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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2022/02/25

古市古墳群 陪塚


石棺についてあれこれ妄想していて、近つ飛鳥博物館の2020年秋季企画展「王権麾下の古墳とその被葬者」が古市古墳群の小規模墳についての特別展だったことを思い出た。

『王権麾下の古墳とその被葬者 古市古墳群の小規模墳』展図録(以下『古市古墳群の小規模墳』)は、陪家(ばいちょう)は、陪塚(ばいちょう・ばいづか)とも呼ばれる小型の古墳という。
その条件は
「従属性」 大型の古墳を「主墳」とし、それに従属するようにみられること
「近接性」 その周囲や隣接地に近接してみられること
「同時性」 主墳である大型古墳と築造時期がほぼ同時期であること
「企画性」 主墳に対して計画的に配置されたとみられる位置にあること
を満たすものとする。

また、古市古墳群や百舌鳥古墳群など、古墳時代中期の大型古墳群にみられるような、主墳との墳形や墳丘規模の格差が明瞭な陪冢は佐紀古墳群の佐紀石塚山古墳から出現すると考えられています。 そして、百舌鳥・古市古墳群で最も鮮明に陪冢の築造が認められると評価されています。
さて、陪冢の数が増加し、その主丘が円形の墓が目立つようになっていくその間、主墳の墳丘は墳丘長200mを超え続け、225mの墓山古墳から425mの誉田御廟山古墳まで、200mの差がみられます。一方陪冢は、いずれも50mを超えるものはわずかで、多くは50m程度かそれ以下ですという。
陪塚そのものではなく、主墳との形や規模が明瞭に異なる陪塚は、佐紀石塚古墳(4世紀末)から出現していた。

古市古墳群の地図(以下古墳名の前の○数字はこの図を参考にした)
『古市古墳群の小規模墳』は、古市古墳群は、藤井寺市と羽曳野市にまたがる4㎞四方の地域に、大小合わせて130基の古墳時代中期を中心にした古墳が造られています。特色は多数の大型前方後円墳が存在し、その古墳の多くが宮内庁により陵墓に治定されていることです。一方、巨大古墳の廻りには陪冢といわれているたくさんの中小の古墳があります。これらの中小の古墳には、発掘調査が実施され埋葬施設が判明したものもあります。
古墳時代は、古墳築造が社会の秩序を表現していた時代と考えられます。墳墓の形や規模の違う多数の古墳が密集して築かれている様子からは、古墳を築造できる被葬者の増加を知ることができ、当時の政治・社会での明確な階層や序列といったものをうかがうことができますという。
古市古墳群 『王権麾下の古墳とその被葬者』より


古市古墳群では仲津山古墳(4世紀末)の時代から陪塚が出現した。それは奈良の佐紀石塚古墳と大きく距たる時期ではない。


仲津山古墳(仲姫命陵古墳) 4世紀末(津堂城山古墳に後続) 前方後円墳 墳丘長290m、前方部幅193m、高さ23.3m、後円部径170m、高さ26.2m

円筒埴輪底部径 22-26㎝が多く、28-30㎝や30㎝を超えるものも

副葬品 勾玉

同書は、仲津山古墳(仲姫命陵古墳)は、古市古墳群北東、国府台地と呼ばれる低位段丘の高所に位置します。

くびれ部両側に造出しがあり、墳丘の周囲には幅が狭い盾形周濠と、さらに外側に幅が広い堤がめぐります。この堤を含んだ全長は、410m前後と推定されています。

埋葬施設は不明ですが、石棺があることや勾玉が出土したことが伝わります。

墳丘よりも外側堤の外側法面に葺石が施されていること、堤上の埴輪列が前方部南西側と後円部北・西側にあることが確認されています。

陪塚は2基(方墳・円墳)という。

藤井寺市仲津山古墳 4世紀末 『古市古墳群の小規模墳』より
 

鍋塚古墳 4世紀末 墳丘は2段築成、1辺63mの方墳に復元 仲津山古墳の陪塚 藤井寺市沢田

埴輪 円筒埴輪、蓋・盾・家の形象埴輪

同書は、鍋塚古墳は、仲津山古墳後円部の北東側に位置します。葺石が施されていたこと、周囲に濠がめぐっていたことが、これまでの調査で確認されています。

埴輪の特徴から、仲津山古墳とほぼ同時期の4世紀末の築造と考えられ、仲津山古墳の外堤に食い込むように位置していることからも、その陪冢と考えられていますという。

仲津山古墳の陪塚鍋塚古墳 4世紀末 『古市古墳群の小規模墳』より

2017年度の調査では、鍋塚古墳と仲津山古墳の中間地点で2本の円筒埴輪がみつかりました。据えられていたのは2本のみで、約60mの間隔をあけていました。周辺にこれ以外の円筒埴輪はなく、円筒埴輪が列をなす状況ではありません。また、埴輪の周囲には3-5m程の丸みを帯びた礫が散乱していましたという。

丸みを帯びた礫は葺石があったことを示している。

仲津山古墳と鍋塚古墳の位置関係 『古市古墳群の小規模墳』より

円筒埴輪の樹立状況
この2本の埴輪は、いずれかの古墳に帰属する可能性はありますが、その位置からは、両古墳共有であった可能性が高いといえます。この2本並んだ埴輪の具体的な用途は不明です。しかし、主墳とが一体的な設計のもと、築造された一例とすれば、その間を結ぶ地点に意図的に置かれたものと考えられますという。
近親者の墓の可能性も。
仲津山古墳と鍋塚古墳の間の埴輪樹立状況 『古市古墳群の小規模墳』より

誉田御廟山古墳(応神天皇陵古墳) 5世紀前半 前方後円墳 墳丘長425m、前方部幅300m、長さ213m、高さ36m、後円部径250m、高さ35m
葺石、円筒埴輪列
埋葬施設 竪穴式石室・長持形石棺(伝承)
同書は、古市古墳群最大規模の前方後円墳である誉田御廟山古墳(応神天皇陵古墳)は、墳丘の東側が低位段丘、西側が後背湿地で、間に誉田断層が位置します。前方部西側などの墳丘の乱れは、誉田断層を起源とする地震によるとの考えがあります。
墳丘の周囲には二重の濠と堤があり(墳丘側から、内濠・内堤・外濠・外堤)、それらを含めた全長は650mを超えます。
墳丘および内堤内側と外側の法面には葺石が施され、墳丘平坦面や内堤、外堤には円筒埴輪列がめぐらされていました。
副葬品は不明ですが、誉田丸山古墳出土の馬具を誉田御山古墳出土とする意見もありますという。
羽曳野市 誉田御廟山古墳 5世紀前半 『古市古墳群の小規模墳』より

その陪塚について『古市古墳群の小規模墳』は、5基以上(方墳・造出し付円墳・円墳)という。
誉田御廟山古墳と周辺の古墳 『古市古墳群の小規模墳』より


狼塚古墳(土師の里10号墳) 5世紀前半 陪塚 造出し付円墳 円墳の直径21m、墳丘長28mとの推定、周辺に残る地形から、円墳の直径46m、墳丘長50mと推定 被葬者不明 藤井寺市道明寺 

埴輪 円筒20-30㎝のものが標準 朝顔形、

形象埴輪 鶏・盾・家・水鳥形など、柵形埴輪


同書は、狼塚古墳は、誉田御廟山古墳の前方部北側、誉田丸山古墳と珠金塚西古墳の間、大鳥塚古墳南東側に位置します。標高24m前後の西から東へ下る低位段丘に立地しています。発掘調査により幅9m、長さ4mの造出しが確認されている。

葺石は、造出しの北側の法面、円筒埴輪列は造出しで確認されています。
大型で口縁部に突帯を貼り付け円筒埴輪が1点あり、埴輪列の要所への樹立が推定されています。 また、スカシが方形のものが1点みられますという。
誉田御廟山古墳の陪塚 狼塚古墳 5世紀前半 『古市古墳群の小規模墳』より

