お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2018/03/30

獅子から狛犬へ


テヘランのイラン国立博物館にあった一頭のライオン像(エラム古王国から中王国時代、前2千年紀)が日本の狛犬を思わせるのは蹲踞しているからだ。
ただし、ライオンの独立像はその後ペルシアの地では確認できない。
自分が旅してライオン像は見なかったなあと思いつつ、探してみると、東トルコのネムルート山で出会っていた。

ライオン像 コンマゲネ王国時代(前1世紀後半) 石造 現トルコ、ネムルート山頂上西のテラス
山頂にアンティオコス1世が前62年に造った墓とされていて、東西にテラスが設けられ、それぞれに神像や鷲そしてライオン像などが安置されていたようだが、地震のため、現在では諸像は元の位置にはない。
諸像の造形について『世界美術大全集4』は、ヘレニズム文化が浸透した地域における東西文化の融合の実態を示す典型的な例であるという。
蹲踞するライオン像は、口を開き、歯列は表されるが牙は目立たず、舌を出している。
西のテラスの配置復元図(カール・フーマンによる、『コンマゲネ王国ネムルート』より)によると、大きな神像や国王像5体の左右には、大きな鷲とライオンの像が配置され、小さな王と神の浮彫像などの左右には小さな鷲とライオン像の像が置かれている。
このライオンは小さな像の方で、一対で諸像を守護する蹲踞するライオンという形式がこの時にはすでに成立していたのだった。
表現は確かにヘレニズム風だが、蹲踞するライオンはエラムのライオン像に起源があるのだろうか、それともギリシアにもあるのかな?

日刊ギリシャ檸檬の森 古代都市を行くタイムトラベラー古代カイロネイアに、マケドニア軍とアテナイ・テーバイ軍の戦い(前338年)で戦死したテーバイの兵士たちの墓石として蹲踞するライオン像が安置されている。ライオンは正面を向き、口は閉じているが、唇は開き、噛み締めた上下の歯がぎっしりと並んでいる。
また同ブログの紀元前4世紀ライオン像 ニコポリスでは、前330年の墓碑として蹲踞するライオン像が紹介されている。こちらのライオン像は右を向いていて、口は開いているが、歯や舌は表されていない。
蹲踞するライオン像は後期クラシック期に見られ、墓碑のような役目があったらしく、一対で置かれるものではなかった。一対で置かれるのは西アジアの伝統のだったのだ。

その後一対のライオン像は、仏教美術に採り入れられた。

ライオン像 クシャーン朝(2-3世紀) 灰色片岩 高33.0 49.0 長37.0 41.0㎝ ガンダーラ 平山シルクロード美術館蔵
『獅子と狛犬展図録』は、この一対のライオン像は、仏塔の守護像として造られたと考えられている。スマートな体に、胸を覆い隠すほど豊かで美しい毛並みのたてがみが、高貴な印象を与える。前脚の肩の部分には、西アジア由来のつむじ様の毛並み表現がみえる。
ギリシアや西アジアの神々をも取り込んだガンダーラ彫刻では、ライオンが守護者として、また、仏陀の威光を表す獅子座などとして造像された。これらはやがて、仏教と共に日本にももたらされることになるという。
獅子座については以前にまとめた。そして、その最古が前6千年紀前半の地母神坐像(アナトリア、チャタル・フユック出土)の両脇に表された肉食獣であることを知った。そのライオンともヒョウとも言われている動物は、双方とも口を閉じている。
これらの記事は下部の関連項目に。
また、舌を出したライオンは、やはりアナトリアの後期ヒッタイト時代(前9世紀)のライオン像にも見られるものである。
このようなライオン像は、どのようなところに置かれていたのだろう。
というのも、クシャーン朝時代の獅子座は、概ね如来坐像の下の台の両端に浮彫されているからだ。
それについてはこちら

そして中国に伝わると、古式金銅仏や石造の仏像では仏坐像の台座に浮彫された獅子だが、石窟内では立体像となる。その最古の例は敦煌莫高窟275窟(北涼時代、397-439年)で、交脚弥勒像の両脇に丸彫りの獅子が現れるが、蹲踞するのではなく胴と前半身が、弥勒の坐す台の脇から出現するように取り付けられている(獅子はコピー窟)。

また、石窟以外では、南朝の梁時代(502-557年)、成都市西安路出土の釈迦如来諸尊立像(中大通2年、530)に台座から外れて、二天と主尊の間に獅子が一対登場する。
厳密にいうと、丸彫ではなく高浮彫である。

もう少し後になると、北朝で立体像の獅子がみられる。

獅子 北斉時代(550-577年) 銅製鍍金 右:高5.1長4.2㎝左:高4.9長4.0㎝
『獅子と狛犬展図録』は、頸筋から胸にかけてたてがみを線刻しているものの、大きなたてがみを造らないことから犬のような印象を与える。口を閉じ、両脚を地につけ、蹲っている獅子の姿は北魏後期から多く見られるが、逞しい体つきや脚の下半に節のような段をつける特色は、隋から初唐頃にもよく見られるという。
これらも仏菩薩像守護獣として造られたものなのかな。
両像とも肩に渦巻が刻まれているのは、ヒッタイトから西アジアへと受け継がれたライオンの特徴が、ガンダーラを経由して、シルクロードを通って東アジアにも伝播している。

獅子 隋時代(581-618年) 銅製鍍金 右:高5.5長5.7左:高5.4長6.7㎝
同書は、一方は開口して舌を出し、前脚を上げ、もう一方は歯を見せるが閉口し、四肢を地につけて蹲踞している。いずれも強く胸を張る。たてがみは頸の周辺から胸にかけて先端が渦状になった毛筋を伴う房を豊かに表し、後頭部は一つの三角状の房としている。大きな尾は三筋に分かれてS字状になびく。このように反り返るように胸を張り、一方が片脚をあげ、一方があげずに蹲るなど、左右の表現を変えて一対になすることは、双方が片脚をあげるものと双方ともあげずに蹲るものとを折衷するように、北斉末頃からよく見られるようになったという。
たてがみの渦巻くたてがみや3つに分かれる尾など、北斉時代から少し経ただけなのに、装飾的な表現になっている。

仏教美術とはいえないが、咸陽郊外に則天武后が造立した母の墓、順陵(7世紀後半)の獅子も蹲踞して肩に毛渦がある。
これは後漢の鎮墓獣の系統ではなく、仏教の守護獣ではないだろうか。則天武后は高宗かせ開鑿した龍門石窟に寄進するなど、仏教に帰依していたので、伝統的な麒麟や天禄などの石獣と共に、南北の門に一対ずつ蹲踞する獅子を登場させたのかも。


『獅子と狛犬展図録』で伊東史朗氏は、平成22~23年に催された「誕生!中国文明」展に出陳された銅造獅子を見て、驚愕した。河南省妙楽寺塔の最上層に置かれていた四体のうちで、頭部小さく、胸を張り、背を丸めて蹲踞するその姿は、わが国平安時代後期の獅子狛犬における和様の成立を考える際、かならず想起されるだろうという。

獅子 五代(10世紀) 青銅鍍金 高55.6長50幅29.5㎝ 武陟県妙楽寺塔 武陟県博物館蔵
『誕生!中国文明展図録』は、武陟県城の西約8㎞に位置する妙楽寺には、方形13層、高さ約30mの磚塔のみが現存する。『武陟県志』によると、この塔は五代時代の顕徳2年(955)の建立という。本像は、最上層の屋根の四隅に安置されていた獅子のうちの1軀。同塔建立当初の製作と目され、銅鋳造製で、内部は中空としている。眉根を寄せて両眼を大きく見開き、閉口して上下の歯列をみせ、胸にはベルトを巻く。簡にして要を得た造形で筋骨の隆起が的確にとらえられ、前脚をわずかに外に開いて地面に突っ張り、蹲踞する姿が非常に精悍な印象を与える。やや細身の引き締まった体型、全体の姿勢の取り方などが、平安時代後期の日本で製作された獅子・狛犬に通ずる特徴を示しており、その源流を考える上でも注目に値するという。
順陵の獅子とは別系統の頭部の小さな獅子で、たてがみもほとんどわからない。頭巾のようなものが背中に密着している。

