ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2018/03/30
獅子から狛犬へ
テヘランのイラン国立博物館にあった一頭のライオン像(エラム古王国から中王国時代、前2千年紀)が日本の狛犬を思わせるのは蹲踞しているからだ。
ただし、ライオンの独立像はその後ペルシアの地では確認できない。
自分が旅してライオン像は見なかったなあと思いつつ、探してみると、東トルコのネムルート山で出会っていた。
ライオン像 コンマゲネ王国時代(前1世紀後半) 石造 現トルコ、ネムルート山頂上西のテラス
山頂にアンティオコス1世が前62年に造った墓とされていて、東西にテラスが設けられ、それぞれに神像や鷲そしてライオン像などが安置されていたようだが、地震のため、現在では諸像は元の位置にはない。
諸像の造形について『世界美術大全集4』は、ヘレニズム文化が浸透した地域における東西文化の融合の実態を示す典型的な例であるという。
蹲踞するライオン像は、口を開き、歯列は表されるが牙は目立たず、舌を出している。
西のテラスの配置復元図(カール・フーマンによる、『コンマゲネ王国ネムルート』より)によると、大きな神像や国王像5体の左右には、大きな鷲とライオンの像が配置され、小さな王と神の浮彫像などの左右には小さな鷲とライオン像の像が置かれている。
このライオンは小さな像の方で、一対で諸像を守護する蹲踞するライオンという形式がこの時にはすでに成立していたのだった。
表現は確かにヘレニズム風だが、蹲踞するライオンはエラムのライオン像に起源があるのだろうか、それともギリシアにもあるのかな?
日刊ギリシャ檸檬の森 古代都市を行くタイムトラベラーの古代カイロネイアに、マケドニア軍とアテナイ・テーバイ軍の戦い(前338年)で戦死したテーバイの兵士たちの墓石として蹲踞するライオン像が安置されている。ライオンは正面を向き、口は閉じているが、唇は開き、噛み締めた上下の歯がぎっしりと並んでいる。
また同ブログの紀元前4世紀ライオン像 ニコポリスでは、前330年の墓碑として蹲踞するライオン像が紹介されている。こちらのライオン像は右を向いていて、口は開いているが、歯や舌は表されていない。
蹲踞するライオン像は後期クラシック期に見られ、墓碑のような役目があったらしく、一対で置かれるものではなかった。一対で置かれるのは西アジアの伝統のだったのだ。
その後一対のライオン像は、仏教美術に採り入れられた。
ライオン像 クシャーン朝(2-3世紀) 灰色片岩 高33.0 49.0 長37.0 41.0㎝ ガンダーラ 平山シルクロード美術館蔵
『獅子と狛犬展図録』は、この一対のライオン像は、仏塔の守護像として造られたと考えられている。スマートな体に、胸を覆い隠すほど豊かで美しい毛並みのたてがみが、高貴な印象を与える。前脚の肩の部分には、西アジア由来のつむじ様の毛並み表現がみえる。
ギリシアや西アジアの神々をも取り込んだガンダーラ彫刻では、ライオンが守護者として、また、仏陀の威光を表す獅子座などとして造像された。これらはやがて、仏教と共に日本にももたらされることになるという。
獅子座については以前にまとめた。そして、その最古が前6千年紀前半の地母神坐像(アナトリア、チャタル・フユック出土)の両脇に表された肉食獣であることを知った。そのライオンともヒョウとも言われている動物は、双方とも口を閉じている。
これらの記事は下部の関連項目に。
また、舌を出したライオンは、やはりアナトリアの後期ヒッタイト時代(前9世紀)のライオン像にも見られるものである。
このようなライオン像は、どのようなところに置かれていたのだろう。
というのも、クシャーン朝時代の獅子座は、概ね如来坐像の下の台の両端に浮彫されているからだ。
それについてはこちら
そして中国に伝わると、古式金銅仏や石造の仏像では仏坐像の台座に浮彫された獅子だが、石窟内では立体像となる。その最古の例は敦煌莫高窟275窟(北涼時代、397-439年)で、交脚弥勒像の両脇に丸彫りの獅子が現れるが、蹲踞するのではなく胴と前半身が、弥勒の坐す台の脇から出現するように取り付けられている(獅子はコピー窟)。
