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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2013/02/08

バーミヤンにも涅槃図



『アフガニスタン文明の十字路五千年』は、バーミヤーンについての最も詳しい記述は、玄奘三蔵の『大唐西域記』である。

玄奘は、吐火羅国の南境にあった掲職国から600余里にして、梵衍那国(バーミヤーン)に至っている。
玄奘は、バーミヤーンについて、次のように記している。
王城の東北の山の阿(くま)に、立仏の石像がある。高さ104、50尺で、金色にかがやき、宝飾がきらめいている。
東に伽藍がある。この国の先王が建てたところである。
伽藍の東に、鍮石の釈迦仏立像がある。高さ100余尺である。身体の部分を幾つかに分けて、別々に鋳造し、それを合わせてできあがっている。
城の東2、3里のところの伽藍に、仏の涅槃臥像があり、長さが1000余尺もしている(水谷眞成訳『大唐西域記』中国古典文学大系22 平凡社)という。
東大仏が真鍮に近い合金だったか、玄奘の見間違いだったかはともかく、100余尺は38mという。すると、城の東にあったという涅槃像は380mもあったことになるが、現在までのところ発見されていない。

一方、バーミヤンには涅槃図がかすかに残っている。
同書は、バーミヤーン石窟は5世紀頃に始まり、中心は6-7世紀で、8世紀まで続いたと思われる。
壁画のある石窟は約50窟ある。壁画の内容は仏伝図が少なく、涅槃図が6例(51窟、72窟、222窟、330窟、386窟、388窟)あるだけであるという。

涅槃図 バーミヤン第72窟 南壁入口上部小壁 横96㎝縦29㎝
東大仏から東へ150mほど離れた、崖の中段にある。2室からなり、主室は1辺3mの正方形プランで、2段組の三角隅持送りの天井である。当初、全面に壁画があったらしいが、ほとんど剥落している。寝床に横臥している釈尊は、朱色の光背や頭の輪郭ははっきりしているものの、胴部は金箔を貼っていたためか剥落がひどいという。
涅槃図らしいということくらいしか分からない。
釈迦はここでも通肩の大衣を纏っていて、その部分に金箔が貼られていた、あるいはその可能性があるらしい。
敦煌莫高窟でも金箔が使われた涅槃図があったはずと、記憶を戻していくと、隋代(581-618)の420窟にあった。

涅槃図 敦煌莫高窟420窟 隋 窟頂北坡中部
『中国石窟敦煌莫高窟2』は、沙羅双樹の間で、釈迦は右肘をついて臥す。顔は金彩が施される。天人・眷属、菩薩・弟子及び善男信女が釈迦を囲み、哀しみ慟哭する。釈迦の枕もとには蓮台に坐っているのは、養母のマハプラジャパーティで、涙をハンカチで拭いているという。
衣ではなく、衣から出た釈迦の体、頭部・手・足などが金彩されている。しかも、金箔が貼られていたのではなく、金泥で塗りつぶされているように見える。
バーミヤンの第72窟の釈迦がほぼ真横に横臥しているのに比べ、この釈迦は片肘をついてうつらうつらしているようで、今にも寝台から落ちそうなほど、上半身が高く表されている。
バーミヤン第72窟の涅槃図は細かい点がわかりにくいので、宮地昭氏による描き起こし図で見ることにする。
『アフガニスタン文明の十字路五千年』は、わずかに頭の下の枕にササン様式の連珠文円形装飾がみとめられ、寝座の縁にも連珠文がある。刳り型のある脚には布を垂らしている。寝座の両側には沙羅双樹があったらしいという。
バーミヤンの連珠円文については以前にまとめたことがある。
それについてはこちら
第167窟には、主文が猪頭文や銜珠双鳥文の連珠円文が、ヴォールト天井をうめる装飾として描かれていた。
著者の樋口隆康氏は、他地域での猪頭文連珠円文(多くは錦)の流行時期から、バーミヤン第167窟のこれらの連珠円文が描かれたのが7世紀としている。
寝台の縁の連珠文は小さいので中に文様はないだろうが、枕の連珠円文の中にはどのような文様があったのだろう。
敦煌莫高窟でも連珠円文はみられる。それも、涅槃図のあった420窟の菩薩の裙に。