日本では、獅子が狛犬となるのだが、狛犬は阿吽の違いだけで同じ表現だと思っていたので、獅子と狛犬という組み合わせで一対になっていることを同展会場で知り、新鮮な思いで鑑賞していった。

獅子・狛犬 平安時代 木造彩色 像高 獅子41.8狛犬42.8㎝ 東寺旧蔵
『獅子と狛犬展図録』は、両耳を立て、目を見開いて開口して左斜め前方をみる阿形像と、角を表して両耳を伏せ、目を閉じがちにして閉口し、右斜め前を睨む吽形像の一対である。ともに、面相やたてがみなどを深く彫り表し、背中を丸め、前脚と後脚の間隔を狭めて蹲踞している。構造の詳細は不明ながら、基本的に一木造とし、前後に割矧ぐ可能性が説かれている。現存する最古の獅子・狛犬像であるという。
獅子・狛犬とは、片方が獅子、もう一方が狛犬の組み合わせということのようだ。
同書は、獅子狛犬の出発点ががこれかと思われる像の残っていたのは、まさに奇跡的としかいいようがない。何を措いても注目しなければならないのは、無角と有角からなる一対の守護獣が初めて出現したことであり、もうひとつは、以前からあった非対称形の守護獣一対の造形の名残りが認められることである。開口無角が獅子、閉口有角が狛犬であるという。
1本の角のあるのが最古の狛犬だった。尾は3つに分かれているが、隋時代の獅子よりも頭部が小さく、かっこいい。
妙楽寺塔の獅子とは造形がかなり異なってはいるが、頭部が小さいのは、このような五代期の様式が将来されたものと言われれば納得できる。
二頭で同じものを睨んでいるみたい。

ところで、狛犬はいつ頃できた言葉だろう。
同書は、正倉院には、複数の獅子頭が伝えられている。8世紀から9世紀に記録された寺院の資材帳には、「高麗犬」や「狛犬」などの資材が載せられており、これは舞楽の仮面、即ち獅子頭を表しているが、ここに「狛犬」の名称が現れる。その一部の標記には、角を持っていたと推定されるものがあり、この後、獅子とともに一対として安置される角を持つ狛犬が登場するに至る。このような狛犬角を持つ狛犬の古例として、春日大社の若宮社に奉納された古神宝の中に残されている鋳銅製の狛犬が注目されよう。一対として奉納されたのか、その用途がどのようなものであったかは検討を要するが、由緒ある大社の古神宝に残されている意義は極めて大きいという。

狛犬 平安時代 鋳銅鍍銀 像高18.0㎝ 奈良春日大社蔵
同書は、鋳銅製で頭上に角をもって閉口する吽形像で、背を反らし気味にして、前脚を伸ばして蹲踞する。簡略な表現になるが、その全体感絶妙のバランスによっており、鋳造技術の優秀さとともに完成度は極めて高いという。 
図版で見るのと、展覧会場で現物を見るのとの違いは、図版では大きさが実感できないことだ。現物を見ていても、時を経ると忘れてしまうこともある。
妙楽寺塔の獅子を思わせる胸の張りと前肢の踏ん張りに、東寺旧蔵の狛犬のような顔と角が付いている。たてがみは、妙楽寺塔本の頭巾状のものを少し立体的にしたようだ。

狛犬 平安時代、寛治元年(1087年)か 木造彩色 像高 阿形52.2吽形52.1㎝ 奈良薬師寺蔵
同書は、南都薬師寺鎮守の八幡宮に伝来した獅子一対の古例で、平安後期の優雅な表現になるものとして知られている。吽形像に角やその痕跡がない、獅子一対の一具像と考えられるが、阿形像が原則として一材製とするのに対して、吽形像は頭部の後方を矧ぎ目として前後二材製とするようである。阿形像州浜座の底面に墨書があり、現存する狛犬の中で最古の在銘像と思われる。穏やかな彫法による典雅な表現は、阿吽両像によって技法が異なるという過渡的な性格からしても、11世紀の第4四半期を造像期とすることに矛盾はないという。
二頭ともに狛犬?どちらにも角はないが。
東寺旧蔵の獅子・狛犬のようにたてがみの先端が巻いていないが、踏ん張る前肢は妙楽寺塔の獅子に似ている。
吽形像はよくわからないが、阿形像の脇には肋骨が表されている。

獅子 平安時代 木造彩色 像高 阿形26.8吽形27.1㎝ 岡山県津山市高野神社蔵
同書は、針葉樹材の一材を前後に割矧ぐ一対。像は獅子像として造像されたもので、阿吽の一対として、顔を体と同じ向きの正面を睨み、前脚を直線状に表して蹲踞している。頭部から胸を丸々と表して背中から後脚にかけてアールをまろやかに描く姿は、御上神社や厳島神社の平安造像例に極めて近いという。
妙楽寺塔の獅子とは別の系統の獅子像を手本としているようだ。

獅子・狛犬 平安時代以降 木造彩色 像高 獅子51.4狛犬60.3㎝ ロサンジェルス郡美術館(LACMA)蔵
同書は、近年に見出された一対で、極めて注目される一作である。構造の詳細等は不詳ながら、その形姿からして、シンプルな構造が想定される。阿形像は大きく口を開けて怒号するような表情をとって、斜め左下を睨みつけ、吽形像は瞋目閉口して、威圧するかのごとくに右前を凝視する。いずれも、痩身で、前足を直線的に立ち上げて踏ん張りながら蹲踞する。表情は、いずれも端的にいって獰猛であり、異様な迫力を感じさせる。その形姿からすると、古様な趣に満ちているが、極めて類例の乏しい形式であり、独自性の強い作風になるという。
頭部が小さいので妙楽寺塔系の獅子。狛犬の角は枝分かれしている。
幾つかに枝分かれする尾は日本では定番になっているようである。それにしても、現代に造られたのかと思うくらい特異な表現のたてがみだ。前肢に蕨手状の毛の房が、下から上に伸びている。
阿形の脇腹にはうっすらと肋骨を浮き出させているが、吽形は背中にまで肋骨をはっきりと刻んでいる。
長い前肢を真っ直ぐ下ろしているところなど、エラムのライオン像を思い起こさせるが、胴部は45度くらい前傾している。

狛犬 平安時代~鎌倉時代(12世紀) 木造彩色 像高 阿形88.0 吽形93.0㎝ 奈良市手向山八幡宮蔵
同書は、東大寺に隣接する手向山八幡宮は、奈良時代に大仏造像の支援をするために、八幡神が九州の宇佐から東上し、この地に鎮座した天平勝宝元年(749)に始まる。像は、大きく別材を寄せる寄木造になり、内刳りされている。古作になるのは吽形像で、頂上に角を表し、頭部を右真横に向け、目を大きく見開き、閉口して右前を凝視する。前脚はやや前に進めて揃え、後脚を前に寄せ気味にして蹲踞する。頭部は面長に表し、目鼻の彫り込みは深く立体的で、その表情も個性的である。全体として細身の体躯で、筋肉質となる。これらはやはり新しい様式への移行が窺えるもので、大宝神社像など、鎌倉時代の作例の先駆的な性格が顕著である。治承4年(1180)の南都焼き討ちによる被災の復興過程での造像とみられ、12世紀第4四半期を代表する狛犬像である。なお対になる阿形像、即ち獅子は後世の補作とされているという。
これも妙楽寺塔系の獅子、いや狛犬か。狛犬の角は、正面向きなので分かりにくいが、先が切れたものが2本、おそらく枝分かれした1本の角だろう。
たてがみの先は巻いているが、控えめな造形で、共に肋骨が浮き出ている。
前肢上部に巻き毛が付き、しゃがんだ後肢にも巻き毛が表されているようだ。尾は2つに分かれている。

獅子・狛犬 鎌倉時代初 木造彩色 像高 阿形51.5吽形55.7㎝ 滋賀県大津市神田神社蔵
同書は、ともに原則としてケヤキの一材製として内刳りしない、ほぼ丸彫りになっている。現状は、近年の修理もあって当初の像容と異なっているが、獅子はやや左前を向き、狛犬は別材製の角を表してやや右前を向いている。その瞋怒相は、激しいものではなく、胸筋を大きく膨らませる古様さを残している。バランスのよい典雅な様からして、鎌倉時代も早い頃の作と推定されようという。
やはり尾は複数に分かれている。狛犬の角は小さく、枝分かれしていない。
たてがみは誇張や巻きはないが、髭のようなものが顎を巡っている。