また、石窟以外では、南朝の梁時代(502-557年)、成都市西安路出土の釈迦如来諸尊立像(中大通2年、530)に台座から外れて、二天と主尊の間に獅子が一対登場する。
厳密にいうと、丸彫ではなく高浮彫である。
もう少し後になると、北朝で立体像の獅子がみられる。
獅子 北斉時代(550-577年) 銅製鍍金 右:高5.1長4.2㎝左:高4.9長4.0㎝
『獅子と狛犬展図録』は、頸筋から胸にかけてたてがみを線刻しているものの、大きなたてがみを造らないことから犬のような印象を与える。口を閉じ、両脚を地につけ、蹲っている獅子の姿は北魏後期から多く見られるが、逞しい体つきや脚の下半に節のような段をつける特色は、隋から初唐頃にもよく見られるという。
これらも仏菩薩像守護獣として造られたものなのかな。
両像とも肩に渦巻が刻まれているのは、ヒッタイトから西アジアへと受け継がれたライオンの特徴が、ガンダーラを経由して、シルクロードを通って東アジアにも伝播している。
獅子 隋時代(581-618年) 銅製鍍金 右:高5.5長5.7左:高5.4長6.7㎝
同書は、一方は開口して舌を出し、前脚を上げ、もう一方は歯を見せるが閉口し、四肢を地につけて蹲踞している。いずれも強く胸を張る。たてがみは頸の周辺から胸にかけて先端が渦状になった毛筋を伴う房を豊かに表し、後頭部は一つの三角状の房としている。大きな尾は三筋に分かれてS字状になびく。このように反り返るように胸を張り、一方が片脚をあげ、一方があげずに蹲るなど、左右の表現を変えて一対になすることは、双方が片脚をあげるものと双方ともあげずに蹲るものとを折衷するように、北斉末頃からよく見られるようになったという。
たてがみの渦巻くたてがみや3つに分かれる尾など、北斉時代から少し経ただけなのに、装飾的な表現になっている。
仏教美術とはいえないが、咸陽郊外に則天武后が造立した母の墓、順陵(7世紀後半)の獅子も蹲踞して肩に毛渦がある。
これは後漢の鎮墓獣の系統ではなく、仏教の守護獣ではないだろうか。則天武后は高宗かせ開鑿した龍門石窟に寄進するなど、仏教に帰依していたので、伝統的な麒麟や天禄などの石獣と共に、南北の門に一対ずつ蹲踞する獅子を登場させたのかも。
『獅子と狛犬展図録』で伊東史朗氏は、平成22~23年に催された「誕生!中国文明」展に出陳された銅造獅子を見て、驚愕した。河南省妙楽寺塔の最上層に置かれていた四体のうちで、頭部小さく、胸を張り、背を丸めて蹲踞するその姿は、わが国平安時代後期の獅子狛犬における和様の成立を考える際、かならず想起されるだろうという。
獅子 五代(10世紀) 青銅鍍金 高55.6長50幅29.5㎝ 武陟県妙楽寺塔 武陟県博物館蔵
『誕生!中国文明展図録』は、武陟県城の西約8㎞に位置する妙楽寺には、方形13層、高さ約30mの磚塔のみが現存する。『武陟県志』によると、この塔は五代時代の顕徳2年(955)の建立という。本像は、最上層の屋根の四隅に安置されていた獅子のうちの1軀。同塔建立当初の製作と目され、銅鋳造製で、内部は中空としている。眉根を寄せて両眼を大きく見開き、閉口して上下の歯列をみせ、胸にはベルトを巻く。簡にして要を得た造形で筋骨の隆起が的確にとらえられ、前脚をわずかに外に開いて地面に突っ張り、蹲踞する姿が非常に精悍な印象を与える。やや細身の引き締まった体型、全体の姿勢の取り方などが、平安時代後期の日本で製作された獅子・狛犬に通ずる特徴を示しており、その源流を考える上でも注目に値するという。
順陵の獅子とは別系統の頭部の小さな獅子で、たてがみもほとんどわからない。頭巾のようなものが背中に密着している。
日本では、獅子が狛犬となるのだが、狛犬は阿吽の違いだけで同じ表現だと思っていたので、獅子と狛犬という組み合わせで一対になっていることを同展会場で知り、新鮮な思いで鑑賞していった。
獅子・狛犬 平安時代 木造彩色 像高 獅子41.8狛犬42.8㎝ 東寺旧蔵