連珠円文 敦煌莫高窟第420窟西龕両脇侍の裙 隋
円文内の図柄について『敦煌莫高窟2』は、小袖長袍姿の騎象武士が棒を振り回して襲いかかる猛獣を打ち据えている。図様の起源はペルシアであるという。
『アフガニスタン文明の十字路五千年』は、釈尊の涅槃を見守る人物は8人。まず枕もとの椅子に腰を掛けて、首をうなだれているのは、摩耶夫人であろう。ガンダーラ彫刻の涅槃像には摩耶夫人の像は皆無である。名古屋大学教授の宮地昭氏の考察によれば、涅槃の場面への摩耶夫人の登場は、バーミヤーン絵画が最初であって、ガンダーラ派以来の伝統的図像の大きな転換であったとされるという。
敦煌莫高窟第420窟の釈迦の枕元に腰掛ける人物は、敦煌文物研究所の見解では養母のマハプラジャパーティとしていて、意見の分かれるところである。
この人物がどちらかはさておき、釈迦の枕元に椅子に坐る婦人が登場するのは、今まで調べた中では、バーミヤンと敦煌莫高窟の涅槃図のみだった。
このように、敦煌莫高窟の隋代の窟と、バーミヤンのこの涅槃図には共通するものが複数ある。

次に、釈尊の足許にひざまずいて合掌する赤の僧衣の比丘は、大迦葉であろう。かれは、釈尊入滅の際には居あわせなかったが、仏滅後7日目に知らせを聞き、駆けつけた。大迦葉が釈尊の両足に礼拝してはじめて荼毘の火が燃え出したという。
寝座の前に坐りこんでいる小さな人物がいる。肩のあたりに火焔が燃えているが、これは最後の仏弟子となり、釈尊の入滅を見るに忍びなくて、さきに「火界定」に入って滅した須跋陀羅である。後に5人の人物が並んでいる。先頭には、朱衣を着て右手に払子を持った比丘がいる。これは優波摩那であろう。十万世界の諸天が釈尊の入滅に居あわせんと雲集しているのに、かれが釈尊の前に立ちふさがっているので、釈尊から注意されたという。
優波摩那比丘につづく4人は、両手を上にあげたり、前に開いたり、肩を落としたりして嘆き悲しんでいる。入滅を聞きつけて駆けつけた末羅族の貴人たちであるという。
仏弟子や比丘などはあまり登場しない涅槃図となっている。

涅槃図 バーミヤン第330窟 横1.3m縦0.7m
同書は、主崖中央の最も小さい磨崖にある窟。前庭付きの長方形プランにヴォールト天井の石窟で、大きさは奥行4m、幅2.8m、高さ2.5mである。壁画は全面にあったらしいが、かなり剥落している。
この窟の西側壁、入口近くに涅槃図がある。中央に頭を左にして横臥する釈尊、足許には燃え上がる荼毘の火が見えるという。
現地で見ればある程度判別できるのだろうが、下図では涅槃図ということさえ分かりにくい。見つめていると、横臥する釈迦が描かれているのが見えてくる程度だ。
こちらも宮地昭氏の作図で見ることにする。
寝座の前には、肩から火を出す須跋陀羅、その左、杖をついているようなのがヴァジュラパニ(執金剛神)、椅子に腰を掛けているらしいのが仏陀の母、摩耶夫人、供物を持つのは侍女であろうという。
やはり摩耶夫人あるいは妹で釈迦の養母となったマハプラジャパーティが釈迦の枕元に腰掛けている。
寝座の背後には、20数人の人物がいる。比丘もいれば、天人、婆羅門、俗人など、さまざまな服装の人びとが、胸や頭に手をあて、あるいは振り上げなどしてなどして悲しみ、慟哭しているのは、72窟に同じ。釈尊の全身をカバーする光背の中に王冠や装身具などが散華されているのが目につくという。
身光の中に王冠や装身具が投げ込まれるという図柄は、敦煌莫高窟第280窟・第295窟(共に隋代)では、比丘が自分の頭飾を外して身光の中に投げ込むという形になって現れている。
それについてはこちら
構図の両端には沙羅双樹があり、その上に二つの円がある。円内の向かって左は馬車に乗った日神であり、右にはハムサにひかれた月神である。どちらも円の上半部に二人の侍者を伴っているという。
この涅槃図は登場人物が非常に多い。
これに似た涅槃図は、ショトラクの石彫、中国・新疆省のキジール石窟壁画、甘粛省敦煌石窟第295窟(隋代)の天井壁画などにもあるという。
ガンダーラ、ショトラクの涅槃図浮彫がどんなものがよくわからない。知っている範囲では、キジル石窟の図版日神・月神が登場したり、摩耶夫人あるいはマハプラジャパーティが描かれるものはなかった。