狛犬 鎌倉時代 木造彩色 像高 阿形83.1吽形91.7㎝ 和歌山県かつらぎ町丹生都比売神社蔵
同書は、丹生都日売神は、地域における丹生という水銀や水分の女神であったとみられるが、空海の高野山開創に際して、その鎮守神の一人となり、高野山の発展とともに信仰も盛んになってゆく。この高野山麓に鎮座する丹生都日売神神社には、古作として4対の獅子・狛犬像が伝えられている。そのうちの一対で80㎝を超える大きさの堂々とした作例である。両像ともに正面を凝視し、吽形像は角を持つ狛犬として表される。獅子は、大きく口を耳の下まで裂けるが如くに開けて咆哮するようで、対して狛犬は大きな口を力強く結び威圧する。いずれも、筋肉表現を大掴みに表し、像の大きさもあって重量感に富んでいる。しかし、細部の表現には堅さも認められ、僅かに時代の下降を感じさせるという。
豊かなたてがみだけでなく、頭部が大きく表されるが、その割に狛犬の枝分かれする角は小さい。
前肢・後肢には房毛が3筋、尾は何本かの房毛が広がっているみたい。

獅子・狛犬 鎌倉時代(13世紀初) 木造彩色 像高 阿形78.0吽形75.5㎝ 滋賀県長浜市菅山寺蔵
同書は、広葉樹の前後矧ぎになり、獅子は大きく開口するために鼻から上顎部を割矧ぐようである。上半身の堂々とした瞋怒相や筋肉表現に対して、下半身は細身であり、背筋などを表す様は、安貞元年(1227)在銘とされる近在の白鬚神社像に近い。その威圧的な迫力は、白鬚神社像より古様を表すともみられ、13世紀も早い頃の作とみられるという。
狛犬はあまり目立たない角をつけ、阿吽の他は獅子と大差ない造形である。体にまとわりつくような長い房状のものと、顎髭のようなものの、二重のたてがみは、大津市の神田神社本に共通する。

狛犬 鎌倉時代、元亨年間(1321-24年) 木造彩色 像高 阿形87.8吽形90.0㎝ 滋賀県栗東市大宝神社蔵
同書は、本殿に安置されて聖なる領域を守護していた一対で、玉眼を嵌入し、いずれも前後二材矧ぎとして、適宜に割矧ぎも施して大きく内刳りしている。阿形像は、大きく開口して歯列や牙、舌などを表し、たてがみは巻き毛とする。吽形は、頭上に一角を頂き(後補)閉口して牙を表し、たてがみは房状に垂下させる。やや右斜め前を睨みつけ、四肢を踏ん張って蹲踞する。吽形頭部内面に記される後世の修理墨書に「元亨年/中営作」などとあり、14世紀前半に造像された可能性を示唆している。その量感に溢れた表現などからして、元亨年間頃の作としてよかろう。やや形式化した表情などに時代の趨勢が窺えるが、筋肉質な表現などは的確な立体表現として評価できる。守護獣としての威圧感を感じさせる、堅実な作例であるという。
狛犬の角は段々小さくなっていくのかと思っていたら、大きなものが現れた。そして、二重のたてがみは立体的に表される。
目力を感じるが、玉眼でなくても良さそう。

獅子・狛犬 鎌倉時代-南北朝時代 木造彩色 像高 阿形92.0吽形92.0㎝ 岡山市吉備津神社蔵
同書は、本殿は南北朝時代の観応2年(1351)に焼失、応永32年(1425)に再建された。その本殿の内陣逗子両脇に安置されるのが、この注目すべき獅子・狛犬像である。寄木造として内刳りし、矧ぎ面には丁寧な布張りを施し、錆地として、獅子には金箔を、狛犬には黒化しているが銀箔を施して、髪などを彩色して仕上げている。獅子は、髪を大きく垂らし、目を見開いて開口し、ほぼ左横を向いて右前足を前に大きく出して、後脚の間に左前足を入れて蹲踞する。顔から体にかけての筋肉表現は、強調が過ぎるほどに秀逸で、獅子の動的な姿勢に対する狛犬の静的な姿勢と、阿吽の対比をものの見事に表している。この獅子・狛犬は、観応時の被災に際して、消火に努めたという伝承が真実みを持つほど、その迫力が的確に表現されている。あるいは、重源が請来した宋様の作風を基礎としながら、鎌倉時代通有の姿形に整えたかの想定も出来ようという。
宋風の獅子がどのようなものかわからないが、顔も小さく、たてがみも鎌倉時代のものとは違っている。 

仏像と同様に、獅子も狛犬もそれぞれの時代に中国から将来された様式が日本で変容して、日本的な造形になっていく。

エラム中王国のライオン像

関連項目
石造の鎮墓獣は後漢からあった
仏像台座の獅子4 クシャーン朝には獅子座と獣足
仏像台座の獅子3 古式金銅仏篇
仏像台座の獅子2 中国の石窟篇
仏像台座の獅子1 中国篇
獅子座を遡る

参考サイト
日刊ギリシャ檸檬の森 古代都市を行くタイムトラベラー古代カイロネイア紀元前4世紀ライオン像 ニコポリス

参考文献
「獅子と狛犬 神獣が来たはるかな道展図録」 MIHO MUSEUM編 2014年 青幻社
「世界美術大全集4 ギリシアクラシックとヘレニズム」 1995年 小学館
「コンマゲネ王国ネムルート」 2010年 A Tourism Yayinlari
「誕生!中国文明展図録」 編集東京国立博物館・読売新聞 2010年 読売新聞社・大広

2018/03/27

エラム中王国のライオン像


テヘランのイラン国立博物館に展示されていたライオン像(スーサ出土)は、エラム古王国から中王国時代(前2千年紀)のものとされているが、何故か蹲踞する狛犬を想像させる。門前で守護するために本来は一対で置かれていたものかも。
でも、側面から見ると狛犬よりも身を立てている。それは前肢が長すぎるからだろう。

門前の守護獣といえば、ペルセポリスの万国の門入口の牡牛像や出口の人面有翼牡牛像(前5世紀)、アッシリアはニムルドのラマッス(前9世紀)などがあるが、いずれもライオンではない。後期ヒッタイト時代(前10-9世紀)では、城門の守護獣はライオンだが、どれも門に組み込まれていて、このライオンのように独立してはいない。
ヒッタイト時代の門にもライオン像がある。

『世界美術大全集東洋編16』は、ヒッタイトの首都ハットゥシャ(現在名ボアズキョイ)は、前13世紀ころハットゥシュリ3世(在位前1263-1245)とトゥトゥハリヤ4世(在位前1244-1220)の時代に大きな変貌を遂げる。市域は南方に大きく拡張され、それに伴いライオン門、スフィンクス門、「王の門」を含む長大な城壁が築かれたという。

ライオン門 前13世紀 石灰岩 像高約213㎝ トルコ、ボアズキョイ西側の門の外側
『世界美術大全集東洋編16』は、前脚をそろえて立つライオンが、左右対称に門の両側に刻まれる。口を大きく開けて咆哮し、舌は外に垂れている。舌を出すライオン像は、のちの新ヒッタイト時代の門を守護するライオン像に同様の表現が認められる。目はくぼみとしてしか残っていないが、もともとは別の物質で象嵌されていたものと考えられている。耳は円形に近い形となっているという。
スーサ出土のライオンは、舌は垂らさず、歯や牙がしっかりと造形されている。
同書は、ライオンの胴部には、太い刻文と細い刻文を組み合わせて軽くカールするたてがみが詳細に表現されている。前脚の付け根の外側には、半球形状の突起が表現され、そこも放射状に同様の刻文による装飾が見て取れる。これがいわゆる「獅子のたてがみ毛渦」を表現したものであるという。
確かにたてがみが線刻されてはいるが、先のとがった房は様式化されていない。残念ながら、その毛渦までは写っていない。