『獅子と狛犬展図録』は、両耳を立て、目を見開いて開口して左斜め前方をみる阿形像と、角を表して両耳を伏せ、目を閉じがちにして閉口し、右斜め前を睨む吽形像の一対である。ともに、面相やたてがみなどを深く彫り表し、背中を丸め、前脚と後脚の間隔を狭めて蹲踞している。構造の詳細は不明ながら、基本的に一木造とし、前後に割矧ぐ可能性が説かれている。現存する最古の獅子・狛犬像であるという。
獅子・狛犬とは、片方が獅子、もう一方が狛犬の組み合わせということのようだ。
同書は、獅子狛犬の出発点ががこれかと思われる像の残っていたのは、まさに奇跡的としかいいようがない。何を措いても注目しなければならないのは、無角と有角からなる一対の守護獣が初めて出現したことであり、もうひとつは、以前からあった非対称形の守護獣一対の造形の名残りが認められることである。開口無角が獅子、閉口有角が狛犬であるという。
1本の角のあるのが最古の狛犬だった。尾は3つに分かれているが、隋時代の獅子よりも頭部が小さく、かっこいい。
妙楽寺塔の獅子とは造形がかなり異なってはいるが、頭部が小さいのは、このような五代期の様式が将来されたものと言われれば納得できる。
二頭で同じものを睨んでいるみたい。
ところで、狛犬はいつ頃できた言葉だろう。
同書は、正倉院には、複数の獅子頭が伝えられている。8世紀から9世紀に記録された寺院の資材帳には、「高麗犬」や「狛犬」などの資材が載せられており、これは舞楽の仮面、即ち獅子頭を表しているが、ここに「狛犬」の名称が現れる。その一部の標記には、角を持っていたと推定されるものがあり、この後、獅子とともに一対として安置される角を持つ狛犬が登場するに至る。このような狛犬角を持つ狛犬の古例として、春日大社の若宮社に奉納された古神宝の中に残されている鋳銅製の狛犬が注目されよう。一対として奉納されたのか、その用途がどのようなものであったかは検討を要するが、由緒ある大社の古神宝に残されている意義は極めて大きいという。
狛犬 平安時代 鋳銅鍍銀 像高18.0㎝ 奈良春日大社蔵
同書は、鋳銅製で頭上に角をもって閉口する吽形像で、背を反らし気味にして、前脚を伸ばして蹲踞する。簡略な表現になるが、その全体感絶妙のバランスによっており、鋳造技術の優秀さとともに完成度は極めて高いという。
図版で見るのと、展覧会場で現物を見るのとの違いは、図版では大きさが実感できないことだ。現物を見ていても、時を経ると忘れてしまうこともある。
妙楽寺塔の獅子を思わせる胸の張りと前肢の踏ん張りに、東寺旧蔵の狛犬のような顔と角が付いている。たてがみは、妙楽寺塔本の頭巾状のものを少し立体的にしたようだ。
狛犬 平安時代、寛治元年(1087年)か 木造彩色 像高 阿形52.2吽形52.1㎝ 奈良薬師寺蔵
同書は、南都薬師寺鎮守の八幡宮に伝来した獅子一対の古例で、平安後期の優雅な表現になるものとして知られている。吽形像に角やその痕跡がない、獅子一対の一具像と考えられるが、阿形像が原則として一材製とするのに対して、吽形像は頭部の後方を矧ぎ目として前後二材製とするようである。阿形像州浜座の底面に墨書があり、現存する狛犬の中で最古の在銘像と思われる。穏やかな彫法による典雅な表現は、阿吽両像によって技法が異なるという過渡的な性格からしても、11世紀の第4四半期を造像期とすることに矛盾はないという。
二頭ともに狛犬?どちらにも角はないが。
東寺旧蔵の獅子・狛犬のようにたてがみの先端が巻いていないが、踏ん張る前肢は妙楽寺塔の獅子に似ている。
吽形像はよくわからないが、阿形像の脇には肋骨が表されている。
獅子 平安時代 木造彩色 像高 阿形26.8吽形27.1㎝ 岡山県津山市高野神社蔵
同書は、針葉樹材の一材を前後に割矧ぐ一対。像は獅子像として造像されたもので、阿吽の一対として、顔を体と同じ向きの正面を睨み、前脚を直線状に表して蹲踞している。頭部から胸を丸々と表して背中から後脚にかけてアールをまろやかに描く姿は、御上神社や厳島神社の平安造像例に極めて近いという。
妙楽寺塔の獅子とは別の系統の獅子像を手本としているようだ。
