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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2018/03/27

エラム中王国のライオン像


テヘランのイラン国立博物館に展示されていたライオン像(スーサ出土)は、エラム古王国から中王国時代(前2千年紀)のものとされているが、何故か蹲踞する狛犬を想像させる。門前で守護するために本来は一対で置かれていたものかも。
でも、側面から見ると狛犬よりも身を立てている。それは前肢が長すぎるからだろう。

門前の守護獣といえば、ペルセポリスの万国の門入口の牡牛像や出口の人面有翼牡牛像(前5世紀)、アッシリアはニムルドのラマッス(前9世紀)などがあるが、いずれもライオンではない。後期ヒッタイト時代(前10-9世紀)では、城門の守護獣はライオンだが、どれも門に組み込まれていて、このライオンのように独立してはいない。
ヒッタイト時代の門にもライオン像がある。

『世界美術大全集東洋編16』は、ヒッタイトの首都ハットゥシャ(現在名ボアズキョイ)は、前13世紀ころハットゥシュリ3世(在位前1263-1245)とトゥトゥハリヤ4世(在位前1244-1220)の時代に大きな変貌を遂げる。市域は南方に大きく拡張され、それに伴いライオン門、スフィンクス門、「王の門」を含む長大な城壁が築かれたという。

ライオン門 前13世紀 石灰岩 像高約213㎝ トルコ、ボアズキョイ西側の門の外側
『世界美術大全集東洋編16』は、前脚をそろえて立つライオンが、左右対称に門の両側に刻まれる。口を大きく開けて咆哮し、舌は外に垂れている。舌を出すライオン像は、のちの新ヒッタイト時代の門を守護するライオン像に同様の表現が認められる。目はくぼみとしてしか残っていないが、もともとは別の物質で象嵌されていたものと考えられている。耳は円形に近い形となっているという。
スーサ出土のライオンは、舌は垂らさず、歯や牙がしっかりと造形されている。
同書は、ライオンの胴部には、太い刻文と細い刻文を組み合わせて軽くカールするたてがみが詳細に表現されている。前脚の付け根の外側には、半球形状の突起が表現され、そこも放射状に同様の刻文による装飾が見て取れる。これがいわゆる「獅子のたてがみ毛渦」を表現したものであるという。
確かにたてがみが線刻されてはいるが、先のとがった房は様式化されていない。残念ながら、その毛渦までは写っていない。

『獅子』は、アッシリアの勢力が去ったあとのアナトリアは、ヒッタイトの支配するところとなった。かれらはボアズカレやアラジャホユックなどの大都市を次々に建設し、そこにライオン像を置いた。アッシリアから伝えられた王権の象徴ライオンは、あらたに王城や門を守護する番神となったのである。
ところで、ヒッタイト人にとって勇敢な百獣の王は、ライオンよりむしろヒョウのほうであった。したがってかれらの太陽神であるヘパトはヒョウを遣いとして随えることが多く、ライオンは門を護る獣に役割交代していったようである。大都ボアズカレの城門には、よく知られた「獅子門」があり、兵士の出征する大門の両脇を獅子像が護っている。このように、城門に置かれた一対のライオン像は、西はギリシアのミュケナイにまで広まり、東はインド、中国を経て、日本にも伝わった。狛犬はその実例であるという。
舌は出ていなくても、スーサのライオン像の祖先とみてよいのだろう。

立ち上がったライオンに守られる墓 フリギア時代、前8世紀 アンカラの西方、アスラン・タシュ
『獅子』は、フリギア王国はゴルディオンを都とし、前8世紀頃、中央アナトリアで権勢を誇った(前695年滅亡)。墓の主は王か、貴族か不明という。
岩山で立ち上がるライオンが一対で中央の柱状のものに前肢で寄りかかっている。
これはスーサのライオン像よりも後の時代のものだ。 

このような造形は、ミケーネのライオン門(前13世紀)にあった。
『古代ギリシア遺跡事典』は、2つ並んだ祭壇を覆う板に前足をかけて伸び上がる、向かい合った2頭のライオンと、その間におかれた円柱である。円柱は、宮殿の象徴と考えられているという。
一対のライオンは、ミケーネへの城門の上に掲げられている。

もっと古い例がある。

獅子文様壺 前3千年紀初頭-中期 緑泥片岩(クロライト)・トルコ石 高20.0底径14.2-14.4厚0.75-0.9㎝ 東イランか MIHO MUSEUM蔵
『MIHO MUSEUM南館図録』は、各対のライオンは、湾曲した左右対称の枝をもつ単純な木を挟んで配置されている。どのライオンも同じ姿勢をとっており、主として輪郭線で表現された平板なスタイルもほぼ同じであるが、びっしりと毛で覆われた前半身を表現した文様は異なっている。一方のライオンの毛房の文様は籠細工に似ているが、それと向き合ったライオンには、水平に配置された杉綾文様が描かれている。かつては、それぞれのライオンの大きくて丸い目には象嵌が施され、何枚かの木の葉にはまだ象嵌石が残っているという。
木を挟んで鹿のような草食獣が表されたり、木の両側から草食獣が葉を食べようと前肢で幹に寄りかかっている場面などもあるが、このように生命の樹を守護するようにライオンを登場させることもあった。
左の方はたてがみが網代文様に、右の方は杉綾文様(ヘリンボーン)にしているのは楽しい。


このライオンの表現は、エラム古王国時代からの伝統ということになりそうだ。

ナルンディ女神像 エラム古王国時代、前2100年頃 イラン、スーサ出土 石灰岩 高さ109㎝ ルーヴル博物館蔵
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、椅子に座す女神で、右手には杯、左手には棗椰子と思われる木の枝を握っている。石の左右には座ったライオン、後部には儀仗を持って立ち上がったライオンが2頭描かれている。台座正面にはパルメット文を中心に2頭のライオンが横になっている。ライオンを聖獣として従える女神という。

丸彫りではなく浮彫りだが、前肢が長いことが共通している。
また、側面なので分かりにくいが、舌は出さず、口を大きく開いているのも、この地の伝統のよう。


『獅子と狛犬展図録』は、アナトリア前6000年紀の遺跡チャタル・フユック出土の有名な、過度に豊満な地母神像は、雌ライオンあるいは豹を両脇につけた玉座に鎮座している。これは残存するこの猛獣玉座の最古例であると言うことができる。こうした護る者としてのネコ科科の猛獣意匠は、古代オリエント、東地中海域の守護聖獣の基本的な心象であって、各時代地域の神々、仏・菩薩、尊者、王などの玉座、神殿・寺院、城塞都市、墓所などの前面・入口に据えられたという。
門に組み入れられたライオン像も、聖樹の両側のライオンも、アナトリアの地母神像の玉座から派生したものということになるようだが、エラム中王国時代のライオン像は、丸彫りで独立しているという点で特異なものと言えるだろう。

                     →獅子から狛犬へ

関連項目
獅子座を遡る
仏像台座の獅子3 古式金銅仏篇
仏像台座の獅子2 中国の石窟篇
仏像台座の獅子1 中国篇

参考文献
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
「獅子 王権と魔除けりシンボル」 文荒俣宏 写真大村次郎 2000年 集英社
「古代ギリシア遺跡事典」 周藤芳幸・澤田典子 2004年 東京堂出版
「MIHO MUSEUM南館図録」 杉村棟監修 1997年 MIHO MUSEUM
「獅子と狛犬 神獣が来たはるかな道展図録」 MIHO MUSEUM編 2014年 MIHO MUSEUM