お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2018/11/20

永観堂 みかえり阿弥陀


永観堂禅林寺の本尊は小さく、網の掛かった厨子の中に安置されている。

『永観堂話譚』は、永観堂禅林寺の本尊、阿弥陀如来立像について、像高77㎝、体は正面に向けて来迎印を結び、左肩を少し落として左に振り返り、後ろ側の床方向に視線を落とす、全国でも珍しい姿勢を取る。慶派などとは異なる系統の技量の高い仏師に依る作品と考えられるという(撮影は中田昭氏)。

『日本の美術458 平安時代後期の彫刻』は、永観による当初像を復興したもの、簡明な中に高度な洗練を経た美麗さのある、円派仏師の作例と見られるという。
『日本仏像史』は、後期は定朝3代目以降の正系仏師の活動期で、白河・鳥羽・後白河上皇の院政期に当たる。この期は定朝の様式(定朝様)が貴族やや仏師の間で意識的に継承された。
定朝仏は造像の際の厳然たる規範であり、仏師は定朝仏に似た像を作ることを求められた。そこにさらに、美麗を好む願主の美意識が反映する。定朝仏に倣った美しい像がこの院政期の理想となったのである。こうした事情でこの期の様式は穏やかに推移するが、12世紀後半期になると後代鎌倉期への過渡期的要素がみえてくる。
白河・鳥羽院上皇に重用され、六勝寺や鳥羽・白河御堂の造仏の多くを請け負ったのが、円勢やその子長円・賢円などの円派であったという。

『永観堂話譚』は、永保2年2月15日酷寒の早朝4時頃、永観は阿弥陀堂で夜を徹して念仏道を修していた、凍てついた堂内に、ふと気配が。永観のほか誰もいるはずはない。前を歩くのはご本尊の阿弥陀さまでは・・・。思わず立ち止まったそのとき、ご本尊はすっと左肩越しに振り返り、「永観、おそし」のおことばをかけられたという。
この方向から見る阿弥陀さんの顔貌が一番穏やかに見えるが、実際には網越しにしか拝めない。

永保2年は西暦1082年。永観が亡くなったのが天永2年(1111、同書より)。その間に当初像はつくられた。それは永観が自ら彫ったか、つくらせた像のため、後方を振り向くという、他に見られない阿弥陀像となった。
更にその姿のまま、円派の優美な造形で造られたのが本像なのった。

知り合いの婆さんの実家は浄土宗永観堂派のため、代々永観堂に分骨してきたという。どの程度前の話かわからないが、昔は厨子に安置されておらず、その辺に置いてあったのだとか。その辺てどの辺?


参考文献
「永観堂話譚」 2017年 浄土宗西山禅林寺派総本山 永観堂 禅林寺
「日本の美術458 平安時代後期の彫刻 信仰と美の調和」 伊東史朗
「カラー版 日本仏像史」 水野啓三郎監修 2001年 美術出版社