獅子・狛犬 平安時代以降 木造彩色 像高 獅子51.4狛犬60.3㎝ ロサンジェルス郡美術館(LACMA)蔵
同書は、近年に見出された一対で、極めて注目される一作である。構造の詳細等は不詳ながら、その形姿からして、シンプルな構造が想定される。阿形像は大きく口を開けて怒号するような表情をとって、斜め左下を睨みつけ、吽形像は瞋目閉口して、威圧するかのごとくに右前を凝視する。いずれも、痩身で、前足を直線的に立ち上げて踏ん張りながら蹲踞する。表情は、いずれも端的にいって獰猛であり、異様な迫力を感じさせる。その形姿からすると、古様な趣に満ちているが、極めて類例の乏しい形式であり、独自性の強い作風になるという。
頭部が小さいので妙楽寺塔系の獅子。狛犬の角は枝分かれしている。
幾つかに枝分かれする尾は日本では定番になっているようである。それにしても、現代に造られたのかと思うくらい特異な表現のたてがみだ。前肢に蕨手状の毛の房が、下から上に伸びている。
阿形の脇腹にはうっすらと肋骨を浮き出させているが、吽形は背中にまで肋骨をはっきりと刻んでいる。
長い前肢を真っ直ぐ下ろしているところなど、エラムのライオン像を思い起こさせるが、胴部は45度くらい前傾している。
狛犬 平安時代~鎌倉時代(12世紀) 木造彩色 像高 阿形88.0 吽形93.0㎝ 奈良市手向山八幡宮蔵
同書は、東大寺に隣接する手向山八幡宮は、奈良時代に大仏造像の支援をするために、八幡神が九州の宇佐から東上し、この地に鎮座した天平勝宝元年(749)に始まる。像は、大きく別材を寄せる寄木造になり、内刳りされている。古作になるのは吽形像で、頂上に角を表し、頭部を右真横に向け、目を大きく見開き、閉口して右前を凝視する。前脚はやや前に進めて揃え、後脚を前に寄せ気味にして蹲踞する。頭部は面長に表し、目鼻の彫り込みは深く立体的で、その表情も個性的である。全体として細身の体躯で、筋肉質となる。これらはやはり新しい様式への移行が窺えるもので、大宝神社像など、鎌倉時代の作例の先駆的な性格が顕著である。治承4年(1180)の南都焼き討ちによる被災の復興過程での造像とみられ、12世紀第4四半期を代表する狛犬像である。なお対になる阿形像、即ち獅子は後世の補作とされているという。
これも妙楽寺塔系の獅子、いや狛犬か。狛犬の角は、正面向きなので分かりにくいが、先が切れたものが2本、おそらく枝分かれした1本の角だろう。
たてがみの先は巻いているが、控えめな造形で、共に肋骨が浮き出ている。
前肢上部に巻き毛が付き、しゃがんだ後肢にも巻き毛が表されているようだ。尾は2つに分かれている。
獅子・狛犬 鎌倉時代初 木造彩色 像高 阿形51.5吽形55.7㎝ 滋賀県大津市神田神社蔵
同書は、ともに原則としてケヤキの一材製として内刳りしない、ほぼ丸彫りになっている。現状は、近年の修理もあって当初の像容と異なっているが、獅子はやや左前を向き、狛犬は別材製の角を表してやや右前を向いている。その瞋怒相は、激しいものではなく、胸筋を大きく膨らませる古様さを残している。バランスのよい典雅な様からして、鎌倉時代も早い頃の作と推定されようという。
やはり尾は複数に分かれている。狛犬の角は小さく、枝分かれしていない。
たてがみは誇張や巻きはないが、髭のようなものが顎を巡っている。
狛犬 鎌倉時代 木造彩色 像高 阿形83.1吽形91.7㎝ 和歌山県かつらぎ町丹生都比売神社蔵
同書は、丹生都日売神は、地域における丹生という水銀や水分の女神であったとみられるが、空海の高野山開創に際して、その鎮守神の一人となり、高野山の発展とともに信仰も盛んになってゆく。この高野山麓に鎮座する丹生都日売神神社には、古作として4対の獅子・狛犬像が伝えられている。そのうちの一対で80㎝を超える大きさの堂々とした作例である。両像ともに正面を凝視し、吽形像は角を持つ狛犬として表される。獅子は、大きく口を耳の下まで裂けるが如くに開けて咆哮するようで、対して狛犬は大きな口を力強く結び威圧する。いずれも、筋肉表現を大掴みに表し、像の大きさもあって重量感に富んでいる。しかし、細部の表現には堅さも認められ、僅かに時代の下降を感じさせるという。