導水施設形埴輪
同書は、8点の柵形埴輪による方形の区画とその内部に配置された木樋形土製品から構成されるまとまりは、導水施設形埴輪とも呼ばれています。この埴輪は、造出し北側のくびれ部付近でみつかりました。8点の柵形埴輪は少しずつ形が異なり、うち1点には出入口が表現されています。その出入口は西側に向くように配置されていました。また、木樋形土製品は水が南から北、狼塚古墳造出し側から外側、大きくみると誉田御廟山古墳側から外側への流れを意識して配置されています。これらの配置は、主墳である誉田御廟山古墳を意識したものと考えられますという。
導水施設形埴輪というものを初めて見た。当時の生活の中でも最も重要と思われる水利施設を埴輪で造っていたとは。それにしても薄い器壁
藤井寺市狼塚古墳出土導水施設形埴輪-5世紀前半 『古市古墳群の小規模墳』より


アリ山古墳 5世紀前半 陪塚 2段構成の方墳 1辺45m、高さ4.5m 大阪府藤井寺市野中 
葺石・埴輪列 墳丘南側のみ、葺石は墳丘西側への屈曲にも
周濠 南側の東山古墳との間に幅12m 他は不明
中央埋葬施設 木棺直葬 周辺に鉄矛・鉄槍・鉄鏃・鉄斧などの副葬品
副葬品埋納用の施設 北施設 木板を用いた東西3.02m、南北1.38mの箱状の施設
              鉄鏃、鉄槍、鉄刀、農工具が3層に分けて埋納
          南施設 遺存状況が悪く構造は不明で、帯状鉄板が出土

『古市古墳群の小規模墳』は、誉田御廟山古墳の西側くびれ部付近の、標高約25mの低位段丘の東縁辺に位置し、南側には東山古墳が近接します。

アリ山古墳は古市古墳群の中でも墳頂部の調査が行われた数少ない古墳のひとつで、3基の施設が確認されています。

誉田御廟山古墳よりも少し前に築造された墓山古墳の陪家である西墓山古墳などと同様に、古墳時代中期の副葬品の特徴である鉄製品の大量埋納を端的に示す古墳で、陪冢の性格を考える上でも重要な視点を提供している古墳ですという。

藤井寺市アリ山古墳葺石と埴輪列 5世紀前半 『古市古墳群の小規模墳』より

円筒埴輪
同書は、出土した円筒埴輪は、底径26-32㎝を標準としますが、それよりもやや大きい36㎝程度のものや、22㎝程度の小さいものも少ないながらみられます。この円筒埴輪は、諸特徴が東山古墳のものとよく似ていますという。

アリ山古墳出土円筒埴輪・家形埴輪 『古市古墳群の小規模墳』より


東山古墳 5世紀前半 2段構成の方墳 東西57m、南北54m、高さ7.6m 陪塚 藤井寺市野中

濠 墳丘の周囲には幅3.5m程度の濠、墳上斜面には葺石

円筒埴輪 底径31-32㎝ 朝顔形埴輪

形象埴輪 蓋・盾・家・甲冑形

埋葬施設・副葬品 不明


『古市古墳群の小規模墳』は、東山古墳は、誉田御廟山古墳の西側後円部寄りの、標高約25mの低位段丘の東縁辺に位置します。北側にはかつて濠を共有するアリ山古墳が存在しました。

誉田御廟山古墳に面する墳丘東側には、濠や葺石がなかったと考えられています。また、濠の外堤内側の法面に葺石は施されていませんでした。墳丘平坦面では埴輪列が確認されていますが、後世の改変のため確認できたのは墳丘東側のみです。

出土した円筒埴輪は、墳丘での樹立位置による大きさの違いはないようです。この円筒埴輪は、諸特徴がアリ山古墳とよく似ています。主墳である誉田御廟山古墳とも類似点がありつつも、口縁部の特徴が異なるという点もみられます。円筒埴輪にも、主墳と陪冢の格差が表現されているのかもしれません。

円筒埴輪列には5基に1基程度の割合で朝顔形埴輪が立てられていたと考えられます。

墳丘の位置や出土した円筒埴輪などからアリ山古墳との密接な関係がうかがえます。一方、主墳主軸をはさんで対称に近い位置にあり、墳丘規模がやや小さい栗塚古墳とは、円筒埴輪の大きさや樹立位置、埴輪の内容、葺石の施工範囲などに違いがみられます。このような陪家の中の違いは、陪冢を考える上で様々な情報を提供しているといえますという。

東山古墳出土円筒埴輪 5世紀前半 『古市古墳群の小規模墳』より

栗塚古墳 5世紀前半 方墳 1辺約43m、高さ約5m 応神天皇陵陪塚 羽曳野市誉田

形象埴輪-鶏・蓋・盾・家・馬・犬形・人物・冠帽形・囲形

『古市古墳群の小規模墳』は、栗塚古墳は、誉田御廟山古墳の東側後円部寄りの、標高26m前後の低位段丘に位置します。墳丘部分は宮内庁により「応神天皇恵我藻伏崗陵 ろ号陪冢」として管理されています。2段築成と考えられています。

また、墳丘の周囲には幅7.5m、深さ0.7mの濠がめぐり、その外側の外堤上には円筒埴輪が並んでいたことがわかっています。墳丘の円筒埴輪列は不明です。葺石は、墳丘と外堤の内側の法面に施されていましたという。


葺石と周濠

栗塚古墳と周濠 5世紀前半 『古市古墳群の小規模墳』より

円筒埴輪列 底径45-50㎝

口縁部に幅が広い突帯を貼り付けている個体が多いことも含め、主墳である誉田御廟山古墳の埴輪と同じ特徴を持つとされます。なお、出土埴輪に朝顔形埴輪の破片が含まれないことから、埴輪列に朝顔形埴輪を樹立していなかった可能性が考えられますという。

栗塚古墳出土円筒埴輪列と埴輪 5世紀前半 『古市古墳群の小規模墳』より

冠帽形埴輪

冠帽形埴輪は、全国で11例しか確認されていない埴輪で、このうち古墳出土のものは7例あり、本古墳以外は前方後円墳です。また、各例とも1個体ずつの出土であることから、墳頂部など限定的に樹立されていたと推定されています。埋葬施設や副葬品は不明です。

円筒埴輪の大きさや豊富な形象埴輪など、小方墳としては本来持ちえないと考えられる埴輪が出土していることは、誉田御廟山古墳と墳丘の主軸が一致し平行関係にあることや、築造時期の一致という点も含め、密接な関係をうかがうことができる点で重要ですという。

栗塚古墳出土冠帽形埴輪 5世紀前半 『古市古墳群の小規模墳』より


墓山古墳と陪塚
『古市古墳群の小規模墳』は、陪冢には、主墳の外堤に食い込む、または接するよう企画的に配置されているものが認められます。また、主墳から離れ、配置に企画性が認めがたいものでも、副葬品の組成などからは陪冢と考えられるものがみられますという。
墓山古墳と陪塚 『古市古墳群の小規模墳』より

向墓山古墳 方墳
『古市古墳群の小規模墳』は墓山古墳の後円部側には、外堤に食い込むようにあります。その北辺の西延長は、主墳の後円部中心を通ることが指摘されており、周濠内には主墳の外堤へ続く陸橋状の施設が確認できるなど、主墳の築造に伴い企画的に配置されたと考えられます。

浄元寺山古墳 方墳
前方部正面の外堤には、向墓山古墳と同規模の方墳があります。この古墳の墳丘北辺の延長線も、後円部中心を通るとみられ、調査成果からは、主墳の外堤に接するように築造されていると考えられます。

西墓山古墳 方墳
浄元寺山古墳の南にあり、二つの古墳は、主墳の前方部側面の外堤ラインに並行するように築造された企画性が認められます。

野中古墳 方墳

後円部北側に離れて位置する。墓山古墳との位置における企画性が明確ではありません。出土する円筒埴輪や遺物の特徴からは、墓山古墳よりも新しい時期に築造されたと考えられます。しかし、他の陪冢と同形であることや、襟付短甲などの特徴的な副葬品、多量の武具を一括埋納していることなどは墓山古墳との強い関係がうかがえ、墓山古墳の陪冢であると考えてよいでしょう。