『獅子』は、アッシリアの勢力が去ったあとのアナトリアは、ヒッタイトの支配するところとなった。かれらはボアズカレやアラジャホユックなどの大都市を次々に建設し、そこにライオン像を置いた。アッシリアから伝えられた王権の象徴ライオンは、あらたに王城や門を守護する番神となったのである。
ところで、ヒッタイト人にとって勇敢な百獣の王は、ライオンよりむしろヒョウのほうであった。したがってかれらの太陽神であるヘパトはヒョウを遣いとして随えることが多く、ライオンは門を護る獣に役割交代していったようである。大都ボアズカレの城門には、よく知られた「獅子門」があり、兵士の出征する大門の両脇を獅子像が護っている。このように、城門に置かれた一対のライオン像は、西はギリシアのミュケナイにまで広まり、東はインド、中国を経て、日本にも伝わった。狛犬はその実例であるという。
舌は出ていなくても、スーサのライオン像の祖先とみてよいのだろう。

立ち上がったライオンに守られる墓 フリギア時代、前8世紀 アンカラの西方、アスラン・タシュ
『獅子』は、フリギア王国はゴルディオンを都とし、前8世紀頃、中央アナトリアで権勢を誇った(前695年滅亡)。墓の主は王か、貴族か不明という。
岩山で立ち上がるライオンが一対で中央の柱状のものに前肢で寄りかかっている。
これはスーサのライオン像よりも後の時代のものだ。 

このような造形は、ミケーネのライオン門(前13世紀)にあった。
『古代ギリシア遺跡事典』は、2つ並んだ祭壇を覆う板に前足をかけて伸び上がる、向かい合った2頭のライオンと、その間におかれた円柱である。円柱は、宮殿の象徴と考えられているという。
一対のライオンは、ミケーネへの城門の上に掲げられている。

もっと古い例がある。

獅子文様壺 前3千年紀初頭-中期 緑泥片岩(クロライト)・トルコ石 高20.0底径14.2-14.4厚0.75-0.9㎝ 東イランか MIHO MUSEUM蔵
『MIHO MUSEUM南館図録』は、各対のライオンは、湾曲した左右対称の枝をもつ単純な木を挟んで配置されている。どのライオンも同じ姿勢をとっており、主として輪郭線で表現された平板なスタイルもほぼ同じであるが、びっしりと毛で覆われた前半身を表現した文様は異なっている。一方のライオンの毛房の文様は籠細工に似ているが、それと向き合ったライオンには、水平に配置された杉綾文様が描かれている。かつては、それぞれのライオンの大きくて丸い目には象嵌が施され、何枚かの木の葉にはまだ象嵌石が残っているという。
木を挟んで鹿のような草食獣が表されたり、木の両側から草食獣が葉を食べようと前肢で幹に寄りかかっている場面などもあるが、このように生命の樹を守護するようにライオンを登場させることもあった。
左の方はたてがみが網代文様に、右の方は杉綾文様(ヘリンボーン)にしているのは楽しい。


このライオンの表現は、エラム古王国時代からの伝統ということになりそうだ。

ナルンディ女神像 エラム古王国時代、前2100年頃 イラン、スーサ出土 石灰岩 高さ109㎝ ルーヴル博物館蔵
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、椅子に座す女神で、右手には杯、左手には棗椰子と思われる木の枝を握っている。石の左右には座ったライオン、後部には儀仗を持って立ち上がったライオンが2頭描かれている。台座正面にはパルメット文を中心に2頭のライオンが横になっている。ライオンを聖獣として従える女神という。

丸彫りではなく浮彫りだが、前肢が長いことが共通している。
また、側面なので分かりにくいが、舌は出さず、口を大きく開いているのも、この地の伝統のよう。


『獅子と狛犬展図録』は、アナトリア前6000年紀の遺跡チャタル・フユック出土の有名な、過度に豊満な地母神像は、雌ライオンあるいは豹を両脇につけた玉座に鎮座している。これは残存するこの猛獣玉座の最古例であると言うことができる。こうした護る者としてのネコ科科の猛獣意匠は、古代オリエント、東地中海域の守護聖獣の基本的な心象であって、各時代地域の神々、仏・菩薩、尊者、王などの玉座、神殿・寺院、城塞都市、墓所などの前面・入口に据えられたという。
門に組み入れられたライオン像も、聖樹の両側のライオンも、アナトリアの地母神像の玉座から派生したものということになるようだが、エラム中王国時代のライオン像は、丸彫りで独立しているという点で特異なものと言えるだろう。

                     →獅子から狛犬へ

関連項目
獅子座を遡る
仏像台座の獅子3 古式金銅仏篇
仏像台座の獅子2 中国の石窟篇
仏像台座の獅子1 中国篇

参考文献
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
「獅子 王権と魔除けりシンボル」 文荒俣宏 写真大村次郎 2000年 集英社
「古代ギリシア遺跡事典」 周藤芳幸・澤田典子 2004年 東京堂出版
「MIHO MUSEUM南館図録」 杉村棟監修 1997年 MIHO MUSEUM
「獅子と狛犬 神獣が来たはるかな道展図録」 MIHO MUSEUM編 2014年 MIHO MUSEUM

2018/03/23

アレクサンドロスの向かった道2 ペルセポリスから中央アジア


『図説アレクサンドロス大王』は、ペルセポリスから北東へ直線距離で43㎞の地点に、パサルガダイの都がある。アレクサンドロスはここも接収した。慣例に従って女達一人ひとりに金貨を与えた。またキュロスの墓に大きな感銘を受けた。6年後にインドから帰還して再びここを通過した時、キュロスの墓が荒らされているのを発見し、部下に修理を命じているという。
パサルガダエは現在現地ではパサルガードと呼ばれていて、今回のイラン旅行でも見学した。
キュロスの墓についてはこちら

『図説アレクサンドロス大王』は、エクバタナまであと3日の地点(現アラク)で、かつての王アルタクセルクセス3世の息子ビスタネスと出会った。彼によれば、ダレイオスは騎兵3000と歩兵6000を率いて4日前に逃走した。
アラクを出発して11日目にラガイ(現シャフレ・レイ)に着いた。アラクからラガイまで約300㎞つる途中には「塩の砂漠」の西端にあたる荒れ地があり、細く流れる水は雨季でも塩分が多いため飲み水には適さない。この時ダレイオスは、ラガイの先の南カスピア門と呼ばれる隘路を通り過ぎていたという。
アルタクセルクセス3世(在位前359-38年)はペルセポリスのラフマット山中腹にアケメネス朝式の摩崖墓を築き、そこに埋葬されている。

同書は、大王はラガイに5日間留まり、軍勢を休ませた。それから追撃を再開し、東へ向かってパルティア地方へ入った。1日目は現アイヴァネケフの川のそばに宿営し、2日目に南カスピア門を通過した。2日目は現アラダンに宿営した。
そこへダレイオス陣営から離脱したペルシア人貴族2人が出頭してきた。バクトリア総督ベッソスや騎兵指揮官のナバルザネスといった高官が、すでにダレイオスの身柄を拘束したという。まぎれもないクーデターだ。アレクサンドロスは直ちに出発した。途中で休んだ地点は現アブドルアッバードと思われる。次の明け方にはダレイオスが拘束されたという宿営地(現ラスジェルド)に着いた。
ここで新しい情報を手に入れた。ダレイオスは箱馬車で護送されている。ベッソスはダレイオスを黄金の鎖で縛り、外から見えないよう馬車を獣皮で覆っていた。
その夜から翌日の昼まで駆け抜けてとある村にやって来た。そこはダレイオス一行が前日に宿営した場所だという。現セムナンあたりと思われる。
出発したのは午後も遅い時間だった。夜明けごろ、現ダムガンあたりで遂に追いついた。ベッソスらは何とかダレイオスを連行しようとした。しかし相手がすぐ後ろに迫ったため、仲間の二人がダレイオスに剣で切りつけ置き去りにして逃げ去った。アレクサンドロスが到着した時、ダレイオスはすでに息絶えていた。前330年7月、享年約50歳だった。大王は遺体をマントで覆い、ペルセポリスへ運んで埋葬するように命じた。
ダムガンはダレイオス死亡地点の第一候補地、シャールードは第二候補地という。
同書の「ダレイオス3世追撃行の調査」という図を参考に、Google Earthでそれぞれの地点を調べてみた。