豊かなたてがみだけでなく、頭部が大きく表されるが、その割に狛犬の枝分かれする角は小さい。
前肢・後肢には房毛が3筋、尾は何本かの房毛が広がっているみたい。
獅子・狛犬 鎌倉時代(13世紀初) 木造彩色 像高 阿形78.0吽形75.5㎝ 滋賀県長浜市菅山寺蔵
同書は、広葉樹の前後矧ぎになり、獅子は大きく開口するために鼻から上顎部を割矧ぐようである。上半身の堂々とした瞋怒相や筋肉表現に対して、下半身は細身であり、背筋などを表す様は、安貞元年(1227)在銘とされる近在の白鬚神社像に近い。その威圧的な迫力は、白鬚神社像より古様を表すともみられ、13世紀も早い頃の作とみられるという。
狛犬はあまり目立たない角をつけ、阿吽の他は獅子と大差ない造形である。体にまとわりつくような長い房状のものと、顎髭のようなものの、二重のたてがみは、大津市の神田神社本に共通する。
狛犬 鎌倉時代、元亨年間(1321-24年) 木造彩色 像高 阿形87.8吽形90.0㎝ 滋賀県栗東市大宝神社蔵
同書は、本殿に安置されて聖なる領域を守護していた一対で、玉眼を嵌入し、いずれも前後二材矧ぎとして、適宜に割矧ぎも施して大きく内刳りしている。阿形像は、大きく開口して歯列や牙、舌などを表し、たてがみは巻き毛とする。吽形は、頭上に一角を頂き(後補)閉口して牙を表し、たてがみは房状に垂下させる。やや右斜め前を睨みつけ、四肢を踏ん張って蹲踞する。吽形頭部内面に記される後世の修理墨書に「元亨年/中営作」などとあり、14世紀前半に造像された可能性を示唆している。その量感に溢れた表現などからして、元亨年間頃の作としてよかろう。やや形式化した表情などに時代の趨勢が窺えるが、筋肉質な表現などは的確な立体表現として評価できる。守護獣としての威圧感を感じさせる、堅実な作例であるという。
狛犬の角は段々小さくなっていくのかと思っていたら、大きなものが現れた。そして、二重のたてがみは立体的に表される。
目力を感じるが、玉眼でなくても良さそう。
獅子・狛犬 鎌倉時代-南北朝時代 木造彩色 像高 阿形92.0吽形92.0㎝ 岡山市吉備津神社蔵
同書は、本殿は南北朝時代の観応2年(1351)に焼失、応永32年(1425)に再建された。その本殿の内陣逗子両脇に安置されるのが、この注目すべき獅子・狛犬像である。寄木造として内刳りし、矧ぎ面には丁寧な布張りを施し、錆地として、獅子には金箔を、狛犬には黒化しているが銀箔を施して、髪などを彩色して仕上げている。獅子は、髪を大きく垂らし、目を見開いて開口し、ほぼ左横を向いて右前足を前に大きく出して、後脚の間に左前足を入れて蹲踞する。顔から体にかけての筋肉表現は、強調が過ぎるほどに秀逸で、獅子の動的な姿勢に対する狛犬の静的な姿勢と、阿吽の対比をものの見事に表している。この獅子・狛犬は、観応時の被災に際して、消火に努めたという伝承が真実みを持つほど、その迫力が的確に表現されている。あるいは、重源が請来した宋様の作風を基礎としながら、鎌倉時代通有の姿形に整えたかの想定も出来ようという。
宋風の獅子がどのようなものかわからないが、顔も小さく、たてがみも鎌倉時代のものとは違っている。
仏像と同様に、獅子も狛犬もそれぞれの時代に中国から将来された様式が日本で変容して、日本的な造形になっていく。
エラム中王国のライオン像←
関連項目
石造の鎮墓獣は後漢からあった
仏像台座の獅子4 クシャーン朝には獅子座と獣足
仏像台座の獅子3 古式金銅仏篇
仏像台座の獅子2 中国の石窟篇
仏像台座の獅子1 中国篇
獅子座を遡る
参考サイト
日刊ギリシャ檸檬の森 古代都市を行くタイムトラベラーの古代カイロネイア・紀元前4世紀ライオン像 ニコポリス
参考文献
「獅子と狛犬 神獣が来たはるかな道展図録」 MIHO MUSEUM編 2014年 青幻社
「世界美術大全集4 ギリシアクラシックとヘレニズム」 1995年 小学館
「コンマゲネ王国ネムルート」 2010年 A Tourism Yayinlari
「誕生!中国文明展図録」 編集東京国立博物館・読売新聞 2010年 読売新聞社・大広