市野山古墳と陪塚


市野山古墳(允恭天皇陵古墳) 5世紀中頃-後半 大型前方後円墳 墳丘長230m、前方部幅160m、高さ23.3m、後円部径140m、高さ22.3m
円筒埴輪 底径25㎝前後、30㎝程度 
形象埴輪 蓋・盾・家・馬・犬形・人物
『古市古墳群の小規模墳』は、市野山古墳(允恭天皇陵古墳)は、古市古墳群の北東、仲津山古墳が立地する低位段丘(国府台地)の北東方向に位置し、前方部を北側に向けている大型前方後円墳です。
くびれ部の両側には前方部寄りに造出しがあり、墳丘の外側には二重の濠と堤がめぐります。また、墳丘南東側では外堤の外側に掘られた溝も確認され、陪冢と考えられる宮の南塚古墳の手前で途切れていると報告されています。この溝が全周するのかは不明です。

堤に葺石は施されていなかったと推定されていますが、古墳北西側、前方部前面の内堤外側法面では少ないながらも石材が確認できており、堤の一部に葺石が存在した可能性があります。

内堤上で円筒埴輪列は確認されていませんが、円筒埴輪や形象埴輪が出土しており、埴輪が樹立されていた可能性があります。墳丘内部の様相は不明で、埋葬施設や副葬品についてもわかっていませんという。

允恭天皇陵(市野山)古墳 5世紀中期-後半 『古市古墳群の小規模墳』より

同書は、市野山古墳の周りには、多くの小規模墳が確認されています。これらの古墳の時期は、未だ不明確なものもみられますが、市野山古墳と同時期かやや新しい段階の築造と考えられているものが多いとされます。
このことから、これらには多くの陪冢が含まれていると考えられますという。
允恭天皇陵(市野山)古墳と陪塚 『古市古墳群の小規模墳』より


衣縫塚古墳 円墳 径20m 前方部東側 墳丘が残る
兎塚2号墳 方墳 規模不明 衣縫塚古墳西
宮の南塚古墳 円墳 径40m 後円部東側 墳丘が残る
潮音寺北古墳 円墳 22m 宮の南塚古墳との間
小具足塚古墳 方墳 20m  後円部西

長持山古墳 円墳 径40m 後円部西
長持山古墳は阿蘇溶結凝灰岩製の石棺をはじめ、埋葬施設と副葬品が知られている貴重な古墳ですという。
 阿蘇凝灰岩の家形石棺などが出土している。詳しくはこちら

赤子塚古墳 造出し付円墳 径34m 後円部西
志貴県主神社南古墳(惣社1号墳)方墳、規模不明 墳丘残存せず
長屋1号墳(惣社2号墳) 墳形・規模不明 墳丘残存せず
長屋2号墳(惣社3号墳) 墳形・規模不明 墳丘残存せず
唐櫃山古墳 5世紀中頃から後半 帆立貝形墳 墳丘長59m、直径44m、高さ8mの円丘部(後円部)に、幅24m、高さ3mの突出部(前方部)が付く 陪塚 藤井寺市国府
墳丘 葺石・埴輪列
埋葬施設 円丘部中央に板石と川原石を使用した竪穴式石室。内法:長さ3.6m、幅1.1m

副葬品 石棺内にガラス玉

    撹乱土からは金銅製帯金具の装身具や金銅製三輪玉

    石室南端部 三角板鋲留短甲が2領、頸甲や肩甲などを装着して副葬

          短甲の内側や石室との間には衝角付冑、眉庇付冑、鉄鏃など

    石室北側 馬具類


石室南端部の三角板鋲留短甲が2領、頸甲や肩甲などを装着して副葬というのは、二人の人物が、短甲などを着けて副葬されていたと解釈して良いのだろうか。


同書は、唐櫃山古墳は、市野山古墳に接するように造られた古墳です。

墳丘の周囲には、馬蹄形の周濠がめぐる可能性があります。ただし、市野山古墳後円部側の外堤や濠との位置関係の詳細は、明らかになっていません。市野山古墳の外堤に築造された可能性、市野山古墳の後円部側には当初から外堤などがなかった可能性などが考えられます。市野山古墳と同じ5世紀中頃から後半に築造された陪家と考えられていますという。

市野山古墳の陪塚唐櫃山古墳 5世紀中頃~後半 『古市古墳群の小規模墳』より

内部にあった石棺は外に出されていました。石棺は阿蘇産出の溶結凝灰岩製で小口に掛け突起を持ち、蓋が家形になっていることから初期の家形石棺と考えられていますが、九州の舟形石棺に似ています。大きさは長さ2.14m、幅0.97m、高さ1mですという。

家形石棺への変遷についてはこちら

允恭陵古墳の陪塚 唐櫃山古墳出土 初現的な家形石棺 『王者のひつぎ』より

蓋(きぬがさ)形埴輪 
唐櫃山古墳出土蓋形埴輪 5世紀中頃~後半 『古市古墳群の小規模墳』より


兎塚1号墳 5世紀後半 造出し付円墳(帆立貝形円墳) 
直径36m、造出し幅17m、墳丘長43m 藤井寺市国府
円筒埴輪のほか、蓋・家・馬形・人物などの形象埴輪
埴輪棺2基、木棺墓3基

『古市古墳群の小規模墳』は、兎塚1号墳は、市野山古墳前方部の東側に位置する。周濠を含めると全長約50mに復元できます。

造出しの東斜面には葺石が残っており、多くの転落石もあることから、墳丘には葺石が施されていたと考えられます。埴輪の特徴から、市野山古墳とあまり時期の隔たらない5世紀後半の築造と考えられます。本古墳の南側には兎塚2号墳があります。

兎塚1号墳の周りには、南西側に接するように、埴輪棺2基と木棺墓3基が確認されており、2号墳の周溝内でも埴輪棺が1基みつかっています。 埴輪棺のうち、もっとも大きいものは、幅70m、長さ225mを測り、大型円筒埴輪と盾形埴輪を転用したものです。 小口部の閉塞には蓋形埴輪が使用されていました。掘方内から出土した須恵器から5世紀後半の築造と考えられています。なお、兎塚1号墳の南東側に位置する衣縫塚古墳の西側でも埴輪棺2基がみつかっています。

本古墳は市野山古墳の陪冢と考えられますが、ほぼ同時期にその周囲に造られた埴輪棺や木棺墓の被葬者とも強い関係性が考えられていますという。

兎塚1号墳 5世紀後半 『古市古墳群の小規模墳』より


長屋1号墳 円墳・2号墳 方墳  5世紀中頃-後半 大阪府藤井寺市惣社

『古市古墳群の小規模墳』は、長屋1・2号墳は、市野山古墳の前方部北東角付近に位置します。発掘調査では葺石を施した斜面がみつかり、円筒埴輪片などが多量にみつかりました。このことから、2基の古墳が推定され、北側が長屋1号墳(惣社2号墳)、南側が長屋2号墳(惣社3号墳)と呼称されています。

墳丘の大部分が発掘調査区外のため、墳形の詳細は不明ですが、葺石の基底石が若干曲線を描く1号墳が円墳、直線的である2号墳が方墳である可能性が指摘されています。両古墳の間には溝や堤の痕跡は確認できず、周溝はないと考えられています。

1・2号墳出土の円筒埴輪には、土師質のものと須恵質のものがあり、斑が認められるものはなく、窖窯焼成です。 底径20㎝以下のものが多く、底径30㎝弱のものもみられます。また、外面にタタキ調整の痕跡が認められる個体もわずかに出土しています。そのほか、数点の朝顔形埴輪や蓋・盾・家・囲形などの形象埴輪が出土しています。両古墳は埴輪の特徴から市野山古墳とほぼ同じ、5世紀中頃から後半の築造と考えられますという。