『図説アレクサンドロス大王』は、ダレイオス追撃行を終えたアレクサンドロスは、ヘカトンピュロスという町に戻って後続部隊の到着を待ち、軍を再結集した。ヘカトンピュロスは「百の門」という意味で、カスピ海沿岸地方と中央アジアを結ぶ交通の要衝である。東寺の名称は不明だが、のちにセレウコス1世がこれを拡張し、ヘカトンピュロスと改名した。
クルティウスの大王伝によれば、次のように兵士達に語った。遠征はまだ終わっていない。ペルシア人はまだ我々の支配に馴染んでおらず、王に背いたベッソスはバクトリアの地から我々を脅かしている。どんな小さな火種でも、残しては大火になろう。反逆者を倒せば最高の栄誉が得られるのだ。
兵士達は熱烈な歓呼の声で応え、どこへでも望みのところへ連れて行ってくれと叫んだ。アレクサンドロスの目ははるか東へ向けられていた。ここからはいかなる大義名分にもとらわれない彼自身の遠征が始まるのだ。
ヘカトンピュロスを発ったアレクサンドロスは、エルブルズ山脈を越えてカスピ海南岸に至り、属州ヒュルカニアを平定した。そこでベッソスがバクトリアで王位を名のっているとの知らせが入った。アレクサンドロスもこれに対抗してペルシア風の衣装や宮廷儀礼を採用し、旧王族を側近に取り立てる。今やアケメネス朝の後継者としての正統性を争う立場になったのである。
遠征軍は酷寒のヒンドゥークシュ山脈に入り、翌年春にはバクトリアへ達し、炎熱の砂漠を越えてオクソス川(現アムダリア川)に到達した。ベッソスは仲間の裏切りにあって大王に引き渡された。アレクサンドロスは彼を王に対する反逆罪に問い、エクバタナ送って処刑させたという。
メルヴのエルク・カラは広大な遺跡をバスで走り抜けて辿り着いた、丘のような遺構だった。
トルクメニスタンの現地のガイドさんは、アケメネス朝期に栄えていたマルグッシュが、マルガブ(Murgab)川の流れが変わって衰退したため、場所を変えて建設されたのがメルヴ。メルヴのエルク・カラにアケメネス朝の都城が造られた。
周りに川があるという地の利を活かし、防衛のため高い城壁を築いた。当時は登り口の近くに橋があったらしい。
前4世紀末にアレクサンドロスが遠征してアケメネス朝が滅ぶ。アレクサンドロスはエルク・カラにアレクサンドリア・マルギアナという町を築いたと言っていたが、この文によるとメルヴには行っていない。
『アレクサンドロス大王と東西文明の交流展図録』の「アレクサンドロス大王の東征ルートとシルクロード」の地図では、中央アジアではある地点からシルクロードと東征ルートが重なっているが、このシルクロードはアレクサンドロス大王以前からあった交易路を指すのだろう。当時あった道路を通るのは、目的地への最短で楽なルートだったはず。
やはりこの地図でもメルヴはアレクサンドロスのルートから外れている。

南ウズベキスタン、テルメズ郊外のオクサス河畔に位置するカンプル・テパ遺跡もアレクサンドロスと関係があるようだ。
『偉大なるシルクロードの遺産展図録』は、15世紀のペルシャの著述家ハーフィズ・アブルーは、アムダリヤの渡し場のリストの中に、タルミズ(テルメズ)より西方におけるさらにもう一つの渡し場を挙げた。
それには次のように述べられている『<ブルダグイ>はテルメズに近いジェイフン河岸の土地である。そこはテルメズよりもずっと以前に存在し、アレクサンドロス大王によって築かれたと言われている。<ブルダグイ>とはアレクサンドロス大王の時代にあたえられたギリシャ名称であり、<客をもてなす家>という意味であった。』という。

Google Earthで見てみると、アレクサンドロスが名付けたオクサス川(アムダリヤ)の港町ブルダグイからマラカンダ(サマルカンドのアフラシアブの丘にあった町)へ、次いでイスタラフシャンでロクサーヌと結婚してホジャンド(アレクサンドリア・エスハータ)へと進軍していった道のりが概観できる。

後のアラブ軍はマラカンダからザラフシャン川に沿ってペンジケントを破壊して東進したが、アレクサンドロスは山岳地帯を避けてマラカンダへと向かっことになる。
サマルカンドのアフラシアブの丘は、モンゴルの破壊で廃墟と化した町の遺跡だが、それ以前にも度々破壊と再建を繰り返してきた。
『中央アジアの傑作サマルカンド』は、紀元前4世紀後半、アジア大陸の西側からアレクサンダー大王を先頭にギリシア・マケドニア軍が侵入してくる。それにより、アケメネス朝ペルシア大国は粉砕されてしまう。
アレキサンダー大王は一時的にマラカンダに野営し、懲罰などは自身で直接指導していた。周知のように、彼は街の近くの帝国のバシスタ自然公園で、ライオン狩りを楽しんでいた。
戦友であり、ソグディアナの支配者に任命されたアレキサンダーの乳兄弟のクリットは、大王に「この国は、以前にも反乱を起こした。そして、征服されたことはないし、これからも征服されることはないはずだ」と述べた。その後、マラカンダの宴会で、アレキサンダー大王は怒りクリットを殺す。そして、反乱が鎮圧され、スピタメンも戦死した後、アレキサンダー大王はマラカンダの全てを滅ぼしてしまった。
この当時、12万人のソグド人が死亡し、繁栄していたソグディアナは破壊された。しかし、サラブキー時代にはこの地域は復興され、ヘレニズム文化の東の前進的な中心地となったという。当時はマラカンダと呼ばれていたのだ。

『図説アレクサンドロス大王』は、このあとマケドニア軍は、当時アジアの果てと見なされていたヤクサルテス川(現シルダリア川)に至り、アレクサンドロスはその河畔に「最果てのアレクサンドリア」を建てた。ところがペルシア人貴族スピタメネスの指導下にバクトリア・ソグディアナ地方の住民が一斉に蜂起し、大王は丸2年に及ぶ困難な平定戦を強いられるという。
タジキスタンのホジャンド(ソ連時代はコージェント)こそが、アレクサンドロスが「アレクサンドリア・エスハータ(最果てのアレクサンドリア)」という名に変えた町で、ソグド人に囲まれていたために6㎞に及ぶ城壁を築いたという。今ではほとんど土の塊のようになってはいるが、その一部が町の中に残っている。
ホジャンドから南西にあるイスタラフシャンという町は、アレクサンドロスがこの町のロクサーヌと結婚して、町を出て行く時に、人々が「ロクサーヌを連れて行かないで」と言った言葉が、なまって現在の町の名前になったのだという。町の北にあるムグ・テパという遺跡は、アケメネス朝のキュロス大王が砦を築き、アレクサンドロスが破壊したのだそう。
こんな風に自分の旅してきた土地が、ピンポイントではなく、アレクサンドロスの東征ルートということばで繋がって線となった。

アレクサンドロスの向かった道1 スーサからペルセポリス 
                           → パサルガダエの遺構に新説

関連項目
パサルガダエ(Pasargadae)3 キュロス2世の墓
カンプル(カンプィル)・テパ遺跡1
イスタラフシャン1 ムグ・テパ遺跡
ソグド州博物館1 ホジャンドにアレクサンドロス大王が
ペンジケント(パンジケント)遺跡1 2、3階建ての建物跡
アフラシアブの丘を歩く
メルヴ1 エルク・カラ

参考文献
「図説アレクサンドロス大王」ふくろうの本 森谷公俊著・鈴木革写真 2013年 河出書房新社  
「偉大なるシルクロードの遺産展図録」 2005年 株式会社キュレイターズ
「中央アジアの傑作 サマルカンド」 アラポフ A.V. 2008年 SMI・アジア出版社 

2018/03/20

麩嘉(ふうか)の春限定さくら麩饅頭


ものすごく久しぶりに和菓子の記事です。

麩嘉の錦店の楽しいホームページを見ていて、さくら麩饅頭が限定販売されていることを知った。大阪の東洋陶磁美術館に行ったついでに京阪電車で四条駅までおけいはん。

鴨川を渡って、
観光客で埋まった四条を西進、寺町通で錦小路へ。錦小路の東側には錦天満宮。
狭い錦小路は四条通よりも人で埋まっていた。
たまに通ると、それまで見たことのない店舗が目に付くが、今回もまた串に刺したテンプラなど、京都らしからぬお店が増えていて、それらを買い求める人、数人が団子になって通の脇で食べる人たち、食べながら歩く人などで、なかなか麩嘉には近づけないのだった(人を避けて写した)。
やっとお店を堺町北角に見つけた時には、写真を撮るのも忘れていた。

