ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2018/11/13
永観堂 紅葉は始まっていた
紅葉でにぎわう時期を避けて、10月下旬に永観堂へ。
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遠方からすでに木々が色づいているのが分かるほどだった。
『永観堂話譚』は、平安時代初期の貴族であり文人・歌人でもあった藤原関雄(805-853)。彼は藤原真夏を父に、藤原冬嗣を叔父にもつ、たいへん優秀な人材であった。が、貴族社会での地位を望まず、ひっそりとした暮らしを好み、つねに閑静な東山の山荘に籠居したため「東山進士」(進士は教養豊かなエリート官僚を意味した)と呼ばれたという。この東山の山荘が、現在の総本山永観堂禅林寺(以下禅林寺)の位置する場所だという。
永観堂といえば見返りの阿弥陀だったので、何もない地にお寺が創建されたのだと思っていた。
「宮仕え久しうつかうまつらで、山里に籠もり侍りけるに、よめる」と添え書きをして、自邸の紅葉を詠んだ
おく山の岩がき紅葉散りぬべし 照る日の光見る時なくて
という歌が『古今和歌集』に収められているという。
鬱蒼とした山の岩場に根を下ろしてしまった木は、光が当たることもないままに色づいて、人々の目を楽しませることもなく散っていく。
同書は、禅林寺は仁寿3年(853)、真言宗の高僧である真紹僧都が藤原関雄亡きあと、この地に寺院の建立を決心したことに始まる。永観堂の歴史は、大きく3つの時代に分けられ、第一期が真紹僧都の創建から真言密教の道場として機能した約220年間。第二期が永観律師以降、真言、浄土教、奈良仏教などが混在した約140年間。そして、第三期が證空上人以降で、念仏を宗旨とする浄土宗寺院として現在まで至るという。
土塀が切れているところから庭園を眺める。
境内図(同寺の栞より)
拝観受付の中門から、
大玄関(右)へ。
真っ盛りの紅葉よりも、こんな風に紅葉が始まったばかりの頃が好きだ。
釈迦堂の縁側より古方丈との間にある池の上にもちょうど良いくらいの紅葉が。
ススキも見頃。
釈迦堂の襖絵は撮影禁止。縁側を巡る。唐門や塀は修復中。
悲田梅も淡い紅葉。幹の赤いキノコが気にかかる。
同書は、永観は寺内に薬王院を建て多くの病人を収容、看護のために温室(うんしつ)をつくったとされます。境内に梅の木を育て、貧しい病人に梅の実を与え施療しましたという。
釈迦堂東側の小さな池には
小さなヒツジグサの花が一輪。
御影堂への渡り廊下。法要があるのか、あちこちに五色の幕が巡っていて、周囲が見渡せなかった。
御影堂から極楽橋方面を眺める。ここからも緑色から黄色、柿色、赤と色づきかけた楓が眺められる。
やはり五色の幕が巡らされた本堂は一段と高い位置にある。
いつできたのか、エレベータがあった。
今まではその左手の渡り廊下を複雑に通って阿弥陀堂へ行ったものだったし、今でもそうしている人もいた。
三鈷の松はずいぶん大きくなって幹しか見えない。
エレベータを降りて、屋根瓦に三葉の長い松葉が積もっていることで、三鈷の松が枯れていないことを確認。
永観堂は来る度に拝観者が増えている。そして今回は日本人よりも海外から来た人の方が多かった。こんな風に建物が廊下で繋がれて、しかも上へ下へと移動できる
阿弥陀堂の縁側からエレベータの建物。
阿弥陀堂正面から庭園は見えない。
阿弥陀堂内で見返りの阿弥陀を拝観する。この仏像については次回
阿弥陀堂から戻ってエレベータの脇から見上げて、やっと三鈷の松の枝が見えた。昔は見えていたのに。
臥龍廊も久しぶりに登ってみた。
開山堂にも五色の幕が掛けてある。
開山堂近くから見下ろした紅葉が一番華やかだった。
開山堂の縁側には欄干が巡り、昔あった石段から下りることはできなくなっている。やはり臥龍廊からは多宝塔には行けなくなっている。
小雨が降ったり止んだりで見晴らしがきかないだろうと、石段から上り直すことはしなかった。
以前に多宝塔まで行った記事はこちら
御影堂の裏から眺めた三鈷の松。渡り廊下とエレベータの建物に囲まれてしまった。
そして開山堂と多宝塔
御影堂への渡り廊下の下から多宝塔への参道がついている。
大玄関から出て紅葉の庭へ。
風のよく当たるところから紅葉は進んで行く。この辺りは風が弱いのかも。
御影堂
そこから更に歩いていくと阿弥陀堂への階段がある。
御影堂の前まで戻って極楽橋へと下っていく。
石段脇の石垣には水成岩が積まれていた。
放生池に浮かぶ弁天社と石橋。
池から眺めた多宝塔。
こんな小さな木だが、真っ赤に紅葉している。ヤマボウシかと思ったが、葉脈から判断するとムシカリのよう。
楓橋より茶店脇の水の流れ。それが滞らないように掃除をしている人がいた。
反対側には力強い灯籠、その向こうには蓮池が。
こんな風に紅葉した葉が苔の上に落ちているのも風情はあるが、それも日々の手入れがあってのこと。
多宝塔の周りは樹木が傷んでいるのは今年の台風のせいかな。
柿の葉も少し色づき、実が2つだけなっていた。
ちょっと変わった形の柿。古い品種かも。
大玄関のある建物の前まで戻ってきた。
関雄の歌は『古今集』にもう一種収められている。
霜のたて露のぬきこそ弱からし 山の錦のおればかつ散る
霜を経糸(たていと)に、露を緯糸(ぬきいと)に織られた山の紅葉は、長くは続かずすぐに散ってしまう。
『永観堂話譚』は、歌人でもあった永観は
みな人を渡さんと思う心こそ 極楽にゆくしるべなりけり
とともに、
世をすててあみだ仏を頼む身は をはりおもふぞうれしかりける
と、阿弥陀仏を信仰し往生を遂げることの喜びを表現していますという。
売店で『永観堂話譚』を買い、三鈷の松の葉を頂いた。
中門を出て総門までに左に分かれ、和みの道を通って蓮池前へ。
そして南門から出る。
野村碧雲荘の垣沿いを南方向に
門の前を過ぎ、
白河疎水の細い流れに沿った道。何時か通って見たいと思いながら40年以上過ぎてしまった。
細い流れはしかし、音を立てながら勢いよく流れ下っていく。
本日の最後の目的はリニューアルオープンした野村美術館の「茶の湯 能楽の美 日本展」
入って奥の北側に庭園があり、そこだけがガラス張りにしてあった。
蹲もいいが、なんといってもこの石灯籠。
能装束の展示が終了し、この日から茶花展。まずは地下で茶花、そして花入れの名品を堪能。さすがに知らない花が入れてあった。
能装束を見られなかったのは残念だったが、練上志野茶碗(銘猛虎)などの茶道具、そして能面の名品をゆっくりと楽しんだ、良い一日だった。
→永観堂 みかえり阿弥陀
関連項目
永観堂の多宝塔へは臥龍廊から行けない
参考文献
「永観堂話譚」 2017年 浄土宗西山禅林寺派総本山 永観堂 禅林寺