1・2号墳の葺石

市野山古墳陪塚長屋1・2号墳葺石 5中頃-後半 『古市古墳群の小規模墳』より


『古市古墳群の小規模墳』は、市野山古墳以後、5世紀後葉になると、陪冢の数は減少に転じます。岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵古墳)、野中ボケ山古墳(仁賢天皇陵古墳)、白髪山古墳(清寧天皇陵古墳)、高屋築山古墳(安閑天皇陵古墳)では、それぞれ1基(前方後円墳)となります。

この段階を過渡期として、それまでの数の多さや墳形のバラエティーがなくなり、1基の小型前方後円墳に限定されるようになることは指摘できそうです。多くの陪冢がみられた段階では、人体埋葬を伴わない陪冢があったことも推測できますが、陪冢の数の減少からは、その被葬者数が限定されていく傾向を読み取ることができます。この数が減少した段階の陪冢の規模は、50m前後で、多数の陪冢が築かれた段階の陪冢の中でも最大規模のものに匹敵する大きさです。一方、墳形はそれまで用いられていなかった前方後円墳であり、主墳との近しさも感じられます。

陪冢の被葬者像については、原初的な官僚層(西川宏氏)、最高首長権に連なる職務執行機関中枢を占める中・小首長の少なくとも一部(近藤義郎氏)、親族関係にある近親者ではなく活動の基盤となる在地を持たない直属の陪臣(辻苑学氏)、大王を補佐するごく少数の近臣、陪臣 (高橋照彦氏)など、様々な意見があります。 主墳の規模がその被葬者の権力の大きさを反映しているのであれば、それを反映した時々の拡大や縮小があると考えられますが、陪冢の規模に同様な拡大や縮小がみられないことから、その被葬者は主墳被葬者の権力の伸長に関わらないと考えられます。

このことから、被葬者の性格や職掌、階層、主墳被葬者との関係)が常に同じなのかは不明ですが、少なくとも血縁関係にある一族による造墓とは考えにくいと思われますという。



高屋築山古墳(安閑天皇陵古墳) 6世紀前半 前方後円墳 墳丘長122m、後円部径78m、高さ13m、前方部幅100m  

埋葬施設 不明、墳丘南側のくびれ部付近に横穴式石室が存在する可能性

副葬品 ガラス碗 サーサーン朝製 江戸時代に墳丘の盛土内から発見

『古市古墳群の小規模墳』は、古市古墳群で最後に築造されたと考えられる大型前方後円墳です。それまで古墳が築かれていた段丘から後背湿地を挟んだ東側の、高屋丘陵と呼ばれる中位段丘に立地します。

前方部が大きく広がります。左右非対称の墳形が特徴とされてきましたが、中世に城として利用されていることなどから墳丘の改変がみられ、その墳丘形態について再考の必要があると考えられています。葺石は墳丘全面に葺かれていた可能性があります。円筒埴輪列は不明です。墳丘の周囲には盾形の濠がめぐり、堤もあるとされますが、その規模は不明です。

なお、南約250mには高屋八幡山古墳(春日山田皇女陵古墳)がみられます。現状では1辺40m、高さ7mの方形ですが、墳丘長85mの後円部を南に向ける前方後円墳と推定されています。築造時期は、6世紀初頭と考えられます。

先に記した市野山古墳の後で高屋築山古墳が築かれるまで、岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵古墳)、白髪山古墳((清寧天皇陵古墳)、野中ボケ山古 墳(仁賢天皇陵古墳)などの大型前方後円墳が築かれたと考えられます。しかし、これらは市野山古墳とは異なり、陪家の数が大きく減少しています。そして、その傾向は高屋築山古墳でも確認できます。

高屋築山古墳では、その北東で、城不動坂古墳が確認されています。墳丘長34-36mの前方後円墳で、これ以外に陪冢と考えられる古墳はみられませんという。

高屋築山古墳と城不動坂古墳 6世紀初頭 『古市古墳群の小規模墳』より


城不動坂古墳 6世紀中頃 前方後円墳 墳丘長36m、後円部径19m、前方部幅19m 大阪府羽曳野市古市

周濠出土の埴輪 盾持人埴輪・家形・動物埴輪  

横穴式石室 石室前面に盾形・人物などの形象埴輪が配列されていた可能性

石室 扁平で小振りな春日山安山岩を積み上げた縦長の特徴的な形状の石室

   玄室長4.2m、幅1.6m、羨道長4.5m、幅0.9mを測る大型

   土師器壺、須恵器器台・高坏・提瓶・甕などが出土。

羨道 把手付埦、閉塞石から出土、百済系の陶質土器の可能性

石棺 凝灰岩製の組合式家形石棺の小口部分の底石が出土

『古市古墳群の小規模墳』は、城不動坂古墳は、近鉄古市駅の南南東、石川左岸の独立丘陵にある戦国時代の高屋城北限の土塁の下から2008年に発見された古墳です。高屋城の主郭である高屋築山古墳の北東約50mに位置します。本古墳は高屋城築城に際して大きく破壊されていましたが、墳丘削平のため段築などは不明ですが、周濠から埴輪と共に小振りの石材が出土していることから葺石があったことが想定されます。墳丘の周囲には幅2-4m程の盾形の周濠がめぐるようです。

玄室は入口部分を除くと大きく破壊され詳細は不明ですが、奥側にもう1基石棺があった可能性が指摘されています。

出土した須恵器から6世紀中頃に築造されたと考えられ、古市古墳群において最も新しい、最後の前方後円墳と考えられています。高屋築山古墳と主軸がほぼ同じ方向であることや築造された時期に大きな隔たりがないことから、両古墳はきわめて緊密な関係にあったと考えられていますという。


また『王者のひつぎ』は、安閑陵古墳の北側で発見された城不動坂古墳は、石室が細長く、巨勢氏の本拠地にみられる石室形態と共通すものでしたという。

城不動坂古墳の横穴式石室 6世紀中頃 『古市古墳群の小規模墳』より

陪塚と墳形

『古市古墳群の小規模墳』は、古市古墳群では数の上では圧倒的に方墳が多いことが特徴的ですが、方墳を主体とする構成から円墳、帆立貝形墳を主体とする構成に変化し、前方後円墳の採用も認められる、といった変遷が指摘されています(田中1986、山田1977)。 

誉田御廟山古墳の陪家は方墳が主体ですが、時期が後出する市野山古墳では方墳は1基と少なく、代わりに円墳が主体となり帆立貝形墳も加わるなど、墳形の構成が変わっていることがわかります。

百舌鳥古墳群は、古市古墳群と比較して、方墳が少なく、円墳が多いことが指摘できます。 大仙古墳には10基以上の陪家がありますが、方墳2基に対して、円墳は6基あり、帆立貝形墳や前方後円墳も含み、多様な状況がみられま す。誉田御廟山古墳より時期的にやや後出することも、その要因のひとつかもしれません。

こうした陪家の墳形の変化について、陪家の成立当初は、方墳しか築けなかったものが、円墳、帆立貝形墳を築くようになると考えて、陪冢被葬者の階層の上昇と捉える見方があります(山 田1997)。


墳形によるランク付けを推定すると、前方後円墳→帆立貝形墳・造出し付円墳→円墳→方墳の順と考えられますが、墳形が墳丘規模と関わらないところもあるということが再確認できたかと思います。また、墳形の位置づけが通時的に同じではないことが、大型方墳と帆立貝形墳(造出し付円墳)の立場の逆転から推定できます。 最終的に、6世紀前半には、大型前方後円墳→ 小型前方後円墳→帆立貝形墳→円墳という墳形の階層化に至るようです。


古市古墳群における100mを越える規模の前方後円墳の築造は、6世紀中頃までには終了していたと考えられます。主墳の築造がなくなれば陪冢も築造されなくなります。

ただし、古市古墳群の範囲内で集落がなくなったのではなく、6世紀代から7世紀にかけても継続的に集落は営まれていることが、これまでの調査でわかっています。

この点で、陪冢のような大型前方後円墳に直接関わると考えられる古墳だけでなく、6世紀前半になり顕在化する小規模単独墳の築造や、5世紀以来みられるものの、わずかに残る程度となった小規模古墳群も、大型前方後円墳の築造と関わっていたことを物語っていると考えられます。古市古墳群の古墳は、あくまでも大型前方後円墳との関連の中で築造されるものだったのでしょうという。




