ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2014/02/04
ペブル・モザイク2 ペブルからテッセラへ
古代マケドニアの後半に都があったペラには、舗床モザイクの残る貴族の館跡がある。
なかでも、ディオニュソスの館と呼ばれる前4世紀末の大邸宅跡では、幾何学文の舗床モザイクが現地に復元されている他、考古博物館には邸宅の名の由来となったディオニュソスが表されたエンブレーマを初め、様々なシーンの舗床モザイクが復元展示されている。
② 豹に乗るディオニュソス神 前4世紀末
河石(ペブル)モザイクは、せいぜい1㎝程度の小さな石を並べて表している。
しかし、4列の白石が巡る主題の枠内と、その外側ではペブルの大きさがかなり違っている。
邸宅跡には、中央に豹に乗るディオニュソス神のモザイクがあり、その周囲にも河石が敷きつめられていた。
発掘当時の出土物で復元されているのだろう。中央エンブレーマに沿った区画は大きめの河石、その外側小さめの河石が敷きつめられている。
③ 幾何学模様のモザイクのある前室
色の異なる大きな河石を並べて三角形や正方形を作っている。
特に鉛線などが入っているわけでもないのに、それぞれの輪郭部分には整然と河石が並んでいる。
全体を見ると、白石と黒(または青系の色)石という2色の丸石でできているようでも、部分的に見ると、色も様々、形もいろいろな石を組み合わせていることに気付く。
⑤ 市松模様のモザイクのある前室
市松(石畳文)ではなく菱繋文に見える。それぞれの輪郭に「線」があるようにさえ見える。
が、実際には石の敷きつめ方でそう見えるだけ。型枠のようなものを使ったのかも知れないが、みごと!
中には、白と黒のどっちの区画にあってもおかしくないような色の河石が嵌め込まれていたりする。
外縁の文様帯、波頭文は、アンドロン(宴会場、食堂)のエンブレーマに使われた河石と変わらないくらいに小さなもので描かれている。
波というよりも、エンブレーマのモザイクにあったような巻きひげへと発展していきそうな渦の巻き方だ。
広大な部屋を、エンブレーマや波頭文と同じくらい小さな河石を並べるのは手間がかかるし、これだけ小さく、形と色の整った石を集めるのも大変なので、大きな河石を並べることになったのだろう。
『シリアの舗床モザイク』は、マケドニアの王宮のあったペラや、ギリシャ北部のオリュントス、エーゲ海に浮かぶエウボイア島のエレトリア、シチリア島のギリシャ系都市モルガンティーナなど、多くは地震や戦争で突然破壊されるという偶然から良好な状態で保存された都市遺跡から、鋪床モザイクのある富裕な都市民の住宅や王侯の宮殿から発掘されている。またその頃のモザイクは、大きさのそろった小さな丸石(ペブル)を用い、微妙な輪郭が必要なときは鉛線を補助的に使用しているという。
人の顔が中央にある方は、四隅にアカンサスの葉らしきものから花が伸び、その両側には巻きひげが出て、片方の巻きひげは枝分かれして、パルメット文の下で巻いて終わっている。
拡大画像で河石だと確認できた。
同書は、やがて紀元前3世紀のヘレニズム時代になると、各地に強大な君侯国や独立都市が生まれ、経済活動の広がりと富の集中も始まった。この頃の鋪床モザイクには、ペルガモンやアレクサンドリアなどの君侯国の首都の遺跡や、中継貿易で栄えたデロス島のような独立都市の遺構が知られている。
このときまでに、鋪床モザイクに対する需要の増大からか、丸い小石に代わって、一定の大きさでサイコロ状に切られた石の粒(テッセラ)が用いられるようになった(オプス・テッセラートゥム)。角張った粒のため、線がこわばり、図柄が硬い感じになるのは否めないが、テッセラを限りなく小さく切れば緻密な図柄が描けるし(これをとくにオプス・ウェルミクラートゥムという)、石の切口を見せるこの方法では、鮮烈な原色のもつ効果が目を見張らせる。また、さまざまな石の薄板を図柄の形に切って組みあわせる技法(オプス・セクティレ)もこの時期に起こっているという。
ヘレニズム時代のテッセラ・モザイク デロス島
『古代ギリシア遺跡事典』は、デロス島の繁栄の頂点は、ポリスの時代が過ぎたヘレニズム時代に訪れた。アレクサンドロス大王の後継者の一人アンティゴノスの肝煎りでエーゲ海の島嶼同盟が結成されると、ようやくデロスは小さいながらも独立したポリスとなったのである。この時期のデロスは海上交易の中継地として発展し、イタリアなど地中海各地からの商人が数多く居留していた。また、ヘレニズム諸王国の有力者たちも競ってアポロンの聖地に寄進を行った。現在デロス島の遺跡で見られる遺構の多くはこの時期のものである。
しかし、独立したポリスとしてのデロスの発展はつかのまだった。前166年、地中海を掌中に収めつつあったローマは、デロス島をふたたびアテネに与えロドスと対抗させるためにこれを自由港としたという。
ということは、このモザイクは前3世紀前半-前2世紀中葉くらいのものということになる。
手前の城壁の監視塔を2色で交互に表した文様帯(名称を失念)で、かすかに四角いテッセラで模様を表したことがわかる。イルカなどは、もっと細かいテッセラで描かれたのだろう。
何でも最初のものが見てみたい私としては、テッセラによるモザイクの、現在発見されている最も古いものを見たくなってきた。
ペブル・モザイク1 最初はミケーネ時代?←
関連項目
ペラ2 ディオニュソスの館
※参考文献
「シリアの舗床モザイク 古典古代の遺産とキリスト教文明」 飯島章仁 1996年 岡山市オリエント美術館
「古代ギリシア遺跡事典」 周藤芳幸・澤田典子 2004年 東京堂出版