。
この古墳は最近も整備のため一部調査されたが、ガラス玉、七宝の金具、漆で塗り上げた夾紵棺(乾漆)棺片などが発見されており、わずかながら人骨も出土していた。
これだけのものを、播磨に比較すれば近いとはえ二上山からこの丘まで運んでいるのである。明らかに墳墓として使用され、ほぼ時代も分かり、しかも運搬されたことの明瞭な、一個の巨石から作られたものであることで、最も注目されるという。
その後解体調査されて、斉明天皇陵と推定された八角形の終末期古墳とされている。
大和古墳探索牽牛子塚古墳に詳しく紹介されています。
益田岩船が横口式石槨なら、最終的には内部はこのようになっただろう。
牽牛子塚古墳石槨内部 『飛鳥の古墳-飛鳥の黄泉の世界-飛鳥の考古学図録②』より

③ 鬼の雪隠、俎  明日香村野口
『古代史の謎を解く』は、この妙な石造品が、本来は俎の上に雪隠がかぶさる形となる一個の大型の横口式石槨だということは、すでによく知られている。花崗岩をみごとに加工している技術は、益田岩船に通じるものである。
石槨の内法は長さ約2.7m、幅1.5m、高さ1.3mで、こうした形のものは7世紀後半頃のものと考えられているという。
数十年前に見学した時は横口式石槨というのを知らなかったので、石棺の身と蓋だと思ったのだった。それが今になって上下逆だったこと、しかも石の宝殿がこれと同じ類いのものかも知れないことなどを知った。
奈良県明日香村鬼の雪隠  『石宝殿 古代史の謎を解く』より

④ 河内の石宝殿 7世紀後半
同書は、髙良神社のすぐ東側山中に、全く封土を失った横口式石槨がある。構造は、雪隠、俎や御坊山などと全く同じで、石材も同様に花崗岩である。
入口には、内面が平らに加工された切り石が両側に一枚ずつ立てられて羨道部を作っている。この羨道側石の上面は両側同じ高さで水平に加工されているので、かつては切り石状の天井石が存在したものであろう。石槨内法の長さ約1.8m、幅約0.95m、高さ0.7m弱であるが、他の場合と同様、入り口部分に閉鎖のための構造がある。ただ、この閉鎖は片開きの石扉であったのか、入り口の一方の上部にだけ丸い凹みがつくられている。同じ宝殿の名前だが、こちらの方は外形に加工はなく、上から覆っている石も3.3mに高さ2mばかりのもので、一段と小さいものであり、用途も明らかなものであるという。

『播磨国風土記』は、屋根が横向きになっていることからもわかりますように、上から下へまっすぐ掘り込んでいって、それが完成すれば底を切り離して、そして横倒しに立てる。そうするとそうすると横口式石槨になるという。
それなら、この石の宝殿も、最初は縦になっていて、石槨を下に彫り込んで、その後横に倒したはずで、それなら横倒しにするまでは、石宝殿のように頂部に縄掛け突起があり、倒した後に出っ張りを削ったのでこんな形になったのかも😎
大阪府寝屋川市打上河内の石宝殿 『石宝殿 古代史の謎を解く』より 

『古代史の謎を解く』は、この石造品は、すでに岩盤から切り離すばかりに底面が作られている。とすると、たとえ家形以外の形を作る目的があったとしても、現在位置に置くことは意図していないことを示している。このように考えてくると、やはりこの物体は現在位置からは動かすもの、そうして第一印象どおり「屋形」を作ったものと思われるという。

同書は、石宝殿は運ぶべく意図してここまで作りながら、何故運ばれなかったのか、最も大きな疑問であろう。運べないから放棄したのではなく、もっと他の理由で放棄されたとしか考えられないのである。 竜山石石棺のあり方を検討した結果、この石で作られた長持形石棺は、まさに中央権力の象徴でもあったし、石宝殿の時代に近づけば、特殊な加工をほどこした立派な石棺が大和に運ばれ、これも大和政権と強くかかわった者の棺と思われるものであった。またその頃は巨石を動かし、石材を美しく切って加工することもしばしばで、これなどもみな中央権力に関係したものであったと推測された。 ともかく大和の中枢の権力の座に近いものからの要求で作られたことは、まず間違いないのではなかろうか。私たちはこの巨石が運ばれる先は大和内か、さもなくば南河内郡の太子町あたりでなければならないと考えているという。 

太子町では昨秋叡福寺古墳(伝聖徳太子墓)や磯長谷古墳群を見学した。叡福寺北古墳は当時の王族の墳墓とされる八角形だが、横口式石槨ではなく横穴式石室である。 それにしても、この辺りに石宝殿が横口式石槨として運ばれた可能性があるとは🙂 