関連項目


参考サイト
参考文献
「王権麾下の古墳とその被葬者 古市古墳群の小規模墳」展図録 2020年 大阪府立ちかつ飛鳥博物館
「王者のひつぎ 狭山池に運ばれた古墳石棺 展図録」 2018年 大阪府立狭山池博物館

2022/02/18

狭山池に運ばれた石棺


狭山池から石棺が多数出土していることを『王者のひつぎ 狭山池に運ばれた古墳石棺』(以下『王者のひつぎ』)展図録で知った。

大阪狭山市のホームページ水面のある風景-狭山池ガイドは、大阪狭山市内に数あるため池の中で、最も広い面積を誇っているのが狭山池です。その歴史は古く、築造は7世紀前半にさかのぼります。『古事記』や『日本書紀』にも登場し、現存するものとしては国内最古のため池です。
その狭山池は、長い歴史の中で幾度も改修が繰り返されてきました。奈良時代の行基(ぎょうき)や鎌倉時代の重源(ちょうげん)、安土桃山時代の片桐且元(かたぎり・かつもと)など、歴史上著名な人物が数多く池の改修にかかわってきました。また、各時代の最先端の土木技術を用いて改修工事が行われていたことも、最近の調査で明らかになってきました。狭山池がこの地域にとっていかに重要な池だったかは、こうした史実からも読み解くことができますという。
平家の焼き討ちで東大寺復興の大勧進を務めた重源さんは、現山口市で柱に使う樹木の伐採、搬送を指揮した。その際にダム状のものを造って水かさを増し、材木を流したと聞いたことがある。土木工事にも長けた人物だったらしいが、狭山池の改修をしたことは知らなかった。

同ページは、平成の改修が行われた狭山池では、工事と並行して総合的な学術調査が行われました。日本最古のため池である狭山池には、たくさんの埋蔵文化財が眠っていることが知られ、それらの発見に大きな期待が寄せられていました。また、実際に見つかった遺構や遺物のかずかずは、当初の予想を大きく上回るものでした。
中でも注目を集めたのが北堤下から見つかった「東樋(ひがしひ)」です。樋というのは池から水を取る設備のことで、狭山池には、慶長13年(1608年)の改修の際に西樋、中樋、東樋の3つの樋が設置されたことがわかっていました。しかし、東樋は敷設後間もなく土砂に埋もれてしまったために、その行方が400年もの間わからなくなっていました。東樋の下からは、時代の異なる樋(下層東樋)が見つかりました。下層東樋は狭山池が築造された当初に設置された古代の樋で、使われている木材の年代測定の結果、西暦616年ごろに伐採されたものであることもわかりました。それは狭山池が築造された時期を示すもので、それまで狭山池がつくられた時代は謎だっただけに、池の歴史を解き明かす大発見になりましたという。この調査で見つかった樋と、鎌倉時代に重源が狭山池の改修に関わったことが記された「重源狭山池改修樋」は平成26年(2014年)に国の重要文化財に指定され、現在は狭山池博物館で展示・保存されていますという。


『王者のひつぎ』は、狭山池では堤の内側(取水部)から13以上、堤の外側(放水部)から9以上の石棺が発見されています。狭山池石棺群と呼びます。いずれも、古墳時代の刳り抜き式家形石棺で、大半は兵庫県高砂市・加西市などの加古川流域でとれる、いわゆる竜山石製です。その他、大阪と奈良の境にあたる二上山でとれる凝灰岩製の石棺も2基あります。加えて、竪穴式石室の天井石となる石英閃緑岩の板石が1石、横口式石槨の一部となる花崗岩が1石あります。
狭山池石棺群の大半は、後期古墳から掘り出された竜山石製の刳り抜き式家形石棺です。鎌倉時代の重源による改修時に古墳から運び出されたと推測されています。重源の活動業績を記した『南無阿弥陀仏作善集』に「河内国狭山池は…すること石の樋を六段・・・」と記されているからです。6段は約64.5mにあたり、当時の北堤の幅にほぼ対応します。
さらに、発掘調査で狭山池石棺群とともに発見された「重源狭山池改修碑」の銘文にも「以4月8日始伏石樋・・・」と刻まれていました。
残念なことに 『南無阿弥陀仏作善集』や「重源狭山池改修碑」には石棺調達の詳細が記されておらず、どの古墳から石棺が掘り出されたのかわかっていませんという。
重源さんの時代には、すでに巨大な丘のようなものは墓で、その中には家形石棺があったことは周知のことだったらしい。家形石棺は初期には後円部頂部に竪穴を掘って安置されたが、その後横穴式石室になっていく。家形石棺を搬出するなら、横穴式石室の方が運び出しやすかったのでは。
ただし、下図の遺構は、重源さんがつくったものではなく、慶長の改修のものだった。重源さんはどんな風に石棺を利用したのだろう。


竜山石製家形石棺について『王者のひつぎ』は、狭山池石棺群には全長2.3m以上で、蓋を合わせると重量が6tを越えるような大型石棺が4基あります。
遠く播磨の石切り場で切り出されたこれらの石棺は、大王級のひつぎと考えます。
現在、狭山池石棺群をのぞき、大阪府内で確認されている刳り抜き式石棺は伝承を含め20基程です。このうち竜山石製と確認できるものは10基もありません。狭山池石棺群の大半が竜山石製で、20基以上であることをふまえれば、掘り出された石棺は驚異的な数量です。したがって、狭山池周辺の古墳のみならず、大和の古墳や、播磨の石切り場周辺などからも掘り出されたのではないかという推測があります。石棺の調達を広範囲に見積もる案ですという。

また、大型石棺については、全長2.3m以下の石棺は生駒山麓や羽曳野丘陵の古墳、全長2.3m以上の大型石棺は、二上山西麓の磯長谷古墳群などと、狭山池周辺10㎞圏内の古墳と見積もる案があります。
ところが、生駒山麓や二上山西麓の古墳から発見される石棺の大半は、二上山でとれる凝灰岩製で、葉室石塚古墳や推古陵古墳など、石棺が抜き取られずに残されている大型古墳も多くあります。以上を考慮すれば、重源が大和川や石川をまたいでその東岸から石棺を搬入したかどうかさえ疑わしくなります。特に、大型石棺は狭山池に近い百舌鳥・古市古墳群の大王墓から掘り出された可能性が高いのですという。
百舌鳥・古市古墳群と狭山池 『王者のひつぎ 狭山池に運ばれた古墳石棺』より


狭山池放水部の石棺群
同書は、狭山池博物館には大小20以上の石棺が展示されています。
平成の改修に伴う狭山池北堤の発掘調査によって、中樋の取水部(堤の南側)から数多くの石棺が発見されました。主なものは石棺1-10として報告、大半は近年重要文化財に指定されました。
なお、本書に示す石材番号は大阪狭山市教育委員会刊行の『狭山池総合学術調査報告書』 2014年にある整理番号に準拠しました。報告のないものは今回新たに番号を付けましたという。
江戸時代に積み直された石棺群 『王者のひつぎ 狭山池に運ばれた古墳石棺』より

同書は、また、石棺Aは狭山池東堤の稲荷神社境内にながらく置かれていたもので、本来は池の取水部付近に埋没していたものだったとされます。大阪府の文化財指定を受けていますという。
狭山池放水部出土の石棺A  『王者のひつぎ 狭山池に運ばれた古墳石棺』より