そしてお目当てのさくら麩饅頭は付き3月13日からとのこと(4月15日まで)。またフライングしてしまった。結局は他の生麩や利休麩と一緒に送ってもらうことにした。、お店の人に、ホームページからは購入できないのでと言うと、電話でなら注文できるのだそう。

届いたさくら麩饅頭はこんな箱入り(5つ)。


どんな皿に盛り付けたら似合うだろう。

総織部の青葉の皿
同じく総織部の笹の葉

でも新緑には早すぎるので、糸巻きの皿がよいかも。
桜の葉で巻いてあるので、口に含むと桜餅の香りが広がるが、桜餅のつぶつぶ感ではなく、生麩のつるんと逃げそうだがもっちりとした食感と、その中から漉し餡の淡い甘みが出てくる。
まだ咲かない桜を、目と口で先取り。
そしてものすごい大服の薄茶を点ててしまったので、
笹の葉に包まれた定番の麩饅頭も続けて頂きました。

生麩は冷凍もできるので、じっくり料理を考えながら使いたい

いつも伊勢丹京都駅店で麩嘉の麩饅頭や飛龍頭、そして生麩をいろいろ買って帰るが、利休麩は扱っていないのが残念だったので、今回は利休麩も。
利休麩は薄切りにして少しの出汁で暖め、同じく電子レンジで温めた大根おろしと、細切りにした青じそをのせて頂きました(写真取り忘れ)。
そのままスライスして食べると、意外と濃い味だった記憶があるのだが、こうして食べると、利休麩の面白い歯ごたえと、噛むほどに出てくる味とが楽しめました。

参考サイト
麩嘉の錦店のホームページ

2018/03/16

アレクサンドロスの向かった道1 スーサからペルセポリス


今回のイランの旅で、スーサからやって来たアレクサンドロスが、ここを通ってペルセポリスへと向かったとイランでは思われている場所が見えるところで写真ストップした。それはシーラーズ山脈からビーシャープールへと向かってザグロス山脈に入り、アボルハヤートという町へ出る前の切り通しのような地点だった。
Google Earthより

アケメネス朝ペルシアでは広大な版図に「王の道」が張り巡らされていたのは知ってはいたが、移動中はザグロス山脈の景観、中でも古代テチス海の鮮烈な色彩に目を奪われて、王の道が実際にどこを通っていたかまでに思いを馳せることができなかった。
『ペルシア帝国』は、ザグロス山脈南方の小地方、ペルシアから出発して、キュロスとカンビュセス各王の軍隊は、広大な領土を席巻した。ダレイオスの時代に版図は、バルカン半島からインダス河渓谷、サマルカンドからナイル河第一瀑布にいたるまで拡張した。帝国中心部の3首都ペルセポリス、スーサ、エクバタナの各王宮から、国道(「王の道」)が延びて、交通を可能にしたという。
『古代オリエント事典』は、20-30㎞間隔で宿駅が、行政区の境界地点や渡河地点など要衝の地には関所や衛兵所が設置され、交通の便と安全がはかられたという。
スーサからペルセポリスまでのルートは、この地図を見てもアボルハヤート辺りは通っていないようだ。

ある新聞の書評欄で『アレクサンドロス大王東征路の謎を解く』という本が紹介されていたので、早速購入した。
同書は、スーサからペルセポリスへ至るには、ザグロス山脈を越える「王の道」をたどらねばならない。その道は具体的にどこを通っていたのだろう。それを知りたくて文献を調べていくうちに、米国の古代史研究誌に発表されたスペックという研究者の論文がこの問題を扱っていることがわかった。
スペック説の当否を検証するため、私自身がイランで実地調査を行うことにした。
アレクサンドロスは前331年12月下旬にペルシア帝国の都スーサを出発し、前330年1月末にペルセポリスへ到着した。この間の経路については、ローマ時代に書かれて現存する5篇の大王伝のうち、アリアノス、クルティウス、ディオドロスの三人が比較的詳しく記述している。それによると、アレクサンドロスはスーサ進発後、山岳部族のウクシオイ人と戦ってこれを制圧し、それから副将パルメニオンに輜重部隊を委ねて平坦な道を進ませた。彼自身はペルシア門と呼ばれる隘路でペルシス州総督アリオバルザネスの軍隊を破り、ペルセポリスを占領した。しかし3篇の記述には多くの食い違いがあり、具体的な経路も極めて曖昧である。
スペックは、ザグロス山中で実地調査に基づいて、まったく異なる結論に到達した。
スペック説は単なる遠征経路の復元にとどまらず、アカイメネス朝時代の「王の道」に対する根本的な見直しを含んでいる。詳細な実地調査をふまえた彼の新説は、近年アレクサンドロス研究における最も注目すべき成果であるという。
アレクサンドロスはスーサからペルセポリスまでは「王の道」を辿り、その道はザグロス山脈の中を通っていたのだった。
『ペルシア建築』は、スーサからペルセポリスまでと、スーサからエクバターナまでのルートは舗装さえしてあった。これらはすべてローマ帝国の道路網の先駆をなすものと言えるという。
北西から南東方向に数本に分かれるこのザグロス山脈の中を、舗装された「王の道」が通っていたとは。道路は険しい山中は避けて、できるだけ平たい場所に造ったのかと思っていた。
『アレクサンドロス大王東征路の謎を解く』は、アカイメネス朝時代、スーサ~ペルセポリス間の「王の道」には、夏のルートと冬のルートがあったと考えられる。夏のフーゼスタン平野は猛烈な暑さだが、ザグロス山中のカールーン川沿いはそれほど暑くなく、冬には積雪がある。ディオドロスの記述によると、スーサの東の渓谷を抜けた先にペルセポリスへ通じる快適な山の道があり、これが夏のルートを指すと思われる。一方、平地のベフバハーンを経て、ファーリアンないしヌーラーバードを通る経路は冬のルートであったろうという。
確かに、旅した5月でも、フーゼスタンの土地が一番暑かった。午後には40度を超え、50度近くに達するところもあったほどだ。
Google Earthより(スーサ~ペルセポリス間は直線距離だけで500㎞を超える)
ザグロス山脈はGoogle Earthでこの程度の縮尺では幾筋かの波のように並んでいるが、もっとズームしていくと、夥しい数の峰があり、更にそれを横断して浸食された渓谷もあり、かなり複雑である。その中を著者の森谷公俊氏はスペック説が正しいかを実際に走破し、あるいは危険な山岳地帯に登り、時にはスペック説にも間違いがあることを確かめた。
今回のイランの旅はペルセポリスにもスーサにも行ったし、ヌーラーバードでは昼食もしたので、ザグロス山脈にも平地もあれば集落があることもいくらかは見てはいたのだが、山脈が幾筋もあって、その谷筋の水の流れる土地には今も人々の暮らす集落や町が点在することなどは、この本に出会わなければ知らずに終わっていただろう。
ところが、その後森谷公俊氏が『アレクサンドロス大王東征路の謎を解く』より以前に『図説アレクサンドロス大王』を出版されていることを知り、入手すると、この間の「王の道」の風景写真の多くがカラーで載っていた。前者は丁寧に地図が提示されていたが、写真は小さく白黒だったので、合わせて見ていくとザグロス山脈の表情が豊かに伝わってくる。
また、そのザグロス山中は、ただ通過したのではなく、ペルシス州総督アリオバルザネス率いるペルシア軍を打ち破りながらの行軍だった。それが実際にどこで行われたのかを森谷氏たちは実地調査したのだが、アレクサンドロスほどではないものの、そこにはさまざまな困難が待ち受けていたことが『アレクサンドロス大王東征路の謎を解く』で活写されている。