同書は、多くの古墳の中で、特定の大型古墳の外形が方形を取るようになるのは、6世紀末頃からと考えられている。この傾向は、蘇我氏が中央政権の主導権を握った時とも一致するだろう。 ところで、古墳の外形が再び変わるのが天智陵からといわれ、天武・持統合葬陵では明瞭に、いわゆる八角墳になっている。天智の死は壬申の乱直前であり、この頃に、王者の墓の理念に一つの変化が見られるのも当然であろう。仏教的要素が墳墓に加わったと考えられているという。
天武・持統合葬陵(7世紀後半)は野口王墓とも呼ばれてい。当然八角形墳である。

また同書は、内部構造の方は、伝聖徳太子墓とされる古墳や、岩屋山式といわれた切り石の整った横穴式石室や、その系譜を引くと考えられている一連の切り石の横穴式石室が、少なくとも7世紀の前半から中頃には存在したと考えられている。ところでお亀石古墳に見られたように、7世紀の初頭から、一棺だけ納められるような横口の石槨墳が現れており、この種のものの出現は特に河内に早いようである。この横口式で一棺納置の形態は高松塚にもひきつがれている形で、7世紀いっぱい、あるいは8世紀初頭まで続いているといわれているという。

そして同書は、7世紀の古墳の状況から見たまとめであるが、6世紀末から7世紀前半という時代は竜山石製石棺が最も多く、大和やその周辺に見られた時でもあり、巨石を用いた古墳や切り石を用いた古墳や切り石を用いた古墳が作られる一方では、単葬墳的傾向の古墳も出現していたのである。7世紀後半になると、これらのものも一定の形式化が始まるのではなかろうか。古墳はわずかな特定のものを除き消滅するが、画一的に縮小化が進む時代である。
こうした歴史的な状況から見る限りでは、用途不明であり、しかも竜山石製であるというような巨大な石製品は、7世紀も中頃までには製作が始められていたものと見るのが、最も合理的に思われるのである。石宝殿は、少なくとも物部守屋より後で、大化改新より前に刻まれたものではなかろうかと推定したという。

つづいて同書は、古墳の外容そのものへ仏教的要素を加えるのは、天智陵が八角形をとることから、これが八角堂を表現するものと考えられ、この頃に始まると考えられている。石宝殿・益田岩船は天智陵ょりやや古いかも知れないが、両者が当時新しく行われ出した横口式石槨に加えて、同時に氏族の供養堂的なもの、または宗廟的なものとしての性格をもちながら、なおかつ墓には巨大な石を用い、棺形とか石室内部を家形にする思想も忘れ去っていない中に生まれ出た特殊な形態の墓なのではないだろうか。全く先駆的な思想として、墳墓と堂塔をミックスしたものを生み出したのだと思うという。  

結論として同書は、石宝殿も益田岩船もなぜ完成されなかったのか。石宝殿が、おそらく「飛鳥時代のもの」で、「中央の最高権威」によって計画され、、そうして「放棄せざるを得なくなった」という条件を満たすものを考える時、そこにはどうしても大化改新で葬られる蘇我氏の宗家一統が打ち消すことのできない姿となって現れるのである。
ところで、蘇我氏の墓としては、『日本書紀』によれば、馬子は桃原墓に葬され、蝦夷・入鹿は生前に今木に双墓を造ったとされる。これらの墓をどこに比定するかさえ、いろいろな説があるのである。
蘇我蝦夷・入鹿が殺され、大化改新という歴史的な事件が、まず疑いなく実在する限り、また石宝殿も益田岩船も、製作途上で放棄せざるを得なかったのだと思うのであるという。

このように間壁忠彦氏は石宝殿は蘇我蝦夷・入鹿一家の滅亡によって放棄された横口式石槨であること。「双墓」は石宝殿と益田岩船を並べるつもりだったと結論されている。 
確かに、これだけの大きなものを彫り出し、加工して運ばせるには、その時の相当な権力者でないとできないことだっただろう。
でも、蝦夷や入鹿の墓にするつもりだったとは予想もしないことだった。

法華山一乗寺の三重塔

関連項目 

参考サイト 
JAPAN GEOGRAPHICの奈良県橿原市 益田の岩船 大和古墳探索牽牛子塚古墳

参考文献
「石の宝殿神社史跡めぐり」 2020年 石の宝殿研究会
「石の宝殿竜山めぐり」  石の宝殿研究会 いずれもリーフレット
「播磨国風土記を歩く」 文・寺林峻 写真・中村真一郎 1998年 神戸新聞総合出版センター
「古代からのメッセージ 播磨国風土記」編者播磨古代学研究所 監修者上田正昭 1996年 神戸新聞総合センター
「石の宝殿竜山めぐり ガイドブック」 石の宝殿研究会 2020年改訂版
「石宝殿 古代史の謎を解く」 間壁忠彦・間壁葭子 1996年  神戸新聞総合センター
「飛鳥の古墳-飛鳥の黄泉の世界-飛鳥の考古学図録②」 編集明日香村教育委員会文化財課 2004年 (財)明日香村観光開発公社