そして狭山池博物館の研究者たちは、狭山池に持ち込まれた石棺群がどの被葬者の者か推測している。
同書は、狭山池石棺群はどの古墳にあったものなのか、今となっては確定することが非常に困難です。ただし、大型の刳り抜き式家形石棺の存在は、5-7世紀の大王墓級の墓から掘り出されたことを推測させます。また、重源の狭山池の改修期間を信用すれば、鎌倉時代の狭山池水下の人々が遠隔地から狭山池に石棺を運び込んだとも思えません。
5-7世紀の河内に陵墓伝承をもつ天皇は限られます。石棺の年代的特徴などを考慮すれば、いくつかの石棺については、候補となる古墳や被葬者をあげることが可能です。
本章では、限られた手掛かりから大胆に推理して狭山池石棺群のいくつかの石棺について、被葬者や掘り出された古墳を検討します。
ところで、6・7世紀の『日本書紀』の記事についても多くが疑われています。しかし今回は、その原史料となる原帝紀などが6世紀には成立し、天皇の実在や陵墓の地名伝承については、おおよそ信頼できるという前提にたちましたという。


① 仁賢天皇のひつぎ 石棺6 5世紀後半 竜山石の家形石棺?
『王者のひつぎ』は、石棺6は、平成の改修で発見されたもので、一般公開はされていません。
この石棺の特徴は、外形が箱形であることに対し、内刳りが断面U字形で、舟形石棺の名残りをとどめることです。つまり、家形石棺創出期のひつぎと考えるのですという。
家形石棺創出期の石棺6  『王者のひつぎ』より

同書は、
幅1.38mの竜山石製刳り抜き式石棺で、欽明天城ひつぎの候補とされる奈良県五条野丸山古墳の前棺(幅約1.45m)につぐ大きさです。残念ながら中央で割られており、全長は不明ですが、約2.7mにおよぶと思われ、大王墓級のひつぎです。
さらに、狭山池石棺群には石英閃緑岩を加工した巨大な板石があります。これについても、形態の詳細が再調査され、竪穴式石室の天井石と判明しました。
この板石は規模からみて、幅広の石棺6を納めた石室の天井石にぴったりで、両者は狭山池にほど近い大王墓から同時に運び込まれた可能性が高いのですという。
短辺側に2つずつ繩掛突起があるのは、長持形石棺の特徴では? これも家形石棺への過渡期という見方ができるのかな。
石棺6と石室天井石の復元 『王者のひつぎ』より


割られた石棺6 現長138㎝(270㎝前後)幅138㎝現高64㎝(100㎝以上)
棺身は火山礫凝灰岩で、伊保山付近の竜山石。丸い矢穴があり、その対になる石片も見つかっている。
『王者のひつぎ』は、5世紀の王権を2系統に色分けできるという説が史実とすれば、各大王が調達できうる石棺にも反映されている可能性があります。
百舌鳥・古市古墳群では、竜山石製の石棺を納めた古墳と九州の阿蘇石製の石棺を納めた古墳がみつかっています。陵墓古墳の石棺は未調査のために断片的な見通ししか示せませんが、おおよそ允恭系王統は阿蘇石製の石棺を、仁徳・履中系王統は竜山石製の石棺を使用していることがわかります。
前節に示した石棺6が5世紀後半の河内の大王墓から掘り出されたものであるとすれば、阿蘇石製の石棺を使用したと推定する允恭天皇・雄略天皇・清寧天皇は除外できるはずです。
そうすると、竜山石製石棺を納めた5世紀後半の河内の大王は仁賢天皇に絞り込めるのです。つまり、狭山池に運ばれた石棺6は仁賢天皇が葬られたとされるボケ山古墳から掘り出されたと推定するのですという。
仁賢天皇は、その孫娘・手白香皇女と継体天皇との子である欽明天皇の曾祖父になる。
倭の五王には、允恭天皇が済、雄略天皇が武に比定されいるが、仁賢天皇は後補にあがっていない。
狭山池出土 割られた石棺6 『王者のひつぎ』より

仁賢陵古墳(ボケ山古墳、被葬者もあっと驚くこの名称😲) 5世紀後半
『王者のひつぎ』は、『日本書紀』は仁賢天皇を埴生坂本陵に葬ったと記します。「埴生」は『日本書紀』履中天皇即位前紀に「埴生坂」としても登場する地名です。竹内街道(丹比道)は羽曳野市野々上付近で丘陵を東西に横断します。この坂道が埴生坂と呼ばれていたようです。
仁賢陵古墳は地名伝承を手掛かりに江戸末期の文久年間に仁賢陵と治定され、現在に至ります。古墳名である「ボケ山」は仁賢天皇の名の億計王(おけおう)がなまったと理解されています。現在のところ、この古墳以外に仁賢陵を見直す有力な論拠は知られません。という。
名の「おけおう」がなまって「ボケ山」になったとは😁

残念ながら、仁賢陵古墳に関する埋葬施設の伝承はなく、副葬遺物なども知られていません。昭和50年代に大阪府教育委員会が、外堤の一部を発掘調査し、円筒埴輪列を検出しています。さらに、羽曳野市教育委員会が、古墳の北西斜面で埴輪窯を2基、発掘調査しています。以上の成果によって、仁賢陵古墳の円筒埴輪の実態が解明されていますという。
古市古墳群うち仁賢天皇 『王者のひつぎ』より


② 継体天皇のひつぎ 6世紀前半 大阪府高槻市氷室所在伝今城塚石棺 阿蘇ピンク石製・二上山白石製・竜山石製の3基の家形石棺のどれか
『王者のひつぎ』は、継体天皇の真の陵墓については、高槻市今城塚古墳が有力です。この古墳は高槻市教育委員会によって発掘調査され、史蹟整備されています。発掘の結果、主体部の横穴式石室は取り去られていましたが、3種類の石棺が納められていたことが判明しました。石棺は細かく砕かれた小片で、形態はよくわかっていません。ただし、竜山石・阿蘇石・二上山白石製の3種が判明しました。
3種類の異なる石材産出地を掌握し、石棺を運び込んだ大王はそれまでいませんでした。継体天皇は仁徳・履中王統から続く竜山石の石切り場と、はるか九州にある允恭王統の石切り場を掌握し、さらに二上山の石切り場を新たに開発してその石材も利用しはじめていたのです。
竜山石や二上山の石切り場を掌握できたのは、葛城氏の配下にあって台頭しはじめた蘇我氏との連携を示すという説があります。
ところが、畿内の有力豪族との連携とは対照的に、それまで連携関係にあった九州の豪族との関係は揺らぎつつありました。6世紀前半のある段階になって突然、阿蘇石製石棺の搬入がなくなります。それと入れ替わるように、二上山白石製石棺が数多くつくられるようになるのです。
これは、継体天皇の晩年に北部九州でおこった磐井の乱による連携関係の決裂を意味するとされていますという。
家形石棺の石材の変遷と歴史上の事件とが合致している。雄略天皇は倭の五王の最後の一人、武に比定されている。

同書は、継体天皇の陵墓とされる今城塚古墳に阿蘇石製石棺が納められたのはいつでしょうか。
ひとつは、磐井の乱以前に亡くなった継体天皇の近親者のためのひつぎという考えです。この場合、今城塚古墳の造営と完成は磐井の乱以前としなければなりません。
もうひとつは、磐井の乱は速やかに平定され、阿蘇石の輸送には影響せず、阿蘇石石棺の衰退は、大伴金村の失脚など、別の理由とする説です。
もうひとつは、継体天皇は古墳造営に着手する以前、自らの石棺は生前に九州から運び込んでいたという説です。この場合、3種類の石棺のうち、継体天皇のひつぎは阿蘇石製だったとしなければなりませんという。
どの説にしろ、継体天皇の棺は阿蘇ピンク石、あとの2基は家族ということで良いのでは。
そして、わざわざ異なる石材を選んだのは、それぞれの勢力範囲なのではないかな。
大阪府高槻市今城塚古墳 6世紀前半 『王者のひつぎ』