『図説アレクサンドロス大王』は、すでに真冬であった。だが12月末、アレクサンドロスはスーサを出発し、帝国の首都ペルセポリスへ向かった。冬のザグロス山脈では積雪が2mを越える。なぜわざわざ厳冬のザグロス山脈を踏破してペルセポリス占領を急いだのか。
現存する大王伝は直接語ってはいないが、兵士達の略奪欲である。古代の戦争において、敗者から略奪するのは勝利者の権利であった。マケドニア兵士にとって、征服したペルシア帝国の諸都市で思う存分に略奪することは当然の権利であり、また夢でもあったろう。ところがバビロンもスーサも平和裏に占領されたため、略奪は許されず、兵士の不満が募ったに違いない。アレクサンドロスは兵士らの不穏な空気を察知し、彼らの不満を解消する必要に迫られた。それゆえ彼は春の訪れを待つことなく、早期ペルセポリス占領を果たそうとしたのではないかという。
逃亡中のダリウス3世はエクバタナにいる。
『図説アレクサンドロス大王』は、マケドニア軍のペルセポリス滞在は4ヵ月の長きに及んだ。これも補給上の理由による。冬の間、ペルセポリスからザグロス山脈の東側を通って現イスファハンに至る道は氷に閉ざされる。それゆえダレイオス追撃には春の終わりを待たねばならなかったのだ。
5月末、出発を前にしてアレクサンドロスは宮殿に火を放った。ペルセポリス炎上、それは東方遠征における最も劇的にして最も謎めいた事件である。
アレクサンドロスはあらかじめ宮殿から金銀の塊や重要な貴金属製品を接収し、エクバタナへ運ぶ準備をした。そして5月末、兵士達に一日だけ宮殿の略奪を許した。翌日、アパダーナと玉座の間の大広間に可燃物を敷き詰めて火を放ち、大広間を支える柱の大半を破壊した。こうして宝蔵と後宮を含む4つの建物が炎上した。それから直ちにマケドニア軍はペルセポリスを発ち、ダレイオス3世に向かって進軍を開始したのであるという。

こんな風にアケメネス朝は滅亡した。それと共に、彩釉レンガという壁面装飾も消えてしまう。
下の2点はスーサ博物館に所蔵されているものだが、スーサはマケドニア軍の略奪を受けなかったにもかかわらず、このような美しい壁面装飾は後の世に受け継がれなかった。
以前はアレクサンドロスが破壊したために彩釉レンガが絶えてしまったと思っていたが、破壊には関係なく、このような壁面装飾を求める王族や貴族がいなくなってしまったために、職人が伝え続けることができなかったのだと考えるに至った。
その後施釉タイルが再び壁面を装飾するようになるのは紀元後9世紀のことである。
そして、このような一枚のタイルに多色釉で絵付けするハフト・ランギーは、サマルカンドのシャーヒ・ズィンダ廟群のなかのウスト・アリ・ネセフィ廟(1360-70年)が初現であるという(『砂漠にもえたつ色彩展図録』より)。
 
         →アレクサンドロスの向かった道2 ペルセポリスから中央アジア

参考文献
「アレクサンドロス大王東征路の謎を解く」 森谷公俊 2017年11月30日 河出書房新社
「図説アレクサンドロス大王」ふくろうの本 森谷公俊著・鈴木革写真 2013年 河出書房新社  
「ペルシア建築」SD選書169 A.U.ポープ著 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「偉大なるシルクロードの遺産展図録」 2005年 株式会社キュレイターズ
「ペルシア帝国」 知の再発見双書57 ピエール・ブリアン 小川秀雄監修 1996年 創元社
「古代オリエント事典」 日本オリエント学会編 2004年 岩波書店
「砂漠にもえたつ色彩展図録」 2003年 岡山市立オリエント美術館
 

2018/03/13

イランに残るレンガ建築


イランでは多くのレンガ建築を見学した。タブリーズのアゼルバイジャン博物館で『IRAN THE ANCIENT LAND』という巨大な本を見つけた。重くてスーツケースの重量に響くとは思ったが、思い切って買ったのは、そこには今まで知らなかったレンガや石材で造られた建造物が沢山載っているからだった。ただ残念なのは、その建立時期他の詳しい説明がないことだ。

水車場? 時代不明 ラザヴィー・ホラサーン州ホスローヴジェルド
焼成レンガで幾何学文様を描いていて、古そうなミナレットに見える。モスクが崩壊してミナレットだけが残り、水車場に転用されたのでは?

ゴンバデ・カーブース ズィーヤール朝(1006年) 高72m ゴレスターン州(カスピ海東部)の同名の町
世界遺産オンラインガイドは、ゴンバデ・カーブースは、焼きレンガで製作されていますが、世界で最も高い完全レンガ造りの塔として、知られています。ちなみに高さは、土台部分の高さを含めると約72mもあります。
この塔があるのは、ズィヤール朝の首都、ジョルジャーンの古代都市の北方3kmにあたります。土台部分には、碑文から、1006年、当時の君主であったカーブース・ブン・ワシュムギールの命により建造されたことがわかります。
塔の形は、土台部分は、十角形、先端部分が円錐形とユニークな形になっています。内部の装飾は、ムカルナス様式の初期のものとされています。設計には、黄金比Φの近似値である1.618の比率も用いられているのだそうで、高い水準の土木技術があったことがわかります
という。

『イスラーム建築の世界史』は、そびえる建築-墓塔の中で、1006年建設のゴンバディ・カーブースは、時代の画期を象徴する塔状の高い墓建築(墓塔)で、以後中央アジアからアナトリアにかけてたくさんの墓塔が建設される。
高さ55mにも達する塔で、円錐状の屋根を戴く。塔身の部分を垂直に走る鰭状のフリンジが分節し、塔身の下部と上部だけにインスクリプション(銘文)が入り、シンプルで現代的造形に近いという。
同書は、室内は円形だが、外側に10本のフリンジを設けているため、壁面は十点星となる。
ゴンバディ・カーブース以後の墓塔の建設は、トルコ系遊牧民王朝の広がりと重なる。墓塔の誕生と浸透には、トルコ系遊牧民が故地において多神教を奉じた時のトーテム・ポールのような柱への信仰、あるいは彼らが住んでいたテントの造形が影響を及ぼしたともいわれる。十点星のフリンジは、太陽や彗星の光芒を象徴したとされる。武力を重んじるダイラム人、ゾロアスター教に根ざす太陽信仰、トルコ王家から嫁いだ妻など、いろいろな要因が重なって、この塔の造形が選ばれたと推察されるという。

チェヘル・ドゥフタラン塔とジャファール聖人廟 セルジューク朝(11世紀) セムナーン州ダムガーン
コトバンクのピール・イ・アーラムダールの解説(『世界大百科事典第2版』(平凡社)の抜粋)は、後代に再建されたマスジド・イ・ジャーミーはイラン最古のミナレット(1006)を擁する。また,近郊にはセルジューク朝の円筒形墓塔ピール・イ・アーラムダール(1026)とチヒール・ドゥフタラーン(1054-55)があるという。
こちらがチェヘル・ドゥフタラン塔
焼成レンガを嵌め込んだアラビア文字の銘文や幾何学文様の装飾がある。

円塔 イルハーン朝? セムナーン州シャールード(エマームルード)近郊メフマンドウスト
網籠のようなレンガ積みの円塔の上部に、レンガの小片だけで幾何学文様やアラビア文字の銘文を構成している。ダムガーンの墓塔よりも以前に建造されたものかも。

ゴンバデ・アラヴィヤーン セルジューク朝(1038-1308年) ハマダーン州(イラン北西部)ハマダーン
アラヴィー家の墓廟。
レンガ積みで表面に浮彫漆喰で幾何学文様などの装飾を施している。

トゥグリル・ベク廟 セルジューク朝(在位1038-63年) テヘラン近郊レイ
『イスラーム建築の世界史』は、煉瓦造で20前後で縦条(フリンジ)で分節されるという。
すっきりとした円筒の上部には簡素なムカルナスの装飾がつく。

ハラカン(Kharaqan)の墓廟群 セルジューク朝(1067・1093年) カズウィーン近郊
レンガの小片を組み合わせた幾何学文様などの装飾が廟の表面を覆う。どちらも二重殻ドームの外側が崩落し、内側のドームが見えているのだろう。
大きい方の廟 高15径4m 
8面で角に付け柱があるが、円柱とドームはどのように繋がっていたのだろう。
レンガで作った幾何学文様が剥がれているのは惜しまれるが、レンガ積みが見えるという利点もある。
トルクメニスタンのメルヴにあったムハンマド・イブン・ザイド廟(12世紀)内部のレンガ装飾に似ているような。