涅槃図 敦煌莫高窟295窟人字坡頂西坡 隋
登場人物も少なく、日神・月神も描かれないが、釈迦の枕元にマハプラジャパーティが坐っている点が共通する。
釈迦が頭を置く、磚のような枕が、連珠円文で装飾されていた。中は数弁の花文のようだ。
涅槃図 バーミヤン第222窟ドーム天井 宮地治氏作図
横たわった釈迦が約1mほどの涅槃図で、登場人物も多くはない。釈迦の左側に頭光のような線が残っているのは、ひょっとすると腰掛けた摩耶夫人あるいは養母のマハプラジャパーティかも知れない。
この窟は、おそらく正方形平面で、四隅からスキンチが立ち上がり、ドームを支えているとのだろう。涅槃図はここでは東側に描かれいてる。ドーム中心の釈迦または弥勒菩薩の頭部は入口を向いて描かれるものなので、当窟は東側に入口があって、やはり入口上部に涅槃図が描かれているようだ。

このようにバーミヤンの涅槃図を見ていくと、釈迦の枕元で母の摩耶夫人あるいは養母のマハプラジャパーティが椅子に腰掛けている点、釈迦の枕が連珠円文で装飾されている点など、敦煌莫高窟の涅槃図と共通点が多い。
摩耶夫人(あるいはマハプラジャパーティ)はガンダーラの涅槃図には登場せず、バーミヤンが最初(宮地昭氏)という。それが敦煌莫高窟に出現するのが、隋代(581-618)なので、バーミヤンの第72窟・第330窟の涅槃図が描かれた下限が、遅くとも7世紀前半ということがいえるだろう。金泥にしろ、金箔にしろ、壁画に金彩を用いるのも、敦煌莫高窟では隋代から始まっているので、やはりバーミヤンから将来された新しい様式だろう。
今のところ、キジル石窟では図版を見付けることはできないのだが、バーミヤンの新様式の涅槃図が敦煌莫高窟へと東漸していく途中の亀茲国にも、この新様式が伝わっていた可能性はある。

つづく

関連項目
クシャーン朝、マトゥラーの涅槃図浮彫
クシャーン朝、ガンダーラの涅槃図浮彫
キジル石窟は後壁に涅槃図がある
敦煌莫高窟16 最古の涅槃図は北周
敦煌莫高窟15 涅槃図は隋代が多い
日本の仏涅槃図
バーミヤンにも連珠円文
敦煌莫高窟の連珠円文は隋から初唐期のみ
アスターナ出土の連珠円文に対偶文
アスターナ出土の連珠動物文錦はソグド錦か中国製か
アスターナ古墓群の連珠円文に緯錦
西域にも連珠円文
連珠円文の錦はソグドか

※参考文献
「アフガニスタン 遺跡と秘宝 文明の十字路の五千年」 樋口隆康 2003年 日本放送協会
「中国石窟 敦煌莫高窟2」  敦煌文物研究所 1984年 文物出版社
「季刊文化遺産13 古代イラン世界2」 2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団