また同書は、2017年8月に、高槻市内で石橋にされていた新たな石棺の破片が発見されて、大変な話題になりました。 この石は阿蘇石製で、全長1.3m、幅0.6m、石棺底石の可能性が高いと推定されています。側面や蓋石はないのですが、底面の約四分の一の大きさではないかと思われます。この場合、石棺の大きさは全長2.6m程度となり、大王のひつぎに匹敵する大型石棺に復元できるのですという。
やはり、阿蘇ピンク石は継体天皇のひつぎだったのだろう。


③ 安閑天皇のひつぎ 石棺G 古市古墳群うち安閑陵古墳出土 鉢伏山産家形石棺

石棺G
『王者のひつぎ』は、石棺Gは、大正・昭和の改修で発見されたもので、大阪狭山市指定文化財です。 刳り抜き式家形石棺の蓋石で、残念ながら四分の一程度に割られており、全長全幅は不明です。しかし、形状から復元すると、全長2.5m、幅1.5m程度の大型棺になるようです。縄掛け突起や天井部平坦面の形から、6世紀前半のものと推定できます。つまり、6世紀前半の大王墓から掘り出された大型石棺であると推定します。
この石棺は縄掛け突起が短辺近くにあり、長細い形から、長辺に3か所の突起つ特異な形状と推定します。対して、短辺に突起はありません。このような型式の家形石棺は、近畿では御所市條ウル神古墳石棺と天理市ヒエ塚古墳石棺以外知られません。ただし、條ウル神古墳にほど近い市尾宮塚古墳石棺も復元すれば、この型式の家形石棺になる可能性があります。條ウル神古墳・市尾宮塚古墳・市尾墓山古墳は巨勢氏の本拠地にある首長墓とされ、狭山池でみつかった石棺Gも巨勢氏とのかかわりを推測できる大王墓のひつぎと推定します。
巨勢氏は継体天皇時代に大臣となった巨勢男人がよく知られ、市尾墓山古墳がその墓とも指摘されています。
『続日本紀』によると、巨勢男人は継体天皇と安閑天皇に仕え、『日本書紀』は安閑天皇に二人の妃を出したという伝承もあります。石棺Gが6世紀前半の巨勢氏にかかわる大王のひつぎとすれば、河内に葬られた安閑天皇の陵墓から運び出されたと推定するのですという。
安閑天皇は継体天皇と目子媛との子。新たな権力者巨勢氏が登場。
石棺G 安閑陵古墳出土か 『王者のひつぎ』より

安閑陵古墳
『王者のひつぎ』は、安閑天皇は『日本書紀』によれば安閑2年(535)に崩御し、陵墓は『古事記』『日本書紀』などによると「旧市(古市)の高屋」です。地名などから現在宮内庁が治定する前方後円墳、安閑陵古墳が候補です。この古墳は江戸時代の記録によれば、石室の跡があり、長さ5間(約9.1m)、幅は広い所で3間、深さは1間と記します。大きな盗掘坑でしたが陵墓の修復で埋められたようです。
ところで、『日本書紀』は安閑陵造営に際し、皇后の山田皇女と天皇妹の神前皇女も合葬したと伝えます。にもかかわらず山田皇女については『日本書紀』欽明天皇即位前紀に記事があり、このころまで存命とされるのです。二人の皇女の棺が横穴式石室に後から追葬されたとすれば、重源が狭山池に安閑天皇の石棺を運び出す際、あわせて運んだと考える必要があるでしょう。 その一方、『延喜式』は山田皇女陵を別に記述し、 『日本書紀』の合葬記事と対立します。現在、安閑陵古墳の南には山田皇女陵として治定されている高屋八幡山古墳があり、副葬品の一部も伝わります。

同書は、安閑陵古墳の北側で発見された城不動坂古墳は、石室が細長く、巨勢氏の本拠地にみられる石室形態と共通すものでしたという。
巨勢男人の陪塚かも。
古市古墳群うち安閑陵古墳 『王者のひつぎ』より


④ 欽明天皇のひつぎ

河内大塚山古墳と五条野丸山古墳
『王者のひつぎ』は、河内大塚山古墳は狭山池の側3.5㎞にある全長335m、全国5位の規模を誇る巨大前方後円墳です。
巨大古墳でありながら『古事記』『日本書紀』などに被葬者を記す伝承がありません。大正末年に宮内庁は陵墓参考地として買い上げ、調査や立ち入りができません。 
欽明32年(571)大和の大殿で崩御した欽明天皇が河内の古市で殯していることから、欽明天皇の初葬陵説が示されています。欽明天皇は、のちに五条野丸山古墳に改葬されたと考えます。
また、五条野丸山古墳の墳丘形態の検討もすすめられ、先に安閑陵説を示した河内大塚山古墳(全長335m)とほぼ相似形であることが確認されました。両古墳は欽明天皇時代に造営されていた可能性も指摘されています。
『日本書紀』は欽明天皇の崩御に際し、河内国古市(現在の羽曳野市古市付近)で殯したと記します。欽明天皇崩御の宮が大和の磯城(現在の桜井市)で、陵墓が檜隈(現在の明日香村)であるにもかかわらず、遺骸を仮埋葬するためだけに河内まで運んだ理由はわかっていません。
そもそも、欽明天皇の陵墓として河内に陵墓(河内大塚山古墳)を築いていたものの、蘇我氏の勢力拡大とともに、本拠地周辺に造りなおし(五条野丸山古墳)、堅塩媛とともに改葬したというのが、真相かもしれませんという。
河内大塚山古墳と五条野丸山古墳 『王者のひつぎ』より

五条大塚山古墳のひつぎ 欽明天皇の陵墓 
『王者のひつぎ』は、古墳時代の大王や諸豪族は古墳の形態と規模で格付けされ、「前方後円墳体制」などと呼ばれる政治形態で説明されることがあります。多くの考古学者は各時期ごとにもっとも大きな前方後円墳を大王墓と呼びます。
大和で最も巨大な前方後円墳は全長318mの五条野丸山古墳です。すでに円筒埴輪は樹立せず、わが国最大の横穴式石室に家形石棺をそなえることから6世紀後半の大王墓と考えられています。
近年、五条野丸山古墳の横穴式石室内部のくわしい測量図や写真が公開され、石室内に納められた2基の巨大な石棺の詳細が明らかになったのですという。
いかすなら丸山古墳は、全長28.4m、玄室長8.3m、羨道長20.1mを測る日本最大の横穴式石室であるという。
五条野丸山古墳の石室模型と断面図 『王者のひつぎ』より

『王者のひつぎ』は、五条野丸山古墳には2基の竜山石製の家形石棺が確認されました。奥棺は縄掛け突起の形状から6世紀末以降のもので、前棺は6世紀後半、しかも奥棺よりひと回り大きく、竜山石製の家形石棺では最大規模です。やはり、6世紀後半の最高権力者たる欽明天皇の陵墓にふさわしいものだったのです。
その結果、もともと前棺に欽明天皇を納めて古墳を造営したものの、推古天皇時代に蘇我氏が堅塩媛を改葬した時、欽明の棺を手前に出して、堅塩媛の棺を奥に据えたという改葬の実態を説く意見もありますという。
五条野丸山古墳の前石棺と後石棺 『王者のひつぎ』より

石棺8と石棺9
ところで、河内大塚山古墳が完成し、石棺が納められたとすれば、重源が鎌倉時代に狭山池に運び出している可能性があります。狭山池石棺群には共通する特徴をもつ二つの石棺(棺8・石棺9)があります。重源が運び出す際に底部端面をはつった大型石棺で、同じ古墳から運び出したと推定します。ひとつ(石棺9)は五条野丸山古墳前棺(推定欽明天皇のひつぎ)につぐ全国第2位の規模をもつものです(竜山石製の比較)という。
中樋に積まれた石棺8・9 『王者のひつぎ』より

二つの石棺が同じ石室に納められていたとすれば、五条野丸山古墳に匹敵する超巨大石室を想定する必要があるのです。
そのような石室をもつ古墳は、河内大塚山古墳をおいて他に想定できません。河内大塚山古墳は完成しており、巨大な横穴式石室に2基の竜山石製刳り抜き式石棺が納められていたと推定しますという。
五条野丸山古墳の奥石棺と前石棺 『王者のひつぎ』より


⑤ 来目皇子のひつぎ?