赤いドーム 11世紀 東アーザルバーイジャーン州(イラン北西部)マラーゲ
PARS TODAY化粧タイルは、ターコイズブルーのレンガの上に書かれた最も古いクーフィック体の例は、イランの考古学博物館に収蔵されており、11世紀のものです。その中にターコイズブルーのタイルが使用された古い宗教的な建物には、イスファハーンのセイイェドモスク、マラーゲの赤いドーム、ゴナーバードのジャーメモスクがありますという。
正方形から八角形に移行しているが、ドームは見えない。四隅のムカルナスが見える建物としてはヤズドのダヴァズター・イマーム廟(1037年)と共通するが、こちらは付け柱が巡ったり、空色タイルが嵌め込まれたりと装飾性の高い墓廟である。

フラグの母の廟 イルハーン朝(13世紀) マラーゲ
焼成レンガと空色タイルの組み合わせのように見えるが、薄過ぎるので浮彫漆喰かも。
石材で建て、焼成レンガと空色タイルで装飾している。

金曜モスク(マスジェデ・ジャーメ) 13世紀後半 西アーザルバーイジャーン州オルーミーイェ
下部は石材、上部は焼成レンガ。この造りからすると、表面には浮彫漆喰かタイルで装飾されていたのだろう。
入口イーワーン
タイル装飾も残っている。
ミフラーブには透彫の漆喰装飾(1277年)があるのだが、この図版からは想像できない。

マスジェデ・ジャーメ 1307-08年 ナタンズ
後方は八角形平面のシェイフ・アブドルサマド廟で、大きな八角錐の屋根が載る。
その手前に見えているのが金曜モスク。空色タイルが嵌め込まれたミナレットは1本。

ジャバリエ・ドーム 時代不明(14世紀?) ケルマーン州(イラン南東部)ケルマーン
『ペルシア湾北岸遺跡と採集陶磁器』は、ゴンバディ・ジャバリエ。墓か、ゾロアスター教の建物か不明。平面8角形の石製建築で、天井はドーム建築。内部には何もないという。
切石積みではなく、小さな石を積み上げている。
八角形の墓廟としては、スルタニーエのオルジェイトゥ廟(ゴンバデ・スルタニエ、1313年完成)があり、似ている。ジャバリエ・ドームは八角形の各角が面取りされている分、時代が下がるように感じる。

ハムドッラー・モストウフィー廟 14世紀 カズウィーン州(イラン北西部)カズウィーン
Wikipediaは、イルハン朝の歴史家、著述家(1281-1344)。「撰史」(ターリーヘ・ゴズィーデ)、「ネズハトルゴルーブ」、「ザファル・ナーメ」などがある。廟は青緑色の円錐ドームをもち、銘はスルス体でモストウフィー家の家系と作品が記されており、ガズヴィーンの建築の中でもひときわ目立つという。
円錐形の屋根はクニャ・ウルゲンチのスルタン・テケシュ廟(1200年没)に似ている。

エステルとモルデカイの廟 時代不明(14世紀?) ハマダーン
Wikipediaは、ペルシア王にユダヤ人のエステルと称する王妃と、モルデカイという宰相がいたことは、史実にもとる、とされている。
ユダヤ教の後の解釈では、モルデカイとエステルは夫婦ということになっている。2人の墓とされるものが、イランのハマダン(エクバタナ)にある。ここも重要なユダヤ人コミュニティーの1つだった
という。

極端な二重殻ドームで空色タイルのシンプルな文様が嵌め込まれる。建物の角には付け柱が付く。

シェイフ・ジェブライル廟 14世紀 アルダビール州(イラン北西部)アルダビール
シェイフ・ジェブライルについて『IRAN THE ANCIENT LAND』は、シェイフ・サフィー・ユッディーンの父という。
二重殻ドームで、その形がイスファハーンのスルタン・バフト・アガー廟(1356年)に似ているので、14世紀の建物とした。
所々に素朴な空色タイルが嵌め込まれている。

シャイフ・ハイダール廟 時代不明 アルダビール州メシュキン・シャフル
円形の墓廟
入口付近にはモザイクタイルの装飾が残っているが、上部の絵付けタイルの帯は修復によるものかも。

金曜モスク(マスジェデ・ジャーメ) 14世紀? セムナーン州バスターム
外観は不明。
内部は美しい浮彫漆喰で覆われる。
ミフラーブ
ミフラーブの上部
2種類のアラビア文字の銘文と植物文様の組み合わせ。
ミフラーブの壁龕
尖頭アーチ内の浮彫漆喰は、イスファハーンのマスジェデ・ジャーメ(金曜モスク)西翼小礼拝室にあるオルジェイトゥのミフラーブ(イルハーン朝、1310年)の装飾をもう少し平面的にしたよう。ちょっと時代が下がるのかも。
以前のオルジェイトゥ廟のタイル装飾を受け継いだ廟という記事で、同じバスタームで近隣に建立されたシェイフ・バヤズィド廟(1313年)のタイル装飾について記したが、それとよく似た空色タイルと浮彫タイルの組み合わせが、この金曜モスクのどこかに残っているらしい。
ということは、同じタイル職人が金曜モスクの装飾も手がけたとみられるので、14世紀前半の建立なのだろう。

カスハーネ(カシャーネ?Kashaneh)塔 イルハーン朝(1256-1335年) バスターム
Google Earthで見ると、バスタームの金曜モスクの傍に立っている。
20を越えそうなフリンジの上部には焼成レンガと空色タイルによる装飾がある。

金曜モスク イルハーン朝(14世紀) ファルマード
浮彫漆喰によるアラビア文字の銘文が尖頭アーチの枠を装飾し、薄いアーチ内の壁面には、組紐で区切られた幾何学形の区画の中に植物文様の漆喰が嵌め込まれている。
スルタニーエのオルジェイトゥ廟(1307-13年)の2階の天井では、もっと幅の広い組紐の中にさまざまな植物文様(イスリーミー)の浮彫漆喰の埋め木が嵌め込まれている。オルジェイトゥ廟で天井のそれぞれに趣向を凝らした装飾を見上げた時は、唯一無二のものだと思ったが、それは、このように受け継がれていたのだった。

リバート(イスラーム神秘主義の施設)時代不明 ホラサーン州サング・バスト

以降は省略。ずっと時代は下がって、

太陽の城 アフシャール朝(1736-96年) ラザヴィー・ホラーサーン州マシャド
アフシャール朝の首都だったマシャド(マシュハド)にあるという石造の建物。
沢山のフリンジのあるバスタームのカスハーネ塔などの塔を模したような短い円塔が、おそらく八角形の建物の中央から出ている。

アヴィセンナ廟 1954年 ハマダーン
まるで、ゴンバデ・カーブース(1006年)のフリンジと円錐ドームだけを残して内部が見えるように造られたような建物で面白いのでここにあげた。



関連項目
マスジェデ・ジャーメ オルジェイトゥのミフラーブ
スルタニーエのオルジェイトゥ廟(ゴンバデ・スルタニエ)
オルジェイトゥ廟の漆喰装飾3 華麗なるドーミカル・ヴォールト
クニャ・ウルゲンチ3 スルタン・テケシュ廟
ムハンマド・イブン・ザイド廟の焼成レンガ装飾
オルジェイトゥ廟のタイル装飾を受け継いだ廟

参考サイト
「ペルシア湾北岸遺跡と採集陶磁器」 金沢大学考古学紀要26 2002,27-47. 佐々木花江・佐々木達夫
世界遺産オンラインガイドゴンバデ・カーブース
PARS TODAY化粧タイル
コトバンクのピール・イ・アーラムダールの解説(『世界大百科事典第2版』(平凡社)の抜粋)

参考文献
「IRAN THE ANCIENT LAND」 ペルシア語のため出版社他は不明
「岩波セミナーブックスS11 イスラーム建築の世界史」 深見奈緒子 2013年 岩波書店
「イスラーム建築の見かた」 深見奈緒子 2003年 東京堂出版