ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2015/11/20
白鳳展8 當麻寺四天王像は脱活乾漆
當麻寺は、二上山という山号を持つ、文字通り奈良の二上山の東麓に開かれた寺である。
以前に訪れた時のことは幾つか記事にし、金堂の四天王像についてもその一つだし、四天王像が踏む邪鬼でも記事にしたことがある。
今回の白鳳展では、四天王像のなかで持国天だけが出展されていた。
持国天立像 白鳳時代、7世紀 像高218.5㎝ 脱活乾漆造・彩色 四天王像のうち 奈良・當麻寺
この四天王像(1体を除く)が脱活乾漆であることは分かってはいたが、脱活乾漆像と言えば、思い浮かぶのは興福寺の阿修羅を初めとする八部衆や十大弟子など奈良時代のものだった。
『當麻寺展図録』は、持国天像はなかで比較的当初の乾漆層を残すものであるが、それでも顔や上半身などに面影を残すのみで、両袖口や腰以下はすべて後補されている。ただし幸いに形制だけは当初のものを襲っているらしい。修理時に判明した知見として、持国天像の胴体内部では、乾漆層の内側にキリ材の桶状のものを沿わせるということが行われていた。これは奈良時代の脱活乾漆像にはみえない仕様であり、日本における黎明期の乾漆像の構造・技法として注目すべきものであるという。
この薄く広い袖口は、この像でも気に入っている部分。後補とはいえ、中空の衣をよく表している。麻布と漆だけでよくこんな袖口を造ることができたものだ。
『白鳳展図録』は、奈良時代の武装天部形像のような大きな動きは見せず、わずかに腰をひねるのみで直立に近い姿勢である。上半身の着衣の袖が長く垂下する点や、下半身にまとった裙の裾が足首近くまで達する点は、7世紀半ばの作と認められる法隆寺金堂の四天王像に通じるものであるが、わずかとはいえ腰をひねるのは、法隆寺像にはなかった動きであるという。
四天王や仁王像には三曲法は関係ないだろうが、持物を持つ以外は直立不動の法隆寺像よりも細身になり、動きも感じられる。新たに将来した様式が採り入れられたのだろう。それが韓半島経由か、中国から直接なのかはわからないが。
法隆寺の四天王像についてはこちら
同書は、『當麻寺展図録』は、顔面を見ると、皮膚の内部にある骨格や筋肉の微妙な凹凸が繊細に表現され、紙撚状の布ないし皮を芯として造られた口髭や顎鬚も相まって、より人間に近い表情が生み出されていて、象徴的な趣の強い法隆寺像とは距離があるという。
法隆寺の四天王像は私のお気に入りの仏像の一つだが、この當麻寺の四天王像もかなり気に入っている。
柔らかな袖口の着衣と同じ像のものとは思えないほどに、この面貌は穏やかだが迫力がある。
また同書は、四肢を小さく丸めて蹲り、背に持国天を戴く邪鬼は、ケヤキ材を用いた一木造になり、平安時代前期に補作されたものかと思われるという。
そう言われれば、四天王像とは全然雰囲気が違う邪鬼である。
この乾漆という技法は、法隆寺の百済観音像の細かな表現にも用いられている。
百済観音立像 飛鳥時代、7世紀 木造彩色 像高209.4㎝ 法隆寺宝蔵館安置
『法隆寺』は、頭・体部・足下の蓮肉部まで樟の一材からなり、面部から上半身にかけては、乾漆の盛り上げがほぼ全面に施されているという。
當麻寺四天王像と比べると、正面観が強く、動きのない立像なので、百済観音の方が先に造られたのだろう。
将来された新しい乾漆という技法は、細部を盛り上げる程度にしか用いることができなかったのかも。
白鳳展7 薬師寺月光菩薩立像←
→脱活乾漆は古墳の夾紵棺に
関連項目
夾紵の初めはやっぱり中国
当麻寺金堂の四天王は髭面
国宝法隆寺金堂展には四天王像を見に行った
※参考文献
「當麻寺 極楽浄土へのあこがれ展図録」 奈良国立博物館 2013年 奈良国立博物館・読売新聞社
「週刊古寺をゆく35 当麻寺信貴山」 2001年 小学館ウイークリーブック
「法隆寺」 編集小学館 2006年 法隆寺