石棺の蓋B 7世紀初頭-前半 全長223㎝ 幅144㎝ 全高64㎝ 竜山石
『王者のひつぎ』は、狭義の龍山付近で産出された石材による棺蓋です。蜂の巣状の風化痕跡が各所にあり、片面の長辺中央に円形の欠損があります。これは盗掘者が開棺するときに棒を差し込んだ痕跡でしょう。
6世紀末から7世紀初頭にかけて、長辺側と短辺側の突起が大きさ・形・位置が共通するようになり、7世紀前半には棺蓋斜面につくり出されます。石棺Bの形状です。7世紀中頃になると、縄掛け突起がない棺蓋になります。 棺蓋の平坦面指数は37で、7世紀初頭から前半頃の製作とされます。
掛け突起は大きさ・形・位置がめまぐるしく変化し続ける現象から、縄掛け突起にはそもそも縄を掛ける実用的価値はなく、装飾のひとつだったと考えられていますという。
えっ、繩掛突起は割竹形石棺の頃からただの装飾だったの?
狭山池出土石棺B 『王者のひつぎ 狭山池に運ばれた古墳石棺』より

棺蓋は平坦面指数37
同書は同時期の石棺と比較して、繩掛け突起は石棺Bがもっとも退化していますという。
狭山池放水部出土の棺蓋B 『王者のひつぎ』より

棺蓋Bの出土状況
狭山池放水部出土の石棺Bと掘り出した人々 『王者のひつぎ』より

『王者のひつぎ』は、狭山池の大正・昭和の改修時にも、中樋の放水部(堤の北側)で多数の石棺が発見されています。石棺を転用石材として売却しようとした人夫たちは、運びやすくするために破砕を試みました。
石棺破壊の危機を知った末永雅雄氏は私費で買い取り、池堤脇に移設しました。これらはその後、大坂狭山市指定文化財となり、市立郷土資料館前庭に展示されていましたが、資料館の移転とともに、狭山池博物館の前庭に移されました。
末永氏の努力により散在・破壊を受けず保管されてきた石棺です。ところが、末永氏による土状況図の石棺数は、現存する個体数より少なく、散逸してしまった石棺もあるのですという。
狭山池放水部出土の石棺 『王者のひつぎ 狭山池に運ばれた古墳石棺』より

同書は、同様に蜂の巣状の風化痕跡があり、長辺中央に円形の欠損を伴う棺身が石棺3で、両者が組み合うことは確実です。石棺3の内面にはわずかに朱が残りますという。
石棺の蓋と身を一緒に運んだようだが、運び出す前に内部を確認したのだろうか。それとも、狭山池近くに運んで、加工する段階で蓋を初めて開けたのだろうか。そうだとすると、被葬者や副葬品なども残っている可能性がある。重源さんなら被葬者を供養して新たに埋葬し、めぼしい副葬品は売却して費用に充てたのかも。
狭山池出土石棺3 『王者のひつぎ』より

600年前後の天皇・皇子の家形石棺

植山古墳東石棺 阿蘇ピンク石 竹田皇子 600年頃没
『王者のひつぎ』は、推古天皇皇子の竹田皇子墓とされる橿原市植山古墳東石室にも石棺があります。阿蘇石製の刳り抜き式家形石棺ですが、二上山白石の工人が仕上げたと思われる整った形状です。
竹田皇子の没年はよくわかりませんが、物部守屋討伐後の600年頃と推定されますという。
家形石棺の初期で途絶えていた阿蘇ピンク石が、終末期の家形石棺に再び採用されている。再び九州の権力者とのつながりができたのだろうか。

赤坂天王山古墳石棺 二上山白石 崇峻天皇 592年没
同書は、592年に蘇我馬子の手の者によって暗殺された崇峻天皇の陵墓と推定されている赤坂天王山古墳にも二上山白石製の家形石棺が納められていますという。

狭山池出土の石棺蓋B・身3 竜山石 来目皇子? 603年没
600年前後の天皇・皇子の石棺 『王者のひつぎ』より

来目皇子について『王者のひつぎ』は、7世紀初頭、狭山池周辺に造墓した皇族に来目皇子がいます。聖徳太子の弟で、602年に新羅征討大将軍に任命され、兵を率いて筑紫の港まで到着したのですが、病にかかり、翌年没します。
来目皇子が後に葬られたという「河内埴生山岡上」の墓とは、現在の羽曳野市塚穴古墳とされ、宮内庁が管理する1辺約50m、高さ10mの大型方墳です。羽曳野丘陵の北端にあたり、近くに「埴生」の地名が残ります。墳丘は宮内庁が治定した明治31年(1898)に修復があったといいます。近年、宮内庁書陵部や羽曳野市教育委員会が墳丘とその周辺を発掘調査し、大規模な外堤が発見され、墳形も明瞭となりました。
周辺に7世紀初頭の大型古墳は知られず、新羅征討将軍だった来目皇子の陵墓はこの古墳をおいて他には見当たりませんという。

埴生塚穴古墳
同書は、塚穴古墳は江戸時代には横穴式石室が開口しており、一部の石材は割り取られていたといい ます。石室の状況は金剛輪寺住職覚峰による略測図や記録が残されています。
それによると、切石積みの大型横穴式石室が復元でき、岩屋山型石室と考えられます。 記事には石室にたまった水の深さは2尺(約0.6m)余りで、底には小石がたくさんあったとあります。さらに「底に砕たる石多し。むかし、石棺を発き砕たるならん。今は石棺なし。」とあります。真偽は確かめられませんが、塚穴古墳に横穴式石室が残されているものの、 石棺は運び去られていることがわかるのです。 
7世紀代と思われる方形墳の塚穴古墳から石棺が持ち出されていること、この古墳が狭山池にもっとも近い古墳時代後期の大型古墳であることを考慮すれば、狭山池石棺群のなかに塚穴古墳の石棺が含まれる蓋然性は極めて高くなります。
その被葬者が7世紀初頭に没した来目皇子とすれば、大王級の刳り抜き式の大型家形石棺が推定されます。そうすると、先に示した石棺B(棺蓋)・石棺3(棺身)が第一候補となるのですという。

これから調査が進んで、狭山池に運ばれた石棺の主や持ち出された古墳などが少しずつ明らかになっていくことを期待しています。

また、来目皇子について同書は、筑紫で薨去した皇子は、周防の娑婆まで運ばれて殯したというのです。
ちょうど、山口県の佐波川流域に7世紀初頭の前方後円墳、防府市大日古墳があります。大日古墳の横穴式石室には竜山石製の刳り抜き式家形石棺が納められています。竜山石製石棺の分布域のなかで300㎞も離れた最西端にあたります。
古墳の被葬者が、どの石切り場の石棺を調達できたのかは、政治事情が大きく関わり、財力だけで決められなかったという説に従えば、周防に竜山石の刳り抜き式石棺が運び込まれる事例は、極めて特異です。
結論的に、この古墳石棺は来目皇子の仮埋葬のひつぎと推定します。筑紫で亡くなった来目皇子のため、天皇の命で竜山石製の刳り抜き式家形石棺が周防の佐波郡まで船で運ばれたのです。
ちょうどこの頃、遣隋使が派遣され、返使が同じ航路で筑紫・周防を通って大和入りしたと『隋書』倭国伝は記します。さらに倭国伝は、当時の葬式の状況や、貴人の3年のモガリ期間などを伝えます。遺体は石棺ごと運ぶのではなく、船におかれ、陸地を小さなくるまに乗せてひく様子も描かれます。
倭国伝のこの記事は来目皇子の葬送を見聞したものではないでしょうかという。
当時の葬送、あるいは改葬の慣習が、『隋書』倭国伝に残っていたとは。


関連項目

参考サイト

参考文献
「王者のひつぎ 狭山池に運ばれた古墳石棺 展図録」 2018年 大阪府立狭山池博物館